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23-01-01 | るうてる2023年01月号 |
「みことばは、私の道の光です」日本福音ルーテルむさしの教会・八王子教会牧師 浅野直樹Jr.「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯」 (詩編119編105節) 私がこのみ言葉と最初に出会ったのは十代の頃、新改訳聖書ででした。「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」。一目で気に入りました。 エッセイ「命のことば」 伊藤早奈㉞「包まれて」「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし/我々を打たれたが、傷を包んでくださる。」(ホセア6・1) 「あれ、もうこんな季節か。」花の香りが運ばれてくる。 議長室から 大柴譲治我ここに立つ〜Sola Scriptura「静まれ、私こそが神であると知れ。」(詩編46・11) 新年おめでとうございます。主の新しい年が始まりました。天よりの祝福を祈りつつ、ご挨拶させていただきます。 「教会讃美歌 増補」 解説㉛増補13番「新しい歌を」・増補14番「おろかものは言う」
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23-01-01 | みことばは、私の道の光です | 「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。」 私がこのみ言葉と最初に出会ったのは十代の頃、新改訳聖書ででした。「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」。一目で気に入りました。 |
22-12-01 | るうてる2022年12月号 |
「神の業に招かれる」日本福音ルーテル帯広教会 牧師 岡田薫「天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、 (ルカによる福音書1章35~37節) 信仰という恵みを与えられていると自覚している私は、日々神への愛と信頼をもって誠実に生き生きと過ごしたいと願いつつも実は全くそうではないと思い知らされることが多々あります。ときには「私には荷が重すぎます」と職務を投げ出して逃げ出したくなることもあれば、疑いや迷いをぬぐい切れず、ふて寝して、翌日には奇跡が起きていることを願っても、相変わらず厳しい現実を前に深いため息から一日を始めることもあります。もしかしたら、この文章を読んでくださっているあなたも、思いがけないトラブル、痛ましい現実、信じたくないような悪意、自分の力ではどうにもならない状況を前にして立ちすくんだという経験をお持ちかもしれませんね。 エッセイ「命のことば」 伊藤早奈㉝「聴く」「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。/悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。/柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。/義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。/憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。/心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。/平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。/義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。」(マタイ 5・3〜10) 「あなたの聖書朗読からあなたの信仰が聴こえるわ」と今回あげた聖句をお読みした時言われました。丁度言葉のスピードが遅くなり、また病気が進行したのかと心配していた時でした。また故人の好きだった聖句としても上に書いた聖句を葬儀の時読みました。 議長室から 大柴譲治「天使の取り分 Angels’ Share」「すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。/『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ』」(ルカ2・13〜14)。 クリスマスが近づくと天使に思いを馳せることが多くなります。ある方が教えてくださったユッタ・バウアーの『いつも だれかが…』という素敵な絵本があります(上田真而子訳、徳間書店2002)。その扉の裏にはこうありました。「うれしいときもかなしいときもいつもだれかがそばにいた。あぶないときにはたすけてくれた…。幸運だった一生をふりかえる祖父と、その話に耳をかたむける孫と、ふたりを『見守る存在』とを描いて、ヨーロッパを感動の渦にまきこんだ話題の絵本」。見えない天使が私たちを守ってくれているのです。 「教会讃美歌 増補」 解説㉚創作賛美歌解説10
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22-12-01 | 神の業に招かれる | 「天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、 信仰という恵みを与えられていると自覚している私は、日々神への愛と信頼をもって誠実に生き生きと過ごしたいと願いつつも実は全くそうではないと思い知らされることが多々あります。ときには「私には荷が重すぎます」と職務を投げ出して逃げ出したくなることもあれば、疑いや迷いをぬぐい切れず、ふて寝して、翌日には奇跡が起きていることを願っても、相変わらず厳しい現実を前に深いため息から一日を始めることもあります。もしかしたら、この文章を読んでくださっているあなたも、思いがけないトラブル、痛ましい現実、信じたくないような悪意、自分の力ではどうにもならない状況を前にして立ちすくんだという経験をお持ちかもしれませんね。 |
22-11-04 | 「我らの国籍は天にあり」 | 「しかし、わたしたちの本国は天にあります。 今、私が住んでいる神水教会には、同じ敷地に社会福祉法人慈愛園があり、そのグランドの入り口付近には大きな十字架があります。クリスマスには、電飾が施され、キラキラ光ります。 |
22-11-04 | るうてる2022年11月号 |
「我らの国籍は天にあり」日本福音ルーテル神水教会・荒尾教会・合志教会・松橋教会 牧師 ⻆本浩「しかし、わたしたちの本国は天にあります。 (フィリピの信徒への手紙3章20節) 今、私が住んでいる神水教会には、同じ敷地に社会福祉法人慈愛園があり、そのグランドの入り口付近には大きな十字架があります。クリスマスには、電飾が施され、キラキラ光ります。 エッセイ「命のことば」 伊藤早奈㉜「今この時に」「あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」(マルコ13・37) おはようございます。と言ってお隣に車椅子で近づくといつもなら無表情でいらっしゃる方が、今日はニコニコしてくださった。どうしてかと思っていたら「この方、明日結婚式なんですって。」と嬉しそうにその方のお隣に座られていた方を私にご紹介くださった。お孫さんの結婚式かしら?どうも本人のらしい。あまりにもお2人が嬉しそうだったので私は思わず「おめでとうございます。」と言いました。その私からの言葉を聞いて、シワだらけの顔がもっとクシャクシャになるくらいお2人は嬉しそうに顔を見合わせて笑いました。 議長室から 大柴譲治「メメント・モリ」 「メメント・モリ」(死を覚えよ)。中世ヨーロッパの修道院で日々使われていた挨拶です。私たち人間の生は有限であり、生と死は表裏一体です。死を想うことは生を想うことでもありましょう。私はそれを「今ここを大切に生きよ(カルペ・ディエム)」という言葉と併せて理解しています。11月は死者を覚える月。死者の魂に平安を、ご遺族に天来の慰めをお祈りいたします。 「教会讃美歌 増補」 解説㉙創作賛美歌解説9
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22-10-01 | るうてる2022年10月号 |
「善意を贈る」日本福音ルーテル京都教会・賀茂川教会・修学院教会 牧師 沼崎勇「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。 (ルカによる福音書6章27節b〜29節a) 京都市交響楽団定期演奏会が、3月12日(土)に京都コンサートホールにおいて開催され、藤村実穂子さんが、マーラーの『リュッケルトの詩による5つの歌』を熱唱しました。その中の第4曲「真夜中に」の歌詞を紹介します。 このようなキリストの在り方を説明して、哲学者の岩田靖夫さんは、次のように述べています。「自分を守るために、他者を殺さない。復讐しない。不正を加えられても、不正を返さない。どのようなときでも、どのような他者にも、善意を贈りつづける。それは、他者に対して限りない畏敬の念をもつ、ということである。他者のうちに、神の似姿を見る、ということである。そこを目指して努力するのでなければ、どのような工夫をこらしても、それは、戦争の可能性の危うい隠蔽に過ぎない」(岩田靖夫著『いま哲学とはなにか』岩波書店2008、202頁)。 エッセイ「命のことば」 伊藤早奈㉛「今も生きて」「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」(マルコ10・31) どういう意味だったんだろう? 議長室から 大柴譲治「Solus Christus〜キリストの現臨のみ」「約束がイエス・キリストの真実によって、信じる人々に与えられるためです。」(ガラテヤ3・22b聖書協会共同訳) 「一点突破全面展開」(鈴木浩)。この言葉は私たちの教会のアイデンティティをよく表しています。ルーテル教会は常に中心を明確にしようとするからです。「5つのソラ」と呼ばれる宗教改革原理も然り。信仰のみ・恵みのみ・聖書のみ・キリストのみ・ただ神に栄光のみ。外的奉仕のための内的集中です。一点で突破し全面で展開するのです。 「教会讃美歌 増補」 解説㉘創作賛美歌解説8
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22-10-01 | 「善意を贈る」 | 「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。 京都市交響楽団定期演奏会が、3月12日(土)に京都コンサートホールにおいて開催され、藤村実穂子さんが、マーラーの『リュッケルトの詩による5つの歌』を熱唱しました。その中の第4曲「真夜中に」の歌詞を紹介します。 |
22-09-10 | 「こうされたから」と 「こうされたのに」の生き方 | 「あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった。」 (申命記10章19節) 私のいる教会の一つでは、雨漏りや耐震問題で補修工事が始まりました。トラックが2台来て、礼拝堂を覆う足場が組まれました。朝の挨拶後は牧師館で仕事をしましたが、夕刻外に出ました。気になる事があったからです。彼らの会話に、外国語風日本語も聞こえたのです。「外国人の人もおられる?」と責任者に聞くと「はい、1人います。ブラジル人です」とのこと。「紹介してよ、話してみたい」とお願いして青年に会いました。ポルトガル語で話かけると皆びっくり。彼は喜んでくれ、故郷のこと、日本での生活、家族との死別や離別、でも何とかやっていることなどを、一気に話してくれました。私もブラジルに10年いて苦楽が色々あったことなど、共有する濃厚な時間でした。「今度はいつウチに来る?いつでもおいで。おしゃべりや食事しよう!」と名刺を渡し握手しました。トラックに分乗し会釈をしながら帰っていく彼らの後を、原付バイクのブザーを数度鳴らして「チャオ!(さいなら)」と手を振って彼も帰っていきました。 旧約聖書で「寄留者を愛せよ」と神は言われます。「選ばれた民」は異教の他国人とは対決し、旧約の神は排他的で厳しいだけというのは思い込みのようです。その説明ともいえる続きが心にしみます。「あなたがたもかつて寄留の民だった(のだから)」とあるからです。 さて、私たちの生き方はどうでしょうか。外国人に対する接し方だけの話ではありません。 平和を祈り献金も送りますが、戦禍は続きます。コロナ禍で孤独や難しさを味わい生活も苦しくなります。日本で暮らす外国人の方々も影響を受けています。 |
22-09-10 | るうてる2022年09月号 |
「こうされたから」と「こうされたのに」の生き方日本福音ルーテル高蔵寺教会・復活教会・掛川菊川教会・新霊山教会 牧師 徳弘浩隆「あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった。」 私のいる教会の一つでは、雨漏りや耐震問題で補修工事が始まりました。トラックが2台来て、礼拝堂を覆う足場が組まれました。朝の挨拶後は牧師館で仕事をしましたが、夕刻外に出ました。気になる事があったからです。彼らの会話に、外国語風日本語も聞こえたのです。「外国人の人もおられる?」と責任者に聞くと「はい、1人います。ブラジル人です」とのこと。「紹介してよ、話してみたい」とお願いして青年に会いました。ポルトガル語で話かけると皆びっくり。彼は喜んでくれ、故郷のこと、日本での生活、家族との死別や離別、でも何とかやっていることなどを、一気に話してくれました。私もブラジルに10年いて苦楽が色々あったことなど、共有する濃厚な時間でした。「今度はいつウチに来る?いつでもおいで。おしゃべりや食事しよう!」と名刺を渡し握手しました。トラックに分乗し会釈をしながら帰っていく彼らの後を、原付バイクのブザーを数度鳴らして「チャオ!(さいなら)」と手を振って彼も帰っていきました。 旧約聖書で「寄留者を愛せよ」と神は言われます。「選ばれた民」は異教の他国人とは対決し、旧約の神は排他的で厳しいだけというのは思い込みのようです。その説明ともいえる続きが心にしみます。「あなたがたもかつて寄留の民だった(のだから)」とあるからです。 さて、私たちの生き方はどうでしょうか。外国人に対する接し方だけの話ではありません。 平和を祈り献金も送りますが、戦禍は続きます。コロナ禍で孤独や難しさを味わい生活も苦しくなります。日本で暮らす外国人の方々も影響を受けています。 エッセイ「命のことば」 伊藤早奈㉚「嬉しかったのかなぁ」「あなたの御言葉が見いだされたとき/わたしはそれをむさぼり食べました。/あなたの御言葉は、わたしのものとなり/わたしの心は喜び躍りました。/万軍の神、主よ。/わたしはあなたの御名をもって/呼ばれている者です。」(エレミヤ15・16) 遺品の整理をしていました。引き出しを開けた時、色々な書類の中に昔私が配った誕生日カードがしまってありました。 議長室から 大柴譲治「突発性難聴」「わたしは、「あなたたちのために見張りを立て耳を澄まして角笛の響きを待て」と言った。」(エレミヤ6・17a) 6月5日(日)のペンテコステに不思議な体験をしました。早朝に目覚めると左耳にかなり大きくザァーッというホワイトノイズが聞こえていたのです。テレビの放送終了時のあの音です。「耳鳴り」でした。ペンテコステですから一瞬、聖霊が降って天とのチャンネルがつながって交信が始まったのかと思いました。それはパウロの言う「第三の天」体験だったのかもしれません。 「教会讃美歌 増補」 解説㉗創作賛美歌解説7 増補36番「わたしは祈ります」・増補38番「いつもよろこんで」
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22-08-01 | 「永遠のいのち」と、私は書く | 「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。」 8月になると、昭和を代表する歌手美空ひばりさんの歌「一本の鉛筆」を思い出します。これは、第1回広島平和音楽祭(1974年)のために作られた歌ですから、反戦への思いの強い歌となっています。ロシアによるウクライナ侵攻が始まった頃に、女優の杏さんが歌い、YouTubeに動画を投稿されました。 「一本の鉛筆」(作詞・松山善三、作曲・佐藤勝) 父なる神さまは、どんなお方なのでしょう? 「神は愛です」。けれども、父なる神さまのお姿を見た人はいません。父なる神さまは人間にまことの愛を伝えるために、この世にイエスさまをお送りくださいました。 |
22-08-01 | るうてる2022年08月号 |
「永遠のいのち」と、私は書く日本福音ルーテル聖パウロ教会 牧師 小勝奈保子「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。」 8月になると、昭和を代表する歌手美空ひばりさんの歌「一本の鉛筆」を思い出します。これは、第1回広島平和音楽祭(1974年)のために作られた歌ですから、反戦への思いの強い歌となっています。ロシアによるウクライナ侵攻が始まった頃に、女優の杏さんが歌い、YouTubeに動画を投稿されました。 「一本の鉛筆」(作詞・松山善三、作曲・佐藤勝)
父なる神さまは、どんなお方なのでしょう? 「神は愛です」。けれども、父なる神さまのお姿を見た人はいません。父なる神さまは人間にまことの愛を伝えるために、この世にイエスさまをお送りくださいました。
歴史や政治の問題が複雑に絡んでいます。何が正義か? 立場によって正しさは異なり、住民同士の激しい対立や憎しみ、分断の悲しい現実があります。私たちには、手に負える問題ではありません。そうかと言って、傍観者でいることにも、罪を覚えます。無関心ではいられない。けれども、人間の知恵を働かせても、罪の現実に圧倒されるばかりです。では、どうすればよいのでしょうか? エッセイ「命のことば」 伊藤早奈㉙「喜び」「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ5・12) 「先生ですか?」えっその施設で若い方に声をかけられた事が少ない私はちょっとびっくりしてキョトンとしていると「○○の娘です。いつもお世話になってます」あー○○さんの。何でわかったんだろう? 議長室から 大柴譲治「良心」「そこで、パウロは最高法院の議員たちを見つめて言った。『兄弟たち、わたしは今日に至るまで、あくまでも良心に従って神の前で生きてきました。』」(使徒23・1) パウロは「良心」を大切にしていました(使徒23・1、同24・16、2コリント1・12など)。それはギリシャ語で〝συνειδησις〟、英訳は〝conscience〟で「共に知ること/共通認識」という意味。日本語の「良」というニュアンスは含まれていません。しかし「良心」と言うと不思議にストンと私たちの腑に落ちるのです。私たちがルター派だからでしょうか。 「教会讃美歌 増補」 解説㉖創作賛美歌解説6増補31番「今 み前に」
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22-07-01 | 「わたしの隣人」 | 彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。 律法の専門家がイエスを試そうとして、「何をしたら永遠の生命が受けられるか」との問いかけをしますが、イエスから「律法にはなんと書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と聞き返されました。彼は間髪入れずに応えたようですが、「隣人とは誰か?」と、確かめようとする姿があります。同一民族で考えれば良いのか、律法学者仲間だけで考えれば良いのか。はたまた、ユダヤ教を信仰に持つ者で考えれば良いのか。 レンブラント作「善きサマリア人」(1630年作)ロンドン・ウォレス・コレクション所蔵 |
22-07-01 | るうてる2022年07月号 |
「わたしの隣人」日本福音ルーテル挙母教会・刈谷教会 牧師 室原康志彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。 律法の専門家がイエスを試そうとして、「何をしたら永遠の生命が受けられるか」との問いかけをしますが、イエスから「律法にはなんと書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と聞き返されました。彼は間髪入れずに応えたようですが、「隣人とは誰か?」と、確かめようとする姿があります。同一民族で考えれば良いのか、律法学者仲間だけで考えれば良いのか。はたまた、ユダヤ教を信仰に持つ者で考えれば良いのか。 イエスは「隣人とは誰か?」を理解しやすいように、「善きサマリア人」の傷ついた人への対応の話をします。祭司は神殿に仕えていました。レビ人も祭司職に属し、一般の人々に律法を教える役割を果たしていました。この2人は、どちらも律法に精通し、ユダヤ民族としての誇りを強く持っていたことでしょう。しかし、彼らは「その人を見ると、道の向こう側を通っていった」のです。倒れた人に近寄って介抱したのはサマリア人。純潔、純粋民族を誇りとするユダヤ人によって、同じユダヤ人でありながら、異邦人の血が混じっているという理由で、蔑まれ、敵視されていた人々です。 3人の行動は、「向こう側を通って行った」存在と、「近寄って」きた存在になりますが、傷ついた人に対し「向こう側」にあるのは、能動的な生き方であり、自分の言動は正しいと自信を持っている人でしょう。「近寄ってきた」サマリア人は、ユダヤ人でありながら蔑視され、傷つき苦しみを持って生きて来た人であり、自分自身を愛するようにではなく、自分が愛されたようにとの受動的な生き方をしたと考えられます。サマリア人とはアッシリアに連れられたイスラエル人の子孫であり、植民移住により強制的に混血を強いられたともいえます。その苦しみを通し、傷ついた人の痛みや辛さを知っており、自分の弱さを知るが故に、近寄る行動をとれたのです。 シオン教会で最初の頃の私は、訪ねてこられる方への対応が、祭司やレビ人と同じ、「自分を愛するように」しか出来ていませんでした。何処かで自分の痛みとして捉えることへの恐れを抱いていたのだと思います。自分自身が傷ついてきたとき、慰められたにも関わらず、何か消化出来ていない部分が存在しました。そのような私に、路上生活をしていた方がきっかけを与えてくれたのです。私が近づいたのでなく、彼が私に近寄ってくださったのです。その瞬間、「支援しなければ」という驕った考えから、「支援させていただきます」の気持ちを大事にしたいと、変えられました。そして常に気をつけたいと思うのです。自分を正当化するのでなく、「自分のように、自分が神さまから愛されているように、私の隣人を愛するように。」 エッセイ「命のことば」 伊藤早奈㉘「一人ではない」「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」 「検査の結果は何の病気でしたか?」そう聞いた私に〇〇だったわ。とその方は平気に答えられました。えっ大変な病気なのに。その方は今回わかった病気の前に違う病気を長年患っておられました。私と同じ様な経験をされておられるんだと思った時、私にとって、もうその方はとても身近に思えました。私も昔病気がわかった時はとても苦しみましたが最近患った一般的には大病と言われる病気の診断を受けた時はそんなに苦しみませんでした。もう一人そのような人がいました。二つの病気を比べたわけではありません。一つ目の病気を乗り越えられたか乗り越えようとしているのかもしれません。 議長室から 大柴譲治「小川修パウロ書簡講義録」(全10巻、リトン)完結 同僚たちと関わってきた仕事が一つ、4月に終わりました。神学校での恩師・小川修先生(1940〜2011)が同志社大学で行ったパウロ書簡講義録を録音から起こす作業が完結したのです。11年がかかりました。走馬灯のように思い出が去来します。ガンで召された先生の納骨を小平霊園で行う最中、あの東日本大震災が起こります。ご遺族の許可を得て那須のご自宅に資料発掘に行きました。全体を10巻に分け、ご遺族の援助の下で出版が始まります。4人で始めた作業は結局7人のコラボレーションになり、各巻の巻末には関係者から貴重な文章が寄せられました。出版はローマ書3巻、コリント書3巻、論文集2巻、ガラテヤ書2巻という順でしたが、最初から最後までリトンの大石昌孝さんにはお世話になりました。 1980年にルーテル神大(当時)に編入した私は先生の「宗教哲学」の講義に出会います。最初の2年はバルトの『ローマ書』、私には難しいものでした。82年の講義「現代日本のイエス・キリスト研究の検討」に目が開かれます。それはブルトマンの『イエス』、八木誠一の『イエス』、荒井献の『イエスとその時代』、田川建三の『イエスという男』、滝沢克己の『聖書のイエスと現代の思惟』を比較検討する意欲的な講義でした。聖書は読む者の心を映し出す鏡であることを悟ることになったのです。同時に「説教者」として私は、自己の思い込みを聖書に投影するのではなく聖書自体に語らしめることが肝要と知りました。「僕は間違っているかもしれませんよ。君たちは自分で聖書に当たってください」と繰り返された先生の声が私の耳に今でも残っています。 「教会讃美歌 増補」 解説㉕創作賛美歌解説5 増補29番「主にある友よ」
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22-06-01 | 「友と呼ぶ―信仰の継承」 | 「わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」 今年の聖霊降臨(ペンテコステ)は、どんな風が吹くのでしょうか。世界を取り巻く環境や身近なところにおいて、疫病も戦渦もなくしてほしいと願っている人は多くおられます。そのなかで、私たちは聖霊の息吹きに希望をいだいています。 1面説教和田憲明2022年6月号図版「友情のイコン「キリストと修道院長メナ」(8世紀、ルーブル美術館所蔵)」 |
22-06-01 | るうてる2022年06月号 |
「友と呼ぶ―信仰の継承」日本福音ルーテル箱崎教会・聖ペテロ教会・二日市教会・長崎教会 牧師 和田憲明「わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」 今年の聖霊降臨(ペンテコステ)は、どんな風が吹くのでしょうか。世界を取り巻く環境や身近なところにおいて、疫病も戦渦もなくしてほしいと願っている人は多くおられます。そのなかで、私たちは聖霊の息吹きに希望をいだいています。 このイコンに私が出会ったのは、以前ショートターム研修(ELCA主催)に単身で訪れたフランスのテゼ共同体でした。創立者ブラザー・ロジェ(1915〜2005)が特に心にかけていたイコンで「和解の教会」の礼拝堂に飾られています。学びのなかで気づかされたことの一つは「信仰の継承」です。ロジェに大きな影響を与えたのは、第一次世界大戦中、難民を次々と家に迎え入れていた祖母の生き方でした。彼女はキリスト者がいくつもの派に分かれて武器をとり戦っていることを憂い、キリスト者だけでも和解することが出来れば次の戦争を防げるのではないか、と思い描きます。プロテスタントに立脚しながらカトリックの人々と聖書を学び、そして改革派の牧師のロジェの父も祈りを共にしました。ロジェは、超教派(エキュメニカル)の修道会の構想をいだきます。彼もまた第二次世界対戦で戦禍を逃れてきた人々を迎え入れ、その中のロシア難民との出会いで霊性に強い関心をよせます。これらのテゼのビジョンに共鳴したのが東方正教会のコンスタンティノープル総主教アテナゴラスで、正教会内にもう一つのテゼ共同体を創立したいと願い出ました。ロジェは本来の一致への歩みとは異なることを丁寧に説明し、修道士の派遣を要請して創造的な交流を深めました。この流れなかでロシア正教会のひとりの若い神学生がテゼを訪問します。後に彼は神学校の校長、府主教となり、この人物、キリル府主教はテゼに関心を向け再訪し、ロジェの後のテゼを継いだブラザー・アロイス現院長もモスクワに招待します。2009年彼はモスクワ総主教となり、エキュメニズムに関しての展望、ロシアの青年たちへの司牧などについて会合を開きました。今この時に、もう一度それぞれに受け継がれた互いの信仰が交わるよう願い求めたいのです。 挿し絵のイコンは「友情のイコン」(Icon of friendship)と称されます。子どもたちには…メナスさんは、ローマ帝国の軍人だったのだけれど、ある時国からイエスさまを信じてはダメと言われて立ち止まった。武 器を捨て軍隊をやめんだ。その後、捕らえられてしまったけど、メナスさんの横にはイエスさまがおられる。よく見ればイエスさまの右手がメナスさんの肩を抱いている。そしてイコンの裏には、ロシア語(キリル文字)で「わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」と聖句が書かれているよ。イエスさまは、世界のお友だちとも肩を組み「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ15・17)と言われたいのだね。いっしょに前を見つめながら…と伝えています(詳細はYouTube「ルーテル箱崎教会」こどもへのおはなし)。 眼前の戦乱に、いち早く動いたテゼ共同体は宿を構えウクライナからスペイン、ポルトガルなどへ逃れていく人たちをコーディネートしています。テゼに関係の深いロシアにいる友は和平を望む声を総主教に働きかけています。またロシアの青年に対して積極的にテゼを訪れてほしいと呼びかけています。表立って目に映るニュースになりませんが、無力ではありません。聖霊の力は、かつて和解の歴史をつくり、今なお私たちを突き動かします。聖霊降臨(ペンテコステ)を迎える時、主は友と呼ぶ私たちに、余すことなくすべて御心を知らせるのです。 エッセイ「命のことば」 伊藤早奈㉗「主われを愛す」「ひととき、お怒りになっても/命を得させることを御旨としてくださる。/泣きながら夜を過ごす人にも/喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。」(詩編30・6) 「先生おはようございます。一緒に歌いましょう」とその方は私が施設に来るのをいつもいつも楽譜を手にして待っておられました。そして必ず歌うのは私がコピーした賛美歌の「主われを愛す」でした。その方は100歳近い方で、幼い頃毎週のように宣教師が行う集会で歌っておられたそうです。本当は宣教師の方から配られる手作りの美味しいお菓子が目的だったと笑っていました。 議長室から 大柴譲治「メタ認知」と「メタノイア」「命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。」(創世記45・5b) 2月20日(日)の第一日課は創世記45章でした。兄たちの嫉妬により奴隷としてエジプトに売られたヨセフ。彼は天賦の夢解き能力を発揮しその宰相にまで登りつめてゆく。長引く飢饉の中で食料を求め、父ヤコブによってエジプトに派遣された兄たち。彼らとの再会を通してそこに和解がもたらされてゆくというヨセフ物語の白眉とも呼べる場面でした。 「教会讃美歌 増補」 解説㉔創作賛美歌解説4
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22-05-02 | 「開かれた理性」 | 「そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」 ご復活後の主イエスは、弟子たちの「心の目」を開いたと記されています。「彼らの心の目」という言葉の原文は「彼らのヌース(理性)」です。わたしたち日本人に分かり易いように「心の目」と訳されています。このヌースという言葉はパウロ書簡にも出て来ます。コリントの信徒への手紙一2章16節の「『だれが主の思いを知り、主を教えるというのか。』しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。」という箇所で、「思い」と訳されている言葉は「ヌース」です。ヌース(理性)は「心の目」と訳されたり、「思い」と訳されたりしているのです。 ピーテル・ブリューゲル(父)作 |
22-05-02 | るうてる2022年05月号 |
「開かれた理性」日本福音ルーテルなごや希望教会 牧師 末竹十大「そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」 ご復活後の主イエスは、弟子たちの「心の目」を開いたと記されています。「彼らの心の目」という言葉の原文は「彼らのヌース(理性)」です。わたしたち日本人に分かり易いように「心の目」と訳されています。このヌースという言葉はパウロ書簡にも出て来ます。コリントの信徒への手紙一2章16節の「『だれが主の思いを知り、主を教えるというのか。』しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。」という箇所で、「思い」と訳されている言葉は「ヌース」です。ヌース(理性)は「心の目」と訳されたり、「思い」と訳されたりしているのです。
第一コリント2章でパウロが語っているのは、神の事柄を理解するのは「霊の人」であるということです。最後には、「わたしたちはキリストのヌースを持っています」と語られています。「抱いています」と訳されていますが、「持っています」が原文です。「霊の人」とは「キリストのヌースを持っている」人だとパウロは語っているのです。
このパウロの言葉から考えてみれば、ルカによる福音書24章45節で言われている開かれた理性(ヌース)とは「キリストのヌース」ではないかと思えてきます。その理性(ヌース)が閉じられたままでは、神の事柄を理解することができないということです。そのために、イエスは弟子たちのヌースを開いたのです。そして、宣教へと派遣しました。
わたしたち現代に生きるキリスト者は、復活のキリストに出会っているのかと思う人もいるでしょう。復活のキリストを見たという人をうらやましいと思う人もいるかもしれません。自分の目で、見ていないならば、わたしは、本当は復活に与っていないのではないかと思う人もいるでしょう。見たなら、宣教できるのにとも思うでしょう。しかし、そうではないのです。復活のキリストに出会った弟子たちは、パウロが言うように神の事柄を理解するようにされたのです。それが聖書を理解するための理性が開かれることだったとルカは伝えています。また、エマオ途上で2人の弟子たちに対して、キリストご自身が聖書を理解するようにと解き明かされた出来事も、ルカは伝えています。そうであれば、聖書に記されているキリストの出来事、十字架と復活の出来事を理解する人は、理性を開かれた人であり、復活に与っている人だということになります。それが、復活のキリストに出会った人たちに起こった神の出来事だったのです。
パウロはキリスト者を迫害していましたが、ダマスコへ向かう途上で復活のキリストが現れてくださったことによって、それまで否定していたキリストの十字架と復活を宣教する者に変えられました。彼は自らの罪を取り除いてくださった救い主としてキリストを宣べ伝えることになったのです。パウロがそのように変えられたのは、キリストによって聖書を理解するための理性を開かれたからでしょう。そのとき、パウロは復活に与ったのです。同じように、現代に生きるわたしたちキリスト者もまた、十字架と復活を神の事柄として理解するとき、復活に与っているのです。復活のキリストに出会っているのです。復活のキリストのヌースが、わたしたちのうちで働いているのです。
神の事柄は、人間的な理解を越えています。人間的な理性では受け入れることができない事柄です。それにも関わらず神の事柄を理解するわたしがいるということは、わたしのうちにキリストのヌース、神の霊が働いているからです。キリストの十字架と復活が、このわたしのために起こった神の出来事だと理解するのは、キリストの理性である神の霊を与えられて理解することなのです。
主のご復活を祝っているわたしたちは、聖書を理解する者としての理性を開かれています。ご復活したキリストのヌースはわたしのうちに働いておられる。キリストがわたしのうちに生きておられる。開かれた理性をもって主の十字架と復活を宣べ伝えていきましょう。 エッセイ「命のことば」 伊藤早奈㉖「お帰り」「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。」(ヨハネ14・18) ここに書かせていただいた聖句は私が受洗へと導かれたみ言(ことば)です。 議長室から 大柴譲治インマヌエル〜清濁併せ呑む信仰のリアリズム「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。/その名はインマヌエルと呼ばれる。」(マタイ1・23) 世界状況が緊迫し混沌としているためでしょう、マタイ福音書の「インマヌエル」が強く私に迫ってきます。それはイエスの誕生予告にイザヤの預言の引用として出てくる言葉です(イザヤ7・14、8・8、8・10)。しかしマタイはその語を聖書全体の核心として捉え、それがイエスにおいて成就したことを宣言するのです。そして福音書は復活の主による弟子派遣の言葉で終わります。「私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28・18b〜20)。マタイ福音書はインマヌエルに始まりインマヌエルに終わるのです。 その視点からマタイ福音書を読み直してみると、彼の伝える信仰のリアリズムが透けて見えてきます。たとえば東からの博士たち。ヘロデ訪問の場面では人間の闇がリアルに描かれます。マタイは王と全住民の持つ闇を「不安」として描くのです(2・3)。彼らは等しく「ユダヤ人の王」により自らが脅かされることを心底恐れました。その最たるものがヘロデによる嬰児虐殺です(2・16)。なんと人間の闇は深くおぞましいことか。暗澹たる思いにさせられます。しかしまさにその闇のどん底でマタイは記すのです。救い主の誕生を告げる星の光が確かに闇の中で輝いていることを。「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子がいる場所の上に止まった。博士たちはその星を見て喜びに溢れた」(2・9〜10)。マタイが記すインマヌエルのリアリティはこれなのです。その光が見る者を喜びに満たす。どのような闇もその喜びを消し去ることはできません。 次もマタイだけが記す言葉です。「施しをするときは、右の手のしていることを左の手に知らせてはならない」(6・3)。「だから、あなたがたは蛇のように賢く、鳩のように無垢でありなさい」(10・16)。面白いですね。日本語の「清濁併せ呑む」を想起します。しぶとくしなやかに賢い、バランスある信仰をここで主は勧めているように思えます。私たちもそのような信仰のリアリズムに立ち続けたいのです。COVID-19パンデミックという現実においても、ロシアによるウクライナ侵攻という現実においても、大地震という現実においても。闇に希望の光は確かに輝いています。すべての人にインマヌエル、アーメン! 「教会讃美歌 増補」 解説㉓創作賛美歌解説3 「田坂さんのこと」
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22-04-01 | 「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」 | 「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」 イースターおめでとうございます。この朝、イエス様は死からよみがえられました。私たちの罪のために苦しみを負われ、十字架で死なれたイエス様は、父なる神様によって高くあげられ、復活して永遠の命を生きておられます。イエス様が救いのみわざを成し遂げてくださったことを記念するイースターの礼拝は、教会の一年の中で最も大きな喜びの時です。 M.グリューネヴァルト作「復活」(1511〜1515年) |
22-04-01 | るうてる2022年04月号 |
「イースターおめでとう」日本福音ルーテル小倉教会・直方教会 牧師 森下真帆「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」 イースターおめでとうございます。この朝、イエス様は死からよみがえられました。私たちの罪のために苦しみを負われ、十字架で死なれたイエス様は、父なる神様によって高くあげられ、復活して永遠の命を生きておられます。イエス様が救いのみわざを成し遂げてくださったことを記念するイースターの礼拝は、教会の一年の中で最も大きな喜びの時です。
しかし婦人たちが目にしたのは空の墓でした。さらに彼女たちはみ使いからイエス様の復活を知らされます。「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。」と言われた婦人たちは、イエス様が確かに「わたしは死んで復活する」と言われていたことを思い出したのです。 これまで熱心にイエス様に従ってきた人たちであっても、イエス様が死んでしまってさすがにあきらめムードといったところでしょうか。私たちがそこにいても、多分同じような反応をしたと思います。人間の力ではどうにもならないことがあると受け入れて、現実的に行動しなければ、この世の中を生き抜いていくことはできないからです。 しかしイエス様の復活は、神様の約束だけは絶対であり永遠であるということを私たちに告げています。神様の約束通り、イエス様は死からよみがえられ、私たちを救って、私たちを永遠の命へと招き入れてくださいました。死でさえも私たちからイエス様を奪うことはできません。イエス様の愛だけは私たちがあきらめる必要のないただ一つのものだからです。 エッセイ「命のことば」 伊藤早奈㉕「変わらないもの」「天は神の栄光を物語り大空は御手の業を示す。」(詩編19・2) 「あっちにもあるよ、ああそこにも。あの赤く光って動いているのは飛行機かな。」 議長室から 大柴譲治「聖なるもの」との出会い〜おそれとおののき「これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、『主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです』と言った。」(ルカ5・8) 「目の前に美しい花があってもそれを美しいと感じる心が私になければ、その花と出会うことはできない」。これは学生時代に美学の集中講義で今道友信先生から学んだことでした。確かに道端に咲く花の美と出会うためにはそれに気づく感性が求められる。でなければ素通りしてしまう。逆に言えば、自らの感性を研ぎ澄ますことができれば、どこにおいても真・善・美という普遍的な価値に出会うことができるということになる。そのためにも「ホンモノとの出会い」が必要となります。それはハッと思わず息を飲むような体験、深い感動を内に呼び覚まされるような体験です。ゲーテはファウストに「時よ、止まれ。お前はそのままで美しい」と言わせました。確かにそのような至高体験は、「今・ここに・私は・生きている」という鮮烈な実感を与えてくれます。山頂での御来光、澄み切った紺碧の空、たゆたう白雲、陽光にきらめく川面、自由に飛翔する鳥たち、夜空の満天の星、突然の虹の出現、等々。絵画や音楽、映画など芸術作品や書物との出会いもありましょうし、日常生活でのさりげない思いやりの言葉やしぐさに深く感じ入ることもある。 「聖なるもの」との出会いの場合はどうか。その時私たちは畏怖の念に打たれます。「しかしお言葉ですから」と網を打ち、思わぬ大漁に接したペトロはイエスの前にひれ伏します。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」。彼はそこで聖なるお方と出会って震撼させられたからです。私たちも同じです。強い畏怖の念に打たれると共に自分はその前に立つ資格がない、相応しくないという恥と怖れに満たされる。主日礼拝の中に二つの「告白」(罪と信仰)があるのもむべなるかなです。コインの両面のようにそれらは表裏一体、不即不離の関係にあるのでしょう。 「教会讃美歌 増補」 解説㉒創作賛美歌解説2
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22-03-01 | るうてる2022年03月号 |
「受難節を憶えて—あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ—」日本福音ルーテル熊本教会・玉名教会 牧師 杉本洋一「イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。 3月2日の聖灰水曜日から、典礼色も「紫」に変わります。礼拝式文からも福音に先立って歌われていた「ハレルヤ唱」は歌われなくなり、替わって〝キリストはおのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで み旨に従われた〟との詠歌が唱えられます。この期節は、典礼色が示すとおり、真剣な〝悔い改め〟の時となります。 前年の棕櫚主日に使われた棕櫚の葉を燃やして作った灰を取っておき、この日に信仰者の額に、灰で十字のしるしをつけながら、司式者は「あなたは、塵であるから、塵に帰ることを覚えよ」とのことばを添えることも行われてきました。 この「ことば(の持つ意味)」と「灰」により、メメント・モリ(memento mori=「汝の死を忘れるな」)が意識されてきました。〝この世の美しさも、地位も名誉も財産も、しばしの栄華にすぎず、やがてそれらは夢のように消えていく。どんな人であっても、死んだときに残るのは、ただ一握りの灰である〟という死と、朽ちるものであるということを学ぶことでもあります。つまり、それはキリストの苦難と死の意味について考えることであり、その苦難と死へイエス・キリストを導いたのは、わたしの「罪」であり、真の悔い改めを心に刻むことを「灰」は教えようとするのです。灰は死のシンボルですし、生命が、もうぜんぜんないというしるしでもあるのです。 もう3年目に入りますが、私たちは、コロナ感染の不安や心配、閉塞感の中にあります。聖餐式も行いづらい中にあります。パンと葡萄酒をもって、キリストの体と血をいただくことをしてきました。それと同様に、聖灰水曜日は、額に灰をつけることを通して、自分が罪人であることを、自分が罪の中にあることを、死ぬことを憶えるのです。 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3・16)とは、神がどれほどの愛をもって、一人ひとりを愛してくださっているかを感じることのできるみ言葉です。私達の罪を私達から取り去るために、イエスさまが十字架上で死ななければなりませんでしたが、イエスさまの苦しみ、痛み、淋しさ、捨てられた事、侮辱、鞭打ち、死がその背後に裏打ちされているのです。しっかり心に留めたいのは、私達は、「灰」を通して、愛のしるしを見、いのちの神を見ることです。今年も受難節で、私達を赦すために、イエスさまがどんなに苦しみを背負われたことか、悲しい思いをされたのか、つらい思いをされたのかを思い起こし、憶えましょう。 イエスさまは40日間の断食のあと、ガリラヤに戻って、共に食べ、飲み、喜び合う共同体を作っていきます。そこでイエスさまは、イスラエル民族が「荒れ野の40年」で学んだはずの、「人はパンだけで生きるものではない」という精神を受け継いで、貧しい者や弱っている人、あるいは罪人といわれて社会から排除されているような人びとを招いて食事をするということを実践していきました。 いま私たちは、このイエスさまの心を受け継いで、共に食べ、飲み、分け合って喜び合う関係を、つながりを、全ての人に開かれたものとして実現することが求められているのかも知れません。 エッセイ「命のことば」 伊藤早奈㉔「祈り」「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」(マタイ7・7) 「どうして今私はここにいるんだろう。」と良く思います。きっとあの時も命のことばであるイエス様と共にあの人が私と一緒に歩いてくれたからだ。 議長室から 大柴譲治「二つのJ」を愛する〜文楽・豊竹呂太夫内村鑑三に「われは二つのJを愛する。即ちJesusとJapanを」という言葉があります。確かに私たちの国籍は天にあるとしても、この二つは共に天から贈り与えられている賜物。遠藤周作は「洋服のキリスト教」を「和服」にするという課題を自らに課しましたが、ともすれば異質なこの二つのJをどのように統合するかは日本に生きるキリスト者として一人一人に求められている信仰告白的な課題でありましょう。事柄としてはキリスト教の日本での「文化内開花/土着化/文脈化」ということになります。 大阪教会員の林雄治さん(1947〜)は、2017年4月に「六代目・豊竹呂太夫」を襲名された文楽の太夫です。襲名に合わせて『文楽 六代豊竹呂太夫・五感のかなたへ』を出版(創元社2017。Kindle版あり)し、文楽の面白さを大変分かり易く伝えています。文楽は江戸時代に大阪で成立した人形浄瑠璃文楽で、日本の重要無形文化財、ユネスコの無形文化遺産。人形と太夫と三味線が三位一体のような役割を果たしますが、氏はお客さんを含めてそれを「四位一体」と言われます。「お客さんは、喜怒哀楽を巧みに演じる『意思のない人形(木片)』に自分を投影しつつ、己の想像力によって喚起される「私」自身の物語に出会うわけです。この「四位一体」総がかりのすさまじいエネルギーで物語が展開されていく文楽の舞台。これがもう300年以上続いてまして、伝統芸能、古典芸能と呼ばれる所以です」(朝日新聞社言論サイト『論座』2022年1月3日掲載記事より)。 氏は2000年に豊竹英太夫という名で自らの信仰告白として新作『Gospel in文楽〜イエスの生誕と十字架』を創作。これまで人形入で17回公演されてきました。DVDもあって部分的にはYouTubeで鑑賞も可能です(英語字幕付)。「もろ人の罪を贖わんと十字架にかかりたもう、人となりたる生ける神なり、生ける神なり」という語りは観る者の心にダイレクトに響きます。2017年10月29日には大阪教会でも宗教改革500年を記念した楽劇『ルター〜文楽とルネサンス・ダンスの邂逅』(上村敏文作)の中で『ゴスペルイン文楽』を抄演していただきました。その記録DVDをドイツや米国の教会に持参したところ大変に喜ばれています。キリスト教の日本文化内開花を考える上で一つの貴重な実践例です。本年7月6日には兵庫県立芸術文化センターで18回目の公演が行われる予定で今から楽しみにしています。天から賜った二つのJを恵みとして深く味わいたいものですね。 「教会讃美歌 増補」 解説㉑創作賛美歌解説1(※公募に寄せられた創作賛美歌の作者による解説を紹介いたします。)
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22-03-01 | イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」 | イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。 3月2日の聖灰水曜日から、典礼色も「紫」に変わります。礼拝式文からも福音に先立って歌われていた「ハレルヤ唱」は歌われなくなり、替わって〝キリストはおのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで み旨に従われた〟との詠歌が唱えられます。この期節は、典礼色が示すとおり、真剣な〝悔い改め〟の時となります。 日本福音ルーテル熊本教会・玉名教会 牧師 杉本洋一 W.ブレイク作「最初の誘惑」(1815-1819年) |
22-02-01 | るうてる2022年02月号 |
「御心ならば、清くすることがおできになります」日本福音ルーテル八王子教会牧師 中村朝美「すると、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、 ある教会でこのようなことを話してくださった方がおられました。「子どもが小さかった時、重い病気にかかり、当時通っていた教会の牧師先生にお祈りをお願いしました。『御心でしたら癒やしてください』とお祈りされました。何故、癒やしてくださいではなく、御心でしたら、と祈られたのかと、私は素直に聞けず、また非常に悲しかった思いをしました。」 「重い皮膚病」とわざわざ語られていることで、この人が負わされている社会的、宗教的に差別され、負わされている苦悩は幾重にも取り巻き、絶望の日々を送っていたことが伝わってきます。この病は他の病とは異なり、ただ単に癒やされるのではなく、清められなければならない病でした。だからかも知れません。主イエスの御前にひれ伏すしかなかったのでしょう。 病気の時、「祈ってほしい」という願いの中には、早くよくなるように、信仰があれば癒やされる…と慰めや励ましを求めていることが多いように思えるのです。医学的に見込みがないとご本人も知っていても、奇跡を願う思いはどこかにあるように思うのです。事実、末期がんから生還した方もいらっしゃいます。信仰があれば治ると思いたいのではあります。治りたい、治る、でも治らない、という時の葛藤は、信仰を持っている場合と、そうでない場合は違ってくると思えるのです。 エッセイ「命のことば」 伊藤早奈㉓「寄り添って」私はあなたを胎内に形づくる前から知っていた。/母の胎より生まれ出る前にあなたを聖別していた。/諸国民の預言者としたのだ。」(エレミヤ書1・5協会共同訳) 「あの時もイエス様が共にいらしてて私は一人ではなかったんだ。」と最近やっと気づきました。 議長室から 大柴譲治sola gratia〜母の胎にいる時から「私はあなたを胎内に形づくる前から知っていた。/母の胎より生まれ出る前にあなたを聖別していた。/諸国民の預言者としたのだ。」(エレミヤ書1・5協会共同訳) パウロは自らの召命をエレミヤと重ね合わせています(ガラテヤ1・15)。ダマスコ途上で復活の主に呼び止められて劇的な回心をするまでパウロはファリサイ派の若きリーダー、キリスト教の迫害者でした。彼は最初の殉教者ステファノの死にも立ち会っていた(使徒8・1)。自らを「罪人の頭」(一テモテ1・15協会共同訳)と呼ぶ背後にはそのような苦い思いもあったのでしょう。しかしキリストと出会ってパウロは全く新しい人間に生まれ変わります。ローマ書で言えば7章から8章への劇的な転換を体験したのです。キリストとの出会いがすべてを不可逆的に反転させた。彼は記します。「私はなんと惨めな人間なのでしょう。罪に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか」(ローマ7・24協会共同訳)。それに続けて神を讃美します。「私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝します」(ローマ7・25協会共同訳)。この二つの節の間には人間には乗り越えられない深淵がある。それを向こう側から乗り越えてくださったお方がいる。キリストと出会ったこの喜びは生涯彼を捕らえて放すことはありませんでした。フィリピ書3章には彼のキリスト以前と以後の価値の転換が告げられています。かつて「利益」と思っていたことはすべて「主イエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさ」に色褪せてしまった(3・8)。「キリストの真実(ピスティス)」によって義とされたパウロはその根底から新たにされたのでした。そこから遡ってすべてを振り返った時にパウロに見えてきたもの、それは自分が母の胎にある時に既に恵みの神によってコールされ祝福されていたという根源的な事実でした。神は「母の胎にいるときから私を選び分け、恵みによって召し出してくださった」お方なのです(ガラテヤ1・15協会共同訳)。 「教会讃美歌 増補」 解説⑳増補11番「神はほめたたえられよ」・増補12番「喜べ教会よ」
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22-02-01 | 御心ならば、清くすることがおできになります | 「すると、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、 ある教会でこのようなことを話してくださった方がおられました。「子どもが小さかった時、重い病気にかかり、当時通っていた教会の牧師先生にお祈りをお願いしました。『御心でしたら癒やしてください』とお祈りされました。何故、癒やしてくださいではなく、御心でしたら、と祈られたのかと、私は素直に聞けず、また非常に悲しかった思いをしました。」 日本福音ルーテル八王子教会牧師 中村朝美 ルーカス・クラナッハ(父)作「ゲッセマネの祈り」(1518年頃)東京・国立西洋美術館所蔵 |
22-01-01 | るうてる2022年01月号 |
「日々新たにされて」日本福音ルーテル小石川教会・板橋教会 牧師 德野昌博「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、 私たちは、「贖われし罪人」です。ですから、日々新たにされて生きるのです。 神様に背いて、どうにもこうにも言うことを聞かない私のために、イエス・キリストが十字架で死んで、私の罪を贖ってくださったのです。イエス様の十字架によって、決定的に重大な問題が解決されたのです。創造主である神様に背いているという、これ以上に、私たち人間にとって重大、深刻な問題はありません。その罪を、父なる神様は御子イエス・キリストにおいて解決してくださったのです。これが 、私たちに与えられた救いです。まことに有り難いことです。これこそ、わが人生最もビッグでグッドなニュースです。 神様は続けて、「わたしはあなたの名を呼ぶ」と言っておられます。「名を呼ぶ」と言うことは、一人一人に対して、神様が一対一で向かい合い、覚えていてくださるということです。ですから、私がいかなる信仰生活をしていようと、あるいは年老いて、前後不覚に陥って、神様に向かって憎まれ口をたたいたり、突然、「主の祈り」ではなく、念仏を唱え出したりしたとしても、神様は、私のすべてを知った上で、「わたしはおまえのことを引き受けた。まかせておけ」、そう言ってくださるのです。それが「名を呼ぶ」ということです。 「あなたはわたしのものだ」と言われる主なる神様が、私たち一人一人の名を呼んで、私のすべてを自分のこととして 引き受けてくださっています。その絶対の保証としてのイエス・キリストの十字架です。 救いは、私たち人間の側のどのような事態、どのような問題によっても取り消されたりはしません。パウロが、「ローマの信徒への手紙」8章で、「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来 のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな 被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(38〜39節)と言っている通りです。ですから、たとえ私たちの体や心がどんな状態になっても、私たちは決して滅びることはなく、神様の愛の中にちゃんと、しっかり受けとめられているのです。 やがて私も年老いて何も分からなくなり、信じることも、告白もできないようになる時が来ることでしょう。しかし、今はまだできます。今は、私が御言葉を聞いて信じ、そして、自分の、これからのことも含め、すべてを、「神様、あなたにおゆだねします。私を憐れんでください」と言うことができます。そう言える今、たとえこれから先どんなことがあるか分かりませんが、「絶対大丈夫」という平安が与えられています。 神様は、無条件で、「わたしはあなたを贖う」と約束してくださっています。神様の、その絶対の恵みを知り、信じることができ、それによって本当に喜び、平安に生きることができるというのは、礼拝を通して与えられる恵みです。 やがて、もうどうすることもできなくなるであろう時のために、今ここで、私は礼拝において神様との本当に深い交わりを持ちたいと願っています。礼拝に出席することが困難になって、初めて私たちは礼拝に出席し、仲間と顔と顔を合わせるということがどんなに幸いなことであるか、どんなに大きな恵みであるかと いうことを身にしみて思い知らされました。 「わたしたちの外なる人は衰えても、内なる人は日ごとに新しくされていく」のです。自分で、自分の力、頑張りで新しくなるのではありません。神様が新しくしてくださいます。「だから、わたしたちは落胆しない」のです。 エッセイ「命のことば」 伊藤早奈㉒「音」「門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。」 なんだかうるさく聞こえる物音でもその原因や主(ぬし)がわかり物音をさせるその理由までわかるとうるさく感じなくなったことありませんか?私はあります。毎朝聞こえる小鳥の鳴く声が甲高くうるさく感じてました。先日観ていたテレビ番組で私が毎日聞いてうるさく感じていた小鳥の声を解説されていて何の小鳥がどのような理由で鳴いていたのかがわかりました。その小鳥の正体と鳴く理由がわかった途端、朝聞く「うるさい音」が「かわいい鳴き声」に変わりました。 議長室から 大柴譲治〈われとなんじ〉と〈われとそれ〉「ひとは世界にたいして二つのことなった態度をとる。それにもとづいて世界は二つとなる。ひとの態度は、そのひとが語る根源語の二つのことなった性質にもとづいて、二つとなる。根源語は孤立した語ではない。複合的な語である。根源語の一つは〈われ〉−〈なんじ〉であり、他は〈われ〉−〈それ〉である。」(マルティン・ブーバー「我と汝」野口啓祐訳、講談社学術文庫2021、8頁より) 安倍川上流にあった梅ヶ島ルーテルキャンプ場で、学生時代にある方から教えていただいたブーバーの「我と汝」。この本との格闘を通して私は対人関係の基本を学んできました。原著〝Ich und Du〟 (1923)がドイツ語で出版されて来年でちょうど100年。対人援助職にとって古典的名著です。 「教会讃美歌 増補」 解説⑲増補9番「天にいます父よ」・増補10番「主はヨルダンに来て」
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22-01-01 | 日々新たにされて | 「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」コリントの信徒への手紙二 4・16 私たちは、「贖われし罪人」です。ですから、日々新たにされて生きるのです。 日本福音ルーテル小石川教会・板橋教会 牧師 德野昌博 レンブラント作「写字台の聖パウロ」(1629-1630年)ニュルンベルク・ゲルマン国立博物館所蔵 |
21-12-01 | るうてる2021年12月号 |
「あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川」日本福音ルーテル教会牧師 太田一彦「御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。」 私はこの7月に38年間の牧師としての務めを終えることになりました。突然の心臓病のためでした。思えば最初の任地が仙台、そして最後の任地も仙台でした。 電車が福島にさしかかった頃、妻が隣で突然「あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川。智恵子抄。うふふ。」(※2)と笑うのです。長く私と一緒に教会に仕えてきてくれた妻の変わらない笑顔に私は「そうか、魯迅の絶望の妄想なること、まさに希望と相同じという言葉は絶望も希望も同じく妄想だと彼は言っているのではないぞ」と気がつかされたのです。私たちが今、何かに絶望を抱いていて、それを自分で絶望としてしまうなら、希望もまた虚しいもの、絶望と同じものになってしまうということを魯迅は言っているのではないかとそう思ったのです。逆に絶望の中に在っても、希望を失わず、希望を持ち続けるならば、絶望は決して絶望ではなくなるのです。つまり、ポイントは、何が真の希望なのかという事なのです。 私たちにとって真の希望とは何か。それはキリストです。クリスマスに生まれ給う主イエス・キリストです。今マリアの胎に神の御心・御旨によって宿っている主イエス・キリストなのです。その御旨・御心とは私たちの救いです。それが、マリアがヨセフによってではなく、聖霊によって身ごもったということの中味なのです。主が聖霊によって宿ったのでなければ、主は私たちの真の希望とはなりませんでした。何故なら、それはヨセフとマリアの子であって、神の御子ではないからです。神の御子であるから主イエス・キリストは私たちの救い主・真の希望なのです。 今私たちは主の来り給うを待っています。アドヴェント。それはまた、主の十字架を思うときでもあります。なぜなら、主がお生まれになったのは、十字架におつきになるためであったからです。人間には必ず誕生と死があります。命ある者には、必ず誕生と死があります。初めがあることは嬉しいことです。しかし終わりがあることはとても悲しいことです。しかしその死を打ち砕くために、キリストは十字架にお付きになられました。主は、私たちを死からお救いになるためにお生まれになられたのです。私たちの救いはこのキリストの受肉から始まります。私たちがクリスマスを待つのは、真の神が真の人となって、この世に来られるからなのです。そしてこの事実は、天の使いが「あなた方のために救い主がお生まれになった」と告げたように「民のすべてに及ぶ」のです。私たちはこの救い主・キリストを迎えるとき、罪と死から救われます。慰めと喜びが与えられます。絶望が希望へと変えられるのです。だから私たちは無残に十字架にかかって死に、その死によって私自身の罪を赦し、復活して私たちに命の約束をしてくださり、希望を与えてくださった救い主イエス・キリストの誕生を祝う。それがクリスマス。 「御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。」これはコロサイ書1・17の言葉です。私たちの存在は、命は、キリストによって支えられているのです。キリストは私たち一人一人の内にどんな時でも共にいてくださいます。だから私たちに絶望はありません。キリストがいつも私たちと一緒にいてくださるので、たとえ私たちが「死の影の谷を歩もうとも」私たちに絶望はないのです。在るのは希望。絶望ではなく希望なのです。 編集部註 エッセイ「命のことば」 伊藤早奈㉑「また明日」「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6・34) 明日のことまで思い悩むなって言われてもいろんなことを心配してしまいます。しょうがないよと思ったりもします。逆に明日が来て当然と思うこともあります。 議長室から 大柴譲治マリアの信仰「お言葉どおり、この身になりますように。」(ルカ1・38協会共同訳) 受胎告知時にマリアはおそらく13〜14歳前後。今とは単純に比較できないでしょうが、その頃は身体的にも精神的にも子どもから大人に移り変わってゆく不安定な時期。第二反抗期のまっただ中、自身のアイデンティティを確立するための大切な時期です。その意味でこの出来事は、マリアのみならず私たち自身のアイデンティティ確立の物語として捉えることもできましょう。向こう側から私たちに呼びかけてくる「永遠の汝」との関係の中に私たちは創造されています(創世記1・27、2・7)。私たちは神との対話的な応答関係の中に生きるのです。まず神が私たちの名を呼びます。「アダムよ、アダム」。そして私たちが答えるのです。「はい、主よ。私はここにおります」。 「教会讃美歌 増補」 解説⑱増補7番「祝福のうちに」・増補8番「われら信じます」
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21-12-01 | あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川 | ![]() 「御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。」
コロサイの信徒への手紙1・17 私はこの7月に38年間の牧師としての務めを終えることになりました。突然の心臓病のためでした。思えば最初の任地が仙台、そして最後の任地も仙台でした。 電車が福島にさしかかった頃、妻が隣で突然「あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川。智恵子抄。うふふ。」(※2)と笑うのです。長く私と一緒に教会に仕えてきてくれた妻の変わらない笑顔に私は「そうか、魯迅の絶望の妄想なること、まさに希望と相同じという言葉は絶望も希望も同じく妄想だと彼は言っているのではないぞ」と気がつかされたのです。私たちが今、何かに絶望を抱いていて、それを自分で絶望としてしまうなら、希望もまた虚しいもの、絶望と同じものになってしまうということを魯迅は言っているのではないかとそう思ったのです。逆に絶望の中に在っても、希望を失わず、希望を持ち続けるならば、絶望は決して絶望ではなくなるのです。つまり、ポイントは、何が真の希望なのかという事なのです。 私たちにとって真の希望とは何か。それはキリストです。クリスマスに生まれ給う主イエス・キリストです。今マリアの胎に神の御心・御旨によって宿っている主イエス・キリストなのです。その御旨・御心とは私たちの救いです。それが、マリアがヨセフによってではなく、聖霊によって身ごもったということの中味なのです。主が聖霊によって宿ったのでなければ、主は私たちの真の希望とはなりませんでした。何故なら、それはヨセフとマリアの子であって、神の御子ではないからです。神の御子であるから主イエス・キリストは私たちの救い主・真の希望なのです。 今私たちは主の来り給うを待っています。アドヴェント。それはまた、主の十字架を思うときでもあります。なぜなら、主がお生まれになったのは、十字架におつきになるためであったからです。人間には必ず誕生と死があります。命ある者には、必ず誕生と死があります。初めがあることは嬉しいことです。しかし終わりがあることはとても悲しいことです。しかしその死を打ち砕くために、キリストは十字架にお付きになられました。主は、私たちを死からお救いになるためにお生まれになられたのです。私たちの救いはこのキリストの受肉から始まります。私たちがクリスマスを待つのは、真の神が真の人となって、この世に来られるからなのです。そしてこの事実は、天の使いが「あなた方のために救い主がお生まれになった」と告げたように「民のすべてに及ぶ」のです。私たちはこの救い主・キリストを迎えるとき、罪と死から救われます。慰めと喜びが与えられます。絶望が希望へと変えられるのです。だから私たちは無残に十字架にかかって死に、その死によって私自身の罪を赦し、復活して私たちに命の約束をしてくださり、希望を与えてくださった救い主イエス・キリストの誕生を祝う。それがクリスマス。 「御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。」これはコロサイ書1・17の言葉です。私たちの存在は、命は、キリストによって支えられているのです。キリストは私たち一人一人の内にどんな時でも共にいてくださいます。だから私たちに絶望はありません。キリストがいつも私たちと一緒にいてくださるので、たとえ私たちが「死の影の谷を歩もうとも」私たちに絶望はないのです。在るのは希望。絶望ではなく希望なのです。 編集部註 日本福音ルーテル教会牧師 太田一彦 |
21-11-01 | 天国に旅立たれた人たち | ![]() 「こう言ってから、『ラザロ、出て来なさい』と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、『ほどいてやって、行かせなさい』と言われた。」
ヨハネによる福音書11章43~44節 全聖徒主日を迎えます。私たちより前に、天国に旅立たれた人々を覚えます。 ヨハネによる福音書11章には、墓に着いたイエスさまがいます。その墓に病気で葬られたラザロが眠っています。そして、そばにはイエスさまのお出でを今か今かと待ち続けた姉のマルタ。マルタが言います。「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます。」(39節)遺体は腐り始めている状況を伝えます。イエスさまは、天を仰いで、父なる神に感謝し、その後、墓に葬られたラザロを大声で呼びます。「ラザロ、出て来なさい。」(43節)ラザロは手と足を布で巻かれたまま出て来ました。 私たちは、時に不条理に満ちたこの世を生き、そして命の限界を知り空しさを感じます。しかし主イエスさまと出会い、十字架と復活を信じる者は、苦難の中にも、神が共にいてくださる。終わりの日には主イエスさまと同じ栄光の体に変えられるのです。 主イエス・キリストへの信仰を貫き、教会を愛していた彼女のそれからの、「終活」の時は、牧師の私がびっくりさせられるものでした。「もう、あと数ヶ月しか命は持ちません。今のうちに教会で、証しをさせてください。」ご自分からの申し出で、礼拝の説教の後に彼女は「主イエスさまとの出会いと、教会生活。そして、晩年、熱心に取り組んだ平和活動について。」を証しされたのです。その後は、家にあるものの整理。手編みの衣類は、サイズの合う方を尋ねて贈られる。家事道具も、教会や個人へ「使ってくださいね。」と分かち合う。自分より高齢の方のお祝いの会をどうしてもして差し上げたいと、痛む体を押して、企画・開催したその宴席は驚く程、心のこもったものでした。 最後に病床でお祈りした時に言われた言葉が忘れられません。「こんなに長く生きるとは思いませんでした。神様に与えられた時間が残り少ないとわかったとき、短い時間をいかに質を豊かにするかを心がけました。クオリティーオブライフです。」残された時をどう生きようか。それは自分に出来ることを精一杯、神様のために、隣人のために捧げるということ。信仰により、まっすぐつながる神様の国への最後の道のりを、彼女は歩き終えたのです。 日本福音ルーテル小岩教会牧師 内藤文子 photo/カラヴァッジオ作「ラザロの復活」(1609年頃)メッシーナ州立美術館所蔵 |
21-11-01 | るうてる2021年11月号 |
「天国に旅立たれた人たち」日本福音ルーテル小岩教会牧師 内藤文子「こう言ってから、『ラザロ、出て来なさい』と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、『ほどいてやって、行かせなさい』と言われた。」(ヨハネによる福音書11章43~44節) 全聖徒主日を迎えます。私たちより前に、天国に旅立たれた人々を覚えます。 ヨハネによる福音書11章には、墓に着いたイエスさまがいます。その墓に病気で葬られたラザロが眠っています。そして、そばにはイエスさまのお出でを今か今かと待ち続けた姉のマルタ。マルタが言います。「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます。」(39節)遺体は腐り始めている状況を伝えます。イエスさまは、天を仰いで、父なる神に感謝し、その後、墓に葬られたラザロを大声で呼びます。「ラザロ、出て来なさい。」(43節)ラザロは手と足を布で巻かれたまま出て来ました。 私たちは、時に不条理に満ちたこの世を生き、そして命の限界を知り空しさを感じます。しかし主イエスさまと出会い、十字架と復活を信じる者は、苦難の中にも、神が共にいてくださる。終わりの日には主イエスさまと同じ栄光の体に変えられるのです。 もう6年前になります。(コロナ禍ではありませんでしたが)私が牧会していた教会のリーダー的役割をしておられた1人の女性信徒が亡くなりました。しかし、死を覚悟してからの2年の彼女の残した最後の日々は、孤独の内にも、主と共なる歩みでした。 主イエス・キリストへの信仰を貫き、教会を愛していた彼女のそれからの、「終活」の時は、牧師の私がびっくりさせられるものでした。「もう、あと数ヶ月しか命は持ちません。今のうちに教会で、証しをさせてください。」ご自分からの申し出で、礼拝の説教の後に彼女は「主イエスさまとの出会いと、教会生活。そして、晩年、熱心に取り組んだ平和活動について。」を証しされたのです。その後は、家にあるものの整理。手編みの衣類は、サイズの合う方を尋ねて贈られる。家事道具も、教会や個人へ「使ってくださいね。」と分かち合う。自分より高齢の方のお祝いの会をどうしてもして差し上げたいと、痛む体を押して、企画・開催したその宴席は驚く程、心のこもったものでした。 最後に病床でお祈りした時に言われた言葉が忘れられません。「こんなに長く生きるとは思いませんでした。神様に与えられた時間が残り少ないとわかったとき、短い時間をいかに質を豊かにするかを心がけました。クオリティーオブライフです。」残された時をどう生きようか。それは自分に出来ることを精一杯、神様のために、隣人のために捧げるということ。信仰により、まっすぐつながる神様の国への最後の道のりを、彼女は歩き終えたのです。 エッセイ「命のことば」 伊藤早奈⑳「思い出」「わたしは言ったであろう。『彼らを跡形もなくし/人々から彼らの記憶を消してしまおう』と。」申命記32・26 「あーこんなこと忘れられたらいいのに。」「これはいつまでも覚えてたいな。」でも記憶って選べませんよね。私は今、車椅子の生活がほとんどです。自分の足で歩いたり走ったりしたことを忘れたいと思ったことは何度もあります。「記憶なんて無くなればどんなに楽だろう」と。 議長室から 大柴譲治慰められる声の力〜〝Graceful Passages〟「地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。」(列王記上19・12) 11月は死者を覚える月、私たちにつながる大切な人々のことを想起する時です。私たち夫婦は2006年から2017年にかけて親を見送ってきました。それ以来最も慰められてきたオーディオブックをご紹介させてください。タイトルは〝Graceful Passages – A Companion for Living and Dying〟(2003)。そこに収められているのはキリスト教、ユダヤ教、仏教、儒教等の宗教者と終末期ケアに関わってきた12人のメッセージ(英語)と音楽です。「死ぬ瞬間」で知られるエリザベス・キューブラー・ロス、ラム・ダス、ティクナット・ハン、マハトマ・ガンジーの孫等の声が文字としても記録されていて貴重な歴史証言となっています。
「教会讃美歌 増補」 解説⑰増補5番「いのちのさなか死に囲まれて」 増補6番「これこそ聖なる十の戒めよ」
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21-10-01 | 真理はあなたたちを自由にする | ![]() 「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」
(ヨハネによる福音書8章32節) 未曾有の感染症の危機に直面する中、自由を奪われたような毎日です。この暗闇の中で、イエス・キリストの言葉が光ります。「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」。 福音書の日課において、イエス様はこの時、ご自分を信じたユダヤ人たちに向かって言いました。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」。この後の議論を通して、イエス様は罪の奴隷という事実を明らかにします。これは、私たちの奥深い部分にある根本的な不自由さのこととも言えるでしょう。そもそも、人は皆、不自由。私たちの内にある傲慢さや自己中心、神様から背く思いが、私たちを平和とは逆の世界に縛り付けてしまいます。 この罪の奴隷からの解放は、本当の自由は、真理、すなわちイエス・キリストによって、その言葉にとどまることにおいて与えられます。ローマの信徒への手紙3章22節以下には次のように記されます。ここでは聖書協会共同訳を引用してみます。聖書の言葉の味わいが深まるかも知れません。「神の義は、イエス・キリストの真実によって、信じる者すべてに現されたのです。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっていますが、キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより価なしに義とされるのです」。 キリストによって本当の自由を得た私たちはどうなるのでしょうか。宗教改革者マルチン・ルターは、聖書から深い考察を示します。私たちは、キリストの弟子となり、キリストの務めを与えられ、祭司とされる。それ故、神様の前に立つことをゆるされ、他者のために執り成しの祈りをする者とされる。イエス・キリストは私たちの心を解放し、他者のために祈り仕える自由を与えてくださったのです。だから、本当の自由を得た私たちは、キリスト者の自由に生きる者とされていきます。 この約1年半、私自身も自由について考えさせられました。私たちの教会でも緊急事態宣言の度に会堂での礼拝参加の自粛をお願いし、集会を見送ってきました。信仰も命も大事ですと呼び掛けながらも、耐える期間が長くなるほど、思い通りにならない不自由さを感じてしまいます。しかしある時、私は、自分の想像を超えて教会員の方から励ましを頂くことがありました。礼拝の動画配信によって、ご自宅で、ご家族と教会のことを話せるようになったということをうかがったのです。その方は、長年、教会のことを話しにくい不自由さにありましたが、昨春から始めた教会の働きによって代弁者を得ておられました。私は、人の想いを超える神様の出来事を感じました。礼拝が、キリストの言葉が、1人の信仰者の心を解放していたことを教えられました。 私たちの目の前には、依然として困難が横たわります。しかし、神様は私たちの想いを超えて働かれます。イエス様は「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」と約束します。今なお、聖書を読む運動の道半ばにいる私たち。その道しるべは、イエス・キリストの言葉です。願わくは、私たちが、イエス様の言葉にとどまり、本当の自由を得ることができますように。そして、他者のために祈り、仕え、この世に平和を成す者とされますように。 日本福音ルーテル名古屋めぐみ教会牧師 小澤周平 photo/ワイマール・聖ペーターとパウル市教会の祭壇画、ルーカス・クラナッハ(子)作、1555年 |
21-10-01 | るうてる2021年10月号 |
「真理はあなたたちを自由にする」日本福音ルーテル名古屋めぐみ教会牧師 小澤周平「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネによる福音書8章32節) 未曾有の感染症の危機に直面する中、自由を奪われたような毎日です。この暗闇の中で、イエス・キリストの言葉が光ります。「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」。 この聖書の言葉は宗教改革日の日課にあります。宗教改革はおよそ500年前にヨーロッパで起きたキリスト教会の改革の出来事ですが、過去の話ではありません。信仰的な観点からは聖書を読む運動とも言われ、今なお続く改革運動だからです。その性質故に教派を超えたキリスト者の運動でもあります。このことを4年前の宗教改革500年記念事業を通して実感された方も沢山おられることと思います。 福音書の日課において、イエス様はこの時、ご自分を信じたユダヤ人たちに向かって言いました。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」。この後の議論を通して、イエス様は罪の奴隷という事実を明らかにします。これは、私たちの奥深い部分にある根本的な不自由さのこととも言えるでしょう。そもそも、人は皆、不自由。私たちの内にある傲慢さや自己中心、神様から背く思いが、私たちを平和とは逆の世界に縛り付けてしまいます。 この罪の奴隷からの解放は、本当の自由は、真理、すなわちイエス・キリストによって、その言葉にとどまることにおいて与えられます。ローマの信徒への手紙3章22節以下には次のように記されます。ここでは聖書協会共同訳を引用してみます。聖書の言葉の味わいが深まるかも知れません。「神の義は、イエス・キリストの真実によって、信じる者すべてに現されたのです。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっていますが、キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより価なしに義とされるのです」。 キリストによって本当の自由を得た私たちはどうなるのでしょうか。宗教改革者マルチン・ルターは、聖書から深い考察を示します。私たちは、キリストの弟子となり、キリストの務めを与えられ、祭司とされる。それ故、神様の前に立つことをゆるされ、他者のために執り成しの祈りをする者とされる。イエス・キリストは私たちの心を解放し、他者のために祈り仕える自由を与えてくださったのです。だから、本当の自由を得た私たちは、キリスト者の自由に生きる者とされていきます。 この約1年半、私自身も自由について考えさせられました。私たちの教会でも緊急事態宣言の度に会堂での礼拝参加の自粛をお願いし、集会を見送ってきました。信仰も命も大事ですと呼び掛けながらも、耐える期間が長くなるほど、思い通りにならない不自由さを感じてしまいます。しかしある時、私は、自分の想像を超えて教会員の方から励ましを頂くことがありました。礼拝の動画配信によって、ご自宅で、ご家族と教会のことを話せるようになったということをうかがったのです。その方は、長年、教会のことを話しにくい不自由さにありましたが、昨春から始めた教会の働きによって代弁者を得ておられました。私は、人の想いを超える神様の出来事を感じました。礼拝が、キリストの言葉が、1人の信仰者の心を解放していたことを教えられました。 私たちの目の前には、依然として困難が横たわります。しかし、神様は私たちの想いを超えて働かれます。イエス様は「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」と約束します。今なお、聖書を読む運動の道半ばにいる私たち。その道しるべは、イエス・キリストの言葉です。願わくは、私たちが、イエス様の言葉にとどまり、本当の自由を得ることができますように。そして、他者のために祈り、仕え、この世に平和を成す者とされますように。 エッセイ「命のことば」 伊藤早奈⑲「生まれてきてくれてありがとう」「あなたは、わたしの内臓を造り/母の胎内にわたしを組み立ててくださった。/わたしはあなたに感謝をささげる。/わたしは恐ろしい力によって/驚くべきものに造り上げられている。/御業がどんなに驚くべきものか/わたしの魂はよく知っている。」(詩編139・13〜14 「ハッピバースデートゥーユー♪」これって神様が毎日一人ひとりに歌って下さっておられるのかもな。そう私に思わせたのは「毎日カードに光が当たるとハッピーバースデーの歌が流れてくるんだよ。」と知り合いが教えてくれた時です。 私は働かせて頂いていた施設に入居されていた皆さん一人ひとりに誕生日カードをお配りしておりました。いつもご挨拶をしても下を向いて私の顔なんて見ても下さらなかった方が私の目を見て下さるようになったりしました。いつも出勤した月の一番初めの日に配るようにしていたのですが、たまたまその日にお誕生日の方がおられたので「お誕生日おめでとうございます。今日お誕生日ですね。お誕生日の歌、歌っていいですか?」と言ってハッピーバースデーの歌を歌いました。ベッドに横たわり寝ていたのかと思っていました。いつもお会いすると怖い顔を私に向けていたその方がある日ひょっと私を見て嬉しそうにされました。あまりにも意外でしたが神様が私を通して働かれたことを思いました。ハッピーバースデー。 議長室から 大柴譲治神無月に〜魂のための時間「順境には楽しめ、逆境にはこう考えよ/人が未来について無知であるようにと/神はこの両者を併せ造られた、と。」(コヘレト7・14) 「健康は人を外に向かわせ、病気は人を内に向かわせる」と言われます。確かに逆境の時は、私たちを内へ内へと深く沈潜させてゆく内省の時であり、自己のレジリエンスを鍛錬する時でもある。「順境には楽しめ。逆境には考えよ」とコヘレトが告げている通りです。 昨年2月以降のCOVID─19による世界的なパンデミックは私たちを内面深く沈潜させてゆきました。この状況はいったいいつまで続くのでしょうか。「外的奉仕のための内的集中」(ボンヘッファー)という言葉については前に触れたことがあります(2020年5月号)。確かに外に向かって奉仕するためには内的に集中して力を蓄える必要がある。何事もバランスです。 動物写真家の星野道夫さんが紹介しているエピソードです(『旅をする木』)。南米のアンデス山脈で考古学の発掘調査のためガイドとして現地の案内人たちが雇われます。調査隊の一行はある地点までは順調に進んできたのですが、ある時にガイドたちがピタッと止まってまったく動かなくなってしまった。ストライキと思った調査隊は困ってお金をさらに支払うからと交渉する。しかし彼らは座ったまま一歩も動こうとしない。曰く、「我々はあまりにも速く来すぎてしまった。だからここで、魂が追いついてくるまで待つのだ」と。ハッとさせられます。魂がからだに追いついてくるための時間とは…私たちもこれまで急いで歩み過ぎてきたのかも知れません。魂が追いついてくるまでを待つ時間としてこの時が与えられたと受け止めることもできましょう。 それにしても魂のための時間とはどのような時間か。コヘレトは告げています。「人が未来について無知であるようにと神はこの両者(順境と逆境)を併せ造られた」と。本来魂は神に向かって造られていますので、それは神に思いを向ける時です。詩編の言葉を想起します。「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(口語訳46・10)。〝Be still, and know that I am God!〟(NRSV)。立ち止まって沈思黙考し、自らを省みると共に神に思いを向け、祈る時。魂が追いついてくるまでの静謐の時としてこの時を位置づけたいと思います。 10月は樹木の葉が微妙な寒暖の変化の中で美しくその色合いを変えてゆく季節。日本では古来「神無月」と呼ばれる月であり私たちの教会にとっては宗教改革の月。それはまた私たちが魂の在処を確認する月でもある。じっくりとこの時を味わってみたいのです。 「教会讃美歌 増補」 解説⑯増補3番「今こそわたしは去りゆく」・増補4番「主は死に打ち勝ち」
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21-09-01 | るうてる2021年9月号 |
「隠されている恵み」日本福音ルーテル大森教会牧師 竹田孝一「汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。」(マルコによる福音書7章25節) 高校生の時、ネフローゼ症候群を発症し、長期入院を繰り返していた私の治療のために両親を心配させ、苦労をかけさせていたことを今でも申し訳なく思っています。こどもが病気であるということは親には大変に辛いもので、どうしてもこどもの病気が癒されることを願わずにはおられません。この福音書の物語の娘の癒しを願う母の必死の求めは、私の母の必死な求めと重なってきます。 しかし、この親の必死さに対してイエスの態度、言葉は私には理解できません。「娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。イエスは言われた。『まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。』」(27節)とこの母親の願いを拒絶するのです。 「イエスのことを聞きつけ」とはイエスの良い評判であり、福音であり、恵みの言葉であったはずです。これを聞きつけてやってきたのですが、しかし、恵みの言葉としての福音が、一見それとは思えないような現れかたをした。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」と、なんと残酷な拒絶でしょうか。これが試練です。試練は、自分が神から見捨てられたという疑問が起き、神の愛から遠ざけられたという関係が生じてきたとき起こるものです。 しかし、この母親はこの試練をみごと超えていくのです。母親としての、自分の子どもを癒してほしいというイエスへの願いが強ければ強いほど、イエスの拒絶はどれほど辛いものであったでしょうか。母親は、自分がフェニキア人、異邦人であること、イエスの「子ども」でないことをどんなに呪ったでしょうか。しかし、全ての思いを捨て去り、ひたすらイエスの言葉をいただこうとしたのです。主イエス・キリストへの信頼しか自分には残っていないことを母親は試練の中で選び取ったのです。 試練がある、しかし、その試練の中で、信仰者である私たちは、信仰とは何なのかと問われ、信仰を深めさせられていく恵みのときとなるのです。 試練にあるこの母親は私たちに教えてくれているのです。信仰、それは徹底的な神のみ言葉、つまりイエス・キリストへの信頼であるということを。 今、母親は、万事休すという試練の中にたたされている。しかし、なおもイエスに救いを求め、イエスにひたすら向かう母親に対して、「それほど言うなら、よろしい。」というイエスの言葉には、母親の願いを聞こうとする神の、イエスの、強い意志・気迫が伝わってきます。 「女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた」(30節)。 新型コロナウイルス感染症の拡大という中で、自分の命さえどうなるか分からない日々があり、礼拝もままならぬところで、自分は神の恵みと無関係ではないかという信仰の試練の内に私たちはいます。が、イエスのその足もとにひれ伏し、試練の内にこそ隠された神のみ言葉、恵みがあることを信頼して、「たとえ、明日世界が終わるとしても、それでも今日私はリンゴの木を植える」という今日の一歩を主イエスの御心の内に歩みだしましょう。 エッセイ「命のことば」 伊藤早奈⑱「におい」「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。」(エフェソ5・2) これは秋の匂い、これは冬の匂い。私たちは匂いのないものの匂いを感じたり、匂いが思い出を運んできたりします。昔歌った歌に「おかあさん、なぁに。おかあさんていいにおい。せんたくしていたにおいでしょ。シャボンのあわのにおいでしょ。」という歌があります。季節の匂いについて思いを馳せていたら、何度も何度も心の中でこの歌が流れました。 そしてこれから訪れる秋には金木犀が香ります。金木犀の匂いは私になぜか運動会を思い出させます。先生が鳴らすかけっこのスタートの音、子どもや親の歓声、立ち上る砂埃の匂い。冬は雪の匂い。春は紅梅や沈丁花、クチナシの花など。紅梅が香ると幼いころに親戚と集まって祝ったひな祭りを思い出します。夏は新緑や風の匂い。キリがなく広がる思い出はきっと一人ひとり違うのでしょう。 イエス様って何の匂い?考えてもみませんでした。だから今考えてみます。 議長室から 大柴譲治左手のピアニスト~舘野泉「後の世代のために/このことは書き記されねばならない。/『主を賛美するために民は創造された。』」(詩編102・19) 芸術の秋。舘野泉というフィンランド在住のピアニストがいます。2002年1月のタンペレでの演奏会、最後の和音を弾き終わったところで脳溢血に倒れます。65歳。以降は後遺症のため右半身不随。リハビリに励みますが右腕は動きません。1年半ほど経った頃に米国留学中のヴァイオリニストの息子さんが「お父さん、このような楽譜を見つけたよ」と左手のためのピアノ曲をそっと傍らに置いてくれました。その時はピンときませんでしたがある時ハッとします。「そうか、両腕でなくても、片腕でも音楽は表現できるのか。」すぐに日本の友人の作曲家に電話をして、1年後に日本で復帰リサイタルを開くからと左手のためのピアノ曲を作曲依頼。2004年に東京・大阪・福岡・札幌で「左手のピアニスト」として演奏会を開きました。病に倒れて2年半後のことでした。 舘野氏の言葉です。(40周年の演奏会が)「終わって一ヶ月も経たないうちに、演奏中にステージで脳溢血に倒れ、半身不随になった。もう、演奏家としては終わりだと思った。二年半の闘病生活を経てステージに復帰したとき、自分は左手のみで演奏するピアニストになっていた。でも、また演奏が出来るということがただただ嬉しかった。嬉しくて嬉しくて、自分が左手だけで演奏しているとか、不便不自由であるとか、そのようなことは一切感じなかった。弾いているのは音楽なのである。片手であろうが両手であろうが、手が三本であろうが、そんなことはまったく問題にならない。ただ、演奏出来る曲目が少なかったのは事実である。しかし、少なければ書いてもらえばよい。間宮芳生さんの《風のしるしーオッフェルトリウム》が邦人初めての左手の作品として埋めれ、林光、吉松隆、末吉保雄、谷川賢作など多くの作曲家達がそれに続いた。‥世界の各地からも作品が寄せられている。‥限りなく豊かな思念、詩情、情感、夢が、そして人の心を満たし動かしてくれるものが生まれ続けている。なんと有難いことだろう。」(演奏生活50周年演奏会ちらしより) 詩編102編には「祈り~心くじけて、主の御前に思いを注ぎ出す貧しい人の詩」とありますが、その19節は深く心に響きます。「後の世代のためにこのことは書き記されねばならない。『主を賛美するために民は創造された。』」そこには苦難を味わい尽くした者だけが到達できる次元がある。主を賛美するためこの人生は与えられた!私たちも与えられた今ここを大切にしてゆきたいのです。 「教会讃美歌 増補」 解説⑮増補1番「み使いの群れが」・増補2番「なぜ恐れるのか」
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21-09-01 | 隠されている恵み | ![]() 「汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。」
(マルコによる福音書7章25節) 高校生の時、ネフローゼ症候群を発症し、長期入院を繰り返していた私の治療のために両親を心配させ、苦労をかけさせていたことを今でも申し訳なく思っています。こどもが病気であるということは親には大変に辛いもので、どうしてもこどもの病気が癒されることを願わずにはおられません。この福音書の物語の娘の癒しを願う母の必死の求めは、私の母の必死な求めと重なってきます。 しかし、この親の必死さに対してイエスの態度、言葉は私には理解できません。「娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。イエスは言われた。『まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。』」(27節)とこの母親の願いを拒絶するのです。 「イエスのことを聞きつけ」とはイエスの良い評判であり、福音であり、恵みの言葉であったはずです。これを聞きつけてやってきたのですが、しかし、恵みの言葉としての福音が、一見それとは思えないような現れかたをした。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」と、なんと残酷な拒絶でしょうか。これが試練です。試練は、自分が神から見捨てられたという疑問が起き、神の愛から遠ざけられたという関係が生じてきたとき起こるものです。 しかし、この母親はこの試練をみごと超えていくのです。母親としての、自分の子どもを癒してほしいというイエスへの願いが強ければ強いほど、イエスの拒絶はどれほど辛いものであったでしょうか。母親は、自分がフェニキア人、異邦人であること、イエスの「子ども」でないことをどんなに呪ったでしょうか。しかし、全ての思いを捨て去り、ひたすらイエスの言葉をいただこうとしたのです。主イエス・キリストへの信頼しか自分には残っていないことを母親は試練の中で選び取ったのです。 試練がある、しかし、その試練の中で、信仰者である私たちは、信仰とは何なのかと問われ、信仰を深めさせられていく恵みのときとなるのです。 試練にあるこの母親は私たちに教えてくれているのです。信仰、それは徹底的な神のみ言葉、つまりイエス・キリストへの信頼であるということを。 今、母親は、万事休すという試練の中にたたされている。しかし、なおもイエスに救いを求め、イエスにひたすら向かう母親に対して、「それほど言うなら、よろしい。」というイエスの言葉には、母親の願いを聞こうとする神の、イエスの、強い意志・気迫が伝わってきます。 神の救いが私から失われ、無関係になっているのではないかと思われる試練の時・場にあって、キリストの恵みが、答えが隠されています。 「女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた」(30節)。 新型コロナウイルス感染症の拡大という中で、自分の命さえどうなるか分からない日々があり、礼拝もままならぬところで、自分は神の恵みと無関係ではないかという信仰の試練の内に私たちはいます。が、イエスのその足もとにひれ伏し、試練の内にこそ隠された神のみ言葉、恵みがあることを信頼して、「たとえ、明日世界が終わるとしても、それでも今日私はリンゴの木を植える」という今日の一歩を主イエスの御心の内に歩みだしましょう。 日本福音ルーテル大森教会牧師 竹田孝一 |
21-08-01 | あなたのそばにある平和 | ![]() 「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」
(ヨハネによる福音書15章12節) 昨今の世界的なCOVID-19感染拡大にあって、病院や施設を訪問する機会が減ってしまいました。ご家族さえ面会が厳しく制限されている状況に在って、『お元気ですか』と訪ねてゆくことのままならない日常は、やはり平時とは異なると感ぜずにはいられません。施設によっては、市内の感染状況と照らし合わせながら面会制限の緩和がありますから、制限が緩和されたと報せを受けたならば訪ねてゆきます。 ある施設に入るAさんを訪問した時のことです。その施設では、施設内に立ち入っての面会は許されておりませんでした。ですが、入り口の自動ドア越しにお顔を見ることができます。そして私の携帯電話と施設の電話とを繋ぎ、ガラス1枚を隔てではありますが近くに居ながらお話しすることができるよう配慮してくださいます。何度か訪問するうち、その方式にお互い慣れてきた頃のことです。面会の最後にはお祈りをするのですが、施設の職員さんが少しだけ、10センチほど自動ドアを開けてくださいました。そして私の手を消毒するよう促し、『どうぞ、Aさんの手を握ってあげてください』と言われたのです。 驚きと同時に、喜びがこみ上げてきました。その職員さんは、いつも面会を隣で見ている中で、お祈りは特別なものだと感じられたそうです。そして、きっと手を握ったほうが良いと感じたと言うのです。 訪問の度に「教会の皆さんは元気ですか?」「教会は礼拝できていますか?」と繰り返し心配されるAさんの姿を見て、Aさんが本当に大切にしているもの、委ねているものが何であるかがはっきりと伝わっていたのです。 「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」この言葉は、イエスさまの告別説教と呼ばれる箇所の真ん中に記されています。弟子たちに託した、最後の教えの中心です。互いに、ですから、他者・隣人を愛することを教えています。そして隣人とは、自分の思い描く好き勝手な誰かのことではありません。イエスさまに敵意を向け十字架につけて殺した彼らを、それでもなお彼らをお赦しくださいと父なる神さまに祈るような、壁という壁を超えた先にいるような、そういう隣人です。 憎しみに対して憎しみをもって対峙するのではなく、愛をもって向き合ってゆく姿勢は、弟子たちを通して、そして2000年の時を超えて今の私たちに語られるイエスさまの大切な教えです。それこそが平和への道であるのです。 2000年、イエスさまが大切な教えを残されてから長い時が流れました。それでも、この世界は平和であるとは言えません。6月にはミャンマーにおいて教会を標的とした砲撃が何度もありました。平和は、どれだけ手を延ばしても届かないようなところにあるとさえ思います。 しかしイエスさまは、隣人を愛することを私たちに最も大切な掟として、一番近くに、いつでも振り返り、立ち帰ることのできる場所に置かれました。何故なら、平和は私たちのすぐそばにあるからです。 私たちが隣人へと愛を持って接するとき、そこには確かにキリストの平和があります。とても小さいことかも知れません。 しかし、この小さな平和を信じられずに、どうして大きな平和を信じることができるでしょうか。イエスさまが示された、私たちにも祈り求めてゆくことのできる平和。隣人へと愛をもって接することによって、この世界に現わされてゆく平和。それは扉をたった10センチ開けることしかできないものかも知れません。 しかし、この10センチが、確かにこの世界にキリストの平和があることを教えてくれているのだと思えてならないのです。 日本福音ルーテル下関教会・厚狭教会・宇部教会牧師 中島共生 |
21-08-01 | るうてる2021年8月号 |
「あなたのそばにある平和」日本福音ルーテル下関教会・厚狭教会・宇部教会牧師 中島共生「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。 昨今の世界的なCOVID-19感染拡大にあって、病院や施設を訪問する機会が減ってしまいました。ご家族さえ面会が厳しく制限されている状況に在って、『お元気ですか』と訪ねてゆくことのままならない日常は、やはり平時とは異なると感ぜずにはいられません。施設によっては、市内の感染状況と照らし合わせながら面会制限の緩和がありますから、制限が緩和されたと報せを受けたならば訪ねてゆきます。 ある施設に入るAさんを訪問した時のことです。その施設では、施設内に立ち入っての面会は許されておりませんでした。ですが、入り口の自動ドア越しにお顔を見ることができます。そして私の携帯電話と施設の電話とを繋ぎ、ガラス1枚を隔てではありますが近くに居ながらお話しすることができるよう配慮してくださいます。何度か訪問するうち、その方式にお互い慣れてきた頃のことです。面会の最後にはお祈りをするのですが、施設の職員さんが少しだけ、10センチほど自動ドアを開けてくださいました。そして私の手を消毒するよう促し、『どうぞ、Aさんの手を握ってあげてください』と言われたのです。 驚きと同時に、喜びがこみ上げてきました。その職員さんは、いつも面会を隣で見ている中で、お祈りは特別なものだと感じられたそうです。そして、きっと手を握ったほうが良いと感じたと言うのです。 訪問の度に「教会の皆さんは元気ですか?」「教会は礼拝できていますか?」と繰り返し心配されるAさんの姿を見て、Aさんが本当に大切にしているもの、委ねているものが何であるかがはっきりと伝わっていたのです。 「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」この言葉は、イエスさまの告別説教と呼ばれる箇所の真ん中に記されています。弟子たちに託した、最後の教えの中心です。互いに、ですから、他者・隣人を愛することを教えています。そして隣人とは、自分の思い描く好き勝手な誰かのことではありません。イエスさまに敵意を向け十字架につけて殺した彼らを、それでもなお彼らをお赦しくださいと父なる神さまに祈るような、壁という壁を超えた先にいるような、そういう隣人です。 憎しみに対して憎しみをもって対峙するのではなく、愛をもって向き合ってゆく姿勢は、弟子たちを通して、そして2000年の時を超えて今の私たちに語られるイエスさまの大切な教えです。それこそが平和への道であるのです。 2000年、イエスさまが大切な教えを残されてから長い時が流れました。それでも、この世界は平和であるとは言えません。6月にはミャンマーにおいて教会を標的とした砲撃が何度もありました。平和は、どれだけ手を延ばしても届かないようなところにあるとさえ思います。 しかしイエスさまは、隣人を愛することを私たちに最も大切な掟として、一番近くに、いつでも振り返り、立ち帰ることのできる場所に置かれました。何故なら、平和は私たちのすぐそばにあるからです。 私たちが隣人へと愛を持って接するとき、そこには確かにキリストの平和があります。とても小さいことかも知れません。 しかし、この小さな平和を信じられずに、どうして大きな平和を信じることができるでしょうか。イエスさまが示された、私たちにも祈り求めてゆくことのできる平和。隣人へと愛をもって接することによって、この世界に現わされてゆく平和。それは扉をたった10センチ開けることしかできないものかも知れません。 しかし、この10センチが、確かにこの世界にキリストの平和があることを教えてくれているのだと思えてならないのです。 エッセイ「命のことば」 伊藤早奈⑰「目に見えなくて触れられないもの」「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。/苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。」(詩編46・2) 「シャーッ」いきなり目の前のカーテンが閉められました。6人部屋に入院していた私は面食らいました。慌てた様子で白衣の先生が「検査で陽性が出たんだよね」と私に言い、そして「部屋を個室に移ってもらわないとならないんだ」と何人かの看護師さんたちが私の荷物をガタガタとまとめ始めます。しかも普段どんなに私が不便そうにしていても一度も手伝ってくれなかった看護師さんまで手伝って下さって。「あら、ありがとう」と思いながらあれよあれよとあっという間に部屋を移動しました。 部屋を移ってからは、「触れるなキケン」扱いです。なるべく部屋から出ないように言われ、部屋に入ってくる看護師さんはビニールのエプロンをかけ私の部屋を出たらエプロンを捨てていました。違う病棟に入院していた友人も私と親しく接触していたと言う理由で個室に移ったそうです。他の人にうつらないように?看護師さんのため?私が悪いの? これは10年前、インフルエンザの時の体験です。時々目に見えなくて触れられないものは恐怖や不安を私たちに抱かせます。私たちはあたかも見えて触れられるものだけしか安全ではないと思う時があります。でも目に見えて触れられるものも見えなくて触れられないものも全ては神様に守られています。決して恐れることはありません。 議長室から 大柴譲治韓国・巡礼の旅「そのとき、イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。』」(ルカ23・34) 1991年8月6日(火)〜13日(火)の「韓国・巡礼の旅」(西教区・平和と核兵器廃絶を求める委員会=PND主催)からちょうど30年。暑い夏、忘れられない夏でした。「過去に目を閉ざす者は、現在に対しても目を閉ざす」(ヴァイツゼッカー『荒れ野の40年』)。過去の過ちを繰り返さないためにも私たちは過去を心に刻み、それを想起し続けることが必要です。旅の目的は韓国ルーテル教会(KLC)池元祥(ジ ウォンサン)議長に宛てた内海望議長の書簡に記されていました。「私たちJELCの宣教百年を前にして、過去の検証と罪責告白とを目的としたメタノイアの旅です。そしてそれは過去への旅でもあると同時に、新しい未来に向かっての旅でもあります」。私たちを受け容れてくださったKLCをはじめ韓国の関係者の方々に心より感謝します。 武村協牧師(PND委員長)が団長で私が全体の世話役、私の妻・韓国出身の金賢珠(キム ヒョンジュ)が通訳。参加者は西教区から水野登美子氏や高田敏尚氏、仙台から杉山昭男牧師と伊藤節彦氏(後に参加者同志でご結婚。後に牧師となられました)、熊本から斉藤忠碩牧師、三鷹の神学校から永吉秀人チャプレン、白川道生、三浦知夫、白井真樹(NRK)など神学生ら総勢27名(3歳と1歳の我が子2人を含む)。8月6日、当時広島平和公園の「外」にあった韓国人原爆犠牲者慰霊碑の前で祈りを捧げて旅は始まりました。関釜フェリーで釜山に渡り、慶州(ナザレ園訪問)、ソウルと進みます。ソウルでは9日に三・一万歳運動が始まったパゴダ公園、景福宮を遮るように建てられていた旧朝鮮総督府の建物(当時はソウル国立中央博物館。1995年に解体撤去)、10日に天安の独立記念館と堤岩里教会を訪問。記念館では「天皇の軍隊」による拷問場面が蝋人形で再現されていて、ちょうど見学に訪れていた小学生たちと共に見ることになった心痛は忘れられません。堤岩里の生き証人の田同禮(チョン ドンネ)ハルモニにはお会いできませんでしたが、ハルモニは72年間毎日欠かさず事件のあった午後2時に日本のために「彼らをお赦しください。何をしているか分からずにいるのです」と十字架の祈りを捧げてこられた方です。そこで発せられた在日コリアン参加者の「私はどうしても日本人を赦せない」という悲痛な声と重なります。主の十字架による和解と平和を祈らずにはおれません。 11日(日)早朝、南山にある義士・安重根(アン ジュングン)記念館を訪ね、そこから中央ルーテル教会まで歩いて主日聖餐礼拝を守りました。礼拝では私が英語で説教し、金海喆(キム ヘチョル)中央教会牧師が通訳でした。説教後に金先生が「配餐はどうぞ日本語でしてください」という言葉と差し出された手の温もりが忘れられません。私にとって一つの和解の体験でした。そして教会員との昼食交流会。午後3時にはそこで韓国原爆被害者協会会長の辛泳洙(シン ヨンズ)氏から被爆証言を伺いました。いずれの場所でも私たちは、自らが日本人であることを深く恥じいたたまれない思いになりました。しかしこれが私自身の原点となっています。アジア諸国と向かい合う時、過去の罪責を踏まえながら主の憐れみのうちに未来の和解に向かって共に歩みたいと願っています。 「教会讃美歌 増補」 解説⑭ルターのコラール
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21-07-01 | 主に献げて委ねる | ![]() 「さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。」
(ヨハネによる福音書6章11節) 「パンの奇跡」は四福音書のそれぞれが物語る唯一の奇跡です。弟子たちにとってこの奇跡ほど印象深いものはなかったのでしょう。日が傾きかけた頃、ベトサイダの「人里離れた」(マコ6・35)草地で起こったあの出来事の消息を思い巡らします。それは私たちのこころざしを主に信頼して委ねたときに、主が私たちの思いを超えて豊かに用いてくださった奇跡のように思われます。 四福音書の内でヨハネだけが主イエスと弟子のフィリポやアンデレとのやりとりを実に生き生きと伝えていて、これは現に起こった出来事だったと感じずにはおられません。 その日、主はご自分を慕ってくる群衆を見て憐れまれ、この辺りに土地勘のある「フィリポ」(ヨハ1・44)に「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」(ヨハ6・5)と尋ねました。ヨハネ福音書は主が「フィリポを試みるため」(ヨハ6・6)にそのように問われたと述べています。 するとフィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」(ヨハ6・7)と婉曲に断りました。200デナリオンは労働者の半年分以上の賃金に相当します。たとえ少しずつ配るとしてもかなりの金額です。フィリポは主のこの群衆への「深い憐れみ」(マコ6・34)に共感したものの、とても現実的ではないと結論したのでしょう。他の弟子たちも同じ考えだったようです。 主と弟子たちとのこうした会話は側にいた人たちにも聞こえたのではないかと想像します。群衆は15キロもの距離をやってきたと考えられます。群衆の中には自分や家族のためにパンや魚を持っている者がいても不思議はありません。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」という弟子たちへの言葉を、「主はこの私にも呼びかけられた」と聴きとって心を開いた家族があった。彼らは主を信じて、持っていたパンと魚を主にお委ねしようと決意した。だから一人の少年が立ち、精一杯の献げものであるパンと魚を差し出してくれたのだと思います。 アンデレは急いで主に報告します。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます」(ヨハ6・9)。そしてつぶやきました。「けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」(ヨハ6・9)。アンデレは「これだけでは不十分だ」と思い込んでいます。私たちもついこういう見方に陥ります。 しかし主はこの心からの献げものを喜んで受け取られた。そして弟子たちに命じておよそ5千人もの人々を座らせると「パンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた」(ヨハ6・11)。四つの福音書が異口同音に人々は満腹した、「残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった」(ヨハ6・13、マタ14・20、マコ6・43、ルカ9・17)と証言します。一体何が起こったのか?四つの福音書が、パンと魚を持っている家族がいた、それが主に献げられた、主はこの献げものを神に感謝し、祈り、人々に分け与えられたと語ります。 「あなたがたがやしないなさい」とのみ言葉を、あの子どもの家族のように聴き取り、自分たちに出来る精一杯を、主に献げて委ねる人々が、次々と起こされたとしたらどうでしょうか。主イエスによって私たちが神につながるとき、そこにはきっといつの時代でも、今も、あの時のように「神の国」のような世界が実現します。 日本福音ルーテル湯河原教会・小田原教会牧師 岡村博雅 |
21-07-01 | るうてる2021年7月号 |
「主に献げて委ねる」日本福音ルーテル湯河原教会・小田原教会牧師 岡村博雅
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21-06-01 | 天の青空をその会堂の天井とし | ![]() 「イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。大勢の人が、イエスの周りに座っていた。『御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます』と知らされると、イエスは、『わたしの母、わたしの兄弟とはだれか』と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。『見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。』」
(マルコによる福音書3章31~35節) コロナ禍の中、これまで私たちは様々な工夫をして主日礼拝に与かってきました。昨年から続いているこのウィズコロナの時代、私は、教会とは何であるのかと考え、模索してきました。私は、牧師として着任してから1年もたたない内に新型コロナウイルスの感染拡大に遭遇し、心が揺さぶられ、果たして教会とは何であるのかと、考えてきたのです。 教会の交わりで傷つき、倒れている方がおられます。傷を負い、心の深いところに痛手をおって、それでも尚、教会生活を続けている方もおられます。このコロナ禍で、交わりが断たれ孤独のうちに暮らしている方もいれば、主日礼拝の讃美のひと時が与えられず、恵みの機会が奪われ、不安の中で過ごされている方もおられます。 主イエスは、今日の福音書で衝撃的な言葉を告げます。母と兄弟姉妹を目の前にして「私の母、私の兄弟とはだれか」と言うのです。端的にまとめると、主イエスは周りに座っている人々を見回して、「神の御心を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだ」と、私たちの常識や既成の考え方を覆すような言葉を述べるのです。主イエスは私たちの家族の垣根を壊し、神の御心を行なう人間こそが、本当の意味での家族であると言うのです。 私はここで言われていることは、家族だけのことではないように思います。神の御心を行なう者の集まり、それは教会にも当てはまることではないでしょうか。 ウィズコロナの時代で閉塞感が漂う中、私たちはここでの主イエスの斬新な発想を突き詰めて考えていくとき、教会に対する私たちのこれまでの既成概念をもっと越えでて、考えても良いのではないでしょうか。 ここで再び問います、教会とは何でしょうか。この問いを胸に、コロナ禍でよたよたと歩いていた私に語りかけて来る言葉がありました。それは内村鑑三の言葉です。 詩情あふれる表現です。この内村鑑三の教会への視点は、私の心を揺さぶりました。ぬけるような天の青空をその会堂の天井とし、大地の豊かな青草をその会堂の床とし、森の小鳥の声を賛美の声とする教会。私は、主イエスが弟子たちとガリラヤ湖を歩く姿を思い浮かべつつ、この比類なき教会のスケールの大きさに心を奪われました。主イエスの言葉と内村の言葉が、私の中でこだましたのです。 教会とは、私たちの垣根や想像を越え、この宇宙的な賛美の声が響いている場として存在している、そのような新たなインスピレーションが与えられました。この教会には深い喜びがある、直感的にそう感じました。閉塞感に包まれた教会の状況の中で、内村の言葉は私たちの既成の考え方を打ち壊します。星が輝き、宇宙全体を包み込んでいる壮大なスケールの内にある教会の姿を提示しているのです。広大な宇宙と教会の姿が重なりあっているのです。 この宇宙(コスモス)の教会に私たちは包まれています。この気づきから、私たちは明日の教会のビジョンを見ていきます。私は今、いのちに溢れる教会に生きているのだ、このまばゆい大地と、静かにさえずる小鳥の讃美と共に、宇宙を感じ、神の言葉を感謝と共に聞きながら— 日本福音ルーテル甲府教会・諏訪教会牧師 筑田仁 |
21-06-01 | るうてる2021年6月号 |
「天の青空をその会堂の天井とし」日本福音ルーテル甲府教会・諏訪教会牧師 筑田 仁「イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。大勢の人が、イエスの周りに座っていた。『御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます』と知らされると、イエスは、『わたしの母、わたしの兄弟とはだれか』と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。『見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。』」 コロナ禍の中、これまで私たちは様々な工夫をして主日礼拝に与かってきました。昨年から続いているこのウィズコロナの時代、私は、教会とは何であるのかと考え、模索してきました。私は、牧師として着任してから1年もたたない内に新型コロナウイルスの感染拡大に遭遇し、心が揺さぶられ、果たして教会とは何であるのかと、考えてきたのです。 教会の交わりで傷つき、倒れている方がおられます。傷を負い、心の深いところに痛手をおって、それでも尚、教会生活を続けている方もおられます。このコロナ禍で、交わりが断たれ孤独のうちに暮らしている方もいれば、主日礼拝の讃美のひと時が与えられず、恵みの機会が奪われ、不安の中で過ごされている方もおられます。 主イエスは、今日の福音書で衝撃的な言葉を告げます。母と兄弟姉妹を目の前にして「私の母、私の兄弟とはだれか」と言うのです。端的にまとめると、主イエスは周りに座っている人々を見回して、「神の御心を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだ」と、私たちの常識や既成の考え方を覆すような言葉を述べるのです。主イエスは私たちの家族の垣根を壊し、神の御心を行なう人間こそが、本当の意味での家族であると言うのです。 私はここで言われていることは、家族だけのことではないように思います。神の御心を行なう者の集まり、それは教会にも当てはまることではないでしょうか。 ウィズコロナの時代で閉塞感が漂う中、私たちはここでの主イエスの斬新な発想を突き詰めて考えていくとき、教会に対する私たちのこれまでの既成概念をもっと越えでて、考えても良いのではないでしょうか。 ここで再び問います、教会とは何でしょうか。この問いを胸に、コロナ禍でよたよたと歩いていた私に語りかけて来る言葉がありました。それは内村鑑三の言葉です。 詩情あふれる表現です。この内村鑑三の教会への視点は、私の心を揺さぶりました。ぬけるような天の青空をその会堂の天井とし、大地の豊かな青草をその会堂の床とし、森の小鳥の声を賛美の声とする教会。私は、主イエスが弟子たちとガリラヤ湖を歩く姿を思い浮かべつつ、この比類なき教会のスケールの大きさに心を奪われました。主イエスの言葉と内村の言葉が、私の中でこだましたのです。 教会とは、私たちの垣根や想像を越え、この宇宙的な賛美の声が響いている場として存在している、そのような新たなインスピレーションが与えられました。この教会には深い喜びがある、直感的にそう感じました。閉塞感に包まれた教会の状況の中で、内村の言葉は私たちの既成の考え方を打ち壊します。星が輝き、宇宙全体を包み込んでいる壮大なスケールの内にある教会の姿を提示しているのです。広大な宇宙と教会の姿が重なりあっているのです。 この宇宙(コスモス)の教会に私たちは包まれています。この気づきから、私たちは明日の教会のビジョンを見ていきます。私は今、いのちに溢れる教会に生きているのだ、このまばゆい大地と、静かにさえずる小鳥の讃美と共に、宇宙を感じ、神の言葉を感謝と共に聞きながら— 連載コラム「命のことば」 伊藤早奈⑮「土」「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。」(創世記1・31) 咲いた、咲いた、チューリップの花が…赤・白・黄色…♪幼い頃よく歌った歌の一つです。でも季節やいろんな状態で彩りを変えて、私たちを和ませてくれるものは花や草木だけではありません。 その中の一つが「土」です。「今朝は白いな。霜が降りてるんだ。」「今日は乾いてる。なんだか暑そう。」そして雨が降ると雨が染み込み黒くなります。 草がいっぱい茂っている時は、真夏の光の中でも草の影になって黒いのに、全く影になっていない所は乾いています。「土」も生きているんですね。「土」はいろいろな思い出を運んでもくれます。 何年か前のイスラエルへの旅でした。そのツアーに参加した皆さんが一緒に乗っていたバスでガイドさんが回すマイクを手にこのツアーに参加した理由を楽しそうに話されていました。私の番が回ってきてマイクを渡された私は「自分の足でこの国の土(土地)を踏みしめたいからです」と言いました。その時は杖をついて歩いていました。いずれ自分は車椅子になって自分の足では歩けなくなるとお医者さんから聞いていても、まさかという思いで半信半疑で言ったのを覚えています。 私たち一人ひとりも自然の一つ一つの全ても神様に造られて「良し」とされて今があります。 「ありがとう神さま」~みんなでつながろう!~
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21-05-01 | るうてる2021年5月号 |
「喜び祝う神」日本福音ルーテル藤が丘教会牧師 佐藤和宏「どうか、主の栄光がとこしえに続くように。/主が御自分の業を喜び祝われるように。(詩編104編31節) 各個教会規則(雛型)第3条には、教会の目的が次のように規定されています。 「この教会は、キリストの命に従って、信仰の交わりをなし、福音の宣べ伝え、みことばを教え、愛による奉仕をなし、これらのことによって神に仕えることを目的とする」。 教会はキリストの命じられたことに従って、伝道をし、教え、人々に奉仕をするのですが、それらはすべて神に仕えるためである、というのです。私はこの「教会の目的」の大切さを共有するため、毎年教会宣教計画の冒頭に、前提として明記することにしています。教会が教会であるために、その目的を見誤ってはならないと思うからです。 教会の宣教と聞くと、私たちは人数や財政といった結果に目を奪われてしまうことがあります。いかに人が増えたか、経済的にどうかなど、これらを宣教の成果としてしまうのです。しかし大切なことは、目的なのだと思うのです。私たちのなす業がいかに乏しく、成果がみえなくとも、それが神に仕えるとの目的に沿う限り、それは尊いのです。反対に、私たちのなす業がどれほど効果的にみえ、人の目に輝いて映ったとしても、神に仕えることを忘れているなら、それは虚しいのです。いずれにしても、私たちが先の教会の目的から知らなければならないのは、教会は内に向かうものではなく、外に向けて働くものであるということです。すべての人々に仕えることを通して、神に仕える。これが教会なのではないでしょうか。 聖霊降臨を指して「教会の誕生日」と言われることがあります。それは聖霊降臨の場面(使徒言行録2章)に、教会が教会であるために欠かせない要素が示されているからにちがいありません。それは「一同が一つになって集まっている(1節)」、 「(霊が)一人一人の上にとどまる(3節)」、「〝霊〟が語らせるままに…話し出す(4節)」の三つです。「〝霊〟が語らせるままに…話し出す」ということですが、宣教は人から出るものではなく、聖霊によるということです。たとえ無力に思われても、聖霊が語らせるままに話し出す、これが教会なのです。そしてそのために、「(霊が)一人一人の上にとどまった」のでした。それは一人一人の違った個性が、それぞれに大切にされているということです。聖霊によって、その一人一人を通して宣教がなされる。これが教会なのです。 「一同が一つになって集まっている」ということについてです。礼拝に集められる私たちは決して同じではなく、違う考えを持った者の集まりですから、違いを認め合い、赦し合いながら集まっていると言えるでしょう。これが一つになるということです。それは牧師によってでも、役員会によってでもなく、ただキリストの名のもとに、違いを尊び、一つとされるのです。そしてこの「一つになる」とは、各個教会にとどまらず、ルーテル教会全体についても、同じように言えるでしょう。ルーテル教会は一つの教会であるのですが、どうしても目に見える各個教会のことを思ってしまいます。しかしキリストの名のもとに、全国のルーテル教会が一つとされているのです。互いの違いを認め合い、大なるものも小なるものも、違いを認めつつ、一つになれる。これがルーテル教会なのだと思います。 「改訂共通聖書日課(RCL)」によると、ペンテコステには詩編104編24節以下が選ばれています。31節に「どうか、主の栄光がとこしえに続くように。/主が御自分の業を喜び祝われるように」とありました。 「主が御自分の業を喜び祝われるように」とは、御自分の業である私たちを含めたすべての被造物を喜び祝われるということなのでしょう。「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」(創世記1章31節)という場面を思い起こします。 私たちが神に喜び祝われるようになるのは、私たちの努力によるのでも、私たちが役に立つからでもありません。ただ、私たちがキリストの名のもとに違いを認め合って一つとされ、植えられたそれぞれの地において、ただ神に仕えるために人々に向かって宣教の業に励むようにと、聖霊が注がれたことによるのです。すべて神の御業によって、私たちは教会とされて生きるのです。神はそのような私たちを、ご自分の業として、喜び祝われるのです。 エッセイ「命のことば」 伊藤早奈⑭「生かされる」「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記2・7) 「この子生きてるのよ。この呼吸器止めたら死んでしまうの。」 生きるって何だろう。そんなことを考えさせられました。この言葉をお母さんから聞いたのは私もその人も入院している時でした。その人に初めてお会いした入院から3カ月で車椅子に乗っておられた状態からあっという間にベッドに寝たきりになり、呼吸器をつけないと息ができなくなられました。 その人は今、瞬きで話しておられ、昨年のコラムでも登場されておられます。 生きるって何でしょう。息を吸うこと?笑ったり泣いたり怒ったりすること?歩くこと?空気が無くなったら生きられない。喜怒哀楽の感情は?運動能力は?私と同じ病気がわかったばかりの方が「自分で歩けなければ人間じゃない」って言っていたことを思い出します。生きるということと人間であるということも違うような気がします。この病気がいいとかあの病気は嫌とか、あの姿はいいけどこれはダメとか。それらは一体誰が決めるんでしょうか。 こんな言葉も聞いたことがあります。「生きていればいいのよ」。自分の家族がほとんど何も食べられなくなり、眠っておられることが多い方のことを言っておられました。神様にとっては、あなたは家族。「そのまま生きていていいんだよ」ときっと言われます。 議長室から
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