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23-12-01るうてる2023年12月号

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「主の母、マリア」

日本福音ルーテル久留米教会・田主丸教会・大牟田教会・長崎教会
牧師 西川晶子

「マリアは言った。「私は主の仕え女です。お言葉どおり、この身になりますように。」」(ルカによる福音書1・38/聖書協会共同訳)

  「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」ルカ福音書の受胎告知の場面で、天使ガブリエルがマリアに告げたこのあいさつは、クラシックの楽曲としても有名な「アヴェ・マリア」の元となった詞の一つです。
 「アヴェ・マリア」は伝統的に「聖母マリアに対し、罪のとりなしを祈る祈り」として唱えられてきたものですが、現代のルーテル教会やプロテスタント諸派においては、マリアを信仰対象とすることはありません。マルティン・ルター自身は当初、アヴェ・マリアを祈っていたこともあるようですが、彼自身の中で福音理解が深まっていくにつれ、ルターの中でマリアを信仰の対象とすることはなくなっていきます。しかしルターは、その後もマリアを軽視していたわけではなく、彼女が「主の母」「神の母」として尊敬されることはふさわしいことである、というようなことを言っています。しかしそれもまた、マリアがもともと私たちとは違う「聖なる方」であったから、というのではありません。
 マリアという人を私たちが想像しようとするとき、絵画などの、すでに母として完成された、包容力のある大人の女性である「聖母マリア」を思い浮かべがちではないでしょうか。しかし、この天使の知らせを受けたときのマリアは、おそらく当時の結婚適齢期とされる年齢の直前、10代前半の少女であったと考える方が自然です。
 それくらいのまだ幼いと言ってもよい少女が、天使に思いがけないことを告げられる。実際、ここでマリアは当初、喜ぶよりもむしろたいへん当惑し、考え込んでいます。マリアの身に突然起こったことは、とうてい信じられないようなことです。そしてこの先いったいどのようなことが起こるか、そもそも家族や婚約者ヨセフをはじめ、周囲の人々がこのできごとを信じてくれるかといったことも含めて、この時のマリアにとって、この受胎告知は、場合によってはマリア自身のいのちの危険さえ引き起こしかねないできごとであったはずです。このとき、マリアが天使の知らせを受け入れることは、神の子を身ごもることに伴って起こる、それらの困難をもまた引き受けるということでもありました。
 最終的にマリアは、天使の言葉に励まされ、「お言葉どおり、この身になりますように」という言葉で、その知らせを受け入れます。おそらくその先に起こることへの不安がなくなったわけではないでしょう。ヨセフとの関係、周りの人からどのように思われるか、また、まだ人として未成熟な自分が母となっていくこと…マリアは、これから自分の身に起こること一つ一つを生きていくことになります。
 私たちがマリアの中に模範となるものを見るとするならば、それは伝統的にマリアに付加されがちであった「清らかさ」「純潔」といったイメージではなく、このとまどいや恐れを抱えながらも、自分の中で始まろうとしている神様の救いのみ業を受け止めた、その「神に信頼して歩みだす姿」ではないでしょうか。
 そしてその中で、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力が」マリアに宿り、マリアを包むのです。これから、自分に起こることを引き受けていこうとするマリアの中に、生きて働く神のいのちが宿っている。マリア自身はただの少女にすぎませんが、しかしそのマリアをとおして、確かに神様のみ業が進んでいったのです。
 今から2000年前、少女マリアの中で始まったできごとによって、この世界のただ中に、神のいのちが受肉しました。神は、私たちの世界のただ中で、ひとりの小さな少女の中から、救いのできごとを始められました。私たちもまた、その神様のいのちに信頼したいと思います。私たちの現実の中にも訪れてくださる神様のいのちの働きを信じ、その方が与えてくださる人生を、勇気をもって引き受けて歩みたいのです。

エッセイ「命のことば」 伊藤早奈

㊺ここにいるよ

「イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。」   ヨハネ20・16

 あれ、こんなに嬉しいんだ自分の名前を呼ばれると。そう思わされたのはある人に「〇〇さんおはようございます」と名前をつけて挨拶されたときでした。
 いろいろな機会に「挨拶するときは相手の目をなるべく見てお名前がわかるときはお名前をお呼びして挨拶をしましょう。」とは言ってきましたが、いざ自分が言われると嬉しいものですね。
 私が言ってきたことは間違いではなかったんだと改めて思いました。挨拶をするときその人の名前を言うと自分に言われたと思い嬉しいですよ。
 このようなことを言われたこともあります。「家の近くに〇〇の木があったのに、香りがしてここにもあったんだと初めて気づきました。」
 香りや花、他と比べて目立たないとわかってもらえないことがあります。「私はここにいるのに」そのようなときがあります。名前さえ呼んでもらえない。木も草も人もいろいろなものがそうであることが少なくないのです。
 でも誰かに気づいてもらえなくても必ずあなたや、木、草、一つ一つの名前を呼んでくださる方がおられます。それは神様です。
何で?それはいつも神様がそうだから。いくらそばにおられても「あなたを大切にしているよ」と囁かれてもなかなか誰にも気づいてもらえない。
 まるで他のものから比べると目立たなかったり、きれいではないからと気づかれず名前も呼んでもらえないいろいろなもののようです。自分の名前を呼ばれるって嬉しいものです。ほらあなたも呼んでみて「〇〇さんおはよう。」

リレーコラム 「全国の教会・施設から」⑦

関野和寛(日本福音ルーテル津田沼教会牧師)

 ルーテル津田沼教会は、1950年に開始されたルーテル市川教会の中山伝道所が前身となり、宣教を開始いたしました。1989年、千葉県習志野市の住宅街、現在の場所に移転し、今日に至っています。最近では30〜40名の対面、約60名のインターネット参加、合計約100名の方々と礼拝を行なっています。
 またインターネットを通しての献金をお献げいただいています。礼拝参加者の4割は既存の教会員、3割は新来会者、3割は他の教会の方々です。会員は高齢世代の方々が多いですが、同時に若者も多く参加しています。
 昨年より信徒牧会者育成を行い、信徒による牧会を実践しています。
 はじめて教会に来た人々への対応、健康上の理由で礼拝に参加できない方々への訪問やケアを信徒が主体的に行っています。今年、東教区、本教会から借入を行い外壁補強工事、そして駐車場をアスファルト化する事ができました。更には大きなピザ窯兼バーベキュー台を備える事ができました。
 また教区の伝道支援制度を用いて75インチ大型モニターを導入、牧師不在時の配信礼拝を試みたり、勉強会、映画会などを行なっています。
 教会の課題としては教会がまだまだ地域の人々が集う場となれていない事があげられます。ハードが整えられた今、今年は11月にオープンチャーチを行い、キッチンカーを呼び、ピザ窯でピザを振る舞い、ミニバザー、音楽会、牧師のレクチャーなどを盛り込んだイベントを行ない近隣の方々をお招きいたしました。ルーテル津田沼教会は「時代の灯火となる」を宣教テーマに掲げております。
 未来の教会の担い手を育て、そしてこの地に生活する人々の心の拠り所となれる教会を目指しています。

認定こども園玉名ルーテル幼稚園 上村 理恵(認定こども園玉名ルーテル幼稚園園長)

 本園は熊本県の北部、玉名市の中心部にあり静かな住宅街に位置しています。1954年に設立され今年70周年を迎えました。2015年に幼稚園から幼保連携型認定こども園に移行し、現在、0~5歳児の123名が在籍しています。
 初代園長の藤田先生は教育理念に「愛と信頼・感謝と希望」を掲げられ、愛されて育った子どもは人を信頼することを覚え、それは感謝の気持ちを育て、自分も人の役に立ちたいと希望を持つ人として成長することができるという、この想いが受け継がれてきました。これからもこの理念を胸に、保育の現場に立たせていただいていることの使命の重さを謙虚に受け止めて用いて下さる神様に感謝し、いつも子どもたちと共に成長できる一人でありたいと思います。
 また、70周年記念事業として新園舎が与えられ、園聖句を「わたしは雲の中にわたしの虹を置く」(創世記9章13節)とし、Restart(再出発)しています。園には虹を架けられた神様がいつも一緒にいて守っていて下さることを感じとることが出来る場所があります。階段踊り場のステンドグラス5枚(平和の虹と鳩・馬小屋のイエス様・ひつじ・ぶどう・天使)、見上げると虹がイメージできる「にじのへや」(ランチルーム)、ノアの箱舟の図書室、園庭への虹の階段etc. 子どもたちの笑顔で平和と希望がいっぱいになるようにと祈りが込められています。
 この70年の歩みに神様と関わってこられた全ての人に感謝して、これからもこの玉名の地でみんなに愛される玉名ルーテル幼稚園としてしっかりと歩んでいきたいと思います。

改・宣教室から

永吉秀人総会議長(日本福音ルーテル蒲田教会牧師)

 このコラムでは、これまでの「議長室から」を改め、「宣教室」から様々なルーテル教会関連の働きについてご紹介しています。
 「改」というシンボルの漢字は、「議長室から」を改めたという意味ではございません。これは今期の旗印として「悔い改め」の意味で掲げた「改」です。
 マルティン・ルターは、「九十五ケ条の提題」の第1条を、「私たちの主であり師であるイエス・キリストが、『悔い改めよ…』(マタイ4・17)と言われたとき、彼は信ずる者の全生涯が悔い改めであることを欲したもうたのである」と書き始めています。
 教会の宣教の歴史を振り返るとき、1517年の宗教改革運動の始まり以来、今日に至るまで、私たち教会は順風のときにも逆境の中でも宣教における様々な創意工夫を重ねてまいりました。今、改めてルターの言葉を聴き直すときに、教会もまたその全生涯が悔い改めとなるよう、イエス・キリストが欲しておられることを聴き取るのです。宣教とは、教会が社会と対峙し、そこに生きる人々と向き合い、これまでの自らの態度を悔い改めることによって起こされる出会いから始まるものでありましょう。
 宗教改革運動によりプロテスタント教会が生まれ始めて間もなく、ローマ・カトリック教会は自らの宣教を巻き返すがごとく、世界宣教を目指して未知の国々へと宣教師を派遣し始めました。このように、宣教とは絶えず前進し続けて来た教会の働きのように見えますが、実は派遣された場所に立ち止まることによってのみ、人々との出会いがあり、宣教の実が与えられて来たように、宣教とは「派遣されたところに立ち止まる」という歴史の積み重ねであったように受け止めています。
 この「宣教室から」というコラムでご紹介する一つ一つの働きは、まさに派遣されたところに立ち止まった人々の証言であり、そこに生きる人々と出会い、そこに寄り添われるキリストと共に生きている証しとして、私は感謝をもって受け取っています。その一つ一つの場から、派遣された人々の立ち止まる勇気に学び、立ち続ける忍耐と連帯し、そこで分かち合われている希望に、読者として私たちもあずかれるならば幸いです。

エキュメニカルな交わりから ⑲日本盲人キリスト教伝道協議会

⻆本浩(日本福音ルーテル神水教会・荒尾教会・松橋教会牧師)

  日本盲人キリスト教伝道協議会(以下、通称の「盲伝」と記します。)で理事をしている⻆本です。理事会は議長、副議長、書記の執行部の方々をはじめ、NCC加盟教会から選出されており、日本福音ルーテル教会からも一人選ばれています。現在、⻆本がこれを担っており、今回、理事としてこの団体について書くよう依頼されました。
 盲伝はコロナ禍の2021年に70周年を迎えました(その記念感謝会は翌2022年に開催)。今、私の手元にある点字キリスト教月刊雑誌『信仰』の最新号は1235号となっています。盲伝の公式ホームページには、「その母体となった「盲人キリスト信仰会」の歴史は大変古く、盲伝の発行している点字雑誌「信仰」…(中略)…この雑誌「信仰」の創刊は1915年(大正4年)にさかのぼります。」と記されているとおり、100年以上のつながりがあることがわかります。
 この文中にある「盲人キリスト信仰会」という名称は今も用いられているところがあります。私が住んでいる熊本でも「熊本地区盲人キリスト信仰会」があり、活動、交流が行われています(名称はそれぞれで、「盲信徒会」といった呼び名が主流かもしれません)。皆様のお住まいの地区ではいかがでしょう。もし活動を耳にされたら、ぜひご参加ください。喜ばれると思います。
 前述した『信仰』による文書活動のほか、点字図書の発行・取り次ぎ、全国修養会を通しての交流などが盲伝のおもな活動内容です。今年の8月にも福岡で1泊2日の修養会が行われ、私も行ってきました。75名ほどが参加され、楽しいひとときでした。
 盲伝事務局のスタッフのおひとりは、札幌教会の安藤惠さんです。みんなが認める盲伝になくてならない存在。締め切りギリギリになってこれを書きながら、この記事は安藤さんに書いてもらった方がよかったな、と後悔しています。より多くを知りたいときはどうぞ安藤さんにお聞きください。これからも盲伝に関わる方々に、神さまの祝福が豊かにありますように。

「教会讃美歌 増補」 解説㊼ 増補51番「愛がないと」

北川逸英(日本ルーテル教団池上教会・杉並聖真教会牧師)

 この歌詞は2011年7月、オートバイにずんどう鍋と肉、スパイスなどを満載し、東北に向かう途中で浮かびました。仙台まで何十㎞もある畑の中で、磯の香りがするのです。3月終わりに調布スタジアムで避難中の方々へ、河田チャプレンと、JELCの方々と共に炊き出した時に聞いた、ご夫婦の言葉が甦りました。
 「みんな変わってしまった。海岸線にあった松林の防風林は、丼にのる海苔のように剥がれた。畑の真ん中には、流された舟や車が突き刺さり、土に埋もれている。あったはずの物が無くなり、あってはならない物がそこに有る」
 この海から遠く離れた場所にも、津波が押し寄せてすべては埋もれてしまった。それでも4ヶ月後、被災者の方々とボランティアの方たちが、懸命に努力された事により、見事に高速道路は復興しました。
 何度か被災地を訪問しました。12年が経ってもまだ人の心には不安が埋もれている。だからこれからも信仰と希望を持って、愛といのちを運び続けます。

解説㊽ 増補51番「愛がないと」・26番「かみさま わたしのとなりびとは だれ」曲解説

西川亜紀(日本ルーテル教団旭川聖パウロルーテル教会会員)

 北の国からこんにちは。日本ルーテル教団から讃美歌委員会に加わっておりました西川です。今回は教会讃美歌増補51番「愛がないと」と26番「かみさま わたしのとなりびとは だれ」の作曲解説をいたします。まず51番「愛がないと」には元々は別のメロディが付いておりました。それは10年以上前に杉並聖真ルーテル教会に通っていた頃、讃美歌を作りたいと思い立って作った曲でした。ところがその一方で詞がなかなか思いつかず、お忙しい北川逸英先生にお願いして詞を作っていただきました。年月を経て新作讃美歌として増補に収録していただくことになった時、北川先生より詞に東日本大震災に対する復興支援の思いが込められていることをお聞きして、それならば私も同じ意識を持って作曲したいと考え、メロディを作り直しました。
 26番「かみさま わたしのとなりびとは だれ」では、讃美歌委員会の公募で採用された奈良部慎平さんの詞に曲を付けさせていただきました。シンプルで分かりやすく、元気なイメージの詞でしたので、教会学校の子供達を思い浮かべながらあっという間にできました。ポイントはサビで転調するところでしょうか。詞の前半にある疑問に対し「みんなともだち となりびと…」と突き抜けた明るさで答えるようなイメージで作りました。ぜひ皆様の教会でも賛美していただけると嬉しいです。

西教区主催「原発問題」学習会報告

秋山仁(日本福音ルーテル豊中教会・神戸東教会牧師・喜望の家代表)

 日本福音ルーテル教会は、2012年の全国総会で、「原発」問題について各教区において学習会を行うことを、申し合わせていましたが、西教区としては本当に遅ればせながら、9月30日(土)午後1時から、大阪教会会議室を会場にして、稔台教会牧師でNCC(日本キリスト教協議会)平和・核問題委員会委員長の内藤新吾牧師を講師として、「原発問題」の学習会をいたしました。
 内藤牧師の原発問題との取り組みは、名古屋に赴任した時に出会った一人の野宿労働者から聞いた、原発の労働現場の話が出発点だったそうです。労働者への安全対策がまったく無視され、労働者は常に被曝のリスクに晒され、そして健康上の保障も何もないまま使い捨てにされていった原発の労働現場。その実態を知ったことから、内藤牧師は原発問題に関わり始めたそうです。
 講演では、地震の多発地域である日本における原発の安全性の問題と、いまだに解決していない原発から生じる「核のゴミ」処理の問題、また、原発の燃料であるウランの採掘現場における労働者のすさまじい被曝の実態などが話されました。そして、何よりも原発の出発点は、広島・長崎に投下された原爆の開発であり、核に関わる全ての国際機関も、核大国による核の管理のためのものであり、「原発は核の平和利用である」という宣伝文句が欺瞞でしかないこと、原発を推進する根本的な動機が、核兵器の開発にあることなどが指摘されました。それはまた、日本政府と産業界による原子力政策の動機でもあるという指摘でもあります。最後には、福島でのALPS処理「汚染」水の排水問題との関連で、核廃棄物の再処理工場からの排水問題について、イギリスやフランスの実例、あるいは六ケ所村の実態をもとに話され、私たち自身が「正確な」情報と資料を注意深く収集することの必要性を強く感じさせられました。
 周知が遅かったため、会場参加が講師を除いて10名、ZOOM参加者は3名と少人数でしたが、2時間にわたり内容の濃い学習会を持つことができました。
 今回の学習会を通して、例えば「原発問題」に関する映画会の上映などという、教区、各地区、各個教会での継続的な取り組みについても、大きな示唆を得ることができました。この学習会を一度きりの企画に終わらせることなく、教会として(宗教界から)倫理的・神学的な視点から原発問題に発言していけるよう、私たちの学びを続けていきたいと考えています。

世界の教会の声

浅野直樹Sr.(世界宣教主事 市ヶ谷教会・スオミ教会牧師)

イスラエルとパレスチナの平和を求める祈り

 エルサレムにある諸教会のリーダーたちは、イスラエルとパレスチナの平和を覚えて、10月17日を祈りと断食の日と定めました。この日、今回の戦争で苦境に立たされた人々や暴力に怯える家族の支援のためにエルサレムで礼拝がありました。LWF加盟教会のパレスチナルーテル教会(Evangelical Lutheran Church in Jordan and the Holy Land)は正義と平和のための祈りを呼びかけました。
 LWFは加盟教会に対して、イスラエルとパレスチナの命を奪われた人々のことを悲しみ、市民の安全と平和のために祈るよう呼びかけています。
 この呼びかけに応えてアメリカ福音ルーテル教会(ELCA)は10月17日を祈りと断食の日としました。インドネシアのルーテル教会(HKBP)は「戦争の終結、人道支援、平和と正義」の祈りをささげることを決定しました。ノルウェーのルーテル教会の監督は信徒に向けて平和の祈りを世界のクリスチャンとともに祈り、戦争の犠牲になったすべての人を覚えてローソクを灯すことを呼びかけました。
 カトリック教会のフランシスコ教皇は世界のカトリック信徒に向けて「聖地の教会と共に祈り、10月17日の火曜日は祈りと断食を」と声をあげました。世界キリスト教協議会(WCC)は「教会、そして心ある人々は、平和のために一致して祈り、愛する人を失った人たちと辛い思いをしている人々への支援を祈り求める」よう呼びかけました。

※詳細についてはWEBサイトをご参考ください。

一日神学校報告

宮本新(日本ルーテル神学校教員・日本福音ルーテル教会牧師)

  今年の一日神学校は、9月23日(土・祝)に4年ぶりにキャンパスに皆さまをお迎えしての対面開催となりました。感染対策が継続されるなかではあるものの、チャペルでの開会礼拝は、久しぶりに大勢の人たちと賛美の声をあわせ、聖餐にあずかり、み言葉の糧を共にした恵み深くもまたよろこびのひとときでした。
 メインプログラムは、「関東大震災100年とディアコニア」をテーマにしたシンポジウムでした。コーディネーターは石居基夫学長、パネリストには、ともにルーテル学院の卒業生でもある髙橋睦氏(東京老人ホーム、常務理事)と山内恵美氏(母子生活支援施設ベタニヤホーム副施設長)をお迎えしました。いずれの施設も今から100年前、関東大震災時のルーテルの救援事業にルーツがあります。やがてそれぞれの働きは、特別養護老人ホーム、養護老人ホーム、軽費老人ホームなどからなる社会福祉法人東京老人ホーム、また墨田区・江戸川区で母子生活支援施設と保育園を運営する社会福祉法人ベタニヤホームへと歩みを進めてきました。
 シンポジウムでは、各パネリストから施設創立の歩みと祈り、そして今日まで施設が大切にされてきたことをお分かちいただきました。普段顔をあわせる機会は多くはないかもしれませんが、教会も施設も共にルーツをひとつにして、わかちあってきたビジョンがあることを確かめるようなひと時でした。あらためて年月とは、ただの数字ではなく、その時代を生きて歩んできた数多くの人たちの足跡と、その祈りの束を伝えるものと思わされました。ディアコニアの100年とはそういう意味なのかもしれません。
 シンポジウム後、いくつもの教会や団体がミニショップを出店し、対面ならではの賑わいを見せました。コロナ禍のオンラインから対面開催に戻すことも、また半日開催でお招きすることも、多くの議論を要し、容易なことではありませんでした。しかしそれでも心を寄せてお集まりいただいたところにある恵みは十分なものでした。お一人お一人の参加と、また遠くにある祈りと支えとに心から感謝を申し上げます。

「聖書日課・読者の集い」報告

松本義宣(ルーテル「聖書日課」を読む会 発行委員代表・日本福音ルーテル東京教会・東京池袋教会・板橋教会牧師)

  久しぶりの「聖書日課・読者の集い」が、10月23日~25日、日本福音sルーテル大阪教会(宿泊は「ホテル・ザ・ルーテル」)を会場に行われました。昨年はオンライン(Zoom)開催でしたが、対面(リアル)では4年ぶりの再開、参加者にとっては「再会」となりました。ブランクのため以前ほどではありませんでしたが、延べ34名の参加者でした。
 今回は、大阪教会の大柴譲治牧師を講師に、「ローマの信徒への手紙」を学びました。先生のご専門である牧会学・カウンセリングと長い牧会経験からの博覧強記、縦横無尽な語り口から、みことば(ローマ書)を通して福音の真髄に触れるお話しを伺いました。2日目夜の恒例「音楽と賛美の夕べ」では、京都教会員の泉川道子さんと大阪教会員で声楽家の森本まどかさんのご奉仕で、「教会讃美歌増補分冊1」からルターの教理コラールを歌い、美しい日本歌曲やオペラ・アリアも堪能しました。
 聖書日課の読者は、本来は各々の場(個人、家庭、諸施設、職場等)で「聖書日課」を通して「みことば」を共有していますが、この会は、顔と顔を合わせて、その恵みと喜びを分かち合う時、共に聖書の学びをするプログラムとして行われてきました。が、コロナ禍のブランクで様々な変化があり、以前は、聖書日課執筆者の研修も同時に行われて、読者と執筆者の交わりの時を持ちましたが、執筆者研修は別途オンライン開催となり、併せて発行委員の交代や事務局機能の移動などもあり、久々の読者の会も変化の中にあるのかもしれません。しかし、確認できたことが一つ、やはり共に集い、共にみことばに触れることの喜び、元々この「聖書日課・読者の集い」が持っていた意義を、コロナ禍でそれぞれの教会、集会、施設での集えない経験を経て、誰もが強く感じたことを、改めて再確認、深く受け止められたのではないかと思います。「聖書日課」の先見性!?です。

TNGユース部門主催 リーダー研修キャンプ報告

竹田大地(TNGユース部門長・日本福音ルーテル天王寺教会牧師)

 9月4日~7日、沖縄にてTNGユース部門主催の「リーダー研修キャンプ」が開催されました。本プログラムは、教会における次世代の担い手を養成するプログラムとして企画されています。参加者は2名でしたが、その分濃密に沖縄の戦争遺構(ガマなど)、普天間基地前での「普天間基地ゲート前でゴスペルを歌う会」、辺野古基地建設地前での抗議活動などをじっくりと体験し、伊江島では戦後、アメリカ施政権下の沖縄で米軍強制土地接収に反対する反基地運動をした阿波根昌鴻氏と活動を共にした謝花悦子氏からお話を聞く機会をいただきました。
 参加者たちは、聖書に学び、実際に沖縄に立つことにより、そこに息づく人びとの声にならぬ声を聞くことの大切さ、弱くされ排除されていく様を目の当たりにすることにより様々な思いと、決意を与えられ「一人一人の心を大切にする、そんな当たり前のことがこれから教会を、世界を担っていく私たちに今最も求められていること」だと感想に記しています。
 来年も沖縄で開催する予定です。どうぞその際には青年の皆様にご案内ください。

第31回春の全国ティーンズキャンプ開催

〈テーマ〉「最強の絆」
〈日時〉2024年3月26日(火)~28日(木)
〈会場〉千葉市少年自然の家(千葉県長生郡長柄町針ヶ谷字中野1591─40)
〈参加費〉
1万5千円(同一家庭から複数参加の場合は1名につき1万4千円)
〈参加対象〉
2005年4月2日~2012年4月1日生まれの方
〈応募締切〉
2024年2月18日(日)
〈申し込み〉
公式ブログよりお申し込みください
 
【同時募集】
スタッフ募集
〈募集人数〉若干名
〈募集資格〉
2005年4月1日
以前生まれの方
キャンプの全日程に
参加できる方
事前に開催される
Zoomでの研修会に
参加できる方

〈スタッフ応募締切〉
2023年12月末日
〈申し込み〉
公式ブログよりお申し込みください

23-12-01主の母、マリア

「マリアは言った。「私は主の仕え女です。お言葉どおり、この身になりますように。」」(ルカによる福音書1・38/聖書協会共同訳)

  「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」ルカ福音書の受胎告知の場面で、天使ガブリエルがマリアに告げたこのあいさつは、クラシックの楽曲としても有名な「アヴェ・マリア」の元となった詞の一つです。
 「アヴェ・マリア」は伝統的に「聖母マリアに対し、罪のとりなしを祈る祈り」として唱えられてきたものですが、現代のルーテル教会やプロテスタント諸派においては、マリアを信仰対象とすることはありません。マルティン・ルター自身は当初、アヴェ・マリアを祈っていたこともあるようですが、彼自身の中で福音理解が深まっていくにつれ、ルターの中でマリアを信仰の対象とすることはなくなっていきます。しかしルターは、その後もマリアを軽視していたわけではなく、彼女が「主の母」「神の母」として尊敬されることはふさわしいことである、というようなことを言っています。しかしそれもまた、マリアがもともと私たちとは違う「聖なる方」であったから、というのではありません。
 マリアという人を私たちが想像しようとするとき、絵画などの、すでに母として完成された、包容力のある大人の女性である「聖母マリア」を思い浮かべがちではないでしょうか。しかし、この天使の知らせを受けたときのマリアは、おそらく当時の結婚適齢期とされる年齢の直前、10代前半の少女であったと考える方が自然です。
 それくらいのまだ幼いと言ってもよい少女が、天使に思いがけないことを告げられる。実際、ここでマリアは当初、喜ぶよりもむしろたいへん当惑し、考え込んでいます。マリアの身に突然起こったことは、とうてい信じられないようなことです。そしてこの先いったいどのようなことが起こるか、そもそも家族や婚約者ヨセフをはじめ、周囲の人々がこのできごとを信じてくれるかといったことも含めて、この時のマリアにとって、この受胎告知は、場合によってはマリア自身のいのちの危険さえ引き起こしかねないできごとであったはずです。このとき、マリアが天使の知らせを受け入れることは、神の子を身ごもることに伴って起こる、それらの困難をもまた引き受けるということでもありました。
 最終的にマリアは、天使の言葉に励まされ、「お言葉どおり、この身になりますように」という言葉で、その知らせを受け入れます。おそらくその先に起こることへの不安がなくなったわけではないでしょう。ヨセフとの関係、周りの人からどのように思われるか、また、まだ人として未成熟な自分が母となっていくこと…マリアは、これから自分の身に起こること一つ一つを生きていくことになります。
 私たちがマリアの中に模範となるものを見るとするならば、それは伝統的にマリアに付加されがちであった「清らかさ」「純潔」といったイメージではなく、このとまどいや恐れを抱えながらも、自分の中で始まろうとしている神様の救いのみ業を受け止めた、その「神に信頼して歩みだす姿」ではないでしょうか。
 そしてその中で、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力が」マリアに宿り、マリアを包むのです。これから、自分に起こることを引き受けていこうとするマリアの中に、生きて働く神のいのちが宿っている。マリア自身はただの少女にすぎませんが、しかしそのマリアをとおして、確かに神様のみ業が進んでいったのです。
 今から2000年前、少女マリアの中で始まったできごとによって、この世界のただ中に、神のいのちが受肉しました。神は、私たちの世界のただ中で、ひとりの小さな少女の中から、救いのできごとを始められました。私たちもまた、その神様のいのちに信頼したいと思います。私たちの現実の中にも訪れてくださる神様のいのちの働きを信じ、その方が与えてくださる人生を、勇気をもって引き受けて歩みたいのです。

「受胎告知」エル・グレコ作・1590年・油絵・大原美術館蔵

23-11-01るうてる2023年11月号

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「老いの神学」

日本福音ルーテル田園調布教会・雪ケ谷教会牧師 田島靖則

「あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。/同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」(イザヤ書46・3b〜4)

 通常この巻頭説教は、季節の聖書日課に基づいて作成されるようです。しかし、コロナ禍以降は私もご他聞に洩れず、毎週の礼拝説教をそれぞれの教会のホームページ上で動画公開しておりますので、日課通りの説教をご希望の方はどうかそちらをご覧ください。
 今から33年前、私は池袋のR大学で「老いの神学」と題した修士論文に取り組んでおりました。当時はまだ20代でしたので、テーマを考えると少々無謀な挑戦だったように思います。当時の私は、高齢者に対してある意味理想主義的なイメージを抱いておりました。歳を重ねるにつれて、人間はより思慮深くなり、その人生には深みが加えられるのだと、そのように想像しておりました。今朝、新聞の「人生相談コラム」で「最近の日本社会には、魅力的な人がいなくなった」と嘆く投稿が寄せられているのを見かけました。回答者は、「今も魅力的な人はいますが、目立つことができなくなったのだ」という分析を披露していました。良い意味でも悪い意味でも、目立つことによってSNSで批判に晒される昨今の風潮の中、誰もが萎縮せざるを得ないというわけです。その結果、他者に無関心に見える人が増えたように感じられる。路上で困っている人を見かけても、手を差し伸べて良いものかどうか尻込みしてしまう。世知辛い世の中になったものだと思います。こうなると、社会はますます無味乾燥な場所に感じられてしまう。私たちが生きているこの社会に、希望を感じている人は一体どのくらいいるのでしょうか?
「あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。/同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」
 私がかかわる教会では、聖書研究会も現在はオンラインで行われます。前任者から引き継いだ旧約聖書イザヤ書の学びを続けています。ご承知のようにイスラエル統一王国は、サウル、ダビデ、ソロモンと3代続いた後分裂します。紀元前721年に北王国イスラエルは滅亡し、紀元前585年に南王国ユダも新バビロニア帝国によって滅ぼされます。バビロンで捕囚民となったユダヤ人は、その46年後に新たな征服者であるペルシャ王キュロスによって解放されます。その46年間の捕囚生活がユダヤ人の存在の根底を揺さぶり、「選ばれた民」としての誇りも、民族の希望も失われたかのように見える惨状を生んだのです。
 まさにそのような、夢も希望も潰えたように見える状況の中で、預言者イザヤは生き残ったユダヤ人たちに呼びかけます。イザヤ書を読み進むと、何もかも失った人たちを奮い立たせることは容易ではないと、思い知らされます。あらゆる言葉を重ねて、ユダヤの人たちをもう一度立ち上がらせようと、必死の思いでイザヤは「神の言葉」を取り継ぎます。
 まず、半世紀にわたる捕囚生活で生まれた神への不信が払拭されなければなりません。何しろ46年間苦しんでいた間、神は一体どこで何をしていたのか?という素朴で根本的な疑問に答える必要がありました。このお話を聞いて、「足あと(Foot Print)」と題された詩を思い出す方もおられるでしょう。1990年代に米国のキリスト教会で、作者不明の詩として話題となったあの詩です。キリストと共に自らの人生を振り返る時、そこにはいつも二人分の足跡が残されているのが見えました。自分の足跡とキリストの足跡でした。でも、不思議なことにその人が人生の中で一番苦しんでいた時には、一人分の足跡しか残されていない。その人はキリストに尋ねます、「私が一番苦しんでいた時に、あなたは何故一緒にいてくださらなかったのですか?」キリストは答えるのです。「あの時私は、あなたを背負って歩いていた」と。
 この「足あと」にモチーフを与えたのは、イザヤ書46章の言葉だと思います。「わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」という神の言葉は、信じるに値する言葉です。今や大切なものはほとんど失われてしまったと感じる時、「あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。」という言葉を思い出したいのです。

エッセイ「命のことば」 伊藤早奈

㊹私も?

天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。」詩編19・2

 「どうしていつも笑っているの?そして何でいつもお礼が言えるの?」と言われ思わずこう聞き返していました。「えっ私笑ってる?」あまりにも最近いろいろなことを経験したので自分は笑い方を忘れているのではないかと不安になっていました。私笑顔を忘れていなかったんだ。
 冒頭の言葉は先日入院したとき隣のベッドの方に言われました。私とは病名は違いますがその方の病気も進行性で苦労されていたから投げかけられた言葉だったのか、どのような気持ちで投げかけられたのか私にはわかりません。その言葉は私に、私は笑顔を忘れていないことも、ありがとうと言える心が残っていることをも思い出させてくれました。そして自分が周りに笑顔と感謝を伝えていたことに気づかせていただきました。用いてられるってこういうことなのでしょうか?
 逆に強いメッセージを込めているものもたくさんあります。その一つによく食卓で見かける絵があります。ただそれを見ると、どれだけの人がその絵の作者を知り、どれだけの人がその絵の意味を…と思うとおかしくなります。ましてや見た人がその絵の解釈をその絵を載せた人の意図しなかった方向で解釈していたとしたら。用いられるってどういうこと?作者は神様です。
 一人一人は神様によって造られました。神様ご自身の勝手な思いではなく一人一人への神様からの愛が込められています。そして一人一人を通して一人一人が出会う人へ神様が愛をお伝えになります。受け取る人それぞれのかたちで。

改・宣教室から

小泉基 宣教室長(日本福音ルーテル 札幌教会牧師)

 ―佐伯さんには、3年前に社会委員会が発行した『多様な性を知るために』の執筆で全面的にお世話になりました。もともとセクシャリティーの事柄について関心をお持ちだったのですか?

 佐伯 長年、小・中学校の養護教諭として仕事をしてきました。小学校で保健室登校を支えて落ちついた子が、中学校で荒れて自殺未遂をしてしまうようなことがあり、その子に宿題をもらった思いで「いのちの学習」に取り組むようになりました。そこから性の問題への関心につながりました。

 ―今の学校現場で、セクシャルマイノリティーの子どもたちは、どんな辛さを経験していくのでしょうか。

 佐伯 誰にも言えずに葛藤を抱えて過ごしている子が多いと思います。友人に言うと嫌われ、いじめられるかもしれない。先生に言うと親に伝わって親が悲しむかもしれないとも思うでしょう。孤立したり、自分を守るために当事者ではないふりをして周囲の差別的な言動に同調したりする子たちもいます。ただ、少しずつですが学校でカミングアウトする子も増えています。学校の性教育指導体制が問われますが、個人で頑張っている教員はおられても、組織としてはまだまだ準備不足です。

 ―キリスト教会の役割について、考えておられることがありますか?

 佐伯 教会は、祈りの場であるとともに出会いの場です。教会員であるなしにかかわらず、迷い悩みを抱える人、悲しんでいる人、困難を抱えている多様な人たちが安心して出入りし、語りあうことができる場です。ただそのことを、当事者たちが知らなければ、また知っていても教会の雰囲気がオープンでなければ、その役割は果たせません。教会員がセクシャルマイノリティーやその他の差別の現状について、学んだり、話し合ったりできれば、この課題について教会の役割が見えてくるかもしれません。

 ―ありがとうございました。大切にしている聖書の箇所があれば、教えてください。

 佐伯 「何事にも時があり」(コヘレトの言葉3・1)です。「置かれた場所で咲く」ことを大切に生きてきました。いろいろ困難な職場で仕事をしましたが、その都度「神様が準備してくださった時と場所」と受け止め、子どもたちとの出会いを感謝し、頑張ることができました。後で、本当に神様が時を選んで与えてくださったと思うことばかりでした。

リレーコラム 「全国の教会・施設から」⑥

日本福音ルーテル千葉教会 小澤周平(日本福音ルーテル千葉教会牧師)

 千葉教会の会堂は、JR総武線稲毛駅から徒歩3分の場所にあります。東教区としては関東の東端。新来会者が足を運びやすい一方で、会員は広い地域から礼拝に集まります。
 都市部の便利さと房総の自然の豊かさを併せ持つ千葉の地にて、1950年代にP. C. ジョンセン宣教師を中心としたルーテル教会の伝道活動が始まりました。西千葉の宣教師館の時代を経て、1956年には稲毛の地に会堂が与えられ、千葉教会の群れが育まれました。初代の会堂は米軍キャンプ用のカマボコ型の質素な建物でしたが、すぐに手狭になりました。より多くの人と礼拝を守るため6年後に会堂を新築。その約30年後に2度目の会堂建築を経験し、現在に至っています。
 宣教活動は地域に意識が向けられてきました。日曜礼拝後の「うどん食堂」(実際には毎週多彩なメニュー)は知る人ぞ知る癒しの空間。道行く若者が招かれたことも。主にある交わりの場によって信仰生活が豊かになった人も少なくなかったことでしょう。バザー等の行事も盛んに行われてきました。また、親子世代は、教会学校だけでなく平日の育児サークルを通して共に成長の機会が与えられました。
 千葉ベタニヤホームとの繋がりも強く、特に若葉区の旭ヶ丘母子ホームおよび旭ヶ丘保育園とは、共に支え合って歩んできました。現在も同施設では、礼拝が守られ、千葉教会の牧師はチャプレンとしての務めを与えられています。
 同じ県内の銚子教会は1950年代から集会を記録する歴史ある群れですが、1969年に横芝教会と合併し、1983年に千葉教会の集会所となりました。現在は、第1日曜日とイースター、クリスマスに礼拝を守り、銚子における信仰者の灯台として輝き続けています。
 近年は、千葉教会も例に漏れず、少子高齢化と感染症拡大の影響で様々な活動の休止と見直しを余儀なくされています。総武地区の教会とも連携しながら、新しい時代の宣教のあり方を模索していきたいです。主の導きを祈りつつ。

九州ルーテル学院幼稚園 谷美和(九州ルーテル学院幼稚園園長)

 1947年、宣教師として九州女学院に赴任されたヘルティ・ブライドル先生を初代園長として旧九州女学院幼稚園が設立されました。学校の体育館の更衣室を保育室として誕生した園児21名の小さな園だったそうです。現在、本園には160名ほどの園児と33名の職員が過ごしています。また開園から76年、4500名余りの卒園生を送り出してきました。今では、親・子・孫といった3世代にわたって入園される方もいらっしゃいます。
 2001年に中学・高校の共学化に伴い校名が変更され、本園もルーテル学院幼稚園へと改称しました。さらに2015年には、0歳から就学までのすべての子どもたちに一環した教育・保育を行うことを目的に、幼保連携型認定こども園へと移行しました。
 学院の同敷地内には、中学・高等学校・大学が併設されており、その一番奥にこども園は位置しています。学院内の恵まれた環境の中にある緑豊かな園庭は、子どもたちにとって神様が下さった宝箱のようなものです。季節ごとに移り変わる身近な自然に親しんで過ごすことができます。ツマグロヒョウモンがさなぎからチョウになるところを観察したり、新入園児さんがダンゴムシを集めているうちに涙が止まったりと、小さな生き物・出来事が子どもたちの目に輝きを与えてくれます。
 コロナが5類になった今年は、年長児が梅を収穫し「うめジュース」を作り保護者の方にも飲んでいただくことができました。美味しいと好評でした。夏にはピーマンの収穫です。塩昆布であえて給食でいただきました。苦手な子どもたちも自分で育てたピーマンだったからか「おいしい」と微妙な笑顔で食べていました。
 神様が与えてくださる恵みに感謝し、人や自然にかかわる体験を通し、一人一人の「感じ方」に向き合い、認め合い、豊かな感性を育んでいきたいと思っています。

世界の教会の声

浅野直樹Sr.(世界宣教主事 市ヶ谷教会・スオミ教会牧師)

LWFアセンブリー報告「キリストの体における一致」

 LWF(世界ルーテル連盟)は、99カ国の150教会が加盟するルーテル教会の世界組織で、信徒総数は七千七百万人を数えます。日本福音ルーテル教会(JELC)は1952年から加盟しています。9月13日から19日にかけてポーランドのクラカウで第13回アセンブリー(総大会)が開催され、約千人が参加者しました。今回のテーマはエフェソの信徒への手紙4章4節から選ばれ「One Body, One Spirit, One Hope(ひとつの体、ひとつの霊、ひとつの希望)」となりました。このテーマに関連してインドネシアの神学者ベニー・シナガ博士が行った講演の一部をご紹介します。
 「私たちはコミュニオンという教会の体を構成しています。体としての教会を一つに保つにせよ、暴力と支配から人の体を守ることにせよ、体はつなぎとめておかねばなりません。」飢えや争い、差別や抑圧など様々な苦しみで人間の体が壊れていると、シナガ博士は呼びかけました。「神の霊は一つ。ですから教会も一つでなければなりません。分裂はあってはならないのです。」「ところが戦争、不平等、暴力、分極化、差別、ヘイト、飢えによってばらばらになっています。」シナガ博士は、クラカウ近郊のアウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所やウクライナ侵攻による戦争といった現代の恐怖を引き合いに出し語りました。チャド、コンゴ、ハイチ、マダガスカル、イエメンなどの貧しい国では子どもたちが飢餓と栄養不良で病気を患い、体が悲鳴をあげています。「世界のどこかが空腹になれば、世界が病気になるのです。」
 COVID-19で数百万人が犠牲になったことに触れその経験から「毎日呼吸している空気の大切さ、家族のありがたさ、一つの体として共に礼拝する教会の大切さ、そして人々の思いやりの尊さが身にしみました。」
 女性牧師のシナガ博士は、女性が今でも暴力や差別、従属、ヘルスケアへの無理解、政治参加の厳しさといった問題が根強いことを指摘しました。そうしたなか、彼女が属するバタックのHKBP教会では大きな進展があり、女性も神学教育を受けられるようになり、1986年にはバタック初の女性按手が誕生、今日まで二千人以上が牧師、説教者、社会奉仕者、伝道師あるいは長老として按手を受けたとのことです。
 シナガ博士は講演を次の言葉で締めくくりました。「キリストの自己犠牲という果実から一つの体が出来上がります。この果実が敵意、差別、拒絶、分極化、戦争、不平等、ヘイト、不義を打ち砕いていくのです。」

※詳細についてはWEBサイトをご参考ください。

「ルーテルアワー」紙を発行しています

佐藤和宏(日本福音ルーテル藤が丘教会牧師・東教区伝道奉仕部)

 「ルーテルアワー」紙は、東教区インターネット伝道が運営する、ウェブサイト「ルーテルアワー」の記事を転載したものです。聖書やキリスト教に興味を持つノンクリスチャンを主な対象と位置づけていますが、インターネット環境のない方にもご覧いただけるようにと、本紙の発行を始めました。
 内容は『人生の問い』(賀来周一先生)、『聖書の学び』(賀来周一先生、内海望先生)、『ルーテル教会の音楽家』(徳善義和先生)、『キリスト教Q&A』(ルターさん)など、それぞれシリーズでお届けしています。信徒の皆さんはもちろん伝道用に適した、分かりやすい内容となっていますから、学校、幼稚園そして保育園でも園児のご家族をはじめ、ノンクリスチャンの職員の皆さんにキリスト教や聖書を知っていただく機会としてふさわしいものです。
 9月には「秋号」(第2号)を発行し、お申し込みいただいた全国の23教会6園に計2338部をお送りすることができました。お申し込みをいただければ、必要部数を無料にてお送りいたしますので、ぜひご検討ください。
 また「ルーテルアワー」では、公式LINEを開設し、記事の更新情報をお届けするとともに、質問等を受け付けています。ぜひお友だち登録してください。
 次号は「クリスマス号」として、12月に発行予定です。これを機に、新規で申し込みたい、クリスマスだから追加で申し込みたい、とお考えの方がありましたら、11月10日頃までに、QRコードよりメールにてお申し込みください。

2023年度ルーテル社会福祉協会総会報告

髙橋睦(東京老人ホーム常務理事ルーテル社会福祉協会会長)

 毎年8月に行ってきた当会の総会(研修会を含む)は、4年ぶりの対面(一部リモート参加を含む)開催が、熊本の慈愛園児童センターを会場に8月21日(月)~22日(火)に開催されました。
 当会会員の10法人とるうてる法人会連合から李事務局長も参加をいただき、リモート参加を合わせるとおよそ70名の総会となりました。
 1日目は、慈愛園の見学、角本浩牧師による開会礼拝の後、九州ルーテル学院准教授西章男先生を講師に迎え、「弱さを誇れる支援者の支え手」というテーマでワークショップを含めた研修を行いました。
 エッセンシャルワーカーと言われる私たちですが、自身もその痛みを抱え、その痛みを職員間で軽くしたり和らげたりすることにより、よい援助ができる事を学びました。現場を思い出しながら演じて実感したり、確認したりと普段出さない大きな声や笑顔があふれた研修となりました。そのような現場に卒業生を送り出す学校の教師の立場から、講師の西先生自身もソーシャルワーカーとして感じていたこと等、お土産一杯の研修となりました。
 夜は、慈愛園傍の店を貸し切り(感染症対策)で楽しい懇親会。久しぶりの顔や、リモートでの打合せだけの仲間と会うことができ、大いに盛り上がっています。
2日目は、22年度事業及び決算の報告、23年度の計画、予算の説明を行い、(承認は書面で実施)次回開催の地域、方法などについて提案・協議を行いました。
 会場からは、「今回の総会を踏まえ、研修部分は、リモートによる参加を併用することに合わせて、さらに録画の配信を行えば、平日の同じ時間には参加できない職員も参加が可能なので、そのようにして欲しい」という提案もありました。
 その後の時間はアピールタイムとし、ベタニヤホーム、東京老人ホーム、光の子会が創立100周年や日々の活動についてのアピールを行いました。
 全プログラム終了後、小泉嗣牧師による祈りをもって閉会しました。

「教会讃美歌 増補」 解説㊺ 増補48番 「まことに まことに」

北川逸英(日本ルーテル教団池上教会・杉並聖真教会牧師)

 48番は歌集『うたえ 暗闇にとどまることのないように』からの転載です。作者は援助修道会のシスター・クララ・三浦ふみ氏。2018年7月28日に、聖イグナチオ教会で終生誓願を立てられました。シスター三浦は学生時代から、日本でテゼ共同体の祈りを紹介し歌い続ける、日本聖公会の植松功氏と共に、チェロ演奏などで活動に参加されてきました。
 2016年フランス留学中に、植松氏を通じて増補試用版をお送りした際には、日本語の歌を懐かしまれて、宿舎で掲載32曲をすべて歌われ、貴重な示唆を与えてくださいました。心より感謝します。
 この歌はルカによる福音書23・43のイエスさまのみ言葉から生まれました。「まことに」と訳されている言葉は、ギリシャ語でアーメン。イエスさまの「そのようになる」という強い約束のみことばです。この歌は多くの人が愛する、テゼ共同体の歌「イエスよみ国に(Jesus,remember me)」のAnswer Song=応答歌です。
 「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」というルカによる福音書23・42の罪人からの願いに、イエスさまは「アーメン」と、力強く答えてくださいます。

解説㊻ 増補49番「わたしたちが暗闇に留まることのないように」

北川逸英(日本ルーテル教団池上教会・杉並聖真教会牧師)

 この歌は歌集『うたえ 暗闇にとどまることのないように』の表題曲です。タイトルに(キリストは光として)という言葉が付され、作詞者名は無く、書き出し歌詞の後に(ヨハネによる福音書12・46)と記されます。
 「短い言葉をくり返し唱える」という祈りの歌の形式は、昔から礼拝の伝統にあったようです。しかし、フランスにある超教派の男子修道会テゼで歌われる歌は、そのような形式の歌・祈りのすばらしさをあらためて人々に伝え、テゼの歌は世界中で歌われるようになりました。」(歌集『うたえ暗闇にとどまることのないように』改訂増補版の巻頭言「聖霊がわたしたちの中で歌い 聖霊がわたしたちの中で祈る」冒頭より抜粋)
 この歌集は、テゼによって起こった、エキュメニカルな運動から日本で生まれました。これまで日本で歌われた賛美歌の多くは、外国語歌詞に合わせて作られた曲に、翻訳日本語歌詞を載せて歌うものでした。しかしいま、塩田泉司祭の作品を中心に、日本語聖書の言葉がそのまま歌われます。わたしたちは共に主を賛えて主に祈る、一つの教会へと誘われています。

公告

この度左記の行為を致しますので、宗教法人法第23条の規定に基づき公告致します。

2023年11月15日
宗教法人日本福音ルーテル教会

代表役員 永吉秀人
信徒利害関係人 各位
横浜教会土地一部売却
所在地 横浜市神奈川区松ケ丘
所有者 日本福音ルーテル教会
地番  8番5、8番4の一部
地目  宅地
地積 2筆合計1046.3平方メートル(公簿)の一部425.57平方メートル
価格 1千万円
理由 売却のため(売却先田畑顕蔵様
(株)コーラム企画)

23-11-01老いの神学

「あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。/同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」(イザヤ書46・3b〜4)

 通常この巻頭説教は、季節の聖書日課に基づいて作成されるようです。しかし、コロナ禍以降は私もご他聞に洩れず、毎週の礼拝説教をそれぞれの教会のホームページ上で動画公開しておりますので、日課通りの説教をご希望の方はどうかそちらをご覧ください。
 今から33年前、私は池袋のR大学で「老いの神学」と題した修士論文に取り組んでおりました。当時はまだ20代でしたので、テーマを考えると少々無謀な挑戦だったように思います。当時の私は、高齢者に対してある意味理想主義的なイメージを抱いておりました。歳を重ねるにつれて、人間はより思慮深くなり、その人生には深みが加えられるのだと、そのように想像しておりました。今朝、新聞の「人生相談コラム」で「最近の日本社会には、魅力的な人がいなくなった」と嘆く投稿が寄せられているのを見かけました。回答者は、「今も魅力的な人はいますが、目立つことができなくなったのだ」という分析を披露していました。良い意味でも悪い意味でも、目立つことによってSNSで批判に晒される昨今の風潮の中、誰もが萎縮せざるを得ないというわけです。その結果、他者に無関心に見える人が増えたように感じられる。路上で困っている人を見かけても、手を差し伸べて良いものかどうか尻込みしてしまう。世知辛い世の中になったものだと思います。こうなると、社会はますます無味乾燥な場所に感じられてしまう。私たちが生きているこの社会に、希望を感じている人は一体どのくらいいるのでしょうか?
「あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。/同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」
 私がかかわる教会では、聖書研究会も現在はオンラインで行われます。前任者から引き継いだ旧約聖書イザヤ書の学びを続けています。ご承知のようにイスラエル統一王国は、サウル、ダビデ、ソロモンと3代続いた後分裂します。紀元前721年に北王国イスラエルは滅亡し、紀元前585年に南王国ユダも新バビロニア帝国によって滅ぼされます。バビロンで捕囚民となったユダヤ人は、その46年後に新たな征服者であるペルシャ王キュロスによって解放されます。その46年間の捕囚生活がユダヤ人の存在の根底を揺さぶり、「選ばれた民」としての誇りも、民族の希望も失われたかのように見える惨状を生んだのです。
 まさにそのような、夢も希望も潰えたように見える状況の中で、預言者イザヤは生き残ったユダヤ人たちに呼びかけます。イザヤ書を読み進むと、何もかも失った人たちを奮い立たせることは容易ではないと、思い知らされます。あらゆる言葉を重ねて、ユダヤの人たちをもう一度立ち上がらせようと、必死の思いでイザヤは「神の言葉」を取り継ぎます。
 まず、半世紀にわたる捕囚生活で生まれた神への不信が払拭されなければなりません。何しろ46年間苦しんでいた間、神は一体どこで何をしていたのか?という素朴で根本的な疑問に答える必要がありました。このお話を聞いて、「足あと(Foot Print)」と題された詩を思い出す方もおられるでしょう。1990年代に米国のキリスト教会で、作者不明の詩として話題となったあの詩です。キリストと共に自らの人生を振り返る時、そこにはいつも二人分の足跡が残されているのが見えました。自分の足跡とキリストの足跡でした。でも、不思議なことにその人が人生の中で一番苦しんでいた時には、一人分の足跡しか残されていない。その人はキリストに尋ねます、「私が一番苦しんでいた時に、あなたは何故一緒にいてくださらなかったのですか?」キリストは答えるのです。「あの時私は、あなたを背負って歩いていた」と。
 この「足あと」にモチーフを与えたのは、イザヤ書46章の言葉だと思います。「わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」という神の言葉は、信じるに値する言葉です。今や大切なものはほとんど失われてしまったと感じる時、「あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。」という言葉を思い出したいのです。

瞑想する哲学者 レンブラント・ファン・レイン 1632年 ルーブル美術館

23-10-01不信仰を赦す神

「その子の父親はすぐに叫んだ。『信じます。信仰のないわたしをお助けください。』」(マルコによる福音書9・24)

 「不信仰は主要な罪であり、すべての罪の中の罪であるのだから、罪の赦しとはもっぱら不信仰の赦しであるに違いない。」アメリカのルーテル教会の神学者であるロバート・ジェンソンは、その神学的自伝の中で自身の神学生時代を振り返り、当時強く影響を受けた19世紀スウェーデンの信徒説教者カール・オロフ・ロセニウスの言葉を紹介します。ロセニウスは、神が私たちの不信仰―神を信じられないということ―を赦されると言うのです。そしてジェンソンは、それまでこの当たり前のことに気が付かなかったと告白します。
 1521年のヴォルムス国会で帝国アハト刑を受けたマルティン・ルターは、その帰途、誘拐を装って姿を消します。それは、彼の領主がルターを守るために行ったことでした。そこから1年近く、ルターは安全のためヴァルトブルク城にかくまわれて過ごしました。その間、精力的に取り組んだ執筆活動には、1522年に出版された新約聖書の翻訳も含まれます。ルター不在のヴィッテンベルクではしかし、ルターの同僚たちの手によって改革が急激に推し進められました。急進的な改革は街に混乱をもたらし、それは騒乱へと発展します。そのような中、1522年3月にヴィッテンベルクへ帰還したルターは、1週間にわたって説教を行います。それは、ヴァルトブルクに留まるように言う領主に対して、ヴィッテンベルクの教会の招聘を受けた牧師であることを根拠に自分の帰還を正当化した彼のアイデンティティによく合致したものでした。
 同年5月から翌年初頭にかけて、ルターはペトロの手紙一の連続説教を行います。彼は、この書簡の冒頭に登場する「イエス・キリストの使徒ペトロ」の「使徒」という言葉を、「語る者」、「口頭で宣べ伝える者」と、若干強引とも思える解釈をして、「書かれた文字」ではなく、「生きた声」である説教を一ペトロ全体のテーマに据えます。そうして行われた連続説教は、ある種、福音説教についての説教と言えるような内容でした。福音説教とは何かを明確にし、説教者を育てることこそ、まだはじまったばかりの改革運動には何よりも必要なことだったのでしょう。ルターの同僚さえも改革を急進的に推し進め、混乱を引き起こす中では、福音をはっきりと語る説教こそが求められていたのです。混乱した街を回復させ、教会改革を進めるためにルターが最重要視し、また最優先に取り組んだことが福音の説教であるということは、言い換えれば、ルターがどれほど、説教―宣べ伝えられた神のことば―がその聞き手に働く力を信頼していたかということでもあります。説教を神が語る出来事として捉えていたルターは、他の何ものでもなく、説教をこそ、伝道の要に据えたわけです。
しかしルターは、人間の限界をも理解していました。たとえ説教者が神のみことばと格闘し、言葉を慎重に選んで十分に準備した説教をもって福音を明確に語ったとしても、それでも人間の力によっては、説教者自身にも、また、説教を聞く者にも信仰をもたらすことができないと、ルターは知っていたからです。語られたみことばを通してその聞き手のうちに信仰をつくりだすことができるのは神だけであると、信仰とは、神が私たちに働かれる神の業であると、ルターは知っていたからです。しかしだからこそ、ルターはみことばが語られることを、説教を、伝道の中心と理解しました。全力を尽くしてもなお不完全である人間を神があえて用い、信じられないという葛藤を生きる私たちに語るということである説教を通して働く神の恵みと憐みを、彼は信頼したのです。
宗教改革をおぼえるこの時期、私たちはあらためて立ち返ります。信じられない私たちに語りかけ、私たちの不信仰をも赦して私たちをその愛する子どもとする神こそが、私たちの神であるというよい知らせに、そしてそれが何よりも、説教を通して私たちのもとに届くのだということに。アーメン。

聖マリエン聖堂(ヴィッテンベルク)の祭壇画(下部) ルーカス・クラナッハ作・1547年

23-10-01るうてる2023年10月号

機関紙PDF

「不信仰を赦す神」

日本福音ルーテル三鷹教会牧師・ルーテル学院大学チャプレン 高村敏浩

「その子の父親はすぐに叫んだ。『信じます。信仰のないわたしをお助けください。』」
(マルコによる福音書9・24)

 「不信仰は主要な罪であり、すべての罪の中の罪であるのだから、罪の赦しとはもっぱら不信仰の赦しであるに違いない。」アメリカのルーテル教会の神学者であるロバート・ジェンソンは、その神学的自伝の中で自身の神学生時代を振り返り、当時強く影響を受けた19世紀スウェーデンの信徒説教者カール・オロフ・ロセニウスの言葉を紹介します。ロセニウスは、神が私たちの不信仰―神を信じられないということ―を赦されると言うのです。そしてジェンソンは、それまでこの当たり前のことに気が付かなかったと告白します。
 1521年のヴォルムス国会で帝国アハト刑を受けたマルティン・ルターは、その帰途、誘拐を装って姿を消します。それは、彼の領主がルターを守るために行ったことでした。そこから1年近く、ルターは安全のためヴァルトブルク城にかくまわれて過ごしました。その間、精力的に取り組んだ執筆活動には、1522年に出版された新約聖書の翻訳も含まれます。ルター不在のヴィッテンベルクではしかし、ルターの同僚たちの手によって改革が急激に推し進められました。急進的な改革は街に混乱をもたらし、それは騒乱へと発展します。そのような中、1522年3月にヴィッテンベルクへ帰還したルターは、1週間にわたって説教を行います。それは、ヴァルトブルクに留まるように言う領主に対して、ヴィッテンベルクの教会の招聘を受けた牧師であることを根拠に自分の帰還を正当化した彼のアイデンティティによく合致したものでした。
 同年5月から翌年初頭にかけて、ルターはペトロの手紙一の連続説教を行います。彼は、この書簡の冒頭に登場する「イエス・キリストの使徒ペトロ」の「使徒」という言葉を、「語る者」、「口頭で宣べ伝える者」と、若干強引とも思える解釈をして、「書かれた文字」ではなく、「生きた声」である説教を一ペトロ全体のテーマに据えます。そうして行われた連続説教は、ある種、福音説教についての説教と言えるような内容でした。福音説教とは何かを明確にし、説教者を育てることこそ、まだはじまったばかりの改革運動には何よりも必要なことだったのでしょう。ルターの同僚さえも改革を急進的に推し進め、混乱を引き起こす中では、福音をはっきりと語る説教こそが求められていたのです。混乱した街を回復させ、教会改革を進めるためにルターが最重要視し、また最優先に取り組んだことが福音の説教であるということは、言い換えれば、ルターがどれほど、説教―宣べ伝えられた神のことば―がその聞き手に働く力を信頼していたかということでもあります。説教を神が語る出来事として捉えていたルターは、他の何ものでもなく、説教をこそ、伝道の要に据えたわけです。
しかしルターは、人間の限界をも理解していました。たとえ説教者が神のみことばと格闘し、言葉を慎重に選んで十分に準備した説教をもって福音を明確に語ったとしても、それでも人間の力によっては、説教者自身にも、また、説教を聞く者にも信仰をもたらすことができないと、ルターは知っていたからです。語られたみことばを通してその聞き手のうちに信仰をつくりだすことができるのは神だけであると、信仰とは、神が私たちに働かれる神の業であると、ルターは知っていたからです。しかしだからこそ、ルターはみことばが語られることを、説教を、伝道の中心と理解しました。全力を尽くしてもなお不完全である人間を神があえて用い、信じられないという葛藤を生きる私たちに語るということである説教を通して働く神の恵みと憐みを、彼は信頼したのです。
宗教改革をおぼえるこの時期、私たちはあらためて立ち返ります。信じられない私たちに語りかけ、私たちの不信仰をも赦して私たちをその愛する子どもとする神こそが、私たちの神であるというよい知らせに、そしてそれが何よりも、説教を通して私たちのもとに届くのだということに。アーメン。

エッセイ「命のことば」 伊藤早奈

㊸できるよ

 「ここでいう主とは、〝霊〟のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。」コリントの信徒への手紙二3・17

 カタン、カタン、ゴトゴトゴト。
 「カーテン開けてもいいですか?」シャー。入院中お一人おひとりのベッドはカーテンで仕切られていました。
 朝、一人の方のカーテンを開けるとその方はベッドの上に乗って何かをされておられ、いつも寝たきりが多かった方が今ベッドの上に乗って荷物を整理されている。
 「やれるうちにやっちゃいたいと思ってさ」いつもと比べると信じられないほど動いておられました。
 やれるうちに…。あっ同じだ。私も治療がうまく効いたとき、急にできたことがあり(すぐにできなくなったが)、できるうちにと頑張った覚えがあります。こんなに極端でなくても私たちは多かれ少なかれできなくなる経験をします。怪我であったり病気であったり。そして誰もが変化を感じるのは老いかもしれません。
 もう秋になります。新緑に輝いていた木々の葉のほとんどはやがて風に吹かれたりして地面へと落ちていきます。
 その姿に自分を写して悲しむ主人公に「変化は悲しいものではないよ。当たり前のことなんだ。」と語られる絵本のシーンを思い出します。
 地面へと落ちた葉は地面を温め新しい命を育みます。失った能力や人やもの、立場かもしれません。それらのことに囚われて今用いられていることに気付かないだけなのかもしれません。できたことができなくなるって病気のせいであっても、怪我のせいでも、老いの結果でも辛いし悲しいです。前はできたのにと思う事もあります。
 ただ「今のあなたが大切だよ」と語られています。

改・宣教室から

小泉基 宣教室長(日本福音ルーテル 札幌教会牧師)

熊本で行われたルーテル社会福祉協会の総会の後、運営委員のひとりである光の子会の山下学さんにお話しを伺いました。
 ―山下さんは光の子会では、どのようなお働きをなさっておられるのですか?
 山下 光の子会は、障がい児者支援にかかわる6つの事業を展開していますが、その中で私が園長を任じられているのは児童発達支援センター光の子学園です。簡単に言うと知的障がいのあるお子さんの特別支援幼稚園のような働きを担う場でです。3才から6才までのお子さん36名が毎日通ってきます。
 ―お子さんたちは可愛いのでしょうね。
 山下 めっちゃ可愛いです。子どもたちに癒やされながら毎日の働きを覚えています。
 ―とはいえ、障がい児の支援には難しいこともあると思います。
 山下 そうですね、一番難しいのは保護者への支援です。お母さんたちの多くは、自分が障がいのある子どもを産んだことをマイナスに受け留めていて、独りでその責任を背負ってしまっています。ですから保護者学習会などで、あなたの責任ではなくそれは神さまのご計画です。神さまのつくられた命には全てに役割や目的があり、全ての子どもが宝です。だから独りで背負わずみんなで育てていきましょうと話しています。また、保護者自身が障がいや精神疾患を抱えていたり、虐待ハイリスク家庭のケースもあります。職員とともに支援に取り組んでいますが、通所ならではの難しさもあり簡単ではありません。
 ―山下さんが障がい者福祉の道を歩まれることになったきっかけを教えてください。
 山下 大学で心理学を学び、教職(特殊教育教諭)課程の教育実習を養護学校(現特別支援学校)で1ヶ月間経験したことが方向転換の契機となりました。母教会に障がい者が多く集っておられたことも背景にあったかもしれません。
 ―ご自身の教会での経験もおありだったのですね。大切にしている聖書の言葉があれば、教えてください。
 山下 「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(マタイによる福音書25・40)。〝最も小さい者〟は、人々によって小さくされている命と理解しています。そこに主の手を伸べる役割を担わせていただいている。それが私の福祉観のベースを成し、召命をいただいていると受け留めています。
 ―やさしさと強い意志を感じられるお話しを聴かせていただきました。ありがとうございました。

「教会讃美歌 増補」 解説㊸ 増補46番 「喜ぶ人と共に」

北川逸英(日本ルーテル教団池上教会・杉並聖真教会牧師)

 46番から49番の4曲は歌集『うたえ 暗闇にとどまることのないように』からの転載です。この歌集は、「黙想と祈りの集い準備会」により、テゼの歌に触発され「日本でも同じ様に歌いたい」という強い願いに応えて2012年に初版、2015年に改訂増補版が出版されました。掲載曲91曲中、塩田泉司祭の作品が60曲を数え、この歌集の柱となっています。
 「喜ぶ人と共に」は、ローマの信徒への手紙12章15節から着想を得て、作詞も塩田泉司祭が行われました。この詩は塩田司祭が暮らす共同体での、毎日の営みが感じられます。小高い丘の中腹にある見晴らしのよい美しい村で、主を中心にして、共同生活を営む人たちの上に与えられる、豊かなキリストの愛と、吹き渡る聖霊の風を感じます。中庭には聖母子像が置かれ、台座には「愛」「LOVE」と併記され、海外からの客人も多く受け入れられます。
 「黙想と祈りの集い準備会」の中心メンバーであり、歌集「うたえ・・・」にも賛美歌を提供する植松功さんはよく「歌うことは祈ることです」と言われています。みなさまどうぞ、祈りをもってゆっくり、何度も繰り返しお歌いください。

「教会讃美歌 増補」 解説㊹ 増補47番 「こうふくは しづかなせかい」

北川逸英(日本ルーテル教団池上教会・杉並聖真教会牧師)

 作詞者八木重吉は1898年東京府南多摩に生まれます。そこに今も記念館があって、代表作「素朴な琴」の詩碑が建っています。
この詩は死後に刊行された第2詩集『貧しき信徒』(1928年)に収められています。重吉は1927年10月25日深夜ふいに「かわいい、かわいい、とみ子」と呟き昏睡。翌日29歳で帰天。22歳の妻とみ子に4歳の桃子、2歳の陽二が残されました。しかしこの子たちも、父親と同じ肺結核で思春期に相継ぎ帰天。彼女の悲嘆を思う時、八木重吉の詩(うた)が、とみ子を強く励ましたと信じます。
 この詩は大正13年10月に編まれた「欠題詩群(一)」の中にありました。その96編の作品中に3つだけ、題のついている詩があります。かっこが付いた(わが児)と、題名だけが明記された、幸福人Ⅰと幸福人Ⅱです。
 何を思って重吉はこの詩を作り「幸福人Ⅱ」と名付けたのか。またどうやって塩田司祭はこの詩を見出し、そこにメロディーを付けられたのか。静かで美しいこの歌は、山上湖のような深い不思議を秘めています。

世界の教会の声

浅野直樹Sr.(世界宣教主事 市ヶ谷教会・スオミ教会牧師)

氷河のレクイエム ドイツの気候変動と教会

 先頃ドイツ最高峰の山の頂上で行われたある祈りが注目を集めました。 消えゆくアルプスの氷を悼む鎮魂、氷河のレクイエムです。
 ツークシュピッツェは標高2962メートル。ドイツにある4つの氷河のうち2つがここにあります。バイエルンのルーテル教会とミュンヘンのカトリック教会の聖職者たちは、気候変動と創造の保全をアピールするため、ここでエキュメニカルな祈りをささげました。
 ウィルヘルム牧師らは7月25日、「消えゆくシュニネーファーナー(ドイツにある最大の氷河)、大自然そしていのちを育む将来の環境のための祈り」を、アルプスで一番人気の観光スポットでささげました。選ばれた聖句は詩編121編「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか」。消滅する氷河を悼み、気候変動の課題に共に取り組もうと呼びかけました。
 北シュネーフェルナーは、2030年までにはもはや氷河と呼ぶことはできないと科学者は言います。2014年から2022年にかけて3分の1の氷が消えました。当初、最深部で39メートルあったのが昨年は27メートルに。世界気象機関によるとスイスのアルプスでも2001年から2022年にかけて3分の1の氷が消失しています。
 気象危機は今や牧会的な課題になったとウィルヘルム牧師は言います。「氷河が小さくなり人々が動揺しています。かつてここで生活していた人たちはとてもショックを受けています。気候変動は人々の不安を募らせ、牧会的な課題になりました。ツークシュピッツェの麓で暮らす人たちは、頂上にはもはや瓦礫と岩石しかないとショックを受けています。」
 レクイエムに参加した一人バーバラさんは、「ツークシュピッツェの氷河は永遠の氷」だと学生時代に習ったことを思い起こし、永遠の氷が消えてなくなると聞かされ心を痛めています。
 レクイエムでは教会音楽家のロヒナー氏が作曲した「永遠の氷の果てへのエレジー」が演奏されました。3人の歌手が不協和音を奏でて詩編81編から「わたしの民よ、聞け」と歌うと、それにあわせてボンゴがゆっくりリズムを刻み悲しみの音を響かせました。
 避けられない悲しい現実に直面しつつも、ハンメル牧師はこの異例のレクイエムによって希望を鼓舞して、力を合わせて気候変動に取り組もうと呼びかけました。「この頂にサハラ砂漠の砂が舞い、燃えさかるブラジルのジャングルの灰が飛び交い、都会のすすと埃、全世界の塵がここにあります。氷河、人々、気候、植物、動物、私たち全てはつながっているのです。」

※詳細についてはWEBサイトをご参考ください。

キリストと出会った+なかまと出会った!東海教区青年会+外国メンバー修養会2023

徳弘浩隆(日本福音ルーテル高蔵寺教会・復活教会牧師・東海教区外国人宣教担当)

 8月12日、青年と外国メンバー、サポーター達15名が夏の渥美半島に集まりました。みのり教会田原礼拝所をお借りして礼拝とワークショップ、海辺BBQ公園で昼食と交流会。礼拝は現地教会一部メンバーも参加して下さり25名。「自己紹介・神様紹介(あかし)」ではみな日本語で頑張り楽しく交流しました。8カ国に関係ある人たちの集まり。外国や各地のお菓子ボックスで教会にお礼をしましたが、教会からは飲み物やスイカも頂き感謝でした。
 バーベキューは木陰を予約、あずまやの場所取り、ミストシャワーも使い万全の態勢。楽しく、おいしい時間でした。交流会は外国メンバーが企画進行。スプーンでビー玉運び競争。生まれた所と違い、驚いたり失敗した事を披露しあい、楽しく文化の違いを実感する「カルチャーショック大会」は面白い失敗談ばかり。「おてら」と「おてあらい」を言い間違えた失敗談を披露してくれたベトナム女性メンバーが優勝!教会「スタンプラリー」カードを配って数えてみると、中国帰国メンバーが1位で2位は女性青年メンバー。楽しい表彰式と賞品も。最後は、みんなの手でハートを作って写真撮影(写真下右)。「キリストの平和を心に、仲間と世界に平和を」のテーマを形にし、神のハート(愛)のなかに自分たちがいることも確認しました。
 参加者の声を拾うと、「荷物運びがあり前泊もしました。海で泳ぎ夕陽もキレイでした。集会もとても楽しかった。今年結婚しました。高蔵寺教会でもお祝いしてくれうれしかった」とベトナムから来て5年のHopくん(集合写真前列最右)。「近年青年は少なく残念ですが、渡邉先生が地道にZoom集会をしてくれています。昨年クリスマス以来で、みんなと会えて楽しかったです。ハートの写真も大切にします」と青年代表の古川のぞみさん(後列右から3人目)。今後も各教会を訪ね、青年や外国メンバーともつながり、広げたいですね。

ルーテル幼稚園保育園連合会研修会報告

田島靖則(ルーテル幼稚園保育園連合会役員・日本福音ルーテル田園調布教会・雪ヶ谷教会牧師)

 コロナ禍にあって久しく開催が見送られてきた対面形式の研修会が、8月8日(火)広島教会礼拝堂にて行われました。今回は総会を兼ねた設置者・園長研修会であり、主題を「平和」とし、塩冶節子さんの被爆証言を聞き、広島女学院所蔵の被爆ヴァイオリンの演奏を聴く機会にも恵まれました。
 就学前の園児たちを対象とした平和教育には、特別な配慮が必要とされます。原爆の地獄絵図が子どもたちに、ただただ恐怖心を植え付けてしまうのでは、かえって逆効果です。しかし今回の講師であった塩冶節子さんは5歳の時に被爆された方で、5歳児の目から見た被爆体験を語ってくださいました。親しかった2人のお友達の名前を挙げて、原爆投下後にその2人のお友達が犠牲になったことを知ったというのです。5歳の子どもにとって、戦争は親しいお友達を奪い、家族を奪い、優しかった近所のお兄さんお姉さんを奪うものだったのです。おどろおどろしい表現はあえて採らず、とてもシンプルな表現を用いることで、幼児を対象とした平和教育の新しい可能性を考えることができました。
 被爆証言とヴァイオリン演奏会を企画してくださった、谷の百合幼稚園の橋本園長のご協力に感謝いたします。また、会場を提供してくださった広島教会の立野牧師の「子ども食堂」への取り組みを学び、当日行われていた「だれでも食堂」を見学しながら食事をいただく機会にも恵まれました。
 第二部の総会では、2024年度からの新しい役員が3つの地区からそれぞれ2人ずつ選ばれました。今までのように、関東と九州で交互に役員を選出する方法を改め、すべての地区から役員を選ぶことが可能となりました。これは、コロナ禍によってリモート会議の利点が認識された結果であり、対面開催の役員会の頻度を減らしても、全国規模のネットワークを常に保つことが可能になったということです。全国でキリスト教保育の働きを続ける、ルーテル教会の関係園のために、どうかお祈りください。

リレーコラム 「全国の教会・施設から」⑤

日本福音ルーテル仙台教会 長島慎二(日本福音ルーテル仙台教会代議員)

  仙台教会の伝道は長沼三千夫牧師によって始められました。1957年8月4日(日)、現在地の近くの家を借り、六畳間で第1回の礼拝が行われました。出席者は牧師家族と小泉あや子姉でした。2年後の1959年、宮町に拠点を移し、1962年12月に教会堂および牧師館が完成しました。長沼牧師とともに最初期の伝道を担ったのがJerry C. Livingston宣教師でした。1955年にサウスカロライナ大学を卒業した後、1958年、コロンビアにあるルーテル神学校を修了と同時にUnited Lutheran Church of Americaの牧師として叙任されました。日本伝道のために船旅で横浜に到着したのが1959年9月4日。大学時代に出会った奥様と17カ月のお嬢様を伴っていました。2年間の語学研修を了えた後、1961年12月に仙台教会に赴任なさいました。その後、通木一成牧師の時代の1971年に東教区鶴ヶ谷開拓伝道実行委員会が設置され、東教区内において一坪献金運動を開始しました。1973年4月7日、「社会福祉法人東京老人ホーム鶴ヶ谷保育所希望園」として鶴ヶ谷開拓伝道献堂式が挙行されました。最初は、希望園のホールで礼拝をしていた鶴ヶ谷教会は、1987年、現在の教会堂を建設しました。仙台地区は、仙台教会と鶴ヶ谷教会がそれぞれの役割を担い伝道を続けてきましたが、昨年より組織合同をし、ひとつの仙台教会となり、宮町礼拝堂と鶴ヶ谷礼拝堂において礼拝が守られ、3つの保育所が運営されています。
 最後に、仙台教会が初任地であり、最後の赴任地ともなった太田一彦牧師が最初に赴任した際の牧師報告の一部を記します。信徒として励みにしているからです。「初めての任地に赴くに際して、私は神が人間に語り給うが故に聴き、神が語り給うことを聴くという、この一事によって教会は基礎づけられ、この一事のみが教会を教会たらしめるという一点を信念として携えてまいりました。」

九州ルーテル学院大学 九州ルーテル学院大学付属黒髪乳児保育園 雪野啓子(黒髪乳児保育園園長)

 2026年に創立100周年を迎える、学校法人九州ルーテル学院には保育園、認定こども園、中学、高校、大学があります。九州ルーテル学院大学付属黒髪乳児保育園は2016年に開園し、今年、8年目を迎えます。九州ルーテル学院大学付属として、学院のスクールモットーである「感恩奉仕」の精神のもと保育・教育を行っています。生後2カ月から3歳児までのお子様をお預かりし、定員40名という少人数のよさを生かし、子どもが愛に包まれた安心・安全な生活を送ることを大切にしながら、一人ひとりの心身の調和のとれた発達を目指し、神様に愛され、いつも見守ってくださることに感謝しながら、温かく丁寧な保育に努めています。
 保育園は熊本を流れる白川の近くに所在し、学院から少し離れたところにあります。園児は学院や教会へ出かけて、キリスト教行事を経験したり、学院の崔大凡チャプレンに保育園に来ていただき、お祈りの時間を守ったりしています。
 子どもの育ちのためには保護者支援は欠かせないものです。本園は九州ルーテル学院大学保育ソーシャルワーク研究所と連携して「保護者フリートーク(相談室)」を開催しています。保護者を支え、子育てを支えることは子どもの最善の利益を守ることにつながることを実感しています。職員が一つになって子ども・保護者それぞれが持つ豊かな力を伸ばしていけるよう支えていきたいと思います。
 キリスト教保育が始まり、浅い年月ですが、これからも神様のお導きのなかで保護者の方とともに子どもの健やかな育ちのために保育・教育に努め、歩んでいきたいと思います。
 皆様、どうぞよろしくお願いいたします。

「これからのミッション」―第14 回るうてる法人会連合研修会・総会 開催

安井宣生(現地実行委員・日本福音ルーテル健軍教会・甲佐教会牧師)

 8月22日から23日まで熊本の九州学院に150名が集い、るうてる法人会連合の研修会と総会が開催されました。130年前の宣教開始以来、教会のみならず、1902年の佐賀幼稚園、1909年の路帖神学校(現在の九州学院そして神学校)、1919年の慈愛園(福祉事業)として教育や福祉の器と共に世に仕えキリストに従う歩みでした。2002年、それぞれに成長した各法人がより密接に協力し合うことを目的にるうてる法人会連合が発足し、互いに学び、祈り、それを力にして、仕える取り組みが続けられてきました。
 今回の研修では、国際政治学者であり、熊本県立劇場館長、学校法人 鎮西学院学院長も務めておられる姜尚中先生を講演者として迎えました。その豊かな内容を学校法人から参加された宮本新牧師(ルーテル学院・神学校准教授)に短く振り返っていただきました。
「これからのミッション」と題された姜尚中先生の講演では、「これから」を語るためには、まず「これまで」を振り返り考えなければならないと語られ、その振り返りは、こんにちの教育と福祉を取り巻く情勢から、歴史や文学、そして人間について、縦横無尽に広がる話題であり、要約容易ならざる内容でした。実際に生の講演を聞いて感じたいくつかのことがあります。まずテレビなどでお馴染みのとおり、あの低く抑制の効いた声音に引き込まれるような90分でした。目の前にある難題を考えながらも、参加者みなさんと心地よいひと時を共にできたのは希少な体験でした。もうひとつ印象に残ったことがあります。気宇壮大なスケール感のある講演でしたが、どの話題でも生身の人間が自然と思い浮かぶような話しぶりでした。甘い話はどこにもありませんが、あたたかな、やさしいまなざしが注がれているような感じです。ひるがえってそれは、分野は違っても生身の人に向き合い仕事に打ち込んでいる諸法人の参加者に向けられたエールのようにも感じられました。講演中、「におい」は決してメディアでは伝えられてないと話されていたのが一層、印象的です。それは人が共に集い、なにかを学びとろうとするこのひと時にも共通することだったのかもしれません。

2023年「障がい者週間」の集い

小澤周平(NCC「障害者」と教会問題委員会委員・日本福音ルーテル千葉教会牧師)

 各教会にご案内が郵送されますが、2023年11月4日に「障がい者週間」の集いが開催されます。「支え合う『いのち』」と題して、キリスト教系障がい者団体の活動報告などが分かち合われます。
 日本福音ルーテル教会においても多くの障がい者の方々との関わりの中で発足した働きが全国にあります。改めて私たちは立ち止まり、神様から与えられている命が障がいの有無にかかわらず等しく憐みと愛によって生かされていることを覚えていく機会としたいと考えています。
 どうぞこの働きを覚えて、ご参加下さい。対面とZOOMでの開催となっておりますから、全国からの参加をお待ちしています。詳細につきましては郵送されるご案内をご覧ください。

JELA インド・ワークキャンプ2024参加者募集!

一般財団法人JELAが、2019年以来5年ぶりに、インドでのワークキャンプを実施いたします!

【日程】 2024年2月12日から22日の11日間※国際情勢等により変更の可能性があります。
【派遣先】インド・マハラシュトラ州ジャムケッドの医療福祉施設「Comprehensive Rural Health Project(包括的農村保健プロジェクト、略称:CRHP)」
ここでは「農村地域の人々の健康」をテーマに、医療、子ども教育、有機農業指導、ソーシャルワーカの育成など、幅広い取り組みがされています。
【内容】義足作り/児童とのふれあい/毎日の学びの分かち合いなど
【対象】18歳以上の健康な方(原則高校生不可)
【定員】10名(先着順)
※締切後、参加の可否を11月中にご連絡します。
【参加費】22万円
※友だち割り:複数人でのお申し込みの場合、1人につき5千円割引いたします。
※パスポート取得費用、海外旅行保険費用、事前説明会参加のための交通費、集合・解散場所間の交通費や、前泊・後泊の宿泊費用については、別に個人負担となります。
【事前説明会】2023年12月2日(土)に事前説明会(オンライン参加可)を予定しています。参加者は必ず出席いただきたいので、併せてご予定ください。
【申込方法】JELA公式WEBページまたは掲載しているQRコードから。
【申込締切】2023年11月20日(必着)
【お問い合せ】JELAインド・ワークキャンプ係電話:03-3447-1521
E-mail: jela@jela.or.jp
キャンプの詳細は、公式WEBサイトやSNSをご覧ください!皆さまのお申し込みをお待ちしております!

北海道地域合同教師会

岡田薫(日本福音ルーテル帯広教会牧師・札幌教会協力牧師)

 今年の一日神学校は、9月23日(土・祝)にルーテル学院大学を会場に対面開催で行われます。
 JELC北海道地域教師会では長年に渡りNRK北海道地区の教職と共に合同教職者会を毎夏開催しています。いつどのようにして始まったのかということは不明ですが、1997年に札幌で宣教研修生としてお世話になった際もすでに開催されていましたので、おそらく北海道特別教区発足時あるいはそれ以前から続いているものと思われます。
 かつてはJELC8教会、NRK9教会に牧師あるいは宣教師が専従しており、参加者も十数名と賑やかでした。研修内容も時に応じて教団ごとの個別プログラムと合同プログラムの二本立てとし、2泊3日のプログラムを温泉施設等で開催していました。現在ではJELC4教会(6礼拝堂)、NRK8教会となり、教職数もJELC3名、NRK5名(内2名は70歳以上)となり、札幌中央ルーテル教会を会場に宿泊はビジネスホテル利用の1泊2日の合同プログラムとして開催しています。双方の教職の多くが施設と教会あるいは複数教会を兼任しているため日程調整が難しく、札幌に参集することが経済面でも移動の利便性においても合理的だからです。コンパクトにはなりましたが、リトリートも兼ねた交流を通して全道に散らされている同労者たちと励まし合えることはありがたいことです。
 それぞれの教会が抱えている課題には①働き人の減少、②教会の維持管理、③関係施設との連携や経済的な課題など、共通の悩みも少なくありません。教会組織の在りようには違いもありますが、顔と顔とをあわせて祈りと讃美を共にしつつ、忌憚ない意見を交わし合う中で、新たな発見や取り組みが生まれることもあります。2017年には合同教職者会が中心となって数年間の準備を経て、宗教改革500年合同修養会を参加者のべ130名ほどで開催することができました。また札幌を中心とした道央地区では、10月31日の宗教改革記念礼拝を担当持ち回りで継続的に開催しています。

合併公告

このたび、下記のとおり、東京都羽村市羽東二丁目16番11号宗教法人「日本福音ルーテル羽村教会」を吸収合併することになりましたので、宗教法人法第34条第1項の規定によって公告します。
2023年10月15日

信者その他利害関係人各位

所在地 東京都新宿区市谷砂土原町一丁目1番地
宗教法人「日本福音ルーテル教会」
代表役員 永吉秀人

合併契約の案の要旨
1 宗教法人「日本福音ルーテル教会」は宗教法人「日本福音ルーテル羽村教会」 を吸収合併し、 宗教法人「日本福音ルーテル羽村教会」は解散する。

合併公告

このたび、東京都羽村市羽東二丁目16番11号、宗教法人「日本福音ルーテル羽村教会」を吸収合併することになりました。これについて異議ある債権者は、2023年12月18日までに、その旨申し述べてください。
宗教法人法第34条第3項の規定によって公告します。
2023年10月15日

債権者各位

所在地 東京都新宿区市谷砂土原町一丁目1番地
宗教法人「日本福音ルーテル教会」
代表役員 永吉秀人

訂正とお詫び

機関紙るうてる2023年9月号、1面「巻頭説教」の執筆者である秋山仁牧師の所属に誤りがございました。正しくは「日本福音ルーテル豊中教会・神戸東教会牧師・喜望の家代表」です。訂正してお詫びいたします。校正作業における確認を徹底してまいります。大変申し訳ございませんでした。

23-09-01人を赦すということ

「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」(マタイによる福音書18・35)

 「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」というペテロの問いは、自分が誰かを赦すなら、どれだけ赦すべきか、(あるいは我慢すべきか)が焦点です。
 それに対してイエス様の答えは、赦されたいと願うならば、赦すことをせよ、というものです。ペテロの立場はあくまで、自分が赦す側であり、赦される、あるいは赦されている側にはいません。赦すか赦さないかを決めるのは自分になります。しかし、イエス様がたとえで答えたと同時に問うているのは、あなたは赦される立場にはいないのかどうかです。
 ここで、私が思い出すのは、姦淫の罪で女性を告発した人々とファリサイ派に対してイエス様が投げかけた質問です。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まずこの女に石を投げなさい。」
 そして、人々が去って行ったあとでイエス様は女性に向かっていいます。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」 罪の告発と断罪をするときに、自分を省みることが問われているともいえます。
 たとえに登場する王の最終的な怒りは、負債を抱えていた家来が、王から憐れみをかけてもらいながらも、自分は仲間の一人に憐れみをかけることもなく、無慈悲な仕打ちを行うことで引き起こされます。王の前にひれ伏し頼み込んだ家来の「必ず返します」という誠意を、王は信じて、彼を赦し、借金を免除するのです。しかし、家来が仲間にしたことは、彼の見せた誠意が見かけだけのものだったということを表しています。心の底から表すのではない見せかけの誠意、表面的な謝罪は、赦されることはないのです。
 イエス様のたとえが示しているのは、赦しの背景には憐れみがあるということです。相手の立場や状況を推し量って、心動かされることが相手を赦す根拠なのです。
 たとえ話でも、王自身が、貸しているお金が戻ってこなければ大きな損害を被る、というリスクを負っていることを知っています。家来も、本来ならその借金を返さなくてはならないことを認めるところから、すべては始まります。
 つまり、借金を罪と言い換えれば、罪を犯している人間が、罪を罪として認めることがなければ、赦しも起こらないのです。赦すとは、負債や罪をお互いが認めたうえで、反省している相手の立場をよくよく考えて、自分もリスクや痛みを引き受けることから始まるのです。さもなければそれはただの我慢にしかなりません。ペテロの立場に戻ってしまうのです。あるいは相手に対してよほどの優越感を持とうとするかです。でもそれでは無理が生じます。そして、何かの形で、自分の人生がその後も怒りや恨みといった不快な感情に支配されてしまうことになりかねません。
 自分に対して不正を行ったり、罪を犯した者を赦すことが、自分自身で出来るかどうかは、判りません。しかし、自分自身がそうした負の感情から癒され、解放され、自由にされることは必要です。
 負の感情から癒されるためには、私たちはイエス様に祈ることと共に、具体的な助けを与えてくれる仲間を必要とします。自分に罪を犯した相手に対する怒り、痛み、悲しみ、恨み、わだかまりなどを、聴き、受け止め、その負担を担い合って、時には執り成し祈ってくれる仲間の存在。その手助けのもとに、私/あなたが負ってしまった心の重荷を軽くできるとき、私たち一人一人は、「私に罪を犯した者」と向き合うことが出来ていくし、その罪を赦すことが可能になるのかもしれません。少なくとも自分が負の感情に支配されない勇気をもつことができるのかもしれません。
 私/あなたを「心から」無限に赦し、愛してくださるイエス様がおられます。私/あなた自身の罪を赦すために、十字架に架かられたイエス様がおられます。私/あなたを「心から」受け入れ、支え、守り、励ましてくださるイエス様がおられます。
 人が自分の罪と向き合い、赦しを請い、またそれを赦し合うことの背後に、このイエス様による憐れみと赦しがあることを覚えていたいと思います。

23-09-01るうてる2023年09月号

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「人を赦すということ」

秋山仁(日本福音ルーテル豊中教会・神戸東教会牧師)

「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」
(マタイによる福音書18・35)

 「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」というペテロの問いは、自分が誰かを赦すなら、どれだけ赦すべきか、(あるいは我慢すべきか)が焦点です。
 それに対してイエス様の答えは、赦されたいと願うならば、赦すことをせよ、というものです。ペテロの立場はあくまで、自分が赦す側であり、赦される、あるいは赦されている側にはいません。赦すか赦さないかを決めるのは自分になります。しかし、イエス様がたとえで答えたと同時に問うているのは、あなたは赦される立場にはいないのかどうかです。
 ここで、私が思い出すのは、姦淫の罪で女性を告発した人々とファリサイ派に対してイエス様が投げかけた質問です。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まずこの女に石を投げなさい。」
 そして、人々が去って行ったあとでイエス様は女性に向かっていいます。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」 罪の告発と断罪をするときに、自分を省みることが問われているともいえます。
 たとえに登場する王の最終的な怒りは、負債を抱えていた家来が、王から憐れみをかけてもらいながらも、自分は仲間の一人に憐れみをかけることもなく、無慈悲な仕打ちを行うことで引き起こされます。王の前にひれ伏し頼み込んだ家来の「必ず返します」という誠意を、王は信じて、彼を赦し、借金を免除するのです。しかし、家来が仲間にしたことは、彼の見せた誠意が見かけだけのものだったということを表しています。心の底から表すのではない見せかけの誠意、表面的な謝罪は、赦されることはないのです。
 イエス様のたとえが示しているのは、赦しの背景には憐れみがあるということです。相手の立場や状況を推し量って、心動かされることが相手を赦す根拠なのです。
 たとえ話でも、王自身が、貸しているお金が戻ってこなければ大きな損害を被る、というリスクを負っていることを知っています。家来も、本来ならその借金を返さなくてはならないことを認めるところから、すべては始まります。
 つまり、借金を罪と言い換えれば、罪を犯している人間が、罪を罪として認めることがなければ、赦しも起こらないのです。赦すとは、負債や罪をお互いが認めたうえで、反省している相手の立場をよくよく考えて、自分もリスクや痛みを引き受けることから始まるのです。さもなければそれはただの我慢にしかなりません。ペテロの立場に戻ってしまうのです。あるいは相手に対してよほどの優越感を持とうとするかです。でもそれでは無理が生じます。そして、何かの形で、自分の人生がその後も怒りや恨みといった不快な感情に支配されてしまうことになりかねません。
 自分に対して不正を行ったり、罪を犯した者を赦すことが、自分自身で出来るかどうかは、判りません。しかし、自分自身がそうした負の感情から癒され、解放され、自由にされることは必要です。
 負の感情から癒されるためには、私たちはイエス様に祈ることと共に、具体的な助けを与えてくれる仲間を必要とします。自分に罪を犯した相手に対する怒り、痛み、悲しみ、恨み、わだかまりなどを、聴き、受け止め、その負担を担い合って、時には執り成し祈ってくれる仲間の存在。その手助けのもとに、私/あなたが負ってしまった心の重荷を軽くできるとき、私たち一人一人は、「私に罪を犯した者」と向き合うことが出来ていくし、その罪を赦すことが可能になるのかもしれません。少なくとも自分が負の感情に支配されない勇気をもつことができるのかもしれません。
 私/あなたを「心から」無限に赦し、愛してくださるイエス様がおられます。私/あなた自身の罪を赦すために、十字架に架かられたイエス様がおられます。私/あなたを「心から」受け入れ、支え、守り、励ましてくださるイエス様がおられます。
 人が自分の罪と向き合い、赦しを請い、またそれを赦し合うことの背後に、このイエス様による憐れみと赦しがあることを覚えていたいと思います。

エッセイ「命のことば」 伊藤早奈

㊷かけがえのない今

「しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。」 ルカによる福音書12・20

 「今年の初め家族の者は亡くなりました。生前のお交りありがとうございました。」
 見慣れない名前の方から一通の手紙が届きました。
 まただ…。病院で知り合った友達が多い私は「あの人大丈夫かな?」と思いながら郵便を出すことも少なくありません。メールを送るときも少し送る期間があいてしまうとメールを送るのが怖くなってしまいます。
 その方も例外ではありませんでした。ただ、最近引っ越して住所が変わったと電話で教えて下さったばかりだったのでショックでした。
 あの郵便は読んで下さったかな。それとも天国へいかれてから読んでくださったかしら?なんて思いながら上に書いた聖句を思い出していました。そういえば一緒の部屋で入院していた方に明日こそご挨拶をしようと思っていたのに「おはよう」と次の朝言うこともかなわなかったこともありました。
 「神様のもとでまた会えるから大丈夫。」と思えるのは幸せだと思いながらも寂しいです。
 〈私は今を憎んではない〉という詩を聞くことがあります。「今」という時を憎むどころか自分はよく忘れてしまっているのではないかなと思ったとき「財産」ってなんだろう?と思います。「おはよう」と交わすこと「こんにちは」ってあの人に言える今。日常の生活の一つ一つがお一人お一人にとっても私にとっても「財産」なのかなって思います。今を明日でいいやと思い、どこかにしまわなくてよくても、大切なあなたに「今」が与えられています。

改・宣教室から

小泉基 宣教室長(日本福音ルーテル 札幌教会牧師)

 宣教の現場に生きる方々との出会いを願うこのコラム。第1回目は札幌教会の柳下李裕理さんにご登場いただきました。
 ―昨夏、韓国の青年たちとの出会いのプログラムに参加されたのですね。
 柳下李 はい、「韓日和解と平和フォーラム」という、韓国と日本の青年を対象とした歴史認識の学習、社会構築の展望を広げる交流プログラムです。
 ―特に印象に残ったことは?
 柳下李 DMZ(非武装地帯)に特別に立ちいらせていただいたことです。一見すると草木が生い茂るのどかな川縁の居住地に無数の地雷が埋まっており、除去に200年を要するという衝撃的な事実を知りました。街中にも私よりも若いような青年たちが軍服を着て歩いており、朝鮮半島が「休戦中」である現実を再確認しました。と同時に、その現実に日本が加担している加害者意識をも感じました。また、ソウルの「戦争と女性の人権博物館」で、日本軍による性暴力被害者のハルモニたちの言葉を目にしました。あまりに凄惨な現実に衝撃を受けました。
 ―韓国の青年たちはいかがでしたか?
 柳下李 韓国からは様々な活動にかかわる方々が参加しており、日本からの参加者と意識の違いが浮き彫りとなる場面も多かったです。私自身も含め日本福音ルーテル教会の若い信徒における社会問題への当事者意識の弱さが露呈したと感じます。
 ―今回の経験から、ご自身の中に変化を感じられましたか?
 柳下李 在日韓国・朝鮮人と日本人の間に生まれた人間として、改めて私自身のルーツをもって韓日の和解に貢献できるのではないかという意識が生まれました。
 ―今夏は韓国の青年たちが日本に来られるのですね?
 柳下李 はい、昨年は韓国の方々に大変温かく受け入れていただきました。今年度はその恩返しも兼ねてホスピタリティを発揮したいです。
 ―大切にしておられるみ言葉があれば教えてください。
 柳下李 「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(コリントの信徒への手紙一10章13節)
 試練から逃れることを良しとする文言が心に響きます。
 ―ありがとうございました。ますますのご活躍をお祈りしています。

アジア・プレ・アセンブリーに出席して

本間いぶ紀(日本福音ルーテル甘木教会)

2023年6月14日から18日、ルーテル世界連盟のアジア・プレ・アセンブリーがマレーシアのクアラルンプールで開催されました。ルーテル世界連盟は世界各国に広がるルター派教会が集まり、私たちの信仰の実践として人道支援や開発支援、また神学研究を行う組織です。このプレ・アセンブリーは9月にポーランドのクラカウで開催予定の第13回ルーテル世界連盟アセンブリーに向けての事前集会で、私は特にユース部門の代表者候補の推薦を受けるために参加しました。9月のアセンブリーの選出選挙にアジア代表として推薦されます。
 プレ・アセンブリーには、6月16日、17日の2日間のみ参加しました。そこで出会った方々は、短い時間しか参加することができない私のことを温かく迎え入れてくれました。ユースと過ごす時間が多かったのですが、今回出会ったユースとは教会生活の話だけでなく、趣味や文化の話を通してお互いを知ることができました。
 私は過去にカンボジアのルーテル教会を訪れた際「カンボジアにも神の教えが、そしてルーテルの教えが息づいている」と感動したことがありますが、その時と同じことを感じました。他宗教のイメージが強いアジアの各地域から多くの参加者が集められたこと、彼ら一人一人がルーテル教会の一員としての働きに誇りを持っていること、ルーテル世界連盟の働きの大きさ、これがすべて神の計画の内にあることに、ただただ「すごい」の一言しか思い浮かびませんでした。
 渡航前、短い参加で私に何ができるのだろうと不安でしたが、「まず行って参加することが大事」という浅野直樹Sr.牧師の言葉に背中を押されました。わたしは今回、彼らと出会い、彼らを知り、彼らと時間を共にするという目的を十分に果たせたのではないかと考えます。
 9月のアセンブリーにて神の計画のうちにあって選出されることを祈りつつ、皆さまのご支援とお祈りに感謝申し上げます。そしてこれからの働きもお祈りください。

世界の教会の声

浅野直樹Sr.(世界宣教主事 市ヶ谷教会・スオミ教会牧師)

ルーテル世界連盟アジア プレ・アセンブリー報告

 ルーテル世界連盟(以下LWF)アジアのプレ・アセンブリーが、6月14日~18日にかけてマレーシアのクアラルンプールで開催されました。今年9月、ポーランドの都市クラカウで行われるLWFアセンブリー(総大会)に向けて開かれました。まずは地域ごとに集まり、アジアのルーテル教会の信仰の一致と宣教課題を確認し、ステートメントを発信するための集会です。JELCからは甘木教会の本間いぶ紀さんが部分参加しました。本間さんは、プレ・アセンブリーで次期総会期の青年代表理事候補としてノミネートされました。
 今回採択されたメッセージでは、多民族、多宗教社会における公共空間と信教の自由に関して、教会がなすべき役割について焦点が置かれました。
 ステートメントは、「アジアは複雑な状況と現実を抱える大きな大陸であるが、私たちが協力していくうえでこのことは障壁にはならず、むしろダイナミックな収束点となっていることを神に感謝する。」「固い絆の交わりの精神とディアコニアと平和への決意で、地域と世界のコミュニオンの未来に向けて、心を一つとする」といったメッセージが採択されました。
 集まったアジアの教会指導者たちは、アジアの教会が直面する「様々なレベルの抑圧」に対して深刻な懸念をステートメントとして表明しました。「政府による締め付けは言論の自由を妨げ、抑圧を強め、正当な懸念であるはずの反対の声を排除しようとしている。こうした政策が自由な信仰生活を妨げ、人権を侵害している。」
 ステートメントは、神学教育の重要性とそのための男女・青少年への機会均等、「宗教間対話への建設的な取り組み」に向けて神学生も関わることを促しています。またコミュニオンを豊かにできる青少年と女性たちのビジョンとコミットメント、彼らの能力を強化して、あらゆるレベルでの意志決定に参与できるよう継続的に努めること、平等の機会と権利を妨げる文化的社会的制約に対して教会が行動するよう呼びかけています。
 会議後、ホストをしたマレーシアのルーテル教会のローレンス監督が次のようにコメントしています。「主催教会である私たちは、今回のプレ・アセンブリー開催で祝福をいただきました。またアジアの姉妹教会が経験する苦難を分かち合うことができました。」「アジアの教会は多様ですが、この大会を通じて神学教育のような分野に互いの理解をより深め、協力態勢が築かれました。」
 LWFアジア局長のフィリップ・ロク氏は、「参加者119名の多くは『よそ者』としてクアラルンプールにやって来ましたが、ここに集ったことでクラカウへ向けての備えができただけでなく、私たちはここでアセンブリーのテーマ『一つのからだ』に結ばれ、『一つの霊』に導かれ、『一つの希望』に根ざすことを体験できました。」

※詳細についてはWEBサイトをご参考ください。

リレーコラム 「全国の教会・施設から」④

日本福音ルーテル 帯広教会

日本福音ルーテル 帯広教会役員会

 今日に至る帯広教会の歴史は、1945年に浦幌町に入植者として入った吉田康登(やすなり)牧師による「浦幌・池田」開拓伝道、戦後の全国レベル開拓伝道計画による「釧路・帯広」二つのルートがあります。釧路教会、池田教会の礼拝堂は惜しまれつつもすでにありませんが、帯広教会での主日礼拝、釧路家庭集会、会場をお借りしての浦幌集会を定期的に行っています。この4月からは教区の宣教体制の変更に伴い、主日礼拝は毎週土曜日の午前10時に変更となりました。日曜日に主日礼拝が行われない珍しい教会ではありますが一人独りの信仰の養いや宣教の意欲は失っていません。礼拝後のお茶の交わりや花壇のお世話も楽しく取り組んでいます。
 牧師が在住する第3、第5日曜日を利用し、地域に開かれた教会を目指し今年は初めて町内会の夏祭り会場として駐車場を開放し、地域の方々と交流をすることができました。また、遠隔地に点在する教会に連なる仲間たちとの交流を目的として野外礼拝なども行っています。これに加え、牧会的な部分にも信徒が積極的に関り、相互訪問や寄せ書きなどを送る活動に取り組んでいます。対面での交流が難しい時も、祈りに覚え合うことで励まし支え合ってきました。
 地方の小さな教会で高齢化の波も押し寄せ、将来の見通しも決して明るいことばかりではありませんが、いま与えられている恵みに感謝し、自分たちに何ができるかを祈り求めつつ、小さな働きをコツコツと続けています。その中でも、「わかちあいプロジェクトの古着支援」「ちかちゅう給食活動への支援物資送付」「喜望の家」「まきばの家」など遠くにあっても神様の働きを担われている方々を覚えての活動は、恵みをわかちあう喜びに満たされ、今後も継続していきたいと願っています。また、秋には十勝の恵みを全国の皆さまへお届けする「十勝豆」の働きがあり、あらためて全国の皆さまによって道東宣教が支えらえていることを実感し感謝しています。

九州ルーテル学院大学

松本充右(九州ルーテル学院大学学長)

 アメリカ人宣教師であるマーサ・B・エカード初代院長によって本学院の前身である九州女学院が創立され、100年という大きな節目を2026年に学院は迎えます。「感恩奉仕」の校訓を大切にし、またキリスト教精神に基づいた豊かな人間性を育む教育を、教職員の協力のもとでこれまで行ってきました。大学としては九州女学院短期大学を改組転換し、1997年に男女共学の四年制大学「九州ルーテル学院大学」として開学した新しい大学です。現在、人文学部に人文学科3専攻(キャリア・イングリッシュ専攻、保育・幼児教育専攻、児童教育専攻)と心理臨床学科という2学科が設置されています。全学生数650名ほどの小規模私立大学であるため、教職員と学生の距離が近く、一人一人の学生を尊重し、少人数での手厚い教育と高い進路決定率(2023年3月の卒業生の今年7月時点での進路決定率は99・4%)の大学として、地元熊本では現在一定の評価を得る大学となっています。
 また、学院の校訓である「感恩奉仕」の精神に基づき、神と周りの人々へ感謝の気持ちを持ち、地域社会や周りの人々に奉仕できる人材を育成することを目標としています。その目標を実現するため様々な体験学修を重視しており、在学中に多くの学生は地域の学校、社会での様々な活動に関わっています。地域の小学校での放課後見守り支援活動、障がいを持った子どもと親への療育支援活動など学生たちは自発的かつ積極的に地域での活動に参加しています。在学中のこのような体験活動を通して、学生たちは地元への愛着や地域が抱えている課題を直接的かつ体験的に学んでいるように感じられます。
 地域社会と緊密につながりつつ、卒業後、地元熊本に貢献できる人材の育成を行ってきた結果、学生の卒業後の進路先は圧倒的に熊本県内が多くなっています。今年3月の卒業生の卒業後の進路の内訳を見ると、卒業生全体の84・2%が熊本県内で就職をしています。このように地域に根ざし、地域のために貢献できる人材を育成する完全地域密着型の大学が九州ルーテル学院大学の特徴です。

「教会讃美歌 増補」 解説

解説㊶ 増補44番「ごらんよ空の鳥」

井上栄子(日本ルーテル教団 戸塚ルーテル教会)

 息子が、カトリック系の中高一貫男子校へ入学した関係で、生徒のためのミサに参加した時のことです。聖歌斉唱の場面で、ティーンエイジャー男子の賛美に期待していなかった私は、腰を抜かすほど驚きました!会場が揺れるかと思われる声が響き渡ったのです。その聖歌が「ごらんよ 空の鳥」でした。
 優しく心温まる歌詞は、元気な生徒たちの純粋な心を導き出して、麗しい賛美へと昇華させる、そんな奇跡を目の当たりにする事ができました。私達も、そんな純粋な心で、歌詞を味わい主に向かって賛美したいと思います。

解説㊷ 増補53番「平和の祈り」

北川逸英 (日本ルーテル教団 池上教会・杉並聖真 ルーテル教会牧師)

 この歌は、ルーテル学院大学・神学校聖歌隊の愛唱歌です。聖歌隊は親しみを込めて「聖フラ」とこの曲を呼びます。「聖フランシスコの平和の祈り」の短縮形です。しかし今回の歌集のどこにも「聖フランシスコ」の名前はありません。
 それはこの「平和の祈り」が、聖フランシスコが書いた物ではないことが、20世紀後半に明らかになったからです。藤女子大学の木村晶子教授が『人間生活学研究第15号』に「アッシジの聖フランシスコの『平和の祈り』の由来」を論文発表されています。論文は藤女子大学のご厚意によりダウンロードができます。
 本論文によると、この祈りは20世紀はじめにフランスで生まれたと考えられます。それが第1次、第2次世界大戦を通じ、世界中に広まっていきました。論文の終わりを木村教授はこう結ばれています。
 「作者は不明のままであるかもしれないが、この「平和の祈り」はキリスト教の本質を短く単純に表現し、時代を超えて唱えられるすばらしい祈りであることに変わりはない」
 アッシジのフランシスコを熱愛する私も、まさにこの言葉の通りであると、心から感謝します。

エキュメニカルな交わりから ⑱カルト問題キリスト教連絡会

滝田浩之(日本福音ルーテル 小石川教会牧師)

 2018年にカルト問題キリスト教連絡会に日本福音ルーテル教会からの派遣委員として参加しています。
 カルト問題キリスト教連絡会は、日本基督教団、カトリック中央協議会、日本聖公会、日本福音ルーテル教会、日本バプテスト連盟、在日大韓基督教会によって「統一協会問題キリスト教連絡会」が発足したことに端を発しています。連絡会は3カ月ごとに参加団体の代表者が集まり情報交換をしつつ、韓国において同じ関心を持つグループと隔年で研修会を開催しています。
 「カルト問題」は、年々、巧妙かつ複雑になっており、個人が特に大学などで被害に遭うというケースのみならず、日本の伝統的なキリスト教会の乗っ取りといった事例まで発生しています。高齢化した教会に、とても熱心な青年として数名で礼拝に参加し、会員の方の信頼を得たところで役員などになり、教会の牧師は正しいキリスト教を伝道していないというような理由で追い出してしまうのです。個々の教会で宗教法人などを持っていますと、教会が分裂してしまうだけでなく、財産がすべて「カルト教団」のものになってしまうこともあります。
 是非、『カルトって知ってますか?』というカルト問題キリスト教連絡会が出版するパンフレットを活用していただきたいと思います。これはカルトについての全般的な学びに適しているとともに、別刷りで最近活発に活動しているグループの名前と具体的な活動例が紹介されています。社会貢献活動(地域ごみ掃除や高齢者支援)のような形で学生や青年を集めて、いつの間にか、そのようなグループの一員となっているケースは後を絶ちません。
 旧統一協会の問題が再度クローズアップされてからは、日本基督教団が専門の窓口を設けて「カルト問題」に対して積極的に活動してくださっています。何か、困ったことなどがあれば、その窓口に問い合わせをして頂けますと専門家につながります。ご活用ください。

※詳しくはWEBサイトをご覧ください。

九州教区「平和セミナー ~いのりの紡ぎプロジェクト~」開催

谷口美樹(九州教区社会・奉仕部・日本福音ルーテル 大江教会会員)

 2023年7月17日(月・祝)、長崎に40人の兄弟姉妹が集まり、九州教区社会・奉仕部主催の「平和セミナー」が行われました。
 午前の部は、長崎平和公園に一同が集まり、各教会で作成した「いのりカード」と「千羽鶴」を折鶴の塔に捧げました。これは、世界平和への道のりの中で、私たちにできるのは「みんなで祈りを合わせること」という社会・奉仕部全員の思いから生まれたものです。5月7日からスタートした「いのりの紡ぎプロジェクト」は、各教会のお一人お一人が祈りカードを書き、鶴を折り、隣の教会に平和の祈りを紡いでいくものです。最終的に集まった704人のいのりカードと折り鶴を一つに繋ぎ合わせていく中で、神様の恵みが溢れているようで、胸がいっぱいになりました。
 午後の部は、長崎教会を会場に「山脇佳朗さんの被爆体験『忘れられないあの日』」と題して、廣瀬美由紀さん(長崎教会会員)に講演をしていただきました。廣瀬さんは、交流証言者の一人として、山脇佳朗さんの被爆体験を語り継いでおられます。廣瀬さんが心を込めて再現していかれるお話は参加者の心に響き、改めて戦争の悲惨さと平和の大切さを考えさせられました。閉会礼拝での小泉嗣牧師のお話と会堂に響きわたる讃美歌に元気をいただき、平和への思いを新たにしながら会堂を後にしました。

満たされた交流会

立山忠浩(日本ルーテル神学校 校長・日本福音ルーテル都南教会牧師)

 聖公会神学院と私たち神学校の交流会が7月3日に開催されました。毎年開催されている催しですが(2020~2021年は中止)、今回は私たちが用賀を訪ねました。こちらからは15名(学生9名、教師6名)が参加。
 自己紹介の後、神学生の3名が(ルーテルから2名)召命観について語り、それを受けて学生と教師に分かれての意見交換となりました。学生たちの間で互いの召命観を聞き合うことが意外に少なく、意義深い会となったようです。
 教師たちは互いの教会と神学校の実情を分かち合いました。聖公会は西(京都)と東に二つの神学校を持っていますが、今年度は両校合わせて1名の神学生しかいないとのこと。私たちの神学校だけが学生不足に悩んでいるのではないことを改めて確認することになりました。その他、牧師の現任教育のための神学校の貢献についても語り合いました。神学院は宿泊可能な設備を有しており、定期的な研修会の企画に意欲的に取り組んでいることは有益な情報でした。
 教室、図書館、礼拝堂、そして寮と食堂も見学させていただきました。20人ほどは生活できる寮ですが、1名の神学生は家族寮で生活をしているとのことでした。食堂は学生だけでなく、学内で働き、また生活している教職員のためにも昼と夜の食事を提供しているようでした。少人数ですから経営的には厳しいはずですが、業者と提携しながら何とか維持しているのです。そこに聖公会の底力を見る思いがしました。聖餐礼拝の後、その食堂で夕食をご馳走になり、様々な意味で満たされて神学院を後にしました。

一日神学校。4年ぶりのキャンパス(対面)開催!

宮本新(ルーテル学院大学 教員・牧師)

 今年の一日神学校は、9月23日(土・祝)にルーテル学院大学を会場に対面開催で行われます。
 テーマは、「キリストの心を心とする〜関東大震災100年とディアコニア」。今から100年前の9月1日に発生した関東大震災は、当時の日本社会が体験した未曽有の災害でした。九州から東京へと宣教活動を展開していたルーテル教会も被災し、また「救援活動」に参画することになります。そこでの活動がディアコニアであり、やがて二つの社会福祉事業へと結ばれていきます。
 メインプログラムのシンポジウムでは、今年100周年を迎える東京老人ホームとベタニヤホームからシンポジストを迎え、ルーテルの社会福祉、ディアコニア、そして「キリストの心」について振り返り話し合うひとときを持ちます。
 このたびの一日神学校は、キャンパスに皆さまを迎えての対面開催をもう一つのテーマにしています。チャペルでの開会礼拝(午前9時30分開始)、またキャンパス内でミニショップを再開します。どれもこれも2019年以来のことであり、とても楽しみにしています。ただし、依然として感染対策に慎重を期するために半日開催としています。再会の喜びに併せて、安心安全のうちに集うことを願いとしています。その他、プログラム全体の案内・ポスターにつきましては、各教会にご案内をお送りしますのでそちらをご覧ください。

23-08-01聖書と礼拝

「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。」(イザヤ書55・1)

「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」(マタイによる福音書14・16c)

イエス様は今、舟に乗ってひとり人里離れた場所に退かれます。そこで五千人を満たす物語が始まります。同じように五千人をパン五つと魚二匹で養う記事がマルコ福音書にもあります。しかし、その同じ記事は人里離れた所へ退いたいきさつが全く異なります。マルコ福音書の始まりはこうです。マルコ6章30節から「さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。」マルコによればイエス様の元に戻ってきた弟子たちに休養を取らせるためイエス様は弟子たちと共に人里離れた所に退いたと説明します。それに対してマタイは次のように語るのです。マタイ14章13節「イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。」マタイによれば、イエス様が人里離れた所に退いたのは領主ヘロデによるヨハネ殺害を聞いた後でした。洗礼者ヨハネはヘロデによって殺され、この人殺しは贅沢で豪華な食事の宴席で命じられたと聖書は語ります。物に溢れた贅沢で豊かな社会が人間の命を尊ぶとは限りません。むしろ反対に何でも自分の望む物を手に入れることができると考えた時、人は神をも畏れず、その結果、隣人の命を軽んじることになるのではないでしょうか。食べ物に溢れ、人間の欲望を満たす豪華で贅沢な誕生パーティーは死と悲しみに包まれました。それは貴い命が敵意と憎しみによって死に飲み込まれるこの世の空しさの極みであったに違いありません。しかしその時、大勢の群衆がイエス様の後を追い、ついてやってきます。その数は女と子供を別にして、男が五千人ほどであったと聖書は告げます。イエス様を追ってきた人はどのような人たちだったでしょうか。聖書によれば、舟から上がったイエス様はその人々を目にして深く憐れみ、病人を癒されたと言います。その人々は飼い主のいない羊のような人々であり、ヘロデの誕生パーティーに決して与ることができない人々でした。大人も子供も、女も男も、病人も皆、イエス様を求め、人里離れた所まで追ってきたのです。彼らこそまさに、この世で飢え渇いていた人々であったことでしょう。人里離れた何もない所で、イエス様は五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで讃美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになりました。全ての人はそれを食べて満腹したと聖書は語ります。しかも残ったパンくずは十二のかごをいっぱいにしたのです。
「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るが良い。銀を持たない者も来るが良い。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め、価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。」(イザヤ書55・1)
神様の憐れみを示す聖書における主要なシンボルは食事です。出エジプト記では神様はエジプトを脱出した人々をマナと岩から溢れ出る水によって養います。預言者イザヤは苦しむ人々に水とぶどう酒、乳と穀物を価なしに与えると約束します。そして、イエス様はまさに、人里離れた場所で飢え渇いた全ての人々を満腹にさせるのです。聖書の御言葉が示す隠喩において、私たちの飢えと渇きの両方を満たすお方は神です。そしてこの困難な時代、希望に飢え渇く私たちは、これら物語が語る神の約束の中に接ぎ木されるのです。これら聖書の物語は今を生きる私たちのためにあります。私たちはだから、希望への飢え渇きを神に求めるのです。そしてそれから、私たちにパンをお与えくださる主によって、神の子としての権能を授けられた私たちは向きを変え、困窮するこの世界へと遣わされるのです。イエス様は言われます。「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」

23-08-01るうてる2023年08月号

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「聖書と礼拝」

日本福音ルーテル保谷教会牧師・ルーテル神学校チャプレン 平岡仁子

「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。」イザヤ書55・1
「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」マタイによる福音書14・16c

イエス様は今、舟に乗ってひとり人里離れた場所に退かれます。そこで五千人を満たす物語が始まります。同じように五千人をパン五つと魚二匹で養う記事がマルコ福音書にもあります。しかし、その同じ記事は人里離れた所へ退いたいきさつが全く異なります。マルコ福音書の始まりはこうです。マルコ6章30節から「さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。」マルコによればイエス様の元に戻ってきた弟子たちに休養を取らせるためイエス様は弟子たちと共に人里離れた所に退いたと説明します。それに対してマタイは次のように語るのです。マタイ14章13節「イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。」マタイによれば、イエス様が人里離れた所に退いたのは領主ヘロデによるヨハネ殺害を聞いた後でした。洗礼者ヨハネはヘロデによって殺され、この人殺しは贅沢で豪華な食事の宴席で命じられたと聖書は語ります。物に溢れた贅沢で豊かな社会が人間の命を尊ぶとは限りません。むしろ反対に何でも自分の望む物を手に入れることができると考えた時、人は神をも畏れず、その結果、隣人の命を軽んじることになるのではないでしょうか。食べ物に溢れ、人間の欲望を満たす豪華で贅沢な誕生パーティーは死と悲しみに包まれました。それは貴い命が敵意と憎しみによって死に飲み込まれるこの世の空しさの極みであったに違いありません。しかしその時、大勢の群衆がイエス様の後を追い、ついてやってきます。その数は女と子供を別にして、男が五千人ほどであったと聖書は告げます。イエス様を追ってきた人はどのような人たちだったでしょうか。聖書によれば、舟から上がったイエス様はその人々を目にして深く憐れみ、病人を癒されたと言います。その人々は飼い主のいない羊のような人々であり、ヘロデの誕生パーティーに決して与ることができない人々でした。大人も子供も、女も男も、病人も皆、イエス様を求め、人里離れた所まで追ってきたのです。彼らこそまさに、この世で飢え渇いていた人々であったことでしょう。人里離れた何もない所で、イエス様は五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで讃美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになりました。全ての人はそれを食べて満腹したと聖書は語ります。しかも残ったパンくずは十二のかごをいっぱいにしたのです。
「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るが良い。銀を持たない者も来るが良い。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め、価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。」(イザヤ書55・1)
神様の憐れみを示す聖書における主要なシンボルは食事です。出エジプト記では神様はエジプトを脱出した人々をマナと岩から溢れ出る水によって養います。預言者イザヤは苦しむ人々に水とぶどう酒、乳と穀物を価なしに与えると約束します。そして、イエス様はまさに、人里離れた場所で飢え渇いた全ての人々を満腹にさせるのです。聖書の御言葉が示す隠喩において、私たちの飢えと渇きの両方を満たすお方は神です。そしてこの困難な時代、希望に飢え渇く私たちは、これら物語が語る神の約束の中に接ぎ木されるのです。これら聖書の物語は今を生きる私たちのためにあります。私たちはだから、希望への飢え渇きを神に求めるのです。そしてそれから、私たちにパンをお与えくださる主によって、神の子としての権能を授けられた私たちは向きを変え、困窮するこの世界へと遣わされるのです。イエス様は言われます。「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」

エッセイ「命のことば」 伊藤早奈

㊶伝わっています

「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。」(申命記30・14)

「何かしたんですか?」お会いするなり言われて私が驚きました。私は20歳になったばかりの頃、ある先生の紹介で2週間ほど海外の二つの教会の皆さんにお世話になりました。なのでご紹介くださった先生にお礼を言おうと近づいた時でした。
「あなたは何かしたんですか?出身教会に帰ったらみんながあなたのことを聞きました。」私、何かしたのかしら?言葉がうまく通じなくて1回だけお世話をよくしてくださった方の前で大泣きをしたくらいだと思っていました。
フッとこのことを思い出させてくれたのは他愛もない辛い瞬間でした。それは電話で何度も聞き返された挙げ句「わからないので変わります。」と言われた時です。
最近電話で話すと何度も聞き返されてしまい落ち込みます。そして思うのは、対面ならば伝わるのになと。
あっそうだったんだ伝えているのは言語だけではなくその時表現される全てが用いられるんだ。
何十年もわからなかった「何か」は私が何かしようとしてしたのではなくて、神様が私を通して何かをしてくださったのだと思い嬉しくもなりました。
電話は言語を伝えます。機械音でも伝わるかもしれません。知っている人の声が電話から聞こえる親しみから言葉を聞くかもしれません。でも「ことば」は言語だけではありません。海外で自分が何かをやろうとしてしたのでなくても、電話で言語を伝えられなくてもあなたは伝えています。あなたがいろいろなものを通して「ことば」を伝えられているように。

【訂正とお詫び】

機関紙るうてる2023年7月号、2面「教会讃美歌 増補」解説「㊲増補26番」の執筆者である奈良部慎平氏の所属に誤りがございました。正しくは「日本福音ルーテル東京教会信徒」です。訂正してお詫びいたします。校正作業における確認を徹底してまいります。大変申し訳ございませんでした。

改・宣教室から

小泉基 宣教室長(日本福音ルーテル 札幌教会牧師)

永吉秀人議長から指名され、宣教室長を仰せつかることになりました。全体教会の事務局にかかわる働きははじめてで、地方教会ばかりに長く身を置いてきた身としては、教会全体の宣教を広く云々するような知見はとてもありません。しかも、新議長から直接依頼された室長としての最初の働きが、歴代の議長が連載してきたこの「るうてる」のコラムの執筆だというのですから、なんとも戸惑いばかりが先に立ってしまうのです。
それでも、本紙6月号に掲載された「総会議長所信」を読ませていただいて、改めて思わされたこともありました。わたしたちの教会は、1960年代末に、海外の宣教団体からの補助金に頼った教会運営から脱することを強く決意しました。以来、教会の経済的自立を優先的に考えて、長い努力を重ねてきたのです。経費の節減や活動の縮小、収益事業の取り組みを含めてさまざまな努力が重ねられてきた結果、近年になってようやく、経済的に自立した教会として歩むことができるようになったのでした。しかし永吉議長は先の「所信」のなかで、「前を向いて走り続けて来たがゆえに、多くの事柄を通り過ぎて来てしまったのではないか」「私たち教会としての歩みも隣人の前に立ち止まらなければ、誰の隣人にもなれないことをわきまえます」、と語っておられます。
もしこのコラムを通して、個教会や教区、諸施設やエキュメニカルな働きといったさまざまな現場において、隣人の前に立ち止まる働きをなさっておられる方々の声に耳を傾ける機会をいただけるなら、たとえわたしが、大上段から宣教を語るようなことが出来なかったとしても、そのことをもって託された職務のいくばくかを担えるのではないかと思い至ったのです。
このコラムは、永吉議長によって「改 宣教室から」と名付けられています。「所信」によれは、この改は「悔い改め」の改なのだそうです。そして「議長から」でも「室長から」でもなく、「宣教室から」と名付けられていますから、教会の宣教にかかわる多くの方々にお手伝いいただきながら、「改」というタイトルに心に留めつつ、いまの教会と社会における宣教の現場の声をわかちあう場としていきたいと願っています。みなさまのご協力をお願い致します。

「教会讃美歌 増補」 解説

㊴増補42番「よみがえりの主の」

石丸潤一(西日本福音ルーテル 新田教会)

讃美歌委員会の発足当初、新しい『教会讃美歌』に収録する曲の方針について、様々なアイデアが出されました。『分冊1』に収録されたルターのコラールや新しい日本語の賛美歌のほかに、アジアや南米などの賛美歌、こどもや青年向けの賛美歌などを収録したいという意見が挙がりました。そんな中、「古くから日本でなじみのあるヨナ抜き音階の賛美歌」という意見が出され、その声に促されるように作ったのが、「よみがえりの主の」です。
ヨハネ3章16節から着想を得、イエス様のご生涯を歌う5節の賛美として作りましたが、他の賛美歌とのバランスや委員からのアドバイスを受け、後半2節を礼拝からの派遣の賛美とするかたちで採用いただきました。専門的な音楽教育を受けていない者が作った拙曲ですが、その分、シンプルで、音域も広くなく、口ずさみやすいメロディかと思います。
主がこの賛美を用いてくださり、みなさんが礼拝の恵みの場から主とともに歩む日々へ穏やかに送り出されるための助けとなれましたら、幸いです。
また、伴奏編曲をご奉仕くださった讃美歌委員の萩森英明兄に、心から感謝いたします。

増補50番「見つめてください」

中山康子(日本福音ルーテルむさしの教会信徒)

当時のアメリカ福音ルーテル教団の世界宣教部事務局長 ラファエル・マルピカ・パディッラ牧師が、2011年3月11日に起きた東日本大震災後に、仙台の被災地を訪ねました。世界宣教部として支援できることを探るための視察でした。その折に、その状況下でも神さまがいのちを守ってくださる方である事を感じて、聖書の言葉を紡いだ歌詞がメロディとともに即座に生まれました。それを聴き取って、賛美歌委員が伴奏を付けたのがこの賛美歌の誕生のゆえんです。
いまだに見つからないと探す方々、亡くなった方々のご関係、津波の被害に遭いながらも生きながらえた方々、それらのご関係の方々にとって、さらに支援の限界を感じ人間的には手が尽くせない思いを持つ人々にとって、すべてを造られた神に希望を託すことができるのは、なんと深い大きな慰めでしょう。聖書出典箇所として、イザヤ書46章4節、詩編50編15節、ヨナ書2章が挙げられます。深い絶望の時にも希望を失わない信仰を育てる祈りの中で歌いたい賛美歌です。

世界の教会の声

浅野直樹Sr.(世界宣教主事 市ヶ谷教会・スオミ教会牧師)

水と衛生インフラ整備して学校改善:ハイチ

キャンプ・ペリンの生徒たちにとって、清潔なトイレと洗濯や飲み水は贅沢なもの。ルーテル世界連盟(LWF)とパートナーのノルウェーのディアコニア団体(NCA)は水と衛生インフラを整備して、子どもたちが衛生習慣を身につけられるよう訓練を行っています。
ハイチ南部の農村地キャンプ・ペリンは、2022年8月の地震で大きな被害を受けました。いまだに多くの家族が仮設住宅で生活しており、学校の再建も進んでいません。社会情勢が不安定なため、インフラの整備も遅れています。
エコール・レスプワ(クレオール語で「希望の学校」の意)には、現在324人の生徒が集まり、30分から2時間かけて通学していますが、学校に着いても手を洗ったり飲む水がないこともしばしば。乾式コンポストトイレは悪臭を放つので、子どもたちも使いたがりません。年頃の女子にとって衛生的に生理の処理をするのも難しく、そのために学校を休むことも。
学校まで歩いて2時間のところに住む16歳の少女ルドニーもその一人で、7年生の彼女はクラスで最年長。家族は彼女と7人の兄弟の年間25米ドルの学費を支払えないこともありましたが、今は地域の支援を受けて学校に通い休まないよう励んでいます。毎朝5時に起きて家事を済ませ、それから学校まで2時間てくてく歩くにしても、この機会を逃すまいと決意しています。お腹をすかして帰宅しても食べ物がなく、それよりも家族の夕食の支度が先決といったことがよくあります。
「子どもたちは朝、のどが渇いています」とエマニュエル校長は言います。「きれいな水がないので、ほとんどの場合子どもたちは飲み水を買いに行かねばなりません。」 エマニュエル校長は、自宅から飲料水を持ってくるように勧めていますが、ルドニーのように歩く距離が長く、ボトルを買うお金もない生徒にとってはほとんど不可能なことです。
LWF/NCAの「グリーンスクール」プロジェクトは、エコール・レスプワで、こうした課題と向き合っています。コンポストトイレを水洗トイレに変更することで利用しやすくなり、臭いも消えます。飲料水用の水源を建設し、毎日400リットルの飲料水を学校で利用できるようになります。またこのプロジェクトには、トイレの使用、手洗い、安全な水だけを飲むといった衛生習慣の指導も含まれています。「キャンプ・ペリンの遠隔地の家庭では、野外での排泄が広く行われています」、「そのために湧き水や他の家庭用水資源が汚染され、下痢等の疾患を引き起こしています。」(LWFハイチ代表レイモンドさん)
ルドニーは、ゲームのできる校庭ができることを夢見ています。本を読むのも好きなので、学校に図書館ができたら絶対利用したいと思っています。「子どもたちは変革の担い手だと私たちは考えています。」「彼らが学んだことを家に持ち帰って、家族と地域社会の生活の向上を目指してほしいのです。」(レイモンドさん)
※詳細についてはWEBサイトをご参考ください。

リレーコラム 「全国の教会・施設から」③

日本福音ルーテル恵み野教会

中島和喜(日本福音ルーテル恵み野教会・函館教会牧師)

恵み野教会は「北海道伝道推進計画」の中で1985年に建てられた教会です。当時、開拓伝道の地として北海道内のどこに教会を建てるかと協議していた最中、同時期に恵庭市によるニュータウン計画が進行中であり、教会用地に予定されている土地に教会を建てないかとの市側からの呼びかけによって建てられた珍しい教会でもあります。そのため、まだ周辺に建物が少ない時期から、恵み野教会は地域の教会として立ち続けています。
恵み野教会はノアの方舟をイメージして建てられ、上空から見ると船の形をしているというユニークな建物です。また150平方メートルもの広大な庭があり北海道の雄大な自然をも感じられます。建物だけでなく、自然を通してもまた、神が創られたものはいかに美しいものであるかを感じさせられます。
昨年までは札幌教会との兼牧体制でしたが、4月から函館教会との兼牧体制となったため、これまで日曜日だった礼拝時間を土曜日10時からに変更しました。大きな出来事に当然痛みもありましたが、一方でこれまでは信徒礼拝や礼拝後すぐ牧師がもう一つの教会に移動するということが半分以上でしたが、そういった移動体制がなくなり、常に変わらない状況で礼拝の日を迎えられる恵みが与えられています。
恵み野教会のある恵庭市は「花のまち」として有名な街で、市が作成している観光マップには一般民家のガーデニングが紹介されるほど花への思いが強い街です。そういった地域にあることを覚えて、昨年からペンテコステの時期には「花の礼拝」として、各家庭で育てている花を持ち寄り感謝の捧げものとする礼拝を行っています。また冬場にはクリスマスフェスタとして、地域の方々に礼拝堂を会場に何か出し物をしてもらう企画も行なっています。その他にもコンサートや教会バザーなどを通して、地域の教会として愛されている教会です。空港からも非常に近い教会ですので、北海道観光の際はぜひ教会をお訪ね下さい。

九州学院みどり幼稚園

新垣力(九州学院みどり幼稚園園長)

九州学院みどり幼稚園は、1924年に米国から来日し、九州学院に赴任した宣教師、ルイス・ルー・グレーシー氏が自宅の一室で10人の子どもたちを集めて幼児教育をスタートしたのが始まりであるとされており、2024年12月で100周年を迎えます。
異年齢との交流や礼拝、行事等を通して感謝と思いやりの心を育てています。付属幼稚園としての良さを生かし、九州学院中学・高校の外国人教師による英語あそびや体育教師による運動あそびを毎週実施しています。また、入園式、卒園式もチャペルで行うとともに、中学・高校の広いグラウンドや体育施設を使ってのびのびと体を動かす機会を設けています。園には給食室が設置されており、完全給食を実施し、地産地消に努め、食育にも力をいれています。
2015年からは、幼保連携型認定こども園として新たなスタートを切り、現在106名が在籍しています。
幼稚園から認定こども園へ変わったことで、子どもを預かる時間や職員の勤務時間の違い、職員数の増加といった新しい運営体制に順応していくことが求められましたが、子どもたちは、神様から託されたかけがえのない存在あることに変わりはなく、一人ひとりに寄り添った教育、保育に努めています。
職員集団として声を掛け合っているのは、「正しい自己肯定感を高く保つ」ということです。子どもを取り巻く私たち大人の自己肯定感、自己有用感が低ければ、子どもの良さに「気づき、認め、励まし、伸ばす」ことは難しいと考えています。あわただしい日々ではありますが、毎朝の讃美歌とお祈りで、「今日も新しい朝をいただいたことへの感謝」の心をもち、子どもたちへの愛を誓っています。また、園長として、職員の日々の努力を認め、具体的な言葉で感謝を述べるようにしています。保護者に対しても同様です。
これからも、献身と謙遜の心を忘れず、職員一同子どもたちのために頑張っていきたいと思います。

エキュメニカルな交わりから ⑰平和を実現するキリスト者ネット

小泉嗣(日本福音ルーテル熊本教会・玉名教会・八代教会牧師)

「平和を実現するキリスト者ネット(以下・平和ネット)」は、平和ネットのホームページによると、国会で日米安保条約の新ガイドライン、周辺事態法、国旗・国歌法等が次々と成立し、平和と信教の自由が侵される危うい状況に危機感を持った日本キリスト教協議会(以下・NCC)が呼びかけて1999年に設立された34の日本のキリスト教会、教派、団体で構成されたネットワークです。
そしてこの平和ネットの特徴は、日本のキリスト教界に生きる「平和」を実現しようとする様々な教派、団体(日本カトリック、日本自由メソヂスト教団、日本YMCA同盟、日本キリスト者医科連盟、等々…)の「祈り」と「手」によって活動が続けられているという点と、この平和ネットが、日本の他宗教・団体と共に平和を実現するための活動をする際のキリスト教界の窓口となっている点であると言えます。これまではキリスト教の教派・団体がそれぞれバラバラに参加し、活動してきた、憲法9条や、沖縄辺野古基地建設反対、秘密保護法反対などの全国的に展開される運動に対し、(もちろん個々の教派・団体の関りは継続しつつ)「平和ネット」という共通の名札で参加することを可能としたのです。様々な集まりに一人で参加していた人も「平和ネット」の旗を見つけて、「あっ、あそこにイエスの平和を祈る人たちがいる」と勇気をもらった人も少なくないと思います。
加盟教派であるルーテル教会の派遣委員の働きは、年に2回行われる運営委員会に出席し、自らの教会の平和に資する活動の報告と、他教派・団体の情報を収集すること、そしてルーテル教会だけでは実現できないような集まりを、ルーテル教会のみなさんにお伝えすることです。
ルーテル教会からは派遣委員だけではなく事務局の働きを担ってくださっている方もおられます。平和ネットの働きは、主イエスの平和を実現するための直線的なものではないかもしれませんが、多様化・複雑化する社会の中で、平和のために共に祈る場・共に歩む場を整える大切な働きです。これからもお祈りとお支え、何より様々な活動へのご参加、よろしくお願いします。

「平和へ向けての提言核問題の視点から」

内藤新吾(日本福音ルーテル稔台教会牧師)

平和と核の問題は一体です。また、核について日本では、「核」と「原子力」と言葉の使い分けがされますが、世界では区別なく(nuclear)、軍事と平和利用は緊張関係にあり繋がっています。私たちは、原発がなぜ普及するようになったかの歴史的背景を注意深く見ておく必要があります。原発を推進する国や企業は「原爆と原発は違います」と繰り返し言ってきましたが、実はそこに一番触れられたくない事情が隠されています。
原発の世界への普及は、核兵器を持ち続けたい大国が経済安定のため立案したものです。第二次世界大戦後、アメリカと旧ソ連を中心に核競争が激化、このままでは国家が経済破綻してしまうのを避けて儲ける部分も設定しました。また、原発を買う国には核開発しない約束をさせ監視し、保有国の優位を保ちました。その代わり、原発を買った国には国家と担当企業に利権の集中が図られます。
さらに、これはアメリカが特に戦後すぐ行ったこととして、自分たちの落とした原爆が悪魔の兵器だったという批判を避けるため、放射線の影響が極力小さく見えるよう、ABCC(原爆傷害調査委員会)を設置し報告をまとめます。そしてABCC報告を元にICRP(国際放射線防護委員会)が組織され、原子力関連の労働者に被ばくの訴えを出させないためにも、放射線の規制を甘くしてきました。それは現在、福島で原発震災が起きた後も、その影響はないとすることに繋がっています。
日本はアメリカから原発を導入しましたが、再処理や高速炉開発にここまでこだわるのは、エネルギーのためではないと警戒すべきです。それは核武装です(絵本『魔法のヤカン』愛育出版あとがきにも)。その可能性は、日本が原発導入を決めた時の原子力基本法案の議案説明にも、歴代大物政治家の言葉にも、外交政策の文書にも刻まれています。また、これまで何度も国会で、自衛のためなら小型核兵器を保持しても合憲との与党側答弁がなされています。でも行わないのは、核武装そのものが目的ではなく、同盟国への商売まで考えているからでしょう。どれだけ憲法をねじ曲げ解釈しても、さすがに9条がそこまでは許さないのです。核の問題を放置しないことと改憲阻止は、信仰者の務めと思います。まさに、いのちと平和の問題です。
ところで昨年の夏、政府は、ウクライナへのロシアの侵攻で石油やガス高騰のドサクサに、原発が攻撃対象となることにはフタをして、原発政策の大転換案を出しました。そうして国会審議も経ず閣議決定、その後も関連のGX法案をアッという間に通しました。しかし、どのように国が進めようと、よくない政策や法はまた変えることができます。多くの人が騙されていますが、原発は諸工程を入れると一番コストが高く、太陽光と風力の発電は一番安いのです(映画『原発をとめた裁判長そして原発をとめる農家たち』にも)。真実を知り、伝えていくことが大事です。

デンマーク牧場福祉会20周年記念感謝会報告

櫻井隆(デンマーク牧場福祉会理事長)

6月10日、ルーテル教会関係者約50名を含め、来賓・職員など総勢150名ほどの方が参加されて、デンマーク牧場福祉会の20周年記念感謝会を実施することができました。感謝会では、現在の法人の状況を知ってもらうことを主眼としたため、著名な方をお迎えした講演会などは行わず、創立から20年が経過した現在の様子を紹介させていただきました。
礼拝、挨拶、事業所報告と地味な内容でしたが、参加された来賓、教会関係者の方々から良い会であったという感想を聞くことができ、本当に良かったと感謝しています。
2003年、社会福祉法人デンマーク牧場福祉会は、特別養護老人ホーム「ディアコニア」の一つの事業から始まりました。海外からの財政的支援のない中で、社会福祉法人の認可を受け、ディアコニアを建築することは容易なことではなく、準備委員の方々が中心となり、多くの方々の熱心な祈りと働きにより、困難を乗り越えて開設されました。そして、20年が経過した現在、デンマーク牧場福祉会は、四つの社会福祉事業と二つの公益事業、一つの収益事業を行い、130名余の職員が働く法人へと成長してきました。これまでの歩みは、順風満帆とばかりとは言えませんが、ここに至るまでに導かれたことに感謝しています。そして、20周年を迎えたこの時に、これまでに多くの方々の働き、支援、祈りがあったことを覚え、デンマーク牧場福祉会のこれからを考える機会にしたいと思っています。
特に、法人・特別養護老人ホーム設立の時にご負担いただき、20年にわたって福祉村献金として支援していただいた東海教区はじめ全国の信徒の方々には、心より感謝申し上げます。その思いや祈りを受け止めて、これからも職員と入所者・利用者で、より良い法人になるよう努めていく所存です。
また、20周年を記念して、『豊かな大地に守られながら、一人ひとりに寄り添って~デンマーク牧場福祉会二十年の歩み~』を発行しましたので、皆様の教会に送付させていただきます。こちらにも、ここ10年の歩みを中心に、法人の20年についてまとめましたので、皆様にご指導をいただきたく、よろしくお願いいたします。

南熊本教会共同体「初夏の集い」を久しぶりに開催

⻆本浩(日本福音ルーテル神水教会・松橋教会・荒尾教会牧師)

南熊本教会共同体(私たちは普段「南熊本群」と呼んでいます)では、共同体内の人件費支援を行ったり、共同体として出席する全国総会に小さな群れの信徒が無理なく行けるように総会旅費の積み立てを行ったりしてきました。また、年2回の合同役員会、そして、年2回の講壇奉仕交換プログラムも続けています。おそらく、これだけ実質的な協働を続けている教会共同体は全国でも珍しいのでは、と思っています。
そして、もう一つの目玉がペンテコステあたりの時期に行っている「南熊本群初夏の集い」です。このプログラムも新型コロナウイルスの感染拡大により、3年間、休止を余儀なくされてきました。ようやく・・・ようやく今年6月3日(土)4年ぶりの開催の運びとなりました。
南熊本群には6教会がありますが、毎年、担当、企画等持ち回りで続けてきております。過去には、各教会から一人ずつの証しを聴く時もあり、讃美を楽しむ集会あり、春の河原で野外礼拝と信仰の思いを俳句に読んだ機会あり、ノアの箱舟の劇を行った時もあれば、各自の愛唱聖句を語り合って小冊子を作った時もあります。
今回は神水教会が担当となっていました。久しぶりに集まるから、何か「なつかしさ」を共有したいという思いもあって、三浦綾子さん作の「塩狩峠」について振り返りました。ご存じの方も多いと思いますが、乗客を救うために、逆走し脱線の危機にあった列車を止めようと自身の命を懸けて殉職した鉄道員の小説です。起こった出来事もさることながら、主人公の永野信夫さん(モデルとなったのは長野政雄)が次第にキリストを信じていくその過程などを考えるひとときを過ごしました。
久しぶりの再会でしたので、昼食後は、一人ひとりマイクをもって近況報告会。
兄弟が共に座っている。なんという恵み、喜び!そう実感した一日でした。

「2023年 ルーテル聖書日課読者の集い」のご案内

「ルーテル聖書日課読者の集い」が3年ぶりに対面開催されます。聖書日課の講読者ではない方もご参加頂けます。皆様のご参加をお待ちしております。

〈主題〉ローマ書を学ぶ(仮題)
〈講師〉大柴譲治牧師(日本福音ルーテル大阪教会)
〈日程〉10月23日(月)~25日(水)
〈申込締切〉9月30日(土)必着
〈参加費用〉お1人・3万3千円(2泊6食付き)
*シングル・ツイン同額
〈宿泊先〉ホテル・ザ・ルーテル *基本はシングルルームとなります。ツインルームをご希望の方は、お早めにご連絡ください。ツインは数に限りがございますので、ご希望に添えない場合がございます。
〈申込先〉
氏名、住所、メールアドレス、ご連絡先、所属教会、ツインルームご希望の場合は、同室希望者の氏名を明記の上、
seishonikka@jelc.or.jp
もしくは
FAX(03)3260―8641
まで送信ください。
〈お問合せ〉
聖書日課を読む会事務局 担当・平野
(日本福音ルーテル教会事務局内)
TEL(03)3260―8631
FAX(03)3260―8641
seishonikka@jelc.or.jp

23-07-02今日を、明日を生きるために

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイによる福音書11章25~30節(28節))

 一体どれだけの人がこれまで、このイエスの言葉に癒され、励まされ、導かれてきたのでしょうか?
 その疲れの原因はともかく、とにかく「疲れている」すべての人に向けてこの言葉は語られています。もちろん、一義的には2000年前のイスラエルに住む人々に向けてでしょう。マタイによる福音書11章はイエスの宣教の記述にはじまり、洗礼者ヨハネの弟子たちとのやりとり、そして彼についての解説の後、コラジンにはじまりカファルナウムまで、イエスが数多くの奇跡を行ったにもかかわらず悔い改めなかった町々を叱り、そして神のみ心が知恵ある者や賢い者ではなく、幼子のような者に示されたことを明らかにしたうえで、このイエスの言葉が語られています。このことから考えると、「疲れた者」とは、洗礼者ヨハネの言葉にも、イエスの宣教の業によっても、悔い改めなかった人々、知恵ある人、賢い人によって、その疲れる原因を与えられた人々の事かもしれません。彼らは自らは天まで上げられると思っていた人々、自らは知恵ある賢いと思っていた人、神に対して謝ることをせず、思い上がり、自分の知恵や力を頼りにする、そんな人々によって、重荷を負わされたのです。その人々とはファリサイ派や律法主義者、宗教的指導者のことであったのかもしれません。彼らによって「罪」を負わされた人々、圧政によって厳しい生活をしていた人々を、マタイによる福音書に多く見ることができるからです。イエスはそんなファリサイ派や律法学者と対峙し、神のみ旨を伝え、そして彼らによって「罪」を負わされた人々を癒し、救い、生きる力を与えられたのです。
 イエスによって癒され、救われた人々には明日がありました。だから「休ませてあげよう」と言われているのでしょう。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」この言葉は、臨終の言葉ではなく、今日を生きる人々に向けて語られているのです。そしてまたイエスは続けます「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」と。
 イエスの目から見れば、時の指導者たちは神に対して、人に対して、粗暴で険悪、傲慢な人々であったのでしょう。必要以上に神に求め、人に強いていた、そのことでたくさんの人が重荷を負わされ、疲れていたのです。だからこそ、イエスに学ぶように、多くを求めず、強いることをせず、ただイエスに聞くこと、それが父なる神を知ることになるのだと、イエスは言うのです。
 なるほど、だからこそ、この言葉に私たちは癒され、励まされ、導かれるのです。もちろん私たちのまわりには律法学者やファリサイ派はいませんし、直接的な圧政に苦しめられているとも言えないでしょう。しかし私たちは、傲慢で、険悪で、自らの正しさや、知恵や力に頼る人々によって、また社会によって、どこかで無理を強いられ、何がしかの圧力に疲れを感じているのではないでしょうか?またもしかしたら、自分自身がそのように無理を強いたり、圧力をかけたりしているのではないでしょうか?そしてそのことによって、重荷を負い、生きることに疲れてしまっているのではないでしょうか?
 「もしそうであるならば、私のもとに来なさい。あなたが今日を生きるために、休ませてあげよう。あなたが明日を生きるために、柔和で謙遜な私から学びなさい。」イエスはそんな私たちに、2000年前から今日まで、そしてきっとこれからも、このように語りかけてくださっているのです。

23-07-02るうてる2023年07月号

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「今日を、明日を生きるために」

日本福音ルーテル熊本教会・玉名教会・八代教会牧師 小泉嗣

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイによる福音書11章25~30節(28節))

 一体どれだけの人がこれまで、このイエスの言葉に癒され、励まされ、導かれてきたのでしょうか?

 その疲れの原因はともかく、とにかく「疲れている」すべての人に向けてこの言葉は語られています。もちろん、一義的には2000年前のイスラエルに住む人々に向けてでしょう。マタイによる福音書11章はイエスの宣教の記述にはじまり、洗礼者ヨハネの弟子たちとのやりとり、そして彼についての解説の後、コラジンにはじまりカファルナウムまで、イエスが数多くの奇跡を行ったにもかかわらず悔い改めなかった町々を叱り、そして神のみ心が知恵ある者や賢い者ではなく、幼子のような者に示されたことを明らかにしたうえで、このイエスの言葉が語られています。このことから考えると、「疲れた者」とは、洗礼者ヨハネの言葉にも、イエスの宣教の業によっても、悔い改めなかった人々、知恵ある人、賢い人によって、その疲れる原因を与えられた人々の事かもしれません。彼らは自らは天まで上げられると思っていた人々、自らは知恵ある賢いと思っていた人、神に対して謝ることをせず、思い上がり、自分の知恵や力を頼りにする、そんな人々によって、重荷を負わされたのです。その人々とはファリサイ派や律法主義者、宗教的指導者のことであったのかもしれません。彼らによって「罪」を負わされた人々、圧政によって厳しい生活をしていた人々を、マタイによる福音書に多く見ることができるからです。イエスはそんなファリサイ派や律法学者と対峙し、神のみ旨を伝え、そして彼らによって「罪」を負わされた人々を癒し、救い、生きる力を与えられたのです。

 イエスによって癒され、救われた人々には明日がありました。だから「休ませてあげよう」と言われているのでしょう。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」この言葉は、臨終の言葉ではなく、今日を生きる人々に向けて語られているのです。そしてまたイエスは続けます「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」と。

 イエスの目から見れば、時の指導者たちは神に対して、人に対して、粗暴で険悪、傲慢な人々であったのでしょう。必要以上に神に求め、人に強いていた、そのことでたくさんの人が重荷を負わされ、疲れていたのです。だからこそ、イエスに学ぶように、多くを求めず、強いることをせず、ただイエスに聞くこと、それが父なる神を知ることになるのだと、イエスは言うのです。

 なるほど、だからこそ、この言葉に私たちは癒され、励まされ、導かれるのです。もちろん私たちのまわりには律法学者やファリサイ派はいませんし、直接的な圧政に苦しめられているとも言えないでしょう。しかし私たちは、傲慢で、険悪で、自らの正しさや、知恵や力に頼る人々によって、また社会によって、どこかで無理を強いられ、何がしかの圧力に疲れを感じているのではないでしょうか?またもしかしたら、自分自身がそのように無理を強いたり、圧力をかけたりしているのではないでしょうか?そしてそのことによって、重荷を負い、生きることに疲れてしまっているのではないでしょうか?

 「もしそうであるならば、私のもとに来なさい。あなたが今日を生きるために、休ませてあげよう。あなたが明日を生きるために、柔和で謙遜な私から学びなさい。」イエスはそんな私たちに、2000年前から今日まで、そしてきっとこれからも、このように語りかけてくださっているのです。

エッセイ「命のことば」 伊藤早奈

㊵「立ち止まって」

「主をたたえよ。嘆き祈るわたしの声を聞いてくださいました。」(詩編28・6)

 道端に咲く野の花に座って話しかけている人のシーンを見ました。あの花が喋り出したらいろんなことを教えてくれそうだなと思うとなんだかすごく楽しく感じました。
 部屋に置いた小さな花も庭やどこかの畑にある花々も毎日話しかけると綺麗に花を咲かせるとどこかで聞いたことがあるような気がします。
 人間も同じかもしれません。
 毎日笑顔を向けられていたなら。毎朝話しかけられたなら。
 もし無視され続けたら辛いです。
 ある人が愛の反対は憎しみではなく無関心だとおっしゃいました。
 挨拶をできない人がいました。その人が通る空気も嫌で息を止めていたこともあります。
 その人が近づくと慌てて逃げました。これはその人に関心があるということなのでしょうか?する方も、される方もあまりにも辛いかもしれません。でも神様は違います。
 あなたに「あなたはわたしにとってかけがえのない存在だよ。」「あなたは大切な存在だよ。」と毎日話しかけてくださっておられます。たとえ話しかけているのに道端に咲く花のように返事もなく、聞いてないようでも神様は毎日あなたに笑いかけ、あなたに語りかけてくださいます。
 「あなたはわたしにとってかけがえのない存在だよ。」「あなたは大切な存在だよ。」と神様は全てを通して語りかけてくださいます。ほらそこにも。

改・宣教室から

日本福音ルーテル教会 総会議長 永吉秀人

「議長室から」改め、「宣教室から」のメッセージへ。

 このたびの全国総会において、第30期の議長として選任されました永吉でございます。感染症拡大の影響により3年間の忍耐を経て、各個教会におかれましても全体教会においても宣教の活性化のチャンスが訪れました。かつてのように密集する活動に戻ることはありませんが、社会の意識にふさわしく配慮された活動が展開され、創出できると希望を持っています。
 かつて、機関紙「るうてる」の紙面について、全国の教会においては議長の顔が見えないゆえに「議長室から」というメッセージの必要性を求めたのは私自身であったように記憶しています。もちろん、教会はこれからどこへ行くのかという示唆的なメッセージは有って有るべきものですが、それ以上に教会がいま何をしているのかという具体的な取り組みや関わりを紹介し、分かち合い、呼びかけを通して皆様と連帯していくことが大切であると感じています。
 全国総会では新たに「第七次綜合方策」が採択されました。中心的課題は牧師の職務である牧会の機能回復であり、それを実現するための教会の再形成(リ・フォーメイション)です。前大柴讓治議長は「聽」という漢字をシンボルとして掲げておられましたが、それに倣って今期のシンボルを掲げますならば、「改」という漢字になるでしょう。しかしながら、これは改革の「改」ではなく、悔い改めの「改」です。「あらためる」ではなく、「あらたまる」であります。
 教会は社会との関わりにおいて、そこでの使命として日本福音ルーテル教会に留まらず、NCC(日本キリスト教協議会)を通して、またカトリック教会と連携しつつ、様々な活動も担っています。しかしながら、委員や担当者を置きながらも、それぞれの働きを全体で分かち合うまでには至っていないのが現状です。社会的な課題は教会の宣教の話題の一つに過ぎないのではなく、どの活動にも人々の痛みと忍耐と希望があります。日本福音ルーテル教会全体として、これまで気づけなかったり、通り過ぎて来た一つ一つの課題に立ち止まる勇気と立ち続ける忍耐とを共有することがキリストの教会には求められます。そのためにも「るうてる」の紙面を通して「宣教室から」呼びかけてまいります。

「教会讃美歌 増補」 解説

㊲増補26番「かみさま わたしのとなりびとは だれ」

奈良部慎平(日本福音ルーテル 東京教会信徒)

 ちょうどわが家に子どもが生まれたタイミングで、「宗教改革500周年の記念にもなるし、教会に行った時に子どもたちと一緒に歌える歌があるといいな」と思い作詞してみました。
 歌詞には子どもが好きそうなリズムと言い回しが含まれるように、言葉あそびの要素を考慮して言葉を考えたように思います。
 聖書の隣人愛のメッセージを、小さな子どもでもイメージしやすいように落とし込んだつもりです。
 幸いにも素晴らしい楽曲が与えられ、大変感謝しています。すでにわが家の子どもたちは大きくなり、一緒に歌を歌うことはありませんが、1人でも多くの子どもたちや家族が愛唱してくだされば嬉しいです。
 シンプルな歌詞で大きな神様のメッセージが伝わればいいと思っています。

㊳増補33番「インマヌエル」

水原久美子(日本福音ルーテルシオン教会員)

 教会に行き始める以前、家庭集会に招かれ通うようになりました。会って間もない私の話を、皆さんが一生懸命聞いて下さいました。そのことは、強烈な印象として記憶しています。
 集われた方々と自分が、友としてつながっていることを実感し、また、キリストが「友だちだよ」と言って下さったことは舞い上がるような喜びでした。(実際、私は舞い上がっていたかもしれません。)
 その頃、言葉やメロディーが、私の中で、次々と浮かびました。「インマヌエル」も、書き留めたものの一つです。私は、友人と呼ぶ人もおらず、関わり合いが家族間でも乏しい家で過ごしておりましたが、この曲を神様がプレゼントして下さったと思います。

世界の教会の声

浅野直樹Sr.(世界宣教主事 市ヶ谷教会・スオミ教会牧師)

ルター派と正教会エキュメニカル協議会の神学的対話について

 LWFと正教会(エキュメニカル総主教指導の下)の国際合同委員会による神学対話が、4月29日から5月6日までルターとメランヒトンが活躍した都市ヴィッテンベルクで開催されました。
 テーマは「聖霊と教会そして世界:創造、人類、救済」。出席者たちは2025年出版予定の共同声明作成に向け作業しました。2025年はニケア公会議1700年記念の年にあたります。ニケア公会議は紀元325年、当時の教会指導者がキリスト教の教義と実践について合意を目指した最初のエキュメニカルな国際会議です。

 LWFエキュメニズム部門のランゲ教授によると「議論はとても建設的で、会話は前向きでした。委員全員が責任をもって真剣に取り組むという経験をできたのは喜びでした。双方から1人ずつ議長が出て、話し合いは活発に進められ集中できました。」

 会期中、エキュメニカル総主教バルトロメオ1世とLWF事務局長アンネ・ブルグハルト師から、40年以上におよぶルーテル教会と正教会による神学対話の進展を祝うメッセージが届けられました。またヴィッテンベルクの城教会では「みことばの礼拝」が、ナウムブルク大聖堂ではルター派の聖餐式が行われました。

 エピクレーシス(聖餐式において聖霊を想起し、パンとぶどう酒そして会衆に向けて聖霊の降臨を呼び求める祈り)は、正教会の典礼と教会論の中心にあるため、そこに議論が集中しました。ルターは、ドイツ語ミサ典礼にはその形式を取り入れましたが、当時のカトリックのミサ典礼には入っていなかったため、特に強調しませんでした。けれどもエピクレーシスは、この100年の間、殊に20世紀半ばの北アメリカとスウェーデンの典礼刷新運動を機に多くのプロテスタント教会で再び位置を占めるようになってきました。

 もう一つ「活発な議論」になったのはフィリオクエ論争です。この論争の発端は、ニケア信条の「(聖霊は)父と子から出で」の「子から」を、ラテン語西方教会が6世紀後半に挿入したことです。この文言の挿入によって、西と東の教会間には深い溝ができてしまいました。

 委員たちは「異なる神学的枠組み、典礼としての帰結、考えられる着地点」を探り、次回の委員会で「牧会的意義を検討しつつさらに研究プロセスを深める」ことに合意しました。LWFは、エキュメニカルな礼拝においてフィリオクエ(子から)の文言を省くことを勧めています。ナウムブルク大聖堂でランゲ教授が司式したルター派礼拝ではそのように行われました。
 次回の準備委員会はLWFの主催で11月6日から19日にかけてエストニアの首都タリンで行われます。

※詳細についてはWEBサイトをご参考ください。

リレーコラム 「全国の教会・施設から」②札幌教会

小泉 基(日本福音ルーテル札幌教会牧師)

 札幌教会は、三位一体の教会だといえます。それぞれに宣教の歴史を刻んできた札幌教会、札幌北教会、新札幌教会という三つの教会が、ひとつの教会としてのあゆみをはじめて16年になります。もっとも長い歴史を有するのが札幌礼拝堂。フィンランドの宣教団体が1916年に伝道をスタートさせ、翌年教会が組織されて北海道にはじめてのルーテル教会が誕生しました。8年もの伝道中断期を経験するなど、困難な時代も経験しつつ、1934年に市南部に風格ある礼拝堂が献堂され、3年後にはお隣りにめばえ幼稚園も開園してその宣教は軌道に乗りました。札幌市景観重要建造物(第1号)にも認定されているこの堂々たる礼拝堂は、現在も大切に用いられています。一方戦後、市北部で継続していた伝道活動が実を結び、1964年に札幌北教会が生まれます。1969年に献堂した礼拝堂は2006年に建て替えられ、地下鉄駅の出口にも近い交通至便の使いやすい現在地に礼拝堂を得て、札幌北礼拝堂として宣教が続けられています。最も新しい新札幌礼拝堂は札幌の副都心、JR新札幌駅から徒歩5分という好立地に1981年、全国レベル開拓伝道の一環として清新な礼拝堂を献堂。新札幌教会として宣教がはじまりました。
 これら三つの教会が2007年に教籍と会計を一本化して教会組織を統合。新しい札幌教会の歴史が始まりました。この3礼拝堂とめばえ幼稚園とが、ひとつの宣教共同体として札幌におけるルーテル教会の宣教を担っています。
 現在は、4月に着任した小泉が、主に土曜日の札幌北礼拝堂、日曜日の札幌礼拝堂の礼拝を担当。新札幌礼拝堂は、帯広からおいでくださる岡田薫牧師の協力のもとに日曜日に礼拝を行っています。札幌においでの際は、ぜひ札幌教会の礼拝にお出かけ下さい。

大阪でペンテコステ・ヴィジル礼拝開催 

竹田大地(日本福音ルーテル天王寺教会牧師)

 5月27日(土)午後5時から日本福音ルーテル天王寺を会場に第15回ペンテコステ・ヴィジルが執り行われました。この礼拝は、初めカトリック教会、聖公会、日本基督教団の3教派の取り組みとして始まり、2011年の第5回から日本福音ルーテル教会も加わり、大阪地区の4教派のいずれかの教会で行なわれてきました。第15回の今回は日本福音ルーテル天王寺教会で執り行われ、各教派の方々が集い、合計で40名の出席がありました。
 説教は、有澤慎一牧師(日本基督教団池田五月山教会牧師)が担当してくださり、聖霊降臨の出来事を、ご自身の司牧する教会で起こった出来事を交えながら、様々な考え方、思いなどがあることを認め、互いに尊重しながらも、信仰によっては神から与えられる聖霊によって一致しているということを強調する内容でした。
 司式は、4教派から5名が担当し、ロッコ・ビビアーノ神父(カトリック大阪大司教区)、内田望司祭(日本聖公会大阪教区)、井上隆晶牧師(日本基督教団)という多彩な顔ぶれで式文を分担して行いました。日本福音ルーテル教会からは、大柴譲治牧師(日本福音ルーテル大阪教会牧師)と竹田が担当をし、奏楽は、日本福音ルーテル天王寺教会オルガニストの村上薫里さんが担当をしました。
 エキュメニカルな交わりを深める上でも非常に有意義な礼拝が執り行われていると感じています。礼拝の中での連祷では、各教派の信徒が、交代で前に出て祈りをし、心を合わせる時が与えられました。
 草の根運動ではありませんが、神父、司祭、牧師だけではなく、信徒同士が顔と顔を合わせて、讃美の声を合わせ、祈りを共にし、福音に聞いていくことこそがエキュメニカルな交わりをより深めていく機会だと毎回出席をするたびに感じております。このような交わりが各地で広がっていくことを切望します。
 来年は、日本基督教団の教会を会場にして執り行われます。この取り組みが回を重ねていき、主から与えられる聖霊による一致を目指す歩みとなることをこれからも教派を超えた共同の祈りとしていければと思います。
 どうぞ機会がございましたら、聖霊降臨祭の前日、ご一緒に教派を超えて共に福音に聞く恵みと喜びを大阪の地で与かりましょう。

エキュメニカルな交わりから ⑮NCCエクロフ委員会

滝田浩之(日本福音ルーテル小石川教会牧師)

 エクロフ
(ECLOF=Ecumenical Church Loan Fund)は、1946年、第二次世界大戦で被害を受けた教会堂の復興のためにジュネーブに設置された基金で、世界教会協議会と密接な関係を持つ超教派的で国際的な教会間の援助制度です。
 日本エクロフ委員会は、各教派から派遣された委員で運営されています。日本の敗戦後、多くの教会がこの融資を受けて会堂を建築しました。
 年間の融資枠及び一件当たりの限度額は1,000万円とされ、融資金額は総工費の4分の1を超えない金額となっています。複数の申請のある場合は委員会が調整します。2年間の据え置き後、5年以内に返済することになっています。年利は1%です。
 日本福音ルーテル教会は、本教会から会堂建築に関して貸付制度があり、エクロフ基金の申請はここ数十年ないものと思いますが、このような基金が存在すること、そして戦後に多くの教会がこの基金を利用して再建されていったことを覚えたいと思います。

⑯NCC靖国神社問題委員会

岡田 薫(日本福音ルーテル帯広教会・札幌教会牧師)

 日本キリスト教協議会(以下NCCと表記)には、「宣教・奉仕」、「神学・宣教」、「国際」、「総務」という四つの部門があり、今回ご紹介する「靖国神社問題委員会」は「宣教・奉仕部門」にある八つの委員会のうちの一つです。「ヤスクニ神社問題委員会」と表記されることもあるようです。
 正加盟と准加盟の教会(教団)・団体から派遣されている委員によって、毎月第1月曜日の午後6時~8時にオンラインで委員会が行われています(7~10名が参加)。協議される事柄は多岐にわたり、必要に応じて抗議文や声明文を整え随時公表しています。
 最近では「首相及び閣僚の靖国神社春季例大祭での真榊奉納に抗議する」、「『国』による葬儀はなぜ問題なのか」等の文章について検討し発信しています。また「天皇代替わり問題記録集」の出版準備もいよいよ最終段階となってきました。無事出版された際には各教団でも取り扱っていただきたいとの要望があります。
 なぜこのような委員会があるのでしょう?それは、政府が特定の宗教法人と深く関わり、公金を支出することは、政教分離・信教の自由という憲法の大原則に違反しているからです。NCCのホームページ内にある「靖国神社問題委員会の歩みとその意義について」の文章の終わりには「大切なことは何でしょう。それは、人間、私たち一人一人が大事にされることです。天皇や天皇の為といって殺されていった英霊が大事にされ、賛美されることではありません。当委員会の働きの意義は、この国にとって真に大きいと自覚し、その働きを続けていきたいと、心から願い、祈ります。」とあります。新たな戦前という言葉が聞こえてくる今、あらためて国民主権・平和主義・基本的人権の尊重という憲法の三大原則の重要性を感じます。
NCC第41回総会期(2021│2023)のテーマは「│神の与えてくださるすべての命を愛する者として│」であり、聖句は使徒言行録17章25節bからです。委員会に参加するたびに、あなたは神の与えてくださるすべての命を愛する者としてどのように生きていますか?生きることができますか?と問われているような思いになります。担当となって日が浅いためすべてを把握できておらず十分なご紹介となりませんでしたが、少しでも関心を持っていただければ幸いです。詳しくは左記のURLをご覧ください。

※詳細についてはWEBサイトをご参考ください。

第30期総会期 諸委員一覧

【常設委員】
〈機関紙委員会〉竹田大地・宮本新・李明生・中嶋羊子・岡田薫・高村敏浩・室原康志・岩切雄太
〈神学校/ルーテル学院大学委員会〉立山忠浩・竹内茂子・石原修(以上任期2026年まで)・滝田浩之・松岡俊一郎・橋爪大三郎(以上任期2024年まで)
〈神学教育委員会〉松本義宣・松岡俊一郎・宮本新・立山忠浩・滝田浩之・山内恵美・市吉伸行
〈財務委員会〉荒井奈緒子・市吉伸行・管田恵一郎・竹田孝一・橘智・滝田浩之
〈社会委員会〉小泉基・秋山仁・内藤文子・高田敏尚・佐伯里英子・西川晶子
〈ハラスメント防止委員会〉長谷川卓也・小勝奈保子・山内恵美・李明生
【常設委員】
〈法規委員〉秋山仁・河田優・⻆本浩・岡田京子・小谷供
〈資格審査委員〉渡邉克博・竹内一臣
〈監査委員〉田島靖則・榎本尚
〈教師試験委員〉小勝奈保子・後藤由起・沼崎勇・三戸真理(以上4年任期)・浅野直樹Sr.・岡田薫・芳賀美江(以上2年任期)
〈人事公平委員〉内藤文子・浅野直樹Jr.・朝比奈晴朗・犬飼誠・青木美奈
〈信仰と職制員〉宮本新・多田哲・西川晶子・石原修・中原通江・鈴木亮二
〈報告審査委員〉安井宣生・野口和音・嶋田ひでみ・江崎啓子
【その他の委員会】
〈エキュメニズム委員会/聖公会〉滝田浩之・立山忠浩・宮本新・高村敏浩・多田哲・李明生・藤原佐和子
〈エキュメニズム委員会/カトリック〉滝田浩之・立山忠浩・宮本新・高村敏浩・多田哲・李明生・藤原佐和子
〈世界宣教委員会〉滝田浩之・浅野直樹Sr.・森田哲史・中島和喜・森下真帆・和田めぐみ
〈LWF/WICAS委員〉未定
〈宣教師・J3オリエンテーション・ケア委員会〉浅野直樹Sr.・高村敏浩・熊本地区推薦教職(未定)
〈任用試験委員〉永吉秀人・滝田浩之・荒井奈緒子・市吉伸行・李明生・益田哲夫・教師試験委員長
〈方策実行委員会(憲法規則改定委員会)〉小泉基・白川道生・岡田薫・滝田浩之・宮本新・李明生
〈典礼員会〉松本義宣・滝田浩之・石居基夫・多田哲・小澤周平
〈TNG委員会委員長〉竹田大地
〈ルター研究所運営委員〉滝田浩之
〈DPC運営委員〉関野和寛
※所属教会・施設及び敬称略

るうてる法人会連合開催のお知らせ

現地実行委員長 ⻆本 浩

 宣教に取り組むルーテルグループの社会福祉法人、学校法人、教会が手を携えて歩もうと生まれたるうてる法人会連合。早いもので設立から今年は21年目となります。
 COVID│19の感染拡大で延期、延期が続き、ようやく今年4年ぶりの開催です。今回の日程は2023年8月22日(火)~23日(水)。熊本・九州学院を会場に研修、総会を行います。
 初日の研修では、姜尚中氏をお迎えし「これからのミッション」(仮題)についてお話していただきます。るうてる法人会連合に集う各法人からの参加者にあってもクリスチャンではない方々も年々多くなっているのが現状です。各法人において、また各個人においても、「どんな働きが期待されているのか」「キリスト教主義の法人としてどんな歩みが続けられていくのか」じっくりとお聴きし、語り合う場となるよう現地実行委員会で準備しております。
 8月の熊本はアツいです。どうぞお越しください。また、研修ばかりでなく、法人会連合では懇親会の時間をもうけて、いつも楽しく交流することも恒例行事となっています。楽しく語り合い、お友だちになりましょう。
 この『るうてる7月号』が届くころに、みなさまのお手元に案内も届く予定です。どうぞよろしくお願いいたします。

TNG‐ユース部門「第2回リーダー研修キャンプ」開催案内

竹田大地(TNG│ユース部門長・日本福音ルーテル天王寺教会)

 3年前に企画し、COVID│19の影響により延期していた「第2回リーダー研修キャンプ」を開催する運びとなりました。
 キャンプは沖縄で3泊4日の日程で開催をいたします。現地にて過去、現在、未来を感じとり、見つめ、聖書に学び、信仰を深める時を過ごすプログラムです。
 各教会にチラシ・要綱を送付しております。詳しくは、配布した資料をご覧ください。差し迫ってのご案内となってしまい申し訳ございません。
 
〈対象〉 18歳(大学生以上)から35歳
〈参加費〉 25000円
〈定員〉 14名(応募者多数の場合は選考をさせていただきますことご了承ください。)

〈申込先〉
FAX(06│6772│35114
メール
lt.tngyouth@gmail.com〈申込締め切り〉 2023年7月9日(日)必着

2023年度「日本福音ルーテル教会教師試験」について

 2023年度「日本福音ルーテル教会教師試験」を以下要領にて実施いたします。教師志願者は必要書類を整え、教会事務局にご提出くださいますよう、お知らせします。


〈提出書類〉
◇教師志願書
◇志願理由書

テーマ
「なぜ『日本福音ルーテル教会の教師』を志願するのか」―あなたが考える宣教課題をふまえて│

書式 A4横書き
フォントサイズ11ポイント
◇履歴書(学歴、職歴、信仰歴、家庭状況等を自筆で記入すること)

◇教籍謄本(所属教会教籍簿の写し

◇成年被後見人または被保佐人として登記されていないことの証明書(法務局交付のもの。任用試験時に必要になります)

◇所属教会牧師の推薦書

◇神学校卒業(見込)証明書及び推薦書

◇健康診断書(事務局に所定の用紙があります)

〈提出先〉
日本福音ルーテル教会 常議員会長 永吉秀人宛

〈提出期限(期限厳守)〉
2023年9月15日(金)午後4時までに教会事務局へ提出すること

◇個人で神学の研鑽を積み受験を希望する者は、必ず神学教育委員会の推薦を得ること
◇国外のルーテル教会の神学機関に学び神学修士を持ち受験する者は、願書提出前に事務局に相談すること

〈試験日及び試験内容〉
志願者本人に直接連絡します。
以上

23-06-01召命と派遣

「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水を一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」(マタイによる福音書10・42)

 マタイ福音書10章には、12人の弟子が選ばれ派遣されることが書かれています。この12人はイエス様から「収穫のための働き手(同9・37)」として遣わされますが、その際の注意事項、心掛けなども同時に語られています。行き先、持ち物、そして弟子たちを襲うであろう迫害、危険など…これらは、強気な時に聞けば心の火に燃料を注ぐような言葉に聞こえますが、弱気になっているときに聞くと、恐ろしい言葉に聞こえてきます。自分にそんなことができるだろうか、耐えられるだろうかと怯んでしまいそうになるには十分な言葉です。イエス様の名前のゆえに、またイエス様の弟子であるがゆえに迫害され、労苦し、命を失う。そんなことを言われて、誰が喜んで従うでしょうか。これらの言葉は、従う理由というよりも、従いたくない理由ではないかとさえ思えます。ではイエス様は、ご自分に従う人を選別するために、あえて厳しい言葉を語られているのでしょうか。覚悟のできていない人間を切り捨てるために語っておられるのでしょうか。

 決してそうではないはずです。それらの厳しい言葉の合間には、いくつかの励ましも語られています。これらは弟子たちが実際に経験した危機的状況の中で、何度も支えとした言葉の数々だったのではないかと思うのです。それらの厳しさを伴う派遣の言葉の結びとして語られるのが、10章42節の言葉です。「わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水を一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」イエス様は弟子たちを傷つけたくて召し出し、遣わすのではないのです。イエス様の弟子であることで苦しむことがあっても、それが目的なのではありません。イエス様は、一人ひとりをご自分の弟子とすることで、「小さな者の一人に一杯の水を飲ませる」理由を与えておられるのです。

 イエス様が教えられた隣人愛とは「隣人を愛すること」ではなく「隣人となること」です。派遣の言葉の一部である10章6節には「むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。」とあります。「イスラエルの人々」と言われると、同胞、仲間に対してのみという意味に聞こえますが、9章の終わりに「飼い主のいない羊のような人々」とあるように、そこには「失われた羊」がいたのです。群れからはぐれた、あるいは外されてしまった人々がいたのです。多くの人からすればその人々は「自分とは無関係の人」「愛する理由のない人」です。イエス様は弟子を召し出し、ご自分の言葉によって遣わすことで、そのような人々と弟子とされた人々との間に「一杯の冷たい水」を飲ませる関係をつくられるのです。

 私たちがキリストの弟子とされている、キリストに従う者であるということは、私たちには人を愛する理由、根拠が与えられているということです。助けの手を伸ばすことによって、自分が傷つくことももちろんあるでしょう。周囲からの批判または非難を受けることもあるでしょう。イエス様が予告されているように、狼の群れに羊を送り込むように私たちも遣わされます。ですが私たちを苦しめることがイエス様の目的なのではありません。危険があるとわかっている道に、イエス様は私 たちを送り出すのです。それは神様がこの世にイエス様を遣わされた思いに通じるものがあるように思います。そこには神様ご自身が苦しむような、深い憐れみがあったのです。それと同じ思いで、イエス様は私たちを遣わされます。私たちに愛する理由を与えることがイエス様の目的だからです。愛することには痛みも苦しみも伴います。十字架にはそのことが現れています。ですがその先に確かな報いがあることを、私たちは約束されているのです。その報いの中には、弟子とされたことの喜びがあるはずです。このイエス様の言葉に信頼し、私たちもそれぞれの場所へと派遣されてまいりましょう。そこで出会う人々を愛する理由、愛し合う関係が、イエス様によって既に私たちには与えられているのです。

23-06-01るうてる2023年06月号

機関紙PDF

「召命と派遣」

日本福音ルーテル横浜教会・横須賀教会牧師 市原悠史

「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水を一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」(マタイによる福音書10・42)

 マタイ福音書10章には、12人の弟子が選ばれ派遣されることが書かれています。この12人はイエス様から「収穫のための働き手(同9・37)」として遣わされますが、その際の注意事項、心掛けなども同時に語られています。行き先、持ち物、そして弟子たちを襲うであろう迫害、危険など…これらは、強気な時に聞けば心の火に燃料を注ぐような言葉に聞こえますが、弱気になっているときに聞くと、恐ろしい言葉に聞こえてきます。自分にそんなことができるだろうか、耐えられるだろうかと怯んでしまいそうになるには十分な言葉です。イエス様の名前のゆえに、またイエス様の弟子であるがゆえに迫害され、労苦し、命を失う。そんなことを言われて、誰が喜んで従うでしょうか。これらの言葉は、従う理由というよりも、従いたくない理由ではないかとさえ思えます。ではイエス様は、ご自分に従う人を選別するために、あえて厳しい言葉を語られているのでしょうか。覚悟のできていない人間を切り捨てるために語っておられるのでしょうか。

 決してそうではないはずです。それらの厳しい言葉の合間には、いくつかの励ましも語られています。これらは弟子たちが実際に経験した危機的状況の中で、何度も支えとした言葉の数々だったのではないかと思うのです。それらの厳しさを伴う派遣の言葉の結びとして語られるのが、10章42節の言葉です。「わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水を一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」イエス様は弟子たちを傷つけたくて召し出し、遣わすのではないのです。イエス様の弟子であることで苦しむことがあっても、それが目的なのではありません。イエス様は、一人ひとりをご自分の弟子とすることで、「小さな者の一人に一杯の水を飲ませる」理由を与えておられるのです。

 イエス様が教えられた隣人愛とは「隣人を愛すること」ではなく「隣人となること」です。派遣の言葉の一部である10章6節には「むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。」とあります。「イスラエルの人々」と言われると、同胞、仲間に対してのみという意味に聞こえますが、9章の終わりに「飼い主のいない羊のような人々」とあるように、そこには「失われた羊」がいたのです。群れからはぐれた、あるいは外されてしまった人々がいたのです。多くの人からすればその人々は「自分とは無関係の人」「愛する理由のない人」です。イエス様は弟子を召し出し、ご自分の言葉によって遣わすことで、そのような人々と弟子とされた人々との間に「一杯の冷たい水」を飲ませる関係をつくられるのです。

 私たちがキリストの弟子とされている、キリストに従う者であるということは、私たちには人を愛する理由、根拠が与えられているということです。助けの手を伸ばすことによって、自分が傷つくことももちろんあるでしょう。周囲からの批判または非難を受けることもあるでしょう。イエス様が予告されているように、狼の群れに羊を送り込むように私たちも遣わされます。ですが私たちを苦しめることがイエス様の目的なのではありません。危険があるとわかっている道に、イエス様は私 たちを送り出すのです。それは神様がこの世にイエス様を遣わされた思いに通じるものがあるように思います。そこには神様ご自身が苦しむような、深い憐れみがあったのです。それと同じ思いで、イエス様は私たちを遣わされます。私たちに愛する理由を与えることがイエス様の目的だからです。愛することには痛みも苦しみも伴います。十字架にはそのことが現れています。ですがその先に確かな報いがあることを、私たちは約束されているのです。その報いの中には、弟子とされたことの喜びがあるはずです。このイエス様の言葉に信頼し、私たちもそれぞれの場所へと派遣されてまいりましょう。そこで出会う人々を愛する理由、愛し合う関係が、イエス様によって既に私たちには与えられているのです。

エッセイ「命のことば」 伊藤早奈

㊴「幸せ」

「忍耐した人たちは幸せだと、わたしたちは思います。あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、主が最後にどのようにしてくださったかを知っています。主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです。」(ヤコブの手紙5・11)

「迷うということは選べるということであなたは幸せですよ。」
その人とこの世で交わした最後の言葉でした。
私は自分が今までできていたやり方ができなくなるかもしれないと思い不安で、不安でたまらなくて、きっと色々な経験をしてきて、車椅子に乗っているこの人ならわかって頂けると思い相談した時に返ってきた言葉でした。
えっ私が幸せ?としばらく思い返してはわかるような、わからないような言葉でした。
ほとんどのことが選べなくなった今、あの方が私に言って下さった言葉の意味が少しわかるような気がします。
将来なるかもしれないと不安になって「今」を少し残念に過ごすより「今」これができるという幸せに気づいてほしい。
「今」を生きるって当たり前のようだけど先のことを考えて不安になって「今」うずくまって前に進めなくなったり、前に失敗してしまったことをくよくよ考えて「今」を過ごしてしまったり。。。
「今」のために反省や想像や希望は必要かもしれません。でもね、あなたは神様に「今」を与えられて生かされています。

総会議長所信

日本福音ルーテル教会 総会議長 永吉秀人

 このたび、日本福音ルーテル教会第29回・第30回定期総会におきまして次期総会議長として選出されました永吉秀人でございます。出自は福岡県久留米市。日本福音ルーテル久留米教会にて渡辺潔牧師より受洗、後に天王寺教会より神学校へ献身。1985年の按手後、藤枝教会、神学校チャプレン、静岡教会、天王寺教会を経て、現在は蒲田教会で牧会をしております。
 伝道が厳しい時代と言われて久しくなりますが、伝道に楽な時代などなかったことでしょう。にもかかわらず、だからこそ、私たちは信仰に生きる道を選び、キリストの福音に希望をいだいているのです。マルティン・ルターによる宗教改革という教会の悔い改めから始まったルーテル教会は、それぞれの時代にあって、また時代を越えて多岐にわたる働きを全力で担って来たであろうと信頼します。伝道のみならず、教育、福祉、医療などの多方面にわたって実現可能な限りを尽くして取り組んで来たと宣教の歴史を評価するならば、あとに残された務めは悔い改めだけであろうとさえ思えます。しかしながら、前を向いて走り続けて来たがゆえに、多くの事柄を通り過ぎて来てしまったのではないかと省みます。キリストが弟子たちの前に立ち止まって彼らと出会われたように、また私たちの前に立ち止まってくださったから私たちも信仰と出会えたように、私たち教会としての歩みも隣人の前に立ち止まらなければ、誰の隣人にもなれないことをわきまえます。
 日本福音ルーテル教会では2000年代を迎え、第五次綜合方策(パワーミッション21)により幅の広い働きが展開され、第六次綜合方策では教会の働きの一つひとつが深められてまいりました。この度採択されました第七次綜合方策では、「魂の配慮」をキーワードとして、牧師の働きである牧会の回復と教会での分かち合いの活性化を目指します。この「魂の配慮」という用語には説明が必要でありましょう。と言いますのは、キリスト教だけで用いられる言葉ではなく、キリスト教以前にギリシャの哲学者・ソクラテスによって紀元前400年に提唱された言葉でありました。ソクラテスは堕落した己の魂を内側から高みへと昇華させよと勧めましたが、これに対し、聖書信仰においては旧約の時代からギリシャ的な考えに対抗し、神よりくだる外側からの配慮があることを強調してまいりました。第七次綜合方策では牧師の職務である牧会の内実と機能を「魂の配慮」と呼んでおります。日本福音ルーテル教会の宣教体制は、200名もの牧師・宣教師時代の構造のままに今を迎え、これを70余名の教職で担っており、牧師の兼務は多忙を極め、牧会の危機と言わざるを得ません。一人の魂も失われることなく配慮されるために、教会のリ・フォーメイション(再形成)と共に牧会力の成長が求められます。
 方策では新たな活動として、脱原発への学びはもとより、カンボジアでの宣教支援、ハラスメント防止への学びを行うこと。またNCC(日本キリスト教協議会)諸活動との連帯をはじめ、外キ協(外国人住民基本法の制定を求める全国キリスト教連絡協議会)、マイノリティー宣教センター、キリスト教カルト問題連絡会、アクト・ジャパン・フォーラム(人道支援)との連携を深めることが挙げられます。注意すべきは、これらの諸問題を話題の一つとして通り一遍で過ぎてしまわず、立ち止まる勇気と、立ち続ける忍耐と、希望を分かち合うことでありましょう。
 今だからこそ誰もが希望を必要としている時に、あなた自身が神にとっての希望であることを聴き取り、神の喜びとして生かされる共同体とされましょう。

「教会讃美歌 増補」 解説

㊱増補23番「主なる神に感謝の歌」

日笠山吉之(九州学院チャプレン)

 ルターによるコラール集もとうとう最後の曲となりました。作詞、作曲ともルターの名前が記されていますが、かっこで括られた部分が重要です。ドイツ語による歌詞の初行の下には(テ デウム ラウダムス)とあります。これは昔からローマ・カトリック教会で歌い継がれてきたグレゴリオ聖歌の一つ『テ・デウム』を指しています。意味は「神よ、あなたをほめたたえます」。元々はラテン語で書かれた長いテキストですが、要するに父と子と聖霊なる三位一体の神をほめたたえた賛歌です。ルターは神学的な相違からまた彼自身の信仰と良心に従って当時のカトリック教会と袂を分かちましたが、それまで教会で大切に歌い継がれてきた賛美歌まで捨て去ることはありませんでした。
 『テ・デウム』も然り。歌詞をドイツ語に翻訳し、グレゴリオ聖歌の旋律を元にルーテル教会でも引き続き歌えるようしたのです。とはいえ、実際にこれを私たちが礼拝の中でいきなり歌うのはかなり難しい…訓練された聖歌隊でも手こずるのでは?でも挑戦してみる価値はあると思いますよ。

世界の教会の声

浅野直樹Sr.(世界宣教主事 市ヶ谷教会・スオミ教会牧師)

台湾ルーテル教会初の女性総会議長誕生

 台湾ルーテル教会(中華民国)(LCT)のセルマ・チェン(Shu-Chen)師は、今年1月に台湾のルーテル教会初の女性総会議長として就任しました。
 「クリスチャンの家庭に育ってラッキーでした」と語るチェン師の父親は、1960年代初頭に陸軍病院で長老派の宣教師から洗礼を受けています。中国人に対して忍耐強く、そして愛情深く接する宣教師の働きがきっかけとなりました。父の影響で教会に通い始め教会学校の教師もしていたチェン師は、当初牧師になるつもりはありませんでした。「反共教育を受けて育ったので、軍隊に入りたかったのです」。「そんな中、私のために4年間祈り続けてくれた人がいたり、『人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる』(箴言16・9)のみことばを別の人から示されたとき、自分ではわかっているのにそこから逃げようとしている自分に気づいたのです」。
 神学校を終えた1992年は、ちょうどLCTが女性按手について検討していた年でした。長い議論の末、12年後の2004年、3人の女性が初めて按手を受け牧師となりましたが、「いつか女性の総会議長が出るとは思ってましたが、諸教会が女性リーダーを受け入れるまでに時間を要しました」。台湾にはLWF非加盟の3教会を含め6つのルーテル教会がありますが、他は女性按手を認めていないため緊密な協力関係が互いにあるわけではありません。
 「LCTは農村部、首都台北周辺、本島南部の都市部に会堂が全部で19ありますが、多くの信徒は、伝統的な太陰暦や農耕歴に慣れていて道教とも結びついています。ですからキリストの生涯に沿って生活できるように教会の典礼暦の普及に努めています。」「キリスト者としての生き方を示し、イエスの死と復活を宣べ伝えることをLCTは心がけています。受洗を経て新たな人生が始まった人たちは、そこから現代社会の課題と向き合えるようになります。」
 そうした課題の中には他のキリスト教会との対話や、台湾の大多数を占める仏教徒との関係改善なども含まれています。チェン氏が宗教間対話に興味を持ったのは、2003年から2010年までLWF理事に選ばれ、エキュメニカル委員会に加わったからです。「異なる信仰を持つ人々との対話が、教会にとっていかに豊かな経験かを実感し、私の仕事にも大きな影響を与えました。」大学でキリスト教と出会った青年が、旧正月など伝統的行事や家族の葬儀に出席しないよう教会から言われたりして、入信がとても難しいという現状があります。「このため多くの緊張があります。家族間で分裂が起きないように福音を伝えるにはどうすればよいかなど、すべきことはたくさんあります。」
 「LWFのニュースをLCTの教会に広めようと努めています。それによって信徒の目がグローバルになるからです。私たちは台湾でとても小さな教会です。しかし私はこれをパズルのように考えていて、小さなピースだからこそ共有し合えるのです。共有しあってLWFの行事に参加し、台湾が失われたパズルのピースにならないよう働きかけていきたいです。」

※詳細についてはWEBサイトをご参考ください。

リレーコラム 「全国の教会・施設から」①函館教会

中島和喜 (恵み野教会・函館教会)

 函館教会は、フィンランドの教会の宣教への熱意によって1950年に誕生した教会です。今年で73年の歴史を刻みますが、この4月に4年間ご奉仕下さった小泉基牧師から中島への交代が行われました。これにともなって、教会の歴史ではじめて常態的な兼牧体勢がスタートしました。土曜日の夜に約300キロメートル離れた恵み野教会から私が函館教会に行くことにより、毎週日曜日の朝の礼拝を継続しています。これでも恵み野教会が最も近い教会だというのですから、改めて北海道の広さを感じるところでもあります。
 函館教会の特徴は、ルーテル教会には珍しく、ゴスペルと深いかかわりがある教会だということです。15年ほど前からこの教会をホームグラウンドとするようになったゴスペルクワイアMSCは、道南で最も活発なクワイアで、メンバーからの受洗者と教会員の入団によって、教会員のメンバー割合が高い人気クワイアへと成長しました。このMSCとの関係もあってか比較的若い教会員が多く、平均年齢50歳代というのは、おそらく全国のルーテル教会の中でも最も若い教会のひとつだと思います。
 また、新しい函館教会の特徴は、この春、長い歴史を刻んできた野の花の会という女性会が、ペトロの会という男性の会と合流して、性別に関係なく聖書を学び、奉仕を担う、新生野の花の会へと生まれかわったことです。第3日曜日の例会に集まる人が誰でも共に聖書を学び、会費も負担し、教会の奉仕の相談もします。可能ならば女性会連盟との関係も継続したいと願っています。
 函館観光の中心地である五稜郭タワーのすぐ隣に立地する教会であること、津軽海峡を見下ろす函館山に美しい教会墓地を有すること、教会の園庭は桜の老木やバラのアーチ、数種のユリやアジサイなどに彩られ、実に200種類もの花が咲き乱れることなど、魅力あふれた函館教会。函館観光の日曜日は、ぜひ教会をお訪ね下さい。

①九州学院

小副川幸孝 (九州学院院長)

 熊本にあります九州学院は、1911年に、アメリカからの宣教師C.L.ブラウン博士と米国南部一致ルーテル教会の人々の祈りと献金によって、日本の青少年教育のために設立されました。
 2023年で創立112周年を迎え、これまでに多くの著名人を輩出し、熊本では文武共に優れた有数の学校として知られています。
現在、幼稚園、中学校、高等学校を併設し、約1500人の子ども、生徒がはつらつとして学んでいます。
 設立当初にはルーテル教会の神学校も併設されていましたので、現在のルーテル神学校の母体ともなり、多くの牧師も九州学院の出身者でしたし、現在も、牧師の子弟が中学・高等学校で学んでいます。
 学校は、毎朝の礼拝から始まり、聖書の授業が行われ、豊かな人間性を育むための努力が日々なされています。
 写真は学院のシンボルともなっているブラウンチャペルで、指定文化財として熊本県で第1号認定を受けたもので、2025年に建造100年を迎えます。

「ルーテルこどもキャンプ」開催のお知らせ

TNG子ども部門 池谷考史 (博多教会・福岡西教会)

TNG子ども部門では、8月9日(水)~11日(金・祝)、広島教会を会場に「第24回ルーテルこどもキャンプ」を開催します。対面でのキャンプは4年ぶりとなります。テーマはこれまでと同じ、「来んさい 広島 Peace じゃけん」としました。
8月の広島で、同世代の楽しい交わりの中で平和について学び、平和をつくることへの思いを深めたいと思います。新しい友達がたくさんできる機会にもなることでしょう。
 ぜひ、各所で呼びかけて下さり、子ども達を送り出してください。1面に掲載されているポスターもご覧ください。参加申し込みは、左記のQRコードからお願いします。締め切りは7月2日(日)までとさせていただきます。対象:小学5、6年生。参加費:15,000円。合わせてキャンプを支えて下さるスタッフも募っています。同じQRコードからお申し込みください。

日本福音ルーテル教会 第29回・第30回 定期総会報告

滝田浩之(第28回総会期事務局長・小石川教会)

5月3日(水)~5日(金)に5年ぶりに対面で日本福音ルーテル教会定期総会が宣教百年記念東京会堂(東京教会)で開催されました。
 総勢200名ほどが参集し対面での総会の開催を喜び合いました。
 開会礼拝は感染症のことも考慮し聖餐式は行われませんでしたが、松本義宣牧師の司式、大柴譲治牧師の説教で改訂式文を用いて行われました。

 審議された内容は以下の通りです。

(1)第31回定期総会の件
 次の総会は2年後の2025年5月5日(月)~6日(火)、あるいは5月6日(火)~7日(水)に1泊2日で開催されることが承認されました。
 この承認に基づき、第28回総会期の執行部は任期満了となることが確認されました。

(2) 総会選出常議員選挙の件
 任期満了に伴う、議長以下の総会選出常置員が選挙により選出されました。総会議長は永吉秀人牧師(蒲田教会)、副議長は滝田浩之牧師(小石川教会)、事務局長は李明生牧師(むさしの教会)、会計には市吉伸行氏(むさしの教会)が再任、財務担当常議員は荒井奈緒子氏(東京教会)、総会選出信徒常議員は益田哲夫氏(本郷教会)が選出されました。なお事務局長については議場において牧師数の減少や財務的な課題を踏まえて現場との兼任とすることを含めて信認を受けました。任期は2023年6月1日(木)より2025年5月末までとなります。閉会礼拝にて教区長、教区選出常議員とあわせて就任式が行われました。

(3) 第7次綜合宣教方策の件
 すでに2022年4月の常議員会において仮承認を受けていた「第7次綜合宣教方策」が提案され承認されました。2030年までの8年間、日本福音ルーテル教会の指針として用いられていくことになります。具体的には方策実行委員会において各教区と対話をしつつ進められていくことになります。急速な牧師数の減少が肌で感じられる中で、危機意識はもちろんですが、福音に生かされて「小さな教会」ではありますが「キリストの教会」としての使命を果たしていくことが確認されています。

(4) アジア宣教の件
 カンボジアへの宣教に一歩を踏みだしていくことが確認されました。アメリカ福音ルーテル教会との協同の宣教の歩みとなることが示されました。具体的には半年、1年のターンでユース世代を現地にボランティアとして派遣してカンボジアルーテル教会の宣教に協力します。すでにカンボジアにおられるキリストに出会うことを通して、日本での宣教への力となることが期待されています。

(5) ハラスメント防止委員会の規則明文化の件
 すでに「ハラスメント防止規定」が常議員会にて承認され、常議員会の設置する「その他の委員会」として活動を開始している「ハラスメント防止委員会」を日本福音ルーテル教会規則に明文化する提案が行われ、これが3分の2の賛成を得て承認されました。承認手続きの後、日本同盟基督教団の大杉至牧師より、ハラスメントについてご講演を頂き、学びを深める時を持ちました。教会が安全で、安心な場所として誰もが喜んで集うことができるように更に多くの気づきを与えられていきたいと思います。

(6) 決算・予算の件
 すでに常議員会で仮承認を受けていた決算、予算について、総会にて報告され承認を受けました。コロナという未曽有の出来事の中で、総会が開催できないという環境にありましたが、この承認をもって、総会を最高の意思決定機関としての役割が正常化されたことになります。

 詳しくは、後日配布される総会議事録をご確認くださいますようにお願い申し上げます。

全国教師会総会報告

立山忠浩(前全国教師会会長・都南教会)

 全国教師会総会が全国総会の前日の5月2日(火)に開催されました。全国総会と同様に5年振りの開催となりました。教師会は按手に与った現任教師(宣教師も含まれます)が正議員になります。現在71名で構成されています。議案は5年間の活動報告の承認、相互扶助会改定案、そして新役員及び教師試験委員候補者を選出することでした。
 教師会は1988年に組織され、それに伴い教師会規定が定められました。そこには教師会の基本的責務が7つ期されています。教師会に期待されていることです。特に目を引くのが「教会の教理、神学に関する共通の理解に係る事項」「教師の生涯研修に係る事項」「宣教に係わる事項」です。ただ、規定が定められてから35年が経った今、それをいかに遂行することができるのか、難題となっています。昔話をしても仕方がないのですが、思い起こせば、「小児陪餐開始の適齢期」について大いに議論したのが全国の牧師たちが集う退修会でした。私が神学生の時のことです。「信徒説教者」についてはわざわざ臨時の教師会の退修会を富士山の麓で開催し、徹底的に議論したことを記憶しています。
なぜこのような議論が行えたのか、様々な分析があることでしょう。私はこう考えるのです。1988年には教師会に170人が属していたのです。その人数で担っていた教会と諸施設などの働きを、今は70名ほどで担っているのです。一人の牧師に期待される働きが明らかに増大しているのです。インターネットによる礼拝や聖餐式をどう考えるのか、教師会の責務である「教会の教理、神学に関する共通の理解に係る事項」に関わる問題です。これは教師会という集団で協議すべき責務ですが、しかしそのような神学的課題に取り組む余裕が今の牧師集団にはないように思えるのです。もちろん個人での研鑽を積み上げている教師が幾人もいらっしゃるのですが、それが教師集団のものとなり得ていないのです。
 このような現況の中で、教師集団が取り組める具体的なことを会長報告で提示しました。「教師の生涯研修に係る事項」に関しては個人の研鑽意欲に委ねることが基本ですが、ルーテル学院・神学校で定期的に開催される教職セミナーやルター・セミナーに積極的に参加して欲しいのです。教会からも財政支援をいただいています。そこで研修意欲を高めていただくことを期待します。退修会は3年~4年ごとの開催が慣例でしたが、牧師数が減少し各牧師が孤独感を高める傾向が否めない中では、毎年の開催とし、研修もさることながら、同労者の働きの成果と苦悩を分かち合い、励まし合うことを目的とした会の重要性を指摘しました。これらは新役員に託すことになります。その他、COVID-19で休止状態にあった牧師レヴューは各地域教師会ごとに再開されることになります。
 教師会の役員には以下の方々が選出されました。
会長:松本義宣牧師
書記:安井宣生牧師
会計:西川晶子牧師
相互扶助会会計:坂本千歳牧師
 閉会礼拝は今年度で定年をお迎えになる竹田孝一牧師に担当していただきました。礼拝の終わりに新役員と地域教師会会長5名の就任式を執り行っていただき閉会しました。

公 告

 この度左記の行為を致しますので、宗教法人法第二三条の規定に基づき公告致します。

2023年6月15日
宗教法人 日本福音ルーテル教会 代表役員 永吉秀人

信徒利害関係人 各位

本教会所管の市ヶ谷会館耐震補強工事費用借入(最終支払資金)
借入先 三井住友銀行
借入額 4億8,000万円
返済期間 10年
支払利率 年利1.11%(予定)
担保 追加担保なし
2022年6月15日に借入全体の公告は実施済
銀行借入に関して取引銀行、条件が整い、これを公告するものである。

23-05-01むすんでひらいて

(イエスは)言われた。「聖霊を受けなさい。」
ヨハネによる福音書20章22節

 健軍教会のシンボルツリーはハナミズキです。蕾のような包葉は花を覆ったまま膨らみ、やがてそれは頂点を残して裂けるように開きます。そのまま大きくなった後、上に残った結び目をほどくようにして広げます。文字通り、結ばれていたものが開き中の小さな花が姿を現してゆく。とても不思議で美しく、結び目が解けるまでの緊張感と共にその優雅な姿に心を動かされます。

 イースターの夕方に弟子たちは「恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけて」(19節)いました。口語訳聖書では「戸をみなしめて」、岩波訳聖書では「〔すべての戸〕」としています。「戸」は複数です。弟子たちは恐れのあまり、いくつもの戸を閉ざして一番奥の部屋に閉じこもっていました。もしくは実際の戸は一つであったとしても、弟子たち一人ひとりは心の戸を閉ざしていました。裏切り見捨てたイエスが処刑され、自分も逮捕されるかもしれないと、これまでの充実した日々が覆される事態に恐れおののいていました。この人たちを守るものが「戸」でした。それを固く閉ざし、息を殺し、震えて潜み、落ち込んでいたのでした。しかし、この弟子たちの真ん中にイエスが来ました。そして弟子たちに息を吹きかけ、「聖霊を受けなさい」(22節)と言います。聖霊による具体的な行動として、赦しを弟子たちに託したのでした。

 閉じこもる弟子たちは私たちです。人間関係での破れや傷を経験することがあり、誰かのしんどさを支えきれず後ろめたさを抱くことがあり、攻撃的な言葉に疲れ果て心が塞ぐことがあり、社会の不条理に怒りを覚えることがあります。けれど、そこにこそイエスは来て、聖霊により固く結ばれてしまっているものを解くのです。

 『むすんでひらいて』は広く知られています。ルソーが作曲したオペラの曲だそうです。やがて讃美歌となり、日本でも『キミノミチビキ』というタイトルで明治、大正時代の教会で歌われました。やがて唱歌となり『見渡せば』と春秋の美しい風景を歌い、さらに戦中は軍歌『戦闘歌』となりました。そして戦後、小学1年生の教科書に『むすんでひらいて』として登場し、私たちがよく知る歌となっています。
 日本の教会では歌われなくなるも、世界では現役の賛美歌です。「主よ、あなたの祝福で私たちを解き放ってください。私たちの心を喜びと平和で満たしてください。荒野を旅する私たちを新たにしてください」と歌われます。この歌は神のわざとそれによる解放を歌うのです。『むすんでひらいて』とこの賛美歌の歌詞とは別なものですが、不思議な経過をたどって私たちに届けられました。そこに私たちの心や他者との関係を重ね合わせるならば、聖霊が吹きかけられることで、閉じた心を開かれ解放されることを祈るものと言えるのではないでしょうか。戸を閉じて結んだ心は聖霊によって開かれます。それでもまた閉じて結んでしまうこともある私を解放し、私と神とを、そして私たち同士を再び結び合わせるのです。

 ペンテコステも、神の生きた働きである聖霊によって、私たちを「むすんでひらいて」、そして「むすぶ」出来事です。それは赦し赦されるという一点で関係を結び合わせ、その緊張を保ちつつ花びらのような葉を広げるハナミズキのように、健気で美しい姿で希望を与えるものとなるのです。ペンテコステは教会の誕生と呼ばれていますが、教会とはまさに赦され・赦すことにより解放され深く結び合うための器として生まれました。連なる一人ひとりはその器の大切な一部です。

 その手と脇腹に傷を負うことで愛情を注いでくださったイエス・キリストが、たとえ見ることや触れることができなくとも、息を吹きかけ続け、つながりを持ち続けてくださいます。花は散ってもそこに咲いていることを思い描けるように、姿はなくとも祈りの言葉で心を通わせ合うことができるように、イエスの息もイエスの声も確かにあり、私たちはそれを抱き続けるのです。

23-05-01るうてる2023年05月号

機関紙PDF

「むすんでひらいて」

日本福音ルーテル健軍教会・甲佐教会牧師 安井宣生

(イエスは)言われた。「聖霊を受けなさい。」ヨハネによる福音書20章22節

 健軍教会のシンボルツリーはハナミズキです。蕾のような包葉は花を覆ったまま膨らみ、やがてそれは頂点を残して裂けるように開きます。そのまま大きくなった後、上に残った結び目をほどくようにして広げます。文字通り、結ばれていたものが開き中の小さな花が姿を現してゆく。とても不思議で美しく、結び目が解けるまでの緊張感と共にその優雅な姿に心を動かされます。

 イースターの夕方に弟子たちは「恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけて」(19節)いました。口語訳聖書では「戸をみなしめて」、岩波訳聖書では「〔すべての戸〕」としています。「戸」は複数です。弟子たちは恐れのあまり、いくつもの戸を閉ざして一番奥の部屋に閉じこもっていました。もしくは実際の戸は一つであったとしても、弟子たち一人ひとりは心の戸を閉ざしていました。裏切り見捨てたイエスが処刑され、自分も逮捕されるかもしれないと、これまでの充実した日々が覆される事態に恐れおののいていました。この人たちを守るものが「戸」でした。それを固く閉ざし、息を殺し、震えて潜み、落ち込んでいたのでした。しかし、この弟子たちの真ん中にイエスが来ました。そして弟子たちに息を吹きかけ、「聖霊を受けなさい」(22節)と言います。聖霊による具体的な行動として、赦しを弟子たちに託したのでした。

 閉じこもる弟子たちは私たちです。人間関係での破れや傷を経験することがあり、誰かのしんどさを支えきれず後ろめたさを抱くことがあり、攻撃的な言葉に疲れ果て心が塞ぐことがあり、社会の不条理に怒りを覚えることがあります。けれど、そこにこそイエスは来て、聖霊により固く結ばれてしまっているものを解くのです。

 『むすんでひらいて』は広く知られています。ルソーが作曲したオペラの曲だそうです。やがて讃美歌となり、日本でも『キミノミチビキ』というタイトルで明治、大正時代の教会で歌われました。やがて唱歌となり『見渡せば』と春秋の美しい風景を歌い、さらに戦中は軍歌『戦闘歌』となりました。そして戦後、小学1年生の教科書に『むすんでひらいて』として登場し、私たちがよく知る歌となっています。
 日本の教会では歌われなくなるも、世界では現役の賛美歌です。「主よ、あなたの祝福で私たちを解き放ってください。私たちの心を喜びと平和で満たしてください。荒野を旅する私たちを新たにしてください」と歌われます。この歌は神のわざとそれによる解放を歌うのです。『むすんでひらいて』とこの賛美歌の歌詞とは別なものですが、不思議な経過をたどって私たちに届けられました。そこに私たちの心や他者との関係を重ね合わせるならば、聖霊が吹きかけられることで、閉じた心を開かれ解放されることを祈るものと言えるのではないでしょうか。戸を閉じて結んだ心は聖霊によって開かれます。それでもまた閉じて結んでしまうこともある私を解放し、私と神とを、そして私たち同士を再び結び合わせるのです。

 ペンテコステも、神の生きた働きである聖霊によって、私たちを「むすんでひらいて」、そして「むすぶ」出来事です。それは赦し赦されるという一点で関係を結び合わせ、その緊張を保ちつつ花びらのような葉を広げるハナミズキのように、健気で美しい姿で希望を与えるものとなるのです。ペンテコステは教会の誕生と呼ばれていますが、教会とはまさに赦され・赦すことにより解放され深く結び合うための器として生まれました。連なる一人ひとりはその器の大切な一部です。

 その手と脇腹に傷を負うことで愛情を注いでくださったイエス・キリストが、たとえ見ることや触れることができなくとも、息を吹きかけ続け、つながりを持ち続けてくださいます。花は散ってもそこに咲いていることを思い描けるように、姿はなくとも祈りの言葉で心を通わせ合うことができるように、イエスの息もイエスの声も確かにあり、私たちはそれを抱き続けるのです。

エッセイ「命のことば」 伊藤早奈

㊳「ぬくもりの中で」

「神の前では、わたしもあなたと同じように/土から取られたひとかけらのものにすぎない。」(ヨブ記33・6)

空を見上げてみると「あー雲が変わってる。季節が変わってきてるんだ。」としばらく上を見てからふと下を見ると、冬のあいだは枯れ葉が土を温めるかのようにふわりと土の上に広がっていました。
テレビドラマで何度か人が枯れ葉の下に潜って暖をとる姿を見たのを思い出しました。
「冬のあいだ枯れ葉が土を寒さから守ってたんだね」と思っていると土の上の枯れ葉の上に白いものが降ってきました。「あれ雪?」よく見るとそれは小さな白い花びらでした。土の上に枯れ葉、枯れ葉の上には花びら、なんか素敵だなぁと思い、枯れ葉の下を覗くとひょっこりと緑の草が…あれ挟まれてる。春と春のあいだに冬がサンドされてる。このように季節って変わっていくんだなぁと思います。
しばらくすると土の上は断然、緑色の草がいっぱいになります。
目に見えて手で触れる世界でもこのようにいっぱい素敵な変化があるなら、きっとそうではないいろいろな世界にも素敵な変化が生まれているんだろうなぁと思うとワクワクします。
誰に教えていただく?
私たちは全ての世界をご存知の神様を知ってます。神様にお聞きしてみませんか?

議長室から 大柴譲治

羊飼いキリスト

「主は私の羊飼い。/私は乏しいことがない。/主は私を緑の野に伏させ/憩いの汀に伴われる。/主は私の魂を生き返らせ/御名にふさわしく、正しい道へと導かれる。」(詩編23・1~3、聖書協会共同訳)

 2018年8月号から始まった「聽〜議長室から」も今回が最終回。5年間で58回書かせていただきました。これまでのお支えとお祈りに感謝いたします。
 最後は詩編23編について記すと決めていました。この詩編を愛唱聖句とされている方も少なくないことでしょう。葬儀や記念会でもよく読まれる味わい深い詩編です。前任地のむさしの教会の礼拝堂には米国製の羊飼いのステンドグラスがありました。2008年の耐震補強工事を経て、今も木造の礼拝堂正面に美しく輝いています。『東京の名教会さんぽ』(エクスナレッジ2017、p.85)にも掲載されています。ステンドグラスは「眼で見る説教」ですが、この羊飼いのステンドグラスは見ているだけで深く慰められます。どの角度から見ても羊飼いに見つめられているように見えるから不思議です。
 「真の羊飼いはただキリストのみ。牧師は迷子の羊が出ないように群れの周りを走り回っている牧羊犬のようなものです」(賀来周一語録)。言い得て妙ですね。「牧師も羊の一匹です」と語る先生もおられます。確かに私たちルーテル教会では牧師も信徒の一人です。「全信徒祭司性」を私は「全信徒牧会者性」として捉え、「信徒相互牧会」を積極的に位置づけたいと願ってきました。信仰共同体としての教会は、主日は礼拝のために「一つに集められた(オンラインでつながる人も含めると「一つに結び合わされた」と言うべきかも知れません)共同体」ですが、月曜日から土曜日までは信徒一人ひとりがそれぞれの場に派遣され「散らされた(ディアスポラの)共同体」です。集められている時も散らされている時も、顕在と潜在を通して私たちはキリストを頭とする一つのキリストの教会なのです。
 ボンヘッファーの『共に生きる生活』を想起します。「神は、われわれがその生けるみ言葉を、兄弟の証しを通し、人間の口を通して、求めまた見出すことを望み給う。・・・自分の心の中のキリストは、兄弟の言葉におけるキリストよりも弱いのである」(ボンヘッファー著・森野善右衛門訳『共に生きる生活』新教出版社1975、p.10)。神は私たち一人ひとりの具体的な声を通してキリストの声を伝えようとしておられる。これこそ信徒による相互牧会であり、羊飼いキリストご自身による魂の配慮です。主こそわが牧者、私には乏しいことがない。私たちがこのような聖徒の交わりの中に置かれていることを心から感謝しつつ、筆を置かせていただきます。
「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」(ネヘミヤ記8・10)

「教会讃美歌 増補」 解説

㉟増補21番「彼女は優しい価値あるおとめ」・増補22番「三つであり 一つ」

石丸潤一(西日本福音ルーテル新田教会牧師)

㉞増補19番「キリエ エレイソン」・増補20番「神の小羊」
松本義宣
(東京教会・東京池袋教会・板橋教会牧師)

増補21番「彼女は優しい価値あるおとめ」
 「彼女は優しい価値あるおとめ」の歌詞に登場する「彼女(Sie)」とは誰でしょうか。
 この歌詞は、ヨハネの黙示録12章が背景となっています。ここに登場する女性は、「鉄の杖ですべての国民を治める」(ヨハネの黙示録12・5)男の子を産むとあります。ですから、多くの人は、黙示録12章とこの賛美に登場する女性を主の母マリアだとイメージするでしょう。賛美の2節に登場する「十二の星」も、マリアの聖画のモチーフに使われています。
 ですがルターは、この黙示録12章の女性は、マリアのことだけをあらわすのではなく、主に結ばれた教会をもあらわしていると考えたようです。この賛美は、聖母マリアの賛歌というよりは、むしろ教会に対する尽きせぬ神様の愛と守りを歌っていると考える方が良いでしょう。そこで讃美歌委員会は、その意図がはっきり伝わるように、「彼女は教会」という歌詞を冒頭に入れました。
 神様は、教会を「価値あるおとめ」と呼び、大きな災いやサタンの力が取り囲む苦難の中でも守り通してくださいます。

増補22番「三つであり 一つ」
 「三つであり 一つ」は、ルター最晩年の賛美の一つです。三位一体のラテン語聖歌「O lux beata trinitas」をルターがドイツ語に訳したこの歌詞は、「永遠」ということばが印象的です。病を負い、自らの終わりを思いながら、ルターは、この歌詞を通して、主に生かされている今も、そして死の向こうにある永遠まで、神様だけが私の光であり、賛美されるべき方だと、自らに、また人々に、伝えようとしたのかもしれません。
 讃美歌委員会は、「今も永遠に」ということばで各節を締め、そのことを深く味わう歌詞に訳しました。
 人生に訪れる苦難、そして果てに待つ死が、私たちの心を乱すことがあるでしょう。これらの賛美は、私たちを愛し、力を注ぎ、悪の力に勝利させてくださる神様が、いかなる時にも共におられ、やがて死に勝利する永遠に導き入れてくださると思い起こさせ、教会とクリスチャンに、主にある勇気と希望を与えます。

世界の教会の声

浅野直樹Sr.(世界宣教主事 市ヶ谷教会・スオミ教会牧師)

信仰による促しによって働く教会

 ロシアがウクライナに軍事侵攻して1年以上が経過しましたが、ウクライナにあるドイツ福音ルーテル教会(GELCU)は2022年6月にLWFに加盟し、教会周辺住民への支援を続けています。1年が経過してパブロ・シュヴァルツ監督が、教会が行っている人道支援や戦時下における信仰生活について話してくれました。
 LWFは2023年1月最終週にハルキウでシュヴァルツ監督と会いました。インタビューの場所はLWFとGELCUが支援対象としている学校体育館。ここで暖をとりスマホを充電したり温かい食事が支給されます。
―ハルキウの現状はいかがですか。
「インフラ施設へのミサイル攻撃を除けばこの2、3ヵ月は比較的安定しています。市民100万人の街はミサイル攻撃を受けている北部を除けば機能しています。」
―侵攻から1年が経過して市民はどう受け止めていますか。
「ハルキウの状況は特別です。多くの人たちが国境の向こう側(ロシア側)ベルゴロドに家族がいて感情的に難しい部分があります。なぜならハルキウへの度重なる攻撃がベルゴロドから来るからです。ロシアによる侵攻が家族間にも緊張関係をもたらしています。」
―市民もハルキウに戻ってきているようですね。
「家を失ってしまえば仕事も生活もできなくなります。それにやはり故郷に戻りたいのです。戦争が起きる前の時間を取り戻したいのです。信仰をもつ人は教会とのつながりもあります。各自が何らかのつながりを大切にしているからです。ただ心情的には厳しく、多くの人が鬱を経験しています。」
―教会の現状を聞かせてください。
「私たちは小さな教会です。ウクライナの他の都市や海外へ移住した人もいます。人道支援と教会の宗教活動は切り分けていて、一般の人々に対しての支援も礼拝出席することを条件にしたりはしていません。教会では礼拝や集会を催すほかに支援活動をしています。信徒は支援を受けながらも、貨物の荷下ろしや配給をして支援をする側でもあります。支援の形は直接支援です。大がかりな配給ではなく個人レベルです。その方がごまかしもなく必要な人に直接渡せます。」
―支援活動について教えてください。
「11ヵ月経ってニードは変わってきました。当初は避難の支援でした。スタッフの数も少なくたいしたことはできませんでしたが、それでもウクライナ内外で移住する場所を探すお手伝いはできました。パンや牛乳、それにパック入りの食事を配ったりもしています。国連のように大規模な配給ではなくできることをしています。国連が米やパスタを配るようになると我々はその配給を止めました。春には医薬品を配りましたが、薬局が利用できるようになったのでそれも止めました。また食糧引換券のお手伝いもします。今は120人ほどの人たちに向けサービスをしています。5月からは子どもたちのためのパソコンクラスをやっています。」
―戦時下であってもこうした働きを続けられる秘訣は何ですか。
「私の場合ははっきりしていて、信仰があるからです。イエス・キリストを信じる信仰が私たちの働きの動機です。人々に対して無関心でなく知恵を使って助けるようにと信仰が促してくれるのです。」

※詳細についてはWEBサイトをご参考ください。

コミュニティ・カフェ@大久保・高田馬場~出会い、交流、相談、憩いの場となるように

 東京教会「牧師カフェ」、前任の関野和寛・後藤直紀両牧師時代に、地域に開かれた「カフェ」と「ヌーンサービス」という祈りと音楽の会が、毎週水曜日に行われていました。が、コロナ禍のため休止となり、また担当奉仕者の確保等の課題もあり、再開を模索中でしたが、国内外の災害支援を担う特定非営利活動法人「CWS Japan」(Church World Service Japan、ACTジャパンフォーラムをNCCと共に組織)との共催で、新たに「コミュニティ・カフェ」(仮称)を開店(!?)することとなりました。CWS Japanは、外国人が多く住み生活する大久保で、特に災害時に自治体からの支援が届かない外国の方々に、どんな支援が可能かを模索し、地域との協力、協働を探り、まず状況把握から始め、生活相談会の開催等の会場提供から、私たち東京教会との関係が始まりました。教会を会場に、地域の方々の「出会い、交流、相談、憩いの場」の提供はできないかと話し合い、以前の「牧師カフェ」のノウハウを生かして取り組むことにしました。これは、地域貢献を目指す教会と、地域で活動を担おうとする団体との出会い、コラボ企画になりました。教会は「場所はある、しかし、働き手がいない(地域居住で継続的奉仕が可能な教会員はいない)」、一方、CWS Japanは、「ボランティア活動の人員はいる、しかし、場所がない(拠点がない)」で、いわゆる「ウィンウィン」が成立したのです。
 とりあえず、毎月第1、第3水曜日の午後1~5時に「営業」(!?)、以前の「カフェ」に倣い、ライヴ演奏や展示、また今回は、在日外国人のための相談業務も専門家が常駐し、日本語教室や、参加者による自慢の外国料理教室(及び楽しい試食会?)等も行っていきたいと思います。ただ以前と違うのは、伝道として教会の地域奉仕の業ですが、「布教」はしません。もちろん、希望があれば個別の「牧師とおしゃべり」はできますが、基本、どんな宗教・信仰の人も自由に集い、語り合い、尊重される「コミュニティ・カフェ」を目指したいと願っています。

エキュメニカルな交わりから

⑭NCC神学・宣教委員会
宮本新(ルーテル学院大学・日本ルーテル神学校専任講師)

 日本キリスト教協議会(以下NCCと表記)には、「宣教・奉仕」、「国際」、「総務」、「神学・宣教」という四つの部門があります。今回紹介する神学・宣教委員会はその一部門である「神学・宣教」部門に属し、協議会とその活動について神学的側面からの検討、また宣教会議を組織するところに目的があります。宣教と神学は、「理論と実践」というようにしばしば別々の事柄として、対立するかのように議論されることがあります。しかしこうした委員会が存在することは、神学と宣教が元々コインの表と裏のような関係にあることを考えてきたのかもしれません。宣教には、人が人となしていくことと、神を前に祈り思索する両面がありますから、かならず振り返りと話し合いが必要になります。神学する場面はここにあるのだと思います。
 近年の委員会活動にとって、2019年に開催されたNCCの宣教会議、そしてとりわけコロナ危機が大きなことでした。そこでの諸教会の経験を受け止め、神学的作業の遂行が求められていました。特に教会の取り組みが中断する中での困難、オンラインの可能性と課題、そして感染症対策の陰でますます大きくなっている苦難の現実をどのように受け止め考えるのか、協議会全体の祈りと議論に委員会も加わりました。
 またローマ・カトリック教会が第16回シノドス総会を開催するにあたり、日本の司教団からNCCに対する懇談への招待がありました。これを受けて、委員会は、シノドスに関連した対話のための文書検討の作業に加わりました。
 エキュメニズム運動は、かつてはキリスト教界内の一致を促進する立場や運動という印象でしたが、戦争や疫病、そして災害や地球規模の課題の切迫感が増している昨今、キリスト者と教会においてかかせない視点を提供しています。神さまが作られたこの被造世界を生きているのは「わたしたち」だけではありません。神と隣人、そして他のいのちある生命世界と共に生きるためにかかせない平和と共生の祈りが根底にあります。委員会はその一枝として役割を担っていることになります。

エルスベス・ストロームさん記念会の報告

秋山仁(豊中教会牧師・神戸東教会喜望の家代表)

 かつてドイツ・ブラウンシュヴァイク福音ルーテル領邦教会の宣教師として、大阪市西成区の日雇い労働者の町、通称「釜ヶ崎」で働かれていたエルスベス・ストロームさんは、昨年10月5日、享年100歳で天に召されました。11月5日には、葬儀が南ドイツのシュヴァンベルクで行われましたが、日本でも彼女の働きを記念して、今年2月18日、喜望の家主催で記念会を行いました。開催にあたっては、生前のストロームさんの思い出を分かち合うだけでなく、釜ヶ崎の内外で働いている自分たちが、何を彼女から提起され、今も受け継いでいるのかを語ってもらう会として企画しました。
 午後1時から追悼礼拝を行い、その後は、シンポジウム形式で、生前のストロームさんと交流のあった前島宗輔牧師(日本基督教団隠退教師)、森本典子さん(日本福音ルーテル賀茂川教会会員)、前島麻美さん(前・山王こどもセンター代表)、原野和雄(日本基督教団隠退教師)夫妻からお話を伺いました。また会場からは、釜ヶ崎キリスト教協友会のメンバー3人が、それぞれ発言してくださいました。その他にも小柳伸顕さん(元関西労伝専従)と、かつてストロームさんと一緒に働かれていた田頭夏子さん(山王ベビーセンター職員)から、それぞれ手紙でメッセージが寄せられ披露されました。会の最後は、大柴譲治総会議長にご挨拶いただきました。
 それぞれの証言からは、彼女の人柄や各々が受けた影響を知ることができました。特にストロームさんがいたからこそ、釜ヶ崎地域でのカトリックとプロテスタント諸教会・施設の共同の活動が、協友会という形で始まったこと、また目の前の課題に対する彼女のぶれることのない姿勢が、山王地区での保育事業(山王ベビーセンター)や、釜ヶ崎でのアルコール依存症に対する活動(喜望の家)につながっていたこと等の報告は、改めて今日の私たちが、彼女から受け継いでいるモノへの責任を強く感じさせられました。

ルーテル学院大学・日本ルーテル神学校の新年度が始まりました

石居基夫(ルーテル学院大学学長)

 2023年度のルーテル学院大学は、総合人間学部48名(編入学を含む)、大学院15名の新入生を迎えました。また日本ルーテル神学校には牧師養成コースに佐藤孝洋さん(NRK札幌中央ルーテル教会)、澤田春貴さん(NRK飯能ルーテル教会)の2名の新入生を迎えました。4月3日、感染が収束しつつある状況を受け、久しぶりに大学・大学院と神学校がそろった形での入学式を行い新しい学生生活をスタートいたしました。神学校では、さらに翌4日に入学始業聖餐礼拝が行われ、立山忠浩校長の説教「協働と自己研鑽」によって新年度への歩みを始めました。

大学の改革
 今年から大学では新しいカリキュラムを用意して学生たちを迎えました。
 これまでと同様に社会福祉士や公認心理師の資格取得可能な「社会福祉学系」「臨床心理学系」のカリキュラム、そしてキリスト教を軸とした「人間学系」では、「聖書を基礎としたキリスト教的人間理解」「人間の尊厳・人権と倫理」「宗教と文化」、また「スピリチュアル・ケア」や「子ども支援」の科目群を整えました。困窮する現代に、「共に生きる」社会を実現する人材育成を目指しています。
 チャプレンは、河田優チャプレンが兼任体制へと変わるため、近隣の牧師(平岡仁子、坂本千歳、李明生、高村敏浩)を加えたチーム体制で臨むこととなりました。

学生寮の閉寮
 15年前に全国の教会からご支援もいただいて改修されたルター寮ですが、今の学生を迎えるための施設的課題もあり入寮者減、そして危機管理上の課題もあり、学生受け入れが困難と判断し、閉寮の決断に至りました。JELCの神学生については当面日本ルーテル教団のルターハウスで受け止めていただき、生活の場所とすることとなりました。
 今後の寮棟利用については、チャペルも含めて神学校生全体の共同性を培う施設として利用してまいります。これまでの寮維持のためのご支援に深く感謝申し上げます。

第30回 春の全国teensキャンプ報告

森田哲史(宣教室TNG委員会teens部門・大江教会牧師)

 新型コロナウイルスの感染拡大のため、2019年を最後に対面での開催を見送ってきた「春の全国teensキャンプ」(以下、春キャン)でしたが、今回4年ぶりに対面での春キャンを開催しました(2021、2022年はオンラインにて開催)。
 コロナ前は例年80名以上の参加者が与えられていました。しかし、今回は対面開催の間が空いてしまったこと、小学5・6年生を対象にしたこどもキャンプも同様に開催が見送られてきたことなどの理由から、参加者は41名となりました。これまで春キャンは、信仰のこと、聖書のこと、普段の生活のことなどを同世代の信仰者と共に、心を開いて語れるコミュ ニティとしての役割が与えられてきました。teens部門では、そのコミュニティをいかに作り直すか、ということが今回の大きな課題と考え、準備を進めてきました。
 今年のテーマは「REUNION(再会)」として、信仰の友との再会を喜び、何よりも神さまと再び出会う場となることを願い、プログラムの準備を行いました。聖書の中のたとえ話などを現代風にアレンジした劇を作り、身近な経験を通して出会う神様の存在を考えました。また、閉会礼拝では参加者全員で連祷を行い、私たちはひとりぼっちではなく、どんなときも神様や仲間たちと愛で結ばれているという恵みを味わいました。
 各教会を始めとする多くの方の祈りと、各教区、女性会連盟、、JELAなどの皆さまのお支えによって、恵みのうちに終了することができました。感謝して報告に代えさせていただきます。

第30回春の全国teensキャンプ概要
開催日程
 2023年
 3月28日~30日
会場
 千葉市自然少年の家
テーマ
 REUNION
主題聖句
 「わたしの目にあなたは価高く、貴くわたしはあなたを愛しあなたの身代わりとして人を与え 国々をあなたの魂の代わりとする」(イザヤ43・4)
参加者
 41名(東9、東海17、
 西3、九州12)
スタッフ
 16名
キャンプ長
 森田哲史牧師
チャプレン
 中島和喜牧師
プログラムのねらい
 神様はどんな時も私たちのことを愛してくださっていることを知る。

東海教区教会会計支援ソフト・L-CAS easyの紹介

 牧師の複数教会の兼任や、役員の方々のなり手不足や事務労力の多さが重荷ともなりがちですが、現場支援のため東海教区では支援ソフトを提供していました。今回、より使いやすいものが発表されましたが、お声掛けをいただいたので全国にも、担当者からご紹介いたします。
(東海教区教区長・徳弘浩隆)

 ここ数年、情報の電子化や各個教会でのITの利活用(2021年に「IT環境整備に係る補助金」を実施)を推進しておりますが、このほど各個教会での会計処理の支援を目的として、教会会計支援ソフト・L-CAS easy(エルキャスイージィー、以下「イージィー」)を開発し、今年の教区総会でご紹介し、利用をお呼びかけしています。
 イージィーは、2018年より提供されていましたL-CAS lite(エルキャスライト、以下「ライト」)という、Excelベースのパソコン用ソフトの後継です。L-CAS liteは、教会で共有使用しているような、特定のパソコンにインストールして使用することを想定していましたし、マクロ機能をまとめたメニュー画面から作業を行うスタイルでした。しかし、会計担当者が変更になっても、各自のパソコンで手軽に使え、機能を限定してもよいので、もう少し簡便に操作できるものが欲しい、という「声」を受けて開発されました。
 イージィーの特長は、メニューベースではなくシート単位の簡単操作で処理を完結できる点、主なデータ入力は、「献金者管理」、「出納入力」、「献金入力」の3つのシートで、これらの入力を行えば、「献金明細表(主日毎)」、「月次出納帳」、「収支表(直近3カ月)」、「年間収支表(A3)」、「決算報告」が自動作成される点が挙げられます。但し、資産管理機能はありません。そして、専用のUSBやSDカードなどの記憶ディスクに保存(図参照)しておけば、会計担当者が代わっても、データ受け渡しが簡単にできます。推奨環境は、Windows10以降、Excelは2016以降(Microsoft365も可)です。
 会計の処理は、各教会で独自のやり方があるかと思いますが、献金管理と出納管理は、どの教会にも共通する機能だと思いますので、イージィーの汎用性は高いと思います。ご興味がおありの場合は、東海教区事務所(担当・石川)まで、メールにてお問い合わせください。
(石川吏志)

23-04-01るうてる2023年04月号

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「笑顔で、寄り添う」

日本福音ルーテル市川教会・津田沼教会牧師 中島康文

「今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。」ルカによる福音書6章21節

 1983年4月2日、その日はイースターの前日で、私は黒崎教会(既に解組)で最初の礼拝を迎える準備をしていた。按手を受け、牧師として最初の礼拝に、緊張しつつも熱い意気込みを抱いていた私に、友人から電話があった、「るつちゃんが死んだ!」と。意味が分からず黙している私に、友人は「フィリピンで溺れた子どもを助けようとして飛び込み、子どもは助かったけど彼女は亡くなった」と状況を説明してくれて電話は切れた。
 藤崎るつ記さんは旧日本ルーテル神学大学福祉コースの学生で、私より2学年下級生であった。同じボランティアクラブに所属していたこともあって、食堂で一緒になるといろいろな話をしてくれた。笑顔を絶やさない活動的な学生で、卒業後フィリピンに留学して1年後のことであった。あれから17年後、私は市川教会に着任した。数カ月たったある土曜日の午後、笑みをたえた白髪の男性が教会の庭に立っておられた。藤崎信牧師、るっちゃんのお父様であった。近くにある信徒の方が始めた教会で月1回説教の奉仕をしていること、ルーテル教会だったから寄ってみたとのこと。それからは殆ど毎月のように訪ねてくださっては「元気ですか?」と笑顔で声を掛けてくださった。るっちゃんがそうであったように、笑顔で寄り添うことは多くの言葉よりも慰めや励ましになることを、私はお会いするたびに感じていた。
 「ユダヤ人を恐れて家の戸に鍵をかけていた」(ヨハネ20・19)弟子たちのところに来られたイエスは、どんな表情をされていたのだろう。手とわき腹をお見せになりつつ、表情は穏やかで微かな笑みをたえておられたのではないだろうか。だからこそ彼らは「主を見て喜んだ」(同20・20)のだ。エマオの途上(ルカ24・13以下)、暗い顔の2人の弟子が主イエスの十字架の死と空の墓のことを話しているのを聞き、一緒に歩きながらイエスはどんな表情をされていたのだろう。ガリラヤ湖畔に戻っていた弟子たちに現れたイエスは(ヨハネ21・15以下)、ペトロに三度「私を愛しているか」とお尋ねになりながら、どんな表情をしておられたのだろうか。穏やかで微かな笑みをたえたイエスを思い浮かべたとしても、決してそれは間違っていないだろう。主の十字架と復活の出来事は、私たちの恐れや不安を取り除くためであり、私たちが笑顔を取り戻すためなのだから。
 「助け合うことは大事です。しなきゃならない。だけど、それがすごくいいことをしているかのように勘違いしてしまう。聖書の中に勘違いさせる言葉(引用者注・マタイ25・35~36)があるんです。」「私が釜ヶ崎に行って労働者から気づかされたことは、『そんなこと(引用者注・食事支援等)で得意顔をするな﹄ということでした。誰が好きこのんで人からものをもらって生活したいと思うか。どうして、にこやかに『ありがとう』と返事ができるか。そういう訴えだったわけですよね。」「調べてみたら、なんと原文はちゃんと釜ヶ崎の仲間たちの思いにそうようなことが、きちんと書いてあった。『私が飢えていた時、自分で食べていけるようにしてくれた。私が渇いていた時、自分で飲めるようにしてくれた』」「ない人には施してやれ、ということではなかったのです。」(本田哲郎神父、2011年7月8日真宗大谷派圓光寺での講演より)主イエスが十字架に付けられ復活されたのは、単に恵みとして与えられたのではなく、私たちが地上の命を喜んで生きるため、何よりも私たちが笑顔を取り戻せるようにと、罪を贖い、死への恐れを取り除いてくださったのではなかったか。
 笑顔で寄り添ってくださる主は、十字架と復活を受け入れた私たちに告げてくださいます、「あなたがたは笑うようになる」と。
(参考・藤崎るつ記記念文集編集委員会編『るっちゃんの旅立ち—ボトランの海で命ささげて』キリスト新聞社1984年)

エッセイ「命のことば」 伊藤早奈

㊲「みんな違って」

「深い地の底も御手の内にあり/山々の頂も主のもの。/海も主のもの、それを造られたのは主。/陸もまた、御手によって形づくられた。」(詩編95・4~5)

 「味気ないなぁ…」そのように思ったのは最近よく使うようになった冷凍食品の『野菜のみじん切り』を見た時でした。
 少し前に自分が「子どもは機械で切った野菜ではなく、手で切って色々な形をしている野菜のほうが良い」と言ったことを思い出します。
 この前、久し振りにいつもは買わないお店できゅうりを買いました。袋の中のきゅうりは太くて真っすぐできれいに並んでいました。いつも買うお店のきゅうりは曲がっていたり、真っ直ぐだったり、太かったり、細かったりいろいろあります。
 いつもと違うお店で買ったきゅうりを見て異様な感じがしました。でも何度か野菜が山積みになったお店でなるべく大きくて太く真っすぐな野菜を選んでいた自分もいました。
 自然のまま、ありのままに存在しているものを私たちが便利に利用しやすく見栄えが良いように改良してしまっているのかもしれないと思った時、自然のまま、ありのままにある存在に安らぎを感じたり、自然の中で本来の自分を取り戻す人も少なくないような気がしました。
 なんでだと思います?それは自然やありのままの存在は神様からの命のことばだからです。自然が特別なわけではありません。神様から造られたあなたも用いられます。

議長室から 大柴譲治

「共死」の覚悟に裏打ちされた愛

 「ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」(ルカ15・20b)

 イースターおめでとうございます。ある新聞記事をご紹介させてください。「斎藤強君は中学一年の時から不登校になる。まじめで、ちょっとしたつまずきでも自分を厳しく責めた。自殺を図ったのは二十歳の春だった◆ガソリンをかぶった。精神科医の忠告で彼の行動を見守っていた父親は、その瞬間、息子を抱きしめた。自らもガソリンにまみれて叫ぶ。「強、火をつけろ」。抱き合い、二人は声をあげて泣き続けた◆一緒に死んでくれるほど、父親にとって自分はかけがえのない存在なのか。あの時生まれて初めて、自分は生きる価値があるのだと実感できた。強君は後にこの精神科医、森下一さんにそう告白する◆森下さんは十八年前、姫路市に診療所を開設、不登校の子どもたちに積極的に取り組んできた。彼らのためにフリースクールと全寮制高校も作り、一昨年、吉川英治文化賞を受賞した◆この間にかかわってきた症例は三千を超える。その豊富な体験から生まれた近著〈「不登校児」が教えてくれたもの〉(グラフ社)には、立ち直りのきっかけを求めて苦闘する多くの家族が登場する◆不登校は親へのさい疑心に根差している。だから、子どもは心と体でまるごと受け止めてやろう。親子は、人生の大事、人間の深みにおいて出会った時、初めて真の親子になれる。森下さんはそう結論する。」(編集手帳、読売新聞2000年10月29日朝刊P.1)
 命賭けで息子を守ろうとする父親の必死の思いが伝わってきます。その背後には長年不登校で苦しんできた強くんに寄り添った周囲の忍耐強い愛があったことを見落とすことはできません。ご両親と森下医師は13歳から20歳までの7年間、強くんと共に歩んできたのでした。そうであればこそ時を得てその愛が伝わったのです。森下一さんは言います。「共生の思想は共死の思想に裏打ちされていなければならない」。ハッとさせられます。
 主の十字架を見上げる時、私はこの言葉を想起します。あの十字架の出来事には絶望の果てに死のうとする私たち一人ひとりをひしと抱きとめてくださったキリストの愛が示されている。その愛は共死の覚悟に裏打ちされていた天地が揺らいでも決して揺るぐことのない真実のアガペーの愛でした。
 私たちはどのような時に悔い改めの涙を禁じ得なくなるのでしょうか。放蕩息子の父親の姿に明らかなように、それは私たちが真実の愛に触れた時でありましょう。共死の覚悟に裏打ちされたイエスの愛こそが、私たちをその存在の根底から日々新たにしてくださるのです。

「教会讃美歌 増補」 解説

㉞増補19番「キリエ エレイソン」・増補20番「神の小羊」

松本義宣
(東京教会・東京池袋教会・板橋教会牧師)

㉞増補19番「キリエ エレイソン」・増補20番「神の小羊」
松本義宣
(東京教会・東京池袋教会・板橋教会牧師)

増補19番「キリエ エレイソン」
 1523年に、ルターは「会衆の礼拝式について」という小冊子で宗教改革の福音信仰に基く礼拝のあり方を示しました。そして強い要望を受け、続いて「ミサと聖餐の原則」をラテン語で発表します。同時期に幾つかのドイツ語による賛美歌を試作してきて、いよいよ「ドイツ語による礼拝」の必要を痛感して式文を作成し、1525年10月29日、三位一体後第20主日に始めて礼拝で試用しました。人々に歓迎されて同年のクリスマスからヴィッテンベルクの教会で用いられるようになり、翌1526年、ルターは「ドイツ(語)ミサと礼拝の順序」を著し、礼拝をドイツ語で行う指標を示しました。この「キリエ エレイソン」は、その中に掲載されたものです。ドイツ語ミサではありますが、当時の会衆に浸透していたミサの言葉(ギリシャ語の「主よ憐れんでください」)をそのままとし、伝統的な詩編トーンの第一で掲載しました(ルター著作集第一集第6巻参照)。増補でも、あえて訳さず、「キリエ・エレイソン(クリステ・エレイソン)」で歌うようにしています。

増補20番「神の小羊」
 同じくルター「ドイツ(語)ミサ」の聖餐式の賛歌「アニュス・デイ(アグヌス・デイ)」のドイツ語訳の歌です。ミサ典礼文(ラテン語)は、「世の罪を取り除く神の小羊」ですが、ルターは、「キリストよ、あなたは世の罪を取り除く神の小羊」としており、キリスト賛歌であることを強調します。実は、「讃美歌21」86番でもこの歌が紹介されましたが、字数の都合で「キリストよ、あなたは」は略されました。増補版では、ルターの思いを取り入れ、「イエス・キリスト」を強調して、「世の罪を取り除く」が歌詞に入りませんでした。賛否あるかと思いますが、「イエス様が神の小羊なのだ!」という信仰の告白の中に、「神の小羊=犠牲として」の思いが込められていることを覚えて歌えればと願います。
 旋律は、ルターの友人で牧師のJ・ブーゲンハーゲン(1485〜1558)が、1528年に出版した「尊敬すべきブラウンシュヴァイク市のキリスト教礼拝式文」に掲載さたものです。これは、私たち日本福音ルーテル教会のパートナー教会である、ドイツ・ブラウンシュヴァイク福音ルーテル教会が、ブーゲンハーゲンの指導で宗教改革を導入した際のものです。ここに紹介できたことを嬉しく思います。恐らく、増補19番「キリエ」の旋律と歌い出しが同じで、それをもとにルターが作曲したと思われ、勿論、今でもこの歌はドイツのルーテル教会で歌われ続けています。

世界の教会の声

浅野直樹Sr.(世界宣教主事 市ヶ谷教会・スオミ教会牧師)

ポスト共産主義を生きる教会

 スロバキア共和国のルーテル教会(アウグスブルグ信仰告白教会)監督がポスト共産主義を生きる教会について語ったインタビュー記事を抜粋して紹介します。イバン・エルコ監督は冷戦時代のチェコスロバキアで牧師の家庭に育ちました。
「共産主義が終わるなんて考えてもみませんでした。1989年まで私は自分の信仰のせいで死ぬと思っていましたから。終わってみて新しい自由な国になり、私の問いは信仰をどう生きるべきかに変わったんです。」
 牧会歴30年のエルコ牧師は、スロバキアのルーテル教会の監督として地域の教会の課題と向き合っています。共産主義の時代に人々が問うたのは、神の存在を信じてよいか否かというわかりやすいものでしたが、「現代は白か黒かという問いではありません。信仰の方向付けをするのが難しくなっています。」「色でいうならすべての色のスペクトルがあります。牧会の仕方も人それぞれで、神様との関わりがとても複雑になりました。」

「父は牧師でしたが、私は牧師になるつもりはありませんでした。ルター派信徒として毎週日曜日教会に来てはいましたが、自分の将来のことなど考えてはいませんでした。信仰的なクリスチャンとは言えなかったし、とてものんきに過ごしていたのですが、1982年の2月のある日、私は突如として神学を学び牧師になりたいと自覚したのです。」

—共産主義下で神学を学ぶというのは大変でしたか。
「共産主義と私は、常に霊的な敵対関係にありました。私は共産主義時代のイデオロギーにとても困惑させられていて、それはユダヤの人々が偶像礼拝を嫌悪したことに似ていました。神の代わりにまがいものの宗教を差し出すという共産主義のやり方に心が痛んだのです。自由と人権がないことに苦しんだのです。」

—1989年に共産主義政権が崩壊しました。
「そうです。思いもよりませんでした。私はラジオでそれを聞きましたが、どうしてあんなに早く消えたのか今でも不思議です。私に突然の回心が起こってから自分は信仰の故に死ぬと思っていたので、こうした状況での感情は悲喜こもごもでした。この大変革をなんとか生き抜かねばと思った時、信仰をどう生きるかが私にとって新たな課題となりました。」

—監督として最大の課題は何ですか。
「たくさんありますが、人々が神様といかにつながるかが最も重要な問いです。神の恵みによって自由を得たから生きているのだと、人々に気づいてほしいのです。共産主義のもとでの人生の方向付けは、黒か白か、善か悪か、クリスチャンか無神論者かといった感じでしたが、今は違います。クリスチャンであっても、その生き方は十人十色なので牧会的な対応はとても複雑になりました。」

※詳細についてはWEBサイトをご参考ください。

エキュメニカルな交わりから ⑬NCC信仰と職制委員会

立山忠浩(都南教会牧師)

 日本福音ルーテル教会(JELC)に「信仰と職制委員会」が置かれているように、日本キリスト教協議会(NCC)にも「NCC信仰と職制委員会」があります。JELCの委員会の場合は「信仰、職務、制度等に係る諸問題を検討及び研究し、意見を本教会常議員会に提言する」という具体的な使命があります。各教派でも名称は異なるにしても、教派の核心的な事柄に関することでの具体的な提言を行うことではほぼ一致しています。
 NCCのホームページに委員会の目標が掲げられていますが、各教派の委員会とは異なるのです。「教派間の対話や協働の促進」が主目的です。教派間や国内だけに留まらず、他宗教との対話やアジア・世界との連携も加えられています。
 さて、どのような活動を行っているのかとなると別の課題が生じて来ます。定期的な、そして実質的な活動がなされていないのです。第一の原因は新型コロナウイルス感染です。昨年も対面での会は困難となりました。それに加えて、各教派から派遣される委員がそれぞれに他の重責を担っており、時間と労力を割きにくいのです。
 そのような厳しい状況下でしたが、昨年10月14日にZoomでの委員会を開きました。代表(まとめ役)を担ってくださっている西原廉太先生(日本聖公会中部教区主教・立教大学総長)の呼びかけで行いました。昨年8月31日~9月8日にドイツのカールスルーエで開催された世界教会協議会(WCC)の「第11回総会」のレポートが主な内容でしたが、参加されたからこそ得られる興味深い情報でした。ロシアのウクライナ侵攻から7カ月しか経っていない生々しい状況下で、ウクライナからも近い地で開催されたことを反映したのでしょう。WCCに加盟しているロシア正教会を巡る議論が交わされたのです。ただ、国連総会と同様に、意見が一致せず、明確な結論を出せなかったとの報告でした。WCC、そしてNCCという協議会が掲げる「対話や協働の促進」を実践することの困難さを改めて感じることになりました。

3年ぶりに「JELAカンボジア・ワークキャンプ」開催!

森一樹(JELAスタッフ・市ヶ谷教会)

2020年2月以来3年ぶりとなる「JELAカンボジア・ワークキャンプ」が2023年2月13〜23日の日程で開催されました。久しぶりの開催にもかかわらず、ありがたいことに全国から多くの応募があり、10〜20代の大学生を中心に10名の参加者が集いました。
 今回のキャンプは主に三つの目的のもと実施されました。一つ目の目的はボランティアワークを通して「人や社会に仕える」経験をしていただくことです。今回は弊財団の支援するプレスクールや、カンボジア・ルーテル教会(LCC)の社会福祉施設を訪問し、壁の塗装をしたり、日本の風景や聖書のイラストを壁に描いたり、施設を囲む竹製のフェンスを作ったりする、ボランティアワークを行いました。
 二つ目は、カンボジアの歴史的名所への訪問を通して、参加者にカンボジアの歴史や価値観を知っていただくことです。カンボジアには世界遺産のアンコールワット遺跡群や、ポル・ポト率いるクメール・ルージュの大量虐殺や、その後の独立戦争の爪痕が色濃く残る歴史的な場所があります。キャンプではそれらを訪問し、カンボジアの歴史やその根底にある様々な価値観や文化に触れ、学ぶ機会も持ちました。
 三つ目の目的は、カンボジアでの様々な経験を聖書の御言葉を通して振り返り、参加者それぞれが聖書の神様と出会っていただくことです。今回はキャンプチャプレンとして、日本福音ルーテル日吉教会牧師(キャンプ当時)の多田哲先生が同行して下さり、毎日の終わりに、参加者がカンボジアで経験した様々な体験や人との出会い、またその多様な宗教観や価値観を振り返り、それらを聖書の御言葉を通して神様の視点から捉え直せるような「ディボーション」をリードして下さいました。
 末筆ではございますが、JELAワークキャンプ事業へのご支援とお祈りを誠にありがとうございます。本キャンプの詳しい様子や参加者それぞれの感想レポートを弊財団のWEBページで公開しておりますので、ぜひそちらも合わせてご覧ください!

新任J3から

Volamalala Ranaivoson

 こんにちは、私の名前はVolamalala Ranaivosonです。私はマダガスカルで生まれ、パプアニューギニア、イギリス、アメリカ、ケニアで宣教師の子供として育ちました。そのため、異文化のコミュニティで多機能で多様な背景を持つ人々とつながり、関わることへの愛と情熱が私の中で育っています。私は、本郷ルーテル教会でJ3宣教師をしています。昨年の4月に来日しました。

 J3宣教師プログラムについて、また、英語を習得させるだけでなく、全人格をケアし、福音を伝えるという長い歴史を知ったとき、ここでその一翼を担いたい、と思ったのです。特に、本郷学生センターの「恵みの陽だまり」というミッションに惹かれ、神様の素晴らしい恵みを地域社会に放射する居心地の良い場所となりました。
 過去1年間、教会と学生センターがまさにそのように機能しているのを目の当たりにし、本郷ルーテル教会の皆さんと一緒に成長できるこの機会にとても感謝しています。

第28期第21回常議員会報告

事務局長 滝田浩之

 2月20~21日に東京教会会議室で行われた標記の件について、ご報告いたします。

 人事委員会の提案した、2023年度教職人事が承認されました。
 また2023年4月1日付で、竹田大地牧師を広報室長に選任しました。これまで広報室長は東教区の教職が兼務する体制でしたが、ネットによる入稿、編集、校正が技術的にも十分な対応が取れる環境が整ったことを受け就任をお願いしたところです。

 市吉会計より、標記の件、会計監査報告と合わせて説明が行われ総会への提案が承認されました。
 公益会計において2021年度決算と比べて、協力金について拠出割合は同じであったにも関わらず減少している点が報告されました。感染症による影響から教会活動は徐々に回復しつつあるものの、会計的な影響は今後波及してくるものと考えられ、注視が必要との共通理解を得たところです。
 収益会計については2年連続の赤字でしたが、3年目に黒字化することができ、今後、社会活動が活発になる方向から好転する見通しが分かち合われました。

 古屋財務担当委員より、標記の件が提案され、総会への提案が承認されました。
 2020年以来、協力金の減額に伴い公益会計において特に2021年度は収益会計からの繰入を必要としましたが、2023年度実行予算より、可能な限り協力金内で教会全体の公益活動、つまり宣教活動を行うという方向性で予算を立てていることが報告されました。これは具体的な宣教の主体は個々の教会、そして教区によるものと理解した上で、事務局はあくまでも、その活動を支える事務的な業務を中心とするという考え方に基づいています。協力金が2024年度より10%に戻ったとしても、2019年度の収入を得ることは難しいという見通しも確実であり、事務局体制についてもスリム化が必要であるとの理解を確認したところです。

 総会日程について、11月常議員会に提案されたものに、学校法人ルーテル学院の報告を関連事業報告とは別枠で設けることが確認されました。ルーテル学院大学・神学校は、別法人ではありますが、教会と密接な関係性にあり、学校法人を取り巻く社会的環境や、学校法人の置かれた現状について分かち合われることになります。確認される点は大学の経営状況は、神学校の維持についても大きな影響を及ぼすという点にあります。学校法人の置かれた現状を分かち合うことで相互の理解を深める時としたいと考えています。
 またハラスメント防止委員会を規則に明文化する提案の前に、日本同盟基督教団の大杉至牧師よりハラスメントについての学びの時を持つことが確認されました。日本同盟基督教団は2000年代後半から、教会としてハラスメント防止に取り組んでおられ、教会内のハラスメントについて中心的に学び、共通理解を深めたいと考えています。

 これまで総会当日の午前中に行われてきた総会前常議員会(第22回常議員会)を4月17日(月)午前10~12時、オンライン(Zoom)にて開催することを確認しました。各教区総会で扱われ、総会に提案される内容について主に議論される予定です。総会に提案すべき議題があれば、教区常議員会に対して提出頂きますようにお願い申し上げます。

 以上、詳しくは常議員会議事録をご確認頂けますと幸いです。

2023年度 日本福音ルーテル教会人事

〈退職〉
(2022年10月13日付)渡辺高伸(退職)

(2023年3月31日付)小副川幸孝(定年引退)野村陽一(定年引退)

〈新任〉該当なし

〈人事異動〉(2023年4月1日付)

【北海道特別教区】
小泉基 札幌教会(主任)
中島和喜 函館教会(兼任)、
札幌教会協力牧師の任を解く
岡田薫 札幌教会(協力牧師)

【東教区】
河田優 日吉教会(主任)
李明生 むさしの教会(主任)
松本義宣(2022年8月1日付)
東京池袋教会(兼任)、板橋教会(兼任)
田島靖則 田園調布教会(主任)、雪ヶ谷教会(兼任)
筑田仁 羽村教会(主任)、八王子教会(兼任)
浅野直樹Jr.  甲府教会(主任)、諏訪教会(兼任)
【東海教区】
末竹十大 掛川菊川教会(兼任)、新霊山教会(兼任)

【西教区】
秋山仁 神戸東教会(兼任)

【九州教区】
関満能 大分教会(主任)、別府教会(兼任)、日田教会(兼任)
多田哲 合志教会(主任)、水俣教会(兼任)
小泉嗣 八代教会(兼任)
岩切雄太 阿久根教会(兼任)

【出向】
日笠山吉之 九州学院(チャプレン)
○牧会委嘱(2023年4月1日付/1年間)
田中博二(2022年12月1日付)東京池袋教会
德野昌博 仙台教会
小山茂 板橋教会
明比輝代彦 新霊山教会
大宮陸孝 賀茂川教会
乾和雄 神戸東教会
白髭義 二日市教会
黄大衛 長崎教会

「オープンチャット4月1日開始」〜元気を出せ!教会学校!〜

河田晶子
(TNG子ども部門)

 コロナ禍で対面でのティーンズキャンプ、ルーテルこどもキャンプが相次いで中止となり3年が経ちました。あちこちで教会学校の消滅や低迷の声を聞く中、教会学校の教師が自由に悩みやアイデアを交換できる交流の場として、LINEを用いて「オープンチャット」を開設することにしました。次世代宣教の働きを応援します。ぜひご参加ください。

23-04-01笑顔で、寄り添う

「今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。」
ルカによる福音書6章21節

 1983年4月2日、その日はイースターの前日で、私は黒崎教会(既に解組)で最初の礼拝を迎える準備をしていた。按手を受け、牧師として最初の礼拝に、緊張しつつも熱い意気込みを抱いていた私に、友人から電話があった、「るつちゃんが死んだ!」と。意味が分からず黙している私に、友人は「フィリピンで溺れた子どもを助けようとして飛び込み、子どもは助かったけど彼女は亡くなった」と状況を説明してくれて電話は切れた。
 藤崎るつ記さんは旧日本ルーテル神学大学福祉コースの学生で、私より2学年下級生であった。同じボランティアクラブに所属していたこともあって、食堂で一緒になるといろいろな話をしてくれた。笑顔を絶やさない活動的な学生で、卒業後フィリピンに留学して1年後のことであった。あれから17年後、私は市川教会に着任した。数カ月たったある土曜日の午後、笑みをたえた白髪の男性が教会の庭に立っておられた。藤崎信牧師、るっちゃんのお父様であった。近くにある信徒の方が始めた教会で月1回説教の奉仕をしていること、ルーテル教会だったから寄ってみたとのこと。それからは殆ど毎月のように訪ねてくださっては「元気ですか?」と笑顔で声を掛けてくださった。るっちゃんがそうであったように、笑顔で寄り添うことは多くの言葉よりも慰めや励ましになることを、私はお会いするたびに感じていた。
 「ユダヤ人を恐れて家の戸に鍵をかけていた」(ヨハネ20・19)弟子たちのところに来られたイエスは、どんな表情をされていたのだろう。手とわき腹をお見せになりつつ、表情は穏やかで微かな笑みをたえておられたのではないだろうか。だからこそ彼らは「主を見て喜んだ」(同20・20)のだ。エマオの途上(ルカ24・13以下)、暗い顔の2人の弟子が主イエスの十字架の死と空の墓のことを話しているのを聞き、一緒に歩きながらイエスはどんな表情をされていたのだろう。ガリラヤ湖畔に戻っていた弟子たちに現れたイエスは(ヨハネ21・15以下)、ペトロに三度「私を愛しているか」とお尋ねになりながら、どんな表情をしておられたのだろうか。穏やかで微かな笑みをたえたイエスを思い浮かべたとしても、決してそれは間違っていないだろう。主の十字架と復活の出来事は、私たちの恐れや不安を取り除くためであり、私たちが笑顔を取り戻すためなのだから。
 「助け合うことは大事です。しなきゃならない。だけど、それがすごくいいことをしているかのように勘違いしてしまう。聖書の中に勘違いさせる言葉(引用者注・マタイ25・35~36)があるんです。」「私が釜ヶ崎に行って労働者から気づかされたことは、『そんなこと(引用者注・食事支援等)で得意顔をするな﹄ということでした。誰が好きこのんで人からものをもらって生活したいと思うか。どうして、にこやかに『ありがとう』と返事ができるか。そういう訴えだったわけですよね。」「調べてみたら、なんと原文はちゃんと釜ヶ崎の仲間たちの思いにそうようなことが、きちんと書いてあった。『私が飢えていた時、自分で食べていけるようにしてくれた。私が渇いていた時、自分で飲めるようにしてくれた』」「ない人には施してやれ、ということではなかったのです。」(本田哲郎神父、2011年7月8日真宗大谷派圓光寺での講演より)主イエスが十字架に付けられ復活されたのは、単に恵みとして与えられたのではなく、私たちが地上の命を喜んで生きるため、何よりも私たちが笑顔を取り戻せるようにと、罪を贖い、死への恐れを取り除いてくださったのではなかったか。
 笑顔で寄り添ってくださる主は、十字架と復活を受け入れた私たちに告げてくださいます、「あなたがたは笑うようになる」と。
(参考・藤崎るつ記記念文集編集委員会編『るっちゃんの旅立ち—ボトランの海で命ささげて』キリスト新聞社1984年)

23-03-01るうてる2023年03月号

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「わたしが示す地に、祝福の源として」

日本福音ルーテル名古屋めぐみ教会・知多教会牧師 後藤由起

主はアブラムに言われた。/「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。」(創世記12章1節)

 教会が置かれている状況の厳しさが叫ばれ続けるなか、さらにこの数年の新型コロナウイルスの感染拡大をきっかけに、これまでどおりの活動を続けることが難しくなった教会も多いのではないでしょうか。またカルトやカルト2世の問題が取り上げられる今、わたしたちは伝統的な教会として、献金で成り立つ教会の活動についても、子どもたちへの次世代の宣教にも、より丁寧な対応と深い配慮、神学的な検証が求められているでしょう。まさに今は教会にとって、先が見えない不安のただ中にあるときではないでしょうか。しかしそのとき、わたしたちは一体誰なのか、そしてその行く先はどなたが備えるのかということをもう一度、確認したいのです。
 この箇所で語られているのは、イスラエルの祖先となったアブラム(のちにアブラハム)が神様の召しを受けて旅立ったということです。今から約4000年前のメソポタミア、現在のイラクのあたりの大都市で裕福な生活をしていたアブラムは、75歳になったとき、それまで知らなかった主なる神様に出会い、この神様を信じ、その言葉にしたがって行き先を知らずに旅立ちます。
 その神様のご計画は、地上の氏族がすべて祝福に入るということでした。この祝福をもたらすためにアブラムは召し出され、そして神様の救いのご計画は、やがて神の子イエス・キリストが来られることへと続き、今、イエス様を信じるわたしたちへと受け継がれています。神の民であるわたしたち教会は、神様の救いのみわざに参与し、その恵みを分かち合い、すべての人に神様の祝福を伝えるために召されています。それはわたしたち教会がアブラムのように、この世の安定や繁栄に頼るのではなく神に召し出された旅の途中にあるということでもあります。現代の教会を取り巻く状況の中で、人間的には先が不安になることもあります。しかしわたしたちの行く先は、神様が「わたしが示す地へ!」と言われるところです。それはわたしたちが、神様を信頼することへ招かれているということです。
 なぜなら、教会は終わりの日、イエス様が再び来られる日まで旅人だからです。その日まで教会は途上にあり、その姿はいつも変わりゆきます。ある時点の姿が永遠に安定した理想的なものであるというわけではありません。つい、かつての教会の姿が懐かしく感じることがあるかもしれませんが、教会とはそもそも変わりゆく存在であるがゆえに、変化を恐れないのです。アブラムは神様の祝福の御計画のため、慣れ親しんだ環境から抜け出さなければなりませんでした。これまで築いた安定した地位に頼るのではなく、神様だけを頼りに彼は出発したのです。地上を旅する神様の教会は、地上では行く先を知らないかもしれません。しかし終わりの日の御国が示されており、その日に教会は完成します。その日まで、わたしたちは神様がこの世を愛しておられるその働きを実際に地域の中で表していく存在であり、祝福のご計画に召し出された者です。
 ですからわたしたちは、それぞれの教会に与えられた神様のご計画を信頼します。神様はいま、この町でわたしたちの教会を通してどんな祝福のご計画をなそうとしておられるのでしょうか。確かにわたしたちは、この世の中では小さく弱い存在かもしれません。しかし自分の力がないからこそ、そこに頼ることができないからこそ、聖霊の力が先立って進みます。小さな存在であるかもしれないけれども、そのような教会の姿にイエス様の十字架の姿が現されていきます。このイエス様の十字架こそが、神様の救いを現したのです。そしてわたしたちは、十字架の道のりが復活へとつながっていることを知っています。ですからわたしたちは、召し出されたそれぞれの場で、神様のご計画を大胆に信頼し、御国をめざし地道に目の前の宣教のわざを今日も果たしていきたいと願います。
「祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。」(一ペトロ3・9c)

エッセイ「命のことば」 伊藤早奈

㊱「名前から」

「それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。/見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。」(イザヤ7・14)

 「私、カードに名前を書くだけでやっとですけどいいんですか?」そう言う私に彼女はニコニコしながら「名前だけでも頂く方は嬉しいのよ。」何年も前に教会で交わした言葉を思い出しました。
 それは寄せ書きされたカードが教会から私宛に送られてきた時でした。いろいろな理由で教会へ足を運べない人がいらっしゃいます。私もその1人です。
 自分の健康のことや家族のことなど人によって理由は様々です。教会へ行かれない辛さや寂しさの中、1枚のカードが教会から届きました。教会の牧師がみ言を書いてくださりその周りに所狭しと教会の方々のお名前が書いてありました。
 飛び出す絵本てご存知ですか?そのような感じでお一人おひとりの書かれたお名前からメッセージや表情が飛び出して来るんです。それだけではなくお名前が書かれていないお一人おひとりの祈られる姿も伝わってきます。
 自分の経験や変化する状態などで同じ文章や言葉が違う意味を伝えてくれる時があります。それは好きな本の言葉であったり歌の歌詞だったりなんとなくかけられた言葉だったり。それら一言一言は今あなたに生きて与えられています。例えあなたが選んだと思ったとしても神様からあなたへ与えられています。

議長室から 大柴譲治

「soli deo gloria〜徳善義和先生を覚えて」

 今年1月3日、徳善義和先生が90歳で天に召されました。1980年の神大編入以来、石居正己先生と徳善義和先生から私は実に多くのものを学ばせていただきました。奇しくも後にむさしの教会の牧師としてもお2人からバトンを受け継ぐことになります。
 詳細なプロフィールは『ルター研究第8巻』(定年退職記念献呈論文集2002)に譲ります。徳善先生は1954年に東大工学部、57年に鷺ノ宮のルーテル神学校を卒業後、59年JELC按手、稔台教会での牧会と留学を経て64年専任講師、73年に教授に就任。2002年の退官までの40年近く、ルターがよみがえったように生き生きと語られる先生の「徳善節」は大変に有名でした。また、先生のエキュメニカルな領域での貢献も忘れることはできません。国際的にも国内的にも先生は常にカトリック・ルーテル・聖公会の共同委員会の中心であり、2014年11月30日の「エキュメニズム教令50周年」記念の3教会合同礼拝では説教者を務められます(於東京カテドラル聖マリア大聖堂)。1997〜2000年には日本キリスト教協議会議長。2012年には岩波新書で『マルティン・ルター〜ことばに生きた改革者』を出版。幅広い貢献から2014年にはキリスト教功労者顕彰を受彰されています。
 私には三つの忘れ難い逸話があります。神学生時代、未熟な私は先生から約束の重要性について厳しく指導されたことがあります。どこまでも約束とは相互的なものであって、相手はその時間を調整して待っている。そこには社会的な責任があるのです。赤面の至りでした。二つ目は、私たち夫婦の国際結婚のビザ切替え時に入管にまで足を運んでくださいました。有り難いことです。三つ目は1997年の春、むさしのへの着任が決まった直後でした。留学先のフィラデルフィアまで足を運んでくださり、3人の子どもに牧師館の間取りを示して歓談してくださったのです。子どもたちは大喜びです。その際ラジャシェカー教授からの〝magna cum laude〟という語を伝えてくださったのも先生でした。それは今でも私の大切な原体験になっています。そのように要所々々で先生は深く関わってくださった。それは恐らく私だけではありますまい。先生は常に一人ひとりをしっかりと温かく観ておられました。その意味でも先生は優れた教育者であり牧会者でした。登世子夫人にもいのちの電話でお世話になりました。ありがとうございました。s.d.g.

「教会讃美歌 増補」 解説

㉝増補17番「もし神がともにおられなければ」・増補18番「幸いな人よ」

日笠山吉之(札幌教会牧師)

 聖書の中でもとりわけ『詩編』をこよなく愛したルターは、『詩編』のテキストをパラフレーズ化して、コラールの歌詞としたものが幾つもあります。今回ご紹介する17番『もし神がともにおられなければ』と18番『幸いな人よ』もそうです。前者は『詩編』124編が、後者は同128編がそれぞれ下敷きとなっています。
 まず、17番の『もし神がともにおられなければ』を取り上げましょう。このコラールの下敷きとなった『詩編』124編は「主が私たちの味方でなかったら、主が私たちの味方でなかったら」と言う御言葉で始まりますが、ルターは律儀にもコラールの中でこの御言葉を2回繰り返しています。それに続く歌詞は、1節「力を失い、世に侮られる、あわれな群れよ」2節「か弱いわれらは、からだも、いのちも、流されるまま」。その通りです。主が私たちの味方でなかったら、私たちにはなす術がないのです。しかし、信仰者は主が共におられ、必ずや救ってくださることを知っています。ですから、3節に入ると「感謝と賛美は、ただ神にある」とルターは歌うのです。さながら罠から放たれた小鳥のように自由に!
 次の18番『幸いな人よ』も、『詩編』128編のテキストをほぼ忠実にたどっています。「いかに幸いなことか。主を畏れ、主の道に歩む人よ」と言う御言葉で始まるこの詩編は、127編と共に、現在でも結婚式の式文の中で最初に交唱される詩編となっています。ルターのコラールは、主を畏れ敬い、互いに愛し合いつつ主の道を歩むカップルがいかに祝福されているかを歌い上げていますが、それはさながらルターの家族の仲睦まじさを垣間見るかのようです。この歌詞につけられたJ・ヴァルターの旋律も冒頭から高揚感に満ちています。最後の小節のシンコペーションがなんともリズムが取りにくいかもしれませんが、そこはあまり拘らず勢いで歌い切ってしまいましょう。

世界の教会の声

浅野直樹Sr.(世界宣教主事 市ヶ谷教会・スオミ教会牧師)

難民に手を差し伸べるエストニア教会

 エストニアのルーテル教会はウクライナ戦争による難民たちを様々な手段で支援しています。牧会的ケア、実際的サポート、合同の集会や活動などを通じて彼らが安心して生活できる環境を提供しようと努めています。
 ロシアのウクライナ侵攻が起きてすぐにエストニアルーテル教会EELCは難民を歓迎しました。LWF加盟教会のEELCとそのディアコニア活動団体は、宿泊施設と牧会的ケアを手配、色々な活動を計画し心を込めて迎え入れました。
 「侵略戦争は言語道断の罪です。」総司教のウルマス・ビルマ氏は言います。同時に彼は共感の力を強調して次のように言いました。「悪は、信仰と希望と愛を私たちから奪うことはできないのです。たとえすべてを奪われても、信仰と希望と愛は奪えません。」
 多くのエストニア人にとってウクライナ侵攻は他人事ではありません。牧師やボランティアたちは今回の戦争で、ソ連時代のスターリンによる弾圧という悪夢の記憶がよみがえり、強制的に避難させられた住民の痛ましい状況を語ります。
 EELCの諸教会は侵攻後すぐウクライナ支援基金を起ち上げました。するとエキュメニカルな関係教会やLWFから、各個人からの分を合わせて6万ユーロを超える支援が集まりました。感謝祭には1万7千ユーロがこれに加算されました。
 タリンにある聖ヨハネ教会のボランティアたちは言います。「戦争が始まったときから、すべてのキリスト者と教会が助けたい、行動したいと思い立ち、どうしたらいいのか考えました。」「みんなが人道的支援品や義援金を集めてくれます。チャリティーコンサート、物品販売、ボルシチの提供、迷彩柄の網、ニットの靴下や手袋など。もちろんウクライナのための祈りもです。」2人の女性はウクライナの子どもたちのために語学サマーキャンプを開催しました。難民の子どもたちはエストニアの子どもと同部屋で過ごしたため交わりを深めることができ、キャンプは大成功でした。
 一緒にする料理や魚釣りに盛り上がったりもしました。タルトゥのエストニア人が釣り道具を寄付し、ウクライナ人を連れてエマジョギ川で鯉を釣ったそうです。タルトゥにある聖マリア教会でデイケアセンターを運営するレア・サールさんは言います。「会話が弾んで釣り場の話になって、ウクライナの子どもたちが池と呼ぶ水場のことをエストニア人は湖と呼んでいたり。どんな魚が釣れたとかどのぐらいとれたとか。これは凍りついた心を人とのつながりで解きほぐし親切を注ぐ方法なんです。」
 牧会的霊的ケアも欠かせません。戦争が始まるとEELCの牧師45人が協力しました。今でも12人がカウンセラーとしてパートタイムで難民たちのケアをしています。宿泊場所を移動する合間を利用して彼らの喪失体験や恐怖に耳を傾け、亡命生活の心の不安と向き合う手助けをします。その人の信仰がなにかは問うことをしません。
 「キリストが今私たちに問いかけていることはなにか。それはあなたは愛したか、です。キリストがそうしてくださったように、私たちは愛しているかが問われています。」オーヴェ・サンダー神学研究所学長は自身の動機をそのように語っています。
 「戦争難民の方々の厳しい未来に光を届ける。ケアやチャリティを通して希望を贈る。そうしてキリスト者として出来ることをする。それが平和を得ている私たちが神様から召し出されていることなのです。」ヴィルマ総司教はこのように締めくくりました。

※詳細についてはWEBサイトをご参考ください。

エキュメニカルな交わりから ⑫NCCドイツ語圏教会関係委員会

李明生(田園調布教会牧師)

 「ドイツ語圏教会関係委員会」は日本キリスト教協議会(NCC―J)の「国際部門」の委員会の一つです。
 当委員会は、日本とドイツ語圏の教会間交流を通して共通の関心事を見い出し、相互的な啓発、学びあいを進めることを目的としています。1965年に開催された第1回日独教会協議会の結果、1966年にスタートしました。その後、1979年には東ドイツ委員会と西ドイツ委員会に分かれましたが、1990年10月にドイツ連邦が統一され、プロテスタント教会も一つの組織を形成したことを受けて、日本側の委員会も1991年に再度一つの「ドイツ教会関係委員会」として出発することとなりました。その後、2016年の協議会にはスイスのプロテスタント教会からも代表者が参加することとなりました。ヨーロッパのドイツ語圏にはプロテスタント教会が展開していることから、ドイツに限らず「ドイツ語圏」のプロテスタント諸教会と日本のプロテスタント教会とを繋ぐ役割を担うことを目指して、2017年より「ドイツ語圏教会関係委員会」と改称することとなりました。
 当委員会の大きな役割の一つは、ドイツ国内の20の諸教派の集まりであるEvangelische Kirche in Deutschland(EKD)が母体となって各国から受け容れを行っているドイツ・プロテスタント教会奨学金の奨学生の募集・予備選考・推薦です。この奨学金プログラムは、日本とドイツの教会交流の促進を目的に設置され、将来にわたってエキュメニカルな働き及び宣教活動に貢献できる人材養成を目指しています。例年、募集要項は夏頃に発表され、応募締め切りは12月下旬、選考試験は1月上旬に行われています。
 また日本とドイツ語圏のプロテスタント教会間による定期協議会を開催しています。この協議会はそれぞれの教会の宣教の課題を共有し、協力関係について確認することを目的としています。2016年に第7回協議会が東京にてスイスのプロテスタント教会を交えて行われた後、2019年にはスイスのリューゲルおよびアーラウにて行われました。本来であれば2022年に次回の開催の予定でしたがコロナ禍で延期となり、現在も協議中です。
 なお2016年に宗教改革とディアコニアを主題として行われた協議会の講演等の記録は、「いま、宗教改革を生きる—耳を傾け共に歩む—」(NCCドイツ語圏教会関係委員会編・いのちのことば社2019年)として書籍化されました。宗教改革の歴史とディアコニアの関係についての入門書的1冊となっています。皆様是非お読みください。

東海教区青年会・外国人メンバークリスマス会

レリアナ・パルドシ

 皆様、メリークリスマス、神の平安が私たちの生活に常にありますように。
 私はレリアナ・パルドシです。インドネシアから来ました。私は日本に働きに来た外国人インターンです。ちょうど3年前の2019年12月10日、初めて日本に来ました。夢のようでした。大学卒業後、日本に来るとは思っていなかったのですが、神様の御心で、日本で最初の仕事をすることが許されました。恐れはありますが、私の人生における神の祝福にも感謝しています。3年前、日本での初めてのクリスマスの時、仲間の中でキリスト教徒は私だけでした。当時、私が住んでいる場所の近くに教会があり、毎週日曜日に訪問したいと祈りました。そして、私が最初に行った教会が大垣教会でした。今まで、大垣教会で成長し、教会の家族を見つけられました。日本語や日本文化を勉強するクラスで徳弘先生と出会ったのもこの場所でした。また、渡邉先生が率いる教区のユースサービスにも出会いました。このユースサービスを通じて、日本人と出会って多くのことを学びました。教区のユースサービスではZoomを介して接続しています。2021年12月のクリスマスに教会のユースと初めて直接会いました。そして、この 2022年12月は対面でのユースの2度目のクリスマスでした。
 2022年12月のクリスマスサービスは、教会の若者たちと一緒に祝いました。一緒に礼拝し、一緒に昼食をとり、一緒に歌い、ゲームをし、贈り物を交換しました。国ごとに異なるクリスマスの伝統があって、インドネシアでは若者がクリスマスを祝う時、通常、聖歌隊と伝統的な踊りで祝っていますが、日本でもクリスマスを祝うことができたので、私は幸せでした。私にとってクリスマスは単なるお祝いではありません。キリストが私たちのために生まれたからです。2022年のクリスマスには多くの祈りと希望がありました。
 神が私たちの人生の歩みと祈りを祝福し、神が最高の時に応えてくださることを願っています。

新任J3から

スレザク・ローラ

 スレザク・ローラと申します。アメリカ人です。私はテキサス州ダラスの近くで生まれました。同じ場所で育ちましたが、大人になってから住んだ場所は、日本が7カ所目です。祖父は外交官で、家族から異文化への理解と尊敬を教えられていました。
 私は九州学院高校のJ3です。ALTとして1年生を18クラス教えています。また、大江教会で毎週夕方の水曜日に英会話サークルの講師をしています。時々、熊本国際礼拝で説教をすることがあります。今年の2月19日に大江教会で説教をしました。仕事以外では、毎日日本語を勉強しています。趣味はハイキングなどのアウトドアで、特に山や森の周辺が好きです。ラーメンやしゃぶしゃぶなど、おいしいものを食べに行くことも好きです。

定年教師挨拶

野村 陽一

 本年3月で定年を迎えた野村陽一です。38年間、牧師としてお支え下さり心から感謝申し上げます。私は、神学校入学の時から、牧師への召命は神からの召命と、教会からの召命の二つがあると考えていました。当時属していたむさしの教会で、青年仲間が次々と牧師への道を選び取っていく中、私に対する教会員の期待を感じ取っていたことの影響だと思っています。二つの召命感は今でも変わっていません。
 これまで、岡崎、刈谷、名古屋めぐみ(恵・柴田)、大分、別府、日田の6教会で牧師として過ごしてきました。新卒以来、いつも複数の教会を担当するあわただしい生活で、一教会に集中できないもどかしさを感じつつも、こんな牧師を受け入れ、支え続けてくださった教会員なしには、ありえない38年間だったと思います。
 教会以外にも、保育園、児童養護施設、認定こども園での働きも与えられました。子どもたちや若い職員からたくさんのエネルギーをもらいました。こうして感謝をもって定年を迎えられたことは大きな幸いです。
「動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」(一コリント15・58)。

「定年を迎えて」 小副川 幸孝

 牧師として四十有余年を過ごすことができ、これまでお支えいただいたことを心から感謝申し上げます。
 思い返せば、牧師としての按手を受けました時に、「この方のなさった事は、何もかも、すばらしい」(マルコ7・37口語訳)と告白できるような歩みをしたいと願っていました。
 しかし「教会の声は神の声」と思い、赴任先を委ね、藤が丘教会に統合された世田谷新町教会を皮切りにして与えられた場所での働きとなり、結果的には牧師人生の半分近くは学校教育の場となりました。立教大学大学院を卒業後、米国のシカゴ神学大学院に留学し、帰国して6年間は開拓されたばかりの新札幌教会、そして九州学院(宇土教会兼任)、九州女学院短大、九州ルーテル学院大学が任地となりました。また、母教会である久留米教会、そして最初の任地で設立を準備した藤が丘教会などの招聘を受け、現在は九州学院にいます。東京女子大やルーテル神学校で教壇に立つ機会も与えられました。それぞれのところでの出会いが、神から賜った大切な出来事であり、それらの方々に支えられての牧師生活でした。
 牧師としての定年を迎えるにあたり、今あらためて、そうしたことの一つひとつが去来します。すべてがうまくいったわけではありませんが、やはり、「この方のなさった事は、何もかも、すばらしい」と告白したいと思っています。

「教会讃美歌 増補 分冊Ⅰ」MIDIデータをご活用ください

 2021年に発行されました「教会讃美歌 増補 分冊Ⅰ」のMIDIデータが、日本福音ルーテル教会のWEBサイトにて公開されています。新しい賛美歌に身近に触れる機会として、是非ご活用ください。
 「教会讃美歌 増補 分冊Ⅰ」ならびに「教会讃美歌」のMIDIデータは、日本福音ルーテル教会WEBサイトの「アーカイブ」中の「礼拝関連資料」ページに掲載されています。
※「礼拝関連資料」ページはWEBサイトをご参考ください。

「神学校の夕べ~主の召しに応えて~」動画配信のご案内

 2月26日(日)17時よりオンラインにてライブ配信された「神学校の夕べ」の動画を3月末までご視聴頂けます。
 誰もが主の召しを受けています。一人ひとりに与えられた召しに応え、共に歩んでいく幸いを皆で祈り求めましょう。
説教 立山忠浩(日本ルーテル神学校校長)
司式 梁熙梅(NRK神学教育委員)、司式補佐・神学生
奏楽 湯口依子(ルーテル学院オルガニスト)
合唱・ハンドベル演奏 
ルーテル学院聖歌隊、ラウス・アンジェリカ
共催 日本福音ルーテル教会神学教育委員会・
日本ルーテル教団神学教育委員会・
日本ルーテル神学校
※こちらのWEBサイトをご参考ください。

23-03-01わたしが示す地に、祝福の源として

主はアブラムに言われた。/「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。」
(創世記12章1節)

 教会が置かれている状況の厳しさが叫ばれ続けるなか、さらにこの数年の新型コロナウイルスの感染拡大をきっかけに、これまでどおりの活動を続けることが難しくなった教会も多いのではないでしょうか。またカルトやカルト2世の問題が取り上げられる今、わたしたちは伝統的な教会として、献金で成り立つ教会の活動についても、子どもたちへの次世代の宣教にも、より丁寧な対応と深い配慮、神学的な検証が求められているでしょう。まさに今は教会にとって、先が見えない不安のただ中にあるときではないでしょうか。しかしそのとき、わたしたちは一体誰なのか、そしてその行く先はどなたが備えるのかということをもう一度、確認したいのです。
 この箇所で語られているのは、イスラエルの祖先となったアブラム(のちにアブラハム)が神様の召しを受けて旅立ったということです。今から約4000年前のメソポタミア、現在のイラクのあたりの大都市で裕福な生活をしていたアブラムは、75歳になったとき、それまで知らなかった主なる神様に出会い、この神様を信じ、その言葉にしたがって行き先を知らずに旅立ちます。
 その神様のご計画は、地上の氏族がすべて祝福に入るということでした。この祝福をもたらすためにアブラムは召し出され、そして神様の救いのご計画は、やがて神の子イエス・キリストが来られることへと続き、今、イエス様を信じるわたしたちへと受け継がれています。神の民であるわたしたち教会は、神様の救いのみわざに参与し、その恵みを分かち合い、すべての人に神様の祝福を伝えるために召されています。それはわたしたち教会がアブラムのように、この世の安定や繁栄に頼るのではなく神に召し出された旅の途中にあるということでもあります。現代の教会を取り巻く状況の中で、人間的には先が不安になることもあります。しかしわたしたちの行く先は、神様が「わたしが示す地へ!」と言われるところです。それはわたしたちが、神様を信頼することへ招かれているということです。
 なぜなら、教会は終わりの日、イエス様が再び来られる日まで旅人だからです。その日まで教会は途上にあり、その姿はいつも変わりゆきます。ある時点の姿が永遠に安定した理想的なものであるというわけではありません。つい、かつての教会の姿が懐かしく感じることがあるかもしれませんが、教会とはそもそも変わりゆく存在であるがゆえに、変化を恐れないのです。アブラムは神様の祝福の御計画のため、慣れ親しんだ環境から抜け出さなければなりませんでした。これまで築いた安定した地位に頼るのではなく、神様だけを頼りに彼は出発したのです。地上を旅する神様の教会は、地上では行く先を知らないかもしれません。しかし終わりの日の御国が示されており、その日に教会は完成します。その日まで、わたしたちは神様がこの世を愛しておられるその働きを実際に地域の中で表していく存在であり、祝福のご計画に召し出された者です。
 ですからわたしたちは、それぞれの教会に与えられた神様のご計画を信頼します。神様はいま、この町でわたしたちの教会を通してどんな祝福のご計画をなそうとしておられるのでしょうか。確かにわたしたちは、この世の中では小さく弱い存在かもしれません。しかし自分の力がないからこそ、そこに頼ることができないからこそ、聖霊の力が先立って進みます。小さな存在であるかもしれないけれども、そのような教会の姿にイエス様の十字架の姿が現されていきます。このイエス様の十字架こそが、神様の救いを現したのです。そしてわたしたちは、十字架の道のりが復活へとつながっていることを知っています。ですからわたしたちは、召し出されたそれぞれの場で、神様のご計画を大胆に信頼し、御国をめざし地道に目の前の宣教のわざを今日も果たしていきたいと願います。
「祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。」(一ペトロ3・9c)

23-02-01試練の中で

「人はパンだけで生きるものではない。/神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」
(マタイによる福音書4章4節b)

 教会の暦では、「顕現節」が終わると「四旬節」(受難節)と呼ばれる季節が始まり、歴史的な聖書日課では、この時、イエスが荒れ野で悪魔の試みにあわれたという箇所が読まれてきました。
 これがこの季節に読まれるのは、この誘惑の出来事が、単なる誘惑や試練に打ち勝つということではなく、私たちの生き方全体の問題だからです。
 私たちは、自分の人生や生活をより楽しい方に、出来るなら苦しいことや悲しいことではなく、豊かで、安心して、楽に暮していきたいと願います。しかし、この願いが、実は、私たちに苦しみや悲しみを起こしていることも事実です。だから、イエスの誘惑は、まず、そういう私たち自身の姿と問題をはっきりさせているのです。
 イエスの誘惑は、彼が洗礼を受けてからの出来事であると記されています。私たちで言えば、洗礼を受けてクリスチャンになってからということです。これは大変象徴的です。神を信じて生きるというのは、人生を、本当の意味で深く豊かに生きるということですが、神を信じたから苦しいことがないのではなく、苦難や試練の中でこそ、本当に深く生きる道が開かれることをイエスはここで示されたのです。
 聖書は、ここで三つの誘惑を記しています。その第一は、イエスが40日の断食後に悪魔が来て、「あなたがもし神の子なら、その石ころをパンに変えたら良かろう。そのような力があなたにはあるではないか」と誘ったというのです。これは、断食後の喉から手が出るほど食べ物が欲しい時のことです。しかし、ここで注意深く聖書を読むと、悪魔の誘惑の言葉は、パンを食べることではなく、石をパンに変えることです。つまり、生きることそのものではなく、石をパンに変えるような生き方のことが問題になっているのです。
 その他の誘惑については、誌面の都合上省きますが、これらは誘惑というより、むしろ、私たちが積極的に良いことだと思って求めていることです。少なくとも食べることに困らない生活をし、権力や権威というほどではないにしても、人から良く思われたい、認められたいと思っています。自分がないがしろにされるといって腹を立てることは沢山あります。また、安心して暮したいと願っています。だから、何とかしようとあくせくします。ここで「誘惑や試練」として記されていることは、実は、私たちが普段、願い求めていることです。むしろ、私たちがこちらからそうしてもらいたいと思うようなことばかりです。
 しかし、聖書はこれが誘惑であり試練だと言うのです。
 なぜなら、豊かになり、安心して暮したいがゆえに、そして、他の人に認められたいがゆえに、恐れや不安に捕らわれるからです。
 そこで、イエス・キリストはどうされたかを考えてみましょう。キリストは、ここで単純に神の言葉に依り頼まれています。神の言葉に立つことで、ご自分の生きる姿勢を明確にされました。「人はパンだけで生きるのではなく、神の言葉で生きる。神を試みてはいけない。仕えられるのではなく仕えること。」このイエス・キリストの誘惑への答えは、彼の生涯を見ると、その姿がはっきりしてきます。
 私たちは、無意識に、知らず知らずのうちに、聖書が誘惑として示したことを望んで、大切なものを失い、不安や恐れに駆られて生きているのかもしれません。しかし、私たちは、キリストの言葉を、今日、思い起こしたいと思うのです。
 「私はパンだけで生きるのではなく、神の言葉によって生きる。私は神を試みずに、神に信頼して生きる。私は、人から仕えられることを望むのではなく、人に仕えて生きる」(私訳)。それが、試練の中で苦難や辛さを担って、人生を切り開いて行く時の一つの姿勢であること。そのことを聖書から教えられるのです。私たちは、その神の言葉を聞きながら日々を本当に豊かな思いをもって過ごすことができればと思います。

23-02-01るうてる2023年02月号

機関紙PDF

「試練の中で」

学校法人九州学院院長・チャプレン 小副川幸孝

「人はパンだけで生きるものではない。/神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」

(マタイによる福音書4章4節b)

 教会の暦では、「顕現節」が終わると「四旬節」(受難節)と呼ばれる季節が始まり、歴史的な聖書日課では、この時、イエスが荒れ野で悪魔の試みにあわれたという箇所が読まれてきました。
 これがこの季節に読まれるのは、この誘惑の出来事が、単なる誘惑や試練に打ち勝つということではなく、私たちの生き方全体の問題だからです。
 私たちは、自分の人生や生活をより楽しい方に、出来るなら苦しいことや悲しいことではなく、豊かで、安心して、楽に暮していきたいと願います。しかし、この願いが、実は、私たちに苦しみや悲しみを起こしていることも事実です。だから、イエスの誘惑は、まず、そういう私たち自身の姿と問題をはっきりさせているのです。
 イエスの誘惑は、彼が洗礼を受けてからの出来事であると記されています。私たちで言えば、洗礼を受けてクリスチャンになってからということです。これは大変象徴的です。神を信じて生きるというのは、人生を、本当の意味で深く豊かに生きるということですが、神を信じたから苦しいことがないのではなく、苦難や試練の中でこそ、本当に深く生きる道が開かれることをイエスはここで示されたのです。
 聖書は、ここで三つの誘惑を記しています。その第一は、イエスが40日の断食後に悪魔が来て、「あなたがもし神の子なら、その石ころをパンに変えたら良かろう。そのような力があなたにはあるではないか」と誘ったというのです。これは、断食後の喉から手が出るほど食べ物が欲しい時のことです。しかし、ここで注意深く聖書を読むと、悪魔の誘惑の言葉は、パンを食べることではなく、石をパンに変えることです。つまり、生きることそのものではなく、石をパンに変えるような生き方のことが問題になっているのです。
 その他の誘惑については、誌面の都合上省きますが、これらは誘惑というより、むしろ、私たちが積極的に良いことだと思って求めていることです。少なくとも食べることに困らない生活をし、権力や権威というほどではないにしても、人から良く思われたい、認められたいと思っています。自分がないがしろにされるといって腹を立てることは沢山あります。また、安心して暮したいと願っています。だから、何とかしようとあくせくします。ここで「誘惑や試練」として記されていることは、実は、私たちが普段、願い求めていることです。むしろ、私たちがこちらからそうしてもらいたいと思うようなことばかりです。
 しかし、聖書はこれが誘惑であり試練だと言うのです。
 なぜなら、豊かになり、安心して暮したいがゆえに、そして、他の人に認められたいがゆえに、恐れや不安に捕らわれるからです。
 そこで、イエス・キリストはどうされたかを考えてみましょう。キリストは、ここで単純に神の言葉に依り頼まれています。神の言葉に立つことで、ご自分の生きる姿勢を明確にされました。「人はパンだけで生きるのではなく、神の言葉で生きる。神を試みてはいけない。仕えられるのではなく仕えること。」このイエス・キリストの誘惑への答えは、彼の生涯を見ると、その姿がはっきりしてきます。
 私たちは、無意識に、知らず知らずのうちに、聖書が誘惑として示したことを望んで、大切なものを失い、不安や恐れに駆られて生きているのかもしれません。しかし、私たちは、キリストの言葉を、今日、思い起こしたいと思うのです。
 「私はパンだけで生きるのではなく、神の言葉によって生きる。私は神を試みずに、神に信頼して生きる。私は、人から仕えられることを望むのではなく、人に仕えて生きる」(私訳)。それが、試練の中で苦難や辛さを担って、人生を切り開いて行く時の一つの姿勢であること。そのことを聖書から教えられるのです。私たちは、その神の言葉を聞きながら日々を本当に豊かな思いをもって過ごすことができればと思います。

エッセイ「命のことば」 伊藤早奈

㉟「表現されること」

「子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。」(一ヨハネ3・18)

 「どいつもこいつも!」
 えっなんで今…私怒られてるの?ちょうど私がもうすぐ手術で入院することを彼女に伝えた時でした。「お大事にね。」とか「大丈夫」ならまだしも「どいつもこいつも」って…彼女の言葉は怒りというか悲しみに満ちていました。そういえば私が病院で彼女に会う少し前に、友達が少ないであろう彼女がお互いの家に行くほど親しかった女性が50代後半で亡くなったばかりで、しかも彼女が亡くなった原因の病気が、私が手術を受ける病気と同じ病気でした。
 私たちの使う言葉ってなんでしょう。伝える方法としての言語を持てない方々や疲れているのに疲れていないよと言う方々。悲しみをこらえて笑う人々。そして彼女のように悲しみながら怒る人。きっと表現されることと心が良い意味でも悪い意味でも裏腹な事が多い時があるんだなぁと思います。
 一人の方の経験されてきた全てをお聞きした時、それは「命のことば」であると感じたことがあります。お一人おひとりは神様からのことばに包まれています。そのことばには裏も表もありません。それは真実であるイエス様です。
 いくら私やあなたが自分から出る言葉で取り繕って誤魔化そうとしたり隠そうとしても、神様から与えられることばは私やあなたに真実を語り包み込んでくださいます。

議長室から 大柴譲治

「ご縁〜事実は小説よりも奇なり」

「神のなされることは皆その時にかなって美しい。」(伝道の書3・11、口語訳)。

 「自分はキリストと出会った仏教徒だ」とはカトリックの押田成人神父の言葉です。そこまで私は言えないのですが個人的に仏教哲学を深く尊敬しています。それは2人の僧侶とご縁があったためです。1人は学生時代の恩師、サンスクリット大家の鎧淳先生(1930〜2015)。東大卒業後に欧州に渡りユネスコの仕事などをしながらオランダで研鑚を積まれました。驚いたことに先生は、欧州でラジオから流れる諸言語が分からないのは悔しいからとすべてマスターしたそうです。私の編入時には東大宗教学科の後輩・清重尚弘学長に紹介の労を取ってくださいました。その合格を喜んだ先生が話してくださったことも驚きでした。最初先生は医学部にいたそうですが、キリスト教の伝道者と出会って「魂の医者」になろうと神学校に入った。しかし結局宗教学科に入り直して仏教を学ぶことになった。引退したらどこか田舎で薬草院を開きたいということでした。友人経由で昨年5月に東神大に調べてもらったところ、確かに1948年の「日本基督教神学専門学校」(翌年東神大に改組)に鎧氏の入学記録はあるけれど卒業記録はないとのこと。インターネットで調べると当時その予科は鷺ノ宮の路帖神学校の地にあったようです。もしそうなら先生と私には不思議な接点があったことになりますね。
 もう1人は私の親族。私の父は大阪吹田の出身ですが、私の従姉妹はスキー場で出会った方と恋に落ちて結婚。お相手は高野山僧侶の後藤太栄さん(1957〜2010)。高野山は弘法大師が1200年前に開いた真言密教の聖地で、太栄さんは高野町長としてユネスコ世界文化遺産登録のため東奔西走(2004年に登録)。私たち家族は2009年8月に西禅院に泊めていただきました。精進料理と美しい庭園が印象に残っています。朝のお勤めに参加後、従姉妹の案内で奥ノ院に祖父母の墓参りをしました。そこで太栄さんが難病ALSであることを知ります。韓国の新薬を頼まれ妻の親族を通して手配することになりました。その冬に御礼を兼ねてむさしの教会にご夫妻で来訪されました。牧師館で伺った志半ばでの「無念です」という太栄さんの言葉が忘れられません。最後に「お参りさせてください」と礼拝堂の聖卓前で祈った後に帰ってゆかれました。翌年10月に遷化。合掌。実はこれには後日談があります。毎年私は上智大学グリーフケア研究所でキリスト教人間学を担当していますが、昨年10月の35名の受講生の中になんとそのお嬢さん、私の従姪がいました。この広い世界でこのような不思議なご縁があるとは…。まことに「事実は小説よりも奇なり」ですね。

「教会讃美歌 増補」 解説

㉜増補15番「恵みの平和を」・増補16番「われらのみ神は 堅い城 力」

石丸潤一(西日本福音ルーテル新田教会牧師)

 「恵みの平和を」は、ラテン語賛美「DA PACEM DOMINE」をルターがドイツ語に訳した賛美です。平和を求める、おだやかな、しかし切なる、祈りの賛美です。
 面白いことに、ルターは、この詩を「Veni redemptor gentium(来ませ、異邦人の救い主よ)」というイエス様のご降誕を賛美する曲に乗せました。「神様の平和は、人となられたイエス・キリストにより、信じる者に来る」、そんなルターの信仰告白を感じます。

 「われらのみ神は 堅い城 力」は、ルーテル教会で最も愛されている賛美でしょう。讃美歌委員会は、とりわけ大切に、慎重に、この賛美に関する作業を進めました。
 楽譜は、《オリジナル》のメロディとリズムを採用したものと、これまで親しんできた4分の4拍子の《四声》の二つを掲載しています。《四声》版は、斉唱のほか、伴奏譜を用いて四声合唱としても賛美できます。
 歌詞は、徳善義和先生の『ルターと賛美歌』を手がかりとし、ルターが作った原詩のエッセンスを生かす日本語訳を目指しました。特に、出だしの部分です。『教会讃美歌』450番では「わが」は「強きやぐら」についていましたが、原詩に忠実に「神」につけ、「われらのみ神」としました。《四声》楽譜の歌詞は、『ルターと賛美歌』に掲載された徳善先生の訳をほぼ採用しています。《オリジナル》楽譜は、徳善師の訳詞をベースとしながら、韻律に合うように委員で歌詞を作成しました。
 より味わい深く、変わらずみなさんに愛されていく賛美となるようにと願います。
 新型コロナウイルスの影響。ウクライナとロシアの戦闘。不安を覚え、心と身体の平安が脅かされる時が長く続いているように思います。
 このような時こそ、私たちは、聖書のみことばを聞き、賛美を口ずさみましょう。「恵みの平和を」は優しく、「われらのみ神は 堅い城 力」は力強く、いかなる時も揺るぎない神様の平和のうちに立ち、歩んでいくようにと、私たちを励ますでしょう。

世界の教会の声

浅野直樹Sr.(世界宣教主事 市ヶ谷教会・スオミ教会牧師)

ルター聖書翻訳500年記念ウェビナー

 世界各地のルーテル教会では2017年に宗教改革500年を記念して数多くの行事が行われましたが、宗教改革から5年後の1522年、マルティン・ルターは新約聖書をドイツ語に翻訳して出版しました。同年9月に出版されたので9月聖書とも言われます。このときルターは39歳、わずか10週間で仕上げました。2022年はルターの聖書翻訳から500年にあたり、ルーテル世界連盟(LWF)では秋からウェビナー(オンライン上のセミナー)がシリーズで行われています。第1回は東京教会協力牧師のサラ・ヒンリキー・ウィルソン博士が担当しました。もう1人の講師はモロッコのエキュメニズム研究所所長ジーン・クーランニャ博士です。

 ウェビナーが問いかけたテーマは、ルターの新約聖書翻訳が当時の人々と文化にどう影響したか、1世紀のギリシャ語で書かれた聖書テキストが21世紀にも理解されるよう翻訳する際の要点は何か、聖書が多様な言語と文化の人々に伝わるうえで大切なことは何か、などです。

 サラ博士によると「ルターが何か新しいことを始めたというわけではありません」。聖書を自国の言葉に翻訳し出版したのはルターが最初というわけではありません。「けれどもルターの翻訳は、それまでにはみられなかった力を解き放ちました」。「ルターの仕事がうまくいったのにはいつくか理由があります。彼が改革志向の神学者として名が知られていたこと、言語的才能が豊かだったこと、それに活版印刷が進歩して印刷と配布が容易になったのです」。 「ルター個人の業績に注目が集まりがちですが聖書翻訳は彼一人の手柄ではありません。ルターはその後仲間に呼びかけて、共同作業で旧約聖書の翻訳を手がけました。」ルター派は、「まことの神の言葉」としての「聖書のみ」という立場に立ちつつも、聖書は過去2000年間個人や諸派によって様々に解釈されてきたという現実があります。福音書は何世紀にもわたって多くの議論を積み重ね、書き写され編集されて今日に至っています。ルターの時代と同じく「聖書のみ」の教えを保ちつつ、聖書のことばの濫用を防ぐために教会全体が話しあいを積み重ね、知恵と工夫を凝らしてバランスを保つことがこれからの課題です。

 クーランニャ博士はアフリカの諸言語や方言に翻訳する作業について語りました。アフリカの言語が書き言葉ではなく話し言葉を基本とするため、聖書の用語にふさわしい言葉や表現を見いだすうえで技術的に課題があることを指摘しています。「もう一つの難題はアフリカが植民政策の歴史を経ているために、伝統的な言語が消えかかっていることです」。聖書翻訳者たちが直面する真剣な問いは、「(この作業を通して)私が対話するのは誰なのかということです」。

 カメルーンのルーテル教会とモロッコの福音教会の牧師でもあるクーランニャ博士は、カメルーン北部の言語、ディ語への聖書翻訳作業をしています。「御自分の民に語りかける神であるから、神は状況と文化に応じて彼らの言語で語りかけてくださるのです。」「『言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。』(ヨハネ1・14)のですから、言は私たちの言語でも語られるということです。」
「聖書翻訳は文化と言語のルネサンスをもたらします。他国からの文化のフィルターを通すことなく、人々が直接神とみことばにつながることができます。」使徒ペトロが聖霊降臨の際人々に語ったように、「聖霊の約束はあなたとあなたの子孫のためであり、聖書翻訳の作業によって神の愛のメッセージはありとあらゆる言語と文化の人々に届くのです。」

 

※詳細についてはWEBサイトをご参考ください。

エキュメニカルな交わりから ⑪NCC東アジアの和解と平和委員会

小泉嗣(熊本教会・玉名教会牧師)

 

 日本キリスト教協議会(NCC―J)の中には、これまでこの紙面で紹介されてきたものも含め、たくさんの委員会が存在します。そしてこの委員会は大きく「宣教・奉仕部門」「神学・宣教部門」「国際部門」「総務部門」のいずれかにわけられており、「東アジアの和解と平和委員会」は「国際部門」に位置します。
 この委員会は「9条世界会議」が設立の契機となった比較的新しい委員会だったと記憶しています。国や宗教、政党を越えて「平和」のために共に集い、祈り、語るために日本において様々な宗派、団体が集められ、NCCとしてその準備に関わり、そこで組織されたのが「東アジアの和解と平和委員会」でした。そして9条世界会議終了後も、東アジアに位置する日本に生きるキリスト者として、東アジアにおけるエキュメニュカルな交流と協力を進めることを通して和解と平和の実現に寄与することを目的として活動しています。
 最近の活動としては、世界教会協議会(WCC)、アジアキリスト教協議会(CCA)に対して、また近隣アジア諸国の教会に対して、積極的に提起を行い、2019年には在日大韓基督教会と共に訪問団を結成し平壌に謝罪の巡礼を実施。2020年7月には日韓両国が和解と平和を成し遂げる本当のパートナーとなることや東アジアの平和を願い「共同の家」を建設することを目標とし発足した「日韓和解と平和プラットフォーム」に主体的に参加しています。また憲法9条や沖縄の非暴力行動、暴力と痛みの歴史の記憶、和解と共生を目指し、2018年11月には「憲法9条とキリスト教」について、2019年2月には「朝鮮学校問題」についての学習会等を開催。最近では2022年11月の「関東大震災朝鮮人虐殺に関する要請文」の提出など、国内における問題提起や啓発などに
も取り組んでいます。
 新型コロナウイルスのパンデミックによって露呈した経済グローバリズムの脆弱性の中で、改めて「手と手」を取り合い、協力し、支え合い、祈りあうことによって「平和」を目指す働きの大切さを実感しています。
 みなさまの変わらぬお祈りとお支え、連帯をお願いいたします。

西中国地区るうてる 秋の大会・2022報告

平岡博(シオン教会)

 

 2022年11月3日(木・休)その日は雲一つない晴天であった。西中国地区4教会(シオン・宇部・厚狭・下関)から約40人が宇部教会に集まり、るうてる秋の大会が開催された。実に3年ぶり、感染対策をとり午前のみの開催であった。
 合同礼拝(聖餐式)は、司式中島共生牧師、説教水原一郎牧師、奏楽阿部勝さんで行われた。聖書は詩編42編1〜12節、「枯れた谷に鹿が水を求めるように神よ、私の魂はあなたを求める」で始まる箇所であった。この3年間乾いていた私たちの魂が、主によって満たされていく瞬間を感じ、「鹿のように」の賛美歌を歌った。
 礼拝、聖餐式に引き続き、社会委員会の佐伯里英子さんから、京都府「ウトロ地区」の戦後忘れ去られた在日韓国・朝鮮人の集落のお話を伺い、その悲惨さに驚き、またそれを克服して再生された話に心動かされた。また平岡より、本日の礼拝が「ルーテル学院・神学校」を覚える礼拝であったことに深く感謝し、短くアピールさせていただいた。写真の献金箱はシオン教会大工のFさん手作りで、この度シオン教会だけではなく、西中国地区の各教会に設置されることになった。たくさんの小さな思いが、大きな支えとなりますように祈ります。
 集会が終わって、反対側の隅に座っておられるMさんに気付いた。Mさんとは実に10年ぶりの再会であった。「Mさん、平岡です。覚えちょる?」と話しかけると「当たり前だわね。私らは、あなたたち家族が宇部からおらんようになって本当に寂しかったんよ。T君元気?」と長男の名前を呼んでくださった。この時、胸に熱いものがこみ上げてくるのを抑えきれなかった。視覚障害のある彼女は、私たち家族を昨日のことのように覚えていてくれた。ああ、主は集うことをよしとされている。3年前には集うことが当たり前と思っていた私たちはそれを忘れていた。
 主が与えたもう、貴重な秋の一日を感謝します。

北海道特別教区「秋の集い」報告

太田満里子(恵み野教会)

  

 コロナ禍が収まらない中、教区としての行事を前回好評だった「春の集い」に倣って、2022年度は「秋の集い」として行いました。
 11月3日(木・休)10時30分~12時まで、参加者48名。テーマは、教区の2022年度の主題である「慈しみの主への賛美はわたしたちの希望の歌」から、教区にある信仰の仲間と共に主を賛美しようというものでした。「春の集い」同様、教会堂からはオンラインで、個人ではZoomでとハイブリットでの集いでした。全体を合同礼拝とし、新式文と讃美歌増補版を使用するという試みでした。この日を迎える為に、各教会では新式文の学びを増補版作成に携わった日笠山吉之牧師からご指導を頂き準備しました。準備の甲斐あって、当日はスムーズに行なうことができました。
 礼拝を前後半に分け、前半は小泉基教区長による説教を頂き、テーマをかみしめることができました。中間には、分かち合いの時として、1グループ4~5名に分かれ、オンラインで繋がれ、普段会うことのない他教会の方々と交わりを持つことができました。教会堂に集まった方々はその場で行いました。分かち合いの時間には、各々好きな賛美歌を持ち寄り、その理由を説明し、分かち合い、最後に各々が挙げた賛美歌を声を合わせて歌いました。多少のタイムラグはなんのその、自分たちの大きな声でなんの不都合もなく賛美することができました。初めてお会いする方とも賛美歌を共有することにより、主によって一つに結ばれているという喜びを感じました。
 分かち合いの時間の後は、再び全員での礼拝に戻り、閉会礼拝となりました。増補版の新しい賛美歌を全員で賛美できたのも喜びでした。コロナ禍で教区として、一堂に会しての集まりができない中、オンラインにより教区にある信仰の仲間と繋がれ、時間が足りないと思うほど交わりの恵みと喜びを感じる集いとなりました。

第4回神学校オープンセミナリー報告

河田優(ルーテル学院大学・日本ルーテル神学校チャプレン)

 

  11月13(日)、「第4回神学校オープンセミナリー」がオンラインで開催されました。教会や関連施設での献身を考えている人たちに神学校を紹介し、また参加者が互いに出会い、共に祈りあう機会をもつことを目的とします。本年度の参加者は7名でした。
 プログラムの第1部では、神学教育委員長の李明生牧師が開会礼拝で「召命」について語り、その後、互いの自己紹介がなされました。模擬講義では、旧統一教会の「原理講論」と聖書が比較され、聖書をしっかりと読む(全体を通して、深く読む)ことを学びました。
 第2部では教員や神学教育委員は外れ、JELCの森下真帆牧師とNRKの笠原光見牧師、そして神学生が加わりました。神学校での学びや牧師の働きについて質問が投げかけられ、また召命についてそれぞれの思いが交わされました。将来に向けて思いを同じくする者同士が語り合うことによって、互いに励まされ、力づけられたことでしょう。最後は神学生による閉会礼拝でプログラムを閉じました。
 これからも教会や関連施設への献身を考える者が一人でも多く与えられ、その思いが教会の思いと重なり、主の働き手として主の望まれる場所へと送り出されることを願います。

『神学校オープンセミナリーに参加して』

深町創太(箱崎教会)

 

  はじめて参加したセミナリー、2部構成のプログラムは第1部が開会礼拝に始まり、参加者紹介を経てミニ講義を受講した。今年の講義は河田先生による「聖書と統一教会原理」という内容で行われた。私たちが読んでいる聖書をどのように読み、解釈するのか?私たちもまた、自分達の都合の良いように聖書の言葉を利用してはいないか?福音とはなにか?講義を通して投げかけられているように感じた。しばらくの休憩の後、行われた第2部では神学生の方々の進行のもと、より学校生活や学びに対して重点をおいた質問や思いの分かち合いの時間を持ち、閉会礼拝を持ってプログラムを終えた。両プログラムを通して私が問われていると感じたのは「召命」である。一人のキリスト者として、そして献身について少しでも興味がある者として私はなにをすべきか、なにを求められているのか考えながら生きなければならず、また同時に私たちが考えてできる事、神様の求めだと信じて行うことも人の判断である事を忘れることなく、一切を委ねて神と人とに仕えたい。

「神学校の夕べ ─主の召しに応えて─」(オンライン)

 
 

 2023年2月26日(日)
説教:
立山忠浩神学校校長
司式補佐:神学生
ルーテル学院聖歌隊奉唱・ハンドベル演奏

 一人ひとりがキリスト者として主の召しに応える道を願い求め、皆で祈りを合わせます。
 17時からライブ配信を行います。
 視聴方法については後日ご案内いたします。

甲信地区一日神学校報告報告

野口和音(松本教会・長野教会牧師)

 

 甲信地区では毎年11月23日に甲信地区5教会が集まり、学びと交わりの時を過ごす信徒の集い「甲信地区一日神学校」を行っています。近年はコロナ禍の影響もあり、オンラインと教会に集う形でのハイブリットな開催となっています。2022年度は21名の方々にご参加いただきました。プログラムとしては信徒の求めに応じた学びの機会となるよう、甲信地区宣教協議会にて協議の上、講師の方をお招きしています。
 開会礼拝では、甲信地区担当常議員の佐藤和宏牧師の説教により、御言葉を分かち合いました。それに続き、ルーテル学院大学の教授である原島博先生より「〝生かし生かされる〟国際協力」と題した講義をしていただき、学びを深めました。ロシアとウクライナによる戦争など混乱する世界情勢の中、難民問題や国際協力のあり方を概観することから始まり、そこにある課題やルーテル教会がどのような働きを担っているのかを知ることで、新たな気づきや示唆を与えられました。講義後は甲信地区女性会の集いの時間として、今年度の担当教会である松本教会女性会から活動報告が行われました。そして最後に各教会の参加者のご紹介と近況報告を分かち合うことができました。
 長く続くコロナ禍に、甲信地区一日神学校でも以前のように集えなくなったり、出来なくなったことも多くあります。しかしそのような中でも、今できることは何か?と模索し続けていく大切さに改めて気付かされました。それは教会がこれまで続けてきた宣教の精神でもあります。「福音のためなら、わたしはどんなことでもします(一コリ9・23)」というパウロの言葉に立たされる思いです。距離は離れていようとも、各教会が互いにおぼえ、祈り、支え合いながら、これからも神様から委ねられた宣教と愛のわざに一人ひとりが仕えてまいりたいと思います。

2022年度「連帯献金」報告

  

 2022年度も多くの方々から「連帯献金」に支援を頂きました。
感謝して報告いたします。(敬称略・順不同、
複数回の献金もまとめての報告となります。)

   

■ブラジル伝道 25,000円
箱崎教会女性の会、東教区女性会

■ウクライナ人道支援 9,641,798円
大柴譲治、林雄治、タチバナサトシ、社)わかちあいプロジェクト基金、松本義宣、宮澤重徳・アマリア・輝雄、久留米教会、オオタキナオト、シンタニミサエ岸根義尚、ホソミサチコ・ノリカ、久保陽司、長谷義隆、イシモリトシユキ、藤本誠、神山伸夫、八幡真・潔子、白浜恵美子、鴨下和子、白浜真実、カワハシアイ、河野文豊・悦子、川﨑昌弘、松浦雪子、石川惠子、特別養護老人ホームディアコニア、竹内輝、江﨑啓子、丸山瑞穂、阿久根教会、犬塚協太、梅村亜恵、宮武晴昭、鈴木浩之、金田貴子、木原伊都子、岡田光穂、フジタヤスヒロ、四戸大地・二予、石井千賀子、名倉マミ、木邨仁代、西田一郎、西沢喜代美、望月隆延、本田裕子、連下千歳、佐藤昌代、雪ケ谷教会、谷口和恵、尾﨑瑞穂、小鞠須美代、伊藤美代子、佐藤義夫・福子、齋藤忠碩・惠、飯田教会、長谷川勝義、柳基相、斎藤覚・惠、森由美子、大森教会、シオン教会柳井礼拝所、岡林光志、岩田茂子、恵泉幼稚園、大牟田教会、坪本告子、近藤義之、小松康宏、オカオサム、山口和春、山中さなえ、平山新、福岡西教会、小田原教会、博多教会、穐山美也子、武村協、健軍教会灰の水曜日礼拝、鴫村真紀子、渡邉幸子、杉山準規、杉山雅子、曽武川栄一、大林惠子、秋吉亮・英理子、熊本教会有志、倉田亜紀、マツムラノリコ、日田教会、コグレマユミ、京都教会、岡崎教会、若林宏子、函館教会、小城ルーテルこども園、上原和子、川口恭子、知多教会、小林勝、佐藤紘一郎・重子、シオン教会徳山礼拝所・防府礼拝所・歌声、なごや希望教会、大江教会、南谷なほみ、杉山文隆、箕輪久子、小石川教会、唐津ルーテルこども園、玉名教会、平林洋子、市ヶ谷教会壮年会、稔台教会、ホウシマヤキヨコ、盛田義彦、竹川直子、アダチトモコ、太田泰子、聖パウロ教会教会学校、田園調布教会、松田繫雄、佐賀教会・小城教会・唐津教会、加藤俊輔・文代、保谷教会、牛津ルーテルこども園、珍部千鳥、日田ルーテルこども園、山之内正俊、西条教会、大野裕子、大野一郎、名古屋めぐみ教会、市吉伸行、土師智美、むさしの教会、HAGIWARA NOBUHISA、浜名教会、長崎教会、小倉教会・直方教会、千葉教会、北九州地区婦人会、藤田光江、大岡山教会、磯田一雄、恵み野教会、室園教会、甘木教会、松本佳子、東京教会、別府教会、浜松教会、小鹿教会、湯河原教会、藤が丘教会、高蔵寺教会、石田宏美、岐阜教会、安恒輝子、荒尾教会、大岡山教会教会学校、八幡教会、原口恵子、箱崎教会、沼津教会、神水教会、市ヶ谷教会、髙津和子、諏訪教会、東京池袋教会、松橋教会、岩永知樹チェロコンサート、札幌教会、大垣教会、聖ペテロ教会、厚狭教会、松江教会、大分教会、大林由紀、静岡教会、羽村教会、津田沼教会、神戸教会、甲府教会、村松良夫、大黒環、修学院教会、復活教会、聖パウロ教会、大阪教会、都南教会、神戸東教会、帯広教会、賀茂川教会、熊本教会、宇部教会、下関教会、板橋教会、豊中教会、日吉教会、宮崎教会、天王寺教会、蒲田教会、八王子教会、角丸智美、西宮教会、三鷹教会、岡山教会、三原教会、栄光教会、結縁美都子、市川教会、横浜教会、小岩教会、湯河原教会女性会、松本教会、金城学院ハープアンサンブル部(復活教会)、復活教会コンサート席上献金、島崎幸恵、高蔵寺教会教会学校、安藤淑子、東教区宗教改革祈念礼拝、福岡市民クリスマス実行委員会、小岩ルーテル保育園、高蔵寺教会るうてるフェスタ、高蔵寺教会CSクリスマス、蒲田ルーテル幼稚園

釜ヶ崎活動(喜望の家) 50,000円
市ヶ谷教会

世界宣教(無指定) 282,044円
シオン教会柳井礼拝所、神水教会、スズキヘイワ、出口洋子、博多教会、松本教会、湯河原教会、箱崎教会(らぶぴコンサート席上献金)、都留敬子、河村益代、千葉教会、めばえ幼稚園、大垣教会

 今年度も、社会・世界における福音の宣教、奉仕、災害・飢餓に苦しむ方々に連帯したいと祈り願います。「連帯献金」をお捧げくださる際には、それぞれの献金目的[ブラジル伝道][メコンミッション][災害被災者支援][ウクライナ人道支援][釜ヶ崎活動(喜望の家)][世界宣教]を郵便振替用紙に明記頂き、下記の郵便振替口座にご送金ください。
郵便振替 00190−7−71734
加入者名 (宗)日本福音ルーテル教会

23-01-01るうてる2023年01月号

機関紙PDF

「みことばは、私の道の光です」

日本福音ルーテルむさしの教会・八王子教会牧師 浅野直樹Jr.

「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯」

(詩編119編105節)

  私がこのみ言葉と最初に出会ったのは十代の頃、新改訳聖書ででした。「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」。一目で気に入りました。
 恥ずかしながら、私は暗闇が怖いのです。それは、少年の頃の原体験にもよるのでしょう。私が住んでいたところは、村内に信号機が一つしかないような、いわゆる「ど田舎」でした。当然、街灯も少なく、夜は真っ暗です。小学生の頃、少し離れた小さな町の剣道教室に通っていたことがありました。帰りは日が暮れ、一人バスに乗って帰りました。同じバス停で降りる人はいません。たった一人で、暗い道を家まで歩いていかなければなりません。重い防具を背負って。当時は、数十メートルおきにしか街灯はありませんでした。街灯と街灯の間は真っ暗。おまけに、途中にはお墓までありました。そんな怖さを紛らわすために少しばかり声を大きくして歌を歌いながら、街灯から街灯へと猛ダッシュを繰り返したものです。さすがに家の側まで来ると明るかったので、それがどれほどの安心感を与えたことか。そんな経験があるせいか、「光」という言葉に惹かれるのかもしれません。
 「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」。このみ言葉は、単にお気に入りだけでなく、私を支える言葉となりました。しかし、本当にその通りだったのでしょうか。少年時代、青年時代、壮年時代、人間関係においても、家族関係においても、仕事においても、また自分自身とにおいても、辛くて、悲しくて、苦しい、暗闇の中にいるとしか思えないような出来事が度々あった。そんな時、本当に暗闇を照らす光となってくれていたのか。むしろ、祈っても叫んでも答えられずに、神さまは本当におられるのか、と意気消沈してしまっていたのではなかったか。本当にそんな時に、み言葉が助けに、力になっていたのだろうか。そうも思うからです。
 確かに、そうです。私自身、そんな体験を積み重ねてきました。しかし、それでも、やはりみ言葉は、「私の足のともしび、私の道の光」だったと思うのです。それは、み言葉の一言一句とは限らなかったのかもしれません。細々と積み重ねて内実化されたみ言葉のエッセンスと言えるのかもしれません。しかし、いずれにしても、それらが私たちの重要な、決定的な決断を導き最悪の状態を回避したり、自分だけでは見出すことができなかった気付きを与えてくれたり、予想だにしなかった未来を掴むことができたり、諦めずに希望を見出すことが出来たのではなかったか。いちいち、あのみ言葉が、このみ言葉が、と意識することはなかったかも知れませんが、確かにみ言葉が私たちの内に働いて、私たちを守り、支え、慰め、力づけ、導いてくれていたのではなかったか。その結果として、今の私たちがいる(在る)のではないか。そう思うのです。
 脅すつもりはありませんが、今年も何が起こるか分かりません。戦後日本は比較的平穏な中を歩んで来ることが出来たと思いますが、国内においても、また世界においても、経済格差の問題、安全保障の問題、気候変動の問題など、喫緊の課題が溢れています。私たちも一市民として、自分達に出来ることで励んでいく必要があるでしょう。しかし、その前に原点を確認したいと思うのです。古くて新しい原点を。「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」。こんなことがおとぎ話のように思えるような時代だからこそ、その力に、確かさに、立ち返りたいと思う。そして、宣教によって、この経験を私たちだけのものとするのではなくて、より多くの人々の経験となっていけるように励みたいと思っています。

エッセイ「命のことば」 伊藤早奈

㉞「包まれて」

「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし/我々を打たれたが、傷を包んでくださる。」(ホセア6・1)

 「あれ、もうこんな季節か。」花の香りが運ばれてくる。
 他の部屋に行く。ふわぁーっと花の香りがいっぱいだ。窓も開けていないのにどこから入ってきたんだろう。
 ふっと、イエス様の香りってこのようなものなのかなと思うと同時に、このような話を思い出しました。「光をプラスチックや鉄板でぴっちり塞ぐと光は全く周りに漏れないかもしれないけど、光を手で囲むと、どんなにぴっちり囲もうとしても光が漏れるように、私たちが完璧ではないところからもイエス様の光が周りに漏れているんだよ。」と言う言葉でした。
 イエス様の香りって光でもあるのかなぁって、ぼーっと考えてました。
 私はうまく上が向けないので、木のように上で花が咲いているのかいないのかをうまく目では確認できませんが、その花の香りがしたり、土の上に広がってる花びらを見て、「あっあの花が咲く季節が来たんだな」って思います。
 私が働かせていただいていた施設には《匂いの散歩道》と言う道があり、目で確認できない方々でも季節がわかるように、季節ごとに咲く花の匂いがする木々が植えてあり、私はその道を車椅子をこぎながらゆっくり散歩するのが好きでした。
 私たちはイエス様の香りの中にいます。だからいつでも光や愛を感じることができます。

議長室から 大柴譲治

我ここに立つ〜Sola Scriptura

「静まれ、私こそが神であると知れ。」(詩編46・11)

 新年おめでとうございます。主の新しい年が始まりました。天よりの祝福を祈りつつ、ご挨拶させていただきます。
 新年に示された聖句は表記のみ言です。英語で言えば〝Be still, and know that I am God.〟(46・10、RSV)〝still〟とは動きのない制止状態、静寂の状態を指しています。嵐の中でも舟で安らっておられた主の姿を想起します(マタイ8・24)。そこには父と子との完全な信頼関係がありました。
 詩編46編はこう始まります。「神は我らの逃れ場、我らの力。/苦難の時の傍らの助け。/それゆえ私たちは恐れない。/地が揺らぎ/山々が崩れ落ち、海の中に移るとも。/その水が騷ぎ、沸き返り/その高ぶる様に山々が震えるとも。」(1〜4節)疫病や戦争、天変地異の中にあっても私たちはどこまでも神のみ言に依り頼みます。聖書は告げます。「草は枯れ、花はしぼむ。しかし、私たちの神の言葉はとこしえに立つ」(イザヤ40・8)。主も言われます。「天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない」(マタイ24・35)。
 ルター作曲の「ちからなる神はわが強きやぐら」(教会讃美歌450番)は詩編46編に基づいています。その2節には詩編には出てこない主の名が刻まれています。「いかで頼むべきわが弱きちから。我を勝たしむる強きささえあり。そはたれぞや。我らのため戦いたもう、イエス・キリスト、万軍の主なる神」。これはルター自身の信仰告白でした。生ける「神の言」である主が片時も離れずに自分と共にいてくださる。そのような主の現臨がルターを捉えて放さなかったのです。
 この新しい年はどのような年となるでしょうか。先は見通せません。しかしどのような一年となるとしても私たちは知っています、主が共にいますことを。主のみ言と主との信頼関係はとこしえに揺らぐことはありません。イエスが十字架上で「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれた時にも、父と子の信頼関係は揺らぐことがありませんでした(マタイ27・46)。だからこそ私たちは静まって主こそ神であることを知ることができる。真実の信仰に生きる者は強い。困難に打ち倒されても神のみ言によって繰り返し再起してゆくことができる。パウロと共にこう告白したいのです。「私たちは、四方から苦難を受けても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、迫害されても見捨てられず、倒されても滅びません」(2コリント4・8〜9)。在主。
※文中の聖句は全て聖書協会共同訳より引用。

「教会讃美歌 増補」 解説

㉛増補13番「新しい歌を」・増補14番「おろかものは言う」

増補13番「新しい歌を」

 1523年8月、ルターの元に、アントワープのアウグスティヌス隠修修道会士2人が、宗教改革に共鳴したかどでブリュッセルで異端として火刑に処せられたとのニュースが入りました。彼の出身修道会の兄弟が、宗教改革の信仰告白の故に殉教した出来事を直ちにバラード(物語詩)にし、恐らく自分で作曲したのがこの歌です。最初は10節だった歌詞は、後に2節が追加され(増補版9、10節)、計12節の「殉教バラード」となりました。
 1529年出版のルター編による賛美歌集では、カテキズム(教理)歌群の結びに置かれました。つまり、カテキズム賛美歌が歌う信仰告白を貫くことは、殉教をも辞さないということになる、という決意表明だということなのです。
 この歌は、結びの部分(1節の最後「神の賜物」)が2種類の旋律で歌われていて、ここで採用した旋律で1~11まで歌い、もう一つの方で最終節を歌ったと推測されています。この歌集では、ルターが最後に監修した「バプスト賛美歌集」(1545年)の旋律を採用しました。会衆歌ではなくバラードだとして、現在の歌集には納められなくなっていますが、厳しい宗教改革時代の肉声が込められていて興味深い内容です。

増補14番「おろかものは言う」

 ルターによる、詩編14編に基づくパラフレーズ(聖書の言葉を自由に置き換え、内容を展開したもの)で、成立は1523年の終り頃です。1523/4年のニュルンベルクで出た歌集「八曲集」に載りましたが、別の旋律で歌われたようです。1524年の「エルフルト・エンキリディオン」では、「教会讃美歌」141番の旋律で掲載されました(それでも歌えます!)。同じく1524年のヨハン・ヴァルターの「合唱賛美歌集」では、彼の作曲によるこの増補版の旋律で掲載され、その後、この曲で歌われるようになりました。また、この増補版12番「喜べ教会よ」の旋律で歌われたとの記録もあり(そちらでも歌えます!)、ただ神にのみ従い、悔い改めと義認の信仰の歌うこの詩編歌は、よく歌われたものだと思われます。
 前述のように、賛美歌は、当時は様々な旋律で歌われるのが一般的でしたので、私たちもそれらの別の旋律で歌ってみるのも一興かと思います。

世界の教会の声

浅野直樹Sr.(世界宣教主事 市ヶ谷教会・スオミ教会牧師)

COP27・タラノア宗教者対話

 「私たちの責務は信仰に基づいています。」ルーテル世界連盟(LWF)加盟教会のリバープレート福音教会のロマリオ・ドーマン氏は言います。「神が創造した世界の管理人である私たちは、オーナーではなくお世話係なのです。」COP27開催の前夜に開かれたタラノア宗教者間対話のパネルでドーマン氏はLWFを代表してそのように語りました。
 タラノア対話とはフィジーの先住民による問題解決法のこと。COP23でフィジーが議長国となった際に、課題に取り組む方法として採用されました。私たちはどこにいるか、どこに行きたいのか、どうやってそこへ行くのかといった問いを参加者たちに投げかけて共同作業を行います。COP27前夜もこの手法を用いて数々の宗教代表者たちが集まり、自由に意見を述べ合うことができました。
「危機に瀕している今はパスポートとか年齢といった普段のくくり方は意味をなしません。大切なことは最も影響を受けやすい人々、つまり最も苦しんでいる人の側に立つことです。」とドーマン氏。
 COP27の開催地エジプトのシャルム・エル・シェイクにあるコプト正教会、ヘブンリ・カテドラル教会の修道士アンドロエス・サミルさんは「アフリカのCOPへようこそ」と歓迎し、「COP27で人類と地球全体のための解決策を見つけることが願いです」と述べました。
 気候行動ネットワーク(ACN)のハジト・シン氏は、気候正義と気候ファイナンスを関連付けることを強調しました。「経済的に豊かな国は気候ファイナンスのためのシェア分を公平に負担しておらず、温室効果ガスの削減が十分にできていないところに問題があります。」
 全アフリカ教会協議会(AACC)と気候変動のためのアフリカ信仰者ネットワーク代表のティベブ氏は、信仰者の行動が気候正義の呼びかけに重要な役割を果たすべきと訴えます。「草の根レベルにいる私たちには、地球全体で温室効果ガスを削減することが死活問題なのです。信仰者間あるいはコミュニティレベルで力を合わせれば変えられます。」
「気候変動をどこまで抑えられるかは、私たち自身がどれだけ変わることができるかです」とブラマ・クマリス代表のモーリーン・グッドマン氏。「霊的なエネルギーがパワーと回復力の源であり、将来はその力が益々必要となります。」また暴力と支配の連鎖を奉仕と尊敬へと切り替え変えるべきだと、非暴力の重要性を訴えました。
「信仰者である私たちは、経済や政治の力をもつ人と関わっていくべき大きな責任があります。」カリミ・キノティ氏(クリスチャンエイド)。彼女はまたタラノア対話が「主流では聞きにくい声を集める場になる」と言います。
 オーストラリア先住民の聖職者レイモンド・ミニエコン氏は、自分たちの民族の先祖の知恵に言及して言いました。「適応、緩和、実施、これを私たちはやってきました。もう一度やりたいです、母なる大地のために」。
 パネルトークのあと出席者たちは対面とオンラインによる分科会で話し合いをしました。タラノア対話では最後に、異なる信仰者たちが互いに祈りあい、歌を歌い、各伝統に従って振り返りをしました。LWFのチャド・リマー牧師は箴言8章を引用して、「地球の生命を造りそれを支える知恵、これこそ私たちが探し求めている知恵です。この知恵はあらゆる信仰者が平等で平和な未来へ希望をもって共に旅をすることを呼びかけています。」

 

(COP27は11月6日から18日にかけてエジプトのシャルム・エル・シェイクで行われました。LWFは気候変動対策活動を重要な取り組み課題ととらえ、あらゆるレベルでアドボカシー活動を続けています。COP27ではLWFのユースが活躍しました。)

 

※詳細についてはWEBサイトをご参考ください。

エキュメニカルな交わりから ⑩NCC「障害者」と教会問題委員会

小勝奈保子(聖パウロ教会牧師)

 

 日本キリスト教協議会(NCC)「障害者」と教会問題委員会の主催による「障がい者週間」の集い(Zoom)が、11月19日にあり、日高馨輔委員長(日本聖公会退職執事)による〈「障がい者週間」の祈り〉をもって始められました。
「神さま、私達みながイエス・キリストの体である教会の交わりに共に招かれていることを感謝致します。あなたから計り知れない命の恵みを与えられながら、差別し合ったり、偏見をもって互いを受け入れることができずにいます。権力や武力などの強さに頼り、経済優先の考え方によって人間の価値を決める社会や教育、偏見やゆがんだ習慣を作りだしてしまっている罪をお赦しください。どうか私達があなたのみ言葉に従い、声なき声にも真に耳を傾け、互いに聴き合い、差別のない社会を作り出してゆくことができますように。知恵と勇気と信仰をお与えください。ことに『障がい』を負う人々と共にイエス・キリストの和解と平和の福音を伝え、全ての人々が生きる喜びを見出すことのできる社会を作って行くことができますように。私達の主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。」
 第1部は、吉岡卓さんのお話です(障がいを負う人々・子どもたちと共に歩むネットワーク副代表)。吉岡さんは、先天性の身体障がいをお持ちで、日本ルーテル神学校に在籍されていたこともありましたが、30代後半に複雑性PTSDを発症されました。今までの苦闘と葛藤についてお話くださいました。10代の頃のお話でしたが、普通学級から養護学校へ行くようになった時に、通学バスに乗ることが恥ずかしくて、窓から身を隠してしまう自分に気づき、自分の中にも障がい者に対する差別意識があるということに大変悩まれたそうです。差別されるのは嫌だし、差別はいけないとは分かっていても、自分の中にも、人を差別してしまう気持ちがある、この人間の内にある二面性は拭えず、生涯持ち続けながら人間は生きるものではないか、というお話でした。
 確かに、私の内にもそのような二面性があります。そして、人と自分とを比べて劣等感や優越感、私たちは様々な感情を心に抱きます。自分の内に潜む差別や偏見を知ることはとても大切なことですが、それと共に、その自分を包んで癒し、新しい人へ創り変える救い主を私たちは共に必要としています。

社会委員会・京都府宇治市ウトロ地区フィールドワーク報告

高田敏尚(修学院教会)

 

 社会委員会が10月11日に行った報告です。これまで、オンライン(Zoom)での会議が続いていましたが、やっと対面でそれも野外で行うことができました。この成果をみなさんにお伝えしたいと思います。
 ウトロ、奇妙に思える地名ですが、ここは戦前、京都飛行場を作るために集められた在日韓国・朝鮮人の集落です。戦後、何の支援もない中、自ら生活基盤を整えながらの居住が続きました。しかし80年代末、新たな地権者から立ち退きを請求されることとなりました。この地に住み続けることを求める住民達は、裁判をおこし、30年にわたる取り組みの結果として引き続き住むことを認められました。その間に、日本の市民や韓国政府からの大きな支援がありました。この記録を残し、未来につなげるために建てられたのが「ウトロ平和祈念館」です。ここには、資料や当時の暮らしを再現した展示などがあり、副館長の金秀煥さんに説明していただきました。
 みなさんは覚えておられますか。このウトロで2021年の8月に放火事件があったことを。「韓国人に悪い感情をもっている」と主張する若者が火をつけました。この記念館のそばにその焼け跡は今も痛々しく残っています。最悪のヘイトクライムといえるでしょう。「神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。」(2コリント5・18)このことが実現する未来を祈念するばかりです。
 京都、近鉄奈良線の伊勢田駅から西へ徒歩10分、機会があればぜひ訪れてください。ウトロという地名の由来もわかります。今回のフィールドワークは、社会委員全員と、先日の入管法問題学習会で講師をしていただいた佐藤信行さん(在日韓国人問題研究所)をはじめ総勢11人で行いました。ルーテル教会で、そして教派を超えて、自分と異なる他者への関心を深めていきたいものです。

東教区宗教改革日合同礼拝報告

佐藤和宏(藤が丘教会牧師・東教区伝道奉仕部長)

  

 10月31日、3年ぶりに、市ヶ谷教会に集まっての礼拝となりました。会衆は73名。以前と同じような人数というわけにはいきませんでしたが、「集まる」ことの大切さとその喜びを改めて感謝する機会となりました。
 第1部の礼拝において、新式文を用い、すべて唱える形で進められました。また今回の礼拝では聖餐式を断念いたしました。説教者には、日本ルーテル教団副議長の梁熙梅牧師(鵠沼めぐみルーテル教会)をお迎えしました。「光は闇の中に」と題して、マタイによる福音書からみ言葉が語られました。ご自身の体験談には会場から思わず笑いが起こるなど、温かいお人柄が見てとれました。司式者には、今夏副教区長に選出された、内藤文子牧師(小岩教会)、神学生も在京している3名が、奉仕してくださいました。思うように活動が出来なかった東教区聖歌隊も、一般募集に応えた方々を加えての賛美は迫力あるものでした。この他にも、たくさんの方々の奉仕と祈りに支えられて、無事に終えることができました。
 第2部は、教区長(松岡俊一郎牧師)の挨拶に続いて、礼拝献金の授与が恒例になっています。この日の献金は「ルーテル学院大学・神学校」と「連帯献金(ウクライナ支援)」に二分され、それぞれに授与されました。石居基夫学長と立山忠浩校長、滝田浩之事務局長が受け取り、それぞれ挨拶をされました。その際、3名の神学生にも前に出て、自己紹介をしてもらいました。コロナ禍にあって、神学生に会う機会もないまま過ごしてきましたから、実際に会い、声を聞くことの中に、喜びを見出しました。
 すべて終了した後は、再会を喜び合う輪が、爆発したようにあちらこちらに出来、誰もがその場を去り難い思いを抱いているようにみえました。初めから終わりまで、集まることの喜びが詰まった時間を過ごしました。

第28期第20回常議員会報告

事務局長 滝田浩之

 

 11月14日(月)に開催された標記の件、ご報告いたします。

(1)第29回・30回
  定期総会の件
 第29回・第30回定期総会の同日程での開催については、2023年5月3〜5日(水〜金)に宣教百年記念東京会堂(東京教会)で対面にて開催することを確認しました。もちろん今後、COVID-19感染拡大の中でウイルスの強毒化等、不測の事態があれば再延期もあり得ますが、現段階では参集しての開催を準備していくことになります。なお新選挙システムの導入により技術的には1泊2日の開催は不可能ではないものの、5年ぶりの参集での開催であり、COVID-19下での宣教の苦悩を分かち合い、十分にフロアーからのご意見を頂くために2泊3日での開催としました。また日本同盟基督教団の大杉至牧師よりハラスメントについてのご講演を頂く予定です。総会負担金につきましては、すでに2020年に徴収済みとなっています。
(2)第31回
  定期総会の件
 来年に第29回・30回定期総会が開催された場合、第31回定期総会については2023年の2年後となる2025年の開催とすることを来年の定期総会において第4号議案として提案することを確認しました。教憲・教規において定期総会は2年に1度開催するとなっていることを鑑み、来年の総会を基点としてこれまで延期を繰り返してきた総会開催について正常化をはかるためです。また常議員の任期にあわせて2024年に連続して開催するという考え方もありますが、個々の教会の負担になること、また総会の正常化に合わせて、ここで新たな任期から始まる執行部を選出することが肝要と判断しての提案となります。この議案を議長報告の前に行うことによって、これが総会において承認された場合、現議長、副議長、事務局長については3期を超えて同一役職についてはならない(日本福音ルーテル教会規則第50条)に従い任期満了となります。よって議長報告の後に行われる総会選出常議員選挙では、それぞれ同一役職については被選挙権を持たないことを確認しているところです。

(3)協力金、教職給の件
 来年の協力金については現行8%としているところを10%に戻すのではなく9%とすることを確認しました。感染拡大の状況の中に引き続き個々の教会が置かれていること、同時に教会活動も様々な工夫の中で進められていることを加味しての判断となりました。教区活動、本教会活動については引き続き財政均衡を睨みながら運営されていくことになります。ご理解をお願い申し上げます。
 教職給につきましては18年間ベースアップが行われていないこと、昨今の急激なインフレを加味して0・5%のベースアップとすることを確認しました。この18年間で社会保険関係の支払いは増加し可処分所得が減少しています。月30万円の俸給の方で定期昇給を除いて月1500円、年2万5千円の昇給となります。教職給は生活給であることをご理解頂き、個々の教会のご協力をお願い申し上げます。
 以上、詳しくは常議員会議事録にて確認をお願い申し上げます。

熊本地区宗教改革合同礼拝報告

安井宣生(熊本地区宣教会議議長担当教会・健軍教会牧師)

  

 10月30日(日)、建築から98年となる、登録有形文化財でもある九州学院のブラウン記念礼拝堂にて、熊本地区宗教改革合同礼拝が行われました。熊本地区では県内の12教会をはじめ、学校と社会福祉、幼保こども園などの事業に取り組む関係8法人が協働して神の宣教の働きを担っています。このつながりを熊本地区宣教会議と呼び、年ごとに合同礼拝、講演会、音楽会などの集会を実施し、祈りと交わりを強められてきました。新型コロナ感染症の拡大以来、集まることを断念してきたこともあり、この度、久しぶりに顔を合わせる機会ともなりました。

 礼拝は、礼拝堂に響き渡る鐘の音に導かれて始まり、美しい旋律の新式文クラブを用いて、森田哲史牧師と安達均宣教師の司式により進められました。説教は永吉穂高牧師(ルーテル学院中高チャプレン)により「神のイメージ」とのテーマで語られました。宗教改革運動となったマルティン・ルターの取り組みはイエス・キリストに貼られたレッテルを剥がし、十字架を担われたその姿と生き方を通して、聖書の言葉を味わい直すことであると学びました。また、誰もが近寄りたくないと考えてしまうところへ赴き、すべてを許すために命をかけたキリストの覚悟と愛に支えられること、そしてキリストに従う者とされることへの感謝の祈りに導かれました。
 大勢での賛美と聖餐の分かちあいも合わせて、参加者は神の恵みに力づけられ、そしてまたこの地から始められた神学校の働きを応援する思いを表明し、再び打ち鳴らされた鐘の音に背中を押されて、それぞれの場へと派遣されていきました。礼拝堂を後にする皆さんのにこやかな表情はとても印象的でした。学校チャプレンである永吉牧師の顔をあしらったポスターは、学校はもちろんのこと、人の往来の多い商業地にある教会の掲示板でも注目され、撮影されたとの報告もありましたが、180名の参加者の中には関係学校の多くの生徒さんたちが礼拝に共に集ってくださったことも、嬉しいことでした。

2023年度 日本福音ルーテル教会 会議日程予定

公告

  

 この度左記の行為を致しますので、宗教法人法第23条の規定に基づき公告致します。
2023年1月15日
宗教法人日本福音ルーテル教会
代表役員 大柴譲治

信徒利害関係人 各位

横浜 土地建物
売却の件

(ア)横浜 土地
所在地
 横浜市神奈川区
松ヶ丘
所有者
 日本福音ルーテル教会
地番 8番4及び
8番5
地目 宅地
地積
 8番4 248・42㎡
 8番5 797・88㎡

(イ)横浜 建物
所在地
 横浜市神奈川区
 松ヶ丘
所有者
 日本福音ルーテル教会
種類 会堂
構造 木造
 スレート葺平家建
床面積 154・21㎡
種類 教職舎
構造 木造
 スレート葺平家建
床面積 76・03㎡
理由 売却のため

23-01-01みことばは、私の道の光です

「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。」
(詩編119編105節)

 私がこのみ言葉と最初に出会ったのは十代の頃、新改訳聖書ででした。「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」。一目で気に入りました。
 恥ずかしながら、私は暗闇が怖いのです。それは、少年の頃の原体験にもよるのでしょう。私が住んでいたところは、村内に信号機が一つしかないような、いわゆる「ど田舎」でした。当然、街灯も少なく、夜は真っ暗です。小学生の頃、少し離れた小さな町の剣道教室に通っていたことがありました。帰りは日が暮れ、一人バスに乗って帰りました。同じバス停で降りる人はいません。たった一人で、暗い道を家まで歩いていかなければなりません。重い防具を背負って。当時は、数十メートルおきにしか街灯はありませんでした。街灯と街灯の間は真っ暗。おまけに、途中にはお墓までありました。そんな怖さを紛らわすために少しばかり声を大きくして歌を歌いながら、街灯から街灯へと猛ダッシュを繰り返したものです。さすがに家の側まで来ると明るかったので、それがどれほどの安心感を与えたことか。そんな経験があるせいか、「光」という言葉に惹かれるのかもしれません。
 「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」。このみ言葉は、単にお気に入りだけでなく、私を支える言葉となりました。しかし、本当にその通りだったのでしょうか。少年時代、青年時代、壮年時代、人間関係においても、家族関係においても、仕事においても、また自分自身とにおいても、辛くて、悲しくて、苦しい、暗闇の中にいるとしか思えないような出来事が度々あった。そんな時、本当に暗闇を照らす光となってくれていたのか。むしろ、祈っても叫んでも答えられずに、神さまは本当におられるのか、と意気消沈してしまっていたのではなかったか。本当にそんな時に、み言葉が助けに、力になっていたのだろうか。そうも思うからです。
 確かに、そうです。私自身、そんな体験を積み重ねてきました。しかし、それでも、やはりみ言葉は、「私の足のともしび、私の道の光」だったと思うのです。それは、み言葉の一言一句とは限らなかったのかもしれません。細々と積み重ねて内実化されたみ言葉のエッセンスと言えるのかもしれません。しかし、いずれにしても、それらが私たちの重要な、決定的な決断を導き最悪の状態を回避したり、自分だけでは見出すことができなかった気付きを与えてくれたり、予想だにしなかった未来を掴むことができたり、諦めずに希望を見出すことが出来たのではなかったか。いちいち、あのみ言葉が、このみ言葉が、と意識することはなかったかも知れませんが、確かにみ言葉が私たちの内に働いて、私たちを守り、支え、慰め、力づけ、導いてくれていたのではなかったか。その結果として、今の私たちがいる(在る)のではないか。そう思うのです。
 脅すつもりはありませんが、今年も何が起こるか分かりません。戦後日本は比較的平穏な中を歩んで来ることが出来たと思いますが、国内においても、また世界においても、経済格差の問題、安全保障の問題、気候変動の問題など、喫緊の課題が溢れています。私たちも一市民として、自分達に出来ることで励んでいく必要があるでしょう。しかし、その前に原点を確認したいと思うのです。古くて新しい原点を。「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」。こんなことがおとぎ話のように思えるような時代だからこそ、その力に、確かさに、立ち返りたいと思う。そして、宣教によって、この経験を私たちだけのものとするのではなくて、より多くの人々の経験となっていけるように励みたいと思っています。

22-12-01るうてる2022年12月号

機関紙PDF

「神の業に招かれる」

日本福音ルーテル帯広教会 牧師 岡田薫

「天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、
神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。
不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」

(ルカによる福音書1章35~37節)

 信仰という恵みを与えられていると自覚している私は、日々神への愛と信頼をもって誠実に生き生きと過ごしたいと願いつつも実は全くそうではないと思い知らされることが多々あります。ときには「私には荷が重すぎます」と職務を投げ出して逃げ出したくなることもあれば、疑いや迷いをぬぐい切れず、ふて寝して、翌日には奇跡が起きていることを願っても、相変わらず厳しい現実を前に深いため息から一日を始めることもあります。もしかしたら、この文章を読んでくださっているあなたも、思いがけないトラブル、痛ましい現実、信じたくないような悪意、自分の力ではどうにもならない状況を前にして立ちすくんだという経験をお持ちかもしれませんね。
 マリアが聞いた「おめでとう。」の言葉も途方もなく重たいことばであったと思います。にもかかわらず、彼女は自分の身に起きたことを引き受け、人生を神の働きに委ねていくようになりました。そこには「主があなたと共におられる。」(ルカ1・28)という約束や「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。」(ルカ1・36)という御言葉の力があったと思います。神の業に巻き込まれたのが自分だけではないという情報は、マリアにとって心の内をわかちあう他者がいるという安堵となったに違いありません。そして、エリサベトを訪ねてしばらく共に過ごした時間は彼女たちにとって豊かなものであったでしょう。
 世界的なパンデミックが私たちの日常を激変させ、気候変動による大規模な災害が各地で起こり、軍事暴力がはびこる中、福音を語る、福音を生きるということの難しさをひしひしと感じています。そのような中で、一つの祈り会に招かれました。きっかけは「親しい友人やその家族のために祈って欲しい」という個人的な呼びかけ。それまで、ミャンマーという国についての知識も関心もほぼ皆無でしたが、2021年2月1日の軍事クーデータ以降、毎週金曜日にオンラインで行われている祈り会に参加するようになって、かの国で起きている暴力が私たちの生活と地続きであることを知らされました。
 祈り会から生まれたアトゥトゥミャンマー(ミャンマーと共に)支援という小さな支援団体では、ミャンマー本国の支援と共に日本で生活されているミャンマーにルーツを持つ方々とも連帯しています。奉仕や運営に携わっている仲間たちに感謝しながら、祈り会でわかちあわれるそれぞれの思いに自分の思いを重ねます。リアルタイムでわかちあわれる情報の中には目を背けたくなるものも少なくありません。それでも嘆きや悲しみを持ち寄り、呻きと沈黙に押しつぶされそうになっても、神は、どのようなときにも人の呻きや、呟きに耳を傾け、心を向けてくださっていると信じて祈り続けることで、今日を生き抜く力を得るような思いでいます。
 神の御子は、弱く、もろく、不安定な存在として、この世界にお生まれになりました。マリアも、嬰児として生まれ、その身を人の手に委ねられた幼子の重み、ぬくもりを通して、神の業の担い手として招かれたことを感じたことでしょう。現代は、当時とはまた違った苦しみと悩みが世界を覆っています。そのような中にあって、私たちはクリスマスをどのように待ち望んでいるのでしょうか。キリストの誕生は、私たちに神の約束が必ず成就するということを教えてくれる出来事です。そして、神が御心を顕されるときに、私たちを求め、働きの中に招いてくださっているということも教えてくれています。だからこそ、自信がなくとも、しんどくても、辛くても、福音を語る、福音に生かされる幸いを伝える務めに踏みとどまりたいのです。《神にできないことは何一つない。》という御言葉に立ち、すべてをご存知の方が、命と希望へと私たちを押し出てくださることを信じて。

エッセイ「命のことば」 伊藤早奈

㉝「聴く」

「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。/悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。/柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。/義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。/憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。/心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。/平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。/義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。」(マタイ 5・3〜10)

 「あなたの聖書朗読からあなたの信仰が聴こえるわ」と今回あげた聖句をお読みした時言われました。丁度言葉のスピードが遅くなり、また病気が進行したのかと心配していた時でした。また故人の好きだった聖句としても上に書いた聖句を葬儀の時読みました。
 私は神学生の時に聖書朗読の指導を受けました。その時に「礼拝で聖書が読めることは幸せよ。その時その時に与えられた神様からのみ言をあなたを通して会衆が聴くのですから。」その言葉を聞いて神学生の奉仕だからうまくすべきと思いガチガチだった私の思いは変えられ、与えられている奉仕として用いられていることを知り、神様がいつも一緒にみ言を運んで下さることに気づくことができました。一人ではありません。いつも神様が一緒です。ただ一緒なのではなくあなたをお用い下さいます。聖書朗読の時だけではなくいつも神様は一緒です。

議長室から 大柴譲治

「天使の取り分  Angels’ Share」

「すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。/『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ』」(ルカ2・13〜14)。

 クリスマスが近づくと天使に思いを馳せることが多くなります。ある方が教えてくださったユッタ・バウアーの『いつも だれかが…』という素敵な絵本があります(上田真而子訳、徳間書店2002)。その扉の裏にはこうありました。「うれしいときもかなしいときもいつもだれかがそばにいた。あぶないときにはたすけてくれた…。幸運だった一生をふりかえる祖父と、その話に耳をかたむける孫と、ふたりを『見守る存在』とを描いて、ヨーロッパを感動の渦にまきこんだ話題の絵本」。見えない天使が私たちを守ってくれているのです。
 ボンヘッファーの『善き力にわれかこまれ』という賛美歌もやはり天使の守りを歌ったものと聞きました(『讃美歌21』469番)。「善き力にわれかこまれ、守りなぐさめられて、世の悩み共にわかち、新しい日を望もう。/輝かせよ、主のともし火、われらの闇の中に。望みを主の手にゆだね、来たるべき朝を待とう。/善き力に守られつつ、来たるべき時を待とう。夜も朝もいつも神はわれらと共にいます。」(1・4・5節)「善き力」とは天使を意味しています。
 クリスマスは万物を一新させる神の再創造の出来事の始まりでもありました。そこに点された光は今も、この世の闇の中に輝き続けています。どのような深い闇も、悲しみも絶望も、神によって与えられたイエス・キリストという希望の光を消すことはできません。もしも主の御降誕がなかったとしたらあの幾多ものすばらしいクリスマスキャロルは誕生しなかったでしょうし、私たちが天使の歌声に耳を澄ませることもなかったはずです。そう思うと御子の降誕にますます感謝したくなります。キャロルにより私たちに不思議な力と慰めが与えられるからです。賛美を通して私たちもまた、天使たちの大きな喜びに参与することがきているからだと思っています。
 以前サントリー白州蒸留所を訪ねた時のこと。樽の中で熟成されるウィスキーは毎年数%ずつ減ってゆくそうです。職人さんたちはそれを「天使の取り分Angels’ Share」と呼ぶそうです。粋ですね。そのような長いプロセスを経てやがて琥珀色の液体が生まれてゆきます。私は思います。私たち人間も成熟の課程においてAngels’ Shareの喜びに与っているように思えるのです。福音の告知は無数の天使たちの喜びに裏打ちされています。お一人おひとりの上に祝福をお祈りいたします。メリークリスマス!

「教会讃美歌 増補」 解説

㉚創作賛美歌解説10
増補54番
「光ふる海原」

歌詞解説 木村満津子
(湯河原教会)

 幼心がつき始めた頃からでしょうか。青空を見上げるのが好きだったように思う。「ウミニオフネヲウカバセテイッテミタイナヨソノクニ」好きな歌を歌いながら、そのよその国へ行ってみたいと水平線をながめていた。まだ水平線との言葉を知らない頃の夏の日々。思い返すと、よその国で生を受け、大海原を行き来していた私でしたでしょうに、夏の日々に憧れていたよその国はそこには見えなかった。静岡県沼津市の千本浜の思い出です。
 大平原は、薄くれないの桜草と青空をつなげた。それが地平線だった。終戦日から約1年、中国東北地方のチチハルの郊外での思い出です。
 私の中にある水平線と地平線の2線には、今、美しく静かな旋律が流れています。

曲解説 梅津美子
(日本同盟教団中野教会)

 「光ふる海原」は、2011年6月19日に東京カテドラル関口教会マリア大聖堂で行われた第30回教会音楽祭の公募曲で、当日歌っていただいた曲です。
 この詩を手にした時、幼い頃、湘南の海で見た光景を思い浮かべました。眩いばかりに光り輝く空、見渡す限りの海原、波は光を浴びて白く輝き、海は深い色に沈む。光は何処から来て何処へ行くのだろう。光は何を照らしているのだろう。雄大な景色は言葉にならず、崇高さを覚えました。
 神は言われた。「光あれ」。こうして光があった(創世記1章3節)。長じて私の心は主に向かい、主を信頼する今、主の光あふれる慈愛のもとで歩めることに感謝し、これからも希望の朝を迎えられることを祈りつつ、音に託しました。
 曲はドリア旋法で書き、旋律線は波をイメージした上行ラインを大小組み合わせ、頂点「光よ」に繋ぎました。

世界の教会の声

浅野直樹Sr.(世界宣教主事 市ヶ谷教会・スオミ教会牧師)

ルター派とペンテコステ派の対話

 ルーテル世界連盟(LWF)とペンテコステ派の世界組織PWF(Pentecostal World Fellowship)は、2016年にフィリピンで開始した対話をそれ以後毎年続けています(2017年はドイツのヴィッテンベルクで、2018年はチリのサンティアゴで、2019年はマダガスカルのアンタナナリボで開催)。その後新型コロナウイルス感染症のパンデミックの影響で対話はオンラインとなりましたが、今年9月末にカリフォルニアのフラー神学校で対面による協議が行われ、10名の出席者たちは再開できた喜びを噛みしめました。期間中、一日の始めと終わりの祈りディボーションは、ルター派とペンテコステ派双方が担当しました。
 今回のカリフォルニア州パサデナでの対話では、ここまで積み重ねてきた協議の総括をして第1期の会合を締めくくりました。テーマはキリスト者のアイデンティティ、福音の告知、貧困層と疎外された人々への関心、癒しと解放への取り組みについてでした。第1期開催に先だって2004年から2010年まで、ストラスブールにあるLWFエキュメニカル研究所がここに向け準備してきました。LWFエキュメニカル部門と対話委員会の責任を担うランゲ教授も今回の対話に参加し、以下のようにコメントしています。「双方の代表者たちは互いに祈りあい、そしてまたお互いのためにも祈りました。礼拝と対話そして共に歩み分かち合うことで、神の御心に沿った一致への道筋を見いだそうとしています。」会期中の日曜礼拝は、黒人が中心のチャーチオブゴッドの大きなペンテコステ教会に参加しました。「ルター派とペンテコステ派の礼拝スタイルは異なるけれど、復活のキリストとキリストによる救いの御業に焦点を当てている点は同じです。」(ランゲ教授)
 第1会期を終えた出席者たちは共同作業で結果をまとめLWFとPWFそれぞれに報告、来年には出版する運びとなっています。ペンテコステ派代表のプルス氏は、今回の協議の成功を振り返りながら、報告書はこれまでに議論をしてきたテーマをある程度詳細に取り上げ、共通する関心事や証しの可能性が両教会にはあることが示されるだろうと述べています。「ぜひとも第2期の対話を手がけていきたいと考えており、次回のテーマを礼拝及びその実践、そして両教会間でのキリスト者の集まりについて焦点を当てたいと思っています。」(ランゲ教授)
 この協議会には東京教会の英語礼拝と牧会を担うサラ・ウィルソン牧師が委員として出席しています。

 

 ※詳細についてはWEBサイトをご参考ください。

エキュメニカルな交わりから

⑨NCC在日外国人の人権委員会
李明生(田園調布教会牧師)

 

 戦後1948年に発足した日本キリスト教協議会(NCC)の歩みは、国内外のキリスト教会のネットワークを通して対話と和解を進め、祈りを共にして連帯の実現を目指すものでした。特に在日大韓基督教会の委員たちと活動を共にする中で在日外国人の差別の実態に気付かされ、この問題に取り組むため1967年に「少数民族問題研究委員会」が発足します。しかしその後、その名称は日本の侵略・植民地化・強制連行の歴史を覆い隠してしまうような名称であることに気付き、1972年に現在の名称となりました。
 委員会発足当時は、在日韓国・朝鮮人の人権獲得、就職差別への闘いや民族教育の保証を求める活動が中心的課題でした。1980年代には外国人登録法(外登法)が定める指紋押捺への拒否運動が日本各地で起こり、当委員会も参加協力する形で1987年に各教派・団体や各地の地方組織からなる「外登法問題と取り組む全国キリスト教連絡協議会」(外キ協)が結成されます。その後外キ協は、時代の変化と共に在日外国人の構成が大きく変化したことを踏まえ、全ての人の命と尊厳が等しく守られる社会の実現を呼びかける「外国人住民基本法案」を1999年に提案、2011年に名称を「外国人住民基本法の制定を求める全国キリスト教連絡協議会」(略称はそのまま「外キ協」)とし、多文化共生社会の実現を目指して活動しています。
 残念ながら日本社会では2009年頃から「ヘイトスピーチ」そして「ヘイトクライム」が繰り返されるようになりました。こうした中、2015年に世界教会協議会(WCC)をはじめ国内外の諸教会によるエキュメニカルな協力によって第3回「マイノリティ問題と宣教」国際会議が東京で開催され、その成果として、マイノリティの差別の問題をキリスト教会の宣教課題として取り組む「マイノリティ宣教センター(CMIM)」が2017年に発足しました。
 NCC在日外国人の人権委員会は現在、外キ協、マイノリティ宣教センターと一体となって活動を行っています。2021年からは、現在の入管および在日外国人行政の問題やその背景にある歴史的問題についての連続講座などの集会を、オンラインでも実施しています。ご関心のある方はお気軽にご参加下さい。

社会委員会リレーコラム「本・出会い・教会」⑥

秋山仁(ディアコニアセンター喜望の家・豊中教会牧師)

 

 未だ日本社会に見られる外国人差別。それも国が定めた制度や公的機関において、しかも常態化しているという現実があります。
 2021年3月6日、1人のスリランカ人女性、ウィシュマ・サンダマリさんが、33歳の若さで、収監中の名古屋出入国在留管理局(名古屋入管)で亡くなりました。この事件は、遺族がスリランカから来日し、真相究明を求めたこともあって、連日報道がなされ、読者の皆さんの記憶にも新しいことと思います。
 なぜ、日本の文化に興味を持ち、日本でこどもたちに英語を教えたいという希望をもって来日した女性が、「非正規滞在者」として名古屋入管に収容されたのか。なぜ、収容中に、衰弱して、医療措置も受けられず亡くならなければならなかったのか。なぜ、真相究明を願う遺族に全ての情報が開示されないのか。
 本書の著者の一人安田菜津紀さんは、事件の経緯と背景を詳らかにしながら、こうした疑問の核心に迫っていきます。そして、そこから見えてくるのは、日本という国の戦前から変わらず続いている「出入国管理」体制全体の問題であり、その人種差別的な体質です。
 本書を読み進めていくとき、私の中に湧き上がってきたのは憤りであり、また大きな疑問でした。「どうしてこんな酷いことが、法治国家であるはずの日本で許されているのか。外国人に対してこんな扱いをしている国が、外国人の労働力をあてにするのは正しいことか。」
 日本にはすでに280万人もの外国にルーツを持つ人々が暮らしており、大勢の外国人によって、繊維産業などの中小企業や農・漁業といった根幹の産業が支えられています。今や、彼らなしには、日本の産業は立ち行かない状況になっています。にもかかわらず、日本社会は彼らに対し、まったく優しくはないのです。
 本書では、このウィシュマさんの事件の他にも、様々な現場での取材をもとに、日本政府による外国人政策の問題点が赤裸々に語られています。
 来日した外国人技能実習生の労働現場での処遇と実態。さらには、ここ十数年執拗に繰り返されるヘイトスピーチ(社会的なマイノリティに向けた差別や侮辱、排除の言葉)と排外主義の動き。その根底にある、戦前・戦中の日本「帝国」による植民地支配や侵略の事実を否認する歴史修正主義。差別を助長するメディアの問題。
 本書が指摘し、批判する日本の外国人政策の問題点を、もう一人の著者、安田浩一さんは、こう記しています。「『人権』という視点はない。まったくない。そして―いまも、ない」と。
 私たちは、すでに「共生社会」、「多文化社会」の時代に生きています。「人権」の視点から、差別的な外国人政策を終わらせ、人種や民族の壁を越えて、互いに助け合い、共に生きてゆける社会の創出を目指さなくてはならないと、本書を読んで改めて強く思わされました。

静岡市清水区台風15号災害報告

秋久潤(小鹿・清水・沼津教会牧師/東海教区台風15号災害現地部長)

  

 2022年9月24日(土)頃に静岡県を通過した台風15号により水害が生じました。本記事(2022年10月25日執筆)は、静岡市清水区の情報に偏っています。申し訳ありませんが、他の地域の被災情報は本記事に含んでおりません。
 本水害の特徴は、被災地がまばらで「チームで特定の地域に支援に出かける」のが難しいことです。お金を出せば支援物資が買えたため、ルーテル教会として支援の呼びかけはせず、東海教区災害予備費から物資購入費を出して頂きました。私は9月26日(月)から清水区の教会員を訪問し水を配りました。その後、市のボランティアに参加しています。
 被害が大きい地域では、当日深夜2〜3時頃に浸水し、高さ120㎝(胸の高さ)まで浸水しました。家財や自動車を廃棄したご家庭も多いです。次のお話が印象的でした。「最近は、町中の至る所が舗装されている。そのため、氾濫した水が土に吸われず、舗装していない我が家に集中的に流れ込んだ」。また、蛇口から飲用水が出るまでに3〜4週間かかり、暑い中で配給(公園や学校)に並ぶ必要がありました。配給に1時間以上並んでも、水が無くなり無駄足になることもあったそうです。足腰に不安のある方は、配給や買い物で困難を覚えました。そのため、風呂や洗濯、トイレ、土砂清掃が十分にできない苦しみがありました。10月25日(火)時点でも、床下の泥を除去できないお宅があり(ボランティア不足や、保険・補償の審査が遅れ片付けに着手できない等)、カビやにおい、虫に困っておられます。また、様々なご事情で「困っている」と声を上げられず(声を上げる発想をお持ちにならず)、自宅内で困ったまま何日も孤立して過ごしている方もおられます。
 ボランティアについては、フェイスブックの「静岡市災害ボランティアセンター」のアカウントで近況が写真付きで報告されています(ボランティア募集は、10月25日時点では静岡県在住者のみ)。

平和構築のための日韓青年フォーラム参加報告

 

 2020年7月、日本と韓国のエキュメニカルなキリスト教関係者ならびに市民団体の協力によって「日韓和解と平和プラットフォーム」が立ち上げられました。この「日韓和解と平和プラットフォーム」の企画による「平和構築のための日韓青年フォーラム」(8月22〜26日、韓国坡州とソウルにて)に、日本福音ルーテル教会から4名の青年が参加しました。以下、参加者による報告です。

⻆本洵(神水教会)

 今回の研修は、日韓の青年約20名ずつが招かれ、大日本帝国時代の植民地支配や、日本軍「慰安婦」についての資料館や博物館を訪ね、歴史の学びと平和交流を目的として開催された研修会でした。日本において、戦後70年経った今でも謝罪や賠償を求める韓国に対して「もうその手の訴えは十分でしょ」という風潮がありますし、私自身もそうでした。しかし、現地の資料館や博物館を赴くと、自分の無知を恥じることになりました。今回の研修の後、多くの日本側の参加者が「もっと歴史の勉強をしなきゃ」「もっと韓国語を勉強しなきゃ」と言っていました。私もその一人です。帰国後、自宅の本棚に数冊の歴史書や単語帳が並んだことは言うまでもありません。
 しかし、こと「平和」についていうなら、平和を実現するためには、歴史の知識も、言語能力も必要ないと思うのです。もちろん、これらのアビリティはあるに越したことはないでしょう。それでも一つ言えることは、平和とは、どこかの能力に優れた人たちによって成し遂げられることではないということです。例え豊富な知識や言語がなくても、相手の立場でものを考えて、間違った時には謝って、そして何より、積極的な愛をもって関係していく中に、必ず平和は実現すると信じたいのです。国家間の戦争を止める意味での「平和」を実現することは無理に等しい私達ですが、イエスのように、弱い姿であったとしても、隣人に仕えて祈る中に、必ず平和は起こると考えます。とは言っても、これを行動に移すのが難しい、というより無理なのが人間です。だからこそ、祈っていきたいと思います。同時に、神と隣人に仕えていくことができない罪人である私のために十字架にかかったイエスを思い、そして赦されていることを思い起こしたいと思うのです。キリストの平和が私達の心に宿り、私も、平和を実現するものとして変えられて、用いられたいと願います。

高濱遼太(健軍教会)

 日韓青年フォーラム参加の報告にあたりまず初めに私達の渡韓をご支援いただいた方、私達の学びが良いものとなるよう祈ってくださった方々に感謝を申し上げます。お陰様で何事にも代え難い貴重な体験をすることができました。本当にありがとうございました。今回参加しました日韓青年フォーラムの報告、感想は他の参加者からもそれぞれ素晴らしいものを書かれていますから今回私はフォーラムの後、韓国で新型コロナウイルスに感染した時のことについて書かせていただければと思います。先ほど述べた通り私はプログラム最終日の前日コロナに感染し韓国で7日間の隔離期間を過ごすこととなりました。その時私はお金もなく宿泊先もない、おまけに私は韓国語も英語もほとんどわからないという状況で頭の中は不安と孤独感でいっぱいでした。しかしそのような状況を経験したからこそ私には困難の中にある私を励まし助けてくれる仲間や、支え、祈ってくださる多くの人が与えられていたことに気づかされました。それは私にとって今回のフォーラムで経験したことと同じくらい大切な気づきだと感じました。そしてこの経験こそ今回のフォーラムのテーマであった「平和」そのものではないかと思いました。時間も空間も超えて相手を思い祈ることこそ私達が実現すべき平和なのではないかと思います。最後に、この度はご支援いただきありがとうございました。主の平和が皆様と共にあるように。

本間いぶ紀(甘木教会)

 今回のフォーラムでは、日韓両国から集まった青年がお互いのバックグランドや価値観を尊重しつつ、日韓の歴史認識の現状や、私達青年ができること、そしてこれからお互いがどう連帯していくかについて話し合うことができました。わたしは大学で国際関係学を専攻しており、戦争と平和について、安全保障について、また近代以降の日韓の歴史について学んでいるので、机の上での学びを実際に目で見て感じたい、という目的もありました。
 プログラムでは北朝鮮との軍事境界線や民間人統制線を訪れたり、日本軍「慰安婦」問題の解決を求める水曜デモに参加したりと、韓国を取り巻く歴史的・軍事的な国際関係を見ることができました。
 今回のフォーラムはグループごとに行動することが多く、わたしは拙い韓国語でグループの皆さんとお話しすることができ、言語という壁がありつつも、その壁を乗り越えようとする姿勢がとても美しいと感じました。「宣言文」作成のための意見交換の場では日本や韓国各地から青年が集まって一つの宣言文を作るための話し合いをしたのですが、このこと自体にとても意義があると感じました。私達は国の違いだけでなく、文化や宗教、そして各々違うバックグランドを持っています。そんな「異なる」ものを持つ私達がお互いを認め合い、意見を交わし、尊重し、「同じ」一つの宣言文を作成することができました。これは心を一つにして、連帯していくことの表れであり、そしてこれこそが日韓和解と平和そのものだと、振り返って思いました。
 大学で私が学んだ歴史は、多角的な歴史の中のある一側面ですが、青年の話し合いの場というのは、この一側面を繋ぎ合わせるということだと思います。自分には見えなかった観点を他の誰かから与えられ、共有する、このことを今回のフォーラムだけで終わらせずに続けていきたいです。

柳下李裕理(札幌教会)

 今回のフォーラムは、私のパーソナリティ認識に大きな影響を与えてくれました。このプログラムでは日本と韓国の双方から参加者を募っていました。私が日本福音ルーテル教会を通して参加したきっかけは、私の父親が在日韓国人3世だからです。父親は「外国人の住民基本法の制定を求める全国キリスト教連絡協議会(外キ協)」での活動も行なっています。しかし自分は「日本人と韓国人の間に生まれた子ども」というアイデンティティに関していまひとつ実感や使命感を持てずにいました。しかし今回のプログラムに参加する中で、日本が朝鮮半島に行ってきた暴力の歴史を改めて知ることができました。私は日本の統治時代の朝鮮圧政の歴史を多少は知っていたつもりでしたが、現地の資料館を見る中で自分の知識の浅さに恥ずかしさを覚えました。「戦争と女性の人権博物館」にて日本軍慰安婦のハルモニ(おばあさん)たちの証言を学び、「植民地歴史博物館」で日本軍が朝鮮半島で行った圧政や差別の歴史について知りました。そして改めて歴史における日本の加害者性を学ぶにつれ、日本人がその歴史を認識していないことを感じました。そして私自身が「韓日のルーツを持つ人間」として、少しでも架け橋になるような努力をするべきなのではないかという自覚を持つことができました。プログラムの中で一番印象に残っているのはDMZ(非武装地帯)の見学です。自然の草木に覆われて非常に閑静な区域の地面に200年かかっても除去しきれない地雷が埋まっているという事実に驚くとともに、朝鮮半島の南北分断の歴史には日本の政治的・軍事的責任もあるのだと改めて思いました。次回は日本で開催される予定です。ホスト側として、より有意義な内容にできればと思います。

春の全国ティーンズキャンプ開催

  

 〈テーマ〉「reunion(再会)」

〈日時〉2023年3月28日(火)~30日(木)

〈会場〉千葉市少年自然の家(千葉県長生郡長柄町針ヶ谷字中野1591−40)

〈参加費〉1万5千円(同一家庭から複数参加の場合は1名につき1万4千円)

〈参加対象〉2001年4月2日生まれ~2011年4月1日生まれまでの人
※対面開催を見送った過去3年間の卒業生も準参加者として参加出来ます。

※その他詳細は後日ご案内いたします。

〈併せて春の全国ティーンキャンプスタッフ募集〉
▼募集人数 若干名
▼募集資格
 2001年4月1日以前生まれの方
 2023年3月27日(月)から行われる前日準備から参加できること。
▼スタッフ応募締切
 2022年12月末日
▼応募先
 s-morita@jelc.or.jp(森田哲史牧師)

22-12-01神の業に招かれる

 「天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、
神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。
不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」
(ルカによる福音書1章35~37節)

  信仰という恵みを与えられていると自覚している私は、日々神への愛と信頼をもって誠実に生き生きと過ごしたいと願いつつも実は全くそうではないと思い知らされることが多々あります。ときには「私には荷が重すぎます」と職務を投げ出して逃げ出したくなることもあれば、疑いや迷いをぬぐい切れず、ふて寝して、翌日には奇跡が起きていることを願っても、相変わらず厳しい現実を前に深いため息から一日を始めることもあります。もしかしたら、この文章を読んでくださっているあなたも、思いがけないトラブル、痛ましい現実、信じたくないような悪意、自分の力ではどうにもならない状況を前にして立ちすくんだという経験をお持ちかもしれませんね。
 マリアが聞いた「おめでとう。」の言葉も途方もなく重たいことばであったと思います。にもかかわらず、彼女は自分の身に起きたことを引き受け、人生を神の働きに委ねていくようになりました。そこには「主があなたと共におられる。」(ルカ1・28)という約束や「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。」(ルカ1・36)という御言葉の力があったと思います。神の業に巻き込まれたのが自分だけではないという情報は、マリアにとって心の内をわかちあう他者がいるという安堵となったに違いありません。そして、エリサベトを訪ねてしばらく共に過ごした時間は彼女たちにとって豊かなものであったでしょう。
 世界的なパンデミックが私たちの日常を激変させ、気候変動による大規模な災害が各地で起こり、軍事暴力がはびこる中、福音を語る、福音を生きるということの難しさをひしひしと感じています。そのような中で、一つの祈り会に招かれました。きっかけは「親しい友人やその家族のために祈って欲しい」という個人的な呼びかけ。それまで、ミャンマーという国についての知識も関心もほぼ皆無でしたが、2021年2月1日の軍事クーデータ以降、毎週金曜日にオンラインで行われている祈り会に参加するようになって、かの国で起きている暴力が私たちの生活と地続きであることを知らされました。
 祈り会から生まれたアトゥトゥミャンマー(ミャンマーと共に)支援という小さな支援団体では、ミャンマー本国の支援と共に日本で生活されているミャンマーにルーツを持つ方々とも連帯しています。奉仕や運営に携わっている仲間たちに感謝しながら、祈り会でわかちあわれるそれぞれの思いに自分の思いを重ねます。リアルタイムでわかちあわれる情報の中には目を背けたくなるものも少なくありません。それでも嘆きや悲しみを持ち寄り、呻きと沈黙に押しつぶされそうになっても、神は、どのようなときにも人の呻きや、呟きに耳を傾け、心を向けてくださっていると信じて祈り続けることで、今日を生き抜く力を得るような思いでいます。
 神の御子は、弱く、もろく、不安定な存在として、この世界にお生まれになりました。マリアも、嬰児として生まれ、その身を人の手に委ねられた幼子の重み、ぬくもりを通して、神の業の担い手として招かれたことを感じたことでしょう。現代は、当時とはまた違った苦しみと悩みが世界を覆っています。そのような中にあって、私たちはクリスマスをどのように待ち望んでいるのでしょうか。キリストの誕生は、私たちに神の約束が必ず成就するということを教えてくれる出来事です。そして、神が御心を顕されるときに、私たちを求め、働きの中に招いてくださっているということも教えてくれています。だからこそ、自信がなくとも、しんどくても、辛くても、福音を語る、福音に生かされる幸いを伝える務めに踏みとどまりたいのです。《神にできないことは何一つない。》という御言葉に立ち、すべてをご存知の方が、命と希望へと私たちを押し出てくださることを信じて。

22-11-04「我らの国籍は天にあり」

 「しかし、わたしたちの本国は天にあります。
そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。」
(フィリピの信徒への手紙3章20節)

 今、私が住んでいる神水教会には、同じ敷地に社会福祉法人慈愛園があり、そのグランドの入り口付近には大きな十字架があります。クリスマスには、電飾が施され、キラキラ光ります。
 この十字架を建てたのは「愛献会」というグループです。それは慈愛園の創設者モード・パウラス宣教師に感謝し、その働きをおぼえ、伝えていくことを旨として卒園生の有志で作られた会です。
 この会の会長はIさんでした。天に召されて早10年たちました。今も生きていらっしゃったら、99歳になられます。Iさんは、生後9カ月で慈愛園子供ホームに預けられました。まだ3歳のIさんが背伸びしてピアノの鍵盤を触っている。それがまがりなりにもメロディーになっている。Iさんに音楽の才能がある事を、モード・パウラス宣教師は見ておられました。小学校を出られたあと、パウラス先生の勧めもあり、Iさんは千葉県の音楽学校に行かれます。ただ戦時下にあり中退を余儀なくされました。熊本に帰って来られ自動車整備工場や、県庁などでお勤めのかたわら、音楽仲間とバンドを結成して演奏活動も続けられました。また、晩年は高齢者施設で唱歌などの音楽ボランティアや、自身がお育ちになった慈愛園子供ホームの子供たちにピアノを教えるボランティアも続けられました。
 そんなIさんについて、びっくりする話をうかがいました。ダンスホールなどでの演奏後に、Iさんがよく立ち寄る屋台のおでん屋さんがありました。ひょんなことから、そのおでん屋のおかみさんが実の母親であることが分かったのです。何というめぐり合わせでしょう!彼女が17歳の時にIさんは生まれました。驚きつつ、「私が知らん間に連れていかれとったんよ」と教えてくれたそうです。
 思いがけない再会を果たしながら、Iさんと彼女は、その後も屋台のおかみさんとお客さんという関係でおられたらしい。「私のふるさとは慈愛園だし、私の母親は、パウラス先生だから」とおっしゃって。その後、1年半ほどしたころ、このおかみさんはご病気で召されました。
 実の母親との再会の中で、「私のふるさとは慈愛園」と言われたIさんは同時に、主を信じる信仰に生きられました。慈愛園はあくまで「地上のふるさと」であり、「本国は天」であることをよくご存じでした。そして幼い頃から「たかちゃん」と言ってかわいがってくれたパウラス先生を「お母さん」と呼んでおられましたが、本当の親は「わたしはいつもあなたと共にいる」と言われる主なる神様であることもよくお分かりでした。「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。」
 当時ものをいったローマ市民権のことも、パウロの頭にあったのかもしれません。困難な日々の中で、その恩恵に与かることもあったでしょう。地上での生活は大事です。出会う一人ひとりとの関わりも尊いです。いろいろな意味の「家族」たちに助けられます。「ここも神の世界」ですから。
 その中で私たちには顔をあげて仰ぐ大いなる恵みが与えられています。「わたしたちの本国は天にあります。」墓碑などで見かける「我らの国籍は天にあり」の文語体表現も力強く、美しいですね。
 主イエスが救い主としておられる天に国籍を持つ私たち。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」と言ってくださる御方を主と仰ぎ、天を本国とすることのゆるされた私たち。感謝します。
 みこころが天で行われるように、地上でも行われますように。アーメン

22-11-04るうてる2022年11月号

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「我らの国籍は天にあり」

日本福音ルーテル神水教会・荒尾教会・合志教会・松橋教会 牧師 ⻆本浩

「しかし、わたしたちの本国は天にあります。
そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。」

(フィリピの信徒への手紙3章20節)

   今、私が住んでいる神水教会には、同じ敷地に社会福祉法人慈愛園があり、そのグランドの入り口付近には大きな十字架があります。クリスマスには、電飾が施され、キラキラ光ります。
 この十字架を建てたのは「愛献会」というグループです。それは慈愛園の創設者モード・パウラス宣教師に感謝し、その働きをおぼえ、伝えていくことを旨として卒園生の有志で作られた会です。
 この会の会長はIさんでした。天に召されて早10年たちました。今も生きていらっしゃったら、99歳になられます。Iさんは、生後9カ月で慈愛園子供ホームに預けられました。まだ3歳のIさんが背伸びしてピアノの鍵盤を触っている。それがまがりなりにもメロディーになっている。Iさんに音楽の才能がある事を、モード・パウラス宣教師は見ておられました。小学校を出られたあと、パウラス先生の勧めもあり、Iさんは千葉県の音楽学校に行かれます。ただ戦時下にあり中退を余儀なくされました。熊本に帰って来られ自動車整備工場や、県庁などでお勤めのかたわら、音楽仲間とバンドを結成して演奏活動も続けられました。また、晩年は高齢者施設で唱歌などの音楽ボランティアや、自身がお育ちになった慈愛園子供ホームの子供たちにピアノを教えるボランティアも続けられました。
 そんなIさんについて、びっくりする話をうかがいました。ダンスホールなどでの演奏後に、Iさんがよく立ち寄る屋台のおでん屋さんがありました。ひょんなことから、そのおでん屋のおかみさんが実の母親であることが分かったのです。何というめぐり合わせでしょう!彼女が17歳の時にIさんは生まれました。驚きつつ、「私が知らん間に連れていかれとったんよ」と教えてくれたそうです。
 思いがけない再会を果たしながら、Iさんと彼女は、その後も屋台のおかみさんとお客さんという関係でおられたらしい。「私のふるさとは慈愛園だし、私の母親は、パウラス先生だから」とおっしゃって。その後、1年半ほどしたころ、このおかみさんはご病気で召されました。
 実の母親との再会の中で、「私のふるさとは慈愛園」と言われたIさんは同時に、主を信じる信仰に生きられました。慈愛園はあくまで「地上のふるさと」であり、「本国は天」であることをよくご存じでした。そして幼い頃から「たかちゃん」と言ってかわいがってくれたパウラス先生を「お母さん」と呼んでおられましたが、本当の親は「わたしはいつもあなたと共にいる」と言われる主なる神様であることもよくお分かりでした。「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。」
 当時ものをいったローマ市民権のことも、パウロの頭にあったのかもしれません。困難な日々の中で、その恩恵に与かることもあったでしょう。地上での生活は大事です。出会う一人ひとりとの関わりも尊いです。いろいろな意味の「家族」たちに助けられます。「ここも神の世界」ですから。
 その中で私たちには顔をあげて仰ぐ大いなる恵みが与えられています。「わたしたちの本国は天にあります。」墓碑などで見かける「我らの国籍は天にあり」の文語体表現も力強く、美しいですね。
 主イエスが救い主としておられる天に国籍を持つ私たち。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」と言ってくださる御方を主と仰ぎ、天を本国とすることのゆるされた私たち。感謝します。
 みこころが天で行われるように、地上でも行われますように。アーメン

エッセイ「命のことば」 伊藤早奈

㉜「今この時に」

「あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」(マルコ13・37)

 おはようございます。と言ってお隣に車椅子で近づくといつもなら無表情でいらっしゃる方が、今日はニコニコしてくださった。どうしてかと思っていたら「この方、明日結婚式なんですって。」と嬉しそうにその方のお隣に座られていた方を私にご紹介くださった。お孫さんの結婚式かしら?どうも本人のらしい。あまりにもお2人が嬉しそうだったので私は思わず「おめでとうございます。」と言いました。その私からの言葉を聞いて、シワだらけの顔がもっとクシャクシャになるくらいお2人は嬉しそうに顔を見合わせて笑いました。
 その時に「それはあり得ませんよ。何でそんなことおっしゃっているんですか?」と言うべきだったのか「式では何を着られるんですか」と話を合わせるべきだったのか。正解はありません。もしかしたら5分後には彼女たちの記憶には無いかもしれません。でも間違いなくその時彼女たちは嬉しかったのです。
 どこかで読ませてもらった「永遠の今」ってこう言うことなのかもしれない。と彼女たちに教えていただいたような気がします。
 理屈ではなくてそこには確かに喜びがありました。常識では割り切れなくてもお一人おひとりに今、確かに与えられるもの、それは神様から今与えられるあなたへの生きた真実なのです。

議長室から 大柴譲治

「メメント・モリ」

 「メメント・モリ」(死を覚えよ)。中世ヨーロッパの修道院で日々使われていた挨拶です。私たち人間の生は有限であり、生と死は表裏一体です。死を想うことは生を想うことでもありましょう。私はそれを「今ここを大切に生きよ(カルペ・ディエム)」という言葉と併せて理解しています。11月は死者を覚える月。死者の魂に平安を、ご遺族に天来の慰めをお祈りいたします。
 9月17日、オンラインで開かれた日本臨床死生学会で1人の緩和ケア医の講演を聴く機会がありました。2年前に末期ガンと診断された関本剛医師は『がんになった緩和ケア医が語る「残り2年」の生き方、考え方』(宝島社2020)を出版。関本医師は講演の中で、ジャック・ニコルソンとモーガン・フリーマンが主演した映画『最高の人生の見つけ方』(原題は「バケツリスト」=「棺桶リスト」)を紹介。そこから学んだこととして自分のしたいことをリストアップします。自分が生きた証を残すことをメインに据えて、「動けるうちにしたいこと」「動けなくなったら」の二つを挙げられました。前者には「できるだけ稼ぐ(自分が楽しむために&家族が路頭に迷わないために)」「家族と一緒に過ごす時間を楽しむ」「自分が生きた証しを残す(書籍・動画)」「自分の葬式の段取りをする」「大切な人に出来るだけ多くのメッセージを残す(動画)」「大切な人に直接感謝を伝える」「『もしもの時に家族が困らないセット』を準備する(動画)」「友人、知人に感謝を伝える」「良い酒(ワイン)を飲む」「スキーを楽しむ」「キャンプを楽しむ」「音楽(バンド活動)を楽しむ」と具体的に記します。後者は「意識がはっきりしていれば」と「いなければ」の二つに分け、前半には「撮りためた海外ドラマや映画を一日中見続ける」「家族と一緒の時間を楽しむ」「大切な人に直接感謝を伝える」、後半には「妻や子どもたちのしたいように・・(負担にならぬよう)」と記す。そして最後にはこうありました。「生殺与奪はその時の家族の気持ちにまかせる(症状緩和がなされているのが条件)」。緩和ケア医として多くの命を看取ってきた経験を踏まえて記されたそれらの言葉には重みがありました。今年4月19日に関本医師は45歳で逝去されています。合掌。
 信仰の立場からはそこに「メメント・クリスティ」(復活のキリストの想起)を加えたいのです。死は終わりではなく墓は終着駅ではない。復活の光の中で愛する者と再会できることを信じています。

「教会讃美歌 増補」 解説

㉙創作賛美歌解説9
増補52番
「朝の光が聖壇に」

歌詞解説 田中栄子
(神水教会)

 キラキラと輝くあの黄金の光のなんと美しかったことか、今思い出しても胸が熱くなってきます。
 ある日曜の朝、礼拝堂の椅子に座ろうとした時、聖壇に目をやった私は動きが止まってしまいました。ステンドグラスから射し込む一筋の光、それは無数の小さな球体が一つひとつ点滅し、イルミネーションのように輝いていたのです。私は、その美しさから目が離せなくなりました。
 それから数年後、機関紙「るうてる」の光についての作詞募集が目に止まりました。私は、あの時の感動を思い出し、詩に表してみようと思い、書いて応募してみました。
 今は視力を失いましたが、あの時の光の美しさを忘れることはないでしょう。
 この賛美歌作成に携わってくださったすべての方々に感謝します。多くの皆様に歌っていただければ幸いです。

曲解説 村松一恵
(日本キリスト教団小石川明星教会)

 この賛美歌の旋律は、詞にみちびかれてうまれました。詞のテーマは「光」。第30回教会音楽祭(2011年6月19日開催)のテーマでした。この音楽祭に向けて、まず詞が公募、選出され、次に曲公募のために公開されたこの詞に出会った筆者は、強く心を引かれ、是非ともこの詞をうたに、と応募を思い立ち、詞にうたわれている情景や、言葉のリズムによって、この旋律がうまれたのでした。
 四声体や8分音符、臨時記号にとらわれることなく、言葉によって表されている情景を思い描き、詞の心を感じ取って、架け橋、語らいを目指してお用い頂けましたなら、筆者の思いに重なる賛美となることでしょう。

世界の教会の声

浅野直樹Sr(世界宣教主事 市ヶ谷教会・スオミ教会牧師)

ユースが主導する平和活動

 日本福音ルーテル教会では第2次世界大戦の終戦記念日8月15日に因んで、8月の最初の主日を「平和の主日」として覚え、平和を祈り求め礼拝します。一方欧米諸国にとって忘れられないのは第1次世界大戦で、その終戦日11月11日を世界平和記念日としています。
 その世界平和記念日が近づくなか、LWF(ルーテル世界連盟)加盟教会の青年たちは2022年を平和にフォーカスして、平和を広げる様々な取り組みをしています。
 9月18日には50名のグローバル・ヤング・リフォーマーたちがオンラインで集い、アジア地区代表の11名が、一致、平和構築、世代間対話をテーマに祈りと話しあいを導きました。LWFユース部門は、ルター派の青年たちがグローバルにつながり、彼らによる新しい教会作りと、神の愛と創造を伝えるという宣教的取り組みを継続的に行っていくことを目指して、様々な企画のためのプラットフォームを用意しています。青年が担当した礼拝や、彼らが今年8月に作った「世界青年の日」のための祈り、祝福、聖書のみことばには、平和の祈りが込められました。

「伝えよう、これがオンライン集会で学んだメッセージ。このメッセージはいつも私の心にあります。」(タンザニアのニーマ・ンドネさん)

「世界は今、戦争や病への不安と恐れにあふれていて、将来のことが気がかりです。そうではなく平和が地上にあふれて、私たち一人ひとりの心が平和で満ちあふれることを祈ります。そしてあなたのなかの平和へと人々が招かれ、安らぎを得られるように祈ります。」(オーストラリアのエルザ・マティアスさん)

 地域に根ざした小規模の平和ユース活動「平和メッセンジャーズ」の1人、ブラジルのルイス・ザイデルさんは、「世界のリーダーが地上の紛争を終わらせて解決できるように」、そして「平等で公平な社会を目指して正義のために努める人に力を与えてください」と祈りました。もう1人の平和メッセンジャー、スウェーデンのマルバ・ローゼンフェルトさん、「互いに励ましあいながら、すべてのうちに良いものを見いだし、世界全体と兄弟姉妹にとってよいことができますように」と祈りました。

「今年、テーマとしてPeacebuilding(平和作り)を掲げたのは時宜に適っていたし、預言的でもありました。」(LWFユース企画担当者のサバンナ・サリバンさん)
 LWFユースデスクは、世界の青年たちが集い、そこで信仰に関すること以外にも平和やジェンダー、移民や難民の歓迎、気候問題の公平性、世代をつなぐ関係性といったトピックについて話しあう場を提供しています。
「LWFは、各地域や教会にいる青年の皆さんのこうした大切な話しあいと行動によって引っ張られているのです。」(サリバンさん)

 

 ※詳細についてはWEBサイトをご参考ください。

エキュメニカルな交わりから

⑧NCC平和・核問題委員会
内藤新吾 (稔台教会牧師)

 

 平和と核の問題は一体です。また核について、日本では核と原子力という言葉の使い分けがされますが、世界では区別なく(nuclear)、軍事と平和利用とは緊張関係にあり繋がっています。NCC平和・核問題委員会は、平和をつくる活動をする全国のキリスト者たちと共に、また平和と一体の問題の原発問題でも、「平和を実現するキリスト者ネット」、「原発体制を問うキリスト者ネットワーク」、多宗教間での「原子力行政を問い直す宗教者の会」、「平和をつくり出す宗教者ネット」などと共に、祈りつつ行動しています。
 委員会ではこれまで、国内外の科学者や医師を招き原発問題講演会や、九条改悪反対また強行された安保関連法などについて、メディアが取り上げる前から弁護士を招き学習会を開いたりし、キリスト者だけでなく市民たちとも活動を共にしてきました。震災前より憲法問題と原発問題でそれぞれ相当数発行した冊子も絶版となっています。他にも、カトリック正義と平和協議会との共催で、「核と平和」というテーマで2日にわたり、沖縄の基地問題についてシンポジウムも開催できました。また、カトリック正平協の脱核部会の日韓交流に参加させていただいたり、聖公会の沖縄と仙台での二度にわたる脱核の国際会議に招いていただくなど、さまざまな出会いに感謝しています。
 平和は、実現していくものです。強行された悪法も、時間をかけても撤廃させ、真の平和構築へと向かわねばなりません。そしてまた、日本政府が長年ひそかに準備を続けた核武装および核商売への可能性も、完全に閉ざすことが必要です。これらは一体の問題なのです。
 これらの問題について、日本のカトリック教会、聖公会、バプテスト連盟は震災後、組織としてしっかりとした本や冊子を作り、会員にも啓蒙活動を行ってきました(日本キリスト教団は教区による)。私たちの派はそれができず、手近に全体像を学べるテキストを持っていないことは残念です。ぜひ、これからでも検討してほしいし、できないならば他の方法を考えてほしいです。
 さて、NCC平和・核問題委員会は、これまでさまざまな取り組みをしてきましたが、現在のところ、全国規模の脱核の諸団体と繋がる委員、それも教職が少なくなっていることが課題です。ご加祷くださり、その下支えとなる皆さんの積極的な関わりもお願いいたします。

社会委員会リレーコラム「本・出会い・教会」⑤

小泉基(函館教会牧師)

 

 世界から戦争のニュースが絶えないなか、侵略戦争に踏み切る政治指導者とキリスト教会の関係に思いが向きます。日本の教会も、かつて政府が行った侵略戦争に協力・加担した歴史がありますから、わたしたちもその反省の上にたって平和を追い求めているのです。
 とはいえ敗戦から77年、かつての過ちの内実について、リアリティをもって語ることが出来る人はもはや多くはありません。当時の教会の人たちは何を思って神社に参拝し、礼拝前の宮城遙拝を行い、戦闘機献納のための献金を献げたのでしょうか。当時の教会について知るために、1冊の本を紹介したいと思います。1999年初版発行と出版から少し時間がたっていますが、豊富な資料と丹念な取材によって、ひとりの牧師の視点から戦時下の教会の姿をいきいきと描き出した作品です。
 本書の主人公は、晩年を静岡教会や甲府教会などルーテル教会の牧師として奉職された池田政一牧師です。戦時中は、日本基督教団第6部(ホーリネス系)の牧師で、1943年に治安維持法違反で逮捕・収監され、抗弁の機会も与えられないまま一方的に有罪判決を受けられた先生でした。
 わたしたちルーテル教会も第5部として創立に参加した日本基督教団は、その出発から「天皇のもとにあるキリスト教」であることを強く求められ、それに応えようとしました。そのため、再臨の教理を強調し、神社参拝に反対したホーリネス系第6部9部の牧師たちの一斉検挙を歓迎すらし、文部省の通達の元にその牧師たちに辞任を求め、全国のホーリネス系教会を強制解散させたのです。日本基督教団が、これに公式謝罪を行ったのは1988年のことでした。
 このような宗教弾圧事件を扱いながら、その視点を池田牧師個人とその周辺に据えた本書はとても読みやすく、戦時下に生きたひとりの伝道者の喜びや悲しみ、苦悩や後悔をあざやかに描き出します。抗いがたい大きな力の支配下にあって、もしそれがわたしであったらと、読み進めながら幾度も自問自答しないわけにはいきません。元号、君が代、日の丸と、それらの強制をあたりまえとする風潮が強まっていくことに息苦しさを感じる昨今、どうしようもなく追い込まれてしまう前に、抗うべきものに抗い、自由な言論や信仰を守る闘いを、いま闘わなければならないのだ、と改めて思わされるのです。

オンライン一日神学校報告

 

 9月23日(金・休)にオンライン一日神学校が開催された。今年も対面開催はかなわなかったが、例年通り開会礼拝(説教「十字架の言葉が神の力」立山忠浩校長)からはじまり、シンポジウムが催された。テーマは「ルーテルのミッション~心と福祉と魂と」。シンポジウムでは市川一宏先生、ジェームス・サック先生、金子和夫先生が登壇され、先生方がそれぞれに長い年月をかけて担い伝えてきた「心と福祉と魂」のミッションについて語った。熱のこもった話しに耳を傾けつつも和やかさの漂う語らいの時となった。
 シンポジウム後は、青空の広がるキャンパスを石居学長が案内する「キャンパス探訪」を実施、その後特別プログラム①神学生を交えたオンライン懇親会(Zoom)が開催された。後援会活動を支える地区の世話人や推進委員の方々を中心に、プログラム名のとおり「神学生を囲む」交わりのひと時となった。この懇親会と並行して一日神学校のために準備された特別授業の視聴が開始された。今年は以下のとおり神学、福祉、心理と各分野から一つずつ合計三つの講義が公開された。
・平岡仁子先生「パンデミックと礼拝~神との出会い」
・原島博先生「難民・移民の生活課題と支援」
・高城絵里子先生「人を愛するためのセルフケア」
 いずれも時宜にかなったテーマが選ばれ各専門分野の講義が体験的に学べるようになっている。なお、いずれの講義も引き続き神学校HPで視聴できる。学びの秋、おひとりでの視聴をはじめ、教会やグループ、あるいは地域の方々と一緒に視聴して学びの機会に利用することもできる。

JELAイングリッシュ・バイブル&ワーク・キャンプ報告

森一樹(JELAスタッフ/市ヶ谷教会)

  

 本年「るうてる」6月号に掲載して頂いた「JELA English Bible & Work Camp」が、世界各国の学生が有機農業や農村リーダーシップについて学ぶ農村指導者養成学校、学校法人アジア学院(栃木県那須塩原市)にて開催されました。
 JELAは、2001年から奉仕者育成を目的としたボランティア派遣プログラム「ワークキャンプ」を毎年開催してきましたが、新型コロナウイルス感染症の影響で、2020年春を最後に実施することができない状況が続いておりました。その中で、今夏ついに開催された本キャンプでは、当初の予想をはるかに上回る、14名の中高生が全国から集まり、アジア学院という英語環境下での有機農業体験や持続可能な生活体験、また創世記をテーマにしたバイブルスタディが行われました。
 バイブルスタディでは、チャプレンとして同行して下さった、大江教会牧師の森田哲史先生やアジア学院チャプレンのジョナサン先生の導きの下、御言葉を読み、アジア学院で感じた事を聖書の文脈で考え、参加者同士で分かち合う時間を持ちました。わたしたちの想いがすべて伝わったかはわかりませんが、勉学や部活などで普段は忙しくしている中高生と共に、ゆっくりと聖書の御言葉に触れ、神様と自身の関係について考えることができた1週間は、御恵みと御守りに満ちた時間でした。
 また、アンダーコロナでの開催という事で、キャンプ1週間前から最終日まで、毎朝晩に検温と体調確認をしたり、事前に抗原検査キットを郵送し出発直前にそれぞれで実施したり、アジア学院内での感染対策に従い、こまめな手洗いや手指消毒、またパーテーションを介して食事をしたりと、参加者の各々が感染症予防に尽力しました。その心がけや皆様のお祈りによるお支えもあって、誰一人欠けることなく、最終日を迎えることができたのは何よりの喜びでした。
 最後にはなりましたが、JELAワークキャンプへの皆様のご協力とご支援、そしてお祈りに深くお礼申し上げます。皆さまのお支えがあって、何とかこのワークキャンプを再開することができました。また、今号1面にも掲載していただいているように、来年2月にはカンボジアのワークキャンプも実に3年ぶりに再開いたします。引き続きのお力添えとお祈りをどうぞよろしくお願いいたします。

聖書日課 頒布価格改定のお知らせ

松本義宣
(ルーテル聖書日課を読む会代表/東京教会・東京池袋教会・板橋教会牧師)

 2023年度(2023年1月・2月・3月号)より、聖書日課冊子ならびにWEB会員の頒布価格の改定をさせていただきます。何卒、ご理解くださいますようお願い申しあげます。

◆聖書日課冊子 年会費1800円
 なお、支払期日(3月末まで、施設は4月末まで)を過ぎた場合は、年会費2200円とさせていただきます。1冊のみの購入の場合は500円(+送料)です。
◆WEB会員
 年会費1200円

 お問い合わせ等がございましたら、聖書日課事務局まで、お願いいたします。
今後とも、かさねて聖書日課をご購読くださいますよう心からお願い申しあげます。
聖書日課を読む会
事務局
162─0842
東京都新宿区市谷砂土原町1─1 日本福音ルーテル教会事務局内
TEL(03)3260─8631
FAX(03)3260─8641

ルター研究所クリスマス講演会のご案内

江口再起 (ルター研究所所長)

 ルター研究所では、今年もまた「クリスマス講演会」のオンライン開催を計画しています。各教会でのクリスマス行事の一つとして、ぜひご活用ください。(昨年の「クリスマス講演会」は、全国100カ所でご視聴いただきました。感謝申し上げます。)
 視聴方法・開始時間など、詳細は各教会にあらためて連絡を差し上げます。

【日時】
12月11日(日)
午後2時~4時

【テーマ】
「ルターの聖書翻訳
500年」

【プログラム内容】
・講演
「中世後期の聖書の世界」(高村敏浩牧師)

・演奏
ルターのクリスマスの讃美歌(解説・加藤拓未さん)

・シンポジウム「聖書、ルター、翻訳、そして現代」
(立山忠浩牧師、李明生牧師、安田真由子さん)

 皆様のご参加をお待ちしています。

22-10-01るうてる2022年10月号

機関紙PDF

「善意を贈る」

日本福音ルーテル京都教会・賀茂川教会・修学院教会 牧師 沼崎勇

「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。
悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。
あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。」

(ルカによる福音書6章27節b〜29節a)

  京都市交響楽団定期演奏会が、3月12日(土)に京都コンサートホールにおいて開催され、藤村実穂子さんが、マーラーの『リュッケルトの詩による5つの歌』を熱唱しました。その中の第4曲「真夜中に」の歌詞を紹介します。
「真夜中に/私は目を覚まし/天空を仰ぎ見た/群れなす星のどれひとつとして/私に笑いかけてはくれなかった/真夜中に/真夜中に/私は思いにふけり/それは暗闇の果てにまで及んだ/真夜中に/〔だが〕私を慰めてくれるような/明るい思いつきは何ひとつなかった/真夜中に/真夜中に/私が注意を払ったのは/心臓の鼓動/たったひとつ苦悩の脈動だけが/あおり立てられていた/真夜中に/真夜中に/私は闘いを挑んだ/おお人類よ、おまえの苦悩のために/私は闘いを終わらせることができなかった/自らの力では/真夜中に/真夜中に/私は自分の力を/あなたの手に委ねた/主よ、この世の死と生を/あなたは夜通し見守っておられる/真夜中に」(山本まり子訳)。
 藤村実穂子さんは、今、このマーラーの歌曲を歌う意味について、インタヴューに答えて、およそ次のように述べています。「ウクライナの映像が、毎日流れています。昨日まで普通に暮らしていた人たちが、1日で、自分たちの国から出て行けって言われる。こんなことが起こるなんて、誰も思っていなかった。醜悪なものに対する答えは、『美』だと思うんです。大きな声をあげる方も素晴らしい。デモンストレーションをする方も素晴らしい。だけど、私は歌手なので、音楽という、天才たちが残してくれた作品を通して、自分が言いたいことも伝えられたらいいな、と思います」(『クラシック音楽館』NHK・Eテレ2022年4月17日放送)。
 私たちは、キリスト者なので、醜悪なものに対する答えは、美しい「神の言葉」である、と信じています。そして神は、この世の生と死を、夜通し見守っておられる方である、と信じています。ですから私たちは、自分の力を神の御手に委ねるのです。
 神は、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5・45)方です。このような神の無限の愛を経験する者は、その愛に満たされて、その人自身も敵を愛する者とされます。
 だから、キリストは私たちに、こう命じられたのです。「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい」(ルカ6・27b〜29a)。そしてキリストは、教えられた通りに、自分を殺す者たちを、神に執り成しながら、彼らによって殺されました。

  このようなキリストの在り方を説明して、哲学者の岩田靖夫さんは、次のように述べています。「自分を守るために、他者を殺さない。復讐しない。不正を加えられても、不正を返さない。どのようなときでも、どのような他者にも、善意を贈りつづける。それは、他者に対して限りない畏敬の念をもつ、ということである。他者のうちに、神の似姿を見る、ということである。そこを目指して努力するのでなければ、どのような工夫をこらしても、それは、戦争の可能性の危うい隠蔽に過ぎない」(岩田靖夫著『いま哲学とはなにか』岩波書店2008、202頁)。
 神は私たちに、「殺してはならない」(出エジプト20・13)と命じておられます。なぜ人を殺してはいけないのでしょうか。それは、人を殺すことが、神の無限の愛にもとる行為であるからです。私たちはキリストにならい、他者に対して限りない畏敬の念を持ち、どのような時でも、どのような他者にも、善意を、そして美しい「神の言葉」を贈りつづけたい、と思います。

エッセイ「命のことば」 伊藤早奈

㉛「今も生きて」

「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」(マルコ10・31)

  どういう意味だったんだろう?
 私は十数年前ある礼拝で説教をさせていただきました。その礼拝に、幼い頃、私が育った教会の牧師夫婦もいらしていて礼拝後にお会いしました。
 「あなたからの説教とても良かったです。ありがとう。」と言われた後「先の者は後になり後の者は先になるとイエス様がおっしゃられた通りですね。」とおっしゃられました。
 兄弟という以上に年が離れている方だったので何を言われているのかわかりませんでした。褒められているのか。ずっと気になりつつも聖句に帰っていませんでした。
 そして今回、み言葉に向き合うチャンスをいただき私はマルコによる福音書10章23節から聴く機会をいただきました。「イエスは弟子たちを見回して言われた…」に続く話は財産を持ったまま神の国を望む者がそのまま神の国に入ることの難しさを例えた箇所でした。ここだったのか…ラクダの例えもある。
 なんで今なんだろう。その先生は亡くなって数年も経つ今、私は初めて先生を通して与えられたみ言葉に向き合ったようです。今までも何度も向き合った聖句です。でもいつも新しい出会いをいただいて「ハッ」とさせられます。
 「福音には年齢順も、お金のあるないや地位の順は関係ない。そして知識も。」と聞こえてくるような気がしました。み言葉は今も生きて一人ひとりに働かれています。

議長室から 大柴譲治

「Solus Christus〜キリストの現臨のみ」

「約束がイエス・キリストの真実によって、信じる人々に与えられるためです。」(ガラテヤ3・22b聖書協会共同訳)

 「一点突破全面展開」(鈴木浩)。この言葉は私たちの教会のアイデンティティをよく表しています。ルーテル教会は常に中心を明確にしようとするからです。「5つのソラ」と呼ばれる宗教改革原理も然り。信仰のみ・恵みのみ・聖書のみ・キリストのみ・ただ神に栄光のみ。外的奉仕のための内的集中です。一点で突破し全面で展開するのです。
 今年も宗教改革を覚える10月、自分の原点を確認する時となりました。今回はJELC『第七次綜合宣教方策』で強調される「牧会」(英語Pastoral Care/独語Seelsorge)に焦点を当てたいのです。牧会とは羊飼いが羊の世話をすること(ヨハネ21章)。聖職者が「牧師Pastor」と呼ばれるのも牧会的な働きが重視されるからです。しかし真の牧者は主キリストただお一人。私たちには迷子の羊が出ないよう群れの周囲を走り回る「牧羊犬的な働き」が求められています。そこから「全信徒祭司性」は「全信徒牧会者性」とも理解できます。教会は復活の主から相互的な「魂の配慮」という大切な使命を託されているのです。
 ルターが始めた宗教改革運動。それは様々な次元で展開されましたが、基調音は牧会にありました。人々の魂の救いの問題(贖宥状)に関して始まり、礼拝改革や教育改革など一貫して牧会的に展開されていったのです。そのことは石田順朗先生の『牧会者ルター』(日本キリスト教団出版局2007)やT・G・タッパートの『ルターの慰めと励ましの手紙』(内海望訳、リトン2006)等に明らかです。
 ルター自身も自らの魂の平安を得ようと聖書(特に詩編やパウロ書簡)と実存的に格闘し続けました。突然、詩編150編すべてが「キリストの祈り」として理解され、神の義とは御子を賜った神からの一方的な恩寵であることを知ります。ルターは「突然天国の門が開けて、自分が全く生まれ変わったように感じた」のです(塔の体験)。それは彼がキリストの現臨(リアルプレゼンス)に捉えられた主体のコペルニクス的体験でした。第二の「シュトッテルンハイム落雷体験」とも呼び得ましょうか。
 Solus Christus! 説教でも牧会でも礼拝の司式(聖礼典の執行)でも、文書執筆でも教会管理でも、すべては中心で働いておられる「キリストの現臨/リアリティ」をどう共有できるかにあります。インマヌエルの主が常に共にいて、深い憐れみをもって私たちの魂を配慮してくださる。それこそが私たちの慰めと励まし、そして喜望の源泉なのです。

「教会讃美歌 増補」 解説

㉘創作賛美歌解説8
増補45番「よろこびの歌 はずむ時」
歌詞解説 久木田恵
(帯広教会)

 この詞は「そらよ、そらよ、優しく晴れて」のフレーズが思い浮かび、書き始ました。私は北海道十勝の大空の下で暮らしています。空の青さと満点の星空にどれほど慰められてきたかわかりません。自然の中に身を置くとイエスさまを近くに感じます。十勝の気温は1月末にマイナス20度まで下がります。この時季の夕方、うす紫色の優しい空を主は見せてくださいます。厳寒の中で、グングンと日は長くなり、必ず春が来ると希望を与えてくださるのです。逝ってしまった大切な人を想いながら書きました。どのような時であっても、主の恵みと優しさの中で、穏やかな心でいられますようにという願いを込めました。
 私の詞に美しいメロディをつけてくださった油谷さんのカトリック教会でも、この曲は歌われています。新しい賛美歌集によって、さまざまな教会で歌われ、どなたかの心に触れましたなら大きな喜びです。

曲解説 油谷美佐子
(カトリック五井教会)

 2011年のある日、教会での聖書研究会を終えて、ふと手に取った「教区ニュース」に「教会音楽祭」の公募曲の記事が出ていました。この催しは、1968年に始まった、教派を超えたキリスト教一致のためのもので、3つの課題詞が添えられていました。その中のひとつに、久木田恵さんによる「よろこびの歌 はずむ時」は、あったのです。素朴な力強さ、細やかな優しさをもったこの詞を、帰り道のバス停で口ずさむうち、自然とメロディが浮かびました。不思議なことでした。
 私はカトリック教会に所属する者ですが、ヨハン・セバスティアン・バッハを尊敬してやまぬ両親のもとで育ちました。民衆のコラールに基づいた彼の教会音楽は、「オルガン小曲集」から、「マタイ受難曲」に至るまで、いつも力と希望を与え続けてくれるものです。
 このたび、ルターのコラールに日本語の歌詞を付けられた賛美歌集のなかに、この賛美歌が加えられたことに感慨を覚えます。「教会讃美歌 増補」発刊おめでとうございます。

世界の教会の声

浅野直樹Sr(世界宣教主事 市ヶ谷教会・スオミ教会牧師)

LWFウクライナ支援・半年が過ぎて

 ロシアのウクライナ侵攻から半年が過ぎましたが、ルーテル世界連盟(LWF)では戦争による被災者たちへの支援活動は続いています。まもなく冬がやって来るので、これからは損壊した家々や公共施設の復旧作業が急務です。それに加えて被災者一人ひとりへの牧会的な心のケアの必要性が高まっています。LWFは独自の直接的な支援とともに、加盟教会の協力のもとウクライナ住民と難を逃れて近隣諸国で難民生活を送っている人々にむけた支援活動を行っています。

「侵攻が始まって数日後、LWFはポーランドにチームを結成しました。まずはワルシャワに事務局を開設しそこを多目的支援センターとして、五万人以上に金銭的支援活動を始めました。ルーテル諸教会とUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)と緊密に連絡をとりながら共同作業をしています。」
(LWF支援活動責任者 シェイ・マトナー氏)

 こうした活動を可能にしているのがLWF加盟教会から惜しみなく捧げられる支援金です。LWFは地元教会や自治体と連携して、立ち上がったファンドとUNHCRからのインフラを組み合わせ、そこに独自の専門技術と開発支援に関する経験を活かすというユニークなパートナーシップ関係のなかで活動しています。

「教会からの強力な支援には頭が下がります。ウクライナとその周辺諸国のLWF加盟教会が戦禍の内にある人たちに示している連帯意識と思いやりは素晴らしいです。教会施設や個人宅を開放するなどして、国を追われた人々に対して具体的な行動をとっています。教会には長きにわたるディアコニア経験があって、それを今回の危機的状況のなかで活かしています。」(LWF宣教主事 エヴァ・ニルソン氏)

 寒い季節の到来に備えてLWFは今後、ウクライナ北部地方在住の戦争被害者への支援を開始します。さらに半年にわたり難民支援活動をしてきた教会自体がインフラ整備等の支援を必要としています。そしてウクライナの方たちが新しい地域社会での定住に向けた受け入れ作業を教会といっしょに進めていく計画です。

「この状態がいつまで続くかわかりませんが、困難な暮らしを強いられた人々に最善を尽くして仕えるという私たちの決意は変わりません。」(シェイ・マトナー氏)

 

 ※詳細についてはWEBサイトをご参考ください。

エキュメニカルな交わりから

 

⑦部落差別問題委員会
小泉嗣(熊本教会・玉名教会牧師)

 

 NCC部落差別問題委員会のはじまりは、NCC加盟団体である日本福音ルーテル教会の機関紙「るうてる」に掲載された文書の中の差別表現である。当時すでに「部落差別問題に取り組むキリスト教連帯会議」や「同和問題にとりくむ宗教教団連帯会議」などが存在し、そこにかかわるNCC加盟の諸教派、諸団体があったにもかかわらず、問題意識を共有出来ていなかった事実を重く受けとめ、あえてNCCに部落差別問題委員会を設置したのが1976年3月のNCC第27回総会であった。
 あれからおよそ半世紀、この委員会は教会が正しい認識と意識をもって部落差別問題と向き合う事ができるようになるために、細く、長く、人権学習・啓発活動を続けている。
 50年前にインターネットや技能実習制度がなかったのと同じように、「部落差別」をとりまく状況も大きく変わった。私(現在49歳)が触れ、学んだ「部落差別」は1965年に提出された「同和対策審議会答申」をもとにした「部落低位論(部落民はかわいそう、だから生きる権利をしっかりと保証しよう)」であった。もちろん劣悪な住環境に追いやられ、就職や結婚等で差別を受けて来たこと、受けていることは是正しなければならない日本の課題であることは間違いない。しかし、もっと長い目で、たとえば文化として食肉が定着した後の日本の歴史の中で部落民が担ってきた役割を鑑みると、食肉皮革産業にしろ、浅草の弾左衛門にしろ、それは決して押し付けられてきた役割ではなく、必要とされ、また受け継がれてきた社会の役割であり、そこには「かわいそう」「無理やり」というイメージは全くないのである。
 そのような視点で「部落差別」を受け止める時、今なお続く石川一雄さんの冤罪事件や、インターネットや葉書による差別事件、結婚・就職差別などは、他者を自分勝手なイメージで塗り固めた偏見以外のなにものでもないのである。NCC部落差別問題委員会は、石川一雄さんの裁判闘争への連帯、全国キリスト教学校人権教育研究会と協力して作成した「いばらの冠(人権教育のための冊子)」の活用、販売促進、年3〜4回行われる人権セミナー(関東近郊にみる被差別部落の歴史や担ってきた働き等を学ぶフィールドワーク・但しコロナ禍のため近年はリモート開催)などを主な活動としているが、それらはいずれも当事者の声を聴き、歩んできた歴史を学ぶことによって、自らの持つ偏見、自分勝手なイメージを壊し、部落差別の中で生きてきた人々を縛ってきた見えない鎖を断ち切ることを目指してのものである。それらはどれも老若男女、教派団体を問わず、(たくさんではないが)色々な人たちが集い、和気あいあい、まじめに催される。活動の詳細はNCCのホームページを見ていただきたい。そして是非一度、参加してもらいたい。

社会委員会リレーコラム「本・出会い・教会」④

 

李明生(田園調布教会牧師)

 

  東日本大震災から既に11年が過ぎました。この本では、震災後の年月を振り返る福島県内でのキリスト教諸教派からの19の証言が収録されています。その中には、福島県キリスト教連絡会とルーテル教会救援との関わりや、日本ルーテル教団との関わりが深い「キッズケアパークふくしま」の歩みなど、大変興味深い記録が収められています。しかし、今回特に紹介したいのは、佐藤信行さん(福島移住女性支援ネットワーク代表)による「福島の移住女性たちと共に十年」という項目です。
 超教派で担われている「外国人住民基本法制定を求める全国キリスト教連絡協議会」(外キ協)は、東日本大震災の翌年から宮城県を中心に外国人被災者支援活動を開始します。外キ協事務局でもある佐藤氏は、支援活動の中で福島在住のフィリピン女性たちと出会い、YWCAとの協力の中で「福島移住女性支援ネットワーク(EIWAN)」を立ち上げることとなります。
 震災以前から福島県に在住する外国にルーツを持つ移住者は決して多くありませんでした。「しかし、そうであるがゆえに、日本に暮らす外国人をめぐる『日本社会の問題』を凝縮して示してくれる」(106頁)と佐藤氏は語ります。震災後には、労働力不足を補うために技能実習生が急増することとなりました。また震災以前の福島県在住外国人は「女性100人」に対して「男性59人」という比率で、日本人男性と結婚して県内に定住し永住している国際結婚移住女性がかなりの割合をしめている、という特徴がありました。震災前、そうした移住女性たちの多くが日常的には社会との接点を持つことが難しく孤立しやすい状況にありましたが、震災後まもなく(主に出身国に基づく)自助組織を形成して、情報交換や相互支援を行う人達が現れ始めました。EIWANはそうした自助組織を支援しつつ、まだ自助組織の無いところでのグループ作りに取り組んでいくこととなりました。特に、社会参与のためには言語の習得は不可欠であることから、フィリピン女性達からの要望で2013年に「日本語サロン」を福島と白河で開始したところ、2015年には中国、韓国、南アフリカ、コロンビア、エクアドル、なかでも白河近郊で働くベトナム出身の技能実習生が多く参加するようになり、参加者が急速に多国籍化してゆきます。この日本語サロンは、孤立しがちな移住女性や技能実習生達にとって、生活の事や子どもの悩みなどを相談できる大事な場所となりました。
 EIWANはさらに移住者と地元市民が出会うための「多文化カフェ」や「多文化フェスティバル」の企画、また「やさしい日本語による防災ワークショップ」、「放射能被害の調査と情報提供」、「移住女性とその子どもの保養プログラム」、「子どもたちの日本語学習支援」、「ダブルの子どもに対する継承語教育」に取り組むこととなります。報告の最後で佐藤氏は詩編113・5〜8を引用しつつ、こう記しています。「創成期2010年代の継承語教室で学んだ子ども達は、いま高校生、大学生となった。彼ら彼女らが十年後、二十年後、三十年後の『カラフルふくしま』を担っていくだろう。それは、私たちの夢であり確信でもある。」
 本来であれば、政府や自治体が担わなければならない領域ばかりですが、あまりにも立ち後れている現状の中、新しい市民社会ネットワークが生まれることを信じて、現在も活動が続けられています。

第4回「神学校オープンセミナリー」のご案内

 

 日本福音ルーテル教会(JELC)及び日本ルーテル教団(NRK)の神学教育委員会、日本ルーテル神学校の共催として、昨年と同様にオンライン(Zoom)での開催となります。JELCとNRKの信徒で、神学校に関心のある方、教会の働きへの献身を考えている方が対象です。(参加定員10名程度)

〈プログラム〉
第1部「神学校ってどんなとこ?」(礼拝・模擬講義・ガイダンス)
第2部「交わりを広げてみよう!神学生や若手牧師と話そう」(交流会)
〈日時〉11月13日(日)
   15〜21時
〈参加費〉無料
〈申し込み〉所属教会牧師の推薦を受け、各教区長に申し込みのこと
〈締め切り〉10月31日(月)

※プログラムの詳細については、ルーテル学院大学・日本ルーテル神学校チャプレン・河田優牧師(mkawata@luther.ac.jp)までお問い合わせ下さい。

カトリック第16回「シノドス」総会に向けての日本福音ルーテル教会からの応答④

エキュメニズム委員会

3 共に歩む私たち — 今後のこと
  

 シノドスが「『ともに歩む』ことは〝一緒にみことばを聴き〟聖餐をともにするとき、はじめて可能になる」と明記していることは、ルター派の伝統に根ざす私たちにとっても、大きな励ましと確認を与えられるものです。なぜなら、聖書への集中は、同時に讃美と祈りの回復でもあったことを思い起こさせるからであり、礼拝を通して、私たちは信仰を「心と口と手で」生きることを学ぶからです。シノドスが教える通り、礼拝こそが、私たちをすべての頸木から解放し、新しい命を与えるものです。
 そこでルターが「藁の書簡」と呼んだにもかかわらず、「ヤコブの手紙」を私たちルター派に立つ教会は再評価したいと思います。なぜなら「ヤコブの手紙」が激しい怒りをもって語るのは「富んだ者」によって「貧しい者」が共に礼拝することを拒んだという事実です。この事態を深く解釈するならば、「富んだ者」が「貧しい者」が聖餐に預かることを拒んだということです。この事態に対して、ヤコブは「行いのない信仰は死んだものである」(ヤコブ2・26)と語らざるを得ませんでした。聖餐を共にできないということは、『ともに歩む』ことができないということを浮き彫りにしているのではないでしょうか。そして、それを妨げる「信仰なるもの」があるならば、それは信仰ではなく、死んだ信仰ではないでしょうか。
 この事態をシノドスもまた、深刻な課題として提示していることは、福音主義に生きる私たちにとっても深刻な課題です。そして事実、私たちの教会は不寛容な側面を強く持つ集団であることを、私たちはこれもまた痛みをもって告白せざるを得ません。
 このような現実にあって、日本福音ルーテル教会と日本カトリック司教協議会が、1987年6月19日に「洗礼の相互承認」について行った合意は、高く評価されるべきです。
 その後も2004年に「義認の教理に関する共同宣言」の翻訳を記念して2004年10月31日に四谷のイグナチオ教会のマリア聖堂でカトリック教会と日本福音ルーテル教会との、最初の合同礼拝が行われました。この積み重ねの上に私たちはエキュメニズム教令50周年を2014年に記念し、日本福音ルーテル教会、日本カトリック司教協議会、日本聖公会は合同の礼拝を行い、更に2017年には宗教改革500年を記念して被爆地長崎で平和の祈りを実現してきました。日本というコンテキストを超えて、世界的にみても、これは画期的な出来事でした。そして、今後「ともに歩む」私たちに課せられていることの一つは、聖餐を共にするということではないでしょうか。恐らくそこに至るまでには長い道のりが予想されます。しかし、祈りましょう。聖餐を共にするという証があって、私たちは真実の意味で「ともに歩む」群れとして、神の道具にされていくと信じます。 

ルーテル諸学校夏の研修会が開催されました

  

小副川幸孝
(九州学院院長・
チャプレン)

 去る8月8~10日にかけて、ルーテル諸学校(聖望学園、浦和ルーテル学院、ルーテル学院、神戸ルーテル神学校、九州ルーテル学院、九州学院の6校合同)の夏の研修会が神戸ルーテル聖書学院を会場にして4年ぶりに開催されました。台風の到来や新型コロナウイルスの感染拡大のために、なかなか開催することができませんでしたが、行動制限がとられない状態でしたので、「顔と顔とを合わせての」開催となり、各学校の先生方と共に豊かな学びと交わりをすることができました。
 このルーテル諸学校の夏の研修会は、新任の先生方や中堅の先生方のために毎年行われていましたが、今年、ようやく再開されることとなり、やはり、「顔と顔を合わせる」ということがいかに豊かであるかを実感できるものでした。
 今回の開催では高等学校をもつ4校のうち、聖望学園と九州学院の2校が高校野球の夏の甲子園大会出場という快挙の中での研修会となり、それぞれの学校のエールが贈られました。また、この4年間のそれぞれの学校の動きなどの紹介が行われ、和やかな中でも豊かな研修でした。
 研修会のテーマは、「ミッションスクールで働く誇りと喜びと感謝」という主題の下で、ルーテル学院大学学長の石居基夫先生による「福音に立つ学校」、わたしの「学校教育の根本的課題とルター派キリスト教学校で働く意味」、そして九州ルーテル学院大学の田中將司先生による「LGBTQ+の課題に対する対応」という3つの講演が行われました。
 今日、現代社会そのものも学校教育を取り巻く環境も大きく変化し、それぞれの対応が必要となっていますが、キリスト教という揺るがぬ土台の上に立つ学校として、何が大切なことであるのか、「福音に立つ学校」として現代の社会状況の中で何を目指したらよいのかが示唆され、また、「多様性を認め合う」ということの具体的なこととして「LGBTQ+」の生徒や学生に対する対応に必要なことを学びました。参加された先生方にとって良い学びの時となり、また何よりも神の平和を祈りつつ、研修で学ばれたことをそれぞれの学校に持ち帰り、活かすことができればと願っています。
 予定されていた10日は、聖望学園が甲子園で試合をする日と重なりましたので、予定を早めて応援に行くという日程になりました。これもルーテル諸学校らしい在り方だと思っています。聖望学園は、その日の試合(1回戦)で見事に勝利しました。

オンライン 「ルーテル聖書日課読者の集い」のご案内

  

「ルーテル聖書日課読者の集い」が
オンラインで開催されます。
聖書日課の講読者ではない方も
ご参加頂けます。
皆様のご参加をお待ちしております。

〈主題〉 使徒言行録を学ぶ
〈講師〉 李明生牧師
(日本福音ルーテル田園調布教会)
〈日時・開催方法〉
10月10日(月・休)
10〜12時 第1講義
13〜15時 第2講義
※オンライン(Zoom)による開催です。
〈申込締切〉10月6日(木)
〈参加費用〉お1人千円
(1カ所で複数の参加も歓迎いたします。
その場合もお1人千円にご協力を
お願い申し上げます。)
〈振込先〉
郵便振替01080 — 4 — 12181
ルーテル「聖書日課」を読む会
*摘要欄に「読者の集い」とご記載いただくか、
*送金者名を「お名前 + ドクシャノツドイ」に
ご修正ください。
〈申込先〉
住所、氏名、メールアドレス、
連絡先を明記の上、
seishonikka■jelc.or.jp(■=@)
もしくは
FAX(03)3260—8641
まで送信ください。
〈お問合せ〉
聖書日課を読む会事務局
(日本福音ルーテル教会事務局内)
TEL(03)3260—8631
FAX(03)3260—8641
seishonikka■jelc.or.jp(■=@)

22-10-01「善意を贈る」

 「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。
悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。
あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。」
(ルカによる福音書6章27節b〜29節a)

  京都市交響楽団定期演奏会が、3月12日(土)に京都コンサートホールにおいて開催され、藤村実穂子さんが、マーラーの『リュッケルトの詩による5つの歌』を熱唱しました。その中の第4曲「真夜中に」の歌詞を紹介します。
「真夜中に/私は目を覚まし/天空を仰ぎ見た/群れなす星のどれひとつとして/私に笑いかけてはくれなかった/真夜中に/真夜中に/私は思いにふけり/それは暗闇の果てにまで及んだ/真夜中に/〔だが〕私を慰めてくれるような/明るい思いつきは何ひとつなかった/真夜中に/真夜中に/私が注意を払ったのは/心臓の鼓動/たったひとつ苦悩の脈動だけが/あおり立てられていた/真夜中に/真夜中に/私は闘いを挑んだ/おお人類よ、おまえの苦悩のために/私は闘いを終わらせることができなかった/自らの力では/真夜中に/真夜中に/私は自分の力を/あなたの手に委ねた/主よ、この世の死と生を/あなたは夜通し見守っておられる/真夜中に」(山本まり子訳)。
 藤村実穂子さんは、今、このマーラーの歌曲を歌う意味について、インタヴューに答えて、およそ次のように述べています。「ウクライナの映像が、毎日流れています。昨日まで普通に暮らしていた人たちが、1日で、自分たちの国から出て行けって言われる。こんなことが起こるなんて、誰も思っていなかった。醜悪なものに対する答えは、『美』だと思うんです。大きな声をあげる方も素晴らしい。デモンストレーションをする方も素晴らしい。だけど、私は歌手なので、音楽という、天才たちが残してくれた作品を通して、自分が言いたいことも伝えられたらいいな、と思います」(『クラシック音楽館』NHK・Eテレ2022年4月17日放送)。
 私たちは、キリスト者なので、醜悪なものに対する答えは、美しい「神の言葉」である、と信じています。そして神は、この世の生と死を、夜通し見守っておられる方である、と信じています。ですから私たちは、自分の力を神の御手に委ねるのです。
 神は、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5・45)方です。このような神の無限の愛を経験する者は、その愛に満たされて、その人自身も敵を愛する者とされます。
 だから、キリストは私たちに、こう命じられたのです。「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい」(ルカ6・27b〜29a)。そしてキリストは、教えられた通りに、自分を殺す者たちを、神に執り成しながら、彼らによって殺されました。
 このようなキリストの在り方を説明して、哲学者の岩田靖夫さんは、次のように述べています。「自分を守るために、他者を殺さない。復讐しない。不正を加えられても、不正を返さない。どのようなときでも、どのような他者にも、善意を贈りつづける。それは、他者に対して限りない畏敬の念をもつ、ということである。他者のうちに、神の似姿を見る、ということである。そこを目指して努力するのでなければ、どのような工夫をこらしても、それは、戦争の可能性の危うい隠蔽に過ぎない」(岩田靖夫著『いま哲学とはなにか』岩波書店2008、202頁)。
 神は私たちに、「殺してはならない」(出エジプト20・13)と命じておられます。なぜ人を殺してはいけないのでしょうか。それは、人を殺すことが、神の無限の愛にもとる行為であるからです。私たちはキリストにならい、他者に対して限りない畏敬の念を持ち、どのような時でも、どのような他者にも、善意を、そして美しい「神の言葉」を贈りつづけたい、と思います。

22-09-10「こうされたから」と 「こうされたのに」の生き方

 「あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった。」 (申命記10章19節)

 私のいる教会の一つでは、雨漏りや耐震問題で補修工事が始まりました。トラックが2台来て、礼拝堂を覆う足場が組まれました。朝の挨拶後は牧師館で仕事をしましたが、夕刻外に出ました。気になる事があったからです。彼らの会話に、外国語風日本語も聞こえたのです。「外国人の人もおられる?」と責任者に聞くと「はい、1人います。ブラジル人です」とのこと。「紹介してよ、話してみたい」とお願いして青年に会いました。ポルトガル語で話かけると皆びっくり。彼は喜んでくれ、故郷のこと、日本での生活、家族との死別や離別、でも何とかやっていることなどを、一気に話してくれました。私もブラジルに10年いて苦楽が色々あったことなど、共有する濃厚な時間でした。「今度はいつウチに来る?いつでもおいで。おしゃべりや食事しよう!」と名刺を渡し握手しました。トラックに分乗し会釈をしながら帰っていく彼らの後を、原付バイクのブザーを数度鳴らして「チャオ!(さいなら)」と手を振って彼も帰っていきました。
 新しく日本に来た様子の外国の人を見ると、声をかけたくなります。私たち夫婦も外国で苦楽を味わった「ガイコク人」の経験があるからでしょう。日系人だけでなく技能実習生のアジア諸国の人たちにも教会で日本語を教え、手続きや仕事のことでも通訳をしたりもしています。泣いたり笑ったりする彼らとの時間は、私をも支えてくれます。

 旧約聖書で「寄留者を愛せよ」と神は言われます。「選ばれた民」は異教の他国人とは対決し、旧約の神は排他的で厳しいだけというのは思い込みのようです。その説明ともいえる続きが心にしみます。「あなたがたもかつて寄留の民だった(のだから)」とあるからです。
 飢饉で食糧危機の際、食糧を備蓄していた隣の大国に行き、感動の再会と和解をしたヨセフの兄弟や家族たちはエジプトに身を寄せました。現代の食料難民や労働難民が他国に流入するニュース映像を思い出します。時が過ぎて異国での待遇は劣悪になり、神に選ばれたモーセと共に脱出します。それを思い起こさせ、次の世代にも伝えながら、もう一度神の救いの歴史と律法を説明し、従うように決断を迫るのが申命記です。

さて、私たちの生き方はどうでしょうか。外国人に対する接し方だけの話ではありません。
 「自分がいやなことは、人にはしない」とか、「良くしてもらったから、良くしてあげよう」と教えられました。しかしそれは裏返せば、「人にひどい仕打ちをされたら、仕返しをしよう」という気持ちにもなるのです。どうしたらその連鎖は断ち切られることができるのでしょう?それは、「こうされたから」という気持ちから「こうされたのに」への転換が必要です。そのために来られたのが、イエス・キリストでした。「自分を愛する人を愛するのは当然だ。敵を愛しなさい」といわれ、その通りに生き、その通りに十字架で死んでいかれたのです。
 「敵を愛する」、それは私たちにはできません。もう一度ここで「こうされたから」という言葉が必要です。今度は、自分にひどいことをする人を思い出しながら「こうされたから」ではなく、神や人にひどいことをした何をやってもダメな自分なのに赦してくれたキリストを見上げ「キリストにこうされたから」と思うと、私の中で新しい自分が少し始まります。申命記の言葉とキリストの姿が呼応するように心で響きます。

 平和を祈り献金も送りますが、戦禍は続きます。コロナ禍で孤独や難しさを味わい生活も苦しくなります。日本で暮らす外国人の方々も影響を受けています。
 キリストが開いてくれた新しい生き方にもう一度目覚めましょう。そのために、神様はいろんな人に出会わせているのかもしれません。私は難しい政治的な活動はできませんが、身近な出会いから手を取り合いたいと思わされます。皆さんは誰に出会って生きますか?小さいことから、何かが始まります。個人にも、家庭にも、教会にも、そして世界にも。

22-09-10るうてる2022年09月号

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 「こうされたから」と「こうされたのに」の生き方

日本福音ルーテル高蔵寺教会・復活教会・掛川菊川教会・新霊山教会 牧師 徳弘浩隆

「あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった。」
(申命記10章19節)

   私のいる教会の一つでは、雨漏りや耐震問題で補修工事が始まりました。トラックが2台来て、礼拝堂を覆う足場が組まれました。朝の挨拶後は牧師館で仕事をしましたが、夕刻外に出ました。気になる事があったからです。彼らの会話に、外国語風日本語も聞こえたのです。「外国人の人もおられる?」と責任者に聞くと「はい、1人います。ブラジル人です」とのこと。「紹介してよ、話してみたい」とお願いして青年に会いました。ポルトガル語で話かけると皆びっくり。彼は喜んでくれ、故郷のこと、日本での生活、家族との死別や離別、でも何とかやっていることなどを、一気に話してくれました。私もブラジルに10年いて苦楽が色々あったことなど、共有する濃厚な時間でした。「今度はいつウチに来る?いつでもおいで。おしゃべりや食事しよう!」と名刺を渡し握手しました。トラックに分乗し会釈をしながら帰っていく彼らの後を、原付バイクのブザーを数度鳴らして「チャオ!(さいなら)」と手を振って彼も帰っていきました。
 新しく日本に来た様子の外国の人を見ると、声をかけたくなります。私たち夫婦も外国で苦楽を味わった「ガイコク人」の経験があるからでしょう。日系人だけでなく技能実習生のアジア諸国の人たちにも教会で日本語を教え、手続きや仕事のことでも通訳をしたりもしています。泣いたり笑ったりする彼らとの時間は、私をも支えてくれます。

   旧約聖書で「寄留者を愛せよ」と神は言われます。「選ばれた民」は異教の他国人とは対決し、旧約の神は排他的で厳しいだけというのは思い込みのようです。その説明ともいえる続きが心にしみます。「あなたがたもかつて寄留の民だった(のだから)」とあるからです。
 飢饉で食糧危機の際、食糧を備蓄していた隣の大国に行き、感動の再会と和解をしたヨセフの兄弟や家族たちはエジプトに身を寄せました。現代の食料難民や労働難民が他国に流入するニュース映像を思い出します。時が過ぎて異国での待遇は劣悪になり、神に選ばれたモーセと共に脱出します。それを思い起こさせ、次の世代にも伝えながら、もう一度神の救いの歴史と律法を説明し、従うように決断を迫るのが申命記です。

   さて、私たちの生き方はどうでしょうか。外国人に対する接し方だけの話ではありません。
 「自分がいやなことは、人にはしない」とか、「良くしてもらったから、良くしてあげよう」と教えられました。しかしそれは裏返せば、「人にひどい仕打ちをされたら、仕返しをしよう」という気持ちにもなるのです。どうしたらその連鎖は断ち切られることができるのでしょう?それは、「こうされたから」という気持ちから「こうされたのに」への転換が必要です。そのために来られたのが、イエス・キリストでした。「自分を愛する人を愛するのは当然だ。敵を愛しなさい」といわれ、その通りに生き、その通りに十字架で死んでいかれたのです。
 「敵を愛する」、それは私たちにはできません。もう一度ここで「こうされたから」という言葉が必要です。今度は、自分にひどいことをする人を思い出しながら「こうされたから」ではなく、神や人にひどいことをした何をやってもダメな自分なのに赦してくれたキリストを見上げ「キリストにこうされたから」と思うと、私の中で新しい自分が少し始まります。申命記の言葉とキリストの姿が呼応するように心で響きます。

    平和を祈り献金も送りますが、戦禍は続きます。コロナ禍で孤独や難しさを味わい生活も苦しくなります。日本で暮らす外国人の方々も影響を受けています。
 キリストが開いてくれた新しい生き方にもう一度目覚めましょう。そのために、神様はいろんな人に出会わせているのかもしれません。私は難しい政治的な活動はできませんが、身近な出会いから手を取り合いたいと思わされます。皆さんは誰に出会って生きますか?小さいことから、何かが始まります。個人にも、家庭にも、教会にも、そして世界にも。

エッセイ「命のことば」 伊藤早奈

㉚「嬉しかったのかなぁ」

「あなたの御言葉が見いだされたとき/わたしはそれをむさぼり食べました。/あなたの御言葉は、わたしのものとなり/わたしの心は喜び躍りました。/万軍の神、主よ。/わたしはあなたの御名をもって/呼ばれている者です。」(エレミヤ15・16)

  遺品の整理をしていました。引き出しを開けた時、色々な書類の中に昔私が配った誕生日カードがしまってありました。
 しかも手で書いてあり私が手書きで字を書けたのは10年近く前のことで、なんだか懐かしいような意外なような…
 その方にカードを配るため、お部屋を訪問しお部屋のドアをノックしてもお返事はなく(それでもお部屋のドアの鍵が開いていればお構いなく入りますが)いつもベッドで寝ておられました。本当に寝ておられるのか目をつむっておられるだけなのかはわかりませんが「お誕生日おめでとうございます。カード置いておきますね」と毎年お部屋にカードを置くだけでした。
 しかも字が書けなくなっても味気ないから申し訳ないなと思いながらもパソコンで文字を打ち誕生日カードを配り続けました。まさか10年近くもたってしかもいつも無視されていたのか嫌がられていたのかと思っていた人の遺品から大切にされていたであろうかたちで示されるとは驚き半分嬉しさ半分複雑な気持ちでした。続けていて良かった。
 よく考えると私たち一人ひとりも思われ続けています。誰も気付く人がいなくても。

議長室から 大柴譲治

「突発性難聴」

「わたしは、「あなたたちのために見張りを立て耳を澄まして角笛の響きを待て」と言った。」(エレミヤ6・17a)

6月5日(日)のペンテコステに不思議な体験をしました。早朝に目覚めると左耳にかなり大きくザァーッというホワイトノイズが聞こえていたのです。テレビの放送終了時のあの音です。「耳鳴り」でした。ペンテコステですから一瞬、聖霊が降って天とのチャンネルがつながって交信が始まったのかと思いました。それはパウロの言う「第三の天」体験だったのかもしれません。
 翌日耳鼻科のクリニックに行くと外耳にも中耳にも鼓膜にも問題はなく内耳の問題とのこと。診断は原因不明の「突発性難聴」。過労やストレス、睡眠不足などで起こりやすいそうです。4分の1は治り、4分の1はそのまま、残りは悪化するとのこと。聴力検査をしてもらうと左耳の聴力がかなり落ちていて、ちょうど人の声と重なる1000㎐と2000㎐のあたりの音域が聴き取りにくい状態でした。ステロイド薬の処方を受けて1週間後に再検査。処置が早く、祈りが聴かれたのでしょう、聴力も元に戻り耳鳴りもほとんど聞こえなくなりました。「幸運な25%」に入ったのです。耳鼻科医の教会員からは「くれぐれも安静に」とアドヴァイスを受けました。改めて身体からの声を聴くことの大切さを知らされました。妻からの「安静、安静」という言葉は、私にどこかやましい気持ちがあるせいか、「反省、反省」に聞こえて苦笑いした次第です。今回の経験を通して聴覚で苦労しておられる方々が少なくないことを知りました。
 この「議長室から」の主題は「聽」です。「耳と目と心を一つにし、それを十分に用いて王(=神)の命に従う」というところにあるのです。今回耳鳴りによって人の声がかき消されてしまうことには困惑しました。それは日蝕や月蝕同様に「神の蝕」状態でした。7月18日に聖公会の修養会で「老い」について話す機会がありました。その後半には3人一組での分団の時間がありました。ある分団では3人のうち2人が最近「大動脈解離」から回復されたという貴重な体験をお話しされました。同じ部屋の中でいくつもの分団が同時に話していますのでその語がなかなか聴き取れず、2度確認してようやく分かりました。今まで気づかなかっただけかもしれませんが、私にとっては初めての「耳が遠くなる」体験でした。今「難聽」になることを怖れている自分がいます。母が晩年によく私に「譲治、歳を取るということは大仕事なのよ」と言っていたことを思い起こします。向こう側から届けられる声の響きにこれまで以上に耳を澄ませてゆきたいと念じています。

「教会讃美歌 増補」 解説

㉗創作賛美歌解説7 増補36番「わたしは祈ります」・増補38番「いつもよろこんで」
森康高(日本キリスト教団水元教会)

 私がこの曲を作ったのは2011年でした。当時の私は、芸術大学の作曲科を卒業した事もあり、賛美歌やオルガン曲を夢中で作曲しておりました。私は作詞をすることが苦手でしたので、歌詞は聖書の言葉を引用して作っておりました。そんな中、宗教改革500年を記念して『教会讃美歌増補』を作成するにあたり、オリジナルの賛美歌を募集している事を知り、書き溜めていた作品を送ったのがこの曲です。私は、結婚して家庭を持つことができないので、楽譜を通して、私がこの世に生きていた証を残すことが夢であり、目標でした。それが今回の『教会讃美歌増補』として実現され、両親が生きている間に私の作曲した楽譜を見せ、「生きた証を残すことができました」と報告でき、ささやかな幸せを感じております。私には、大好きな賛美歌があります。それと同じように、この賛美歌が、兄弟姉妹の一人にでも、大好きな賛美歌と言われるような存在になってくれれば、作曲家としてこれ以上嬉しいことはありません。

世界の教会の声

浅野直樹Sr(世界宣教主事 市ヶ谷教会・スオミ教会牧師)

バイデン大統領がオーガスタナ・ヴィクトリア病院を訪問

  アメリカのバイデン大統領が今年7月13日から15日にかけてイスラエルを訪問したことはニュースになりましたが、このときパレスチナ自治区をも訪れたことは日本ではあまり報道されませんでした。ルーテル世界連盟(LWF)によるとバイデン大統領はイスラエルとパレスチナ自治区をそれぞれ1日ずつ訪問して、その貴重な1日にパレスチナにあるひとつの病院へと出向きました。オーガスタナ・ヴィクトリア病院(略してAVH)といって、LWFが運営している病院です。

  バイデン大統領がAVHを訪れたのにはわけがあります。パレスチナ人の医療を中心的に担っているのは東エルサレムにある病院ネットワーク(EJHN)で、AVHもこのネットワークに属しています。2018年、当時のトランプ政権はそれまで継続していたこの医療ネットワークへの支援金2500万ドルを突如打ち切ると発表しました。これを受けてアメリカ福音ルーテル教会(ELCA)のイートン監督は、ポンペイオ国務長官に宛てて書簡を送り、支援を止めないよう要請したといういきさつがあります。
 バイデン大統領は今回の訪問で、複数年にわたり1億ドルを支援するという約束をしました。スピーチのなかで「パレスチナの方々に質の高いサービスと医療を提供しているのを直接目にすることができて光栄に思います。これらの病院はパレスチナの医療を支える屋台骨です」と述べました。

  ELCAのイートン監督は7月18日バイデン大統領に即座に書簡を送り、感謝の意を表しました。「パレスチナの人たちの尊厳を思う大統領の心温まる言葉と具体的な医療支援の表明に私たちも意を強くしています。」「『パレスチナ人とイスラエル人の自由、安全、繁栄と尊厳を計る物差しは等しくあってしかるべき。医療が必要なときに受けられることは、私たちすべてのいのちの尊厳にとって不可欠』とのお言葉に私も全面的に賛同します。」

  AVHは東エルサレムにおける医療の中核として、ヨルダン川西岸とガザ地区に住む500万人の人々の治療にあたっています。がん治療全般、糖尿病、腎臓病などが主な治療領域で、特にがん患者に対する放射線治療をしているのはパレスチナ自治区でここだけです。LWFは過去70年以上にわたりAVHの運営に携わっています。

 

 ※詳細についてはWEBサイトをご参考ください。

エキュメニカルな交わりから

 

⑥URM(都市農村宣教)委員会 秋山仁
(ディアコニアセンター喜望の家・豊中教会 牧師)

 

  URM(都市農村宣教)委員会は、1967年3月に、日本キリスト教協議会(NCCJ)の第20回総会において、UIM(都市産業宣教)委員会として設置されたのが始まりです。
 労働者伝道あるいは職域伝道への取り組みは、各教派によって戦前から行われていましたが、戦後1957年以降、関西労働者伝道委員会(日本キリスト教団)などが活動を始めました。そして、NCCJでも、1964年に「産業社会における一致のあかし」という主題で、都市と産業社会における宣教を主題として、協議会が開かれています。
 産業化・都市化が進む一方で、様々な社会の歪みや問題も浮き彫りになってきました。とりわけ高度経済成長期の日本では、工業化と公害の問題、都市における労働問題、そして農村の解体・縮小・過疎といった問題が焦点化されてきました。それはまた、日本のみならず、東アジア全体でも同様で、60年代から70年代にかけては、軍事政権下における「開発独裁」などの問題が大きく取り上げられてきました。1973年には、東アジアキリスト教協議会で、UIMをURMと改称し、都市や産業社会の問題だけでなく、改めて農村をも含めた現代の課題に取り組み始めます。こうした動きを受けて、1980年にNCCJでも、UIMを現在のNCCJ−URM(都市農村宣教)委員会へと改称して活動を継続してきました。
 さて、URM委員会は、関西を中心として、NCC加盟教会・教団によって、各地域で取り組まれている課題や運動を結んでいく、エキュメニカルなネットワーク的働きです。
 URMで取り組んでいる課題は、実に多岐にわたっています。日雇い労働者や非正規雇用労働者、移住労働者の問題、性的少数者などに対する差別、女性の問題、沖縄の基地問題や成田空港を巡る問題、核問題の廃絶、開発と農村の問題、農漁村の保全と共生社会の実現を目指す働き、等々。
 また、NCCJ−URMは、韓国のNCCK−URMと、韓国の民主化闘争や在韓日系企業の労働問題への取り組みなどを通して、深い連帯関係を築いてきました。1978年には、第1回日韓URM協議会が、「産業社会における現代宣教の課題」を主題にソウルで行われ、この日韓協議会はすでに今年で12回を数えます。日韓両国の社会に共通する課題を共有しています。
 NCCJ−URM委員会の取り組み、それは、個別の課題への取り組みを通して、キリスト教信仰に基づいた社会正義と公正の実現を目指すものです。URMでは、解放の神学や民衆の神学、あるいはフェミニスト神学などの実践に触発されながら、従来の教会の「宣教の歴史」を反省し、これからの教会の宣教の姿を考えています。
 数年に1度、全国協議会を開催し、2021年10月には、第22回目の全国協議会が、「食・農・命」を主題に、共生庵(広島・三次市)を会場に行われました。
 今後の働きにも是非ご注目ください。

日本ルーテル神学校 神学生修養会報告

 

李明生(神学教育委員長・田園調布教会牧師)

 

 日本福音ルーテル教会の神学教育・牧師養成のため、いつも本当に沢山の祈りとお支えを頂いておりますことに心より感謝申し上げます。
 2022年度前期神学生修養会が6月6日(月)・7日(火)にかけて、ルーテル教会について学びを深めることをテーマに行われました。修養会は神学生主体で計画され、河田優チャプレンをはじめ神学校教員の協力によって進められました。神学教育委員は2日目のプログラムにオンラインにて参加しました。
 1日目はJELAの働きについて知ることを中心に、東京・恵比寿のJELAミッションセンターで渡辺薫事務局長よりJELAの紹介や国際的な社会福祉の実践、課題と挑戦についてお話しを伺い、また難民支援のためのシェルター「JELA(ジェラ)ハウス」を見学しました。2日目は神学校を会場に、浅野直樹Sr.世界宣教主事からLWFの働きについて、また宣教師であり神学校の教師でもあるアンドリュー・ウイルソン先生と、サラ・ウイルソン先生から宣教師としての働き、牧会者としての教会への関わりについてお話しいただきました。講義の後にはグループに分かれて2日間を通して考えたことが分かち合われました。7名の神学生がそれぞれに、ルーテル教会の課題について、またこれから牧師となって自分に何が出来るのかを考える貴重な機会となりました。
 どうぞ引き続き、日本ルーテル神学校とそこで学ぶ神学生らを憶えて、また新たな献身者が与えられることを求めて、お祈りください。

オンライン「一日神学校」のご案内

 

今年のルーテル学院「一日神学校」は9月23日(金)午前9時から、オンラインで開催されます。「心と福祉と魂と」をテーマに、YouTubeによる配信プログラム(申込不要)と、Zoomによる懇親会(参加には申込が必要)が行われます。参加費は無料です。皆様のご参加をお待ちしております。
※視聴方法は、所属の教会の牧師にご確認ください。
※当日は祝日により職員の体制が限られている関係で、メールやお電話によるお問合せはお受けできません。また、学校も閉鎖しておりますので、ご来校はお控えいただきますようお願いいたします。

カトリック第16回「シノドス」総会に向けての日本福音ルーテル教会からの応答③

エキュメニズム委員会

2 共通の課題(前号からの続き)
  

 国内においては、各教会がすでにそれぞれ独自に活動しています。また日本キリスト教協議会には、日本福音ルーテル教会は加盟教団として、日本カトリック司教協議会はオブザーバーとして、特に教会内の支援組織とは緊密な協力体制を取りながら課題に向き合ってきた歴史があります。日本の教会はいずれも小さなものですが、小さい群れであるがゆえに、その宣教開始の時から、様々に協力し合って課題を担ってきた歴史もあります。私たちは先人たちの働きを感謝するとともに、その歴史を深く認識したいと考えます。というのは、あえて言えば、日本の教会が「小さい」ということすらも、今後の世界の教会にとって、とても大きな恵みに満ちた先例の一つになるのではないかと思うからです。なぜなら後述しますが、たとえば2014年や2017年のカトリック教会とルーテル教会や聖公会とが合同の礼拝ができたということは、世界の教会史上、画期的な出来事だったと思うからです。「小さな」教会でも、いや「小さな」教会だからこそ、心をこめて協力ができるという一つの事実を世界の教会に示すことができたのです。「小さい」ということは、「大きい」ことより、むしろ神の恵みを豊かにうけることすらありうるのです。それゆえ、小さな日本のキリスト教会は一致して、共通の課題に向き合っていくことが期待されているものと考えます。
 また、私たちがこのような課題に力を合わせる時の共通の認識は、平和の問題の大切さです。ウクライナでの戦争でわかる通り、国家は必ずしもすべての人を親切にすることはできてこなかったという事実です。そして、このことはアウグスティヌスやルターが、「神の国・地の国」という言葉で説こうとした問題の一つです。今日、政治や経済にたずさわる個人の、団体の、そして何より国家の責任は重大です。そして、このことをキリストを信じる教会の問題として捉えるならば、教会がこの社会において一市民として「憐れみの循環」、「連帯の循環」の一部として働きの場があることを意味しています。ルターが、先に引用した『キリスト者の自由』の中で、私が「隣人のために一人のキリストとなる」という時、それはまた「隣人はあなたのための一人のキリスト」となり得るということを意味しています。そこには、上から援助するという視点ではなく、自分自身も援助を必要としているという自己認識があります。憐れみと連帯は私たちのだれもが、人生の中で必要としているのです。
 その意味では、ルターが『キリスト者の自由』で明らかにした、神から私たち人間にプレゼントされた愛と自由についての壮大な弁証法的な総合命題は、今日にもそのまま妥当します。他者との共同体に生きるすべての人に妥当するのです。自由な社会とは、その中で可能な限り多くの人々が自分の能力に応じて力を発揮できる社会です。そのような社会の中で、だれもが人生のリスクに対する幅広い社会保障を必要としています。このようなとき、「可視化された愛」、「構造としての愛」の実現に、私たち教会もまた召されていることを確認する時、シノドスが指し示す共通の使命に対する、まさに共同の責務を私たちの教会も担う幸いを感じます。この働きは社会的貢献が大きいか、小さいかという量的尺度ではかられるものではありません。たとえ社会的に評価されず隠れたものであっても、「隣人のために一人のキリストとなる」、そこに私たちのディアコニアの意味があるからです。私たちに今すぐすべてが出来るわけではないかも知れませんが、キリストを信じる者としての愛の志だけは保ちつづけたいと思っています。
 これまでの共同の歩みが、さらに具体的に深まることを心から期待しています。また、同時に私たちもまた日本カトリック司教協議会のこれまでの取り組みに学び、参与する道が開かれることを願っています。
(以下次号につづく)

カトリック「シノドス第16回通常総会のテーマに関するヒアリング」および「シノドス第16回通常総会にちなむ合同礼拝」が行われました

  

  カトリックでは「世界代表司教会議(シノドス)第16回通常総会」に向けて各国の司教団が提出する報告書に、「ともに歩む教会のため—交わり、参加、そして宣教」というテーマに関して、キリスト教諸教派からの意見を盛り込むため、7月21日(木)東京・麹町(聖イグナチオ)教会で開催されたカトリック司教総会の中で、日本聖公会・日本福音ルーテル教会・日本キリスト教協議会の代表者からの応答のヒアリングが行われました。(日本福音ルーテル教会からの応答内容については、本紙において7月号より分割して掲載中です。)
 また同日18時より司教総会の会場であった聖イグナチオ教会主聖堂にて4者による合同礼拝が、前田万葉カトリック枢機卿の主司式のもと、菊地功カトリック東京大司教、髙橋宏幸日本聖公会東京教区主教、大柴譲治日本福音ルーテル教会議長、吉高叶日本キリスト教協議会議長の共同司式によって行われました。新型コロナウイルス感染症感染防止対策のため、出席者を限定しての合同礼拝とはなりましたが、エキュメニカルなキリスト教会の一致と連帯を確認する貴重な機会となりました。
 なお、このヒアリングならびに合同礼拝については、カトリック中央協議会のインターネットサイトにて動画が公開されています。

 

 ※詳細についてはWEBサイトをご参考ください。

22-08-01「永遠のいのち」と、私は書く

 「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。」
(ヨハネの手紙一4章16節b)

  8月になると、昭和を代表する歌手美空ひばりさんの歌「一本の鉛筆」を思い出します。これは、第1回広島平和音楽祭(1974年)のために作られた歌ですから、反戦への思いの強い歌となっています。ロシアによるウクライナ侵攻が始まった頃に、女優の杏さんが歌い、YouTubeに動画を投稿されました。

「一本の鉛筆」(作詞・松山善三、作曲・佐藤勝)
あなたに聞いてもらいたい
あなたに読んでもらいたい
あなたに歌ってもらいたい
あなたに信じてもらいたい
一本の鉛筆があれば
私はあなたへの愛を書く
一本の鉛筆があれば
戦争はいやだと私は書く
あなたに愛をおくりたい
あなたに夢をおくりたい
あなたに春をおくりたい
あなたに世界をおくりたい
一枚のザラ紙があれば
私は子供が欲しいと書く
一枚のザラ紙があれば
あなたをかえしてと私は書く
一本の鉛筆があれば
八月六日の朝と書く
一本の鉛筆があれば
人間のいのちと私は書く

 父なる神さまは、どんなお方なのでしょう? 「神は愛です」。けれども、父なる神さまのお姿を見た人はいません。父なる神さまは人間にまことの愛を伝えるために、この世にイエスさまをお送りくださいました。
 礼拝のはじめにみ名による祝福、「父と子と聖霊のみ名によって」「アーメン」と唱えます。三つにしてひとりの神、交わりの神です。「神は愛です」、愛は単独であらわし示すことができず、その本質として交わりを有します。
 具体的に言いますと、イエスさまも「アッバ父よ」と祈り、いつも心に父を覚え、父との交わりに生きられました。また、母マリアの胎に聖霊が宿り、イエスさまは誕生し、イエスさまが洗礼を受けられた時にも、聖霊が鳩のように降りました。そして、イエスさまは十字架上で「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」(ルカ23・46)と叫び、父とみ霊との交わりの内に生き続けられました。
 礼拝にも三つの交わりがあります。①父と子と聖霊の神との交わり、②み言葉・ロゴスとの交わり、聖書朗読や説教、讃美歌もみ言葉との交わりです。③聖徒の交わり、これは、礼拝に集う会衆、礼拝に招かれた神の子らの交わりです。礼拝には、この三つの交わりがあり、キリストの体・教会の内に留まり、み言葉の内に留まり、神の愛の内に留まることに、神の子たちの命があります。
 キリスト教は「神は愛です」と、愛や平和を説いています。しかし、世界に目を転じますと、戦争によってウクライナに住む多くの人々が他の国へ避難民として逃れています。他にも、アフガニスタンやミャンマーなど、紛争によって大勢の人々が苦しんでいます。私たちは、世界の悲しみをどのように受け止めたらよいのでしょうか?
 歴史や政治の問題が複雑に絡んでいます。何が正義か? 立場によって正しさは異なり、住民同士の激しい対立や憎しみ、分断の悲しい現実があります。私たちには、手に負える問題ではありません。そうかと言って、傍観者でいることにも、罪を覚えます。無関心ではいられない。けれども、人間の知恵を働かせても、罪の現実に圧倒されるばかりです。では、どうすればよいのでしょうか?
 知恵には、人間の知恵と神の知恵とがあります。そして、神の知恵は、独り子を十字架に架けました。それによって、世界のすべての罪をお赦しになりました。聖書を開いて、神の知恵に耳を傾けます。天に心を向けて、父のみ心を尋ね求めます。イエスさまは何と仰っているでしょうか?
「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイ5・9)、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。」(マタイ5・44b〜45a)、「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」(マタイ26・52b)。
 これらは神の知恵の言葉です。心を開いて、み言葉と交わります。すると、聖霊が働いて、私たちに知恵を授け、悟らせてくださいます。
 神の知恵に、私たちはより頼みます。父なる神に憐れみを乞い求め、子なるキリストに救いを求め、聖霊なる神にみ助けを求めます。私たちは交わりの神の愛の内に守られ、平和へ、命へ、導かれています。十字架のキリストこそ、この地上のザラ紙に「永遠のいのち」と書き記された、神の愛のお姿です。

22-08-01るうてる2022年08月号

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 「永遠のいのち」と、私は書く

日本福音ルーテル聖パウロ教会 牧師 小勝奈保子

「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。」
(ヨハネの手紙一4章16節b)

  8月になると、昭和を代表する歌手美空ひばりさんの歌「一本の鉛筆」を思い出します。これは、第1回広島平和音楽祭(1974年)のために作られた歌ですから、反戦への思いの強い歌となっています。ロシアによるウクライナ侵攻が始まった頃に、女優の杏さんが歌い、YouTubeに動画を投稿されました。

「一本の鉛筆」(作詞・松山善三、作曲・佐藤勝)
あなたに聞いてもらいたい
あなたに読んでもらいたい
あなたに歌ってもらいたい
あなたに信じてもらいたい
一本の鉛筆があれば
私はあなたへの愛を書く
一本の鉛筆があれば
戦争はいやだと私は書く
あなたに愛をおくりたい
あなたに夢をおくりたい
あなたに春をおくりたい
あなたに世界をおくりたい
一枚のザラ紙があれば
私は子供が欲しいと書く
一枚のザラ紙があれば
あなたをかえしてと私は書く
一本の鉛筆があれば
八月六日の朝と書く
一本の鉛筆があれば
人間のいのちと私は書く

 

父なる神さまは、どんなお方なのでしょう? 「神は愛です」。けれども、父なる神さまのお姿を見た人はいません。父なる神さまは人間にまことの愛を伝えるために、この世にイエスさまをお送りくださいました。
 礼拝のはじめにみ名による祝福、「父と子と聖霊のみ名によって」「アーメン」と唱えます。三つにしてひとりの神、交わりの神です。「神は愛です」、愛は単独であらわし示すことができず、その本質として交わりを有します。
 具体的に言いますと、イエスさまも「アッバ父よ」と祈り、いつも心に父を覚え、父との交わりに生きられました。また、母マリアの胎に聖霊が宿り、イエスさまは誕生し、イエスさまが洗礼を受けられた時にも、聖霊が鳩のように降りました。そして、イエスさまは十字架上で「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」(ルカ23・46)と叫び、父とみ霊との交わりの内に生き続けられました。
 礼拝にも三つの交わりがあります。①父と子と聖霊の神との交わり、②み言葉・ロゴスとの交わり、聖書朗読や説教、讃美歌もみ言葉との交わりです。③聖徒の交わり、これは、礼拝に集う会衆、礼拝に招かれた神の子らの交わりです。礼拝には、この三つの交わりがあり、キリストの体・教会の内に留まり、み言葉の内に留まり、神の愛の内に留まることに、神の子たちの命があります。
 キリスト教は「神は愛です」と、愛や平和を説いています。しかし、世界に目を転じますと、戦争によってウクライナに住む多くの人々が他の国へ避難民として逃れています。他にも、アフガニスタンやミャンマーなど、紛争によって大勢の人々が苦しんでいます。私たちは、世界の悲しみをどのように受け止めたらよいのでしょうか?

  

歴史や政治の問題が複雑に絡んでいます。何が正義か? 立場によって正しさは異なり、住民同士の激しい対立や憎しみ、分断の悲しい現実があります。私たちには、手に負える問題ではありません。そうかと言って、傍観者でいることにも、罪を覚えます。無関心ではいられない。けれども、人間の知恵を働かせても、罪の現実に圧倒されるばかりです。では、どうすればよいのでしょうか?
 知恵には、人間の知恵と神の知恵とがあります。そして、神の知恵は、独り子を十字架に架けました。それによって、世界のすべての罪をお赦しになりました。聖書を開いて、神の知恵に耳を傾けます。天に心を向けて、父のみ心を尋ね求めます。イエスさまは何と仰っているでしょうか?
「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイ5・9)、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。」(マタイ5・44b〜45a)、「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」(マタイ26・52b)。
 これらは神の知恵の言葉です。心を開いて、み言葉と交わります。すると、聖霊が働いて、私たちに知恵を授け、悟らせてくださいます。
 神の知恵に、私たちはより頼みます。父なる神に憐れみを乞い求め、子なるキリストに救いを求め、聖霊なる神にみ助けを求めます。私たちは交わりの神の愛の内に守られ、平和へ、命へ、導かれています。十字架のキリストこそ、この地上のザラ紙に「永遠のいのち」と書き記された、神の愛のお姿です。

エッセイ「命のことば」 伊藤早奈

㉙「喜び」

「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ5・12)

  「先生ですか?」えっその施設で若い方に声をかけられた事が少ない私はちょっとびっくりしてキョトンとしていると「○○の娘です。いつもお世話になってます」あー○○さんの。何でわかったんだろう?
 あっあの写真だ。部屋に入ったベッドの横に私と写した写真が貼ってありました。
 〇〇さん私と写真撮って嬉しかったのかなぁ?
 最近私はどこかに集中して手を動かそうとするとあっちこっち自分が思わぬ方向に手が勝手に動いてしまうことがあって物を壊してしまったり、倒してしまうということがあります。
 急に〇〇さんのことを思い出し切なくなりました。
 いつも私が「〇〇さんおはようございます。」と言うと〇〇さんの車椅子を押されている方が「〇〇さん伊藤先生だよ」と伝えて下さると、〇〇さんは顔は笑っておられるのに体をバタバタしはじめられいつもびっくりさせられて、私は自分が声をかけて良かったのかわかりませんでした。
 いろんな感情の表現は決まったかたちでなくてもイエス様はいつもわかって下さるんですね。

議長室から 大柴譲治

「良心」

「そこで、パウロは最高法院の議員たちを見つめて言った。『兄弟たち、わたしは今日に至るまで、あくまでも良心に従って神の前で生きてきました。』」(使徒23・1)

 パウロは「良心」を大切にしていました(使徒23・1、同24・16、2コリント1・12など)。それはギリシャ語で〝συνειδησις〟、英訳は〝conscience〟で「共に知ること/共通認識」という意味。日本語の「良」というニュアンスは含まれていません。しかし「良心」と言うと不思議にストンと私たちの腑に落ちるのです。私たちがルター派だからでしょうか。
 1521年のルターのウォルムス国会での弁明を想起します。「聖書の証言か明白な理由をもって服せしめられないならば、私は、私があげた聖句に服しつづけます。私の良心は神のみことばにとらえられています。・・・良心に反したことをするのは、確実なことでも、得策のことでもないからです。神よ、私を助けたまえ。アーメン。(私はここに立っている。私はほかのことをなしえない)」(徳善義和編『ルター』平凡社1976)。
 私たちはしばしば「良心の呵責」を覚えることがあります。心がうずくのです。内面的な価値観に照らして事柄の可否や善悪を判断しているからです。私の神学校時代の卒論は「告解(ざんげ告白)」。それは四つの部分から成ります。①痛悔(良心の呵責)、②告白、③償罪、④赦免(赦しの宣言)。①が良心の痛みです。私たちが見落としがちなのは③「償罪」の部分。ルターの宗教改革運動の発端は「贖宥状(免罪符)」に関するものでした。それは諸聖人の功徳によって陰府における「償罪」を軽減するための「御札」だった。「牧会者(魂の配慮者)」であったルターは、民衆の魂の救いがないがしろにされることに黙ってはいられませんでした。ただキリストの十字架と復活によって私たちの罪は贖われ、私たちは信仰によって神の前に義とされているのであって他の何も必要なかったのです。
 マハトマ・ガンジーの「非暴力不服従」運動が大きな成功を収めたのはそれが英国人の「良心」に強く訴えたからでした。映画『ガンジー』でも壮絶な場面として描かれていますが、何も持たずまっすぐ自分たちに向かってくる無抵抗な民衆を英国兵は次第に銃撃できなくなってゆきます。若くして英国に留学したガンジーは英国人の良識/良心を信じ、それに訴えるかたちで抵抗運動を展開したのです。相手がAI兵器のように良心を持たないマシンだったらそれは功を奏することはなかったでしょう。8月の平和月間に私たちが「良心」について考えることは意味あることと思います。私たち一人ひとりが神と人の前で自らの良心に従って生きることができますように祈ります。地上に平和が来ますように。
s.d.g.

「教会讃美歌 増補」 解説

㉖創作賛美歌解説6増補31番「今 み前に」
永井幸恵(広島教会)

 ルーテルの礼拝式文にはたくさんの歌が集まっていて、とても心地いいです。まだ小さかった子どもたちにもこの礼拝を通して、神様のこと、聖書のこと、キリスト教のことなどいろいろなことを吸収してほしいと願い、足繁く礼拝に通いました。平日はいつも仕事などでバタバタと過ごしていて、週に1回、家族で参加する礼拝がホッとするひととき。聖餐の部では、前へ進み出て配餐が行われます。子どもたちはまだ受洗していませんでしたが、祝福の祈りを受けるため一緒に前に出ていました。子どもたちは、聖餐式のひとつひとつに興味津々、特に「パンとぶどう酒」に関心があったようです。このパンはなあに?この赤いのはなあに?どうしてこんなことをするの?と。礼拝中でしたけれど、一言ずつ牧師先生が子どもたちの問いかけに丁寧にお答えしてくださいました。それが歌詞の内容になっています。それは子どもたちの心に確かに届いたのだと思います。神様の時を経て、子どもたちは受洗しました。共に聖餐に与る幸せを心から主に感謝しています。

世界の教会の声

浅野直樹Sr(世界宣教主事 市ヶ谷教会・スオミ教会牧師)

暴力と分裂に疼く 世界をひとつに

 6月9日から14日にかけて年一度のLWF理事会がジュネーブで開催されました。テーマはコロサイ書1章9〜20節から「すべてはキリストに支えられ(In Christ all things hold together)」。パンデミック以後最初の対面形式での会議となりました。
 開催に先だって恒例として他教派からの挨拶があり、カトリック、メソジスト、ペンテコステ、改革派、東方正教会の代表者が冒頭で祝辞を述べました。彼らが共通して呼びかけたのは、分裂と暴力、利己主義に疼く世界に向けて、キリスト教会が信頼できる証人となるべきであり、そのために神学的な相互理解を一層深め、実のある協力関係を築くことが急務であるというメッセージでした。
 改革派を代表してハンス・レッシング氏は、ロシアのウクライナ侵攻への対応に触れつつ、正義と平和の問題に関してLWFとの協力関係の重要性を指摘しました。テーマのコロサイ書の聖句に触れてこう述べました。「多くの事柄が崩れかけている今、たとえ甚だしい矛盾とおぞましい敵意がはびこっていても、すべてをひとつに保ち支えてくれるところに注目することを今回の理事会は目指しています。そこは目に見えず我々の理解を超えているけれど、すべてを支えるお方がいるところです。すでに手元にあるこの神の賜物を私たちがさらに理解を深めて実生活でも受けとっていくようにと、この聖句は呼びかけています。」
 ペンテコステ教会の代表者ジーン・ダニエル・プルス氏は、2016年に2教会間で初の公式対話が実現したのは、過去20年にわたるLWFのエキュメニズムへの並々ならぬ決意の賜物であり、両教会の対話の最終文書が来たる2023年のポーランドでの総会には間に合うであろうこと、そしてこれが両教会にとって地域レベルでのつながりの具体的な成果になると述べました。プルス氏はまた対話の継続を呼びかけるとともに、今年10月にソウルでおこなわれるペンテコステ教会世界協議会にLWFを招待しました。「異なる実践と信仰に立ちつつも聖霊の力によって互いを理解し、価値を見いだし、生産的な関係を築くことが可能だ」と述べました。
 カトリック代表アウグスティヌス・サンダー氏は3年後に迫るニケア公会議1700年記念について触れました。「全キリスト者に馴染み深いニケア信条によって、声は違っていても同じ讃美歌で神をたたえることで、私たちはひとつにされています。2025年のニケア公会議記念大会が、『争いから交わりへ』の旅路を辿る両教会にとって有意義な憩いの時と場所となり、そこから霊的な集中へと共に向かっていけることを願っています。私たちは時に急ごうとしますが、短距離走者ではなく長距離走者ですから、焦らず一息つきながらゴールを目指しましょう。」
 メソジスト教会のイヴァン・アブラムス氏は、世界各地の紛争、殊にウクライナへの軍事侵攻の最中にLWF理事会が開催されたことに触れ、次のように述べました。「ポストコロナの今、健康管理の脆さが世界的に目立っており、不平等が増大していると実感しています。キリストの直弟子として、エキュメニカルなパートナーと共に希望と癒やしの運び役となり、公正で持続可能な未来を私たちは目指す心づもりです。」
 WCC(世界教会協議会)を代表して事務局長のルーマニア正教会イオアン・サウカ氏もロシアのウクライナ侵攻に言及しつつ、数百万人に苦しみと死、絶望をもたらしている世界のあらゆる不正、差別、抑圧について語りました。ウクライナ戦争を支援するロシア正教会を排除するのかどうかについてサウカ氏は、「WCCは集いと議論のためのプラットフォームとして、平和と和解を目指すために対話の場を提供しています。しかしながら政治と宗教の指導者が、主権国家に対して武装侵攻するために宗教の言葉を利用することには強く反対します。平和構築には保護と忍耐、傾聴と尊敬、そして調停と平和を育むための環境が必要です。」

 

 ※詳細についてはWEBサイトをご参考ください。

エキュメニカルな交わりから

 

⑤NCC女性委員会 安田やまと(都南教会)

 

 NCC女性委員会は毎月第2水曜日に定例委員会を開催している。
 昨年からはコロナの影響でZoomで開催しているが、Zoomの良い点としては地方の女性委員も出席できるという点である。定例会の中では各教派、団体からの活動報告がなされ、情報や課題、祈り合うことなど様々なことを共有している。
 女性委員会の大事な働きの一つには世界祈祷日の開催及び式文の作成、祈りの対象国などへの献金送金がある。今年の世界祈祷日関連の報告として以下の2点を報告する。
・2023年世界祈祷日式文(作成国・台湾)の編集作業が3月末より開始されている。
・2022年世界祈祷日献金額は、6879879円(2022年6月末日現在)。
 特に献金に関してはコロナの影響で大きな集会が開催できずにいる中でも、世界祈祷日を覚えて送ってくださる方々に心より感謝。

 それ以外の今後の具体的な活動計画としては以下のことを予定している。

・女性委員会内研修会開催
 8月24日(水)10時30分~15時30分、会場・キリスト教会館日本キリスト教団4階会議室
 テーマ「教会女性の歩みとこれから」(仮題)。
・フォーラム「女性の視点で聖書を読む」
 形式・対面/Zoom
 日程・2023年2月
・第11回日・在日・韓国NCC女性委員会連帯交流会議(2023年秋)開催に向けて準備に入る。
・WCCワークショップ企画委員会へ参加。
などである。

 13の異なる団体で構成されている女性委員会では教派が違うからこそ意見を交換し合い、話し合い、それによって社会の中で追いやられてしまう弱者(女性や子ども達)の声に少しでも耳を傾けていけることができることを願い祈っている。

社会委員会リレーコラム 「本・出会い・教会」③

内藤文子(小岩教会牧師)

  その船は今、東京夢の島公園にありました。ビキニ環礁で被爆した「第五福竜丸」です。静岡県の焼津にいたころ3月1日に参加したビキニデーで久保山愛吉さんのお墓で祈りつつ、68年前に被爆した第五福竜丸は、今平和を願う人たちの協力で東京に展示されていると聞きました。
 第五福竜丸の被爆は、戦後、1954年3月1日。米国の水爆実験(一発で何千万人も殺せる爆弾)によるもの。無線長だった久保山愛吉さんは9月に亡くなりました。紹介する絵本は、草の根の平和運動から作られた絵本。久保山さんが家族に残した手紙が紹介されています。妻すずさんと3人の娘さんに愛情あふれる言葉が綴られています。驚くことにたくさんの手紙を書くと共に、体の痛みに耐えつつ、娘さんにセーターを編んでおられたことです。
 この久保山さんの死は日本と世界に衝撃を与え「原水爆禁止」運動が広がりました。
 愛吉さんが植え、すずさんが育ててきたばらの苗木も平和の祈りを込めて広がっています。妻のすずさんは93年の2月に亡くなられました。
 第五福竜丸は、その後漁に出ることは無く、忘れられ、ぼろぼろになってごみ捨て場にありましたが、ある人々の手で掃除され、一部修復され、平和を願い、「都立第五福竜丸展示館」に安置されたのです(1976年)。
 私も、会えました!「新木場駅」から徒歩10分。時が経ち、かなり傷みが激しいですが、被爆し傷ついたその姿で、来館した人々を迎え、核のない安心して暮らせる世界への願いを大きな船体で訴えています。
 今回のウクライナ侵攻に関して、「核共有」など恐ろしい話が持ち出されます。人類の最大の問題は、核兵器ではないでしょうか。主イエスの示される平和を希求し、過去の出来事から学びたいと思います。

カトリック第16回「シノドス」総会に向けての日本福音ルーテル教会からの応答②

エキュメニズム委員会

2 共通の課題

 シノドスの問う問いを吟味する時、共通の課題があることを共有しなくてはならないと感じています。

⑴まず第一に考えたいことは、神を信じること、つまり「信仰」の問題です。

 ルターが聖書を重んじ、民衆のためにドイツ語に翻訳した動機もそこにありました。聖書に書かれていること、つまり一人一人が神の恵みを受けとめ、それをイエス・キリストへの信仰へと集中することができるようになるためでした。ルターが著わし、教会員が今も大切に学んでいる『小教理問答』もただ文言を暗記するだけでなく、ともに信仰に裏打ちされた生き方ができるように教育することを目的に書かれました。
 その視点から言えば、私たちは共通の課題としての「信仰」の問題について、共に更に深めることが求められています。先のルターの言葉を借りれば「人々と話したり、かかわりをもつ」ということです。シノドスも「共同の礼拝は、わたし(たち)自身と生活を生かしているか」と問うています。
 私たちは1998年に『カトリックとプロテスタント どこが同じでどこが違うか』を共同で出版しました。しかしもう一歩進めて、私たちは同じキリストを告白するものであると大胆に語る時が来ているのではないかと考えます。特に、日本において「キリスト教」という大きな括りにありながらも、この「同じものである」というメッセージをいまひとつ明確にすることが足りませんでした。
 同時に、信仰者一人一人が、より平易に福音の恵みを語り、確かな信仰告白に至ること、そしてそれにふさわしく生きることを祈り求めなくてはなりません。日本福音ルーテル教会は新しい宣教方策を「魂の配慮(Seelsorge)」という言葉を重要なキーワードとして組み立てました。信仰を一方的に知識として語ってきたのではないかという反省があるのです。信仰者との信仰の対話の回復の必要性は、「教会内における対話」について触れているシノドスの目指す指針とも一致するものと考えます。この点では、信仰者の教育はもちろん、教職者の共同の研修に相互に参加することも、大きな刺激を得ることができるのではないかと考えます。
 またキリスト者どうしのあり方だけでなく(エキュメニズムの課題だけでなく)、他宗教や無宗教の人々との対話も、ますます大事なことになるのではないでしょうか。なぜなら日本の地に確かに教会はありますが、多くの日本の人々が他宗教や無宗教だからです。この指摘は、多くの日本の人々を責めるために言っているのではありません。むしろ逆です。神がお与え下さった日本のこの豊かで美しい自然や、またその中ではぐくまれてきた(たとえ他宗教であっても)豊かで深い宗教的伝統に、私たちもまた深い尊敬をもって「共に歩む」必要があるからです。更に無宗教の人々の問題も、決して日本だけのことでなく、先進諸国に広く見られる傾向です。ですから、彼らがなぜ無宗教であるのかを、私たちもまた「共に歩む」者として、彼らの心や生き方にある時は寄り添いつつ、共に苦しみ考えていく必要があるのではないでしょうか。

⑵次に上げられる共通の課題は、社会にある隣人への取り組みです。

 この点では、私たちに与えられている共通の課題はあまりにも大きく、深く、困難であることを痛感せざるを得ません。グローバルな世界の中に教会が存在していることを、私たちは相互に認識しています。環境・温暖化や原発の問題、戦争・平和・難民の問題、また疫病や生命倫理やジェンダーの問題、更には電子情報技術に代表される近代科学技術の光と影等々、私たちは共通の課題として取り上げることができます。また、このような課題が国内、国外にあることを私たちは知っています。(注2)

(注2)ルーテル世界連盟(LWF)は、近年、以下のような宣教的課題を挙げている。
⑴信仰と教会の在り方に関する事柄として/教会・信仰共同体の公共空間への参与についての神学的基礎づけ、信仰共同体内における違いと対立についての理解と取り組み、教会の宣言・ディアコニア・アドヴォカシーなどの働きへの支援、教会員数の成長と減少の双方への対応、ジェンダージャスティスへの取り組み、社会と教会への青年の参加の保証、一致と協働の証しのためのエキュメニカル・パートナーとの連携、宗教間対話への取り組み、
⑵人々の尊厳、正義と平和を促進するための事柄として/緊急的な危機にある人々への支援、人々の尊厳と権利が守られるための持続可能な開発への支援、ディアコニアの働きへ継続的に取り組むための支援、人々の尊厳・正義と平和の問題に取り組むためのエキュメニカル・パートナーならびに他宗教との協働、気候変動への取り組み、周縁化された人々の人権を守るための取り組み、など。

参考:With Passion for the Church and for the World – LWF Strategy 2019-2024, The Lutheran World Federation, 2018.
(以下次号につづく)

第28期第19回常議員会報告

事務局長 滝田浩之

 6月13日(月)に開催された定例常議員会についてご報告いたします。
(1)方策実行委員会の設置の件
 「第7次綜合宣教方策」の常議員会による仮承認を受けて、方策内でも確認されている「方策実行委員会」の設置が承認されました。
 常議員会では、この委員会の性格について議論が行われました。
 宣教は個々の教会の使命であること、また個々の教会の課題については、これまで通り「教区」を主体として取り組むことを改めて確認した上で、これを実際に進めていく上で日本福音ルーテル教会憲法・規則に照らして「原則」を確認していく作業、また状況に応じた規則変更の必要があれば、これに対応することを委員会の主たる任務とすることが確認されました。つまり個々の教会の宣教のあり方を、上から青写真を提示した上で落とし込んでいくというような旗振り役ではなく、あくまでも教職者の減少に伴い、個々の教会で発生するであろう課題、教区として全体の中で調整すべき課題を共有しつつ、この解決のために必要な対応をこの委員会で取っていくこととなります。つまり現実に起こってくる宣教のフロントである個々の教会の課題、そして教区の課題解決のため、これを共に担い解決に必要な手続きを整備していくことが委員会の目的となります。スムーズに規則にこれを反映させる必要も鑑み、方策実行中は、この委員会が憲法規則改正委員会も兼ねていくこととしました。
 とはいえ、方策全体の中で方策実行委員会が主体的に対応すべき課題があることも事実です。大きな課題は教職の働き方です。改めて現状に起きている様々な課題に対応していく必要があります。またディアコニアの教会として成長していくための指針作りなども方策実行委員会として取り組む課題となっていくものだと考えています。
(2)典礼委員会の設置の件
 式文委員会による主日礼拝の式文の提案、讃美歌委員会による「教会讃美歌増補分冊1」の出版を受けて、典礼委員会の設置が提案され承認されました。
 これは現行の「教会讃美歌」の増刷が、今後、出版業界のデジタル化に伴い難しくなる方向がはっきりとしており、「教会讃美歌」をどのような形で継続的に出版していくかについての大きな方針を検討する必要に対応するものです。典礼委員会から常議員会に方針を提案頂き、それに沿った形で作業部会(式文部会・讃美歌部会)を設置し、実務を委嘱していくことになります。皆様にアンケート等でご意見を頂くこともあるものと思います。その際はご協力をよろしくお願い申し上げます。
(3)総会延期に伴う、諸委員会の調整の件
 総会の延期に伴い、総会選出の常置委員会の欠員等への対応、また常設委員会、諸委員会のメンバーの確定をいたしました。委嘱された方々には委嘱状を送付しているところです。総会延期に伴い、常議員会同様、長く任務をお願いしている方々に感謝するとともに、あと1年、総会開催まで引き続きお働きをお願い申し上げます。
 その他の事柄については、送付しております議事録にてご確認頂けますと幸いです。

22-07-01「わたしの隣人」

 彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。
ルカによる福音書10章27〜29節

 律法の専門家がイエスを試そうとして、「何をしたら永遠の生命が受けられるか」との問いかけをしますが、イエスから「律法にはなんと書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と聞き返されました。彼は間髪入れずに応えたようですが、「隣人とは誰か?」と、確かめようとする姿があります。同一民族で考えれば良いのか、律法学者仲間だけで考えれば良いのか。はたまた、ユダヤ教を信仰に持つ者で考えれば良いのか。
 私が初任地、シオン教会防府チャペル牧師館に住んでいた時、時折「〇〇に行こうとしていたが、途中でお金が尽きたので少し恵んで欲しい」「組の者から追われて広島から逃げてきた。大分の親類を頼りたいので、お金を出して欲しい」と相談に来る方がいました。とりあえず話を聞くのですが、現金を渡すのはどうかと考え、教会集会室で食事の提供をすることもあります。「大分に行きたい」と言った方には、「明日の朝、私の車で送りますよ。」と応えると、「大丈夫です、どうにかします」と言われ、すぐに敷地から走り去ってしまいました。そんな中、路上生活の方が訪ねてこられ、おにぎりを手渡す機会があったのですが、この方をきっかけに数日後に日本バプテスト連盟と日本基督教団の牧師、カトリック教会の神父の4名で路上生活の方々への支援活動が始まりました。この活動をきっかけに、同じ主に導かれ、キリストが示された愛を実現することにおいて、「困難を抱えている人、救いを求めている人がいるときに、教派的な相違は乗り越えられる」ことを確認しました。
 イエスは「隣人とは誰か?」を理解しやすいように、「善きサマリア人」の傷ついた人への対応の話をします。祭司は神殿に仕えていました。レビ人も祭司職に属し、一般の人々に律法を教える役割を果たしていました。この2人は、どちらも律法に精通し、ユダヤ民族としての誇りを強く持っていたことでしょう。しかし、彼らは「その人を見ると、道の向こう側を通っていった」のです。倒れた人に近寄って介抱したのはサマリア人。純潔、純粋民族を誇りとするユダヤ人によって、同じユダヤ人でありながら、異邦人の血が混じっているという理由で、蔑まれ、敵視されていた人々です。
 3人の行動は、「向こう側を通って行った」存在と、「近寄って」きた存在になりますが、傷ついた人に対し「向こう側」にあるのは、能動的な生き方であり、自分の言動は正しいと自信を持っている人でしょう。「近寄ってきた」サマリア人は、ユダヤ人でありながら蔑視され、傷つき苦しみを持って生きて来た人であり、自分自身を愛するようにではなく、自分が愛されたようにとの受動的な生き方をしたと考えられます。サマリア人とはアッシリアに連れられたイスラエル人の子孫であり、植民移住により強制的に混血を強いられたともいえます。その苦しみを通し、傷ついた人の痛みや辛さを知っており、自分の弱さを知るが故に、近寄る行動をとれたのです。
 シオン教会で最初の頃の私は、訪ねてこられる方への対応が、祭司やレビ人と同じ、「自分を愛するように」しか出来ていませんでした。何処かで自分の痛みとして捉えることへの恐れを抱いていたのだと思います。自分自身が傷ついてきたとき、慰められたにも関わらず、何か消化出来ていない部分が存在しました。そのような私に、路上生活をしていた方がきっかけを与えてくれたのです。私が近づいたのでなく、彼が私に近寄ってくださったのです。その瞬間、「支援しなければ」という驕った考えから、「支援させていただきます」の気持ちを大事にしたいと、変えられました。そして常に気をつけたいと思うのです。自分を正当化するのでなく、「自分のように、自分が神さまから愛されているように、私の隣人を愛するように。」

レンブラント作「善きサマリア人」(1630年作)ロンドン・ウォレス・コレクション所蔵

22-07-01るうてる2022年07月号

機関紙PDF

 「わたしの隣人」

日本福音ルーテル挙母教会・刈谷教会 牧師 室原康志

彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。
ルカによる福音書10章27〜29節

  律法の専門家がイエスを試そうとして、「何をしたら永遠の生命が受けられるか」との問いかけをしますが、イエスから「律法にはなんと書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と聞き返されました。彼は間髪入れずに応えたようですが、「隣人とは誰か?」と、確かめようとする姿があります。同一民族で考えれば良いのか、律法学者仲間だけで考えれば良いのか。はたまた、ユダヤ教を信仰に持つ者で考えれば良いのか。
 私が初任地、シオン教会防府チャペル牧師館に住んでいた時、時折「〇〇に行こうとしていたが、途中でお金が尽きたので少し恵んで欲しい」「組の者から追われて広島から逃げてきた。大分の親類を頼りたいので、お金を出して欲しい」と相談に来る方がいました。とりあえず話を聞くのですが、現金を渡すのはどうかと考え、教会集会室で食事の提供をすることもあります。「大分に行きたい」と言った方には、「明日の朝、私の車で送りますよ。」と応えると、「大丈夫です、どうにかします」と言われ、すぐに敷地から走り去ってしまいました。そんな中、路上生活の方が訪ねてこられ、おにぎりを手渡す機会があったのですが、この方をきっかけに数日後に日本バプテスト連盟と日本基督教団の牧師、カトリック教会の神父の4名で路上生活の方々への支援活動が始まりました。この活動をきっかけに、同じ主に導かれ、キリストが示された愛を実現することにおいて、「困難を抱えている人、救いを求めている人がいるときに、教派的な相違は乗り越えられる」ことを確認しました。

  イエスは「隣人とは誰か?」を理解しやすいように、「善きサマリア人」の傷ついた人への対応の話をします。祭司は神殿に仕えていました。レビ人も祭司職に属し、一般の人々に律法を教える役割を果たしていました。この2人は、どちらも律法に精通し、ユダヤ民族としての誇りを強く持っていたことでしょう。しかし、彼らは「その人を見ると、道の向こう側を通っていった」のです。倒れた人に近寄って介抱したのはサマリア人。純潔、純粋民族を誇りとするユダヤ人によって、同じユダヤ人でありながら、異邦人の血が混じっているという理由で、蔑まれ、敵視されていた人々です。

  3人の行動は、「向こう側を通って行った」存在と、「近寄って」きた存在になりますが、傷ついた人に対し「向こう側」にあるのは、能動的な生き方であり、自分の言動は正しいと自信を持っている人でしょう。「近寄ってきた」サマリア人は、ユダヤ人でありながら蔑視され、傷つき苦しみを持って生きて来た人であり、自分自身を愛するようにではなく、自分が愛されたようにとの受動的な生き方をしたと考えられます。サマリア人とはアッシリアに連れられたイスラエル人の子孫であり、植民移住により強制的に混血を強いられたともいえます。その苦しみを通し、傷ついた人の痛みや辛さを知っており、自分の弱さを知るが故に、近寄る行動をとれたのです。

  シオン教会で最初の頃の私は、訪ねてこられる方への対応が、祭司やレビ人と同じ、「自分を愛するように」しか出来ていませんでした。何処かで自分の痛みとして捉えることへの恐れを抱いていたのだと思います。自分自身が傷ついてきたとき、慰められたにも関わらず、何か消化出来ていない部分が存在しました。そのような私に、路上生活をしていた方がきっかけを与えてくれたのです。私が近づいたのでなく、彼が私に近寄ってくださったのです。その瞬間、「支援しなければ」という驕った考えから、「支援させていただきます」の気持ちを大事にしたいと、変えられました。そして常に気をつけたいと思うのです。自分を正当化するのでなく、「自分のように、自分が神さまから愛されているように、私の隣人を愛するように。」

エッセイ「命のことば」 伊藤早奈

㉘「一人ではない」

「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」
(1コリント10・13)

 「検査の結果は何の病気でしたか?」そう聞いた私に〇〇だったわ。とその方は平気に答えられました。えっ大変な病気なのに。その方は今回わかった病気の前に違う病気を長年患っておられました。私と同じ様な経験をされておられるんだと思った時、私にとって、もうその方はとても身近に思えました。私も昔病気がわかった時はとても苦しみましたが最近患った一般的には大病と言われる病気の診断を受けた時はそんなに苦しみませんでした。もう一人そのような人がいました。二つの病気を比べたわけではありません。一つ目の病気を乗り越えられたか乗り越えようとしているのかもしれません。
 ある人は「初めの病気を診断された時の方がショックだった。」と言われました。私もショックの中イエス様が共におられたから乗り越えられそうだと思います。私の表現を使えば「イエス様が共におられるから」と言えますが他の方の表現では色々な言葉で表現されるでしょう。
 病気の種類の比較ではなく、一人一人の経験です。一つ一つの経験という出会いの中でも必ずイエス様は共におられます。あなたは決して一人ではありません。

議長室から 大柴譲治

「小川修パウロ書簡講義録」(全10巻、リトン)完結

 同僚たちと関わってきた仕事が一つ、4月に終わりました。神学校での恩師・小川修先生(1940〜2011)が同志社大学で行ったパウロ書簡講義録を録音から起こす作業が完結したのです。11年がかかりました。走馬灯のように思い出が去来します。ガンで召された先生の納骨を小平霊園で行う最中、あの東日本大震災が起こります。ご遺族の許可を得て那須のご自宅に資料発掘に行きました。全体を10巻に分け、ご遺族の援助の下で出版が始まります。4人で始めた作業は結局7人のコラボレーションになり、各巻の巻末には関係者から貴重な文章が寄せられました。出版はローマ書3巻、コリント書3巻、論文集2巻、ガラテヤ書2巻という順でしたが、最初から最後までリトンの大石昌孝さんにはお世話になりました。
 この10巻には小川先生が50年をかけて読み解いてきたパウロの「ピスティス」理解が息づいています。天地が揺れ動こうとも決して揺らがないもの、それが「神の〈まこと(ピスティス)〉」。「ピスティス」というギリシャ語は通常「信仰」と訳されますが、先生はそれを〈まこと〉と訳し、「第一義の〈まこと〉」と「第二義の〈まこと〉」を峻別するのです。神がご自身の〈まこと(ピスティス)〉をもって私たち人間に呼びかけ、私たちは自らの〈まこと(ピスティス)〉をもって神に応答する。イニシアティブは常に神の側にある。それは滝沢克己氏の「インマヌエル」とも響き合っています。パウロはローマ1・17で「ピスティスからピスティスへ」と書きますが、先生は最初のピスティスを神のもの、第二のそれを人間のものと読み解く。新共同訳聖書では曖昧だったのが聖書協会共同訳では明確になりました。「神の義が、福音の内に、真実により信仰へと啓示されているからです」。

 1980年にルーテル神大(当時)に編入した私は先生の「宗教哲学」の講義に出会います。最初の2年はバルトの『ローマ書』、私には難しいものでした。82年の講義「現代日本のイエス・キリスト研究の検討」に目が開かれます。それはブルトマンの『イエス』、八木誠一の『イエス』、荒井献の『イエスとその時代』、田川建三の『イエスという男』、滝沢克己の『聖書のイエスと現代の思惟』を比較検討する意欲的な講義でした。聖書は読む者の心を映し出す鏡であることを悟ることになったのです。同時に「説教者」として私は、自己の思い込みを聖書に投影するのではなく聖書自体に語らしめることが肝要と知りました。「僕は間違っているかもしれませんよ。君たちは自分で聖書に当たってください」と繰り返された先生の声が私の耳に今でも残っています。

「教会讃美歌 増補」 解説

㉕創作賛美歌解説5 増補29番「主にある友よ」
日笠山太吉(博多教会)

 「ひととき、お怒りになっても/命を得させることを御旨としてくださる。/泣きながら夜を過ごす人にも/喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。」(詩編30・6)この詩人の感謝に、私は深い祈りを重ねます。急ぎ足でやって来る老いの歩みの中で、生かされている感謝と共に、自らの反省・悔いがあります。それは、若い時しっかりと聖書と向き合うべきだったということです。若い方々よ!スポーツも音楽も旅行も恋も良し。青春を謳歌しながらも「人生の灯台」・聖書を座右の銘とされることを祈ります。春夏秋冬、花咲く時、嵐の日、雪の夕べが人生の旅路。こんな節目で声をかけ励ましてくれるのが、家族・教会の主にある友です。少年易老学難成です。
 礼拝で牧師が語るみ言葉に耳を傾け、青年会やキャンプ等、教会にあなた方の声を響かせてください。そして願わくば、ルーテル学院大学・日本ルーテル神学校をノックしてみてください。きっと手応えある応答があります。
 若い方々への希望と祈りを重ねた拙詩に萩森英明氏が心優しい曲を、日田教会の秋山菜穂さんがイラスト、お母さんの真由美さんがちぎり絵でイメージしてくださり感謝です。

増補40番「ひざまずけば」
西川知世(日本ルーテル教団東京ルーテルセンター教会)

 

 ある日、教会讃美歌委員の安藤政泰先生に呼ばれ、小さな譜面を教会で渡されました。教会讃美歌の増補に子どもの洗礼式の賛美歌を加えたいと熱心に話され、私が持ち帰ったのがこの作品の生まれるきっかけです。私は子どもを持ちませんので、子ども賛美歌を作詞することに躊躇と不安がありましたが、教会で子どもたちの洗礼式にたびたび立ち会いともに祈る機会を与えられていました。また、譜面も読めない者ですので不安でしたが、立ち会った子どもたちの洗礼式の様子を思い浮かべ、洗礼盤の前に立つ一人一人の子どもたちの真剣な背中に深い感銘を受けたことが拠り所となりました。洗礼式の子どもたちと、その場に立ち会う大人たちの祈りを籠めることが出来ればと願いました。安藤先生、西川亜季さんのお力でこの作品が出来上がりました。携わられた多くの皆様の力で生まれた歌と感謝します。

世界の教会の声

浅野直樹Sr(世界宣教主事 市ヶ谷教会・スオミ教会牧師)

「命の木の下に」 ~他宗教との集い~

 去る5月16日、「命の木に集う」をテーマにルター派とユダヤ教の神学者によるLWF主催のウェビナーが行われました。「命の木」とは、創世記2章に出てくる善悪の知識の木といっしょに神が創造したもう1本の木です。
 LWFは1947年の創立当初からユダヤ教社会との対話を続けていますが、これはマルティン・ルターが反ユダヤ的な文書を書いたという経緯があるからです。新型コロナウイルスの世界的大流行を契機に、欧米社会では反ユダヤ主義的な陰謀論が広がりました。ウェビナーで交わされたユダヤ教とルター派それぞれからのコメントをいくつか紹介します。ウェビナー出席者は、ルター派からはLWFや神学校、大学の教師たち、ユダヤ教側はラビや神学校教師たちです。
「ヨーロッパやアメリカでは難民や移民が増えたことでいろんな宗教が社会で存在感をもつようになり、いかに平和を保ちつつ共存するかはかつてないほど喫緊の課題となっています。反ユダヤ、反イスラム、反キリスト教主義の主張は、ときに暴力までをも正当化してしまいますが、それに対抗する手立ては謙遜、そして正直な態度でお互いの声を聞き話しあうことです。」(LWF神学・宣教・正義部門長、エバ・クリスチナ・ニルソン)
「異なる宗教間で誠実に向き合う際に必要な三つの原則があります。⑴他者自身が自らを定義すること。⑵自分たちの伝統の中の最良だと思うものを他者の良くない点と比較しないこと。⑶相手の中にうらやましいと思うことを見いだすこと、です。」(エバ・クリスチナ・ニルソン)
「米国ワシントン州にいた10代の頃、ルター派の友人との交流があり、友情、善意、尊敬を分かち合うことができました。双方の両親が、開かれた心をもって相手をもっと知ることを教えてくれたからそうできたのです。」(カナダのラビ、ジョセフ・カノフスキー)
「各宗教の指導者にお願いします。命の木の下に人々を集めてください。憎しみと争いに満ちた時代だからこそ、ここに集って尊敬と友愛の大切さを教え、希望を描いてください。そうした働きをするリーダーを育てることが最大の課題です。」(ラビ、タマル・エラド=アップルバウム)
 タマル氏は、彼女自身がユダヤ教社会で育ったためにキリスト者とのかかわりがまったくなかったことに触れて、次のようにもコメントしています。「ラビとしての最重要の務めは、公的な子育て(public parenting)のモデルを新たに作り、憎悪と分裂の歴史に終止符を打てるよう人々を導くこと。私たちが命の木をお世話する園丁の役目をはたすことです。」
「ルター派的な考え方や説教には反ユダヤ的な神学が根深くあり、このことは現代でも神学的な課題となっています。ただその一方で、教会内では反省や自己批判も高まっていて、地方の教会でもユダヤ教徒、キリスト者、イスラム教徒、仏教徒らが集まって、反ユダヤ主義をはじめ人種差別や宗教差別と戦っています」。(ルンド大学、ヤコブ・ウィレン)
「過去数十年、ユダヤ教徒とキリスト教徒の対話はめざましく進展しましたが、大学や神学校のカリキュラムのさらなる充実を期待したいです。多くのユダヤ人はルターのことを著作で知っている程度です。今日まで積み上げられてきた友好関係には気づいていません。ユダヤ教側からキリスト者のことをもっと知ろうとするべきです。またキリスト教側からも、たとえばファリサイ派などの指導者を否定的に見ていることに気づいてほしいです」。(ラビ、ダビド・サンドメル)
「ルター派信徒はこれまでの学びから、反ユダヤ主義の根深さと複雑さに衝撃を受けてきました。過去を見直し、もう一度神学を練り直して関係改善をすること、そこからしっかりした信頼できるネットワークをつくることが必要です。」(シカゴルーテル神学校、エスター・メン)
「宗教間対話と関係作りを国際レベルで行うだけでなく、世代間でも起こしていくべきです。相手を敬い相手から学ぶことを親から子へ家庭で教えてほしいです。対話することこそ未来へ向けての希望の種を蒔けるのです」。(ラビ、ジョシュ・スタンドン)

 

 ※詳細についてはWEBサイトをご参考ください。

エキュメニカルな交わりから

 

④NCC青年委員会 安田真由子(都南教会)・高村敏浩(三鷹教会・羽村教会牧師)

 

 日本キリスト教協議会(NCC)の青年委員会には、現在安田真由子(都南教会)と高村敏浩(三鷹教会・羽村教会牧師)が委員として関わっています。
 NCC青年委員会は自分たちを「青年の事についてあれこれいろいろ考えて、やれる事を共に色々やってみようとしている繋がり」と定義し活動しています。現在活動を担っているのは、日本聖公会、日本基督教団、日本バプテスト連盟、ウェスレー財団、そして私たち日本福音ルーテル教会からの委員であり、信徒と牧師がほぼ半々の割合の構成となっています。以前は、年に2・3度の頻度で何かしらのテーマのもとで集まり、食事と交流を伴う「エキュメニカルユースの集い」を行っていました。しかし、コロナ禍の現在は、それぞれの教派でどのような活動を行っているのかなどといった情報交換や、コロナ禍での苦労や課題を分かち合ったりして、繋がりのヒントを提供するオンラインでのイベントが中心となっています。
 オンラインでの授業などに疲れた青年にはアピールする力が弱いことは否めませんが、それでも、オンラインになったことで、これまで首都圏に住んでいなければ参加できなかったイベントに、各地からの参加者が加わったことは大きな、そして前向きな変化です。こうしてできたつながりを、ウィズコロナ、ポストコロナにどのようにつなげ、また活かして行くことができるかということが、これからの課題となります。
 もう一つ特筆すべき活動として、青年委員会は、昨年夏にNCC内で発足した「ジェンダー正義に関するポリシー策定のためのワーキング・グループ」(以下WG)と共同でジェンダー正義に関する方針を考え、文書化する働きを担っています。
 性差別などの問題は昨今、社会の様々なところで取り組まれるようになってきましたが、教会にとってこれは神の正義の実現の問題でもあります。あらゆる性別の人(男女だけでなく、ノンバイナリーやXジェンダーなど)は神の似姿につくられ、人間らしく扱われる権利があるはずですが、現状は残念ながらそうではありません。社会においても教会においても、性別やセクシュアリティを理由に差別、抑圧に直面する人は少なくありません。ですが、神は虐げられ、抑圧されている人々とともにおられる神ですから、ジェンダー正義は教会が真剣に取り組むべき正義の問題なのです。
 現在、青年委員会からは安田を含む2名がWGの定例ミーティングに参加しています。ミーティングでは、諸外国の教会でつくられたジェンダー正義ポリシーを読み、学んでいます。今後は、青年委員会からの代表2名とWGの他のメンバーでポリシーの草案を作り、できあがったものを青年委員会全体で見直していきます。ジェンダーの問題は、年齢に関係なく重要ですが、若い世代の意見や感覚をこれからの教会のありかたに反映させることもまた大事なことだからです。

社会委員会リレーコラム 「本・出会い・教会」②

佐伯里英子(シオン教会)

  「乙女峠」は、山口市の我が家から60㎞余の島根県津和野町にある。私は、ドライブで数回訪れている。今年も訪れて本書を購読し、改めてキリスト教信者の凄まじい信仰と殉教の真実を知った。なぜ、このような小都市でここまで悲惨な出来事が起きたのか、100頁に満たない本書に多くの証言が残されている。
 江戸末期に締結された「日米修好通商条約」は、信教の自由について触れている。開国後、浦上の信者は仏教徒を装うことをやめ、キリスト教徒であることを公にするようになった。明治改元の前年幕府は、信者拡大に危機を感じ、長崎で大々的な信者取り締まりをした。(浦上四番崩れ)ここで捉えた信者のうち3414人が西日本の各藩に送られた。津和野は小藩にもかかわらず、リーダー格を含めた153人の信者を受け入れ「乙女峠」に移した。信者たちは役人から改宗を迫られ、従わない者には残酷な拷問が加えられた。三尺牢に監禁、放置された安太郎は「九つ(12時)になると毎夜青い布を纏ったマリア様がお話をしに来てくださるので淋しゅうありません。」と語っている。雪の中、裸で十字架に縛られ人目に晒され、地面に捨て置かれた祐次郎は、十字架のイエスを思い、辱めを甘んじて受ける恵みを祈った。各藩に送られた3414人のうち1022人が転宗を申し出、664人が亡くなった。本書は、永井隆(被爆した放射線研究者)が、生き延びて長崎に帰った信者から聞き取とったものであり、彼の絶筆とも言える。
 閉鎖的な状況で権威者に指示されれば、人は弱者に対して限りなく残酷になり得るというアイヒマン実験を思い起こす。今、ウクライナで起きていることも重なる。
 私たちは歴史から何を学ぶのか。

ルター研究所「牧師のためのルター・セミナー」報告

宮本新(ルーテル学院大学・日本ルーテル神学校専任講師)

 

  2022年5月30〜31日、「牧師のためのルター・セミナー」がオンラインで開催された。テーマは「コロナとウクライナの時代~ルターが今、この時代に生きていたら」。21世紀の今、感染と戦争という二つの現実が目の前にあるが今回のセミナではこれらについて学びまた話し合う機会となった。
 「コロナとウクライナの時代」は世界大の問題ではあるが、セミナーではこれを考えるためにもうひとつ、ルター/ルーテルという観点を据えている。自らに託された教会と宣教の課題を踏まえ等身大で考える足場になると考えたからだ。
 初日ではまず、ルターの戦争文書として知られる『軍人もまた救われるか』と『トルコ人に対する戦争』について、高村敏浩牧師と立山忠浩牧師からそれぞれ研究発表があった。つづいて多田哲牧師からは「東方教会とウクライナ」について発題があった。いずれも今日の私たちに馴染みがある事々ではないが、今知りたいことを聞いて学ぶ機会となった。
 セミナー2日目は江口所長から「戦争~ルターとボンヘッファー」と題する発題講演。ルター研ならではの切り口から、こんにちのキリスト者が考えうる信仰上の構えについて考える機会となった。牧師先生方とも活発なディスカッションの時が持たれることとなった。その他セミナーではウクライナから避難する人たちを支援するルーテル世界連盟の動向についてレポートもあった。
 2日間を通じて牧師、引退教師、そして神学生など40名前後の参加者があり、あらためてこれらの主題への関心の高さが感じられた。そしてもう一つ。これらが世界大の問題であることにかわりはないが、各地で担われ取り組まれている牧会と教会の宣教、そこで重ねられている祈りもまた、これらの問題と有形無形につながっていることが全体協議の折々に感じられた。脱原発問題の取り組みや平和活動、また地域のディアコニアの活動、またたえず祈りの手をあわせ「忘れない」こと…こうした取り組みもまたセミナーで一緒に考える機会となり意義深いひと時になった。このような継続した学びへの期待と課題について意見交換もされてセミナーは終了した。
 なお、当日の発題はルター研紀要・ルター新聞などに掲載予定である。

カトリック第16回「シノドス」総会に向けての日本福音ルーテル教会からの応答①

 カトリック教会において行われるシノドス(Synodus Episcoporum/世界代表司教会議)は、提起された問題を討議し、教皇に意見を具申することを目的に第2バチカン公会議の後、1965年から設置されました。
 2023年10月ローマで、第16回シノドス総会が「ともに歩む教会のために―交わりと参加、そして宣教―」というテーマで開催されるにあたり、教皇フランシスコから世界のカトリック教会に対して、この主題について話し合い、応答することが呼びかけられました。その中には各地でのエキュメニカルな協力についての問いかけもあり、日本カトリック司教協議会から、日本福音ルーテル教会、日本聖公会、日本キリスト教協議会に対して、協力が呼びかけられることとなりました。
 日本福音ルーテル教会では、エキュメニズム委員会を中心に第16回シノドスへの応答文書を作成しました。これは日本聖公会・日本キリスト教協議会からの応答と共に7月21日に行われる日本カトリック司教協議会臨時総会で協議されます。
 以下、日本福音ルーテル教会からの応答文書を数回に分けて紹介いたします。

2022年6月7日
第16回シノドス
(世界代表司教会議)総会からの呼びかけへの応答

日本福音ルーテル教会
エキュメニズム委員会

 このたび日本カトリック司教協議会からの第16回シノドス総会に向けた呼びかけを心から感謝申し上げます。特に『第16回シノドス総会のための質問項目』に記載されている内容は、日本福音ルーテル教会におきましても宣教を考える上で重要な示唆を与えられるものでした。
 日本福音ルーテル教会エキュメニズム委員会は、この呼びかけに以下にように応答いたします。

1『キリスト者の自由』

 シノドスの目指す教会の姿を受け取る時、私たちはルターが1520年に著した『キリスト者の自由』の有名な二つの命題を思い起こしました。
「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない」
「キリスト者はすべてのものに奉仕する僕であって、何人にも従属する」
 第一の命題は、神の恵みによって義とされ救われたがゆえに、キリスト者は自由であるということです。しかし、ここで問題にしたいのは、第二の命題です。ルターはこう語ります。「なぜなら、人間はこの地上においては、身体をもって生きているばかりでなく、他の人々の間でも生きているからである。それゆえ、人間は他の人々に対して行ないなしでいることはできないし、行ないが義や救いのために必要でないとしても、他の人々と話したり、かかわりをもったりしないわけにはいかない。だからこれらすべての行ないにおいては、…その行ないをもって他の人々に仕え、役に立とうという方向にだけ向けられていなくてはならない。つまり、他の人々に必要なこと以外は考えないわけである。」(第26節)。
 加えて「さてキリスト者はまったく自由なのであるが、自分の隣人を助けるために、かえって喜んで自らを僕とし、神がキリストをとおして自分とかかわってくださったとおりに、隣人と交わり、またかかわるべきである。…すなわち、まことに私の神は、まったく価値のない、罪に定められた人間である私に、なんの功績もなしにまったく無代価で、純粋の憐れみから、キリストをとおし、キリストにおいて、すべての義と救いのみちみちた富を与えてくださった。…そこで、キリストが私に対してなってくださったように、私もまた私の隣人のために一人のキリストとなろう。」(第27節)。(注1)
 「わたしもまたわたしの隣人のために一人のキリストとなろう」、このルターの信仰告白は宗教改革500年を迎えた日本福音ルーテル教会にとって大きな使信であり、同時に課題となっています。そして今、この課題に対して、日本のすべてのキリスト教会においても具体的に手を取り合って向き合っていく時(カイロス)が到来したものと考えます。

(注1)訳文は、『キリスト者の自由』を読む』(ルター研究所編著、リトン)所収の訳文によった(ただし、一部変更)。
(以下次号につづく)

2022年度「日本福音ルーテル教会教師試験」について

 2022年度「日本福音ルーテル教会教師試験」を左記要領にて実施いたします。教師志願者は必要書類を整え、教会事務局にご提出くださいますよう、お知らせします。

     記

〈提出書類〉
◇教師志願書
◇志願理由書
テーマ「なぜ『日本福音ルーテル教会の教師』を志願するのか」
書式 A4横書き2枚 フォントサイズ11ポイント
◇履歴書(学歴、職歴、信仰歴、家庭状況等を記入すること)
◇教籍謄本(所属教会教籍簿の写し)
◇成年被後見人または被保佐人として登記されていないことの証明書(法務局交付のもの。任用試験時に必要になります)
◇所属教会牧師の推薦書
◇神学校卒業(見込)証明書及び推薦書
◇健康診断書(事務局に所定の用紙があります)

〈提出先〉
日本福音ルーテル教会
常議員会長 大柴譲治宛

〈提出期限(期限厳守)〉
2022年9月16日(金)午後4時までに教会事務局へ提出すること(郵送の場合は必着とします)

◇個人で神学の研鑽を積み受験を希望する者は、必ず神学教育委員会の推薦を得ること
◇国外のルーテル教会の神学機関に学び神学修士を持ち受験する者は、願書提出前に事務局に相談すること

〈試験日及び試験内容〉
志願者本人に直接連絡します。

留学生公募のお知らせ

 神学校と協議を行い、ドイツにおいてルター神学を学ぶ意欲のある方を、「留学制度に関する規定」第3条2項(2号留学)によって一名募集いたします。留学期間は2年間になります。応募締切は8月末日といたします。提出書類等、詳しくは事務局までお問い合わせください。なお複数名の応募があった場合は、日本福音ルーテル教会内での審査を行い該当者を決定いたします。またこの留学はNCCドイツ語圏教会関係委員会の公募する留学制度を利用して派遣するものです。この委員会の行う試験等に合格することが前提となりますので、ご承知おきください。

公 告

 この度左記の行為を致しますので、宗教法人法第23条の規定に基づき公告致します。
2022年7月15日
宗教法人日本福音ルーテル教会
代表役員 大柴譲治

信徒利害関係人 各位

小田原教会牧師館解体
所在地 小田原市鴨宮字稲荷森
所有者 日本福音ルーテル教会
地番 783番
種類 教職舎
構造 スレート葺2階建
床面積 
 1階 46・26㎡
 2階 34・70㎡
理由 老朽化のため

22-06-01「友と呼ぶ―信仰の継承」

「わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」
ヨハネによる福音書15章15節

 今年の聖霊降臨(ペンテコステ)は、どんな風が吹くのでしょうか。世界を取り巻く環境や身近なところにおいて、疫病も戦渦もなくしてほしいと願っている人は多くおられます。そのなかで、私たちは聖霊の息吹きに希望をいだいています。
 この数ヶ月、私たちの教会や幼稚園・保育園において「キリエ・エレイソン/主よ、あわれみを」(『こどもさんびか改訂版』27番/曲・ウクライナ民謡)の短い賛美をくり返し歌い続けています。そして、東方正教会でもちいるイコン(挿絵参照)も飾り、心に留めています。子どもたちから「このクリクリお目々のふたりはだあれ?」と聞かれます。「イエスさま(右)とメナスさん(左)だよ」と話しました…。
 このイコンに私が出会ったのは、以前ショートターム研修(ELCA主催)に単身で訪れたフランスのテゼ共同体でした。創立者ブラザー・ロジェ(1915〜2005)が特に心にかけていたイコンで「和解の教会」の礼拝堂に飾られています。学びのなかで気づかされたことの一つは「信仰の継承」です。ロジェに大きな影響を与えたのは、第一次世界大戦中、難民を次々と家に迎え入れていた祖母の生き方でした。彼女はキリスト者がいくつもの派に分かれて武器をとり戦っていることを憂い、キリスト者だけでも和解することが出来れば次の戦争を防げるのではないか、と思い描きます。プロテスタントに立脚しながらカトリックの人々と聖書を学び、そして改革派の牧師のロジェの父も祈りを共にしました。ロジェは、超教派(エキュメニカル)の修道会の構想をいだきます。彼もまた第二次世界対戦で戦禍を逃れてきた人々を迎え入れ、その中のロシア難民との出会いで霊性に強い関心をよせます。これらのテゼのビジョンに共鳴したのが東方正教会のコンスタンティノープル総主教アテナゴラスで、正教会内にもう一つのテゼ共同体を創立したいと願い出ました。ロジェは本来の一致への歩みとは異なることを丁寧に説明し、修道士の派遣を要請して創造的な交流を深めました。この流れなかでロシア正教会のひとりの若い神学生がテゼを訪問します。後に彼は神学校の校長、府主教となり、この人物、キリル府主教はテゼに関心を向け再訪し、ロジェの後のテゼを継いだブラザー・アロイス現院長もモスクワに招待します。2009年彼はモスクワ総主教となり、エキュメニズムに関しての展望、ロシアの青年たちへの司牧などについて会合を開きました。今この時に、もう一度それぞれに受け継がれた互いの信仰が交わるよう願い求めたいのです。
 挿し絵のイコンは「友情のイコン」(Icon of friendship)と称されます。子どもたちには…メナスさんは、ローマ帝国の軍人だったのだけれど、ある時国からイエスさまを信じてはダメと言われて立ち止まった。武 器を捨て軍隊をやめんだ。その後、捕らえられてしまったけど、メナスさんの横にはイエスさまがおられる。よく見ればイエスさまの右手がメナスさんの肩を抱いている。そしてイコンの裏には、ロシア語(キリル文字)で「わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」と聖句が書かれているよ。イエスさまは、世界のお友だちとも肩を組み「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ15・17)と言われたいのだね。いっしょに前を見つめながら…と伝えています(詳細はYouTube「ルーテル箱崎教会」こどもへのおはなし)。
 眼前の戦乱に、いち早く動いたテゼ共同体は宿を構えウクライナからスペイン、ポルトガルなどへ逃れていく人たちをコーディネートしています。テゼに関係の深いロシアにいる友は和平を望む声を総主教に働きかけています。またロシアの青年に対して積極的にテゼを訪れてほしいと呼びかけています。表立って目に映るニュースになりませんが、無力ではありません。聖霊の力は、かつて和解の歴史をつくり、今なお私たちを突き動かします。聖霊降臨(ペンテコステ)を迎える時、主は友と呼ぶ私たちに、余すことなくすべて御心を知らせるのです。

1面説教和田憲明2022年6月号図版「友情のイコン「キリストと修道院長メナ」(8世紀、ルーブル美術館所蔵)」

22-06-01るうてる2022年06月号

機関紙PDF

 「友と呼ぶ―信仰の継承」

日本福音ルーテル箱崎教会・聖ペテロ教会・二日市教会・長崎教会 牧師 和田憲明

「わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」
ヨハネによる福音書15章15節

 今年の聖霊降臨(ペンテコステ)は、どんな風が吹くのでしょうか。世界を取り巻く環境や身近なところにおいて、疫病も戦渦もなくしてほしいと願っている人は多くおられます。そのなかで、私たちは聖霊の息吹きに希望をいだいています。
 この数ヶ月、私たちの教会や幼稚園・保育園において「キリエ・エレイソン/主よ、あわれみを」(『こどもさんびか改訂版』27番/曲・ウクライナ民謡)の短い賛美をくり返し歌い続けています。そして、東方正教会でもちいるイコン(挿絵参照)も飾り、心に留めています。子どもたちから「このクリクリお目々のふたりはだあれ?」と聞かれます。「イエスさま(右)とメナスさん(左)だよ」と話しました…。

 このイコンに私が出会ったのは、以前ショートターム研修(ELCA主催)に単身で訪れたフランスのテゼ共同体でした。創立者ブラザー・ロジェ(1915〜2005)が特に心にかけていたイコンで「和解の教会」の礼拝堂に飾られています。学びのなかで気づかされたことの一つは「信仰の継承」です。ロジェに大きな影響を与えたのは、第一次世界大戦中、難民を次々と家に迎え入れていた祖母の生き方でした。彼女はキリスト者がいくつもの派に分かれて武器をとり戦っていることを憂い、キリスト者だけでも和解することが出来れば次の戦争を防げるのではないか、と思い描きます。プロテスタントに立脚しながらカトリックの人々と聖書を学び、そして改革派の牧師のロジェの父も祈りを共にしました。ロジェは、超教派(エキュメニカル)の修道会の構想をいだきます。彼もまた第二次世界対戦で戦禍を逃れてきた人々を迎え入れ、その中のロシア難民との出会いで霊性に強い関心をよせます。これらのテゼのビジョンに共鳴したのが東方正教会のコンスタンティノープル総主教アテナゴラスで、正教会内にもう一つのテゼ共同体を創立したいと願い出ました。ロジェは本来の一致への歩みとは異なることを丁寧に説明し、修道士の派遣を要請して創造的な交流を深めました。この流れなかでロシア正教会のひとりの若い神学生がテゼを訪問します。後に彼は神学校の校長、府主教となり、この人物、キリル府主教はテゼに関心を向け再訪し、ロジェの後のテゼを継いだブラザー・アロイス現院長もモスクワに招待します。2009年彼はモスクワ総主教となり、エキュメニズムに関しての展望、ロシアの青年たちへの司牧などについて会合を開きました。今この時に、もう一度それぞれに受け継がれた互いの信仰が交わるよう願い求めたいのです。

 挿し絵のイコンは「友情のイコン」(Icon of friendship)と称されます。子どもたちには…メナスさんは、ローマ帝国の軍人だったのだけれど、ある時国からイエスさまを信じてはダメと言われて立ち止まった。武 器を捨て軍隊をやめんだ。その後、捕らえられてしまったけど、メナスさんの横にはイエスさまがおられる。よく見ればイエスさまの右手がメナスさんの肩を抱いている。そしてイコンの裏には、ロシア語(キリル文字)で「わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」と聖句が書かれているよ。イエスさまは、世界のお友だちとも肩を組み「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ15・17)と言われたいのだね。いっしょに前を見つめながら…と伝えています(詳細はYouTube「ルーテル箱崎教会」こどもへのおはなし)。

 眼前の戦乱に、いち早く動いたテゼ共同体は宿を構えウクライナからスペイン、ポルトガルなどへ逃れていく人たちをコーディネートしています。テゼに関係の深いロシアにいる友は和平を望む声を総主教に働きかけています。またロシアの青年に対して積極的にテゼを訪れてほしいと呼びかけています。表立って目に映るニュースになりませんが、無力ではありません。聖霊の力は、かつて和解の歴史をつくり、今なお私たちを突き動かします。聖霊降臨(ペンテコステ)を迎える時、主は友と呼ぶ私たちに、余すことなくすべて御心を知らせるのです。

エッセイ「命のことば」 伊藤早奈

㉗「主われを愛す」

「ひととき、お怒りになっても/命を得させることを御旨としてくださる。/泣きながら夜を過ごす人にも/喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。」(詩編30・6)

「先生おはようございます。一緒に歌いましょう」とその方は私が施設に来るのをいつもいつも楽譜を手にして待っておられました。そして必ず歌うのは私がコピーした賛美歌の「主われを愛す」でした。その方は100歳近い方で、幼い頃毎週のように宣教師が行う集会で歌っておられたそうです。本当は宣教師の方から配られる手作りの美味しいお菓子が目的だったと笑っていました。
 まさか今になってこの歌を歌えるなんてと喜ばれていました。
 あっそうかいつも一緒だもんね。と不思議なくらいわかったような気がしました。
 その方がクリスチャンであったのかそうではなかったのかはわかりません。ただわかっているのはその方がクリスチャンであってもなくても神様が寄り添ってその方と共に歩まれて今があることです。
 「まさか今」ということがあります。神様があなたを驚かせたいのではなくて神様はただあなたといつも共に歩まれてくださいます。あなたがそれを忘れているだけです。「あっ神様おられたんですね。」とあなたが神様を思い出す時いつも神様は「あなたを待っている。お帰りなさい。」と喜んでくださいます。

議長室から 大柴譲治

「メタ認知」と「メタノイア」

「命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。」(創世記45・5b)

 2月20日(日)の第一日課は創世記45章でした。兄たちの嫉妬により奴隷としてエジプトに売られたヨセフ。彼は天賦の夢解き能力を発揮しその宰相にまで登りつめてゆく。長引く飢饉の中で食料を求め、父ヤコブによってエジプトに派遣された兄たち。彼らとの再会を通してそこに和解がもたらされてゆくというヨセフ物語の白眉とも呼べる場面でした。
 ヨセフは自分が奴隷として売られたことの中に神の御心があるとは思いもしなかったことでしょう。期せずして兄たちに再会した時、彼は過去を思い出して怒りを抑えられなかったのではないかと思います(創42・7)。しかしヨセフは3度涙を流すのです(創42・24、43・30、45・2)。その3度の涙によってヨセフの目からはウロコが落ち、それまでは曇って見えなかった神の御心がハッキリ見えるようになる。神ご自身がこのために自分をエジプトに派遣されたのだと。
 自己を超えた視点から自身を見つめることを「メタ認知」と呼びます。鏡に写る姿が自分であることを知るにはこのメタ認知能力が必要となります。チンパンジーやオランウータン、イルカやヒトなど限られた動物にその能力は備えられているそうですが、イヌやネコなどはその力を持たないために鏡に写った自分を別の個体としか認識できないと言われます。人間でもある年齢にならなければそれが自分の姿だとは分かりません。ちなみに「メタ」という語はギリシャ語で「超越」を意味します。例えば「メタフィジクス」とは身体性や物質性を超えるところから「形而上学」と日本語に訳されます。
 ヨセフは兄たちとの再会を通して神が自分に与えた使命を知ることができました。それは神の備えられた「和解の時」でもありました。そこに至るために彼は辛く長いトンネルを通らなければならなかった。日毎のCOVID-19やウクライナ危機の報道に接し私たちは断腸の思いを持ちます。一日も早く地上に平和と和解が回復されるよう切に祈ります。
 私たちにとって大切な瞬間は常に水の中から始まります。母の胎内では羊水において、罪からの解放は悔い改めの涙において、新しい人生は主の洗礼において。神の御心に心の目が開かれるというメタ認知の視点は私の中では「メタノイア」(悔い改め)と重なります。ギリシャ語で「ノエオー」は「認識」を意味するからです。「認識を超越する」という神の視点によって私たちは涙と共に新たにされてゆく。「涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。」(詩126・5)のです。

「教会讃美歌 増補」 解説

㉔創作賛美歌解説4
友枝久美子
(二日市教会)

増補27番「イエスさま 名前」

 以前所属していた教会の日曜学校の生徒さん(当時は幼稚園児で、ともえさんというお名前でした)のために作った曲です。悲しいとき、淋しいとき、イエス様のお名前を呼んでみたくなることがあります。お名前を呼ぶだけで、イエス様がいつも一緒にいてくださることが感じられて、心が温かくなります。つらいことも、楽しいことも、全部イエス様にお話ししたくなります。そんな気持ちを歌にしてみました。

増補32番「苦しみも重荷も」
 

 この曲は、最初、全く違う曲でした。讃美歌委員会の方から、歌詞の前半と後半を入れ替えて、それに合った曲にしてください、とのお知らせをいただき、作った曲です。思い切って、歌詞に寄り添って、短調から長調へと移る曲にしてみました。もとの曲は、長調の元気の良い曲で、曲想はとても気に入っているのですが、もともとの歌詞がなくなってしまったので、その曲には新しく、詩編の言葉をアレンジして歌詞とし、「詩編歌」として再生を試みました。

増補35番「イエス様 わたしを見つめてください」

  以前所属していた教会で、同じオルガニストとしてお世話になった方のために作った曲です。その方の柔らかい、優しい雰囲気を、3拍子の曲で表現してみました。その方が、当時悩んでおられたことを知って、少しでも慰めになりますように、という願いを込めて作りました。どんな苦しい状況のもとでも、イエス様に見つめていただいているということが、生きていく力になるのではないか、と思います。

世界の教会の声

浅野直樹Sr(世界宣教主事 市ヶ谷教会・スオミ教会牧師)

LWFのウクライナ難民支援

 ロシアがウクライナに侵攻して以来、LWF(ルーテル世界連盟)は現地で救援活動をするLWF加盟教会をサポートするためチームを結成し、支援態勢を強化しています。近隣諸国の5教会との協議を受けて、まずはポーランドのワルシャワに事務局を設け、ゆくゆくはウクライナに活動拠点を設立することを目指しています。
 チームのリーダーはジェセフ・ファトナーさん。これまでヨルダン、南スーダン、チャド、中央アフリカといった国々でLWF緊急支援チームを率いてきました。もう1人がLWFの教会プログラム担当のレベッカ・マイスナーさん。彼女は最近ルーマニア、スロバキア、ハンガリー、ポーランドを訪れて現地の状況を調査しました。今回は2人の声を取り上げます。

「活動資源があまりないにもかかわらずハンガリーの教会がしていることに驚いています。難民シェルターや食糧支援、輸送、通訳、医療サポートなど、やれることをとにかくやろうという熱意、意気込み、ひたむきさがすごいですよ。教会も手一杯です。それでも困っている人を助けねばと頑張る人たちを後押しする聖霊の働きには目を見張るものがあります。」(ファトナー)

「UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の推定によると、490万人以上がウクライナから避難しており、700万人が戦闘によって現地に取り残されたままとのこと。今後のLWFの役割としては、国ごとに活動内容に地域差があるなか、既に前線で活動中の教会やディアコニア団体をどのように支援するかが重要な鍵になります。」(ファトナー)

「2月24日ロシアがウクライナに侵攻して難民が発生、そこから救援活動も始まりましたが、今は活動にあたる教会の方々への牧会的ケアとサポートも必要です。」「現地の教会は、助けを必要とする隣り人たちと思いを一つに、神様の召しに応えてもてなそうとしていらっしゃいます。ただ現状は複雑でニードが絶えず変化し続けているので、そうした変化に適切に対処して支援できるよう態勢を整えることが私たちの役割です。」(マイスナー)

 マイスナーさんが強調するもうひとつのこと、それは支援する人たちが中立性を保てるのか、対立に加担することなく人道的視点から応答するにはどのようにすればよいのか、という難しい課題です。「ヨーロッパでは今ラディカルな変化が起きていて、これまでは確かだとされていた平和と戦争に対する考え方や対応ですが、本当にこれでいいのかが問われています。殊に教会はそうした問いへの神学的な検討が求められています。」(マイスナー)

 

 ※詳細についてはWEBサイトをご参考ください。

エキュメニカルな交わりから

 

③アジア・キリスト教協議会(CCA)の現状と課題
藤原佐和子(仙台教会・NCC書記)

 

 大学院生の頃、アジアのフェミニスト神学運動史についての博士論文を執筆するために、タイ北部のチェンマイで研究生活を送っていたことがあります。資料収集のために訪れていたのが、アジア・キリスト教協議会(CCA)の資料室でした。当時の私はエキュメニカル運動についてよく知りませんでしたが、アジアの女性神学者たちについて調査する中で、彼女たちの多くがこの運動に深くかかわっていることに気付かされました。このような経緯から、私は2015年からプログラム委員、2018年から常議員としてCCAの働きにかかわり、アジア各地を旅し、新しく出会った人々から学ぶ貴重な機会を与えられました。「旅すること」と「出会うこと」は、エキュメニカル運動の伝統になっているという実感があります。
 歴史を振り返ってみると、エキュメニカル運動の出発点である1910年の世界宣教会議で議長を務めたジョン・R・モットという信徒のエキュメニカルリーダーが、1912年から広範囲にわたり旅をしたのは、他ならぬアジア地域でした。CCAの歴史は、1957年、前身である東アジア・キリスト教協議会(EACC)がインドネシアのプラパトで行った設立準備総会にまで遡ります。1959年、EACCがマレーシアのクアラルンプールにおいて正式に設立されたのは、ペンテコステの前の主日でした。これを記念してCCAは同じ主日を「アジア祈祷日」(Asia Sunday)と呼び、大切にしています。毎年新しく作られる式文は、日本語を含む様々な言語に翻訳されています。本稿執筆時点で、2022年の「アジア祈祷日」(5月29日)の式文はまだ発表されていませんが、過去2年のテーマは「神よ、弱いわたしたちを癒してください」(エレミヤ17・14)、「わたしはあなたをいやす主である」(出エジプト15・26)でした。その背景には、新型コロナウイルスの世界的流行があります。
 新型コロナウイルスの世界的流行以来、「旅すること」と「出会うこと」は難しくなり、CCAもこれまで通りに活動できなくなりました。2020年4月に最初のオンラインセミナーが企画された際、私は日本の様々な教派の牧会者から共有していただいた現場の声をリポートしました。日本福音ルーテル教会の対応に関しては、浅野直樹Sr.牧師(市ヶ谷教会・スオミ教会)から現状と課題を教えていただきました。CCAの活動はその後、オンラインに移行し、アジアを生きるキリスト者たちをつなぐ役割を続けていくための試行錯誤を続けています。5年に1度開催される総会もすでに2年延期されたままですが、CCAの抱える困難はこれに留まりません。
 2021年2月の軍事クーデター以降、ミャンマー軍は不服従運動に参加する市民への弾圧を続けていますが、CCAは一部の共同司牧書簡や声明を除き、平和のメッセージを強く発信できていません。CCAや世界教会協議会(WCC)が軍事政権を公に批判しがたい背景には、迫害の悪化を恐れる現地教会の意向があります。CCAやWCCが大胆に行動できない時にこそ、アジア各地、そして日本におけるエキュメニカルな交わりの働きが切に必要とされていると痛感します。

社会委員会リレーコラム 「本・出会い・教会」①

高田敏尚(修学院教会)

「人生の秋に—ホイヴェルス随想選集」(H・ホイヴェルス著/
林幹雄編、春秋社1969)

 みなさんは、日本人の平均年齢っておわかりですか?平均寿命はよくきくけど、平均年齢は…とおっしゃる方が多いのでは。調べてみると48・4歳だそうで、世界では2位。ちなみに世界の平均は30・9歳です。日本も、1960年は29歳でした。どうりで、まわりをみると老人ばかり。教会も高齢化で維持がたいへんな問題です。社会委員会でコラムを担当することになったのですが、今回はこんな話からはじめようと思います。これを書いている私も高齢者に数えられる年齢です。そんな折に読んでみたい本が『人生の秋に』です。「人生の実りのときを迎える人たちに」という帯がついています。「この世の最上のわざは何?楽しい心で年をとり、働きたいけれども休み、しゃべりたいけれども黙り、失望しそうなときに希望し、従順に平静におのれの十字架をになう」というのが「最上のわざ」という詩の一節です。この本はドイツ生まれのホイヴェルス先生が残したエッセーです。54年間の在日宣教生活、その人生のおりおりに出会った喜びや悲しみ、そのすべてに神の業を見出していく。いやそんな極端なことでなく、鳥の声、花の一輪、それが「どんなことの中にも神をみつけましょう」という小タイトルにこめられています。小さな子どものほほえみにも神のやさしさが輝いているのです。このような本が一人静かに読める、そんな心境になるのも高齢者だからでしょうか。教会や団体に人が集まらない、社会の個人化といわれています。一昔前は、組織化される社会といわれていたのに。社会委員会は、このような社会も分析をして、教会が社会のなかで果たす役割は何かを問いかけられたら。そんなことを願っています。「孤独・孤立担当大臣」をおいているこの日本でこそ求められるのではないでしょうか。

教会のコロナ禍2年間の記録─ 『教会と宣教』第26号の紹介 ─

江口再起(東教区宣教ビジョンセンター『教会と宣教』編集委員)

 

  日本福音ルーテル教会は宣教百年(1993年)を機に、各教区に宣教センターを設置し教会宣教の研究・活動をすることを決議しましたが、結局設立されたのは東教区宣教ビジョンセンターのみということになりました。その活動の柱の一つは雑誌『教会と宣教』の発行ですが、2021年度の第26号は「コロナ禍の教会」特集号です。以下、内容を紹介します。
 意外なことですが、教会の歴史(記録)において肝心な事が残っていません。たとえば戦時中の教会の様子、100年前のスペイン風邪時の様子など。そこで今回のコロナ禍の教会の歩みを、まずは客観的に記録として残しておくことが大事です。
 「コロナ禍の教会」特集号の内容は4部構成になっています。第一部は教会の動向です。教会事務局の対応(「議長談話」等を含む全国の教会への通達など)の完璧な記録、また全国の諸教会のコロナ禍における礼拝や感染対策などへのアンケートの記録。各個教会の努力奮闘ぶりがわかります。
 第二部はルーテル学院大学・神学校の動向、ルーテル関連の諸社会福祉施設の感染対策等の詳細な記録です。機関紙「るうてる」にくわしく連載されていた記事を全て再録しました。実に貴重な記録となりました。その他、青年やこどもキャンプなどの諸活動の記録等々。
 第三部は他教派・教団・海外の動向です。カトリック教会、聖公会、日本基督教団、日本ルーテル教団よりの寄稿を収録しています。そして第四部は数名の牧師先生よりの論考、エッセイを載せました。
 このように全258頁、相当大部ですが客観的記録に徹した内容になっています(なおコロナ禍をめぐる神学的考察については、ルター研究所発行の『ルター研究』17巻(特集・宗教改革と疫病)に掲載されています)。
 2020〜2021年のコロナ禍の2年間、ルーテル教会そして関連諸施設は、どのように感染対策をしたのか、どのように礼拝を守ったのか、どのように活動し信仰生活を送ったのか。恐らく日本中の他教団・教派を眺め渡しても、これほど詳しい記録はないでしょう。あの時代、ルーテル教会はどのような教会活動をしていたのか、と問う50年後100年後に、この『教会と宣教』26号はきっと役に立つと信じています。どうぞお読みください(各教会・施設に送呈させていただいております)。

第28期第18回臨時常議員会報告

事務局長 滝田浩之

 4月25日に開催された標記の件について、ご報告いたします。
 第29・30回定期総会の延期を受けて、総会で扱う予定であった議案について、以下のように審議されました。詳しくは常議員会議事録でご確認ください。

「宗教法人日本福音ルーテル教会規則第26条を適用し承認した案件」
『第26条 総会の権限に属する事項で総会閉会中の緊急必要な事項は、総会に付議しないで、常議員会において決定し、及び執行することができる。』
(1)第2号議案 鶴ヶ谷教会・仙台教会合同の件
 本案件は、すでに個々の教会の総会で合同の決議が行われ、東教区総会で承認されたものである。個々の教会が合同し、共同の宣教を具体的に進める上でも、次年度の総会を待たずに正式な合同教会としての歩みを進めることが肝要と判断し、この合同について承認を行った。合同後は日本福音ルーテル仙台教会宮町礼拝堂、鶴ヶ谷礼拝堂となる。
(2)第3号議案 本教会常議員構成の件
 本案件は、各教区総会が行われ、新たな教区長、教区選出常議員の選出が行われたことを受けて、本来は総会において承認を得るものであるが、常議員会を教区議決を受けて構成するために、これを承認した。但し、九州教区においては4月29日に総会が行われるので、ここで選出される教区長、教区選出常議員については6月の第19回常議員会において承認するものとする。
(3)第8号議案 神学教育に関する協約の件
 本案件は、2022年度末をもって終了する標記の協約(ルーテル学院大学への教会からの支援を規定するもの)を間断なく継続するために、これを承認した。協約の内容は2018年締結のものと同一の内容となっており、日時の更新のみの変更となり、大きな変更がないものであることを確認している。すでにルーテル学院大学理事会において承認されている内容である。
(4)第9号議案 市ヶ谷耐震工事の件
 本案件は、2020年度総会に提案される予定であった。2018年度総会においては、すでに市ヶ谷事業所の耐震問題について何らかの対応を行うという点については承認を受けていることを踏まえ審議を行った。2022年度に入り、入居している賃貸先から耐震補強工事の実施について早急に、その実施についての返答と年度内での実施を強く要望され、かつこれを行わない場合、賃貸契約の解除の可能性を打診されたこと、またすでに2007年耐震検査において大きな地震が発生した場合、市ヶ谷事業所は中破以上の損壊を受けることは確実であり、この状況に対して法人として緊急に対応する必要を確認し、ルーテル学院大学からの借入、それに伴う担保提供、銀行からの借入を含めて、事業計画全体について、2022年度内の実施が承認された。工期は2022年7月~2023年9月初旬の予定である。

「仮承認とした案件」
(1)第5号議案 第7次綜合方策の件
 本案件は2020年度総会に提案される予定であったが、これの延期を受けて2020年度には常議員会で再考を行い、「COVID-19がもたらしたもの」を付記した形で提案される予定であった。2021年度には機関紙「るうてる」において、その内容が紹介されてきた。2022年総会の延期に伴い、2020年から3年間、方策のない状況が続くことを鑑み、常議員会において「仮承認」とした上で、次年度総会において「本承認」を求めることとした。「仮承認」を受けて「方策実行委員会(兼憲法規則改正委員会)」が発足し、予備的な準備を進めることを確認した。また方策の内容について、次年度総会で変更が求められれば「本承認」前に修正され、議場にて承認されることを確認した。
(2)第10~12号議案 決算・予算の件
 2020~2021年度決算、2022年度実行予算、2023~2024年度当初予算については、日本福音ルーテル教会規則第61条2項をもって「仮承認」を行った。

「次年度総会に提案する案件」
(1)第6号議案 アジア宣教の件
 カンボジアへの宣教、そして交流を主たる内容とする「アジア宣教」の件については、海外渡航が難しい状況においては次年度の総会に提案することがふさわしいと判断した。提案者である世界宣教委員会に、総会議決後の具体的な動きについて研究することを付託することを確認している。
(2)第7号議案 ハラスメント常設委員会設置の件
 本案件は、すでに日本福音ルーテル教会規則第61条4項を適用し運用が実施されている状況がある。これを61条3項に明記することを目的とする規則改正提案となっている。本案件は、次年度の総会において、しかるべき講師を招き、総会全体で学びを行った上で承認をうけるのがふさわしいと判断した。

「平和と共働の祈り」がオンラインで行われました

  日本国内における新型コロナウイルス感染症の拡大状況を鑑みて、5月3〜5日に東京・市ヶ谷を会場に予定されていた第29・30回全国総会を1年延期とすることが、3月28日に行われた第18期第17回臨時常議員会にて決定されました。このため、2年に1度行われる定期総会での礼拝が4年間行われていないことを踏まえ、日本福音ルーテル教会に関わるすべての方々が参加できるオンライン(Zoom)による「平和と共働の祈り」の時が5月3日(火)10時半から開催されました。
 当日は145アカウント・220人の参加者と共に、東京教会のパイプオルガンの演奏と聖歌隊による賛美、そして大柴譲治議長によるメッセージ「主の山に備えあり?!」(創世記22・1〜18)を聴き、各教区の代表による連祷を通して、ウクライナおよび世界の平和のため、新型コロナウイルスの終息のため、福音宣教の最前線で活動する個々の教会のために、また2018年以降に主のもとに召された 教職者、定年を迎えられた教職者を覚えて祈りを合わせました。
 なおLWFによるウクライナ人道支援のための連帯献金として4月末時点で503万2689円が捧げられました。感謝して報告いたします。なお連帯献金でのウクライナ人道支援は5月末にて一次受付を終了いたします。
(広報室)

公 告

 この度左記の行為を致しますので、宗教法人法第23条の規定に基づき公告致します。
2022年6月15日
宗教法人日本福音ルーテル教会
代表役員 大柴譲治

信徒利害関係人 各位

本教会所管の市ヶ谷会館耐震補強工事実施の件

・総工費
7億8603万8千円

・資金計画
自己資金(収益会計)
603万8千円
借入金
7億8千万円
借入先 ①学校法人ルーテル学院
借入額 3億円
返済期間 10年
支払利率 年利1%
借入先 ②銀行借入
借入額 4億8千万円

耐震補強を要する理由
・市ヶ谷耐震性能はIS値0・6を大きく下回り中破以上の損壊の可能性が高い。
・賃貸先テナントが耐震工事を実施しない場合、賃貸契約解除の可能性が高い。

・担保
 右記の借入に対する担保を左記の物件とする。

イ 不動産担保
 学校法人ルーテル学院から借入に対して市ヶ谷会館の土地建物(第3順位)に抵当権を設定する。
担保明細は次の通り。
・市ヶ谷会館
土地
所在 東京都新宿区砂土原町1丁目
   地番 一番
地目 宅地
地積 1669・42㎡
建物
所在 東京都新宿区砂土原町一丁目一番地
家屋番号 一番七
種類 教会 事務所
構造 鉄筋コンクリート造陸屋根地下1階付6階建
床面積 4612・65㎡
順位 3番

ロ 銀行借入分の担保設定
 借入条件決定後、この件に関する公告を行うこととする。

22-05-02「開かれた理性」

「そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」
ルカによる福音書24章45節

  ご復活後の主イエスは、弟子たちの「心の目」を開いたと記されています。「彼らの心の目」という言葉の原文は「彼らのヌース(理性)」です。わたしたち日本人に分かり易いように「心の目」と訳されています。このヌースという言葉はパウロ書簡にも出て来ます。コリントの信徒への手紙一2章16節の「『だれが主の思いを知り、主を教えるというのか。』しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。」という箇所で、「思い」と訳されている言葉は「ヌース」です。ヌース(理性)は「心の目」と訳されたり、「思い」と訳されたりしているのです。
 第一コリント2章でパウロが語っているのは、神の事柄を理解するのは「霊の人」であるということです。最後には、「わたしたちはキリストのヌースを持っています」と語られています。「抱いています」と訳されていますが、「持っています」が原文です。「霊の人」とは「キリストのヌースを持っている」人だとパウロは語っているのです。
 このパウロの言葉から考えてみれば、ルカによる福音書24章45節で言われている開かれた理性(ヌース)とは「キリストのヌース」ではないかと思えてきます。その理性(ヌース)が閉じられたままでは、神の事柄を理解することができないということです。そのために、イエスは弟子たちのヌースを開いたのです。そして、宣教へと派遣しました。
 わたしたち現代に生きるキリスト者は、復活のキリストに出会っているのかと思う人もいるでしょう。復活のキリストを見たという人をうらやましいと思う人もいるかもしれません。自分の目で、見ていないならば、わたしは、本当は復活に与っていないのではないかと思う人もいるでしょう。見たなら、宣教できるのにとも思うでしょう。しかし、そうではないのです。復活のキリストに出会った弟子たちは、パウロが言うように神の事柄を理解するようにされたのです。それが聖書を理解するための理性が開かれることだったとルカは伝えています。また、エマオ途上で2人の弟子たちに対して、キリストご自身が聖書を理解するようにと解き明かされた出来事も、ルカは伝えています。そうであれば、聖書に記されているキリストの出来事、十字架と復活の出来事を理解する人は、理性を開かれた人であり、復活に与っている人だということになります。それが、復活のキリストに出会った人たちに起こった神の出来事だったのです。
 パウロはキリスト者を迫害していましたが、ダマスコへ向かう途上で復活のキリストが現れてくださったことによって、それまで否定していたキリストの十字架と復活を宣教する者に変えられました。彼は自らの罪を取り除いてくださった救い主としてキリストを宣べ伝えることになったのです。パウロがそのように変えられたのは、キリストによって聖書を理解するための理性を開かれたからでしょう。そのとき、パウロは復活に与ったのです。同じように、現代に生きるわたしたちキリスト者もまた、十字架と復活を神の事柄として理解するとき、復活に与っているのです。復活のキリストに出会っているのです。復活のキリストのヌースが、わたしたちのうちで働いているのです。
 神の事柄は、人間的な理解を越えています。人間的な理性では受け入れることができない事柄です。それにも関わらず神の事柄を理解するわたしがいるということは、わたしのうちにキリストのヌース、神の霊が働いているからです。キリストの十字架と復活が、このわたしのために起こった神の出来事だと理解するのは、キリストの理性である神の霊を与えられて理解することなのです。
 主のご復活を祝っているわたしたちは、聖書を理解する者としての理性を開かれています。ご復活したキリストのヌースはわたしのうちに働いておられる。キリストがわたしのうちに生きておられる。開かれた理性をもって主の十字架と復活を宣べ伝えていきましょう。

ピーテル・ブリューゲル(父)作
「聖パウロの回心」(1567年)ウィーン美術館所蔵

22-05-02るうてる2022年05月号

機関紙PDF

 「開かれた理性」

日本福音ルーテルなごや希望教会 牧師 末竹十大

「そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」
ルカによる福音書24章45節

 ご復活後の主イエスは、弟子たちの「心の目」を開いたと記されています。「彼らの心の目」という言葉の原文は「彼らのヌース(理性)」です。わたしたち日本人に分かり易いように「心の目」と訳されています。このヌースという言葉はパウロ書簡にも出て来ます。コリントの信徒への手紙一2章16節の「『だれが主の思いを知り、主を教えるというのか。』しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。」という箇所で、「思い」と訳されている言葉は「ヌース」です。ヌース(理性)は「心の目」と訳されたり、「思い」と訳されたりしているのです。

 

第一コリント2章でパウロが語っているのは、神の事柄を理解するのは「霊の人」であるということです。最後には、「わたしたちはキリストのヌースを持っています」と語られています。「抱いています」と訳されていますが、「持っています」が原文です。「霊の人」とは「キリストのヌースを持っている」人だとパウロは語っているのです。

 

このパウロの言葉から考えてみれば、ルカによる福音書24章45節で言われている開かれた理性(ヌース)とは「キリストのヌース」ではないかと思えてきます。その理性(ヌース)が閉じられたままでは、神の事柄を理解することができないということです。そのために、イエスは弟子たちのヌースを開いたのです。そして、宣教へと派遣しました。

 

わたしたち現代に生きるキリスト者は、復活のキリストに出会っているのかと思う人もいるでしょう。復活のキリストを見たという人をうらやましいと思う人もいるかもしれません。自分の目で、見ていないならば、わたしは、本当は復活に与っていないのではないかと思う人もいるでしょう。見たなら、宣教できるのにとも思うでしょう。しかし、そうではないのです。復活のキリストに出会った弟子たちは、パウロが言うように神の事柄を理解するようにされたのです。それが聖書を理解するための理性が開かれることだったとルカは伝えています。また、エマオ途上で2人の弟子たちに対して、キリストご自身が聖書を理解するようにと解き明かされた出来事も、ルカは伝えています。そうであれば、聖書に記されているキリストの出来事、十字架と復活の出来事を理解する人は、理性を開かれた人であり、復活に与っている人だということになります。それが、復活のキリストに出会った人たちに起こった神の出来事だったのです。

 

パウロはキリスト者を迫害していましたが、ダマスコへ向かう途上で復活のキリストが現れてくださったことによって、それまで否定していたキリストの十字架と復活を宣教する者に変えられました。彼は自らの罪を取り除いてくださった救い主としてキリストを宣べ伝えることになったのです。パウロがそのように変えられたのは、キリストによって聖書を理解するための理性を開かれたからでしょう。そのとき、パウロは復活に与ったのです。同じように、現代に生きるわたしたちキリスト者もまた、十字架と復活を神の事柄として理解するとき、復活に与っているのです。復活のキリストに出会っているのです。復活のキリストのヌースが、わたしたちのうちで働いているのです。

 

神の事柄は、人間的な理解を越えています。人間的な理性では受け入れることができない事柄です。それにも関わらず神の事柄を理解するわたしがいるということは、わたしのうちにキリストのヌース、神の霊が働いているからです。キリストの十字架と復活が、このわたしのために起こった神の出来事だと理解するのは、キリストの理性である神の霊を与えられて理解することなのです。

 

主のご復活を祝っているわたしたちは、聖書を理解する者としての理性を開かれています。ご復活したキリストのヌースはわたしのうちに働いておられる。キリストがわたしのうちに生きておられる。開かれた理性をもって主の十字架と復活を宣べ伝えていきましょう。

エッセイ「命のことば」 伊藤早奈

㉖「お帰り」

「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。」(ヨハネ14・18)

  ここに書かせていただいた聖句は私が受洗へと導かれたみ言(ことば)です。
 なぜ今思い出したのか?私は信仰を新たにしていただいた気持ちです。
 「主われを愛す主は強ければ…」教会学校で子どもたちの賛美が聴こえてきた時、「うそっどうして私の今の気持ちをわかってくださってるの?」
 その時は入院が続き日曜日も治療があるため、しばらく教会の礼拝もお休みしなくてはいけなくて、とてもとてもいたたまれない気持ちがいっぱいのまま教会へ足を運んでいました。
 どんな顔して礼拝へ行こう?必要以上に笑って笑顔でいれば皆さんは心配されないかな?牧師だからなぁ…「主われを愛す主は強ければ…」あっ私神様にそのままを愛されているんだ。
いつも自分で語るときは「あなたは神様にそのままを愛されていますよ」と語れるのに自分自身が語られると戸惑うときがあるんですね。
 あなたが教会に行かれない時があっても、聖書が開けない時があっても、たとえ誰にも心開けない時があったとしても、神様は言われます。「あなたのそのままを愛してます。」

議長室から 大柴譲治

インマヌエル〜清濁併せ呑む信仰のリアリズム

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。/その名はインマヌエルと呼ばれる。」(マタイ1・23)

 世界状況が緊迫し混沌としているためでしょう、マタイ福音書の「インマヌエル」が強く私に迫ってきます。それはイエスの誕生予告にイザヤの預言の引用として出てくる言葉です(イザヤ7・14、8・8、8・10)。しかしマタイはその語を聖書全体の核心として捉え、それがイエスにおいて成就したことを宣言するのです。そして福音書は復活の主による弟子派遣の言葉で終わります。「私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28・18b〜20)。マタイ福音書はインマヌエルに始まりインマヌエルに終わるのです。
 この言葉は旧新約聖書全体の基調音です。「イエス・キリスト」という表現自体「イエスは私の救い主」という信仰告白です。井上洋治神父は「アッバ」(マルコ14・36)という1語の中にすべてを捉えました。マタイに従えば私たちの信仰告白はただ「インマヌエル、アーメン!」の一言だけでよいのです。

 その視点からマタイ福音書を読み直してみると、彼の伝える信仰のリアリズムが透けて見えてきます。たとえば東からの博士たち。ヘロデ訪問の場面では人間の闇がリアルに描かれます。マタイは王と全住民の持つ闇を「不安」として描くのです(2・3)。彼らは等しく「ユダヤ人の王」により自らが脅かされることを心底恐れました。その最たるものがヘロデによる嬰児虐殺です(2・16)。なんと人間の闇は深くおぞましいことか。暗澹たる思いにさせられます。しかしまさにその闇のどん底でマタイは記すのです。救い主の誕生を告げる星の光が確かに闇の中で輝いていることを。「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子がいる場所の上に止まった。博士たちはその星を見て喜びに溢れた」(2・9〜10)。マタイが記すインマヌエルのリアリティはこれなのです。その光が見る者を喜びに満たす。どのような闇もその喜びを消し去ることはできません。

 次もマタイだけが記す言葉です。「施しをするときは、右の手のしていることを左の手に知らせてはならない」(6・3)。「だから、あなたがたは蛇のように賢く、鳩のように無垢でありなさい」(10・16)。面白いですね。日本語の「清濁併せ呑む」を想起します。しぶとくしなやかに賢い、バランスある信仰をここで主は勧めているように思えます。私たちもそのような信仰のリアリズムに立ち続けたいのです。COVID-19パンデミックという現実においても、ロシアによるウクライナ侵攻という現実においても、大地震という現実においても。闇に希望の光は確かに輝いています。すべての人にインマヌエル、アーメン!
(聖句引用はすべて『聖書協会協同訳』による。)

「教会讃美歌 増補」 解説

㉓創作賛美歌解説3 「田坂さんのこと」
讃美歌委員会
北川逸英
(日本ルーテル教団
池上ルーテル教会・
杉並聖真ルーテル教会牧師)

増補25番「きょうはうれしいクリスマス」・増補28番「目を覚ましていましょう」・増補30番「いのちの花」

 この3曲の賛美歌は、NRK(日本ルーテル教団)鵠沼ルーテル教会信徒・田坂仁さんの作詞です。田坂さんは強くこの増補版の出版を待ち望んでいました。パイロット版である『教会讃美歌増補試用版宗教改革500年記念』の製作では、ボランティアとして校正作業をお手伝いくださいました。けれど残念なことに、分冊Ⅰの完成出版を見ることなく2021年1月、天に召されました。今回はこれまで共に祈り、共に歩いた北川が、田坂さんを紹介して、作品に込められた祈りに、共に思いを寄せたいと思います。
 田坂氏は1936年に東京都豊島区に生まれました。野球に打ち込むスポーツマンで、青少年教育に深い志を持って、中央大学・明治学院大学に学びます。その在学中からアメリカンスクールの臨時職員となって、宣教師との交流から信仰が芽生えました。ラジオ東京から流れていたルーテルアワーで熱心に学び、NRK東京ルーテルセンター教会で受洗します。そして成美学園(現 横浜英和)中学高等学校で、英語科教諭を長く勤めました。いつも教育に情熱を燃やして、定年後も神奈川県の学校で英語指導を続け、さらにアルゼンチンで4年間、またボリビアにも2年間赴任して、日本語と日本文化の教育に力を尽くしました。帰国後は精力的に教会活動と教育活動に邁進し、NRKの内に留まることなく、ルーテル学院大学・神学校後援会でも、大切な働きを最後まで続けました。
 NRKの青少年育成プログラムにも必ず足を運んで、子どもたちや青年たちと全く変わらない、元気な活動をされました。数年前に鵠沼教会で開かれたジュニア・ユースキャンプでも、フォークダンスを皆と一緒に楽しく踊っていました。また新年の高尾山ハイクにも参加され、ケーブルカーを使わず、青年たちと共に、自然研究路を楽しそうに最後まで歩き続けました。
 思い返せば田坂さんはいつも楽しそうでした。そしていつも誰かに熱心に話しかけていました。また田坂さんはいくつも童話を作り、本を出していました。最近の著作は2019年に上梓された『星がかがやくように』です。この短い物語は「美花園」という街角の花屋に並ぶ色とりどりのきれいな花たちが「花たちの歌」を歌っている場面からはじまります。花たちはさまざまな事を語り合い、そこにミツバチが来て詩を朗読し、感想を語り合い最後はまた花たちが歌って物語が閉じます。これにより田坂さんが、歌うこと、話し合うこと、詩をよむことを、生きる糧としていることがよくわかります。「『花開き草木も育てのびやかに愛と平和へ思いを込めて』田坂仁」これが巻末の言葉です。本当に田坂さんは、信仰に立つ、魂の教育者でした。

世界の教会の声

浅野直樹Sr(世界宣教主事 市ヶ谷教会・スオミ教会牧師)

「ウクライナと ロシアのルーテル教会 監督が共に祈る」

 3月18日、ベルリン大聖堂でエキュメニカル平和祈祷会が開かれ、そこにウクライナとロシアのルーテル教会の監督(ビショップ)が出席しました。それぞれの教会代表の監督が祈祷会の席で述べた言葉を紹介します。

ロシア福音ルーテル教会のディートリッヒ・ブラウア大監督
「今年のレント(四旬節)はとんでもなく恐ろしく、辛い試練の時となりました。眼前に広がる悪に対して、無力にただ立ち尽くすだけという経験に打ちのめされています。2月24日、私たちは闇と恐怖に埋め尽くされた現実に目を覚ましたのです。」
「戦争と涙と死。それしか見あたりません。泣きじゃくる子どもたち、逃げ惑う市民、破壊された家々と死体が辺り一面に広がっています。私たちだけでは到底立ち向かえない力に対して言葉もありません。けれども一人ではありません。お互いがあります。私たちは共に祈り、平和を求め、真実を証しし、他者の目を開いていくことができるのです。」

ウクライナのドイツ・ルーテル福音教会のパブロ・シュバルツ監督
「神は私たちから遠ざかることはありません。また無関心でもいられない方です。戦争の犠牲者たちと今苦しんでいる人々と、ここで共にいてくださるのです。神は戦争という地獄にあっても共にいて涙を流し、死の谷を共に歩いてくださいます。」
「キリストはここ、私たちのただ中で十字架にかかっておられます。そして死が最後の言葉ではないと何度も確約してくださっています。恐怖が私たちを黙らせることは永久にありません。いのちが悪の力に勝利することをキリストは約束してくださっています。そして解放と主の平和という水際へ私たちを導いてくださいます。」

 シュバルツ監督のオフィスはウクライナ東部の町ハリコフにあります。ハリコフはロシア軍の大規模爆撃によって多くの被害を受けた町。シュバルツ監督は、戦争終結に向けて尽力する人々、そしてウクライナ市民を支援するすべての人々に感謝を述べ、両手を広げて彼らを歓迎し次のように述べました。

「犠牲者の声に耳を傾け、誰が加害者なのかを明らかにしていく公平な平和へと私たちは召されています。真の和解は、そうすることによってのみ実現できます。私たちは希望を神に託しています。そして私たちが平和を作り出し、ついには和解をもらたす者となれますようにと祈っています。言葉だけでなく行いが伴うクリスチャンにしてくださいと祈っています。」

イレネウス・ルカスLWFヨーロッパ局長のコメント。
「ロシアとウクライナ両ルーテル教会の監督が、公正な平和を求めて共に祈る祈りは力強く、勇気ある証です。罪のない人々が殺され、数百万人が安住の地を求めて家を離れねばならないという困難なとき、こうした祈りがますます必要なのです。」
※この平和祈祷会の詳細については以下のサイトをご参考ください。

※ウクライナの平和を求める灰の水曜日の祈りについては下記サイトで紹介されています。
https://www.lutheranworld.org/news/ukraine-lutheran-bishops-ukraine-and-russia-join-prayer-peace

エキュメニカルな交わりから

 

②NCCジェンダー正義に関するポリシー策定のためのワーキンググループ
藤原佐和子 (鶴ヶ谷教会・NCC書記)

 

 日本キリスト教協議会(NCC)に2021年8月、「ジェンダー正義に関するポリシー策定のためのワーキンググループ」(以下、WG)が新設されました。メンバーは、日本福音ルーテル都南教会信徒の安田真由子さんと筆者を含む10名です。このWGは、「この危機の時代にこそ後退することなく、ジェンダーやセクシュアリティにおける正義、そして真実のパートナー性と多様性を問い直し、それを与えられた恵みの豊かさを感謝し具現していく道へと踏み出さなければなりません」というNCC第41回総会期活動方針に基づき、ACTアライアンス(以下、ACT)をはじめとする世界の教会・団体とのエキュメニカルな連帯に根差して活動しています。ACTは2010年に、ルーテル世界連盟(LWF)や世界教会協議会(WCC)を中心に発足したもので、これまでは人道支援で知られ、日本ではNCCとCWS Japanがメンバーになっています。ACTは、2013年のLWFに続き、2017年に「ジェンダー正義に関するポリシー(基本方針)」を採択したことでも注目され、現在、世界中のメンバーに「2026年までにポリシーを作り、実践しましょう」と呼びかけています。WGでは、既にジェンダー正義に取り組んでいる教会・団体に学びながら、この呼びかけに応えたいと考えています。
 最近のミーティングでは、スウェーデン教会の2010年代以降の文書を分析しました。スウェーデン教会は世界で3番目に大きなルター派(ルーテル教会)で、毎年秋に行われる教会会議では16歳以上のすべての信徒に選挙権が与えられるなど、民主的な教会運営で知られています。スウェーデン教会では1960年から女性牧師が誕生しており、1993年には女性の按手を拒否する権利が廃止され、「性別に基づく差別に反対します」という誓約書にサインしなければ、牧師となることはできません。現在、すべての牧師に占める女性の割合は、わずかに男性を上回っていますが、指導的地位は男性に占められたままで、賃金格差も深刻です。それでも、2009年に世界で初めてレズビアン女性の主教(エヴァ・ブルンネ)が誕生している点、同性婚の祝福を賛成多数で可決している点、2011年の国連人権理事会におけるSOGI(性的指向と性自認)に関する初めての決議にいち早く応答し、翌年には、ジェンダー平等とジェンダー正義は、すべての男性、女性、少年、少女にかかわることであって、「女性たちの問題ではない」との見方を明らかにしている点など、日本福音ルーテル教会から見ても大いに注目すべき教会です。
 スウェーデン教会が、自分たちの立場を明確にしようと心がけてきたのは、そのことが、オープンで率直な対話の場を作り出していくことにつながると信じているからです。このテーマにご関心のある方は、5月21日にオンラインで開催される修学院フォーラム(日本クリスチャン・アカデミー関西セミナーハウス活動センター)にぜひご参加ください。
 次回は、アジア・キリスト教協議会(CCA)の働きについてご紹介します。


https://www.academy-kansai.org/news/2022/03/pg-734.php

外キ協全国協議会報告

小泉基(社会委員長・函館教会牧師)

 「外キ協」とは、「外国人住民基本法の制定を求める全国キリスト教連絡協議会」という長い名前を持つエキュメニカルネットワークです。もともとは1980年代以降に闘われた在日韓国・朝鮮人の指紋押捺拒否運動に刺激されて結成された、「外登法問題と取り組む全国キリスト教連絡協議会」という団体でした。カトリック教会とプロテスタント教会が全国レベルでひとつの課題に力をあわせ、同時に各地に地方外キ連というローカルボディも有するという希有な団体なのですが、日本福音ルーテル教会は長く教派レベルでこの協議会に参加することはなかったのです。
 当初、在日が負わされた課題から出発した協議会でしたが、在日外国人の多様化に伴い、自ら立案した「外国人住民基本法」の制定運度を取り組みの中心に据えることとし、2012年から名称も変更して新しい「外キ協」として再出発しています。
 外キ協は、毎年1月に全国協議会を開催し、その年の活動を展望します。日本福音ルーテル教会も2020年にこの協議会の構成団体に加わり、現在は社会委員会を通してその活動をともに担うようになりましたので、今年の1月28日、オンラインで開催された全国協議会に、北海道からネット参加しました。昨年は、ウィシュマさんという女性が入管施設内で亡くなられた事件によって、かつてないほど日本の入国管理制度に注目が集まった年で、ルーテル教会の社会委員会も2回のオンラインセミナーを開催しました。全国協議会では、入管法の改悪案を撤回に追い込むこととなった昨年の取り組みがわかちあわれた他、今年度の活動として、韓国教会との国際シンポジウムや、平和構築のための日韓青年フォーラム、外国人住民基本法の制定を求める全国署名、冊子「カラフルな仲間たち4」の発行などが提案され、今年度も多様な取り組みをすすめていくことを確認しあいました。ルーテル教会からも、外キ協のプロクラムや各地の外キ連に参加してくださる方が増えていくようにと願っています。

第56回教職 神学セミナー報告

宮本新(ルーテル学院大学・日本ルーテル神学校専任講師)

 

 2月14〜15日、教職神学セミナー(日本ルーテル神学校主催、JELC協賛)が開催されました。
 主題は「これからの10年—教職論再考」。これまでの経験則ではこの先があやぶまれるとき、枝葉ではなく根幹的なことを再確認したいとき、これまでもこのような単純でいて根源的なテーマが選ばれてきたのだろうと思います。2日間のプログラムでは、3つのセッションを設けて、それぞれの発題者・発表者が、そのような再検討課題を差し出し、共に考える機会を持ちました。詳細について紙面の都合でかないませんが、以下のプログラム要旨からその一端を紹介いたします。(以下、敬称略)

★セッション①シンポジウムⅠ「教職論の現在地~職制・職務・実存の問題として」
〈シンポジスト発題〉「職制と職務を考える」立山忠浩氏、「牧師は宗教家か労働者か」滝田浩之氏、「壊れいく宣教と教職の現実に」石居基夫氏
★セッション②「現代社会における教職論~私の職務レポート」
〈レポート〉「キリストを感じてもらう」吉田達臣氏、「女性教職の働きと可能性」小勝奈保子氏、「牧師の働きについての模索」竹田大地氏、「気がついたらやっていること〜Pastoralskills(I acquired when I noticed)〜」岩切雄太氏
★セッション③シンポジウムⅡ 「これからの10年、教職論の課題と展望」
〈シンポジスト発題〉「選択と集中、その判断基準の柔軟性」李明生氏、「みことばと教会形成」後藤由起氏、「教職の預言者的使命を見直す」江本真理氏

 終わって見ると、オンライン故の残念な点はそれに上回る良い点で満たされていました。特に、全国各地・ルーテル4教団の教職の方々が多数参加してくださったのはオンラインならではのことでした。とりわけ、積極的に参加してくださったJELC九州地域教師会の方々、そして受按5年以内の先生方(現任研修)の参加はありがたくもあり、また今後のセミナーの展望を考える糧をいただきました。感謝。

ルターナイツ通算第13回(オンライン開催)

石原修(市ヶ谷教会)

 2014年に東教区に「信仰を考える会ジュニア」が作られ、教科書で誰でも知っているルターの顔、そして著名なバッハを利用して、宗教改革500年までの3年間、礼拝には呼びづらい友人や同僚にルーテルとのつながりを持てるようにと「ルターナイツ」が企画され、宗教改革500年を終えた後も継続し、12月3日、初回ボリュームゼロから数え13回目が開催されました。
 10回と11回目は東京・恵比寿のJELAホールを借りて開催しましたが、新型コロナにより、前回より完全オンラインで実施しています。司会は市原悠史牧師(横浜教会・横須賀教会)と谷口健太郎さん(市ヶ谷教会)。今回のトークは、一昨年よりコロナ禍で渡米し、アメリカミネソタ州アボットノースウェスタン病院のチャプレン(病院聖職者)として、コロナ病棟や精神科病棟で人々の魂に寄り添い、昨年9月に帰国した関野和寛牧師に、「コロナ室に入り続けた1年間」と題してお願いし、市原牧師によるインタビューやオンラインでの質疑応答を行いました。
 方波見愛さん・角本茜さんによるピアノ連弾デュオ「La Fontaine」は、「かみのみこはこよいしも」と「まきびとひつじを」を、連続出演記録更新中のユースグループ「The Beagles」は、「ハクナ ワカィタ サ イェス」と「まぶねのなかでしずか」を、予め収録した動画にてお届けしました。市原牧師は、前回同様、リアルでギターの弾き語りを披露しました。今回は、JELAによるカンボジアの子ども達への支援活動のための募金を呼び掛け、職員の下川正人さんより説明がありました(写真)。最後は、恒例となった「君は愛されるために生まれた」を皆で歌い、終了しました。ライブと同じような交流の場を設けるため、前後に15分程度Zoomを開放しました。
 徳善義和先生からルターナイツのために頂いたバッハの言葉「祈りをもってする音楽においては常に神がおられる、恵みの現臨をもって。」(徳善先生訳)を胸に、これからも続けていきます。

第28回春の全国ティーンズキャンプ(オンライン)報告

森田哲史(大江教会牧師)

  3月27日、第28回春の全国ティーンズキャンプ(通称・春キャン)が、オンラインにて行われました。今年は「自分の限界を超える」(主題聖句・ガラテヤの信徒への手紙6章2節)をテーマに、関野和寛牧師の講演を中心としたプログラムを行いました。初めに開会礼拝を行った後、青年スタッフが企画してくださったZoom上で出来るアイスブレイクで参加者間の交流を深めました。講演では関野牧師が、アメリカでのチャプレンの働きから、傷つくことを恐れず、外に飛び出し、人と出会うところに牧師としての喜びがあると分かち合ってくださいました。参加者は2名と少数でしたが、来年こそは直接会いたいね、と期待を膨らませています。

  3〈以下感想〉
「春キャンに参加することが出来てとても嬉しかったです。貴重な体験になりました。ありがとうございました。限界を超えろというテーマは初め私にとって考える機会がなかったため難しいものでしたが、牧師先生の話を伺って考えやすく身近なものに変わっていきました。周りの人に合わせるという事も大切な事ですが、周りの人に流されずに強い意志を持ってこれからの生活を送っていきたいです。来年も春キャンに参加したいと思います!」(中学2年生)。
「私は2回目の参加でした。関野先生のお話にとても心を動かされました。アイスブレイクもたのしかったです!ありがとうございました」(高校1年生)。
「なかなか対面で集まれない状況のなか、オンラインでこうして中高生の子たちがつながる機会があること、参加してくれる子がいることがとても素敵だなあと感じ、心が温まりました。ありがとうございました」(青年スタッフ)

ルーテル学院大学・日本ルーテル神学校の新年度が始まりました

 2022年度のルーテル学院大学は、総合人間学部66名(編入学を含む)、大学院15名の新入生を迎えました。また日本ルーテル神学校には牧師養成コースに中山隼輔さん(JELC室園教会)の1名、また神学一般コースに2名の新入生を迎えました。4月4日、神学校入学始業礼拝が司式・河田優チャプレン、説教・立山忠浩校長によって行われ、新年度への歩みが始まりました。なお新型コロナウイルス感染症対策として、2022年度前期の講義は、昨年度に引き続き当面の間オンラインと対面を組み合わせたハイブリッド方式によって行われます。後期の授業形態については、感染状況によってあらためて検討されます。(広報室)

第35回教会音楽祭

  教会音楽祭は、キリスト教の教派を超えて神さまへの賛美をともに捧げようと、1968年から続けられています。日本最大のエキュメニカル(教会一致)活動のひとつです。
 第35回教会音楽祭は2022年10月22日(土)、オンラインで開催されます。
 また、第35回教会音楽祭では、以下の二つの項目で公募が行われます。
①オンライン音楽祭(動画)の中で皆で歌う「応答の歌」のメロディー
②コロナ禍での、新たな賛美の取り組み
 応募される方は、左記教会音楽祭インターネットサイトの公募要項をお読みください。


http://cmf.holy.jp

22-04-01「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」

「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」
ルカによる福音書24章6節a

 イースターおめでとうございます。この朝、イエス様は死からよみがえられました。私たちの罪のために苦しみを負われ、十字架で死なれたイエス様は、父なる神様によって高くあげられ、復活して永遠の命を生きておられます。イエス様が救いのみわざを成し遂げてくださったことを記念するイースターの礼拝は、教会の一年の中で最も大きな喜びの時です。
 ルカ福音書の復活物語は、イエス様に従っていた婦人たちが早朝に香料を持って墓に出かけるところから始まります。香料を遺体に塗って、葬りを完了させるためです。婦人たちはイエス様が死んでしまった悲しみを感じつつも、どこかでイエス様の死を受け入れて、しきたり通りの葬りをするために現実的に行動しています。
 しかし婦人たちが目にしたのは空の墓でした。さらに彼女たちはみ使いからイエス様の復活を知らされます。「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。」と言われた婦人たちは、イエス様が確かに「わたしは死んで復活する」と言われていたことを思い出したのです。
 そうして婦人たちはイエスの復活を確信します。彼女たちは墓から帰って、弟子たちとほかの人皆に一部始終を知らせました。イエス様の墓が空になっていたこと、み使いが現れてイエス様の復活を告げたこと、そして確かにイエス様はご自分の死と復活を約束されていたということ…彼女たちは驚きと興奮、そしてかつてないほどの喜びにあふれてイエス様の復活を告げ知らせたに違いありません。
 しかし報告を受けた弟子たちは彼女たちを信じませんでした。はじめ婦人たちがそうであったように、弟子たちもイエス様があらかじめ言われていたことを理解していなかったのです。イエス様が「わたしは死んで復活する」と言われていたにもかかわらず、死は終わりであって、復活などたわ言だと思っていました。
 これまで熱心にイエス様に従ってきた人たちであっても、イエス様が死んでしまってさすがにあきらめムードといったところでしょうか。私たちがそこにいても、多分同じような反応をしたと思います。人間の力ではどうにもならないことがあると受け入れて、現実的に行動しなければ、この世の中を生き抜いていくことはできないからです。
 私たちは生きていくうえで色々なことをあきらめ受け入れています。年を取ること、病気になること、人との別れ、どれもしんどいことですが、どこかで仕方ないと割り切って、前に進んでいるのです。新型コロナウイルス感染症が流行って今まで通りの生活が送れなくなっても、なんとかその中で折り合いをつけて、今できることを探して生きています。人間の力ではどうにもならないことがあるというのは私たちが常々実感していることです。
 なかでも死はその最たるものです。どんなに大切な人がいたとしても、みんないずれ死にます。死んでしまったら二度と地上で会うことはできません。別れの悲しみは大きく深いものですが、だからといってどうしようもないということを私たちは心のどこかで知っています。この世の中に絶対はなく、永遠に続くものもないからです。
 しかしイエス様の復活は、神様の約束だけは絶対であり永遠であるということを私たちに告げています。神様の約束通り、イエス様は死からよみがえられ、私たちを救って、私たちを永遠の命へと招き入れてくださいました。死でさえも私たちからイエス様を奪うことはできません。イエス様の愛だけは私たちがあきらめる必要のないただ一つのものだからです。
 この復活の朝、死さえも超えて、イエス様は私たちのところに戻ってきてくださいました。イエス様の愛から私たちを引き離すものは何もありません。このことだけは永遠に変わらない真理、決して取り去られることのない喜びです。イースターおめでとうございます。主の復活の喜びを共に分かち合いたいと思います。

M.グリューネヴァルト作「復活」(1511〜1515年)
コルマール・ウンターデンリンデン美術館所蔵

22-04-01るうてる2022年04月号

機関紙PDF

 「イースターおめでとう」

日本福音ルーテル小倉教会・直方教会 牧師 森下真帆

「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」
ルカによる福音書24章6節a

 イースターおめでとうございます。この朝、イエス様は死からよみがえられました。私たちの罪のために苦しみを負われ、十字架で死なれたイエス様は、父なる神様によって高くあげられ、復活して永遠の命を生きておられます。イエス様が救いのみわざを成し遂げてくださったことを記念するイースターの礼拝は、教会の一年の中で最も大きな喜びの時です。
 ルカ福音書の復活物語は、イエス様に従っていた婦人たちが早朝に香料を持って墓に出かけるところから始まります。香料を遺体に塗って、葬りを完了させるためです。婦人たちはイエス様が死んでしまった悲しみを感じつつも、どこかでイエス様の死を受け入れて、しきたり通りの葬りをするために現実的に行動しています。

 

しかし婦人たちが目にしたのは空の墓でした。さらに彼女たちはみ使いからイエス様の復活を知らされます。「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。」と言われた婦人たちは、イエス様が確かに「わたしは死んで復活する」と言われていたことを思い出したのです。
 そうして婦人たちはイエスの復活を確信します。彼女たちは墓から帰って、弟子たちとほかの人皆に一部始終を知らせました。イエス様の墓が空になっていたこと、み使いが現れてイエス様の復活を告げたこと、そして確かにイエス様はご自分の死と復活を約束されていたということ…彼女たちは驚きと興奮、そしてかつてないほどの喜びにあふれてイエス様の復活を告げ知らせたに違いありません。
 しかし報告を受けた弟子たちは彼女たちを信じませんでした。はじめ婦人たちがそうであったように、弟子たちもイエス様があらかじめ言われていたことを理解していなかったのです。イエス様が「わたしは死んで復活する」と言われていたにもかかわらず、死は終わりであって、復活などたわ言だと思っていました。

 これまで熱心にイエス様に従ってきた人たちであっても、イエス様が死んでしまってさすがにあきらめムードといったところでしょうか。私たちがそこにいても、多分同じような反応をしたと思います。人間の力ではどうにもならないことがあると受け入れて、現実的に行動しなければ、この世の中を生き抜いていくことはできないからです。
 私たちは生きていくうえで色々なことをあきらめ受け入れています。年を取ること、病気になること、人との別れ、どれもしんどいことですが、どこかで仕方ないと割り切って、前に進んでいるのです。新型コロナウイルス感染症が流行って今まで通りの生活が送れなくなっても、なんとかその中で折り合いをつけて、今できることを探して生きています。人間の力ではどうにもならないことがあるというのは私たちが常々実感していることです。
 なかでも死はその最たるものです。どんなに大切な人がいたとしても、みんないずれ死にます。死んでしまったら二度と地上で会うことはできません。別れの悲しみは大きく深いものですが、だからといってどうしようもないということを私たちは心のどこかで知っています。この世の中に絶対はなく、永遠に続くものもないからです。

しかしイエス様の復活は、神様の約束だけは絶対であり永遠であるということを私たちに告げています。神様の約束通り、イエス様は死からよみがえられ、私たちを救って、私たちを永遠の命へと招き入れてくださいました。死でさえも私たちからイエス様を奪うことはできません。イエス様の愛だけは私たちがあきらめる必要のないただ一つのものだからです。
 この復活の朝、死さえも超えて、イエス様は私たちのところに戻ってきてくださいました。イエス様の愛から私たちを引き離すものは何もありません。このことだけは永遠に変わらない真理、決して取り去られることのない喜びです。イースターおめでとうございます。主の復活の喜びを共に分かち合いたいと思います。

エッセイ「命のことば」 伊藤早奈

㉕「変わらないもの」

「天は神の栄光を物語り大空は御手の業を示す。」(詩編19・2)

  「あっちにもあるよ、ああそこにも。あの赤く光って動いているのは飛行機かな。」
 普段は別に気にしていないのに入院すると何だか空を見てしまいます。何度か入院が一緒だった友達と夕食後待ち合わせて部屋を抜け出し唯一外の空気が吸える病院内の渡り廊下へ行きます。暗くなり始めた渡り廊下は人影もなく静かでした。そこで渡り廊下の手すりを両手でぎゅっと握って立ち上がり2人で毎日のように空を見ていました。そんな2人には都会の夜の空に少し遠慮がちに輝いている数少ない星を見るのが楽しみでしたし何よりも立って上を向けるなんてこの時にしかできないことでした。
 星は変わらずそこにいます。私たちが見える世界では変わりません。変わるのは見ている私たちかもしれません。
 「変化は恐ろしいことでも悲しいことでもないんだよ。変化することは私たちには当たり前のことなのさ。」昔読んだ本の中に書いてあったこのような台詞を思い出しました。成長であったり気づきであったり私たちが歓迎できる変化もあれば病気の進行や老化のように受け入れることを拒んだり受け入れることに時間がかかることもあります。でもそこには必ず変わらないイエス様が共におられます。あなたは変化する存在ですが変わらないイエス様があなたといつも一緒です。

議長室から 大柴譲治

「聖なるもの」との出会い〜おそれとおののき

「これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、『主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです』と言った。」(ルカ5・8)

 「目の前に美しい花があってもそれを美しいと感じる心が私になければ、その花と出会うことはできない」。これは学生時代に美学の集中講義で今道友信先生から学んだことでした。確かに道端に咲く花の美と出会うためにはそれに気づく感性が求められる。でなければ素通りしてしまう。逆に言えば、自らの感性を研ぎ澄ますことができれば、どこにおいても真・善・美という普遍的な価値に出会うことができるということになる。そのためにも「ホンモノとの出会い」が必要となります。それはハッと思わず息を飲むような体験、深い感動を内に呼び覚まされるような体験です。ゲーテはファウストに「時よ、止まれ。お前はそのままで美しい」と言わせました。確かにそのような至高体験は、「今・ここに・私は・生きている」という鮮烈な実感を与えてくれます。山頂での御来光、澄み切った紺碧の空、たゆたう白雲、陽光にきらめく川面、自由に飛翔する鳥たち、夜空の満天の星、突然の虹の出現、等々。絵画や音楽、映画など芸術作品や書物との出会いもありましょうし、日常生活でのさりげない思いやりの言葉やしぐさに深く感じ入ることもある。

 「聖なるもの」との出会いの場合はどうか。その時私たちは畏怖の念に打たれます。「しかしお言葉ですから」と網を打ち、思わぬ大漁に接したペトロはイエスの前にひれ伏します。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」。彼はそこで聖なるお方と出会って震撼させられたからです。私たちも同じです。強い畏怖の念に打たれると共に自分はその前に立つ資格がない、相応しくないという恥と怖れに満たされる。主日礼拝の中に二つの「告白」(罪と信仰)があるのもむべなるかなです。コインの両面のようにそれらは表裏一体、不即不離の関係にあるのでしょう。
 復活の主と出会った弟子たちも同じでした。彼らは素直にはイエスとの再会を喜べなかったはずです。主を見捨てて自分は逃げてしまったという苦い記憶が影のようによみがえってきたことでしょう。自分は裁かれると恐怖したかもしれません。まばゆい光の前では濃い影ができるのと同じです。しかし主は彼らの心の動きをよくご存じでした。「恐れるな。あなたがたに平安があるように」。復活者の確かな声は弟子たちの複雑な思いを瞬時に消し去ります。完全な赦しと受容の宣言。神の力ある声が人間の恐れとおののきを揺らぐことのない歓喜へと変えてゆきます。このような聖なるお方との出会いが私たちを根底から新たに造り変えてゆくのです。

「教会讃美歌 増補」 解説

㉒創作賛美歌解説2
石原祐子(賀茂川教会)

増補37番「悲しみのなかで」

*祈ることもできない日に

「あなたはわたしのもの。
わたしはあなたの名を呼ぶ。」(イザヤ43・1)
「見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。」(ルカ15・4)
「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(ルカ23・42)

 四旬節に与えられた歌。
 わたしたちの中に痛みがあります。わたしたちの中に悲しみがあります。神さまがみえない、神さまを呼べない。神さまがおられるのならどうしてこんなことが起こるのかと思う。苦しくて御名を呼ぶことさえできない日があります。
 そんなときにも、主がわたしたちの名を呼び、さがし出し、とらえていてくださる。わたしたちのうめきに耳を傾けていてくださる。十字架と復活の主がすでに勝利していてくださる。
 自分の力ではなくこの主に信頼して、ゆだねてゆきたいと願います。

増補39番
「なつかしいあの場所へ」

*子どもたちと、子どもだった人たちのために

「あなたの祭壇に、鳥は住みかを作り
つばめは巣をかけて、雛を置いています。
万軍の主、わたしの王、わたしの神よ。
いかに幸いなことでしょう
あなたの家に住むことができるなら
まして、あなたを賛美することができるなら。」
(詩編84・4〜5)

 

教会学校の子どもたちの堅信式が行われ、感謝をささげるなかで与えられた、詩編84の歌。
 久しぶりに礼拝に出席することがゆるされた日、目を閉じて、皆が歌う賛美歌に耳を傾けました。わたしが賛美できなかった日にも、こうして世界中でずっと賛美と祈りがささげられていたことに気づかされ、感謝の思いがあふれました。
 主の家は帰る場所です。ひとときここをはなれることがあっても、主がわたしたちを呼びもどしてくださいますように。主の家へ。主のもとへ。あたたかい交わりの中へ。

「主の家に行こう、と人々が言ったとき
わたしはうれしかった。」
(詩編122・1)

世界の教会の声

浅野直樹Sr(世界宣教主事 市ヶ谷教会・スオミ教会牧師)

「ウクライナを覆う灰のとばり」

3月2日、四旬節の初日にあたる灰の水曜日にロシアのウクライナ侵攻に苦しむ人々を覚えて、世界のキリスト教徒が連帯と嘆きをともにしようと祈りをひとつにしました。このオンラインでのエキュメニカル礼拝には、その1週間前にロシアの戦闘機、戦車、軍隊の襲撃を受けたウクライナ東部国境地域に住む牧師や信徒たちも参加しました。礼拝はルーテル世界連盟(LWF)のほか、改革派、メソジスト、メノナイト、聖公会代表者らの共同開催で催されました。
 冒頭LWF事務局長アンネ・ブルクハルト師は、「二度と戻ってはならない時代へと世界を突き返してしまった人によるひねくれた政治」を非難しました。「灰のとばりがウクライナを覆っています。『あなたの兄弟はどこにいるのか、カイン?』、神は人類にむけて責任を求めています。この叫び声を暴挙の責任者の心に向けて呼びかけたいのです。」
 80カ国から3000人以上が礼拝に連なって各大陸から平和の祈りがささげられました。世界改革派教会共同体(WCRC)の事務局長ハンス・レッシング師がミカ書の預言「彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」を取り上げ、このみことばが今日まで3000年以上平和を作る人たちに感化を与え続け、すべての教会はこの平和作りという大変な作業のために召されていると述べました。
 2014年から紛争下にあるロシアとの国境に位置する町ルハンスクのメソジスト教会牧師アレクサンダー・シェフチェンコ師が証しをして、ロシアとウクライナの平和と政治指導者の賢明な解決を祈り求めました。包囲された都市ハリコフ近郊に位置するウクライナ・ドイツルーテル教会からパブロ・シュヴァルツ監督は公正な平和を祈り求め、そのためには侵略者と犠牲者の名前を挙げることもプロセスのひとつだと語りました。
 首都キエフにあるウクライナ正教会モスクワ主教座のミコラ・ダニレヴィッチ師は、連日80人規模の人々が爆撃から逃れようと地下シェルターに避難するという現状のなか、「我々も共にいるのです」と述べながら、正教会、プロテスタント、カトリック教会の連日の祈りと支援に対して感謝しました。また南東部の町ベルジャンスクのメノナイト教会、西部地域の改革派教会、西部ウクライナのアライアンス教会、ポーランドのバプテスト教会からの参加者たちが声を挙げ、困難なこの時期に支援を提供してくれる諸教会の活動に感謝しました。
 こうした危機のときにこそ、キリスト者たちの祈りと行動が希望もたらすとの力強い呼びかけで締めくくり礼拝は終了しました。

※ウクライナの平和を求める灰の水曜日の祈りについては下記サイトで紹介されています。
https://www.lutheranworld.org/news/pall-ashes-covers-ukraine-christians-join-prayer-peace

エキュメニカルな交わりから

 

①日本キリスト教協議会(NCC)第41回総会期の主題
藤原佐和子
(鶴ヶ谷教会・
NCC書記)

 

エキュメニカル運動は「教会の一致」を目指す運動と言われてきましたが、厳密には、神によってすでに与えられている一致(しかしながら、人間による罪の結果のために見えなくされている一致)を回復させていこうとする信仰運動です。この運動には、世界レベル、地域レベル(アジアなど)、国内レベルの拠点があり、日本では、日本福音ルーテル教会を含む6教団と、多くの加盟団体で構成される日本キリスト教協議会(National Christian Council in Japan、略称NCC)がその役割を担ってきました。日本には、外国にルーツを持つ人々が多く暮らしていますから、英語名称が「日本の」(of Japan)ではなく、「日本における」(in Japan)NCCとされている点は重要です。
 前総会期には、創立70周年を記念して「NCC主催・宣教会議」が東京で開催されました。そこで採択された「NCC宣教宣言2019」では、「日本におけるキリスト者はその人口の1%以下ですが、聖霊に押し出され、自己保存的な志向から解放されて、常に開かれた共同体、より包括的な共同体でありたいと願います」との姿勢が表明されました。これを受けて、昨年3月に始まる第41回総会期は、「すべての人に命と息と万物とを与えてくださるのは、この神だからです」(使徒言行録17章25節b)という聖句に基づき、「神の与えてくださるすべての命を愛する者として」という主題のもとに活動しています。6名の役員のうち、吉髙叶さん(日本バプテスト連盟)、西原美香子さん(日本YWCA)、筆者の3名が新しく就任し、これまで牧師・男性がほとんどであった役員会に、信徒・女性が増えました。
 現在のNCCには、ルーテルの教職者がリードされている在日外国人の人権委員会(李明生牧師)、平和・核問題委員会(内藤新吾牧師)、部落差別問題委員会(小泉嗣牧師)など、この世においてキリスト者としての社会的責任を果たしていこうとする大切な働きが沢山あります。正義、平和、被造世界の修復をはじめとして、エキュメニカル運動が取り組むべき諸課題は多岐に渡る一方、一人ひとりの意欲や能力には限界があります。ですが、「すべての人を一つにしてください」(ヨハネによる福音書17章21節)という、他ならぬイエス自身の祈りに共鳴し、私たちの限界を超えて働いていて下さる神に信頼し、教派を超えて、たゆまず協働(共に働くこと)していこうとするのが、エキュメニカル運動です。次回は、NCC「ジェンダー正義に関するポリシー策定のためのワーキンググループ」を紹介します。

青年有志によるオンライン配信プログラム
「NYNCステーション」のご案内

⻆本洵(神水教会)

ルーテル青年有志団体No Youth, No Church(以下、NYNC)が、今月から新たな試みをスタートします。今回は「NYNCステーション」と題したラジオ型式の企画です。昨年は、我々NYNCが1泊2日のオンライン合宿と、Pray! Play!! Friday!!!【ぷれぷれ】と題した月に1度のオンライン集会を開催し、ルーテル青年、ルーテル学院生との交流が与えられました。オンライン合宿も「ぷれぷれ」も、非常に充実した時間を過ごすことができましたが、昨今問題となっている「オンライン疲れ」は避けられない課題でありました。また、参加対象として18歳から35歳までの年齢制限を設けたことで、対象から漏れてしまった方々もいらっしゃいました。新たな企画を始めるにあたり、スタッフで議論した結果、スタッフや参加者のオンライン疲れを回避し、なおかつ開かれた企画を発信するためには、思いきってラジオ配信にしてみてはどうか、という結論に至りました。ラジオ配信にすることで、顔と顔を合わせた交流は難しくなりますが「いつでも」「誰でも」「どこでも」聴けることがメリットとして挙げられ、青年だけでなくルーテル教会につながる全国の皆様、さらにはこれから信仰に入ろうとしている方にも聴いていただけると考えています。配信プログラムは、パーソナリティによるお便りの紹介、ゲストとしてお招きする(他教派含む)牧師や信徒による証し等を予定し、現在準備を進めています。「NYNCステーション」は「ルーテル教会はもちろん、教派や宗教を超えた神様とのつながりをラジオ型式で発信することで、信仰のかたちを再確認し、青年たちの日常生活、繋がり、信仰生活の後押しをする。」ことをミッションステートメントとして掲げ、活動してまいります。月に1度、教会の仲間に、そして神様に心を向ける時間を有志の青年たちで作っていきたいと考えます。第1回は恵み野教会牧師中島和喜先生をお招きしての配信です。私たち青年の活動をお祈りに覚え、NYNCステーションをお楽しみいただけましたら幸いです。

【NYNCステーション】
期間 4月から8月までの全5回 第1回は4月22日(金)20時配信予定
ゲスト 中島和喜牧師
配信方法YouTubeもしくはPodcast「NYNCステーション」で検索

第28期第16回 常議員会報告

事務局長 滝田浩之

 

2月21〜22日にオンライン会議で開催された標記の件について、ご報告申し上げます。

⑴第29・30回定期総会の件
 5月3〜5日(火〜木)に予定されています定期総会につきましては、3月28日に開催する臨時常議員会において開催の是非を最終確認することとなりました。開催についてはまん延防止等重点措置、緊急事態宣言が発令されていないことはもちろんですが、参加者の多くが高齢であること、また教職についても社会福祉法人、学校法人、幼稚園・保育園との関りのある者が多いことを加味しつつ判断することを確認しました。顧問弁護士からの助言として、定期総会は憲法・規則に開催することが明記されており、すでに2年の延期を行っていることからも最大限、開催することが前提となること。しかし最終的には総合的な判断をもとに再度の延期を常議員会が判断することができると、すでに常議員会で承認した憲法規則改正委員会の答申を妥当とする旨の確認を頂いているところです。なお常議員会として、総会選出常議員(議長等)については2022年5月末をもって2期4年の任期を終了しているとの理解を確認しました。

⑵市ヶ谷耐震補強工事について
 財務委員会から市ヶ谷事業所をテナントとして利用されている団体より、2022年度内に可能な限り耐震補強工事の実施を強く要望されていること。また工事が延期されて以降、テナントを利用する職員の意識が高まったこともあり、事業所内の設備について特に感染症への対策を求められていることが報告されました。これを受けて、財務委員会としては一旦は工事費について1億5000万円ほどの減額を進めてきましたが、新たな要望を踏まえて工事費を4000万円増額した6億7000万円とする市ヶ谷耐震工事事業計画を常議員会に提案し、これが承認されました。
 常議員会は、この件については定期総会が延期された場合、4月25〜26日に予定している常議員会において宗教法人法第26条を適用し検討することを確認しました。検討にあたっては、耐震工事の更なる延期によるテナントとの契約解消に伴う財務的な課題、日本福音ルーテル教会所有の建物における大地震発生に伴う社会的な責任等が課題になることを確認しているところです。また耐震補強工事を実施するという点については、すでに2018年の第28回定期総会において承認されていることも検討を行う上で重要な議決であることを分かち合いました。

⑶総会提案の議案について
 総会では、「第7次綜合方策」、「アジア伝道について」、「ハラスメント常設委員の件」、「神学教育に関する協約の件」、「市ヶ谷耐震補強工事の件」、「決算・予算」について提案することを常議員会は承認しました。総会が延期された場合は、4月25〜26日に予定する常議員会において議案の扱いについて検討されることになります。総会が開催される場合は議案として提案されることとなります。ご審議をよろしくお願い申し上げます。

⑷「任用制度見直し」の件
 東教区常議員会から提案された、「任用制度見直しについての提言」を受けて常議員会では、これを教職を取り巻く働き方への全般的な問題提起と捉えた上で、憲法規則改正委員会に扱い方も含めて付託することを承認しました。今後、個別の状況にある教職からのヒアリング、また現行の「招聘と応諾」の考え方を確認しつつ検討が行われていくことになります。

 

以上、ご報告いたします。詳しくは送付されます常議員会報告をご確認ください。

2022年度日本福音ルーテル教会人事

 

〈退職〉
(2021年7月31日付)
太田一彦 (定年引退)
宮川幸祐 (退職)

(2022年3月31日付)
德野昌博 (定年引退)
杉本洋一 (定年引退)
中村朝美 (定年引退)

〈新任〉該当なし

〈人事異動〉
(2022年4月1日付)

【北海道特別教区】
該当なし

【東教区】
高村敏浩
仙台教会(兼任)、鶴ケ谷教会(兼任)、(2021年8月1日~2022年3月31日)
松岡俊一郎
仙台教会(兼任)、
鶴ケ谷教会(兼任)
小澤周平
千葉教会(主任)
中島康文
津田沼教会(兼任)
関野和寛
津田沼教会(嘱託/2021年12月1日付)
滝田浩之
小石川教会(主任・兼任)
奈良部恒平
本郷教会(主任)
三浦知夫
板橋教会(兼任)
高村敏浩
羽村教会(兼任)
浅野直樹jr.
八王子教会(兼任)
坂本千歳
八王子教会(嘱託)

【東海教区】
後藤由起
名古屋めぐみ(主任)、知多教会(兼任)
徳弘浩隆
高蔵寺教会(主任)、復活教会(兼任)
後藤直紀
大垣教会(主任)、
岐阜教会(兼任)

【西教区】
竹田大地
天王寺教会(主任)、西宮教会(協力牧師)
水原一郎
西宮教会(兼任)
神﨑伸
神戸教会(主任)、
神戸東教会(兼任)

【九州教区】
小泉嗣
熊本教会(主任)、
玉名教会(兼任)
【任用変更】
関野和寛
 一般任用から嘱託任用へ

【休職】
渡辺高伸
2020年10月14日付

【復職】
坂本千歳
(嘱託任用)

【宣教師】
Mirjam Harju
2022年5月末帰国

【J3プログラム】
〈新任〉
Laura Slezak
 九州学院
Volamala Ranaivoson 
 本郷学生センター
〈任期終了〉
Jessica Hill

○牧会委嘱(2022年4月1日付/1年間)
德野昌博
 仙台教会/鶴ケ谷教会
小山茂
 板橋教会
横田弘行
 掛川菊川教会
明比輝代彦
 新霊山教会
齋藤幸二
 知多教会
大宮陸孝
 賀茂川教会
乾和雄
 神戸東教会

白髭義
 二日市教会
黄大衛
 長崎教会
濱田道明
 合志教会

○ルーテル学院大学・日本ルーテル神学校人事
立山忠浩
校長(再任/2022年4月1日~2026年3月31日・都南教会と兼務)

2022年度教会手帳住所録訂正のお願い

2022年度教会手帳住所録19頁、《引退》のV・ソベリ先生の住所が変更となりました。新しい住所は以下の通りです。

V・ソベリ
(Virpi Soveri)
Hepomäemkatu
4 B 2
80140 Joensuu
FINLAND
(電話番号・Eメールアドレスに変更はありません。)

22-03-01るうてる2022年03月号

機関紙PDF

「受難節を憶えて—あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ—」

日本福音ルーテル熊本教会・玉名教会 牧師 杉本洋一

「イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。
 神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」」
マタイによる福音書4章4節

3月2日の聖灰水曜日から、典礼色も「紫」に変わります。礼拝式文からも福音に先立って歌われていた「ハレルヤ唱」は歌われなくなり、替わって〝キリストはおのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで み旨に従われた〟との詠歌が唱えられます。この期節は、典礼色が示すとおり、真剣な〝悔い改め〟の時となります。

前年の棕櫚主日に使われた棕櫚の葉を燃やして作った灰を取っておき、この日に信仰者の額に、灰で十字のしるしをつけながら、司式者は「あなたは、塵であるから、塵に帰ることを覚えよ」とのことばを添えることも行われてきました。

この「ことば(の持つ意味)」と「灰」により、メメント・モリ(memento mori=「汝の死を忘れるな」)が意識されてきました。〝この世の美しさも、地位も名誉も財産も、しばしの栄華にすぎず、やがてそれらは夢のように消えていく。どんな人であっても、死んだときに残るのは、ただ一握りの灰である〟という死と、朽ちるものであるということを学ぶことでもあります。つまり、それはキリストの苦難と死の意味について考えることであり、その苦難と死へイエス・キリストを導いたのは、わたしの「罪」であり、真の悔い改めを心に刻むことを「灰」は教えようとするのです。灰は死のシンボルですし、生命が、もうぜんぜんないというしるしでもあるのです。

もう3年目に入りますが、私たちは、コロナ感染の不安や心配、閉塞感の中にあります。聖餐式も行いづらい中にあります。パンと葡萄酒をもって、キリストの体と血をいただくことをしてきました。それと同様に、聖灰水曜日は、額に灰をつけることを通して、自分が罪人であることを、自分が罪の中にあることを、死ぬことを憶えるのです。

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3・16)とは、神がどれほどの愛をもって、一人ひとりを愛してくださっているかを感じることのできるみ言葉です。私達の罪を私達から取り去るために、イエスさまが十字架上で死ななければなりませんでしたが、イエスさまの苦しみ、痛み、淋しさ、捨てられた事、侮辱、鞭打ち、死がその背後に裏打ちされているのです。しっかり心に留めたいのは、私達は、「灰」を通して、愛のしるしを見、いのちの神を見ることです。今年も受難節で、私達を赦すために、イエスさまがどんなに苦しみを背負われたことか、悲しい思いをされたのか、つらい思いをされたのかを思い起こし、憶えましょう。
 「灰」である私たちに、いのちの息を吹き込まれたのは神さまです。自己本位にしか生きることのできない存在の私たちと共に生き、支えてくださるのは神さまなのです。
 今、全世界が経験したパンデミックの中で、イエスさまは、語り続けます。「パンだけで生きるものではない」と。それは「パンがなくても良い、生きていける」などと荒唐無稽のことをおっしゃられたのではありません。パンは必要、パンも必要なものです。しかし、パンだけあれば、すなわち体の健康・生活の支えさえあれば私たちは良いのかという問いです。人は、心も体もあるものとして創られました。その全体において、心において生きる価値を味わっているだろうか、人としてこの世に生まれたこと、生かされている喜びはあるだろうかと尋ねておられるのです。

イエスさまは40日間の断食のあと、ガリラヤに戻って、共に食べ、飲み、喜び合う共同体を作っていきます。そこでイエスさまは、イスラエル民族が「荒れ野の40年」で学んだはずの、「人はパンだけで生きるものではない」という精神を受け継いで、貧しい者や弱っている人、あるいは罪人といわれて社会から排除されているような人びとを招いて食事をするということを実践していきました。

いま私たちは、このイエスさまの心を受け継いで、共に食べ、飲み、分け合って喜び合う関係を、つながりを、全ての人に開かれたものとして実現することが求められているのかも知れません。

エッセイ「命のことば」 伊藤早奈

㉔「祈り」

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」(マタイ7・7)

  「どうして今私はここにいるんだろう。」と良く思います。きっとあの時も命のことばであるイエス様と共にあの人が私と一緒に歩いてくれたからだ。
 生きている中で一人一人それぞれがいろんな人に出会うでしょう。そのあなたが出会う人も必ずイエス様が共におられます。私は検査入院の時に強い孤独を感じ「辛い時に話をゆっくり聴いてあげる人になりたい」とまずカウンセラーになりたいと思い資料をかき集め始めました。その時は一般的な勤めをしていたので社会人入試ができる学校を探していました。基本には必ずキリスト教があって欲しいと思いながらたくさん資料を送ってもらいましたが全然見つけられず困っていました。ある時知人が知り合いの心理学を学んでいる人に相談したところ、ルーテル学院のカウンセリングコースを紹介されました。
 その導きがなければ私は今ルーテル教会にはいません。学校でいろんな仲間や先生に出会いそしてみ言(ことば)に出会い今があります。神学校卒業の時久しぶりに会った、私に学校を紹介して下さった方が「こうなると思ってました」と言われました。それを聞いて私は「祈って下さってたんだ」と初めて気づき感謝しました。一人一人にはいつもイエス様が共におられます。それは今もこれからもずっと。「あなたは一人ではありません」

議長室から 大柴譲治

「二つのJ」を愛する〜文楽・豊竹呂太夫

 内村鑑三に「われは二つのJを愛する。即ちJesusとJapanを」という言葉があります。確かに私たちの国籍は天にあるとしても、この二つは共に天から贈り与えられている賜物。遠藤周作は「洋服のキリスト教」を「和服」にするという課題を自らに課しましたが、ともすれば異質なこの二つのJをどのように統合するかは日本に生きるキリスト者として一人一人に求められている信仰告白的な課題でありましょう。事柄としてはキリスト教の日本での「文化内開花/土着化/文脈化」ということになります。

 大阪教会員の林雄治さん(1947〜)は、2017年4月に「六代目・豊竹呂太夫」を襲名された文楽の太夫です。襲名に合わせて『文楽 六代豊竹呂太夫・五感のかなたへ』を出版(創元社2017。Kindle版あり)し、文楽の面白さを大変分かり易く伝えています。文楽は江戸時代に大阪で成立した人形浄瑠璃文楽で、日本の重要無形文化財、ユネスコの無形文化遺産。人形と太夫と三味線が三位一体のような役割を果たしますが、氏はお客さんを含めてそれを「四位一体」と言われます。「お客さんは、喜怒哀楽を巧みに演じる『意思のない人形(木片)』に自分を投影しつつ、己の想像力によって喚起される「私」自身の物語に出会うわけです。この「四位一体」総がかりのすさまじいエネルギーで物語が展開されていく文楽の舞台。これがもう300年以上続いてまして、伝統芸能、古典芸能と呼ばれる所以です」(朝日新聞社言論サイト『論座』2022年1月3日掲載記事より)。

 氏は2000年に豊竹英太夫という名で自らの信仰告白として新作『Gospel in文楽〜イエスの生誕と十字架』を創作。これまで人形入で17回公演されてきました。DVDもあって部分的にはYouTubeで鑑賞も可能です(英語字幕付)。「もろ人の罪を贖わんと十字架にかかりたもう、人となりたる生ける神なり、生ける神なり」という語りは観る者の心にダイレクトに響きます。2017年10月29日には大阪教会でも宗教改革500年を記念した楽劇『ルター〜文楽とルネサンス・ダンスの邂逅』(上村敏文作)の中で『ゴスペルイン文楽』を抄演していただきました。その記録DVDをドイツや米国の教会に持参したところ大変に喜ばれています。キリスト教の日本文化内開花を考える上で一つの貴重な実践例です。本年7月6日には兵庫県立芸術文化センターで18回目の公演が行われる予定で今から楽しみにしています。天から賜った二つのJを恵みとして深く味わいたいものですね。

「教会讃美歌 増補」 解説

㉑創作賛美歌解説1(※公募に寄せられた創作賛美歌の作者による解説を紹介いたします。)
石原祐子(賀茂川教会)

増補24「救いの主イエスよ」

*待降節に
「わたしの魂は主を待ち望みます
見張りが朝を待つにもまして
見張りが朝を待つにもまして。」(詩編130・6)
「『然り、わたしはすぐに来る。』アーメン、主イエスよ、来てください。」
(黙示録22・20)

 

主のご降誕をともに待ち望む恵みを感謝いたします。
 闇しかみえない日。絶望のなかに落ち込んで抜け出せないとき。眠ることができない長い長い夜。
 「神さま、来てください」とひたすら呼び求めます。わたしたちはあてもなく願うのではない。ひとりで待つのではない。
今このときも、同じ地上のどこかで主を求めて祈っている多くの友と共に、すでにみわざを始めてくださっている主の確かさに信頼して、待ち望みます。
 心合わせて信じ、歌い、祈り合いながら、歩ませていただきたいと願います。

増補34番「いかに幸いなことか」

*主にある友のために
「エシュルンの神のような方はほかにはない。
あなたを助けるために天を駆け
力に満ちて雲に乗られる。
イスラエルよ、あなたはいかに幸いなことか。
あなたのように主に救われた民があろうか。」
(申命記33・26、29)

友の病気を知らされ、そのつらさを思い、なんと声をかけたらよいのかわからず祈っていた日に、このみことばが与えられました。
悲しんでいるわたしたち、病のなかにあるわたしたち、うちひしがれて途方にくれているわたしたちに、主は今、「あなたは幸いだ」と宣言してくださいます。
 自分の中に人を励ます力はないけれど、この主の祝福を、心をこめて伝え合う者にならせていただきたいと願います。
主がみことばによって力強く約束してくださったように、今、盾となって大切な人たちを守り、永遠のみうでによって支えていてくださいますように。

世界の教会の声

浅野直樹Sr(世界宣教主事 市ヶ谷教会・スオミ教会牧師)

変化の時代における洗礼

 ルーテル世界連盟LWF北欧地区の5教会がプロジェクト「変化の時代の洗礼」を企画、1月末にオンライン協議を行い、異なる状況や年代層に応じた洗礼の実践と典礼をどうするかなどについて話しあわれました。
 このプロジェクトは2020年から2022年にかけて行われ、北欧5カ国のルーテル教会(デンマーク、フィンランド、アイスランド、ノルウェー、スウェーデン)が進める総合計画「変化の時代における教会」の第1弾にあたります。
 プロジェクトの責任者ハラルド・ヘグスタット教授によると、「北欧の状況は類似しているとはいえ違う点もあり、たとえば洗礼式は主日礼拝に教会でするだけでなく、自宅やそれ以外の場所だったりします。」
「COVID-19はこうした洗礼のやり方に確かに影響を与えています。パンデミックが始まって小児洗礼者数は減少しました。今後「ノーマル」に戻るかどうかは今の時点ではなんとも言えません。」
「洗礼式を礼拝という公共の場ではなく、個別に行うケースが増えてきました。この傾向はパンデミックが今後どうなっていくかに関わらず、北欧の教会では続く可能性があります。」
 プロジェクトはその成果として18の検討課題を提示しました。これは各教会から出されたテーマを手がかりとして、洗礼式の具体例を紹介しつつ課題や問題点を検討した結果、整理されたものです。これが各教会での洗礼の実践を規制するというわけではなく、どう活用するかは各教会の判断に委ねられます。
「プロジェクトを実施したことで思わぬ効果もありました。教会指導者や牧会者レベルでのつながりが強くなりました。これまでも北欧の各教会では様々な共同作業がありますが、お互いから学ぶという姿勢が今回は特に顕著でした。共通言語として英語を用いたのもよかったです。」(ヘグスタット教授)
 イレニウス・ルカスLwFヨーロッパ局長は次のように述べています。「LWF加盟教会の共同作業だったという点に注目しています。信仰の基礎的テーマについて共同研究できたことで、今後もっと幅広い神学的な議論と意見交換が可能になるでしょう。他の地域でもこのプロジェクトを参考にしてほしいです。」
 プロジェクトを締めくくるオンライン協議会では、洗礼に関して次の4点から全部で18の検討課題が提示されました。⑴社会変化と統計、⑵洗礼の神学、⑶洗礼のコミュニケーション、⑷洗礼の実践。

※18の検討課題は下記サイトで紹介されています。
https://churchesintimesofchange.org/recommendations

2022年度教会手帳 住所録訂正のお願い

 

「母子生活支援施設ベタニヤホーム」の電話番号が古い情報のままとなっておりました。
お詫び申し上げますと共に、謹んで訂正させて頂きます。現在の情報は以下の通りです。

母子生活支援施設
ベタニヤホーム
電話(03)6240―2785
FAX(03)6240―2795

オンラインによる全国青年の集い Pray!Play!!Friday!!!報告

髙濱遼太(健軍教会)

全国のルーテル教会につながる35歳以下の青年を対象としたオンラインでの青年の集い「Pray!Play!!Friday!!!」略称【ぷれぷれ】が昨年7月から12月にかけて月に1度、6回開催され全国から各回30〜40名ほどの参加者が集いました。
 昨今激減した青年同士の交わりや分かち合いの時を定期的に持ち、新たな同世代の信仰の友との出会いの場所を持てたらと願ってのことであり、有志の青年によって企画されました。今回の【ぷれぷれ】では、共に聖書を開き、みことばを分かちあうことで、神様との関係、教会との繋がりについて考えるだけでなく、7月16日は竹田大地先生、8月27日は角本浩先生、9月3日は和田憲明先生、10月1日は永吉穂高先生、11月26日は河田優先生、12月17日は関野和寛先生をお招きし、青年に向けた聖書のお話をしていただきました。さらに様々なレクリエーショやトークセッションを企画し、コロナ禍によって失われていた青年同士の交流の時を持つことができました。また【ぷれぷれ】では全国のルーテル教会の青年だけでなくルーテル学院大学の学生も参加の対象とし、新たな仲間との出会いの時とすることができました。
 コロナ禍によって青年活動のあり方も大きく変化しましたが、対面では簡単には会うことができない全国の仲間とオンラインでつながることができ、このような状況にあっても神様を通して私たちがつながっているということを、参加者一人一人が実感できたのではないかと思います。【ぷれぷれ】は12月をもって終了とさせて頂きますが、今回の企画が青年にとって神様や教会とのつながりについて考えるきっかけとなればと願っております。
 最後になりましたが、ゲストとして参加していただいた先生方、【ぷれぷれ】のために案内告知をしてくださった方々、スタッフとして尽力してくださった方々、何より【ぷれぷれ】を最後まで守り導いてくださった神様に感謝しこの報告を終えたいと思います。

ルター研究所〝クリスマス講演会〟報告

江口再起(ルター研究所所長)

 

1521年、ルターは珠玉の名品『マグニフィカート講解』を出版しましたが、その500年を記念して、ルター研究所では〝クリスマス講演会〟をオンラインで開催しました(2021年12月12日)。全国100カ所で視聴され盛会でした。
 マグニフィカートとは、受胎告知を受けたマリアの、神への賛美の歌です(「マリアの賛歌」、ルカによる福音書1章46節以下)。ヴァルトブルク城に保護幽閉されていた時、ルターはその解説書を著わしました。
 講演会は3部構成で行われました。第1部は江口再起(ルター研究所所長)の講演「待つということ─マリアと現代」でした。ここで「待つ」とは、神の顧みに信頼して謙虚に生きるということです。このテーマを現代ドイツの哲学者ハイデガーの「ゲラッセンハイト(放下)」という言葉を参考に考えました。
 第2部は、バッハ作曲「マグニフィカート」の見事な演奏(聖トマス教会でのT・コープマン指揮)。加藤拓未(バッハ研究者)が解説を担当しました。
 第3部は3人の発題者によるシンポジウム「ルターとマリア」でした(司会は石居基夫ルーテル学院大学学長)。最初に滝田浩之(JELC事務局長)が、ルターを尊敬していた将来のザクセンの統治者若きヨハン候との関係の中で、この名著が執筆された経緯について、自らのこの本との出会いを交えて話があり、次に多田哲(日吉教会牧師)が当時のカトリックとルターのマリア像のちがい(祈願から賛美へ、崇敬から記念へ、代弁者から共に祈る者へ)等について語りました。そして最後に安田真由子(ルーテル学院大学講師)が、専門の新約学そして女性の立場から論じました。マリアは1人の素朴な少女であった事、同じ恐れと喜びを共有していたエリザベトとの出会いの重要性、また賛歌の底流に権力への批判がある事などが語られました。三者三様、内容豊かなシンポジウムとなりました(敬称略)。
*なお、第1部と第3部の録画は、日本ルーテル神学校のホームページの「ルター研究所」のサイトから見ることができます。

公 告

 この度左記の行為を致しますので、宗教法人法第23条の規定に基づき公告致します。
2022年3月15日
宗教法人日本福音ルーテル教会
代表役員 大柴譲治
信徒利害関係人 各位

 甲佐教会牧師館 解体
・所在地 熊本県上益城郡甲佐町岩下西園
・所有者 日本福音ルーテル教会
・家屋番号 207番地
・種類 教会 牧師館
・面積 69・22㎡
・老朽化のため

定年教師挨拶

太田一彦

私は昨年の7月心臓病のため退職させていただくことになりました。年度途中の退職は、遣わされている2教会と三つの保育園にまた教区に大きな迷惑をかけることになるので3月迄は頑張りたいと思いましたが、すでに入退院を繰り返しておりその思いが単なる自己満足になって更なる迷惑をかけることが目に見えていましたので、担当医の復帰は無理だろうとの言葉もあり正規の定年まではまだ2年ありましたが退職を決断させていただきました。
 思い起こせば幼少より東京教会の教会学校で育てられ、教職として今日まで主がルーテル教会に私を生かしてくださったことにただただ感謝しております。最初の任地は仙台教会、そして三鷹教会、都南教会、再び仙台の鶴ヶ谷教会・仙台教会でした。皆様に支えられて歩んでくることができた喜びと感謝に今満たされています。草は枯れ、花は散る。しかし神の言葉は永遠に残るとのイザヤの言葉を今退職するにあたり噛み締めています。
 現在は長男の赴任先の気候温暖な静岡市で療養を兼ねて過ごしております。家の中での生活ですがもう暫くこちらで過ごし、許されれば東京に戻りたいと思っているところです。これまでありがとうございました。

「支えを感謝して」杉本洋一

 今、主のご用のために用いていただけたことを感謝しています。これまでかかわりを持っていただいた多くの方々、とりわけ、遣わされた教会の信者・関係者・地域の方々、そしてお付き合いくださった教職者に対しお礼を申し上げたいと思います。私は、神大卒業の後、キリスト教主義学校の教員として、そして牧師として働いてきました。忘れられないことばかりです。得難い経験をさせていただく時間でした。「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」は、私が洗礼を受けてからずっと響いている言葉です。今はもう天に召された教え子のK君は、再び神学校へ戻って牧師になるようにとのきっかけを作ってくれた生徒でした。棺に入った彼の顔は忘れられません。初任地の健軍で、施設を通してのつながりを持ち、育った子どもたちにとっては郷里であることに違いありません。フィンランドでは素朴で熱心な信仰に生きる人々との出会いがあり、深いつながりを今も持っています。田園調布では、地域とのつながりを教会と幼稚園で教えられました。熊本・玉名は、歴史の大事さや熊本地震を通して、人との関係をいただきました。
〈これまでの任地〉健軍教会(熊本)、フィンランド福音ルーテル協会(フィンランド・ヘルシンキ)、田園調布教会・田園調布ルーテル幼稚園(東京)、熊本教会・玉名教会(熊本)

「新たな旅立ち」德野昌博

 わたしは1980年3月に神学校を卒業し、東海教区の名古屋教会で按手を受けました。最初の任地は東海教区の岡崎教会で、5年間働きました。次に任を受けたのは、北海道特別教区の恵み野教会で10年間。そして、西教区の天王寺教会で3年間。その後、熊本の九州ルーテル学院で8年間、大学と幼稚園のチャプレンとして働きました。その後、東教区の小石川教会に転任し、16年間働いて定年退職します。42年間の現役牧師生活でした。
 「40年で終えると、聖書的でいいなぁ」なんて勝手なことを思い描いていましたが、最後の2年間は、いわゆる「コロナ禍」にあって、教会の活動も、牧師の働きも制限してきました。そのせいか、すっかり定年教師になった気分になり、小石川教会には申し訳ない思いでした。それでも、神様の恵みは牧師としての人生に働き、教会の歴史の中に働いていることを実感させられてきました。神様の恵みは、過去の歩みの中だけではありません。未知である、私の老い行く将来もまた、神様の恵みのみ手の中にあることを感謝します。思い新たに、喜んで、「牧会委嘱」の任をいただいて、旅立ちます。皆さん、ありがとうございました。

中村朝美

 40年前、ルーテル神学大学神学科神学専修コースに入学し、大学改組前の最後の卒業生です。「荒れ野の40年」とよく言われますが、私にとっても40年という年月はいろいろな変化がありました。当時、いろいろな場面で選択肢が欲しいと願っていました。今では任用形態も一般、嘱託を選ぶことができ、夫婦同居、単身赴任、通称使用の選択も自由にできるようになりました。とても嬉しいことです。また、名簿から男女の区別を撤廃したことを通して、「個」を尊重することの大切さを広く伝えてゆければ良いと願っています。按手を受けてからずっと、「定年まで牧師生活を全うしなさい」と励まし続けてくださった方がおられたことは何よりの支えとなっていました。東海教区で20年間、希望、岡崎、高蔵寺各教会、また九州教区での講壇交換を通して多くの教会で共に礼拝を守れたことは幸いでした。東海教区では炊き出しを始めとした野宿労働者支援に関わり、その後、宮崎教会を経て八王子教会を以て現職生活を終えることになりました、今までお支えに感謝いたします。

第7次綜合方策の紹介⑾

事務局長 滝田浩之

■方策本文より

第7次綜合方策主文
10.ハラスメント

⑴被害届窓口の新設
 ハラスメント事案に対処するために相談窓口を設ける。

⑵解決システムの構築
 解決に取り組むための体制を構築する。

⑶防止を目指す
 ハラスメントの解決に取り組む組織は、発生した事案に対処するだけではなく、防止することを目的とする。そのために学習の機会を設け、継続する。今後、ハンドブックの作成、啓発活動に取り組む。

1.教会財務
⑴公益会計・基金会計・収益会計

 2010年に総会において採択された「財政内容好転緊急提案」に基づき、日本福音ルーテル教会の公益会計、基金会計、収益会計は、これを持続的に運営する体制を整えてきた。今後も、この方向性を堅持する。

⑵土地・建物計画
 教区を軸として進められる教会編成を土台としつつ、持続的な建物計画に関して、収益事業の見通しから2028年以降、これを実行できる体制を整えていく。また老朽化対策の規則改正を検討する。
 この場合、地域の宣教体制が大胆に編成される時、宣教拠点となる教会建物への土地売却益の用い方について、地域を超えて教区の宣教計画の中で用いられる可能性について検討を開始する。

⑶教職退職金・教会年金
 引退教師を支える教職退職金、教会年金については、現状の体制を維持することに努める。

■解説
「ハラスメント」

 日本福音ルーテル教会は、あらゆる「ハラスメント」を許さない!ということを改めて、私たちが大切にしていく事柄として確認したいと思います。そして何よりも「ハラスメント」とは何かという学びを深めていく必要があります。また「ハラスメント」事案の特徴として、できるだけ早い段階で「相談窓口」にご相談頂くことは事柄を深刻化させないためにも重要なことです。「相談窓口」を委託しているフェミニズム・カウンセリング東京は、24時間体制で相談を受け付けてくださっています。メールでもご相談頂けます。
 また「ハラスメント」を起こさないことが一番大切なことですけれど、私たちはいつでも「ハラスメント」の当事者になり得るという自己認識が必要です。そして「ハラスメント」を起こしてしまった時に、できるだけ早く事柄の重要性に気づき適切な対応を取れる組織でありたいと願っています。個々の教会のみならず、関連する法人・施設、TNGの行うキャンプに関わる方々に、その点をご理解頂けますと幸いです。

「教会財務」
 教会の財務については1969年のアスマラ宣言から50年を経過しています。2003年からは海外からの人的支援を除くすべての直接的金銭支援が終了しています。来年で20年を経過することになります。この間、日本福音ルーテル教会として自立路線と言われる道筋を様々な方策を通して形にしてきました。これらの経験を踏まえつつ、これからも目まぐるしくかわる社会状況の変化に対応していくことになります。
 しかし財務的な経験を通してはっきり言えることは、最も確かな教会の財源は会員の皆様の貴い「献金」です。収益事業は、特に今回のコロナ禍で明らかなように大きく変動するものです。そして教会の様々な課題を解決していく糸口、それは個々の教会の確実な成長です。「確実」という言葉を用いました。この「確実な成長」のあり方について、第7次綜合方策全体は語ってきたと理解しています。
 方策の解説の場を与えられたことを感謝しつつ、日本福音ルーテル教会が、み言葉を伝え、隣人を愛し、平和を願う道を通して、地道に、そして確かに「キリストの教会」に成長することを願っています。 (了)

22-03-01イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」

イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。
神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」
マタイによる福音書4章4節

 3月2日の聖灰水曜日から、典礼色も「紫」に変わります。礼拝式文からも福音に先立って歌われていた「ハレルヤ唱」は歌われなくなり、替わって〝キリストはおのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで み旨に従われた〟との詠歌が唱えられます。この期節は、典礼色が示すとおり、真剣な〝悔い改め〟の時となります。
 前年の棕櫚主日に使われた棕櫚の葉を燃やして作った灰を取っておき、この日に信仰者の額に、灰で十字のしるしをつけながら、司式者は「あなたは、塵であるから、塵に帰ることを覚えよ」とのことばを添えることも行われてきました。
 この「ことば(の持つ意味)」と「灰」により、メメント・モリ(memento mori=「汝の死を忘れるな」)が意識されてきました。〝この世の美しさも、地位も名誉も財産も、しばしの栄華にすぎず、やがてそれらは夢のように消えていく。どんな人であっても、死んだときに残るのは、ただ一握りの灰である〟という死と、朽ちるものであるということを学ぶことでもあります。つまり、それはキリストの苦難と死の意味について考えることであり、その苦難と死へイエス・キリストを導いたのは、わたしの「罪」であり、真の悔い改めを心に刻むことを「灰」は教えようとするのです。灰は死のシンボルですし、生命が、もうぜんぜんないというしるしでもあるのです。
 もう3年目に入りますが、私たちは、コロナ感染の不安や心配、閉塞感の中にあります。聖餐式も行いづらい中にあります。パンと葡萄酒をもって、キリストの体と血をいただくことをしてきました。それと同様に、聖灰水曜日は、額に灰をつけることを通して、自分が罪人であることを、自分が罪の中にあることを、死ぬことを憶えるのです。
 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3・16)とは、神がどれほどの愛をもって、一人ひとりを愛してくださっているかを感じることのできるみ言葉です。私達の罪を私達から取り去るために、イエスさまが十字架上で死ななければなりませんでしたが、イエスさまの苦しみ、痛み、淋しさ、捨てられた事、侮辱、鞭打ち、死がその背後に裏打ちされているのです。しっかり心に留めたいのは、私達は、「灰」を通して、愛のしるしを見、いのちの神を見ることです。今年も受難節で、私達を赦すために、イエスさまがどんなに苦しみを背負われたことか、悲しい思いをされたのか、つらい思いをされたのかを思い起こし、憶えましょう。
 「灰」である私たちに、いのちの息を吹き込まれたのは神さまです。自己本位にしか生きることのできない存在の私たちと共に生き、支えてくださるのは神さまなのです。
 今、全世界が経験したパンデミックの中で、イエスさまは、語り続けます。「パンだけで生きるものではない」と。それは「パンがなくても良い、生きていける」などと荒唐無稽のことをおっしゃられたのではありません。パンは必要、パンも必要なものです。しかし、パンだけあれば、すなわち体の健康・生活の支えさえあれば私たちは良いのかという問いです。人は、心も体もあるものとして創られました。その全体において、心において生きる価値を味わっているだろうか、人としてこの世に生まれたこと、生かされている喜びはあるだろうかと尋ねておられるのです。
 イエスさまは40日間の断食のあと、ガリラヤに戻って、共に食べ、飲み、喜び合う共同体を作っていきます。そこでイエスさまは、イスラエル民族が「荒れ野の40年」で学んだはずの、「人はパンだけで生きるものではない」という精神を受け継いで、貧しい者や弱っている人、あるいは罪人といわれて社会から排除されているような人びとを招いて食事をするということを実践していきました。
 いま私たちは、このイエスさまの心を受け継いで、共に食べ、飲み、分け合って喜び合う関係を、つながりを、全ての人に開かれたものとして実現することが求められているのかも知れません。

日本福音ルーテル熊本教会・玉名教会 牧師 杉本洋一

W.ブレイク作「最初の誘惑」(1815-1819年)
ケンブリッジ・フィッツウィリアム美術館所蔵

22-02-01るうてる2022年02月号

機関紙PDF

「御心ならば、清くすることがおできになります」

日本福音ルーテル八王子教会牧師 中村朝美

「すると、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、
『主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります』と言った。」
マタイによる福音書8章2節

 ある教会でこのようなことを話してくださった方がおられました。「子どもが小さかった時、重い病気にかかり、当時通っていた教会の牧師先生にお祈りをお願いしました。『御心でしたら癒やしてください』とお祈りされました。何故、癒やしてくださいではなく、御心でしたら、と祈られたのかと、私は素直に聞けず、また非常に悲しかった思いをしました。」
 病床訪問する時、「早くお元気になってください」などと言いたくなるのが人情ですが、この方の言葉が主イエスの病気の癒やしを伝える箇所を読むたびに心を横切るのです。福音書には主イエスによる病気の癒やしの出来事がいくつも語られています。多くの場合、様々な病気を患っている人々—目の見えない人、体の不自由な人々、悪霊に取り付かれている人たち—が主イエスに憐れんでいただきたいと願い出ることから、或いはその人々を主イエスがご覧になり、深く憐れまれることによって癒やしの御業がなされています。ルカ福音書17章で語られている重い皮膚病を患っている人々の癒やしにおいても、患っている人々が、憐れみを願っています。
 しかしながら、マルコ福音書1章40節以下及びその並行箇所で語られている「重い皮膚病を患っている人の癒やし」の出来事は本人は直接憐れんでくださいと訴えてはいません。「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願い出ています。

 「重い皮膚病」とわざわざ語られていることで、この人が負わされている社会的、宗教的に差別され、負わされている苦悩は幾重にも取り巻き、絶望の日々を送っていたことが伝わってきます。この病は他の病とは異なり、ただ単に癒やされるのではなく、清められなければならない病でした。だからかも知れません。主イエスの御前にひれ伏すしかなかったのでしょう。
 癒やしの奇跡の出来事の多くが、「ご覧になって」、「深く憐れまれて」と主イエスから声をかけられているのに対して、この人は憐れみを乞う前に主イエスの意思を尊重しています。御心ならば…と、あなたがそうしようとお思いになるならばと、憐れみをこいねがう相手に対する深い信頼を込めて願い出ています。そこには自分には理解できないことでも、不可解なことであっても、神の深いご計画が隠されているならばそれを引き受けます、あなたは決して不幸のままに終わらされないからですという信頼、信仰が込められているのではないでしょうか。

 病気の時、「祈ってほしい」という願いの中には、早くよくなるように、信仰があれば癒やされる…と慰めや励ましを求めていることが多いように思えるのです。医学的に見込みがないとご本人も知っていても、奇跡を願う思いはどこかにあるように思うのです。事実、末期がんから生還した方もいらっしゃいます。信仰があれば治ると思いたいのではあります。治りたい、治る、でも治らない、という時の葛藤は、信仰を持っている場合と、そうでない場合は違ってくると思えるのです。
 そのような葛藤を主イエスはゲッセマネの園での祈りを通してご自分のものとされています。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」
 病気が治る、治らない、願いが叶う、叶わないは本人にとって大きな問題であることに間違いないことです。病気の子どものために祈ってほしいと願った方は、「御心のままに」という祈りに悲しい思いをされたと語られましたが、その方にとって「御心でしたら」という言葉をずっと思い巡らされていたのでしょう。そこから、主イエスの御意思がどこにあるのか、何であるのかを問う、新しい信仰の歩みをされていったのではないかと思えるのです。その時は受け止めきれなくても、じっと見守って下さっている憐れみの中に置かれていることを信じてゆきたいと思うのです。

エッセイ「命のことば」 伊藤早奈

㉓「寄り添って」

私はあなたを胎内に形づくる前から知っていた。/母の胎より生まれ出る前にあなたを聖別していた。/諸国民の預言者としたのだ。」(エレミヤ書1・5協会共同訳)

 「あの時もイエス様が共にいらしてて私は一人ではなかったんだ。」と最近やっと気づきました。
 私は二十数年前2週間ほど検査入院をして今の病気がわかりました。入院中はずっと一人だと思い孤独で孤独でいつも誰かに話を聞いて欲しくてどうしようもありませんでした。自分の体が変で調べて欲しいから病院に行ったのにいざ検査入院となると毎日毎日検査続きで、多い日には検査が1日に3種類も4種類も行われて、いったい自分の体で何が起こっているのかと不安で眠れない毎日でした。孤独を感じる時、そうなる人は多いような気がします。でもお医者さんも看護師さんたちも忙しそうで話を聞いて頂くどころではありませんでした。漠然とカウンセラーの方なら話を聞いて下さるのかなと思い後々学びに入ります。
 「イエス様はいつもあなたと共におられます。」と私は神様から今語られ伝えております。そう言う今の自分と過去の自分が最近自分の中で出会いました。私が検査入院で孤独を感じ誰かに話を聞いて欲しかった時もすでに私と共にイエス様がおられて私の心を聴いて下さっておられたのだと今は思えるのです。
 いつもあなたと共にイエス様がおられます。あなたは決して一人ではありません。

議長室から 大柴譲治

sola gratia〜母の胎にいる時から

「私はあなたを胎内に形づくる前から知っていた。/母の胎より生まれ出る前にあなたを聖別していた。/諸国民の預言者としたのだ。」(エレミヤ書1・5協会共同訳)

 パウロは自らの召命をエレミヤと重ね合わせています(ガラテヤ1・15)。ダマスコ途上で復活の主に呼び止められて劇的な回心をするまでパウロはファリサイ派の若きリーダー、キリスト教の迫害者でした。彼は最初の殉教者ステファノの死にも立ち会っていた(使徒8・1)。自らを「罪人の頭」(一テモテ1・15協会共同訳)と呼ぶ背後にはそのような苦い思いもあったのでしょう。しかしキリストと出会ってパウロは全く新しい人間に生まれ変わります。ローマ書で言えば7章から8章への劇的な転換を体験したのです。キリストとの出会いがすべてを不可逆的に反転させた。彼は記します。「私はなんと惨めな人間なのでしょう。罪に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか」(ローマ7・24協会共同訳)。それに続けて神を讃美します。「私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝します」(ローマ7・25協会共同訳)。この二つの節の間には人間には乗り越えられない深淵がある。それを向こう側から乗り越えてくださったお方がいる。キリストと出会ったこの喜びは生涯彼を捕らえて放すことはありませんでした。フィリピ書3章には彼のキリスト以前と以後の価値の転換が告げられています。かつて「利益」と思っていたことはすべて「主イエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさ」に色褪せてしまった(3・8)。「キリストの真実(ピスティス)」によって義とされたパウロはその根底から新たにされたのでした。そこから遡ってすべてを振り返った時にパウロに見えてきたもの、それは自分が母の胎にある時に既に恵みの神によってコールされ祝福されていたという根源的な事実でした。神は「母の胎にいるときから私を選び分け、恵みによって召し出してくださった」お方なのです(ガラテヤ1・15協会共同訳)。
 個人的なことですが私の名はその誕生日に由来し米国初代大統領から取られました。外国でも通用する名をという父の願いもあったようです。漢字は母の好きだった童話作家・坪田譲治から取られました。「譲り治める」という意味の名を私自身は気に入っていますが、大統領とは何と大それたことかと思います。総会議長のことを英語ではPresidentと呼ぶので今は不思議なシンクロを感じています。「命名」は天からの祝福を願う親の「祈り」の行為です。既に母の胎にいる時に私たち一人ひとりは神によって召し出されている。「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」という神の確かな声が一人ひとりの魂底には今も響き続けているのです。

「教会讃美歌 増補」 解説

⑳増補11番「神はほめたたえられよ」・増補12番「喜べ教会よ」
讃美歌委員会 日笠山吉之 (札幌教会牧師)

増補11番「神はほめたたえられよ」

ルターの『小教理問答』の中には、ご存知のように「十戒」「使徒信条」「主の祈り」がありますが、聖礼典である「洗礼」と「聖餐」も含まれています。それら『小教理問答』の内容を賛美歌としても歌えるように整えた一連のコラールは〈カテキズム・コラール〉と呼ばれていますが、11番もその一つ。聖餐のコラールです。ルターは、14世紀頃から既に歌われていた歌詞を第1節としてそのまま残した上で、2節と3節を新たに書き下ろしました。主イエスの体と血が、ほかでもないこの私のために与えられた恵みであることを覚え、心に刻もう、と歌われる第2節。それゆえ、隣人と共に私たちを御子の道に歩ませてください、聖霊を注いでください、と祈る第3節で締めくくられます。各節で2回ずつ歌われる「キリエレイソン」が印象的ですが、旋律はルター自身によるものではなく、14世紀から歌われていたものだと言われています。

増補12番「喜べ教会よ」

このコラールは、歌詞が10節まであることにまず驚くかもしれません。全節を歌っていたら礼拝が長くなってしまうよ…とぼやく牧師は、自らに与えられた説教時間を短くしてでも全節を歌う価値があると思います。なぜならルターが書いた歌詞は『ローマの信徒への手紙』に基づき、極めて神学的に、かつ信仰的に整えられているからです。まず第1節は「喜べ教会よ」と全キリスト者への呼びかけで始められ、神の救いの御業が成し遂げられたことを賛美します。続く第2節と3節では一転して、罪人である人間の行いの空しさが指摘されます。すると、神の憐れみに目が向けられ(第4節)、神が御子を派遣する約束をし(第5節)、御子の降誕と受肉が語られます(第6節)。第7節以下は、御子イエスが語られた恵みの御言葉です。このように見ていくと、どの節とて省くことができないことがお分かりいただけるでしょう。全節通して歌うのが難しいなら、1〜3節、4〜6節、7〜10節と分けて歌うことも可能かと思います。旅人が口ずさんでいた歌をルターが聞き取ってアレンジしたと言われる旋律も、明朗で歌いやすいものとなっています。

世界の教会の声

浅野直樹Sr(世界宣教主事 市ヶ谷教会・スオミ教会牧師)

ルンド カトリックとの出会いから5年

  宗教改革500年記念(2017年)に先駆けて、2016年の宗教改革記念日(10月31日)にルーテル世界連盟(LWF)とカトリック教会の共同主催で宗教改革500年記念礼拝がスウェーデンのルンドで開催されました。ルンドは、LWF第1回総会の開催都市だったことからLWF発祥の地として知られ、今回の記念礼拝会場に選ばれました。
 500年記念礼拝のときもそして今もなおルンド教区の監督として、この歴史的事業に携わってきたのがヨーハン・テュールベルイ氏です。あれから5年、両教会のエキュメニカルな関係がルンドをどう変えたのかを振り返ったLWFによるインタビュー記事の一部を紹介します。

(参考記事のHP)

—合同記念礼拝の2年前からすでにルンドの監督でいらっしゃいましたが、あのとき以来何か変化はありましたか。

 前日の2016年10月30日が日曜日で、その日のカテドラルの礼拝は、当日以上に感動的で心に残りました。というのはカトリック教区とルーテルのルンド教区が、ルンドのカテドラル(ルーテル教会)で礼拝の最後の部分を一緒に守ったのです。これはその後もずっと話題になりました。
 ルンドのカトリック教区とルーテル教区が共同で作業しましたから、大いに変わりましたね。今でも時々日曜日に夕べの祈りや礼拝を合同でしています。もちろん聖餐式はできませんが。気候を覚える巡礼日といった特定の日に、いっしょに祈るようになりました。また私たちの教区では、晩祷でカトリック形式を用いるようになりました。これもまた隣人に一歩近づく方法なのです。相手にこうしてくださいと私たちのやり方をお願いするのではなくて、私たちが彼らのやり方を取り入れて祈ることです。こうすることで隣の扉も開き、近づいていけます。
 カールスクローナではルーテル教会が所有していた住宅をいくつかカトリックに売却しました。それによってそれまで郊外にあったカトリック教会が町の中心部へと移りました。こうしたことも2016年の合同礼拝があったからこそ実現したのだと思います。ルンド以外の教区ではさほど大きな変化は今のところありませんが、エキュメニカルな働きへの理解は広がったといえます。
 私たちの教区が位置する地域にはカトリック教会の男性修道院が六つありますが、そのうちの四つはエキュメニズムへの関心もとても強く、快く訪問者を受け入れてくれています。ルーテル教会地区の訪問者が以前よりも増えたと思います。
 もうひとつ私が気づいた変化は、ルーテル教会が若者たちのコミュニティとしても成長していることです。一定期間たとえば半年あるいは2年、3年というスパンで彼らが教会活動に参加するようになりました。カトリックとの合同礼拝が影響してそうなったのかどうかはわかりませんが、確かにそうした変化が起きています。若者が人生を真剣にみつめ始めるうちに、教会活動にも主体的に関わり祈るようになったからではないでしょうか。

東教区第26回宣教フォーラムスピンオフ版報告

2021年11月20日(土)
「信徒の信徒による信徒のための宣教フォーラム」
テーマ「コロナ禍で、信徒みんなで考えるルーテル教会の将来像」

第26回宣教フォーラム準備委員会委員長 田村忠夫(藤が丘教会)

 昨年は、コロナ感染の拡大によりやむなく休止となったフォーラムを今年は何とか実施できないかとフォーラム委員会では話し合いを重ね、初の試みとしてWeb開催をいたしました。
 今回の「宣教フォーラムスピンオフ版」の大きな特徴は、アンケート項目(第58回東教区定期総会で示された「教区長報告」及び「東教区宣教方策〝新しい教会をめざして〟」を受けて)を信徒が作成し信徒へと問いかけたことではないかと思います。それは、今まで行われてきた教職から信徒へとの取り組み方法から、新たなる一つの手立てを見出すためのアンケート調査でもありました。そこで、まずは信徒皆さまの気持ちを広く知り、その得られた結果から今の置かれている東教区の現状に対し、信徒は何が出来るのだろうか、また何が出来ないのかを把握できたらとの願いを込めたものでした。
 お陰様で、多くの方々のお力添えにより予想以上の回答を得ることが出来ました。この貴重なアンケート結果を丁寧に考察して、現状課題への不安感を解消しつつ平安の内に日々の信仰生活を歩み続ける一つの道筋として、今後の進むべき方向性を教職・信徒と共に見出すことへ活用できたらと思っています。
 調査結果の中で特に注目したのは、「『各個教会主義の脱却、これからは他の教会との協力なしには教会形成が難しくなる。』についてはどのようにお感じになられますか。/協力に賛成/協力にやや賛成/協力にやや反対/協力に反対/考えたことがなかった/その他」という設問に対しての回答率です。協力に賛成75・8%、協力にやや賛成13・6%と二つを含めると89・4%(11月20日現在)ほぼ9割の方が何らかの教会間の協力が必要であると捉えており、現状を打開する大きな手立ての一つとして見ていることが解ります。そこで信徒自らは、今後教会間の信徒交流へ前向きに取り組むことで現状改善への小さな力であるかもしれませんが、寄与することができるのではないでしょうか。ゆっくりとした歩調であったとしても、教会間の信徒交流の輪が広がってゆく事を切に願っています。
 今回の新しい挑戦(アンケート実施とオンライン開催)を期に、毎年実施されています宣教フォーラム活動が皆さまの思いや願いに沿いながら、更に豊かな活動へと繋がってゆくことを思っています。

オンライン全国教師会退修会報告

西川晶子(全国教師会相互扶助会会計・久留米教会・田主丸教会・大牟田教会牧師)

 なかなか出口の見えないCOVID―19の影響下にあって、これまで約3年に一度行われてきた全国教師会の退修会も、2017年の宗教改革500年記念の年を最後に、共に集う形での開催は見送られています。そのような中、やはりたとえ画面越しでも同労の牧師が顔を合わせる機会を持つことができればと、Zoomを用いたオンライン全国教師会退修会が2021年11月11日に開催され、全国から約60名の教師の参加がありました。
 立山忠浩教師会長による開会礼拝に始まり、今春引退される3名の先生からのご挨拶、そして「宣教、礼拝、聖餐、伝道牧会」という視点で、現状での取り組みを小勝奈保子牧師、ポストコロナに向けての展望を池谷考史牧師より、それぞれ発題していただきました。その後、発題を受けての年代別グループでの協議の時間が設けられましたが、その中で、お互いの取り組みやポジティブな成果だけではなく、難しいと感じるところを分かち合えたことは有益でした。たとえば、これまで顔を合わせて共に礼拝していたものが突然インターネット越しになり、それに伴う礼拝メッセージの内容や伝わり方の変化、また共に集うことが難しくなる中での教会運営の難しさなど、この2年間、同労の先生方が同じような難しさを感じつつ歩んでいたと知ることができただけでも、励まされました。
 退修会は3時間ほどでしたが、そのあと夕方から、自由参加の懇親会も行われました。懇親会では、世代に関係なく集まることのできるメインルームのほか、「按手年代別の部屋」や「若手教職の部屋」、「女性教職の部屋」が設定され、自由にその間を行き来できるようになっていました。「女性教職の部屋」は、私が個人的に必要性を感じて作っていただいた部屋ですが、普段、何かを相談したくとも地域的な距離もあってなかなか機会が取れなかった先生方と、ゆっくりお話しできる貴重な機会でした。
 今回の退修会は短い時間でしたが、画面越しであっても久しぶりの方々と顔を合わせることが、自分でも意外なほどに嬉しく感じられました。逆に言えば、オンラインの交わりでも嬉しく感じられるほどに、交わりの機会から遠ざかっていたということでもあります。また、やはりオンラインでは、インターネット環境などの都合で参加が難しい教師もおられましたので、また直接顔を合わせてお会いできる日が、一日でも早く訪れることを願っています。

北海道特別教区発行『み言葉に生かされて』の紹介

岡田 薫(北海道特別教区書記・財務部長・帯広教会牧師)

 長引くパンデミック下において、北海道特別教区では「主の祈りを祈りましょう」というキャンペーンを2020年の復活祭より続けています。主日礼拝ですらままならない時もありましたが、祈りをあわせ知恵と工夫を凝らしつつ共に励ましあいながら過ごしてきました。教区の財政的な支援もあり、それぞれの礼拝堂にはオンラインのための機材が備えられ、礼拝の配信だけでなく各地をつないでの集会や合同の聖書研究など新たな取り組みも進められています。
 2021年4月29日には各教会をオンラインでつないでの「春の集い」を開催。直前に感染再拡大のため札幌近郊では礼拝堂に集うことができなくなり、急遽集えるところは礼拝堂、集えない所はご自宅から参加という形式に変更せざるを得ませんでした。全道から40名ほどが参加し、それぞれが大切にしてきたみ言葉と、そのみ言葉にまつわる出会いや想い出を語りあい、短い時間ではありましたが実に豊かなひと時でした。
 しかしながら、オンラインの集まりに対応できず、参加が適わない方がおられたことも事実です。この溝を埋めるにはさらなる知恵と工夫が必要だ、ということで常議員会では協議の結果、この時に集約された愛唱聖句カードと、その後にそれぞれの教会で集めた愛唱聖句カードをひとつの冊子にまとめ発行することといたしました。嬉しいことに、各教会からたくさんの聖句が集まり100名を超える仲間たちの愛唱聖句と想いを束ねた小冊子が完成しました。
 編集長である小泉基教区長のセンスの光る明るい小冊子は、実りの秋に各教会に連なるみなさんへと配布されました。手にされた方々からは「お一人おひとりのお顔を思い浮かべながら毎日読ませていただいています。」「聖句やコメントを通して皆さまの証しを聞く思いです」などの感想も寄せられています。特に長期にわたって外出を控え、礼拝に出席できずにおられる方にとっては、手に取って繰り返し読むことのできる小冊子という形態が良かったようです。み言葉に添えられた想いは、短いひと言であっても、今この時の一人ひとりの生きた信仰の言葉。未だ一堂に会することが難しい中ではありますが、み言葉に生かされ、祈りに励まされつつ、共に歩んでいる恵みをわかちあう体験となりました。

第7次綜合方策の紹介⑽

事務局長 滝田浩之

■方策本文より

第7次綜合方策主文
7.神学教育

⑴神学校(神学教師)
 牧師養成が教会宣教にとって重要な役割をこれまでも果たし、これからも果たすものであることを改めて確認する。よって神学校として必要な、その中心的な働きを担う神学教師の後継者については、教会全体の課題として取り組む。また教職の現任教育について、信徒の研修について共同してこれを行う。

⑵機関維持(大学経営)
  牧師養成を行う神学校を継続していくためにも、大学の経営状況について教会は大きな関心を持つ。経営が適切に行われ、機関維持を行う責務は、大学にあると共に教会の課題であると認識する。これまでも三者協議会、神学校・ルーテル学院大学委員会、神学教育委員会などで密接にこれに関与してきたが、今後もこの関係を堅持する。

⑶神学生
 神学生を生み出す責務は、教会にあると理解する。今後も神学校と連携しつつ、具体的な施策を行う。

8.世界宣教
⑴海外教会

 共にキリストにより宣教に派遣された教会として、変化する世界状況の中で、関係海外教会及びLWFとのパートナーシップを堅持しつつ、世界宣教に参与する。

⑵アジア伝道
 ブラジル伝道の終了に伴い、アジア伝道に取り組むために、LWF、ELCA及びJELAとの連携を図りつつ、共同事業の可能性を探る。

9.エキュメニズム
⑴日本ルーテル教団(NRK)

 「聖餐と講壇の交わり」を持つ日本ルーテル教団とは、神学教育を中心に宣教協力を整えてきた。今後は、教会数減少も加味しつつ宣教協力をより一層進めていく。

⑵カトリック・聖公会
 カトリック・聖公会とのエキュメニズムの対話は、1967年以来、100回を数える。1989年にはカトリックとの間で「洗礼の相互承認」、1994年には聖公会との「洗礼の相互承認」が行われたことを歴史的な事柄として受けとめ、この延長線上に長崎におけるカトリックとの共同礼拝、そして今後の展開があることを確認する。

⑶NCC等との連携
 NCC、外キ協、マイノリティー宣教センター、キリスト教カルト問題連絡会、ACT-JAPANフォーラムなどエキュメニカルな働きをリソースとして活用しつつ、連携をしていく。

■解説
 宣教の内容、担い手が確認されたところで、それをリソースとして支える働きが確認されます。
 それが神学教育、世界宣教、エキュメニズムです。
 宣教の重要な担い手である牧師を育てる神学校の働きが大切なことは誰もが合意頂けることと考えます。またこれまでも教職神学セミナーにおいて教職の継続教育が行われてきましたが、今後は一層、この働きを強めていく必要があります。28期では卒業後5年以内の教職については、教職神学セミナーへの参加に対して補助を行うなど、卒業後の振り返りとリフレッシュを促しているところです。ルター派の教派神学校として神学教師の後継者については教会が派遣する責任があることは言うまでもないことです。またこれを支える学校法人を支えること、その課題を共有していくこともまた教会の役割と考えます。何よりも神学生を生み出す責任は、個々の教会、教区、全体教会にあることは繰り返し確認していく必要があります。神学校、神学教育委員会は、ここ数年「オープンセミナリー」を開催しています。
 神学教育が宣教の支え手であることは自明なこととして受けとられることと思います。しかし同じ大切さに、世界宣教、エキュメニズムがあることをしっかりと把握したいと思います。日本福音ルーテル教会は、海外の教会からの宣教によって生み出された教会であることはすでに確認した通りです(七つの宣教団体)。そして今も、私たちはLWF(ルーテル世界連盟)に参画しながら、世界宣教という大きな枠組みの中で宣教を担っているということに目を留めたいと思います。同じようにエキュメニズム、他のキリスト諸教会、諸団体と共に手を取り合って宣教を担っているのです。日本ルーテル教団は神学教育を共に担うパートナーです。カトリック教会、聖公会、NCC(日本キリスト教協議会)は神学的も宣教的にも共働の働きを担うパートナーです。
 これらの支え手を通して、私たちはいつも二つのことを教えられています。一つは、私たち日本福音ルーテル教会がキリストを宣教するという時、それは世界中の教会に祈られている働きであるということです。そしてもう一つは、私たちはいつも共に宣教を担うパートナーを通して、自分たちの宣教を見直す機会を与えられているということです。私たちの宣教は、キリストから託された独りよがりなものではないということ、同時に、私たちの宣教が独りよがりなものになっていないかという点検が、これらの支え手との関りを通して教えられるのです。支えられるだけでなく、私たちはこれらの働きに貢献することができる喜びも与えられていることを覚えたいと思います。

2021年度「連帯献金」報告

 2021年度も多くの方々から「連帯献金」に支援を頂きました。感謝して報告いたします。(敬称略・順不同、複数回の献金もまとめての報告となります。)

■災害支援 181,069円
国府台母子ホーム、神水教会、阿久根教会、JELA

■ブラジル伝道 40,149円
小城ルーテルこども園、箱崎教会女性の会、東教区女性会

■世界宣教(無指定) 375,634円
久留米教会(岩切華代、光延和賀子、原真理、里村朝子、宮原家、西川晶子、在津恵美子)、小澤周司、千葉教会、NRK福島いずみルーテル教会、箱崎教会(らぶぴコンサート席上献金)、角田健、大柴譲治、内山大地、大阪教会、シオン教会柳井礼拝所(一粒の麦・女性会)、岐阜教会、重野了子、小岩教会、帯広教会、小岩教会ルーテルキッズ、千葉教会、学校法人札幌ルター学園めばえ幼稚園、日吉教会、匿名献金

 今年度も、社会・世界における福音の宣教、奉仕、災害・飢餓に苦しむ方々に連帯したいと祈り願います。「連帯献金」をお捧げくださる際には、それぞれの献金目的[ブラジル伝道][喜望の家][メコンミッション][世界宣教][災害支援]を郵便振替用紙に明記頂き、下記の郵便振替口座にご送金ください。
郵便振替 00190−7−71734
加入者名 (宗)日本福音ルーテル教会

「聖書日課」購読のお勧め

 聖書日課は、ルーテル教会諸派の有志が共同で作成する、ルーテル教会の教会暦にそった日毎のみ言葉の説きあかしです。
 執筆者もルーテル教会の先生方にお願いし、誰もが身近に日毎に聖書の言葉を味わうことができるように工夫されています。
 是非、会員になって頂き、み言葉に満たされ、同時に文書宣教の業を支えて頂けたらと願っています。
 刊行は年4回行われています。1月号から1年会員となって頂いた場合、年4回の配布で1600円(1冊400円)、年度途中からの会員の方は1冊450円となっています。
 いつでも入会可能です。
次回は4月号(聖書日課122号)からの受付となります。年3回の配布で1350円(1冊450円)です。(ただし、在庫にかぎり121号からのお申込みも承ります。)
 お申込みは、各教会の聖書日課担当の方にお申し出ください。
 また、WEB会員は年会費1000円でご利用いただけます。WEBサイトからお申込みください。

聖書日課を読む会事務局
〒162-0842 東京都新宿区市谷砂土原町1-1
日本福音ルーテル教会事務局内
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*2021年10月より聖書日課事務局が移転いたしました。

22-02-01御心ならば、清くすることがおできになります

「すると、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、
『主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります』と言った。」
マタイによる福音書8章2節

  ある教会でこのようなことを話してくださった方がおられました。「子どもが小さかった時、重い病気にかかり、当時通っていた教会の牧師先生にお祈りをお願いしました。『御心でしたら癒やしてください』とお祈りされました。何故、癒やしてくださいではなく、御心でしたら、と祈られたのかと、私は素直に聞けず、また非常に悲しかった思いをしました。」
 病床訪問する時、「早くお元気になってください」などと言いたくなるのが人情ですが、この方の言葉が主イエスの病気の癒やしを伝える箇所を読むたびに心を横切るのです。福音書には主イエスによる病気の癒やしの出来事がいくつも語られています。多くの場合、様々な病気を患っている人々—目の見えない人、体の不自由な人々、悪霊に取り付かれている人たち—が主イエスに憐れんでいただきたいと願い出ることから、或いはその人々を主イエスがご覧になり、深く憐れまれることによって癒やしの御業がなされています。ルカ福音書17章で語られている重い皮膚病を患っている人々の癒やしにおいても、患っている人々が、憐れみを願っています。
 しかしながら、マルコ福音書1章40節以下及びその並行箇所で語られている「重い皮膚病を患っている人の癒やし」の出来事は本人は直接憐れんでくださいと訴えてはいません。「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願い出ています。
 「重い皮膚病」とわざわざ語られていることで、この人が負わされている社会的、宗教的に差別され、負わされている苦悩は幾重にも取り巻き、絶望の日々を送っていたことが伝わってきます。この病は他の病とは異なり、ただ単に癒やされるのではなく、清められなければならない病でした。だからかも知れません。主イエスの御前にひれ伏すしかなかったのでしょう。
 癒やしの奇跡の出来事の多くが、「ご覧になって」、「深く憐れまれて」と主イエスから声をかけられているのに対して、この人は憐れみを乞う前に主イエスの意思を尊重しています。御心ならば…と、あなたがそうしようとお思いになるならばと、憐れみをこいねがう相手に対する深い信頼を込めて願い出ています。そこには自分には理解できないことでも、不可解なことであっても、神の深いご計画が隠されているならばそれを引き受けます、あなたは決して不幸のままに終わらされないからですという信頼、信仰が込められているのではないでしょうか。
 病気の時、「祈ってほしい」という願いの中には、早くよくなるように、信仰があれば癒やされる…と慰めや励ましを求めていることが多いように思えるのです。医学的に見込みがないとご本人も知っていても、奇跡を願う思いはどこかにあるように思うのです。事実、末期がんから生還した方もいらっしゃいます。信仰があれば治ると思いたいのではあります。治りたい、治る、でも治らない、という時の葛藤は、信仰を持っている場合と、そうでない場合は違ってくると思えるのです。
 そのような葛藤を主イエスはゲッセマネの園での祈りを通してご自分のものとされています。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」
 病気が治る、治らない、願いが叶う、叶わないは本人にとって大きな問題であることに間違いないことです。病気の子どものために祈ってほしいと願った方は、「御心のままに」という祈りに悲しい思いをされたと語られましたが、その方にとって「御心でしたら」という言葉をずっと思い巡らされていたのでしょう。そこから、主イエスの御意思がどこにあるのか、何であるのかを問う、新しい信仰の歩みをされていったのではないかと思えるのです。その時は受け止めきれなくても、じっと見守って下さっている憐れみの中に置かれていることを信じてゆきたいと思うのです。

日本福音ルーテル八王子教会牧師 中村朝美

ルーカス・クラナッハ(父)作「ゲッセマネの祈り」(1518年頃)東京・国立西洋美術館所蔵

22-01-01るうてる2022年01月号

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「日々新たにされて」

日本福音ルーテル小石川教会・板橋教会 牧師 德野昌博

「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、
わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」
コリントの信徒への手紙二 4・16

 私たちは、「贖われし罪人」です。ですから、日々新たにされて生きるのです。
 イザヤ書43章で、天地万物を創造された主なる神様が、いきなり、何の条件も全く付けず、「恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの」(1節)と言っています。まことに驚きです。「贖う」とは、神様が、神のものとなった私のすべてを引き受けてくださる、責任をとってくださるということです。

 神様に背いて、どうにもこうにも言うことを聞かない私のために、イエス・キリストが十字架で死んで、私の罪を贖ってくださったのです。イエス様の十字架によって、決定的に重大な問題が解決されたのです。創造主である神様に背いているという、これ以上に、私たち人間にとって重大、深刻な問題はありません。その罪を、父なる神様は御子イエス・キリストにおいて解決してくださったのです。これが 、私たちに与えられた救いです。まことに有り難いことです。これこそ、わが人生最もビッグでグッドなニュースです。

 神様は続けて、「わたしはあなたの名を呼ぶ」と言っておられます。「名を呼ぶ」と言うことは、一人一人に対して、神様が一対一で向かい合い、覚えていてくださるということです。ですから、私がいかなる信仰生活をしていようと、あるいは年老いて、前後不覚に陥って、神様に向かって憎まれ口をたたいたり、突然、「主の祈り」ではなく、念仏を唱え出したりしたとしても、神様は、私のすべてを知った上で、「わたしはおまえのことを引き受けた。まかせておけ」、そう言ってくださるのです。それが「名を呼ぶ」ということです。

 「あなたはわたしのものだ」と言われる主なる神様が、私たち一人一人の名を呼んで、私のすべてを自分のこととして 引き受けてくださっています。その絶対の保証としてのイエス・キリストの十字架です。

 救いは、私たち人間の側のどのような事態、どのような問題によっても取り消されたりはしません。パウロが、「ローマの信徒への手紙」8章で、「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来 のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな 被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(38〜39節)と言っている通りです。ですから、たとえ私たちの体や心がどんな状態になっても、私たちは決して滅びることはなく、神様の愛の中にちゃんと、しっかり受けとめられているのです。

 やがて私も年老いて何も分からなくなり、信じることも、告白もできないようになる時が来ることでしょう。しかし、今はまだできます。今は、私が御言葉を聞いて信じ、そして、自分の、これからのことも含め、すべてを、「神様、あなたにおゆだねします。私を憐れんでください」と言うことができます。そう言える今、たとえこれから先どんなことがあるか分かりませんが、「絶対大丈夫」という平安が与えられています。

 神様は、無条件で、「わたしはあなたを贖う」と約束してくださっています。神様の、その絶対の恵みを知り、信じることができ、それによって本当に喜び、平安に生きることができるというのは、礼拝を通して与えられる恵みです。

 やがて、もうどうすることもできなくなるであろう時のために、今ここで、私は礼拝において神様との本当に深い交わりを持ちたいと願っています。礼拝に出席することが困難になって、初めて私たちは礼拝に出席し、仲間と顔と顔を合わせるということがどんなに幸いなことであるか、どんなに大きな恵みであるかと いうことを身にしみて思い知らされました。

 「わたしたちの外なる人は衰えても、内なる人は日ごとに新しくされていく」のです。自分で、自分の力、頑張りで新しくなるのではありません。神様が新しくしてくださいます。「だから、わたしたちは落胆しない」のです。

エッセイ「命のことば」 伊藤早奈

㉒「音」

「門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。」
(ヨハネ福音書10・3)

 なんだかうるさく聞こえる物音でもその原因や主(ぬし)がわかり物音をさせるその理由までわかるとうるさく感じなくなったことありませんか?私はあります。毎朝聞こえる小鳥の鳴く声が甲高くうるさく感じてました。先日観ていたテレビ番組で私が毎日聞いてうるさく感じていた小鳥の声を解説されていて何の小鳥がどのような理由で鳴いていたのかがわかりました。その小鳥の正体と鳴く理由がわかった途端、朝聞く「うるさい音」が「かわいい鳴き声」に変わりました。
 大切な大切な存在なら尚更だろうなって思います。こんなことも思い出します。ある食品売り場で、きっと迷子になったんだろうなぁと思う様な小さな子が「ママー」と呼びます。するとどこからか見えないのに「なーに?」って聞こえ「ママどこにいるの?」と子どもが安心したように走り出す光景です。
 きっと神様も同じだろうな、いやもっと一人一人を大切にされているのかもしれないと思うと私の声も神様にとってはうるさいその他大勢の声ではなく大切な大切なかけがえのない一人の私という存在の声なのかなって嬉しくなります。
 そして私を大切にして下さる神様の声は、いつもあなたと共にあなたを包んでいて下さるから、あなたに心地良い音なのでは。

議長室から 大柴譲治

〈われとなんじ〉と〈われとそれ〉

 「ひとは世界にたいして二つのことなった態度をとる。それにもとづいて世界は二つとなる。ひとの態度は、そのひとが語る根源語の二つのことなった性質にもとづいて、二つとなる。根源語は孤立した語ではない。複合的な語である。根源語の一つは〈われ〉−〈なんじ〉であり、他は〈われ〉−〈それ〉である。」(マルティン・ブーバー「我と汝」野口啓祐訳、講談社学術文庫2021、8頁より)

 安倍川上流にあった梅ヶ島ルーテルキャンプ場で、学生時代にある方から教えていただいたブーバーの「我と汝」。この本との格闘を通して私は対人関係の基本を学んできました。原著〝Ich und Du〟 (1923)がドイツ語で出版されて来年でちょうど100年。対人援助職にとって古典的名著です。
 ドイツ語には「あなた」を意味する〝Sie〟と〝Du〟という2語があり、前者は丁寧な呼び方、後者は親しい間柄で用いられる親称。冒頭のように『我と汝』は数学の公理の提示のように始まり、とても難解で18歳の私には全く歯が立ちませんでした。以来46年間、繰り返し読む中で見えてきたことは、世界は私の語る根源語の二重性に応じてその姿を変えるということです。ヘブル語の「ダバール」という語は「言葉」を意味すると同時に「出来事」を意味します。言葉を語ることは出来事が起こることでもある。根源語〈われ−なんじ〉は相手を人格的な応答関係の中に捉えるダイアローグ的で全人的な態度。根源語〈われ−それ〉は相手を徹底的に自分の経験・利用の対象として捉えるモノローグ的な態度。前者の例としてブーバーはソクラテス、ブッダ、イエス、ゲーテを、後者の例としてナポレオンを挙げます。もちろん、物質が悪ではないように〈われ−それ〉を語ること自体は悪ではありません。〈われ−なんじ〉関係は過ぎ去ってしまうと「過去の記憶」という〈それ〉になってしまう。彼はそれを「大いなる悲哀」と呼びます。〈われ−なんじ〉の出会いは天からの恩寵であって人間が探し求めることによって獲得できるものではありません。「すべての真の生とは出会いである」。
 ユダヤ人思想家であったブーバーは旧約聖書のドイツ語翻訳者としても知られています。「〈われ−なんじ〉の延長線上には〈永遠のなんじ〉が垣間見える」とか「個々の〈われ−なんじ〉の出会いの延長線は〈永遠のなんじ〉の中で交わる」という表現から分かるように、ブーバーは「なんじよ(Du)」と親しく呼びかけてくださる神を「永遠のなんじ」と呼び、個々の具体的な〈われ−なんじ〉の出会いを通して永遠のなんじが私たちに呼びかけておられると見ているのです。
 新しい年も、耳と目と心を一つにしてそれらを十全に用いて神の声に聽いてゆきたいと念じています。この主の年2022年が、皆さまお一人お一人にとって〈永遠のなんじ〉との豊かな対話という祝福のうちに置かれた1年でありますようお祈りいたします。

「教会讃美歌 増補」 解説

⑲増補9番「天にいます父よ」・増補10番「主はヨルダンに来て」
讃美歌委員会 石丸潤一(西日本福音ルーテル新田教会)

 新しい年を迎え、皆さんいかがお過ごしでしょうか。私は、新年を迎える度に、新しくなることの期待感と、一方で、移りゆく時の中でも変えずに継続していくべきものの大切さを思います。
 今回ご紹介する2曲は、神様から信仰者が与えられているその二つの相反することについて深く味わわせてくれるカテキズム・コラールではないかと思います。

 増補9番「天にいます父よ」は、「教会讃美歌」364番に収録されているなじみ深い「主の祈り」の賛美です。今回は、他のカテキズム・コラールとの関連曲として、新しい訳詞と9節を加えて収録しました。2~8節の「求め祈ります」という締めくくりの詞には、関連性とリズム感を持って、「主の祈り」の一つ一つの祈りが私たちに何を教え、何を神様に求めさせるのかをよく知ることができるようにという意図が込められています。
 イエス様が教えてくださった「主の祈り」は、私たちの信仰生活に欠かせない、継続していくものです。であるからこそ、「小教理問答」とカテキズム・コラールを通して、いつも祈りの意味をかみしめながら、祈り続けることが大切ではないでしょうか。

 増補10番「主はヨルダンに来て」は、洗礼の意味について教えるカテキズム・コラールです。1月の教会暦には「主の洗礼」を記念する主日が備えられています。この賛美は、イエス様の洗礼の場面を踏まえていますので、その頃に賛美されるのにも良い曲ではないでしょうか。
 洗礼は、神様が私たちに、みことばと聖霊と共にある水を通してみずから授けてくださる恵みの礼典です。私たちは等しく罪の中に沈み、自分の行いでは浮上することのできない者です。しかし、神様の恵みを信じて洗礼を受ける時、キリストの血潮が大波のようになって私たちの罪を押し流し、罪の深淵から命の日々へと救い出してくださいます。水のイメージが要所にちりばめられたこの賛美は、洗礼を通して、私たちの命が全く新しくされているというダイナミックな喜びのイメージを生き生きと感じさせてくれるでしょう。

世界の教会の声

浅野直樹Sr(世界宣教主事 市ヶ谷教会・スオミ教会牧師)

気候正義を求めるLWFユース

 11月英国のグラスゴーでCOP26が開催され、地球の気候変動対策が議論されました。LWFは2011年来国連の気候関連会議に青年代表を派遣していますが、今回の会議ではオンライン出席を含めると、7つのLWF区域すべてから参加者があり、過去最大の32名の代表が出席しました。
 会議では地球の気温が産業革命前より1・1度上昇したことへの警鐘が鳴らされ、気温上昇をパリ協定で定めた1・5度に抑えるという努力目標を追求することが採択されました。これについてLWF気候問題担当Elina Cedillo氏は「石炭火力を使い続ける限り達成は危うい」、さらに「各国政府が設定した2030年の温室効果ガス排出量削減目標は不十分で、このままだと2050年には2・4度に達してしまう」と述べています。

 LWFが、気候変動(climate change)とあわせて呼びかけているもうひとつの用語に「気候正義」(climate justice)があります。日本ではまだ馴染みが薄い言葉ですが、気候変動が環境問題だけでなく、倫理的、政治的問題でもあることを訴えています。経済大国による大量の排出ガスの影響で、排出量が少ない多数の国や地域が犠牲になっているといった問題が顕在化しつつあります。COP26では、そうした地域の少数民族の役割も欠かせないという認識が得られました。
 青年たちはグラスゴーの街へ繰り出し、各国リーダーに向けてさらに徹底した対策をと呼びかけました。そして青年や周辺国のリーダーにも決議に参加できる仕組みを作るよう求めました。
 会議に参加したある青年は次のように述べています。「信仰をもつ者としては今回の会議に物足りなさを感じますが、だからといって落胆しているわけではありません。エキュメニカルなパートナーとして、これからも神様が創造した世界を大切にしながら、気候正義の実現のために活動を続け、大変な被害を被っている人々に寄り添っていきます。私たちはこれからも世界の教会に向けて声を挙げていきます。」
参考記事のURL
https://www.lutheranworld.org/news/cop26-lwf-delegates-disappointed-not-disheartened-lack-results

第3回オープンセミナリー報告

河田優(ルーテル学院大学・日本ルーテル神学校チャプレン)

 11月14日(日)Zoomを用いて第3回神学校オープンセミナリーが開催されました。今回も日本福音ルーテル教会(JELC)、日本ルーテル教団(NRK)の両神学教育委員会と日本ルーテル神学校の共催であり、JELCから3名、NRKから1名の参加者がありました。
 第1部は、神学校での学びと生活についての紹介が中心です。特にミニ講義では平岡仁子牧師がコロナ禍におけるオンライン礼拝について取り上げ、神学校で学ぶ礼拝学は私たちの礼拝生活に直接結びついていることを話されました。
 第2部では、神学生が考えた楽しい企画に2人の若手牧師も加わり、互いの紹介やミニゲーム、質問コーナーなど和気あいあいと交わりが進められていきます。最後は、神学校1年生2人がそれぞれの証しも含めて閉会礼拝を行い、祈りを合わせました。
 神様の導きとして神学校での学びを考える人たちがいます。その人たちを支え、後押しするのはそれぞれの教会です。どうぞこれからも教会から、神の働き手としての献身者を送り出していただきますようにお願いいたします。
 以下、今回の参加者からお2人、感想を書いていただきました。

 今回、初めてオープンセミナリーに参加させて頂きました。始まる前はどのようなことを知れるのか、学べるのかと胸を躍らせておりましたが、実際はその期待を上回るほどの有意義な時間となりました。特に神学生や牧師への質問コーナーでは先に提出していた質問全てにお答えしていただき、良い情報を得ることが出来ました。ここで得たことを糧に神学校での学びの準備をしていきたいと考えております。このような機会に私を送り出して下さった崔大凡先生や室園教会の方々、企画をしてくださった神学教育委員会と神学校の先生方に感謝します。
(中山隼輔・JELC室園教会)

 私は洗礼を受けて以来献身への迷いがあったため、神学生オープンセミナリーに参加させていただきました。模擬講義では現代のコロナ禍を通して改めて礼拝の意義について考える機会を与えられ、交流会では牧師先生や神学生の方々との貴重な交わりの時を持つことができました。さらに牧師を目指す上での大切な気づきと励ましも与えられました。オープンセミナリーに参加して、今まで漠然としていた献身への思いが少しだけ形づくられた気がします。今後どうなっていくかはわかりませんが、神様に祈りつつ歩んでいきたいと思います。
(鷲見和哉・JELC大阪教会)

献身者がおこされるために
—取り組みの紹介とお願い—

三浦知夫(神学教育委員長・東京池袋教会牧師)
小林千恵子(大垣教会) 徳弘由美子(岐阜教会)

 学校の先生になりたいと思ったら、大学などに入学して、教員免許を取得できる学びを始めようとするでしょう。では、牧師になりたいと思ったらどうでしょうか。同じように神学校に入学して、その準備を始めますが、その前にキリスト者として教会生活を送っているという前提があって、所属している教会の牧師に推薦をしてもらわなければなりません。牧師は他所から採用したり派遣されるのではなくて、私たちそれぞれの教会の中からおこされるからです。各教会が献身者を神学校に送り出さなければ、牧師は誕生しないということでもあります。昨年は、私たちの教会に新しい牧師が与えられませんでした。今年の春も予定はありません。そのような状況の中で、教会と神学校が協力して、「献身者を求める祈り」の動画を作成したり、礼拝で「献身者を求める祈り」をしていただくようにお願いしたりしてきました。
 そんな中、大垣教会と岐阜教会信徒の有志の方々が「自分たちにも何かできないか」と祈り考え、写真のようなフレームを作成してくださっています。御言葉とクイリングという手芸の十字架、そして呼びかけの言葉が記されたフレームです。各教会の集会室の壁や玄関に下げたり置いたりし、いつも教会の方々の目に留まり、献身を呼掛け考えるきっかけになればと願ってのことです。
 この運動を受けて、私とこれら有志の方々からお願いがあります。この企画をお手伝いいただけないでしょうか。この取り組みを、神学教育委員として喜びつつ、祈りと奉仕が全国の教会に広がっていくことを願ってのお願いです。教会でも個人でも構いません。案内やフレームの個別の封入や発送を全国120箇所ほどにすることになりますので、4~6教会(名)が、20~30個ずつ引き受けてくださればと考えています。ご質問や参加希望は2月15日までに三浦(東京池袋教会)か岐阜教会に連絡ください。発送作業は3月頃の予定です。献身者をおこすために心をあわせて祈っていきましょう。

集計表男女区分の廃止について

小泉基(社会委員長・函館教会牧師)

 昨年11月16日の全国常議員会で、「集計表における人数表記の件」が決議され、来年度の新しい集計表から男女区分をなくすことが決まりました。今回もオンラインで行われた常議員会でしたが、議場では活発な意見交換が行われましたから、提案の背景と主な意見をご紹介したいと思います。
 今回の提案の直接的なきっかけは、昨年7月に社会委員会が提出した「本教会統計表における男女区分の扱いについて」という要望書でした。けれどもそれ以前から教会内で、礼拝の受付で男女の二者択一を迫ることが、性的マイノリティの人たちに苦痛を強いているのではないか、という声が聞かれるようになっていました。実際に、受付での男女区分をなくしたり、週報等での兄姉呼称を「さんづけ」に統一した、という報告も聞かれるようになっていました。委員会が、そうした背景をより多くの人に知っていただきたいと2020年3月に発行したのが「多様な性を知るために」という小冊子です。ひとくちに性的マイノリティといっても、その内実は、体の性、性自認(心の性)、性的指向、表現する性など、多岐にわたっています。多様な性のあり方を知りながら、そうした方々が安心して受け入れられる教会形成をしていきたいという願いがありました。また教会は、歴史的に同性愛を罪として断罪してきた経験があり、それはルーテル教会が1988年に発行した「教会員ハンドブック」にも反映されてしまっています。委員会の小冊子の発行と、常議員会への要望書は、そうした教会の歩んできた歴史に対する反省の上になされたものです。常議員会では、男女比率がわからなくなることが女性の社会進出をかえって阻むのではないか、男女の他に「X」欄を設けてはどうか、教会の宣教計画の立案に影響するのではないかといった意見も出されましたが、痛みを覚える方々に寄り添うことを優先しようとする意見が大勢を占めました。もちろん、この決定が何かをすぐに解決するというものではありません。これをきっかけに、教会内でさまざまな学びや取り組みがすすめられていくことこそが、委員会として願っていることですから、どうぞご協力お願いする次第です。(なおパンフレット「多様な性を知るために」は、日本福音ルーテル教会インターネットサイトでPDFが公開されていますのでご活用ください。また冊子版も事務局に多少残部があります。必要な方は事務局までお問い合せ下さい。)

2022年度教会手帳住所録訂正のお願い

 2021年7月31日付で引退されました太田一彦先生について、2022年度教会手帳住所録の《引退》欄への掲載がなされておりませんでした。お詫び申し上げますと共に、謹んで訂正させて頂きます。
 2022年度教会手帳住所録20頁に以下を追記ください。

太田一彦
420−0886
 静岡県静岡市葵区大岩 2−41−14

第7次綜合方策の紹介⑼

事務局長 滝田浩之

■方策本文より

第7次綜合方策主文
5. 信徒の働き

⑴信徒の役割
①宣教の働きは、教職、宣教師だけに与えられたものではなく、教会の全信徒に与えられている。信徒は宣教の担い手であり、受け身の立場ではなく、積極的・能動的に福音宣教に参与する。信徒が牧師とともに宣教に具体的に参与する道筋を整える。
②信徒の「相互牧会力」を育てることは教会成長にとって大きな意味があることを確認し、具体的な研修プログラムを神学校と共同して検討する。
③宣教を推進する担い手としての自覚の育成について、各委員会等、その専門性を生かしプログラムを策定し実施する。
④信徒説教者については、「信徒説教者実施要項」について、信徒の執事としての働きとしての「み言葉の奉仕」として位置付けると共に、信徒の執事職(信徒奉仕者)をより幅広く教会の中で理解していくことも含めて、改正を検討する。
⑤配餐補佐についても「信徒説教者実施要項」の中で、神学的な課題についても整理した上で適切に位置付けていく。
⑥教会の執事的働き(管理や事務など)については、個々の教会、あるいは教区内で今後、有給の可能性も含めて検討され位置づけられていくものと考える。
6.教職の役割
⑴現任教職
 現在、教職の働きは、多重責任・役割、多様化、孤立化の傾向にある。教職としての守備範囲が解りづらくなっており、職務の明確化が求められる。
①宣教する教会であるためには、それぞれの教職が宣教への使命と職務を的確に果たすことが重要である。そのためにも神学的自己研鑽に取り組み、宣教と教会形成への責務を自覚することが求められる。
②「牧会力の成長」を促すことは教会の責任として捉え、本教会としても按手後、5年以内の教職については継続的な研修プログラムを神学校と共同して検討していく。
③人事配置については人事委員会がその実務を担っているが、教会財政も加味しつつ、全体的宣教力を図り、個々の教会、地区の将来像について教区の方向性を加味しつつ、常議員会の責任のもと確認していく。宣教拠点は2か所(教会、または施設)までを一つの目安として用いることができる。
④牧師の重要な任務に「役員会の形成」を明記する。役員の成長こそ、牧会力の回復につながることを確認する。
⑤職務を果たしていくために、健康管理への自覚的取り組みが必要であることを認識し、必要な手立てを教師会と共に検討する必要がある。
⑥教職の立場を教会の制度と組織に正当に位置づけると共に、教職の質の向上を高めるために必要な機会を、本教会、教区及び教師会は適宜提供していく。
⑵定年教職
①資格
 日本福音ルーテル教会の教職は定年制度に従って70歳を迎えて現職の務めから退いてきたが、これまでの実態と課題を整理した上で、「牧会委嘱規定」を見直し、主任の委嘱についても検討する。また、定年後も「説教とサクラメント」を行う資格を持つ者として、教区の主体的な判断の中で日本福音ルーテル教会の教職としての責務を果たすことを期待する。
②働き
 定年教職が教区及び関連施設の要請に応じ、期間を限定して牧会委嘱、巡回説教者、チャプレン等を担い、それによって宣教の働きが補われ、支えられていることに、全体教会として感謝する。

■解説

 宣教とは何かが明確に確認されたところで、その具体的な担い手が確認されています。
 このことを考える上で重要なのは「宣教の働きは、教職、宣教師だけに与えられたものではなく、教会の全信徒に与えられている」、この文言につきます。「全信徒祭司性」です。宣教は教職と信徒の共働の業であることを確認したいと思います。
 第7次綜合方策では、これまで自明のこととのように行われてきた信徒奉仕の働きを、教会の働きとして再確認していく必要があると考えています。教会はこれまで有形無形の信徒たちの働き、献財、祈り、奉仕によって支えられてきました。そしてこれからも、その支えがなしには教会は宣教の働きをなすことができません。一つ一つのそのような働きをきちんと確認して、次の世代に手渡していく。そこで大事なことは、今まで通りの形では手渡すことは難しいということだと思います。変えられるもの、変えられないものを見定め、変えられるものは大胆に変えていくことが求められています。
 同じように教職の役割も節目を迎えています。戦後、多くの宣教師とキリスト教ブームの中で与えられた多くの牧師(両方合わせて200名)で支えられてきたルーテル教会は、現在、現役の牧師は80名となっています。この面からも持続可能な教職の働き方を考えていく時が来ているのです。
 この共働の業を担う「役員会」の働きは、これからさらに大きなものになると考えます。同時に「役員会」がきちんと機能できるか否かが、その教会を組織として維持できるか否かも担っていることになります。

第28期 第15回 常議員会報告

事務局長 滝田浩之

 11月15〜16日にオンライン会議にて行われた標記の件についてご報告いたします。
⑴協力金の件
 2022年度から10%に戻す予定であった協力金ですが、2021年度のCOVID|19による非常事態宣言が想定以上に長引いたことを鑑み、引き続き8%に据え置くことが承認されました。但し、建築会計からの一般経常会計への繰入について協力金算定に含めないという措置については2021年度で予定通り終了とすることを確認しました。なお2023年度は10%に戻すことを予定しています。
⑵集計表の件
 2021年度の集計表より教勢報告について男女の区別を廃止することが承認されました。詳しくは社会委員会からの報告をご覧ください。
 またインターネット礼拝の出席者と対面による礼拝の出席者を区分して記入できるように集計表が変更されています。インターネット礼拝の出席者とは、基本的には主日礼拝にオンラインで同時参加くださっている方と理解しています。また一つのPCで複数の参加がある場合のカウントについては個々の教会のご判断に委ねたいと思います。
⑶定期総会の件
 2022年5月3〜5日に予定されております定期総会については、すでに「ガイドライン」で確認しています通り一か所に参集し、また2泊3日での開催を準備しています。会場については400名収容の会場に200名の出席議員とするなど、感染予防対策を徹底した上での開催となります。当然、感染拡大の中で開催が難しいということになれば更に延期ということも確認しているところです。
⑷ルーテル学院大学からの長期貸付の受入の件
 ルーテル学院大学の積立資金の一部を、日本福音ルーテル教会の収益会計が長期貸付金として受け入れることを確認しました。このことによって教会側は大学側に利息という形で支援することになります。教会としては予定されております市ヶ谷耐震工事について銀行からの借入を減少させることで借入に伴うリスクを軽減できることになります。契約内容については市況一般的な利息を適用することで教会と大学で合意が行われているところです。
⑸市ヶ谷耐震補強工事の件
 定期総会での議案となる市ヶ谷耐震補強工事については、収益部門の減収に伴い計画を見直し、事業費を1億5千万円ほど減少させる案が財務委員会より提案されました。事業費を当初の9億円から7億5千万円とし、耐震補強工事に特化することとしました。定期総会でのご審議をお願い申し上げます。
⑹人事案件
 教師資格者であった坂本千歳牧師が嘱託任用での復帰願いを出され、面接の後、これが承認されました。関野和寛牧師については一般任用から嘱託任用への任用変更願が提出され、これが承認されました。加えて12月1日付けで津田沼教会(主任牧師・小泉嗣牧師)に嘱託任用での任用が承認されました。関満能牧師は9月1日付けで水俣教会、八代教会、阿久根教会の主任牧師に病気休職から復職が承認されました。

22-01-01日々新たにされて

「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」コリントの信徒への手紙二 4・16

 私たちは、「贖われし罪人」です。ですから、日々新たにされて生きるのです。
 イザヤ書43章で、天地万物を創造された主なる神様が、いきなり、何の条件も全く付けず、「恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの」(1節)と言っています。まことに驚きです。「贖う」とは、神様が、神のものとなった私のすべてを引き受けてくださる、責任をとってくださるということです。
 神様に背いて、どうにもこうにも言うことを聞かない私のために、イエス・キリストが十字架で死んで、私の罪を贖ってくださったのです。イエス様の十字架によって、決定的に重大な問題が解決されたのです。創造主である神様に背いているという、これ以上に、私たち人間にとって重大、深刻な問題はありません。その罪を、父なる神様は御子イエス・キリストにおいて解決してくださったのです。これが 、私たちに与えられた救いです。まことに有り難いことです。これこそ、わが人生最もビッグでグッドなニュースです。
 神様は続けて、「わたしはあなたの名を呼ぶ」と言っておられます。「名を呼ぶ」と言うことは、一人一人に対して、神様が一対一で向かい合い、覚えていてくださるということです。ですから、私がいかなる信仰生活をしていようと、あるいは年老いて、前後不覚に陥って、神様に向かって憎まれ口をたたいたり、突然、「主の祈り」ではなく、念仏を唱え出したりしたとしても、神様は、私のすべてを知った上で、「わたしはおまえのことを引き受けた。まかせておけ」、そう言ってくださるのです。それが「名を呼ぶ」ということです。
 「あなたはわたしのものだ」と言われる主なる神様が、私たち一人一人の名を呼んで、私のすべてを自分のこととして 引き受けてくださっています。その絶対の保証としてのイエス・キリストの十字架です。
 救いは、私たち人間の側のどのような事態、どのような問題によっても取り消されたりはしません。パウロが、「ローマの信徒への手紙」8章で、「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来 のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな 被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(38〜39節)と言っている通りです。ですから、たとえ私たちの体や心がどんな状態になっても、私たちは決して滅びることはなく、神様の愛の中にちゃんと、しっかり受けとめられているのです。
 やがて私も年老いて何も分からなくなり、信じることも、告白もできないようになる時が来ることでしょう。しかし、今はまだできます。今は、私が御言葉を聞いて信じ、そして、自分の、これからのことも含め、すべてを、「神様、あなたにおゆだねします。私を憐れんでください」と言うことができます。そう言える今、たとえこれから先どんなことがあるか分かりませんが、「絶対大丈夫」という平安が与えられています。
 神様は、無条件で、「わたしはあなたを贖う」と約束してくださっています。神様の、その絶対の恵みを知り、信じることができ、それによって本当に喜び、平安に生きることができるというのは、礼拝を通して与えられる恵みです。
 やがて、もうどうすることもできなくなるであろう時のために、今ここで、私は礼拝において神様との本当に深い交わりを持ちたいと願っています。礼拝に出席することが困難になって、初めて私たちは礼拝に出席し、仲間と顔と顔を合わせるということがどんなに幸いなことであるか、どんなに大きな恵みであるかと いうことを身にしみて思い知らされました。
 「わたしたちの外なる人は衰えても、内なる人は日ごとに新しくされていく」のです。自分で、自分の力、頑張りで新しくなるのではありません。神様が新しくしてくださいます。「だから、わたしたちは落胆しない」のです。

日本福音ルーテル小石川教会・板橋教会 牧師 德野昌博

レンブラント作「写字台の聖パウロ」(1629-1630年)ニュルンベルク・ゲルマン国立博物館所蔵

21-12-01るうてる2021年12月号

機関紙PDF

「あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川」

日本福音ルーテル教会牧師 太田一彦

「御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。」
コロサイの信徒への手紙1・17

  私はこの7月に38年間の牧師としての務めを終えることになりました。突然の心臓病のためでした。思えば最初の任地が仙台、そして最後の任地も仙台でした。
 その仙台を去る日、私は心の中に魯迅の言葉を思い巡らしていました。魯迅は仙台にゆかりの深い作家・思想家です。彼の「絶望の妄想なること、まさに希望と相同じ」(※1)という言葉をです。彼は絶望も希望も同じく妄想だと言うのです。実に衝撃的な言葉。この魯迅の言葉は、今、主のご降誕を希望の中で待っている私たちには正反対にある言葉のように感じたのではないかと思います。なぜなら希望も絶望と同じく虚しいものだと彼は言っているからです。この言葉が私の頭から消えなかったのです。コロナで閑散とした新幹線の中で私はこの言葉を思い巡らしていました。

 電車が福島にさしかかった頃、妻が隣で突然「あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川。智恵子抄。うふふ。」(※2)と笑うのです。長く私と一緒に教会に仕えてきてくれた妻の変わらない笑顔に私は「そうか、魯迅の絶望の妄想なること、まさに希望と相同じという言葉は絶望も希望も同じく妄想だと彼は言っているのではないぞ」と気がつかされたのです。私たちが今、何かに絶望を抱いていて、それを自分で絶望として