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23-01-01るうてる2023年01月号

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「みことばは、私の道の光です」

日本福音ルーテルむさしの教会・八王子教会牧師 浅野直樹Jr.

「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯」

(詩編119編105節)

  私がこのみ言葉と最初に出会ったのは十代の頃、新改訳聖書ででした。「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」。一目で気に入りました。
 恥ずかしながら、私は暗闇が怖いのです。それは、少年の頃の原体験にもよるのでしょう。私が住んでいたところは、村内に信号機が一つしかないような、いわゆる「ど田舎」でした。当然、街灯も少なく、夜は真っ暗です。小学生の頃、少し離れた小さな町の剣道教室に通っていたことがありました。帰りは日が暮れ、一人バスに乗って帰りました。同じバス停で降りる人はいません。たった一人で、暗い道を家まで歩いていかなければなりません。重い防具を背負って。当時は、数十メートルおきにしか街灯はありませんでした。街灯と街灯の間は真っ暗。おまけに、途中にはお墓までありました。そんな怖さを紛らわすために少しばかり声を大きくして歌を歌いながら、街灯から街灯へと猛ダッシュを繰り返したものです。さすがに家の側まで来ると明るかったので、それがどれほどの安心感を与えたことか。そんな経験があるせいか、「光」という言葉に惹かれるのかもしれません。
 「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」。このみ言葉は、単にお気に入りだけでなく、私を支える言葉となりました。しかし、本当にその通りだったのでしょうか。少年時代、青年時代、壮年時代、人間関係においても、家族関係においても、仕事においても、また自分自身とにおいても、辛くて、悲しくて、苦しい、暗闇の中にいるとしか思えないような出来事が度々あった。そんな時、本当に暗闇を照らす光となってくれていたのか。むしろ、祈っても叫んでも答えられずに、神さまは本当におられるのか、と意気消沈してしまっていたのではなかったか。本当にそんな時に、み言葉が助けに、力になっていたのだろうか。そうも思うからです。
 確かに、そうです。私自身、そんな体験を積み重ねてきました。しかし、それでも、やはりみ言葉は、「私の足のともしび、私の道の光」だったと思うのです。それは、み言葉の一言一句とは限らなかったのかもしれません。細々と積み重ねて内実化されたみ言葉のエッセンスと言えるのかもしれません。しかし、いずれにしても、それらが私たちの重要な、決定的な決断を導き最悪の状態を回避したり、自分だけでは見出すことができなかった気付きを与えてくれたり、予想だにしなかった未来を掴むことができたり、諦めずに希望を見出すことが出来たのではなかったか。いちいち、あのみ言葉が、このみ言葉が、と意識することはなかったかも知れませんが、確かにみ言葉が私たちの内に働いて、私たちを守り、支え、慰め、力づけ、導いてくれていたのではなかったか。その結果として、今の私たちがいる(在る)のではないか。そう思うのです。
 脅すつもりはありませんが、今年も何が起こるか分かりません。戦後日本は比較的平穏な中を歩んで来ることが出来たと思いますが、国内においても、また世界においても、経済格差の問題、安全保障の問題、気候変動の問題など、喫緊の課題が溢れています。私たちも一市民として、自分達に出来ることで励んでいく必要があるでしょう。しかし、その前に原点を確認したいと思うのです。古くて新しい原点を。「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」。こんなことがおとぎ話のように思えるような時代だからこそ、その力に、確かさに、立ち返りたいと思う。そして、宣教によって、この経験を私たちだけのものとするのではなくて、より多くの人々の経験となっていけるように励みたいと思っています。

エッセイ「命のことば」 伊藤早奈

㉞「包まれて」

「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし/我々を打たれたが、傷を包んでくださる。」(ホセア6・1)

 「あれ、もうこんな季節か。」花の香りが運ばれてくる。
 他の部屋に行く。ふわぁーっと花の香りがいっぱいだ。窓も開けていないのにどこから入ってきたんだろう。
 ふっと、イエス様の香りってこのようなものなのかなと思うと同時に、このような話を思い出しました。「光をプラスチックや鉄板でぴっちり塞ぐと光は全く周りに漏れないかもしれないけど、光を手で囲むと、どんなにぴっちり囲もうとしても光が漏れるように、私たちが完璧ではないところからもイエス様の光が周りに漏れているんだよ。」と言う言葉でした。
 イエス様の香りって光でもあるのかなぁって、ぼーっと考えてました。
 私はうまく上が向けないので、木のように上で花が咲いているのかいないのかをうまく目では確認できませんが、その花の香りがしたり、土の上に広がってる花びらを見て、「あっあの花が咲く季節が来たんだな」って思います。
 私が働かせていただいていた施設には《匂いの散歩道》と言う道があり、目で確認できない方々でも季節がわかるように、季節ごとに咲く花の匂いがする木々が植えてあり、私はその道を車椅子をこぎながらゆっくり散歩するのが好きでした。
 私たちはイエス様の香りの中にいます。だからいつでも光や愛を感じることができます。

議長室から 大柴譲治

我ここに立つ〜Sola Scriptura

「静まれ、私こそが神であると知れ。」(詩編46・11)

 新年おめでとうございます。主の新しい年が始まりました。天よりの祝福を祈りつつ、ご挨拶させていただきます。
 新年に示された聖句は表記のみ言です。英語で言えば〝Be still, and know that I am God.〟(46・10、RSV)〝still〟とは動きのない制止状態、静寂の状態を指しています。嵐の中でも舟で安らっておられた主の姿を想起します(マタイ8・24)。そこには父と子との完全な信頼関係がありました。
 詩編46編はこう始まります。「神は我らの逃れ場、我らの力。/苦難の時の傍らの助け。/それゆえ私たちは恐れない。/地が揺らぎ/山々が崩れ落ち、海の中に移るとも。/その水が騷ぎ、沸き返り/その高ぶる様に山々が震えるとも。」(1〜4節)疫病や戦争、天変地異の中にあっても私たちはどこまでも神のみ言に依り頼みます。聖書は告げます。「草は枯れ、花はしぼむ。しかし、私たちの神の言葉はとこしえに立つ」(イザヤ40・8)。主も言われます。「天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない」(マタイ24・35)。
 ルター作曲の「ちからなる神はわが強きやぐら」(教会讃美歌450番)は詩編46編に基づいています。その2節には詩編には出てこない主の名が刻まれています。「いかで頼むべきわが弱きちから。我を勝たしむる強きささえあり。そはたれぞや。我らのため戦いたもう、イエス・キリスト、万軍の主なる神」。これはルター自身の信仰告白でした。生ける「神の言」である主が片時も離れずに自分と共にいてくださる。そのような主の現臨がルターを捉えて放さなかったのです。
 この新しい年はどのような年となるでしょうか。先は見通せません。しかしどのような一年となるとしても私たちは知っています、主が共にいますことを。主のみ言と主との信頼関係はとこしえに揺らぐことはありません。イエスが十字架上で「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれた時にも、父と子の信頼関係は揺らぐことがありませんでした(マタイ27・46)。だからこそ私たちは静まって主こそ神であることを知ることができる。真実の信仰に生きる者は強い。困難に打ち倒されても神のみ言によって繰り返し再起してゆくことができる。パウロと共にこう告白したいのです。「私たちは、四方から苦難を受けても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、迫害されても見捨てられず、倒されても滅びません」(2コリント4・8〜9)。在主。
※文中の聖句は全て聖書協会共同訳より引用。

「教会讃美歌 増補」 解説

㉛増補13番「新しい歌を」・増補14番「おろかものは言う」

典礼委員会(旧讃美歌委員会)松本義宣(東京教会・東京池袋教会・板橋教会牧師)

 幼心がつき始めた頃からでしょうか。青空を見上げるのが好きだったように思う。「ウミニオフネヲウカバセテイッテミタイナヨソノクニ」好きな歌を歌いながら、そのよその国へ行ってみたいと水平線をながめていた。まだ水平線との言葉を知らない頃の夏の日々。思い返すと、よその国で生を受け、大海原を行き来していた私でしたでしょうに、夏の日々に憧れていたよその国はそこには見えなかった。静岡県沼津市の千本浜の思い出です。
 大平原は、薄くれないの桜草と青空をつなげた。それが地平線だった。終戦日から約1年、中国東北地方のチチハルの郊外での思い出です。
 私の中にある水平線と地平線の2線には、今、美しく静かな旋律が流れています。

曲解説 梅津美子(日本同盟教団中野教会)

増補13番「新しい歌を」
 1523年8月、ルターの元に、アントワープのアウグスティヌス隠修修道会士2人が、宗教改革に共鳴したかどでブリュッセルで異端として火刑に処せられたとのニュースが入りました。彼の出身修道会の兄弟が、宗教改革の信仰告白の故に殉教した出来事を直ちにバラード(物語詩)にし、恐らく自分で作曲したのがこの歌です。最初は10節だった歌詞は、後に2節が追加され(増補版9、10節)、計12節の「殉教バラード」となりました。
 1529年出版のルター編による賛美歌集では、カテキズム(教理)歌群の結びに置かれました。つまり、カテキズム賛美歌が歌う信仰告白を貫くことは、殉教をも辞さないということになる、という決意表明だということなのです。
 この歌は、結びの部分(1節の最後「神の賜物」)が2種類の旋律で歌われていて、ここで採用した旋律で1~11まで歌い、もう一つの方で最終節を歌ったと推測されています。この歌集では、ルターが最後に監修した「バプスト賛美歌集」(1545年)の旋律を採用しました。会衆歌ではなくバラードだとして、現在の歌集には納められなくなっていますが、厳しい宗教改革時代の肉声が込められていて興味深い内容です。

増補14番「おろかものは言う」
 ルターによる、詩編14編に基づくパラフレーズ(聖書の言葉を自由に置き換え、内容を展開したもの)で、成立は1523年の終り頃です。1523/4年のニュルンベルクで出た歌集「八曲集」に載りましたが、別の旋律で歌われたようです。1524年の「エルフルト・エンキリディオン」では、「教会讃美歌」141番の旋律で掲載されました(それでも歌えます!)。同じく1524年のヨハン・ヴァルターの「合唱賛美歌集」では、彼の作曲によるこの増補版の旋律で掲載され、その後、この曲で歌われるようになりました。また、この増補版12番「喜べ教会よ」の旋律で歌われたとの記録もあり(そちらでも歌えます!)、ただ神にのみ従い、悔い改めと義認の信仰の歌うこの詩編歌は、よく歌われたものだと思われます。
 前述のように、賛美歌は、当時は様々な旋律で歌われるのが一般的でしたので、私たちもそれらの別の旋律で歌ってみるのも一興かと思います。

世界の教会の声

浅野直樹Sr.(世界宣教主事 市ヶ谷教会・スオミ教会牧師)

COP27・タラノア宗教者対話

 「私たちの責務は信仰に基づいています。」ルーテル世界連盟(LWF)加盟教会のリバープレート福音教会のロマリオ・ドーマン氏は言います。「神が創造した世界の管理人である私たちは、オーナーではなくお世話係なのです。」COP27開催の前夜に開かれたタラノア宗教者間対話のパネルでドーマン氏はLWFを代表してそのように語りました。
 タラノア対話とはフィジーの先住民による問題解決法のこと。COP23でフィジーが議長国となった際に、課題に取り組む方法として採用されました。私たちはどこにいるか、どこに行きたいのか、どうやってそこへ行くのかといった問いを参加者たちに投げかけて共同作業を行います。COP27前夜もこの手法を用いて数々の宗教代表者たちが集まり、自由に意見を述べ合うことができました。
「危機に瀕している今はパスポートとか年齢といった普段のくくり方は意味をなしません。大切なことは最も影響を受けやすい人々、つまり最も苦しんでいる人の側に立つことです。」とドーマン氏。
 COP27の開催地エジプトのシャルム・エル・シェイクにあるコプト正教会、ヘブンリ・カテドラル教会の修道士アンドロエス・サミルさんは「アフリカのCOPへようこそ」と歓迎し、「COP27で人類と地球全体のための解決策を見つけることが願いです」と述べました。
 気候行動ネットワーク(ACN)のハジト・シン氏は、気候正義と気候ファイナンスを関連付けることを強調しました。「経済的に豊かな国は気候ファイナンスのためのシェア分を公平に負担しておらず、温室効果ガスの削減が十分にできていないところに問題があります。」
 全アフリカ教会協議会(AACC)と気候変動のためのアフリカ信仰者ネットワーク代表のティベブ氏は、信仰者の行動が気候正義の呼びかけに重要な役割を果たすべきと訴えます。「草の根レベルにいる私たちには、地球全体で温室効果ガスを削減することが死活問題なのです。信仰者間あるいはコミュニティレベルで力を合わせれば変えられます。」
「気候変動をどこまで抑えられるかは、私たち自身がどれだけ変わることができるかです」とブラマ・クマリス代表のモーリーン・グッドマン氏。「霊的なエネルギーがパワーと回復力の源であり、将来はその力が益々必要となります。」また暴力と支配の連鎖を奉仕と尊敬へと切り替え変えるべきだと、非暴力の重要性を訴えました。
「信仰者である私たちは、経済や政治の力をもつ人と関わっていくべき大きな責任があります。」カリミ・キノティ氏(クリスチャンエイド)。彼女はまたタラノア対話が「主流では聞きにくい声を集める場になる」と言います。
 オーストラリア先住民の聖職者レイモンド・ミニエコン氏は、自分たちの民族の先祖の知恵に言及して言いました。「適応、緩和、実施、これを私たちはやってきました。もう一度やりたいです、母なる大地のために」。
 パネルトークのあと出席者たちは対面とオンラインによる分科会で話し合いをしました。タラノア対話では最後に、異なる信仰者たちが互いに祈りあい、歌を歌い、各伝統に従って振り返りをしました。LWFのチャド・リマー牧師は箴言8章を引用して、「地球の生命を造りそれを支える知恵、これこそ私たちが探し求めている知恵です。この知恵はあらゆる信仰者が平等で平和な未来へ希望をもって共に旅をすることを呼びかけています。」

 

(COP27は11月6日から18日にかけてエジプトのシャルム・エル・シェイクで行われました。LWFは気候変動対策活動を重要な取り組み課題ととらえ、あらゆるレベルでアドボカシー活動を続けています。COP27ではLWFのユースが活躍しました。)

 

※詳細についてはWEBサイトをご参考ください。

エキュメニカルな交わりから ⑩NCC「障害者」と教会問題委員会

小勝奈保子(聖パウロ教会牧師)

 

 日本キリスト教協議会(NCC)「障害者」と教会問題委員会の主催による「障がい者週間」の集い(Zoom)が、11月19日にあり、日高馨輔委員長(日本聖公会退職執事)による〈「障がい者週間」の祈り〉をもって始められました。
「神さま、私達みながイエス・キリストの体である教会の交わりに共に招かれていることを感謝致します。あなたから計り知れない命の恵みを与えられながら、差別し合ったり、偏見をもって互いを受け入れることができずにいます。権力や武力などの強さに頼り、経済優先の考え方によって人間の価値を決める社会や教育、偏見やゆがんだ習慣を作りだしてしまっている罪をお赦しください。どうか私達があなたのみ言葉に従い、声なき声にも真に耳を傾け、互いに聴き合い、差別のない社会を作り出してゆくことができますように。知恵と勇気と信仰をお与えください。ことに『障がい』を負う人々と共にイエス・キリストの和解と平和の福音を伝え、全ての人々が生きる喜びを見出すことのできる社会を作って行くことができますように。私達の主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。」
 第1部は、吉岡卓さんのお話です(障がいを負う人々・子どもたちと共に歩むネットワーク副代表)。吉岡さんは、先天性の身体障がいをお持ちで、日本ルーテル神学校に在籍されていたこともありましたが、30代後半に複雑性PTSDを発症されました。今までの苦闘と葛藤についてお話くださいました。10代の頃のお話でしたが、普通学級から養護学校へ行くようになった時に、通学バスに乗ることが恥ずかしくて、窓から身を隠してしまう自分に気づき、自分の中にも障がい者に対する差別意識があるということに大変悩まれたそうです。差別されるのは嫌だし、差別はいけないとは分かっていても、自分の中にも、人を差別してしまう気持ちがある、この人間の内にある二面性は拭えず、生涯持ち続けながら人間は生きるものではないか、というお話でした。
 確かに、私の内にもそのような二面性があります。そして、人と自分とを比べて劣等感や優越感、私たちは様々な感情を心に抱きます。自分の内に潜む差別や偏見を知ることはとても大切なことですが、それと共に、その自分を包んで癒し、新しい人へ創り変える救い主を私たちは共に必要としています。

社会委員会・京都府宇治市ウトロ地区フィールドワーク報告

高田敏尚(修学院教会)

 

 社会委員会が10月11日に行った報告です。これまで、オンライン(Zoom)での会議が続いていましたが、やっと対面でそれも野外で行うことができました。この成果をみなさんにお伝えしたいと思います。
 ウトロ、奇妙に思える地名ですが、ここは戦前、京都飛行場を作るために集められた在日韓国・朝鮮人の集落です。戦後、何の支援もない中、自ら生活基盤を整えながらの居住が続きました。しかし80年代末、新たな地権者から立ち退きを請求されることとなりました。この地に住み続けることを求める住民達は、裁判をおこし、30年にわたる取り組みの結果として引き続き住むことを認められました。その間に、日本の市民や韓国政府からの大きな支援がありました。この記録を残し、未来につなげるために建てられたのが「ウトロ平和祈念館」です。ここには、資料や当時の暮らしを再現した展示などがあり、副館長の金秀煥さんに説明していただきました。
 みなさんは覚えておられますか。このウトロで2021年の8月に放火事件があったことを。「韓国人に悪い感情をもっている」と主張する若者が火をつけました。この記念館のそばにその焼け跡は今も痛々しく残っています。最悪のヘイトクライムといえるでしょう。「神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。」(2コリント5・18)このことが実現する未来を祈念するばかりです。
 京都、近鉄奈良線の伊勢田駅から西へ徒歩10分、機会があればぜひ訪れてください。ウトロという地名の由来もわかります。今回のフィールドワークは、社会委員全員と、先日の入管法問題学習会で講師をしていただいた佐藤信行さん(在日韓国人問題研究所)をはじめ総勢11人で行いました。ルーテル教会で、そして教派を超えて、自分と異なる他者への関心を深めていきたいものです。

東教区宗教改革日合同礼拝報告

佐藤和宏(藤が丘教会牧師・東教区伝道奉仕部長)

  

 10月31日、3年ぶりに、市ヶ谷教会に集まっての礼拝となりました。会衆は73名。以前と同じような人数というわけにはいきませんでしたが、「集まる」ことの大切さとその喜びを改めて感謝する機会となりました。
 第1部の礼拝において、新式文を用い、すべて唱える形で進められました。また今回の礼拝では聖餐式を断念いたしました。説教者には、日本ルーテル教団副議長の梁熙梅牧師(鵠沼めぐみルーテル教会)をお迎えしました。「光は闇の中に」と題して、マタイによる福音書からみ言葉が語られました。ご自身の体験談には会場から思わず笑いが起こるなど、温かいお人柄が見てとれました。司式者には、今夏副教区長に選出された、内藤文子牧師(小岩教会)、神学生も在京している3名が、奉仕してくださいました。思うように活動が出来なかった東教区聖歌隊も、一般募集に応えた方々を加えての賛美は迫力あるものでした。この他にも、たくさんの方々の奉仕と祈りに支えられて、無事に終えることができました。
 第2部は、教区長(松岡俊一郎牧師)の挨拶に続いて、礼拝献金の授与が恒例になっています。この日の献金は「ルーテル学院大学・神学校」と「連帯献金(ウクライナ支援)」に二分され、それぞれに授与されました。石居基夫学長と立山忠浩校長、滝田浩之事務局長が受け取り、それぞれ挨拶をされました。その際、3名の神学生にも前に出て、自己紹介をしてもらいました。コロナ禍にあって、神学生に会う機会もないまま過ごしてきましたから、実際に会い、声を聞くことの中に、喜びを見出しました。
 すべて終了した後は、再会を喜び合う輪が、爆発したようにあちらこちらに出来、誰もがその場を去り難い思いを抱いているようにみえました。初めから終わりまで、集まることの喜びが詰まった時間を過ごしました。

第28期第20回常議員会報告

事務局長 滝田浩之

 

 11月14日(月)に開催された標記の件、ご報告いたします。

(1)第29回・30回
  定期総会の件
 第29回・第30回定期総会の同日程での開催については、2023年5月3〜5日(水〜金)に宣教百年記念東京会堂(東京教会)で対面にて開催することを確認しました。もちろん今後、COVID-19感染拡大の中でウイルスの強毒化等、不測の事態があれば再延期もあり得ますが、現段階では参集しての開催を準備していくことになります。なお新選挙システムの導入により技術的には1泊2日の開催は不可能ではないものの、5年ぶりの参集での開催であり、COVID-19下での宣教の苦悩を分かち合い、十分にフロアーからのご意見を頂くために2泊3日での開催としました。また日本同盟基督教団の大杉至牧師よりハラスメントについてのご講演を頂く予定です。総会負担金につきましては、すでに2020年に徴収済みとなっています。
(2)第31回
  定期総会の件
 来年に第29回・30回定期総会が開催された場合、第31回定期総会については2023年の2年後となる2025年の開催とすることを来年の定期総会において第4号議案として提案することを確認しました。教憲・教規において定期総会は2年に1度開催するとなっていることを鑑み、来年の総会を基点としてこれまで延期を繰り返してきた総会開催について正常化をはかるためです。また常議員の任期にあわせて2024年に連続して開催するという考え方もありますが、個々の教会の負担になること、また総会の正常化に合わせて、ここで新たな任期から始まる執行部を選出することが肝要と判断しての提案となります。この議案を議長報告の前に行うことによって、これが総会において承認された場合、現議長、副議長、事務局長については3期を超えて同一役職についてはならない(日本福音ルーテル教会規則第50条)に従い任期満了となります。よって議長報告の後に行われる総会選出常議員選挙では、それぞれ同一役職については被選挙権を持たないことを確認しているところです。

(3)協力金、教職給の件
 来年の協力金については現行8%としているところを10%に戻すのではなく9%とすることを確認しました。感染拡大の状況の中に引き続き個々の教会が置かれていること、同時に教会活動も様々な工夫の中で進められていることを加味しての判断となりました。教区活動、本教会活動については引き続き財政均衡を睨みながら運営されていくことになります。ご理解をお願い申し上げます。
 教職給につきましては18年間ベースアップが行われていないこと、昨今の急激なインフレを加味して0・5%のベースアップとすることを確認しました。この18年間で社会保険関係の支払いは増加し可処分所得が減少しています。月30万円の俸給の方で定期昇給を除いて月1500円、年2万5千円の昇給となります。教職給は生活給であることをご理解頂き、個々の教会のご協力をお願い申し上げます。
 以上、詳しくは常議員会議事録にて確認をお願い申し上げます。

熊本地区宗教改革合同礼拝報告

安井宣生(熊本地区宣教会議議長担当教会・健軍教会牧師)

  

 10月30日(日)、建築から98年となる、登録有形文化財でもある九州学院のブラウン記念礼拝堂にて、熊本地区宗教改革合同礼拝が行われました。熊本地区では県内の12教会をはじめ、学校と社会福祉、幼保こども園などの事業に取り組む関係8法人が協働して神の宣教の働きを担っています。このつながりを熊本地区宣教会議と呼び、年ごとに合同礼拝、講演会、音楽会などの集会を実施し、祈りと交わりを強められてきました。新型コロナ感染症の拡大以来、集まることを断念してきたこともあり、この度、久しぶりに顔を合わせる機会ともなりました。

 礼拝は、礼拝堂に響き渡る鐘の音に導かれて始まり、美しい旋律の新式文クラブを用いて、森田哲史牧師と安達均宣教師の司式により進められました。説教は永吉穂高牧師(ルーテル学院中高チャプレン)により「神のイメージ」とのテーマで語られました。宗教改革運動となったマルティン・ルターの取り組みはイエス・キリストに貼られたレッテルを剥がし、十字架を担われたその姿と生き方を通して、聖書の言葉を味わい直すことであると学びました。また、誰もが近寄りたくないと考えてしまうところへ赴き、すべてを許すために命をかけたキリストの覚悟と愛に支えられること、そしてキリストに従う者とされることへの感謝の祈りに導かれました。
 大勢での賛美と聖餐の分かちあいも合わせて、参加者は神の恵みに力づけられ、そしてまたこの地から始められた神学校の働きを応援する思いを表明し、再び打ち鳴らされた鐘の音に背中を押されて、それぞれの場へと派遣されていきました。礼拝堂を後にする皆さんのにこやかな表情はとても印象的でした。学校チャプレンである永吉牧師の顔をあしらったポスターは、学校はもちろんのこと、人の往来の多い商業地にある教会の掲示板でも注目され、撮影されたとの報告もありましたが、180名の参加者の中には関係学校の多くの生徒さんたちが礼拝に共に集ってくださったことも、嬉しいことでした。

2023年度 日本福音ルーテル教会 会議日程予定

公告

  

 この度左記の行為を致しますので、宗教法人法第23条の規定に基づき公告致します。
2023年1月15日
宗教法人日本福音ルーテル教会
代表役員 大柴譲治

信徒利害関係人 各位

横浜 土地建物
売却の件

(ア)横浜 土地
所在地
 横浜市神奈川区
松ヶ丘
所有者
 日本福音ルーテル教会
地番 8番4及び
8番5
地目 宅地
地積
 8番4 248・42㎡
 8番5 797・88㎡

(イ)横浜 建物
所在地
 横浜市神奈川区
 松ヶ丘
所有者
 日本福音ルーテル教会
種類 会堂
構造 木造
 スレート葺平家建
床面積 154・21㎡
種類 教職舎
構造 木造
 スレート葺平家建
床面積 76・03㎡
理由 売却のため

23-01-01みことばは、私の道の光です

「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。」
(詩編119編105節)

 私がこのみ言葉と最初に出会ったのは十代の頃、新改訳聖書ででした。「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」。一目で気に入りました。
 恥ずかしながら、私は暗闇が怖いのです。それは、少年の頃の原体験にもよるのでしょう。私が住んでいたところは、村内に信号機が一つしかないような、いわゆる「ど田舎」でした。当然、街灯も少なく、夜は真っ暗です。小学生の頃、少し離れた小さな町の剣道教室に通っていたことがありました。帰りは日が暮れ、一人バスに乗って帰りました。同じバス停で降りる人はいません。たった一人で、暗い道を家まで歩いていかなければなりません。重い防具を背負って。当時は、数十メートルおきにしか街灯はありませんでした。街灯と街灯の間は真っ暗。おまけに、途中にはお墓までありました。そんな怖さを紛らわすために少しばかり声を大きくして歌を歌いながら、街灯から街灯へと猛ダッシュを繰り返したものです。さすがに家の側まで来ると明るかったので、それがどれほどの安心感を与えたことか。そんな経験があるせいか、「光」という言葉に惹かれるのかもしれません。
 「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」。このみ言葉は、単にお気に入りだけでなく、私を支える言葉となりました。しかし、本当にその通りだったのでしょうか。少年時代、青年時代、壮年時代、人間関係においても、家族関係においても、仕事においても、また自分自身とにおいても、辛くて、悲しくて、苦しい、暗闇の中にいるとしか思えないような出来事が度々あった。そんな時、本当に暗闇を照らす光となってくれていたのか。むしろ、祈っても叫んでも答えられずに、神さまは本当におられるのか、と意気消沈してしまっていたのではなかったか。本当にそんな時に、み言葉が助けに、力になっていたのだろうか。そうも思うからです。
 確かに、そうです。私自身、そんな体験を積み重ねてきました。しかし、それでも、やはりみ言葉は、「私の足のともしび、私の道の光」だったと思うのです。それは、み言葉の一言一句とは限らなかったのかもしれません。細々と積み重ねて内実化されたみ言葉のエッセンスと言えるのかもしれません。しかし、いずれにしても、それらが私たちの重要な、決定的な決断を導き最悪の状態を回避したり、自分だけでは見出すことができなかった気付きを与えてくれたり、予想だにしなかった未来を掴むことができたり、諦めずに希望を見出すことが出来たのではなかったか。いちいち、あのみ言葉が、このみ言葉が、と意識することはなかったかも知れませんが、確かにみ言葉が私たちの内に働いて、私たちを守り、支え、慰め、力づけ、導いてくれていたのではなかったか。その結果として、今の私たちがいる(在る)のではないか。そう思うのです。
 脅すつもりはありませんが、今年も何が起こるか分かりません。戦後日本は比較的平穏な中を歩んで来ることが出来たと思いますが、国内においても、また世界においても、経済格差の問題、安全保障の問題、気候変動の問題など、喫緊の課題が溢れています。私たちも一市民として、自分達に出来ることで励んでいく必要があるでしょう。しかし、その前に原点を確認したいと思うのです。古くて新しい原点を。「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」。こんなことがおとぎ話のように思えるような時代だからこそ、その力に、確かさに、立ち返りたいと思う。そして、宣教によって、この経験を私たちだけのものとするのではなくて、より多くの人々の経験となっていけるように励みたいと思っています。

22-12-01るうてる2022年12月号

機関紙PDF

「神の業に招かれる」

日本福音ルーテル帯広教会 牧師 岡田薫

「天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、
神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。
不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」

(ルカによる福音書1章35~37節)

 信仰という恵みを与えられていると自覚している私は、日々神への愛と信頼をもって誠実に生き生きと過ごしたいと願いつつも実は全くそうではないと思い知らされることが多々あります。ときには「私には荷が重すぎます」と職務を投げ出して逃げ出したくなることもあれば、疑いや迷いをぬぐい切れず、ふて寝して、翌日には奇跡が起きていることを願っても、相変わらず厳しい現実を前に深いため息から一日を始めることもあります。もしかしたら、この文章を読んでくださっているあなたも、思いがけないトラブル、痛ましい現実、信じたくないような悪意、自分の力ではどうにもならない状況を前にして立ちすくんだという経験をお持ちかもしれませんね。
 マリアが聞いた「おめでとう。」の言葉も途方もなく重たいことばであったと思います。にもかかわらず、彼女は自分の身に起きたことを引き受け、人生を神の働きに委ねていくようになりました。そこには「主があなたと共におられる。」(ルカ1・28)という約束や「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。」(ルカ1・36)という御言葉の力があったと思います。神の業に巻き込まれたのが自分だけではないという情報は、マリアにとって心の内をわかちあう他者がいるという安堵となったに違いありません。そして、エリサベトを訪ねてしばらく共に過ごした時間は彼女たちにとって豊かなものであったでしょう。
 世界的なパンデミックが私たちの日常を激変させ、気候変動による大規模な災害が各地で起こり、軍事暴力がはびこる中、福音を語る、福音を生きるということの難しさをひしひしと感じています。そのような中で、一つの祈り会に招かれました。きっかけは「親しい友人やその家族のために祈って欲しい」という個人的な呼びかけ。それまで、ミャンマーという国についての知識も関心もほぼ皆無でしたが、2021年2月1日の軍事クーデータ以降、毎週金曜日にオンラインで行われている祈り会に参加するようになって、かの国で起きている暴力が私たちの生活と地続きであることを知らされました。
 祈り会から生まれたアトゥトゥミャンマー(ミャンマーと共に)支援という小さな支援団体では、ミャンマー本国の支援と共に日本で生活されているミャンマーにルーツを持つ方々とも連帯しています。奉仕や運営に携わっている仲間たちに感謝しながら、祈り会でわかちあわれるそれぞれの思いに自分の思いを重ねます。リアルタイムでわかちあわれる情報の中には目を背けたくなるものも少なくありません。それでも嘆きや悲しみを持ち寄り、呻きと沈黙に押しつぶされそうになっても、神は、どのようなときにも人の呻きや、呟きに耳を傾け、心を向けてくださっていると信じて祈り続けることで、今日を生き抜く力を得るような思いでいます。
 神の御子は、弱く、もろく、不安定な存在として、この世界にお生まれになりました。マリアも、嬰児として生まれ、その身を人の手に委ねられた幼子の重み、ぬくもりを通して、神の業の担い手として招かれたことを感じたことでしょう。現代は、当時とはまた違った苦しみと悩みが世界を覆っています。そのような中にあって、私たちはクリスマスをどのように待ち望んでいるのでしょうか。キリストの誕生は、私たちに神の約束が必ず成就するということを教えてくれる出来事です。そして、神が御心を顕されるときに、私たちを求め、働きの中に招いてくださっているということも教えてくれています。だからこそ、自信がなくとも、しんどくても、辛くても、福音を語る、福音に生かされる幸いを伝える務めに踏みとどまりたいのです。《神にできないことは何一つない。》という御言葉に立ち、すべてをご存知の方が、命と希望へと私たちを押し出てくださることを信じて。

エッセイ「命のことば」 伊藤早奈

㉝「聴く」

「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。/悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。/柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。/義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。/憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。/心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。/平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。/義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。」(マタイ 5・3〜10)

 「あなたの聖書朗読からあなたの信仰が聴こえるわ」と今回あげた聖句をお読みした時言われました。丁度言葉のスピードが遅くなり、また病気が進行したのかと心配していた時でした。また故人の好きだった聖句としても上に書いた聖句を葬儀の時読みました。
 私は神学生の時に聖書朗読の指導を受けました。その時に「礼拝で聖書が読めることは幸せよ。その時その時に与えられた神様からのみ言をあなたを通して会衆が聴くのですから。」その言葉を聞いて神学生の奉仕だからうまくすべきと思いガチガチだった私の思いは変えられ、与えられている奉仕として用いられていることを知り、神様がいつも一緒にみ言を運んで下さることに気づくことができました。一人ではありません。いつも神様が一緒です。ただ一緒なのではなくあなたをお用い下さいます。聖書朗読の時だけではなくいつも神様は一緒です。

議長室から 大柴譲治

「天使の取り分  Angels’ Share」

「すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。/『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ』」(ルカ2・13〜14)。

 クリスマスが近づくと天使に思いを馳せることが多くなります。ある方が教えてくださったユッタ・バウアーの『いつも だれかが…』という素敵な絵本があります(上田真而子訳、徳間書店2002)。その扉の裏にはこうありました。「うれしいときもかなしいときもいつもだれかがそばにいた。あぶないときにはたすけてくれた…。幸運だった一生をふりかえる祖父と、その話に耳をかたむける孫と、ふたりを『見守る存在』とを描いて、ヨーロッパを感動の渦にまきこんだ話題の絵本」。見えない天使が私たちを守ってくれているのです。
 ボンヘッファーの『善き力にわれかこまれ』という賛美歌もやはり天使の守りを歌ったものと聞きました(『讃美歌21』469番)。「善き力にわれかこまれ、守りなぐさめられて、世の悩み共にわかち、新しい日を望もう。/輝かせよ、主のともし火、われらの闇の中に。望みを主の手にゆだね、来たるべき朝を待とう。/善き力に守られつつ、来たるべき時を待とう。夜も朝もいつも神はわれらと共にいます。」(1・4・5節)「善き力」とは天使を意味しています。
 クリスマスは万物を一新させる神の再創造の出来事の始まりでもありました。そこに点された光は今も、この世の闇の中に輝き続けています。どのような深い闇も、悲しみも絶望も、神によって与えられたイエス・キリストという希望の光を消すことはできません。もしも主の御降誕がなかったとしたらあの幾多ものすばらしいクリスマスキャロルは誕生しなかったでしょうし、私たちが天使の歌声に耳を澄ませることもなかったはずです。そう思うと御子の降誕にますます感謝したくなります。キャロルにより私たちに不思議な力と慰めが与えられるからです。賛美を通して私たちもまた、天使たちの大きな喜びに参与することがきているからだと思っています。
 以前サントリー白州蒸留所を訪ねた時のこと。樽の中で熟成されるウィスキーは毎年数%ずつ減ってゆくそうです。職人さんたちはそれを「天使の取り分Angels’ Share」と呼ぶそうです。粋ですね。そのような長いプロセスを経てやがて琥珀色の液体が生まれてゆきます。私は思います。私たち人間も成熟の課程においてAngels’ Shareの喜びに与っているように思えるのです。福音の告知は無数の天使たちの喜びに裏打ちされています。お一人おひとりの上に祝福をお祈りいたします。メリークリスマス!

「教会讃美歌 増補」 解説

㉚創作賛美歌解説10
増補54番
「光ふる海原」

歌詞解説 木村満津子
(湯河原教会)

 幼心がつき始めた頃からでしょうか。青空を見上げるのが好きだったように思う。「ウミニオフネヲウカバセテイッテミタイナヨソノクニ」好きな歌を歌いながら、そのよその国へ行ってみたいと水平線をながめていた。まだ水平線との言葉を知らない頃の夏の日々。思い返すと、よその国で生を受け、大海原を行き来していた私でしたでしょうに、夏の日々に憧れていたよその国はそこには見えなかった。静岡県沼津市の千本浜の思い出です。
 大平原は、薄くれないの桜草と青空をつなげた。それが地平線だった。終戦日から約1年、中国東北地方のチチハルの郊外での思い出です。
 私の中にある水平線と地平線の2線には、今、美しく静かな旋律が流れています。

曲解説 梅津美子
(日本同盟教団中野教会)

 「光ふる海原」は、2011年6月19日に東京カテドラル関口教会マリア大聖堂で行われた第30回教会音楽祭の公募曲で、当日歌っていただいた曲です。
 この詩を手にした時、幼い頃、湘南の海で見た光景を思い浮かべました。眩いばかりに光り輝く空、見渡す限りの海原、波は光を浴びて白く輝き、海は深い色に沈む。光は何処から来て何処へ行くのだろう。光は何を照らしているのだろう。雄大な景色は言葉にならず、崇高さを覚えました。
 神は言われた。「光あれ」。こうして光があった(創世記1章3節)。長じて私の心は主に向かい、主を信頼する今、主の光あふれる慈愛のもとで歩めることに感謝し、これからも希望の朝を迎えられることを祈りつつ、音に託しました。
 曲はドリア旋法で書き、旋律線は波をイメージした上行ラインを大小組み合わせ、頂点「光よ」に繋ぎました。

世界の教会の声

浅野直樹Sr.(世界宣教主事 市ヶ谷教会・スオミ教会牧師)

ルター派とペンテコステ派の対話

 ルーテル世界連盟(LWF)とペンテコステ派の世界組織PWF(Pentecostal World Fellowship)は、2016年にフィリピンで開始した対話をそれ以後毎年続けています(2017年はドイツのヴィッテンベルクで、2018年はチリのサンティアゴで、2019年はマダガスカルのアンタナナリボで開催)。その後新型コロナウイルス感染症のパンデミックの影響で対話はオンラインとなりましたが、今年9月末にカリフォルニアのフラー神学校で対面による協議が行われ、10名の出席者たちは再開できた喜びを噛みしめました。期間中、一日の始めと終わりの祈りディボーションは、ルター派とペンテコステ派双方が担当しました。
 今回のカリフォルニア州パサデナでの対話では、ここまで積み重ねてきた協議の総括をして第1期の会合を締めくくりました。テーマはキリスト者のアイデンティティ、福音の告知、貧困層と疎外された人々への関心、癒しと解放への取り組みについてでした。第1期開催に先だって2004年から2010年まで、ストラスブールにあるLWFエキュメニカル研究所がここに向け準備してきました。LWFエキュメニカル部門と対話委員会の責任を担うランゲ教授も今回の対話に参加し、以下のようにコメントしています。「双方の代表者たちは互いに祈りあい、そしてまたお互いのためにも祈りました。礼拝と対話そして共に歩み分かち合うことで、神の御心に沿った一致への道筋を見いだそうとしています。」会期中の日曜礼拝は、黒人が中心のチャーチオブゴッドの大きなペンテコステ教会に参加しました。「ルター派とペンテコステ派の礼拝スタイルは異なるけれど、復活のキリストとキリストによる救いの御業に焦点を当てている点は同じです。」(ランゲ教授)
 第1会期を終えた出席者たちは共同作業で結果をまとめLWFとPWFそれぞれに報告、来年には出版する運びとなっています。ペンテコステ派代表のプルス氏は、今回の協議の成功を振り返りながら、報告書はこれまでに議論をしてきたテーマをある程度詳細に取り上げ、共通する関心事や証しの可能性が両教会にはあることが示されるだろうと述べています。「ぜひとも第2期の対話を手がけていきたいと考えており、次回のテーマを礼拝及びその実践、そして両教会間でのキリスト者の集まりについて焦点を当てたいと思っています。」(ランゲ教授)
 この協議会には東京教会の英語礼拝と牧会を担うサラ・ウィルソン牧師が委員として出席しています。

 

 ※詳細についてはWEBサイトをご参考ください。

エキュメニカルな交わりから

⑨NCC在日外国人の人権委員会
李明生(田園調布教会牧師)

 

 戦後1948年に発足した日本キリスト教協議会(NCC)の歩みは、国内外のキリスト教会のネットワークを通して対話と和解を進め、祈りを共にして連帯の実現を目指すものでした。特に在日大韓基督教会の委員たちと活動を共にする中で在日外国人の差別の実態に気付かされ、この問題に取り組むため1967年に「少数民族問題研究委員会」が発足します。しかしその後、その名称は日本の侵略・植民地化・強制連行の歴史を覆い隠してしまうような名称であることに気付き、1972年に現在の名称となりました。
 委員会発足当時は、在日韓国・朝鮮人の人権獲得、就職差別への闘いや民族教育の保証を求める活動が中心的課題でした。1980年代には外国人登録法(外登法)が定める指紋押捺への拒否運動が日本各地で起こり、当委員会も参加協力する形で1987年に各教派・団体や各地の地方組織からなる「外登法問題と取り組む全国キリスト教連絡協議会」(外キ協)が結成されます。その後外キ協は、時代の変化と共に在日外国人の構成が大きく変化したことを踏まえ、全ての人の命と尊厳が等しく守られる社会の実現を呼びかける「外国人住民基本法案」を1999年に提案、2011年に名称を「外国人住民基本法の制定を求める全国キリスト教連絡協議会」(略称はそのまま「外キ協」)とし、多文化共生社会の実現を目指して活動しています。
 残念ながら日本社会では2009年頃から「ヘイトスピーチ」そして「ヘイトクライム」が繰り返されるようになりました。こうした中、2015年に世界教会協議会(WCC)をはじめ国内外の諸教会によるエキュメニカルな協力によって第3回「マイノリティ問題と宣教」国際会議が東京で開催され、その成果として、マイノリティの差別の問題をキリスト教会の宣教課題として取り組む「マイノリティ宣教センター(CMIM)」が2017年に発足しました。
 NCC在日外国人の人権委員会は現在、外キ協、マイノリティ宣教センターと一体となって活動を行っています。2021年からは、現在の入管および在日外国人行政の問題やその背景にある歴史的問題についての連続講座などの集会を、オンラインでも実施しています。ご関心のある方はお気軽にご参加下さい。

社会委員会リレーコラム「本・出会い・教会」⑥

秋山仁(ディアコニアセンター喜望の家・豊中教会牧師)

 

 未だ日本社会に見られる外国人差別。それも国が定めた制度や公的機関において、しかも常態化しているという現実があります。
 2021年3月6日、1人のスリランカ人女性、ウィシュマ・サンダマリさんが、33歳の若さで、収監中の名古屋出入国在留管理局(名古屋入管)で亡くなりました。この事件は、遺族がスリランカから来日し、真相究明を求めたこともあって、連日報道がなされ、読者の皆さんの記憶にも新しいことと思います。
 なぜ、日本の文化に興味を持ち、日本でこどもたちに英語を教えたいという希望をもって来日した女性が、「非正規滞在者」として名古屋入管に収容されたのか。なぜ、収容中に、衰弱して、医療措置も受けられず亡くならなければならなかったのか。なぜ、真相究明を願う遺族に全ての情報が開示されないのか。
 本書の著者の一人安田菜津紀さんは、事件の経緯と背景を詳らかにしながら、こうした疑問の核心に迫っていきます。そして、そこから見えてくるのは、日本という国の戦前から変わらず続いている「出入国管理」体制全体の問題であり、その人種差別的な体質です。
 本書を読み進めていくとき、私の中に湧き上がってきたのは憤りであり、また大きな疑問でした。「どうしてこんな酷いことが、法治国家であるはずの日本で許されているのか。外国人に対してこんな扱いをしている国が、外国人の労働力をあてにするのは正しいことか。」
 日本にはすでに280万人もの外国にルーツを持つ人々が暮らしており、大勢の外国人によって、繊維産業などの中小企業や農・漁業といった根幹の産業が支えられています。今や、彼らなしには、日本の産業は立ち行かない状況になっています。にもかかわらず、日本社会は彼らに対し、まったく優しくはないのです。
 本書では、このウィシュマさんの事件の他にも、様々な現場での取材をもとに、日本政府による外国人政策の問題点が赤裸々に語られています。
 来日した外国人技能実習生の労働現場での処遇と実態。さらには、ここ十数年執拗に繰り返されるヘイトスピーチ(社会的なマイノリティに向けた差別や侮辱、排除の言葉)と排外主義の動き。その根底にある、戦前・戦中の日本「帝国」による植民地支配や侵略の事実を否認する歴史修正主義。差別を助長するメディアの問題。
 本書が指摘し、批判する日本の外国人政策の問題点を、もう一人の著者、安田浩一さんは、こう記しています。「『人権』という視点はない。まったくない。そして―いまも、ない」と。
 私たちは、すでに「共生社会」、「多文化社会」の時代に生きています。「人権」の視点から、差別的な外国人政策を終わらせ、人種や民族の壁を越えて、互いに助け合い、共に生きてゆける社会の創出を目指さなくてはならないと、本書を読んで改めて強く思わされました。

静岡市清水区台風15号災害報告

秋久潤(小鹿・清水・沼津教会牧師/東海教区台風15号災害現地部長)

  

 2022年9月24日(土)頃に静岡県を通過した台風15号により水害が生じました。本記事(2022年10月25日執筆)は、静岡市清水区の情報に偏っています。申し訳ありませんが、他の地域の被災情報は本記事に含んでおりません。
 本水害の特徴は、被災地がまばらで「チームで特定の地域に支援に出かける」のが難しいことです。お金を出せば支援物資が買えたため、ルーテル教会として支援の呼びかけはせず、東海教区災害予備費から物資購入費を出して頂きました。私は9月26日(月)から清水区の教会員を訪問し水を配りました。その後、市のボランティアに参加しています。
 被害が大きい地域では、当日深夜2〜3時頃に浸水し、高さ120㎝(胸の高さ)まで浸水しました。家財や自動車を廃棄したご家庭も多いです。次のお話が印象的でした。「最近は、町中の至る所が舗装されている。そのため、氾濫した水が土に吸われず、舗装していない我が家に集中的に流れ込んだ」。また、蛇口から飲用水が出るまでに3〜4週間かかり、暑い中で配給(公園や学校)に並ぶ必要がありました。配給に1時間以上並んでも、水が無くなり無駄足になることもあったそうです。足腰に不安のある方は、配給や買い物で困難を覚えました。そのため、風呂や洗濯、トイレ、土砂清掃が十分にできない苦しみがありました。10月25日(火)時点でも、床下の泥を除去できないお宅があり(ボランティア不足や、保険・補償の審査が遅れ片付けに着手できない等)、カビやにおい、虫に困っておられます。また、様々なご事情で「困っている」と声を上げられず(声を上げる発想をお持ちにならず)、自宅内で困ったまま何日も孤立して過ごしている方もおられます。
 ボランティアについては、フェイスブックの「静岡市災害ボランティアセンター」のアカウントで近況が写真付きで報告されています(ボランティア募集は、10月25日時点では静岡県在住者のみ)。

平和構築のための日韓青年フォーラム参加報告

 

 2020年7月、日本と韓国のエキュメニカルなキリスト教関係者ならびに市民団体の協力によって「日韓和解と平和プラットフォーム」が立ち上げられました。この「日韓和解と平和プラットフォーム」の企画による「平和構築のための日韓青年フォーラム」(8月22〜26日、韓国坡州とソウルにて)に、日本福音ルーテル教会から4名の青年が参加しました。以下、参加者による報告です。

⻆本洵(神水教会)

 今回の研修は、日韓の青年約20名ずつが招かれ、大日本帝国時代の植民地支配や、日本軍「慰安婦」についての資料館や博物館を訪ね、歴史の学びと平和交流を目的として開催された研修会でした。日本において、戦後70年経った今でも謝罪や賠償を求める韓国に対して「もうその手の訴えは十分でしょ」という風潮がありますし、私自身もそうでした。しかし、現地の資料館や博物館を赴くと、自分の無知を恥じることになりました。今回の研修の後、多くの日本側の参加者が「もっと歴史の勉強をしなきゃ」「もっと韓国語を勉強しなきゃ」と言っていました。私もその一人です。帰国後、自宅の本棚に数冊の歴史書や単語帳が並んだことは言うまでもありません。
 しかし、こと「平和」についていうなら、平和を実現するためには、歴史の知識も、言語能力も必要ないと思うのです。もちろん、これらのアビリティはあるに越したことはないでしょう。それでも一つ言えることは、平和とは、どこかの能力に優れた人たちによって成し遂げられることではないということです。例え豊富な知識や言語がなくても、相手の立場でものを考えて、間違った時には謝って、そして何より、積極的な愛をもって関係していく中に、必ず平和は実現すると信じたいのです。国家間の戦争を止める意味での「平和」を実現することは無理に等しい私達ですが、イエスのように、弱い姿であったとしても、隣人に仕えて祈る中に、必ず平和は起こると考えます。とは言っても、これを行動に移すのが難しい、というより無理なのが人間です。だからこそ、祈っていきたいと思います。同時に、神と隣人に仕えていくことができない罪人である私のために十字架にかかったイエスを思い、そして赦されていることを思い起こしたいと思うのです。キリストの平和が私達の心に宿り、私も、平和を実現するものとして変えられて、用いられたいと願います。

高濱遼太(健軍教会)

 日韓青年フォーラム参加の報告にあたりまず初めに私達の渡韓をご支援いただいた方、私達の学びが良いものとなるよう祈ってくださった方々に感謝を申し上げます。お陰様で何事にも代え難い貴重な体験をすることができました。本当にありがとうございました。今回参加しました日韓青年フォーラムの報告、感想は他の参加者からもそれぞれ素晴らしいものを書かれていますから今回私はフォーラムの後、韓国で新型コロナウイルスに感染した時のことについて書かせていただければと思います。先ほど述べた通り私はプログラム最終日の前日コロナに感染し韓国で7日間の隔離期間を過ごすこととなりました。その時私はお金もなく宿泊先もない、おまけに私は韓国語も英語もほとんどわからないという状況で頭の中は不安と孤独感でいっぱいでした。しかしそのような状況を経験したからこそ私には困難の中にある私を励まし助けてくれる仲間や、支え、祈ってくださる多くの人が与えられていたことに気づかされました。それは私にとって今回のフォーラムで経験したことと同じくらい大切な気づきだと感じました。そしてこの経験こそ今回のフォーラムのテーマであった「平和」そのものではないかと思いました。時間も空間も超えて相手を思い祈ることこそ私達が実現すべき平和なのではないかと思います。最後に、この度はご支援いただきありがとうございました。主の平和が皆様と共にあるように。

本間いぶ紀(甘木教会)

 今回のフォーラムでは、日韓両国から集まった青年がお互いのバックグランドや価値観を尊重しつつ、日韓の歴史認識の現状や、私達青年ができること、そしてこれからお互いがどう連帯していくかについて話し合うことができました。わたしは大学で国際関係学を専攻しており、戦争と平和について、安全保障について、また近代以降の日韓の歴史について学んでいるので、机の上での学びを実際に目で見て感じたい、という目的もありました。
 プログラムでは北朝鮮との軍事境界線や民間人統制線を訪れたり、日本軍「慰安婦」問題の解決を求める水曜デモに参加したりと、韓国を取り巻く歴史的・軍事的な国際関係を見ることができました。
 今回のフォーラムはグループごとに行動することが多く、わたしは拙い韓国語でグループの皆さんとお話しすることができ、言語という壁がありつつも、その壁を乗り越えようとする姿勢がとても美しいと感じました。「宣言文」作成のための意見交換の場では日本や韓国各地から青年が集まって一つの宣言文を作るための話し合いをしたのですが、このこと自体にとても意義があると感じました。私達は国の違いだけでなく、文化や宗教、そして各々違うバックグランドを持っています。そんな「異なる」ものを持つ私達がお互いを認め合い、意見を交わし、尊重し、「同じ」一つの宣言文を作成することができました。これは心を一つにして、連帯していくことの表れであり、そしてこれこそが日韓和解と平和そのものだと、振り返って思いました。
 大学で私が学んだ歴史は、多角的な歴史の中のある一側面ですが、青年の話し合いの場というのは、この一側面を繋ぎ合わせるということだと思います。自分には見えなかった観点を他の誰かから与えられ、共有する、このことを今回のフォーラムだけで終わらせずに続けていきたいです。

柳下李裕理(札幌教会)

 今回のフォーラムは、私のパーソナリティ認識に大きな影響を与えてくれました。このプログラムでは日本と韓国の双方から参加者を募っていました。私が日本福音ルーテル教会を通して参加したきっかけは、私の父親が在日韓国人3世だからです。父親は「外国人の住民基本法の制定を求める全国キリスト教連絡協議会(外キ協)」での活動も行なっています。しかし自分は「日本人と韓国人の間に生まれた子ども」というアイデンティティに関していまひとつ実感や使命感を持てずにいました。しかし今回のプログラムに参加する中で、日本が朝鮮半島に行ってきた暴力の歴史を改めて知ることができました。私は日本の統治時代の朝鮮圧政の歴史を多少は知っていたつもりでしたが、現地の資料館を見る中で自分の知識の浅さに恥ずかしさを覚えました。「戦争と女性の人権博物館」にて日本軍慰安婦のハルモニ(おばあさん)たちの証言を学び、「植民地歴史博物館」で日本軍が朝鮮半島で行った圧政や差別の歴史について知りました。そして改めて歴史における日本の加害者性を学ぶにつれ、日本人がその歴史を認識していないことを感じました。そして私自身が「韓日のルーツを持つ人間」として、少しでも架け橋になるような努力をするべきなのではないかという自覚を持つことができました。プログラムの中で一番印象に残っているのはDMZ(非武装地帯)の見学です。自然の草木に覆われて非常に閑静な区域の地面に200年かかっても除去しきれない地雷が埋まっているという事実に驚くとともに、朝鮮半島の南北分断の歴史には日本の政治的・軍事的責任もあるのだと改めて思いました。次回は日本で開催される予定です。ホスト側として、より有意義な内容にできればと思います。

春の全国ティーンズキャンプ開催

  

 〈テーマ〉「reunion(再会)」

〈日時〉2023年3月28日(火)~30日(木)

〈会場〉千葉市少年自然の家(千葉県長生郡長柄町針ヶ谷字中野1591−40)

〈参加費〉1万5千円(同一家庭から複数参加の場合は1名につき1万4千円)

〈参加対象〉2001年4月2日生まれ~2011年4月1日生まれまでの人
※対面開催を見送った過去3年間の卒業生も準参加者として参加出来ます。

※その他詳細は後日ご案内いたします。

〈併せて春の全国ティーンキャンプスタッフ募集〉
▼募集人数 若干名
▼募集資格
 2001年4月1日以前生まれの方
 2023年3月27日(月)から行われる前日準備から参加できること。
▼スタッフ応募締切
 2022年12月末日
▼応募先
 s-morita@jelc.or.jp(森田哲史牧師)

22-12-01神の業に招かれる

 「天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、
神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。
不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」
(ルカによる福音書1章35~37節)

  信仰という恵みを与えられていると自覚している私は、日々神への愛と信頼をもって誠実に生き生きと過ごしたいと願いつつも実は全くそうではないと思い知らされることが多々あります。ときには「私には荷が重すぎます」と職務を投げ出して逃げ出したくなることもあれば、疑いや迷いをぬぐい切れず、ふて寝して、翌日には奇跡が起きていることを願っても、相変わらず厳しい現実を前に深いため息から一日を始めることもあります。もしかしたら、この文章を読んでくださっているあなたも、思いがけないトラブル、痛ましい現実、信じたくないような悪意、自分の力ではどうにもならない状況を前にして立ちすくんだという経験をお持ちかもしれませんね。
 マリアが聞いた「おめでとう。」の言葉も途方もなく重たいことばであったと思います。にもかかわらず、彼女は自分の身に起きたことを引き受け、人生を神の働きに委ねていくようになりました。そこには「主があなたと共におられる。」(ルカ1・28)という約束や「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。」(ルカ1・36)という御言葉の力があったと思います。神の業に巻き込まれたのが自分だけではないという情報は、マリアにとって心の内をわかちあう他者がいるという安堵となったに違いありません。そして、エリサベトを訪ねてしばらく共に過ごした時間は彼女たちにとって豊かなものであったでしょう。
 世界的なパンデミックが私たちの日常を激変させ、気候変動による大規模な災害が各地で起こり、軍事暴力がはびこる中、福音を語る、福音を生きるということの難しさをひしひしと感じています。そのような中で、一つの祈り会に招かれました。きっかけは「親しい友人やその家族のために祈って欲しい」という個人的な呼びかけ。それまで、ミャンマーという国についての知識も関心もほぼ皆無でしたが、2021年2月1日の軍事クーデータ以降、毎週金曜日にオンラインで行われている祈り会に参加するようになって、かの国で起きている暴力が私たちの生活と地続きであることを知らされました。
 祈り会から生まれたアトゥトゥミャンマー(ミャンマーと共に)支援という小さな支援団体では、ミャンマー本国の支援と共に日本で生活されているミャンマーにルーツを持つ方々とも連帯しています。奉仕や運営に携わっている仲間たちに感謝しながら、祈り会でわかちあわれるそれぞれの思いに自分の思いを重ねます。リアルタイムでわかちあわれる情報の中には目を背けたくなるものも少なくありません。それでも嘆きや悲しみを持ち寄り、呻きと沈黙に押しつぶされそうになっても、神は、どのようなときにも人の呻きや、呟きに耳を傾け、心を向けてくださっていると信じて祈り続けることで、今日を生き抜く力を得るような思いでいます。
 神の御子は、弱く、もろく、不安定な存在として、この世界にお生まれになりました。マリアも、嬰児として生まれ、その身を人の手に委ねられた幼子の重み、ぬくもりを通して、神の業の担い手として招かれたことを感じたことでしょう。現代は、当時とはまた違った苦しみと悩みが世界を覆っています。そのような中にあって、私たちはクリスマスをどのように待ち望んでいるのでしょうか。キリストの誕生は、私たちに神の約束が必ず成就するということを教えてくれる出来事です。そして、神が御心を顕されるときに、私たちを求め、働きの中に招いてくださっているということも教えてくれています。だからこそ、自信がなくとも、しんどくても、辛くても、福音を語る、福音に生かされる幸いを伝える務めに踏みとどまりたいのです。《神にできないことは何一つない。》という御言葉に立ち、すべてをご存知の方が、命と希望へと私たちを押し出てくださることを信じて。

22-11-04「我らの国籍は天にあり」

 「しかし、わたしたちの本国は天にあります。
そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。」
(フィリピの信徒への手紙3章20節)

 今、私が住んでいる神水教会には、同じ敷地に社会福祉法人慈愛園があり、そのグランドの入り口付近には大きな十字架があります。クリスマスには、電飾が施され、キラキラ光ります。
 この十字架を建てたのは「愛献会」というグループです。それは慈愛園の創設者モード・パウラス宣教師に感謝し、その働きをおぼえ、伝えていくことを旨として卒園生の有志で作られた会です。
 この会の会長はIさんでした。天に召されて早10年たちました。今も生きていらっしゃったら、99歳になられます。Iさんは、生後9カ月で慈愛園子供ホームに預けられました。まだ3歳のIさんが背伸びしてピアノの鍵盤を触っている。それがまがりなりにもメロディーになっている。Iさんに音楽の才能がある事を、モード・パウラス宣教師は見ておられました。小学校を出られたあと、パウラス先生の勧めもあり、Iさんは千葉県の音楽学校に行かれます。ただ戦時下にあり中退を余儀なくされました。熊本に帰って来られ自動車整備工場や、県庁などでお勤めのかたわら、音楽仲間とバンドを結成して演奏活動も続けられました。また、晩年は高齢者施設で唱歌などの音楽ボランティアや、自身がお育ちになった慈愛園子供ホームの子供たちにピアノを教えるボランティアも続けられました。
 そんなIさんについて、びっくりする話をうかがいました。ダンスホールなどでの演奏後に、Iさんがよく立ち寄る屋台のおでん屋さんがありました。ひょんなことから、そのおでん屋のおかみさんが実の母親であることが分かったのです。何というめぐり合わせでしょう!彼女が17歳の時にIさんは生まれました。驚きつつ、「私が知らん間に連れていかれとったんよ」と教えてくれたそうです。
 思いがけない再会を果たしながら、Iさんと彼女は、その後も屋台のおかみさんとお客さんという関係でおられたらしい。「私のふるさとは慈愛園だし、私の母親は、パウラス先生だから」とおっしゃって。その後、1年半ほどしたころ、このおかみさんはご病気で召されました。
 実の母親との再会の中で、「私のふるさとは慈愛園」と言われたIさんは同時に、主を信じる信仰に生きられました。慈愛園はあくまで「地上のふるさと」であり、「本国は天」であることをよくご存じでした。そして幼い頃から「たかちゃん」と言ってかわいがってくれたパウラス先生を「お母さん」と呼んでおられましたが、本当の親は「わたしはいつもあなたと共にいる」と言われる主なる神様であることもよくお分かりでした。「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。」
 当時ものをいったローマ市民権のことも、パウロの頭にあったのかもしれません。困難な日々の中で、その恩恵に与かることもあったでしょう。地上での生活は大事です。出会う一人ひとりとの関わりも尊いです。いろいろな意味の「家族」たちに助けられます。「ここも神の世界」ですから。
 その中で私たちには顔をあげて仰ぐ大いなる恵みが与えられています。「わたしたちの本国は天にあります。」墓碑などで見かける「我らの国籍は天にあり」の文語体表現も力強く、美しいですね。
 主イエスが救い主としておられる天に国籍を持つ私たち。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」と言ってくださる御方を主と仰ぎ、天を本国とすることのゆるされた私たち。感謝します。
 みこころが天で行われるように、地上でも行われますように。アーメン

22-11-04るうてる2022年11月号

機関紙PDF

「我らの国籍は天にあり」

日本福音ルーテル神水教会・荒尾教会・合志教会・松橋教会 牧師 ⻆本浩

「しかし、わたしたちの本国は天にあります。
そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。」

(フィリピの信徒への手紙3章20節)

   今、私が住んでいる神水教会には、同じ敷地に社会福祉法人慈愛園があり、そのグランドの入り口付近には大きな十字架があります。クリスマスには、電飾が施され、キラキラ光ります。
 この十字架を建てたのは「愛献会」というグループです。それは慈愛園の創設者モード・パウラス宣教師に感謝し、その働きをおぼえ、伝えていくことを旨として卒園生の有志で作られた会です。
 この会の会長はIさんでした。天に召されて早10年たちました。今も生きていらっしゃったら、99歳になられます。Iさんは、生後9カ月で慈愛園子供ホームに預けられました。まだ3歳のIさんが背伸びしてピアノの鍵盤を触っている。それがまがりなりにもメロディーになっている。Iさんに音楽の才能がある事を、モード・パウラス宣教師は見ておられました。小学校を出られたあと、パウラス先生の勧めもあり、Iさんは千葉県の音楽学校に行かれます。ただ戦時下にあり中退を余儀なくされました。熊本に帰って来られ自動車整備工場や、県庁などでお勤めのかたわら、音楽仲間とバンドを結成して演奏活動も続けられました。また、晩年は高齢者施設で唱歌などの音楽ボランティアや、自身がお育ちになった慈愛園子供ホームの子供たちにピアノを教えるボランティアも続けられました。
 そんなIさんについて、びっくりする話をうかがいました。ダンスホールなどでの演奏後に、Iさんがよく立ち寄る屋台のおでん屋さんがありました。ひょんなことから、そのおでん屋のおかみさんが実の母親であることが分かったのです。何というめぐり合わせでしょう!彼女が17歳の時にIさんは生まれました。驚きつつ、「私が知らん間に連れていかれとったんよ」と教えてくれたそうです。
 思いがけない再会を果たしながら、Iさんと彼女は、その後も屋台のおかみさんとお客さんという関係でおられたらしい。「私のふるさとは慈愛園だし、私の母親は、パウラス先生だから」とおっしゃって。その後、1年半ほどしたころ、このおかみさんはご病気で召されました。
 実の母親との再会の中で、「私のふるさとは慈愛園」と言われたIさんは同時に、主を信じる信仰に生きられました。慈愛園はあくまで「地上のふるさと」であり、「本国は天」であることをよくご存じでした。そして幼い頃から「たかちゃん」と言ってかわいがってくれたパウラス先生を「お母さん」と呼んでおられましたが、本当の親は「わたしはいつもあなたと共にいる」と言われる主なる神様であることもよくお分かりでした。「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。」
 当時ものをいったローマ市民権のことも、パウロの頭にあったのかもしれません。困難な日々の中で、その恩恵に与かることもあったでしょう。地上での生活は大事です。出会う一人ひとりとの関わりも尊いです。いろいろな意味の「家族」たちに助けられます。「ここも神の世界」ですから。
 その中で私たちには顔をあげて仰ぐ大いなる恵みが与えられています。「わたしたちの本国は天にあります。」墓碑などで見かける「我らの国籍は天にあり」の文語体表現も力強く、美しいですね。
 主イエスが救い主としておられる天に国籍を持つ私たち。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」と言ってくださる御方を主と仰ぎ、天を本国とすることのゆるされた私たち。感謝します。
 みこころが天で行われるように、地上でも行われますように。アーメン

エッセイ「命のことば」 伊藤早奈

㉜「今この時に」

「あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」(マルコ13・37)

 おはようございます。と言ってお隣に車椅子で近づくといつもなら無表情でいらっしゃる方が、今日はニコニコしてくださった。どうしてかと思っていたら「この方、明日結婚式なんですって。」と嬉しそうにその方のお隣に座られていた方を私にご紹介くださった。お孫さんの結婚式かしら?どうも本人のらしい。あまりにもお2人が嬉しそうだったので私は思わず「おめでとうございます。」と言いました。その私からの言葉を聞いて、シワだらけの顔がもっとクシャクシャになるくらいお2人は嬉しそうに顔を見合わせて笑いました。
 その時に「それはあり得ませんよ。何でそんなことおっしゃっているんですか?」と言うべきだったのか「式では何を着られるんですか」と話を合わせるべきだったのか。正解はありません。もしかしたら5分後には彼女たちの記憶には無いかもしれません。でも間違いなくその時彼女たちは嬉しかったのです。
 どこかで読ませてもらった「永遠の今」ってこう言うことなのかもしれない。と彼女たちに教えていただいたような気がします。
 理屈ではなくてそこには確かに喜びがありました。常識では割り切れなくてもお一人おひとりに今、確かに与えられるもの、それは神様から今与えられるあなたへの生きた真実なのです。

議長室から 大柴譲治

「メメント・モリ」

 「メメント・モリ」(死を覚えよ)。中世ヨーロッパの修道院で日々使われていた挨拶です。私たち人間の生は有限であり、生と死は表裏一体です。死を想うことは生を想うことでもありましょう。私はそれを「今ここを大切に生きよ(カルペ・ディエム)」という言葉と併せて理解しています。11月は死者を覚える月。死者の魂に平安を、ご遺族に天来の慰めをお祈りいたします。
 9月17日、オンラインで開かれた日本臨床死生学会で1人の緩和ケア医の講演を聴く機会がありました。2年前に末期ガンと診断された関本剛医師は『がんになった緩和ケア医が語る「残り2年」の生き方、考え方』(宝島社2020)を出版。関本医師は講演の中で、ジャック・ニコルソンとモーガン・フリーマンが主演した映画『最高の人生の見つけ方』(原題は「バケツリスト」=「棺桶リスト」)を紹介。そこから学んだこととして自分のしたいことをリストアップします。自分が生きた証を残すことをメインに据えて、「動けるうちにしたいこと」「動けなくなったら」の二つを挙げられました。前者には「できるだけ稼ぐ(自分が楽しむために&家族が路頭に迷わないために)」「家族と一緒に過ごす時間を楽しむ」「自分が生きた証しを残す(書籍・動画)」「自分の葬式の段取りをする」「大切な人に出来るだけ多くのメッセージを残す(動画)」「大切な人に直接感謝を伝える」「『もしもの時に家族が困らないセット』を準備する(動画)」「友人、知人に感謝を伝える」「良い酒(ワイン)を飲む」「スキーを楽しむ」「キャンプを楽しむ」「音楽(バンド活動)を楽しむ」と具体的に記します。後者は「意識がはっきりしていれば」と「いなければ」の二つに分け、前半には「撮りためた海外ドラマや映画を一日中見続ける」「家族と一緒の時間を楽しむ」「大切な人に直接感謝を伝える」、後半には「妻や子どもたちのしたいように・・(負担にならぬよう)」と記す。そして最後にはこうありました。「生殺与奪はその時の家族の気持ちにまかせる(症状緩和がなされているのが条件)」。緩和ケア医として多くの命を看取ってきた経験を踏まえて記されたそれらの言葉には重みがありました。今年4月19日に関本医師は45歳で逝去されています。合掌。
 信仰の立場からはそこに「メメント・クリスティ」(復活のキリストの想起)を加えたいのです。死は終わりではなく墓は終着駅ではない。復活の光の中で愛する者と再会できることを信じています。

「教会讃美歌 増補」 解説

㉙創作賛美歌解説9
増補52番
「朝の光が聖壇に」

歌詞解説 田中栄子
(神水教会)

 キラキラと輝くあの黄金の光のなんと美しかったことか、今思い出しても胸が熱くなってきます。
 ある日曜の朝、礼拝堂の椅子に座ろうとした時、聖壇に目をやった私は動きが止まってしまいました。ステンドグラスから射し込む一筋の光、それは無数の小さな球体が一つひとつ点滅し、イルミネーションのように輝いていたのです。私は、その美しさから目が離せなくなりました。
 それから数年後、機関紙「るうてる」の光についての作詞募集が目に止まりました。私は、あの時の感動を思い出し、詩に表してみようと思い、書いて応募してみました。
 今は視力を失いましたが、あの時の光の美しさを忘れることはないでしょう。
 この賛美歌作成に携わってくださったすべての方々に感謝します。多くの皆様に歌っていただければ幸いです。

曲解説 村松一恵
(日本キリスト教団小石川明星教会)

 この賛美歌の旋律は、詞にみちびかれてうまれました。詞のテーマは「光」。第30回教会音楽祭(2011年6月19日開催)のテーマでした。この音楽祭に向けて、まず詞が公募、選出され、次に曲公募のために公開されたこの詞に出会った筆者は、強く心を引かれ、是非ともこの詞をうたに、と応募を思い立ち、詞にうたわれている情景や、言葉のリズムによって、この旋律がうまれたのでした。
 四声体や8分音符、臨時記号にとらわれることなく、言葉によって表されている情景を思い描き、詞の心を感じ取って、架け橋、語らいを目指してお用い頂けましたなら、筆者の思いに重なる賛美となることでしょう。

世界の教会の声

浅野直樹Sr(世界宣教主事 市ヶ谷教会・スオミ教会牧師)

ユースが主導する平和活動

 日本福音ルーテル教会では第2次世界大戦の終戦記念日8月15日に因んで、8月の最初の主日を「平和の主日」として覚え、平和を祈り求め礼拝します。一方欧米諸国にとって忘れられないのは第1次世界大戦で、その終戦日11月11日を世界平和記念日としています。
 その世界平和記念日が近づくなか、LWF(ルーテル世界連盟)加盟教会の青年たちは2022年を平和にフォーカスして、平和を広げる様々な取り組みをしています。
 9月18日には50名のグローバル・ヤング・リフォーマーたちがオンラインで集い、アジア地区代表の11名が、一致、平和構築、世代間対話をテーマに祈りと話しあいを導きました。LWFユース部門は、ルター派の青年たちがグローバルにつながり、彼らによる新しい教会作りと、神の愛と創造を伝えるという宣教的取り組みを継続的に行っていくことを目指して、様々な企画のためのプラットフォームを用意しています。青年が担当した礼拝や、彼らが今年8月に作った「世界青年の日」のための祈り、祝福、聖書のみことばには、平和の祈りが込められました。

「伝えよう、これがオンライン集会で学んだメッセージ。このメッセージはいつも私の心にあります。」(タンザニアのニーマ・ンドネさん)

「世界は今、戦争や病への不安と恐れにあふれていて、将来のことが気がかりです。そうではなく平和が地上にあふれて、私たち一人ひとりの心が平和で満ちあふれることを祈ります。そしてあなたのなかの平和へと人々が招かれ、安らぎを得られるように祈ります。」(オーストラリアのエルザ・マティアスさん)

 地域に根ざした小規模の平和ユース活動「平和メッセンジャーズ」の1人、ブラジルのルイス・ザイデルさんは、「世界のリーダーが地上の紛争を終わらせて解決できるように」、そして「平等で公平な社会を目指して正義のために努める人に力を与えてください」と祈りました。もう1人の平和メッセンジャー、スウェーデンのマルバ・ローゼンフェルトさん、「互いに励ましあいながら、すべてのうちに良いものを見いだし、世界全体と兄弟姉妹にとってよいことができますように」と祈りました。

「今年、テーマとしてPeacebuilding(平和作り)を掲げたのは時宜に適っていたし、預言的でもありました。」(LWFユース企画担当者のサバンナ・サリバンさん)
 LWFユースデスクは、世界の青年たちが集い、そこで信仰に関すること以外にも平和やジェンダー、移民や難民の歓迎、気候問題の公平性、世代をつなぐ関係性といったトピックについて話しあう場を提供しています。
「LWFは、各地域や教会にいる青年の皆さんのこうした大切な話しあいと行動によって引っ張られているのです。」(サリバンさん)

 

 ※詳細についてはWEBサイトをご参考ください。

エキュメニカルな交わりから

⑧NCC平和・核問題委員会
内藤新吾 (稔台教会牧師)

 

 平和と核の問題は一体です。また核について、日本では核と原子力という言葉の使い分けがされますが、世界では区別なく(nuclear)、軍事と平和利用とは緊張関係にあり繋がっています。NCC平和・核問題委員会は、平和をつくる活動をする全国のキリスト者たちと共に、また平和と一体の問題の原発問題でも、「平和を実現するキリスト者ネット」、「原発体制を問うキリスト者ネットワーク」、多宗教間での「原子力行政を問い直す宗教者の会」、「平和をつくり出す宗教者ネット」などと共に、祈りつつ行動しています。
 委員会ではこれまで、国内外の科学者や医師を招き原発問題講演会や、九条改悪反対また強行された安保関連法などについて、メディアが取り上げる前から弁護士を招き学習会を開いたりし、キリスト者だけでなく市民たちとも活動を共にしてきました。震災前より憲法問題と原発問題でそれぞれ相当数発行した冊子も絶版となっています。他にも、カトリック正義と平和協議会との共催で、「核と平和」というテーマで2日にわたり、沖縄の基地問題についてシンポジウムも開催できました。また、カトリック正平協の脱核部会の日韓交流に参加させていただいたり、聖公会の沖縄と仙台での二度にわたる脱核の国際会議に招いていただくなど、さまざまな出会いに感謝しています。
 平和は、実現していくものです。強行された悪法も、時間をかけても撤廃させ、真の平和構築へと向かわねばなりません。そしてまた、日本政府が長年ひそかに準備を続けた核武装および核商売への可能性も、完全に閉ざすことが必要です。これらは一体の問題なのです。
 これらの問題について、日本のカトリック教会、聖公会、バプテスト連盟は震災後、組織としてしっかりとした本や冊子を作り、会員にも啓蒙活動を行ってきました(日本キリスト教団は教区による)。私たちの派はそれができず、手近に全体像を学べるテキストを持っていないことは残念です。ぜひ、これからでも検討してほしいし、できないならば他の方法を考えてほしいです。
 さて、NCC平和・核問題委員会は、これまでさまざまな取り組みをしてきましたが、現在のところ、全国規模の脱核の諸団体と繋がる委員、それも教職が少なくなっていることが課題です。ご加祷くださり、その下支えとなる皆さんの積極的な関わりもお願いいたします。

社会委員会リレーコラム「本・出会い・教会」⑤

小泉基(函館教会牧師)

 

 世界から戦争のニュースが絶えないなか、侵略戦争に踏み切る政治指導者とキリスト教会の関係に思いが向きます。日本の教会も、かつて政府が行った侵略戦争に協力・加担した歴史がありますから、わたしたちもその反省の上にたって平和を追い求めているのです。
 とはいえ敗戦から77年、かつての過ちの内実について、リアリティをもって語ることが出来る人はもはや多くはありません。当時の教会の人たちは何を思って神社に参拝し、礼拝前の宮城遙拝を行い、戦闘機献納のための献金を献げたのでしょうか。当時の教会について知るために、1冊の本を紹介したいと思います。1999年初版発行と出版から少し時間がたっていますが、豊富な資料と丹念な取材によって、ひとりの牧師の視点から戦時下の教会の姿をいきいきと描き出した作品です。
 本書の主人公は、晩年を静岡教会や甲府教会などルーテル教会の牧師として奉職された池田政一牧師です。戦時中は、日本基督教団第6部(ホーリネス系)の牧師で、1943年に治安維持法違反で逮捕・収監され、抗弁の機会も与えられないまま一方的に有罪判決を受けられた先生でした。
 わたしたちルーテル教会も第5部として創立に参加した日本基督教団は、その出発から「天皇のもとにあるキリスト教」であることを強く求められ、それに応えようとしました。そのため、再臨の教理を強調し、神社参拝に反対したホーリネス系第6部9部の牧師たちの一斉検挙を歓迎すらし、文部省の通達の元にその牧師たちに辞任を求め、全国のホーリネス系教会を強制解散させたのです。日本基督教団が、これに公式謝罪を行ったのは1988年のことでした。
 このような宗教弾圧事件を扱いながら、その視点を池田牧師個人とその周辺に据えた本書はとても読みやすく、戦時下に生きたひとりの伝道者の喜びや悲しみ、苦悩や後悔をあざやかに描き出します。抗いがたい大きな力の支配下にあって、もしそれがわたしであったらと、読み進めながら幾度も自問自答しないわけにはいきません。元号、君が代、日の丸と、それらの強制をあたりまえとする風潮が強まっていくことに息苦しさを感じる昨今、どうしようもなく追い込まれてしまう前に、抗うべきものに抗い、自由な言論や信仰を守る闘いを、いま闘わなければならないのだ、と改めて思わされるのです。

オンライン一日神学校報告

 

 9月23日(金・休)にオンライン一日神学校が開催された。今年も対面開催はかなわなかったが、例年通り開会礼拝(説教「十字架の言葉が神の力」立山忠浩校長)からはじまり、シンポジウムが催された。テーマは「ルーテルのミッション~心と福祉と魂と」。シンポジウムでは市川一宏先生、ジェームス・サック先生、金子和夫先生が登壇され、先生方がそれぞれに長い年月をかけて担い伝えてきた「心と福祉と魂」のミッションについて語った。熱のこもった話しに耳を傾けつつも和やかさの漂う語らいの時となった。
 シンポジウム後は、青空の広がるキャンパスを石居学長が案内する「キャンパス探訪」を実施、その後特別プログラム①神学生を交えたオンライン懇親会(Zoom)が開催された。後援会活動を支える地区の世話人や推進委員の方々を中心に、プログラム名のとおり「神学生を囲む」交わりのひと時となった。この懇親会と並行して一日神学校のために準備された特別授業の視聴が開始された。今年は以下のとおり神学、福祉、心理と各分野から一つずつ合計三つの講義が公開された。
・平岡仁子先生「パンデミックと礼拝~神との出会い」
・原島博先生「難民・移民の生活課題と支援」
・高城絵里子先生「人を愛するためのセルフケア」
 いずれも時宜にかなったテーマが選ばれ各専門分野の講義が体験的に学べるようになっている。なお、いずれの講義も引き続き神学校HPで視聴できる。学びの秋、おひとりでの視聴をはじめ、教会やグループ、あるいは地域の方々と一緒に視聴して学びの機会に利用することもできる。

JELAイングリッシュ・バイブル&ワーク・キャンプ報告

森一樹(JELAスタッフ/市ヶ谷教会)

  

 本年「るうてる」6月号に掲載して頂いた「JELA English Bible & Work Camp」が、世界各国の学生が有機農業や農村リーダーシップについて学ぶ農村指導者養成学校、学校法人アジア学院(栃木県那須塩原市)にて開催されました。
 JELAは、2001年から奉仕者育成を目的としたボランティア派遣プログラム「ワークキャンプ」を毎年開催してきましたが、新型コロナウイルス感染症の影響で、2020年春を最後に実施することができない状況が続いておりました。その中で、今夏ついに開催された本キャンプでは、当初の予想をはるかに上回る、14名の中高生が全国から集まり、アジア学院という英語環境下での有機農業体験や持続可能な生活体験、また創世記をテーマにしたバイブルスタディが行われました。
 バイブルスタディでは、チャプレンとして同行して下さった、大江教会牧師の森田哲史先生やアジア学院チャプレンのジョナサン先生の導きの下、御言葉を読み、アジア学院で感じた事を聖書の文脈で考え、参加者同士で分かち合う時間を持ちました。わたしたちの想いがすべて伝わったかはわかりませんが、勉学や部活などで普段は忙しくしている中高生と共に、ゆっくりと聖書の御言葉に触れ、神様と自身の関係について考えることができた1週間は、御恵みと御守りに満ちた時間でした。
 また、アンダーコロナでの開催という事で、キャンプ1週間前から最終日まで、毎朝晩に検温と体調確認をしたり、事前に抗原検査キットを郵送し出発直前にそれぞれで実施したり、アジア学院内での感染対策に従い、こまめな手洗いや手指消毒、またパーテーションを介して食事をしたりと、参加者の各々が感染症予防に尽力しました。その心がけや皆様のお祈りによるお支えもあって、誰一人欠けることなく、最終日を迎えることができたのは何よりの喜びでした。
 最後にはなりましたが、JELAワークキャンプへの皆様のご協力とご支援、そしてお祈りに深くお礼申し上げます。皆さまのお支えがあって、何とかこのワークキャンプを再開することができました。また、今号1面にも掲載していただいているように、来年2月にはカンボジアのワークキャンプも実に3年ぶりに再開いたします。引き続きのお力添えとお祈りをどうぞよろしくお願いいたします。

聖書日課 頒布価格改定のお知らせ

松本義宣
(ルーテル聖書日課を読む会代表/東京教会・東京池袋教会・板橋教会牧師)

 2023年度(2023年1月・2月・3月号)より、聖書日課冊子ならびにWEB会員の頒布価格の改定をさせていただきます。何卒、ご理解くださいますようお願い申しあげます。

◆聖書日課冊子 年会費1800円
 なお、支払期日(3月末まで、施設は4月末まで)を過ぎた場合は、年会費2200円とさせていただきます。1冊のみの購入の場合は500円(+送料)です。
◆WEB会員
 年会費1200円

 お問い合わせ等がございましたら、聖書日課事務局まで、お願いいたします。
今後とも、かさねて聖書日課をご購読くださいますよう心からお願い申しあげます。
聖書日課を読む会
事務局
162─0842
東京都新宿区市谷砂土原町1─1 日本福音ルーテル教会事務局内
TEL(03)3260─8631
FAX(03)3260─8641

ルター研究所クリスマス講演会のご案内

江口再起 (ルター研究所所長)

 ルター研究所では、今年もまた「クリスマス講演会」のオンライン開催を計画しています。各教会でのクリスマス行事の一つとして、ぜひご活用ください。(昨年の「クリスマス講演会」は、全国100カ所でご視聴いただきました。感謝申し上げます。)
 視聴方法・開始時間など、詳細は各教会にあらためて連絡を差し上げます。

【日時】
12月11日(日)
午後2時~4時

【テーマ】
「ルターの聖書翻訳
500年」

【プログラム内容】
・講演
「中世後期の聖書の世界」(高村敏浩牧師)

・演奏
ルターのクリスマスの讃美歌(解説・加藤拓未さん)

・シンポジウム「聖書、ルター、翻訳、そして現代」
(立山忠浩牧師、李明生牧師、安田真由子さん)

 皆様のご参加をお待ちしています。

22-10-01るうてる2022年10月号

機関紙PDF

「善意を贈る」

日本福音ルーテル京都教会・賀茂川教会・修学院教会 牧師 沼崎勇

「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。
悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。
あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。」

(ルカによる福音書6章27節b〜29節a)

  京都市交響楽団定期演奏会が、3月12日(土)に京都コンサートホールにおいて開催され、藤村実穂子さんが、マーラーの『リュッケルトの詩による5つの歌』を熱唱しました。その中の第4曲「真夜中に」の歌詞を紹介します。
「真夜中に/私は目を覚まし/天空を仰ぎ見た/群れなす星のどれひとつとして/私に笑いかけてはくれなかった/真夜中に/真夜中に/私は思いにふけり/それは暗闇の果てにまで及んだ/真夜中に/〔だが〕私を慰めてくれるような/明るい思いつきは何ひとつなかった/真夜中に/真夜中に/私が注意を払ったのは/心臓の鼓動/たったひとつ苦悩の脈動だけが/あおり立てられていた/真夜中に/真夜中に/私は闘いを挑んだ/おお人類よ、おまえの苦悩のために/私は闘いを終わらせることができなかった/自らの力では/真夜中に/真夜中に/私は自分の力を/あなたの手に委ねた/主よ、この世の死と生を/あなたは夜通し見守っておられる/真夜中に」(山本まり子訳)。
 藤村実穂子さんは、今、このマーラーの歌曲を歌う意味について、インタヴューに答えて、およそ次のように述べています。「ウクライナの映像が、毎日流れています。昨日まで普通に暮らしていた人たちが、1日で、自分たちの国から出て行けって言われる。こんなことが起こるなんて、誰も思っていなかった。醜悪なものに対する答えは、『美』だと思うんです。大きな声をあげる方も素晴らしい。デモンストレーションをする方も素晴らしい。だけど、私は歌手なので、音楽という、天才たちが残してくれた作品を通して、自分が言いたいことも伝えられたらいいな、と思います」(『クラシック音楽館』NHK・Eテレ2022年4月17日放送)。
 私たちは、キリスト者なので、醜悪なものに対する答えは、美しい「神の言葉」である、と信じています。そして神は、この世の生と死を、夜通し見守っておられる方である、と信じています。ですから私たちは、自分の力を神の御手に委ねるのです。
 神は、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5・45)方です。このような神の無限の愛を経験する者は、その愛に満たされて、その人自身も敵を愛する者とされます。
 だから、キリストは私たちに、こう命じられたのです。「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい」(ルカ6・27b〜29a)。そしてキリストは、教えられた通りに、自分を殺す者たちを、神に執り成しながら、彼らによって殺されました。

  このようなキリストの在り方を説明して、哲学者の岩田靖夫さんは、次のように述べています。「自分を守るために、他者を殺さない。復讐しない。不正を加えられても、不正を返さない。どのようなときでも、どのような他者にも、善意を贈りつづける。それは、他者に対して限りない畏敬の念をもつ、ということである。他者のうちに、神の似姿を見る、ということである。そこを目指して努力するのでなければ、どのような工夫をこらしても、それは、戦争の可能性の危うい隠蔽に過ぎない」(岩田靖夫著『いま哲学とはなにか』岩波書店2008、202頁)。
 神は私たちに、「殺してはならない」(出エジプト20・13)と命じておられます。なぜ人を殺してはいけないのでしょうか。それは、人を殺すことが、神の無限の愛にもとる行為であるからです。私たちはキリストにならい、他者に対して限りない畏敬の念を持ち、どのような時でも、どのような他者にも、善意を、そして美しい「神の言葉」を贈りつづけたい、と思います。

エッセイ「命のことば」 伊藤早奈

㉛「今も生きて」

「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」(マルコ10・31)

  どういう意味だったんだろう?
 私は十数年前ある礼拝で説教をさせていただきました。その礼拝に、幼い頃、私が育った教会の牧師夫婦もいらしていて礼拝後にお会いしました。
 「あなたからの説教とても良かったです。ありがとう。」と言われた後「先の者は後になり後の者は先になるとイエス様がおっしゃられた通りですね。」とおっしゃられました。
 兄弟という以上に年が離れている方だったので何を言われているのかわかりませんでした。褒められているのか。ずっと気になりつつも聖句に帰っていませんでした。
 そして今回、み言葉に向き合うチャンスをいただき私はマルコによる福音書10章23節から聴く機会をいただきました。「イエスは弟子たちを見回して言われた…」に続く話は財産を持ったまま神の国を望む者がそのまま神の国に入ることの難しさを例えた箇所でした。ここだったのか…ラクダの例えもある。
 なんで今なんだろう。その先生は亡くなって数年も経つ今、私は初めて先生を通して与えられたみ言葉に向き合ったようです。今までも何度も向き合った聖句です。でもいつも新しい出会いをいただいて「ハッ」とさせられます。
 「福音には年齢順も、お金のあるないや地位の順は関係ない。そして知識も。」と聞こえてくるような気がしました。み言葉は今も生きて一人ひとりに働かれています。

議長室から 大柴譲治

「Solus Christus〜キリストの現臨のみ」

「約束がイエス・キリストの真実によって、信じる人々に与えられるためです。」(ガラテヤ3・22b聖書協会共同訳)

 「一点突破全面展開」(鈴木浩)。この言葉は私たちの教会のアイデンティティをよく表しています。ルーテル教会は常に中心を明確にしようとするからです。「5つのソラ」と呼ばれる宗教改革原理も然り。信仰のみ・恵みのみ・聖書のみ・キリストのみ・ただ神に栄光のみ。外的奉仕のための内的集中です。一点で突破し全面で展開するのです。
 今年も宗教改革を覚える10月、自分の原点を確認する時となりました。今回はJELC『第七次綜合宣教方策』で強調される「牧会」(英語Pastoral Care/独語Seelsorge)に焦点を当てたいのです。牧会とは羊飼いが羊の世話をすること(ヨハネ21章)。聖職者が「牧師Pastor」と呼ばれるのも牧会的な働きが重視されるからです。しかし真の牧者は主キリストただお一人。私たちには迷子の羊が出ないよう群れの周囲を走り回る「牧羊犬的な働き」が求められています。そこから「全信徒祭司性」は「全信徒牧会者性」とも理解できます。教会は復活の主から相互的な「魂の配慮」という大切な使命を託されているのです。
 ルターが始めた宗教改革運動。それは様々な次元で展開されましたが、基調音は牧会にありました。人々の魂の救いの問題(贖宥状)に関して始まり、礼拝改革や教育改革など一貫して牧会的に展開されていったのです。そのことは石田順朗先生の『牧会者ルター』(日本キリスト教団出版局2007)やT・G・タッパートの『ルターの慰めと励ましの手紙』(内海望訳、リトン2006)等に明らかです。
 ルター自身も自らの魂の平安を得ようと聖書(特に詩編やパウロ書簡)と実存的に格闘し続けました。突然、詩編150編すべてが「キリストの祈り」として理解され、神の義とは御子を賜った神からの一方的な恩寵であることを知ります。ルターは「突然天国の門が開けて、自分が全く生まれ変わったように感じた」のです(塔の体験)。それは彼がキリストの現臨(リアルプレゼンス)に捉えられた主体のコペルニクス的体験でした。第二の「シュトッテルンハイム落雷体験」とも呼び得ましょうか。
 Solus Christus! 説教でも牧会でも礼拝の司式(聖礼典の執行)でも、文書執筆でも教会管理でも、すべては中心で働いておられる「キリストの現臨/リアリティ」をどう共有できるかにあります。インマヌエルの主が常に共にいて、深い憐れみをもって私たちの魂を配慮してくださる。それこそが私たちの慰めと励まし、そして喜望の源泉なのです。

「教会讃美歌 増補」 解説

㉘創作賛美歌解説8
増補45番「よろこびの歌 はずむ時」
歌詞解説 久木田恵
(帯広教会)

 この詞は「そらよ、そらよ、優しく晴れて」のフレーズが思い浮かび、書き始ました。私は北海道十勝の大空の下で暮らしています。空の青さと満点の星空にどれほど慰められてきたかわかりません。自然の中に身を置くとイエスさまを近くに感じます。十勝の気温は1月末にマイナス20度まで下がります。この時季の夕方、うす紫色の優しい空を主は見せてくださいます。厳寒の中で、グングンと日は長くなり、必ず春が来ると希望を与えてくださるのです。逝ってしまった大切な人を想いながら書きました。どのような時であっても、主の恵みと優しさの中で、穏やかな心でいられますようにという願いを込めました。
 私の詞に美しいメロディをつけてくださった油谷さんのカトリック教会でも、この曲は歌われています。新しい賛美歌集によって、さまざまな教会で歌われ、どなたかの心に触れましたなら大きな喜びです。

曲解説 油谷美佐子
(カトリック五井教会)

 2011年のある日、教会での聖書研究会を終えて、ふと手に取った「教区ニュース」に「教会音楽祭」の公募曲の記事が出ていました。この催しは、1968年に始まった、教派を超えたキリスト教一致のためのもので、3つの課題詞が添えられていました。その中のひとつに、久木田恵さんによる「よろこびの歌 はずむ時」は、あったのです。素朴な力強さ、細やかな優しさをもったこの詞を、帰り道のバス停で口ずさむうち、自然とメロディが浮かびました。不思議なことでした。
 私はカトリック教会に所属する者ですが、ヨハン・セバスティアン・バッハを尊敬してやまぬ両親のもとで育ちました。民衆のコラールに基づいた彼の教会音楽は、「オルガン小曲集」から、「マタイ受難曲」に至るまで、いつも力と希望を与え続けてくれるものです。
 このたび、ルターのコラールに日本語の歌詞を付けられた賛美歌集のなかに、この賛美歌が加えられたことに感慨を覚えます。「教会讃美歌 増補」発刊おめでとうございます。

世界の教会の声

浅野直樹Sr(世界宣教主事 市ヶ谷教会・スオミ教会牧師)

LWFウクライナ支援・半年が過ぎて

 ロシアのウクライナ侵攻から半年が過ぎましたが、ルーテル世界連盟(LWF)では戦争による被災者たちへの支援活動は続いています。まもなく冬がやって来るので、これからは損壊した家々や公共施設の復旧作業が急務です。それに加えて被災者一人ひとりへの牧会的な心のケアの必要性が高まっています。LWFは独自の直接的な支援とともに、加盟教会の協力のもとウクライナ住民と難を逃れて近隣諸国で難民生活を送っている人々にむけた支援活動を行っています。

「侵攻が始まって数日後、LWFはポーランドにチームを結成しました。まずはワルシャワに事務局を開設しそこを多目的支援センターとして、五万人以上に金銭的支援活動を始めました。ルーテル諸教会とUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)と緊密に連絡をとりながら共同作業をしています。」
(LWF支援活動責任者 シェイ・マトナー氏)

 こうした活動を可能にしているのがLWF加盟教会から惜しみなく捧げられる支援金です。LWFは地元教会や自治体と連携して、立ち上がったファンドとUNHCRからのインフラを組み合わせ、そこに独自の専門技術と開発支援に関する経験を活かすというユニークなパートナーシップ関係のなかで活動しています。

「教会からの強力な支援には頭が下がります。ウクライナとその周辺諸国のLWF加盟教会が戦禍の内にある人たちに示している連帯意識と思いやりは素晴らしいです。教会施設や個人宅を開放するなどして、国を追われた人々に対して具体的な行動をとっています。教会には長きにわたるディアコニア経験があって、それを今回の危機的状況のなかで活かしています。」(LWF宣教主事 エヴァ・ニルソン氏)

 寒い季節の到来に備えてLWFは今後、ウクライナ北部地方在住の戦争被害者への支援を開始します。さらに半年にわたり難民支援活動をしてきた教会自体がインフラ整備等の支援を必要としています。そしてウクライナの方たちが新しい地域社会での定住に向けた受け入れ作業を教会といっしょに進めていく計画です。

「この状態がいつまで続くかわかりませんが、困難な暮らしを強いられた人々に最善を尽くして仕えるという私たちの決意は変わりません。」(シェイ・マトナー氏)

 

 ※詳細についてはWEBサイトをご参考ください。

エキュメニカルな交わりから

 

⑦部落差別問題委員会
小泉嗣(熊本教会・玉名教会牧師)

 

 NCC部落差別問題委員会のはじまりは、NCC加盟団体である日本福音ルーテル教会の機関紙「るうてる」に掲載された文書の中の差別表現である。当時すでに「部落差別問題に取り組むキリスト教連帯会議」や「同和問題にとりくむ宗教教団連帯会議」などが存在し、そこにかかわるNCC加盟の諸教派、諸団体があったにもかかわらず、問題意識を共有出来ていなかった事実を重く受けとめ、あえてNCCに部落差別問題委員会を設置したのが1976年3月のNCC第27回総会であった。
 あれからおよそ半世紀、この委員会は教会が正しい認識と意識をもって部落差別問題と向き合う事ができるようになるために、細く、長く、人権学習・啓発活動を続けている。
 50年前にインターネットや技能実習制度がなかったのと同じように、「部落差別」をとりまく状況も大きく変わった。私(現在49歳)が触れ、学んだ「部落差別」は1965年に提出された「同和対策審議会答申」をもとにした「部落低位論(部落民はかわいそう、だから生きる権利をしっかりと保証しよう)」であった。もちろん劣悪な住環境に追いやられ、就職や結婚等で差別を受けて来たこと、受けていることは是正しなければならない日本の課題であることは間違いない。しかし、もっと長い目で、たとえば文化として食肉が定着した後の日本の歴史の中で部落民が担ってきた役割を鑑みると、食肉皮革産業にしろ、浅草の弾左衛門にしろ、それは決して押し付けられてきた役割ではなく、必要とされ、また受け継がれてきた社会の役割であり、そこには「かわいそう」「無理やり」というイメージは全くないのである。
 そのような視点で「部落差別」を受け止める時、今なお続く石川一雄さんの冤罪事件や、インターネットや葉書による差別事件、結婚・就職差別などは、他者を自分勝手なイメージで塗り固めた偏見以外のなにものでもないのである。NCC部落差別問題委員会は、石川一雄さんの裁判闘争への連帯、全国キリスト教学校人権教育研究会と協力して作成した「いばらの冠(人権教育のための冊子)」の活用、販売促進、年3〜4回行われる人権セミナー(関東近郊にみる被差別部落の歴史や担ってきた働き等を学ぶフィールドワーク・但しコロナ禍のため近年はリモート開催)などを主な活動としているが、それらはいずれも当事者の声を聴き、歩んできた歴史を学ぶことによって、自らの持つ偏見、自分勝手なイメージを壊し、部落差別の中で生きてきた人々を縛ってきた見えない鎖を断ち切ることを目指してのものである。それらはどれも老若男女、教派団体を問わず、(たくさんではないが)色々な人たちが集い、和気あいあい、まじめに催される。活動の詳細はNCCのホームページを見ていただきたい。そして是非一度、参加してもらいたい。

社会委員会リレーコラム「本・出会い・教会」④

 

李明生(田園調布教会牧師)

 

  東日本大震災から既に11年が過ぎました。この本では、震災後の年月を振り返る福島県内でのキリスト教諸教派からの19の証言が収録されています。その中には、福島県キリスト教連絡会とルーテル教会救援との関わりや、日本ルーテル教団との関わりが深い「キッズケアパークふくしま」の歩みなど、大変興味深い記録が収められています。しかし、今回特に紹介したいのは、佐藤信行さん(福島移住女性支援ネットワーク代表)による「福島の移住女性たちと共に十年」という項目です。
 超教派で担われている「外国人住民基本法制定を求める全国キリスト教連絡協議会」(外キ協)は、東日本大震災の翌年から宮城県を中心に外国人被災者支援活動を開始します。外キ協事務局でもある佐藤氏は、支援活動の中で福島在住のフィリピン女性たちと出会い、YWCAとの協力の中で「福島移住女性支援ネットワーク(EIWAN)」を立ち上げることとなります。
 震災以前から福島県に在住する外国にルーツを持つ移住者は決して多くありませんでした。「しかし、そうであるがゆえに、日本に暮らす外国人をめぐる『日本社会の問題』を凝縮して示してくれる」(106頁)と佐藤氏は語ります。震災後には、労働力不足を補うために技能実習生が急増することとなりました。また震災以前の福島県在住外国人は「女性100人」に対して「男性59人」という比率で、日本人男性と結婚して県内に定住し永住している国際結婚移住女性がかなりの割合をしめている、という特徴がありました。震災前、そうした移住女性たちの多くが日常的には社会との接点を持つことが難しく孤立しやすい状況にありましたが、震災後まもなく(主に出身国に基づく)自助組織を形成して、情報交換や相互支援を行う人達が現れ始めました。EIWANはそうした自助組織を支援しつつ、まだ自助組織の無いところでのグループ作りに取り組んでいくこととなりました。特に、社会参与のためには言語の習得は不可欠であることから、フィリピン女性達からの要望で2013年に「日本語サロン」を福島と白河で開始したところ、2015年には中国、韓国、南アフリカ、コロンビア、エクアドル、なかでも白河近郊で働くベトナム出身の技能実習生が多く参加するようになり、参加者が急速に多国籍化してゆきます。この日本語サロンは、孤立しがちな移住女性や技能実習生達にとって、生活の事や子どもの悩みなどを相談できる大事な場所となりました。
 EIWANはさらに移住者と地元市民が出会うための「多文化カフェ」や「多文化フェスティバル」の企画、また「やさしい日本語による防災ワークショップ」、「放射能被害の調査と情報提供」、「移住女性とその子どもの保養プログラム」、「子どもたちの日本語学習支援」、「ダブルの子どもに対する継承語教育」に取り組むこととなります。報告の最後で佐藤氏は詩編113・5〜8を引用しつつ、こう記しています。「創成期2010年代の継承語教室で学んだ子ども達は、いま高校生、大学生となった。彼ら彼女らが十年後、二十年後、三十年後の『カラフルふくしま』を担っていくだろう。それは、私たちの夢であり確信でもある。」
 本来であれば、政府や自治体が担わなければならない領域ばかりですが、あまりにも立ち後れている現状の中、新しい市民社会ネットワークが生まれることを信じて、現在も活動が続けられています。

第4回「神学校オープンセミナリー」のご案内

 

 日本福音ルーテル教会(JELC)及び日本ルーテル教団(NRK)の神学教育委員会、日本ルーテル神学校の共催として、昨年と同様にオンライン(Zoom)での開催となります。JELCとNRKの信徒で、神学校に関心のある方、教会の働きへの献身を考えている方が対象です。(参加定員10名程度)

〈プログラム〉
第1部「神学校ってどんなとこ?」(礼拝・模擬講義・ガイダンス)
第2部「交わりを広げてみよう!神学生や若手牧師と話そう」(交流会)
〈日時〉11月13日(日)
   15〜21時
〈参加費〉無料
〈申し込み〉所属教会牧師の推薦を受け、各教区長に申し込みのこと
〈締め切り〉10月31日(月)

※プログラムの詳細については、ルーテル学院大学・日本ルーテル神学校チャプレン・河田優牧師(mkawata@luther.ac.jp)までお問い合わせ下さい。

カトリック第16回「シノドス」総会に向けての日本福音ルーテル教会からの応答④

エキュメニズム委員会

3 共に歩む私たち — 今後のこと
  

 シノドスが「『ともに歩む』ことは〝一緒にみことばを聴き〟聖餐をともにするとき、はじめて可能になる」と明記していることは、ルター派の伝統に根ざす私たちにとっても、大きな励ましと確認を与えられるものです。なぜなら、聖書への集中は、同時に讃美と祈りの回復でもあったことを思い起こさせるからであり、礼拝を通して、私たちは信仰を「心と口と手で」生きることを学ぶからです。シノドスが教える通り、礼拝こそが、私たちをすべての頸木から解放し、新しい命を与えるものです。
 そこでルターが「藁の書簡」と呼んだにもかかわらず、「ヤコブの手紙」を私たちルター派に立つ教会は再評価したいと思います。なぜなら「ヤコブの手紙」が激しい怒りをもって語るのは「富んだ者」によって「貧しい者」が共に礼拝することを拒んだという事実です。この事態を深く解釈するならば、「富んだ者」が「貧しい者」が聖餐に預かることを拒んだということです。この事態に対して、ヤコブは「行いのない信仰は死んだものである」(ヤコブ2・26)と語らざるを得ませんでした。聖餐を共にできないということは、『ともに歩む』ことができないということを浮き彫りにしているのではないでしょうか。そして、それを妨げる「信仰なるもの」があるならば、それは信仰ではなく、死んだ信仰ではないでしょうか。
 この事態をシノドスもまた、深刻な課題として提示していることは、福音主義に生きる私たちにとっても深刻な課題です。そして事実、私たちの教会は不寛容な側面を強く持つ集団であることを、私たちはこれもまた痛みをもって告白せざるを得ません。
 このような現実にあって、日本福音ルーテル教会と日本カトリック司教協議会が、1987年6月19日に「洗礼の相互承認」について行った合意は、高く評価されるべきです。
 その後も2004年に「義認の教理に関する共同宣言」の翻訳を記念して2004年10月31日に四谷のイグナチオ教会のマリア聖堂でカトリック教会と日本福音ルーテル教会との、最初の合同礼拝が行われました。この積み重ねの上に私たちはエキュメニズム教令50周年を2014年に記念し、日本福音ルーテル教会、日本カトリック司教協議会、日本聖公会は合同の礼拝を行い、更に2017年には宗教改革500年を記念して被爆地長崎で平和の祈りを実現してきました。日本というコンテキストを超えて、世界的にみても、これは画期的な出来事でした。そして、今後「ともに歩む」私たちに課せられていることの一つは、聖餐を共にするということではないでしょうか。恐らくそこに至るまでには長い道のりが予想されます。しかし、祈りましょう。聖餐を共にするという証があって、私たちは真実の意味で「ともに歩む」群れとして、神の道具にされていくと信じます。 

ルーテル諸学校夏の研修会が開催されました

  

小副川幸孝
(九州学院院長・
チャプレン)

 去る8月8~10日にかけて、ルーテル諸学校(聖望学園、浦和ルーテル学院、ルーテル学院、神戸ルーテル神学校、九州ルーテル学院、九州学院の6校合同)の夏の研修会が神戸ルーテル聖書学院を会場にして4年ぶりに開催されました。台風の到来や新型コロナウイルスの感染拡大のために、なかなか開催することができませんでしたが、行動制限がとられない状態でしたので、「顔と顔とを合わせての」開催となり、各学校の先生方と共に豊かな学びと交わりをすることができました。
 このルーテル諸学校の夏の研修会は、新任の先生方や中堅の先生方のために毎年行われていましたが、今年、ようやく再開されることとなり、やはり、「顔と顔を合わせる」ということがいかに豊かであるかを実感できるものでした。
 今回の開催では高等学校をもつ4校のうち、聖望学園と九州学院の2校が高校野球の夏の甲子園大会出場という快挙の中での研修会となり、それぞれの学校のエールが贈られました。また、この4年間のそれぞれの学校の動きなどの紹介が行われ、和やかな中でも豊かな研修でした。
 研修会のテーマは、「ミッションスクールで働く誇りと喜びと感謝」という主題の下で、ルーテル学院大学学長の石居基夫先生による「福音に立つ学校」、わたしの「学校教育の根本的課題とルター派キリスト教学校で働く意味」、そして九州ルーテル学院大学の田中將司先生による「LGBTQ+の課題に対する対応」という3つの講演が行われました。
 今日、現代社会そのものも学校教育を取り巻く環境も大きく変化し、それぞれの対応が必要となっていますが、キリスト教という揺るがぬ土台の上に立つ学校として、何が大切なことであるのか、「福音に立つ学校」として現代の社会状況の中で何を目指したらよいのかが示唆され、また、「多様性を認め合う」ということの具体的なこととして「LGBTQ+」の生徒や学生に対する対応に必要なことを学びました。参加された先生方にとって良い学びの時となり、また何よりも神の平和を祈りつつ、研修で学ばれたことをそれぞれの学校に持ち帰り、活かすことができればと願っています。
 予定されていた10日は、聖望学園が甲子園で試合をする日と重なりましたので、予定を早めて応援に行くという日程になりました。これもルーテル諸学校らしい在り方だと思っています。聖望学園は、その日の試合(1回戦)で見事に勝利しました。

オンライン 「ルーテル聖書日課読者の集い」のご案内

  

「ルーテル聖書日課読者の集い」が
オンラインで開催されます。
聖書日課の講読者ではない方も
ご参加頂けます。
皆様のご参加をお待ちしております。

〈主題〉 使徒言行録を学ぶ
〈講師〉 李明生牧師
(日本福音ルーテル田園調布教会)
〈日時・開催方法〉
10月10日(月・休)
10〜12時 第1講義
13〜15時 第2講義
※オンライン(Zoom)による開催です。
〈申込締切〉10月6日(木)
〈参加費用〉お1人千円
(1カ所で複数の参加も歓迎いたします。
その場合もお1人千円にご協力を
お願い申し上げます。)
〈振込先〉
郵便振替01080 — 4 — 12181
ルーテル「聖書日課」を読む会
*摘要欄に「読者の集い」とご記載いただくか、
*送金者名を「お名前 + ドクシャノツドイ」に
ご修正ください。
〈申込先〉
住所、氏名、メールアドレス、
連絡先を明記の上、
seishonikka■jelc.or.jp(■=@)
もしくは
FAX(03)3260—8641
まで送信ください。
〈お問合せ〉
聖書日課を読む会事務局
(日本福音ルーテル教会事務局内)
TEL(03)3260—8631
FAX(03)3260—8641
seishonikka■jelc.or.jp(■=@)

22-10-01「善意を贈る」

 「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。
悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。
あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。」
(ルカによる福音書6章27節b〜29節a)

  京都市交響楽団定期演奏会が、3月12日(土)に京都コンサートホールにおいて開催され、藤村実穂子さんが、マーラーの『リュッケルトの詩による5つの歌』を熱唱しました。その中の第4曲「真夜中に」の歌詞を紹介します。
「真夜中に/私は目を覚まし/天空を仰ぎ見た/群れなす星のどれひとつとして/私に笑いかけてはくれなかった/真夜中に/真夜中に/私は思いにふけり/それは暗闇の果てにまで及んだ/真夜中に/〔だが〕私を慰めてくれるような/明るい思いつきは何ひとつなかった/真夜中に/真夜中に/私が注意を払ったのは/心臓の鼓動/たったひとつ苦悩の脈動だけが/あおり立てられていた/真夜中に/真夜中に/私は闘いを挑んだ/おお人類よ、おまえの苦悩のために/私は闘いを終わらせることができなかった/自らの力では/真夜中に/真夜中に/私は自分の力を/あなたの手に委ねた/主よ、この世の死と生を/あなたは夜通し見守っておられる/真夜中に」(山本まり子訳)。
 藤村実穂子さんは、今、このマーラーの歌曲を歌う意味について、インタヴューに答えて、およそ次のように述べています。「ウクライナの映像が、毎日流れています。昨日まで普通に暮らしていた人たちが、1日で、自分たちの国から出て行けって言われる。こんなことが起こるなんて、誰も思っていなかった。醜悪なものに対する答えは、『美』だと思うんです。大きな声をあげる方も素晴らしい。デモンストレーションをする方も素晴らしい。だけど、私は歌手なので、音楽という、天才たちが残してくれた作品を通して、自分が言いたいことも伝えられたらいいな、と思います」(『クラシック音楽館』NHK・Eテレ2022年4月17日放送)。
 私たちは、キリスト者なので、醜悪なものに対する答えは、美しい「神の言葉」である、と信じています。そして神は、この世の生と死を、夜通し見守っておられる方である、と信じています。ですから私たちは、自分の力を神の御手に委ねるのです。
 神は、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5・45)方です。このような神の無限の愛を経験する者は、その愛に満たされて、その人自身も敵を愛する者とされます。
 だから、キリストは私たちに、こう命じられたのです。「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい」(ルカ6・27b〜29a)。そしてキリストは、教えられた通りに、自分を殺す者たちを、神に執り成しながら、彼らによって殺されました。
 このようなキリストの在り方を説明して、哲学者の岩田靖夫さんは、次のように述べています。「自分を守るために、他者を殺さない。復讐しない。不正を加えられても、不正を返さない。どのようなときでも、どのような他者にも、善意を贈りつづける。それは、他者に対して限りない畏敬の念をもつ、ということである。他者のうちに、神の似姿を見る、ということである。そこを目指して努力するのでなければ、どのような工夫をこらしても、それは、戦争の可能性の危うい隠蔽に過ぎない」(岩田靖夫著『いま哲学とはなにか』岩波書店2008、202頁)。
 神は私たちに、「殺してはならない」(出エジプト20・13)と命じておられます。なぜ人を殺してはいけないのでしょうか。それは、人を殺すことが、神の無限の愛にもとる行為であるからです。私たちはキリストにならい、他者に対して限りない畏敬の念を持ち、どのような時でも、どのような他者にも、善意を、そして美しい「神の言葉」を贈りつづけたい、と思います。

22-09-10「こうされたから」と 「こうされたのに」の生き方

 「あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった。」 (申命記10章19節)

 私のいる教会の一つでは、雨漏りや耐震問題で補修工事が始まりました。トラックが2台来て、礼拝堂を覆う足場が組まれました。朝の挨拶後は牧師館で仕事をしましたが、夕刻外に出ました。気になる事があったからです。彼らの会話に、外国語風日本語も聞こえたのです。「外国人の人もおられる?」と責任者に聞くと「はい、1人います。ブラジル人です」とのこと。「紹介してよ、話してみたい」とお願いして青年に会いました。ポルトガル語で話かけると皆びっくり。彼は喜んでくれ、故郷のこと、日本での生活、家族との死別や離別、でも何とかやっていることなどを、一気に話してくれました。私もブラジルに10年いて苦楽が色々あったことなど、共有する濃厚な時間でした。「今度はいつウチに来る?いつでもおいで。おしゃべりや食事しよう!」と名刺を渡し握手しました。トラックに分乗し会釈をしながら帰っていく彼らの後を、原付バイクのブザーを数度鳴らして「チャオ!(さいなら)」と手を振って彼も帰っていきました。
 新しく日本に来た様子の外国の人を見ると、声をかけたくなります。私たち夫婦も外国で苦楽を味わった「ガイコク人」の経験があるからでしょう。日系人だけでなく技能実習生のアジア諸国の人たちにも教会で日本語を教え、手続きや仕事のことでも通訳をしたりもしています。泣いたり笑ったりする彼らとの時間は、私をも支えてくれます。

 旧約聖書で「寄留者を愛せよ」と神は言われます。「選ばれた民」は異教の他国人とは対決し、旧約の神は排他的で厳しいだけというのは思い込みのようです。その説明ともいえる続きが心にしみます。「あなたがたもかつて寄留の民だった(のだから)」とあるからです。
 飢饉で食糧危機の際、食糧を備蓄していた隣の大国に行き、感動の再会と和解をしたヨセフの兄弟や家族たちはエジプトに身を寄せました。現代の食料難民や労働難民が他国に流入するニュース映像を思い出します。時が過ぎて異国での待遇は劣悪になり、神に選ばれたモーセと共に脱出します。それを思い起こさせ、次の世代にも伝えながら、もう一度神の救いの歴史と律法を説明し、従うように決断を迫るのが申命記です。

さて、私たちの生き方はどうでしょうか。外国人に対する接し方だけの話ではありません。
 「自分がいやなことは、人にはしない」とか、「良くしてもらったから、良くしてあげよう」と教えられました。しかしそれは裏返せば、「人にひどい仕打ちをされたら、仕返しをしよう」という気持ちにもなるのです。どうしたらその連鎖は断ち切られることができるのでしょう?それは、「こうされたから」という気持ちから「こうされたのに」への転換が必要です。そのために来られたのが、イエス・キリストでした。「自分を愛する人を愛するのは当然だ。敵を愛しなさい」といわれ、その通りに生き、その通りに十字架で死んでいかれたのです。
 「敵を愛する」、それは私たちにはできません。もう一度ここで「こうされたから」という言葉が必要です。今度は、自分にひどいことをする人を思い出しながら「こうされたから」ではなく、神や人にひどいことをした何をやってもダメな自分なのに赦してくれたキリストを見上げ「キリストにこうされたから」と思うと、私の中で新しい自分が少し始まります。申命記の言葉とキリストの姿が呼応するように心で響きます。

 平和を祈り献金も送りますが、戦禍は続きます。コロナ禍で孤独や難しさを味わい生活も苦しくなります。日本で暮らす外国人の方々も影響を受けています。
 キリストが開いてくれた新しい生き方にもう一度目覚めましょう。そのために、神様はいろんな人に出会わせているのかもしれません。私は難しい政治的な活動はできませんが、身近な出会いから手を取り合いたいと思わされます。皆さんは誰に出会って生きますか?小さいことから、何かが始まります。個人にも、家庭にも、教会にも、そして世界にも。

22-09-10るうてる2022年09月号

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 「こうされたから」と「こうされたのに」の生き方

日本福音ルーテル高蔵寺教会・復活教会・掛川菊川教会・新霊山教会 牧師 徳弘浩隆

「あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった。」
(申命記10章19節)

   私のいる教会の一つでは、雨漏りや耐震問題で補修工事が始まりました。トラックが2台来て、礼拝堂を覆う足場が組まれました。朝の挨拶後は牧師館で仕事をしましたが、夕刻外に出ました。気になる事があったからです。彼らの会話に、外国語風日本語も聞こえたのです。「外国人の人もおられる?」と責任者に聞くと「はい、1人います。ブラジル人です」とのこと。「紹介してよ、話してみたい」とお願いして青年に会いました。ポルトガル語で話かけると皆びっくり。彼は喜んでくれ、故郷のこと、日本での生活、家族との死別や離別、でも何とかやっていることなどを、一気に話してくれました。私もブラジルに10年いて苦楽が色々あったことなど、共有する濃厚な時間でした。「今度はいつウチに来る?いつでもおいで。おしゃべりや食事しよう!」と名刺を渡し握手しました。トラックに分乗し会釈をしながら帰っていく彼らの後を、原付バイクのブザーを数度鳴らして「チャオ!(さいなら)」と手を振って彼も帰っていきました。
 新しく日本に来た様子の外国の人を見ると、声をかけたくなります。私たち夫婦も外国で苦楽を味わった「ガイコク人」の経験があるからでしょう。日系人だけでなく技能実習生のアジア諸国の人たちにも教会で日本語を教え、手続きや仕事のことでも通訳をしたりもしています。泣いたり笑ったりする彼らとの時間は、私をも支えてくれます。

   旧約聖書で「寄留者を愛せよ」と神は言われます。「選ばれた民」は異教の他国人とは対決し、旧約の神は排他的で厳しいだけというのは思い込みのようです。その説明ともいえる続きが心にしみます。「あなたがたもかつて寄留の民だった(のだから)」とあるからです。
 飢饉で食糧危機の際、食糧を備蓄していた隣の大国に行き、感動の再会と和解をしたヨセフの兄弟や家族たちはエジプトに身を寄せました。現代の食料難民や労働難民が他国に流入するニュース映像を思い出します。時が過ぎて異国での待遇は劣悪になり、神に選ばれたモーセと共に脱出します。それを思い起こさせ、次の世代にも伝えながら、もう一度神の救いの歴史と律法を説明し、従うように決断を迫るのが申命記です。

   さて、私たちの生き方はどうでしょうか。外国人に対する接し方だけの話ではありません。
 「自分がいやなことは、人にはしない」とか、「良くしてもらったから、良くしてあげよう」と教えられました。しかしそれは裏返せば、「人にひどい仕打ちをされたら、仕返しをしよう」という気持ちにもなるのです。どうしたらその連鎖は断ち切られることができるのでしょう?それは、「こうされたから」という気持ちから「こうされたのに」への転換が必要です。そのために来られたのが、イエス・キリストでした。「自分を愛する人を愛するのは当然だ。敵を愛しなさい」といわれ、その通りに生き、その通りに十字架で死んでいかれたのです。
 「敵を愛する」、それは私たちにはできません。もう一度ここで「こうされたから」という言葉が必要です。今度は、自分にひどいことをする人を思い出しながら「こうされたから」ではなく、神や人にひどいことをした何をやってもダメな自分なのに赦してくれたキリストを見上げ「キリストにこうされたから」と思うと、私の中で新しい自分が少し始まります。申命記の言葉とキリストの姿が呼応するように心で響きます。

    平和を祈り献金も送りますが、戦禍は続きます。コロナ禍で孤独や難しさを味わい生活も苦しくなります。日本で暮らす外国人の方々も影響を受けています。
 キリストが開いてくれた新しい生き方にもう一度目覚めましょう。そのために、神様はいろんな人に出会わせているのかもしれません。私は難しい政治的な活動はできませんが、身近な出会いから手を取り合いたいと思わされます。皆さんは誰に出会って生きますか?小さいことから、何かが始まります。個人にも、家庭にも、教会にも、そして世界にも。

エッセイ「命のことば」 伊藤早奈

㉚「嬉しかったのかなぁ」

「あなたの御言葉が見いだされたとき/わたしはそれをむさぼり食べました。/あなたの御言葉は、わたしのものとなり/わたしの心は喜び躍りました。/万軍の神、主よ。/わたしはあなたの御名をもって/呼ばれている者です。」(エレミヤ15・16)

  遺品の整理をしていました。引き出しを開けた時、色々な書類の中に昔私が配った誕生日カードがしまってありました。
 しかも手で書いてあり私が手書きで字を書けたのは10年近く前のことで、なんだか懐かしいような意外なような…
 その方にカードを配るため、お部屋を訪問しお部屋のドアをノックしてもお返事はなく(それでもお部屋のドアの鍵が開いていればお構いなく入りますが)いつもベッドで寝ておられました。本当に寝ておられるのか目をつむっておられるだけなのかはわかりませんが「お誕生日おめでとうございます。カード置いておきますね」と毎年お部屋にカードを置くだけでした。
 しかも字が書けなくなっても味気ないから申し訳ないなと思いながらもパソコンで文字を打ち誕生日カードを配り続けました。まさか10年近くもたってしかもいつも無視されていたのか嫌がられていたのかと思っていた人の遺品から大切にされていたであろうかたちで示されるとは驚き半分嬉しさ半分複雑な気持ちでした。続けていて良かった。
 よく考えると私たち一人ひとりも思われ続けています。誰も気付く人がいなくても。

議長室から 大柴譲治

「突発性難聴」

「わたしは、「あなたたちのために見張りを立て耳を澄まして角笛の響きを待て」と言った。」(エレミヤ6・17a)

6月5日(日)のペンテコステに不思議な体験をしました。早朝に目覚めると左耳にかなり大きくザァーッというホワイトノイズが聞こえていたのです。テレビの放送終了時のあの音です。「耳鳴り」でした。ペンテコステですから一瞬、聖霊が降って天とのチャンネルがつながって交信が始まったのかと思いました。それはパウロの言う「第三の天」体験だったのかもしれません。
 翌日耳鼻科のクリニックに行くと外耳にも中耳にも鼓膜にも問題はなく内耳の問題とのこと。診断は原因不明の「突発性難聴」。過労やストレス、睡眠不足などで起こりやすいそうです。4分の1は治り、4分の1はそのまま、残りは悪化するとのこと。聴力検査をしてもらうと左耳の聴力がかなり落ちていて、ちょうど人の声と重なる1000㎐と2000㎐のあたりの音域が聴き取りにくい状態でした。ステロイド薬の処方を受けて1週間後に再検査。処置が早く、祈りが聴かれたのでしょう、聴力も元に戻り耳鳴りもほとんど聞こえなくなりました。「幸運な25%」に入ったのです。耳鼻科医の教会員からは「くれぐれも安静に」とアドヴァイスを受けました。改めて身体からの声を聴くことの大切さを知らされました。妻からの「安静、安静」という言葉は、私にどこかやましい気持ちがあるせいか、「反省、反省」に聞こえて苦笑いした次第です。今回の経験を通して聴覚で苦労しておられる方々が少なくないことを知りました。
 この「議長室から」の主題は「聽」です。「耳と目と心を一つにし、それを十分に用いて王(=神)の命に従う」というところにあるのです。今回耳鳴りによって人の声がかき消されてしまうことには困惑しました。それは日蝕や月蝕同様に「神の蝕」状態でした。7月18日に聖公会の修養会で「老い」について話す機会がありました。その後半には3人一組での分団の時間がありました。ある分団では3人のうち2人が最近「大動脈解離」から回復されたという貴重な体験をお話しされました。同じ部屋の中でいくつもの分団が同時に話していますのでその語がなかなか聴き取れず、2度確認してようやく分かりました。今まで気づかなかっただけかもしれませんが、私にとっては初めての「耳が遠くなる」体験でした。今「難聽」になることを怖れている自分がいます。母が晩年によく私に「譲治、歳を取るということは大仕事なのよ」と言っていたことを思い起こします。向こう側から届けられる声の響きにこれまで以上に耳を澄ませてゆきたいと念じています。

「教会讃美歌 増補」 解説

㉗創作賛美歌解説7 増補36番「わたしは祈ります」・増補38番「いつもよろこんで」
森康高(日本キリスト教団水元教会)

 私がこの曲を作ったのは2011年でした。当時の私は、芸術大学の作曲科を卒業した事もあり、賛美歌やオルガン曲を夢中で作曲しておりました。私は作詞をすることが苦手でしたので、歌詞は聖書の言葉を引用して作っておりました。そんな中、宗教改革500年を記念して『教会讃美歌増補』を作成するにあたり、オリジナルの賛美歌を募集している事を知り、書き溜めていた作品を送ったのがこの曲です。私は、結婚して家庭を持つことができないので、楽譜を通して、私がこの世に生きていた証を残すことが夢であり、目標でした。それが今回の『教会讃美歌増補』として実現され、両親が生きている間に私の作曲した楽譜を見せ、「生きた証を残すことができました」と報告でき、ささやかな幸せを感じております。私には、大好きな賛美歌があります。それと同じように、この賛美歌が、兄弟姉妹の一人にでも、大好きな賛美歌と言われるような存在になってくれれば、作曲家としてこれ以上嬉しいことはありません。

世界の教会の声

浅野直樹Sr(世界宣教主事 市ヶ谷教会・スオミ教会牧師)

バイデン大統領がオーガスタナ・ヴィクトリア病院を訪問

  アメリカのバイデン大統領が今年7月13日から15日にかけてイスラエルを訪問したことはニュースになりましたが、このときパレスチナ自治区をも訪れたことは日本ではあまり報道されませんでした。ルーテル世界連盟(LWF)によるとバイデン大統領はイスラエルとパレスチナ自治区をそれぞれ1日ずつ訪問して、その貴重な1日にパレスチナにあるひとつの病院へと出向きました。オーガスタナ・ヴィクトリア病院(略してAVH)といって、LWFが運営している病院です。

  バイデン大統領がAVHを訪れたのにはわけがあります。パレスチナ人の医療を中心的に担っているのは東エルサレムにある病院ネットワーク(EJHN)で、AVHもこのネットワークに属しています。2018年、当時のトランプ政権はそれまで継続していたこの医療ネットワークへの支援金2500万ドルを突如打ち切ると発表しました。これを受けてアメリカ福音ルーテル教会(ELCA)のイートン監督は、ポンペイオ国務長官に宛てて書簡を送り、支援を止めないよう要請したといういきさつがあります。
 バイデン大統領は今回の訪問で、複数年にわたり1億ドルを支援するという約束をしました。スピーチのなかで「パレスチナの方々に質の高いサービスと医療を提供しているのを直接目にすることができて光栄に思います。これらの病院はパレスチナの医療を支える屋台骨です」と述べました。

  ELCAのイートン監督は7月18日バイデン大統領に即座に書簡を送り、感謝の意を表しました。「パレスチナの人たちの尊厳を思う大統領の心温まる言葉と具体的な医療支援の表明に私たちも意を強くしています。」「『パレスチナ人とイスラエル人の自由、安全、繁栄と尊厳を計る物差しは等しくあってしかるべき。医療が必要なときに受けられることは、私たちすべてのいのちの尊厳にとって不可欠』とのお言葉に私も全面的に賛同します。」

  AVHは東エルサレムにおける医療の中核として、ヨルダン川西岸とガザ地区に住む500万人の人々の治療にあたっています。がん治療全般、糖尿病、腎臓病などが主な治療領域で、特にがん患者に対する放射線治療をしているのはパレスチナ自治区でここだけです。LWFは過去70年以上にわたりAVHの運営に携わっています。

 

 ※詳細についてはWEBサイトをご参考ください。

エキュメニカルな交わりから

 

⑥URM(都市農村宣教)委員会 秋山仁
(ディアコニアセンター喜望の家・豊中教会 牧師)

 

  URM(都市農村宣教)委員会は、1967年3月に、日本キリスト教協議会(NCCJ)の第20回総会において、UIM(都市産業宣教)委員会として設置されたのが始まりです。
 労働者伝道あるいは職域伝道への取り組みは、各教派によって戦前から行われていましたが、戦後1957年以降、関西労働者伝道委員会(日本キリスト教団)などが活動を始めました。そして、NCCJでも、1964年に「産業社会における一致のあかし」という主題で、都市と産業社会における宣教を主題として、協議会が開かれています。
 産業化・都市化が進む一方で、様々な社会の歪みや問題も浮き彫りになってきました。とりわけ高度経済成長期の日本では、工業化と公害の問題、都市における労働問題、そして農村の解体・縮小・過疎といった問題が焦点化されてきました。それはまた、日本のみならず、東アジア全体でも同様で、60年代から70年代にかけては、軍事政権下における「開発独裁」などの問題が大きく取り上げられてきました。1973年には、東アジアキリスト教協議会で、UIMをURMと改称し、都市や産業社会の問題だけでなく、改めて農村をも含めた現代の課題に取り組み始めます。こうした動きを受けて、1980年にNCCJでも、UIMを現在のNCCJ−URM(都市農村宣教)委員会へと改称して活動を継続してきました。
 さて、URM委員会は、関西を中心として、NCC加盟教会・教団によって、各地域で取り組まれている課題や運動を結んでいく、エキュメニカルなネットワーク的働きです。
 URMで取り組んでいる課題は、実に多岐にわたっています。日雇い労働者や非正規雇用労働者、移住労働者の問題、性的少数者などに対する差別、女性の問題、沖縄の基地問題や成田空港を巡る問題、核問題の廃絶、開発と農村の問題、農漁村の保全と共生社会の実現を目指す働き、等々。
 また、NCCJ−URMは、韓国のNCCK−URMと、韓国の民主化闘争や在韓日系企業の労働問題への取り組みなどを通して、深い連帯関係を築いてきました。1978年には、第1回日韓URM協議会が、「産業社会における現代宣教の課題」を主題にソウルで行われ、この日韓協議会はすでに今年で12回を数えます。日韓両国の社会に共通する課題を共有しています。
 NCCJ−URM委員会の取り組み、それは、個別の課題への取り組みを通して、キリスト教信仰に基づいた社会正義と公正の実現を目指すものです。URMでは、解放の神学や民衆の神学、あるいはフェミニスト神学などの実践に触発されながら、従来の教会の「宣教の歴史」を反省し、これからの教会の宣教の姿を考えています。
 数年に1度、全国協議会を開催し、2021年10月には、第22回目の全国協議会が、「食・農・命」を主題に、共生庵(広島・三次市)を会場に行われました。
 今後の働きにも是非ご注目ください。

日本ルーテル神学校 神学生修養会報告

 

李明生(神学教育委員長・田園調布教会牧師)

 

 日本福音ルーテル教会の神学教育・牧師養成のため、いつも本当に沢山の祈りとお支えを頂いておりますことに心より感謝申し上げます。
 2022年度前期神学生修養会が6月6日(月)・7日(火)にかけて、ルーテル教会について学びを深めることをテーマに行われました。修養会は神学生主体で計画され、河田優チャプレンをはじめ神学校教員の協力によって進められました。神学教育委員は2日目のプログラムにオンラインにて参加しました。
 1日目はJELAの働きについて知ることを中心に、東京・恵比寿のJELAミッションセンターで渡辺薫事務局長よりJELAの紹介や国際的な社会福祉の実践、課題と挑戦についてお話しを伺い、また難民支援のためのシェルター「JELA(ジェラ)ハウス」を見学しました。2日目は神学校を会場に、浅野直樹Sr.世界宣教主事からLWFの働きについて、また宣教師であり神学校の教師でもあるアンドリュー・ウイルソン先生と、サラ・ウイルソン先生から宣教師としての働き、牧会者としての教会への関わりについてお話しいただきました。講義の後にはグループに分かれて2日間を通して考えたことが分かち合われました。7名の神学生がそれぞれに、ルーテル教会の課題について、またこれから牧師となって自分に何が出来るのかを考える貴重な機会となりました。
 どうぞ引き続き、日本ルーテル神学校とそこで学ぶ神学生らを憶えて、また新たな献身者が与えられることを求めて、お祈りください。

オンライン「一日神学校」のご案内

 

今年のルーテル学院「一日神学校」は9月23日(金)午前9時から、オンラインで開催されます。「心と福祉と魂と」をテーマに、YouTubeによる配信プログラム(申込不要)と、Zoomによる懇親会(参加には申込が必要)が行われます。参加費は無料です。皆様のご参加をお待ちしております。
※視聴方法は、所属の教会の牧師にご確認ください。
※当日は祝日により職員の体制が限られている関係で、メールやお電話によるお問合せはお受けできません。また、学校も閉鎖しておりますので、ご来校はお控えいただきますようお願いいたします。

カトリック第16回「シノドス」総会に向けての日本福音ルーテル教会からの応答③

エキュメニズム委員会

2 共通の課題(前号からの続き)
  

 国内においては、各教会がすでにそれぞれ独自に活動しています。また日本キリスト教協議会には、日本福音ルーテル教会は加盟教団として、日本カトリック司教協議会はオブザーバーとして、特に教会内の支援組織とは緊密な協力体制を取りながら課題に向き合ってきた歴史があります。日本の教会はいずれも小さなものですが、小さい群れであるがゆえに、その宣教開始の時から、様々に協力し合って課題を担ってきた歴史もあります。私たちは先人たちの働きを感謝するとともに、その歴史を深く認識したいと考えます。というのは、あえて言えば、日本の教会が「小さい」ということすらも、今後の世界の教会にとって、とても大きな恵みに満ちた先例の一つになるのではないかと思うからです。なぜなら後述しますが、たとえば2014年や2017年のカトリック教会とルーテル教会や聖公会とが合同の礼拝ができたということは、世界の教会史上、画期的な出来事だったと思うからです。「小さな」教会でも、いや「小さな」教会だからこそ、心をこめて協力ができるという一つの事実を世界の教会に示すことができたのです。「小さい」ということは、「大きい」ことより、むしろ神の恵みを豊かにうけることすらありうるのです。それゆえ、小さな日本のキリスト教会は一致して、共通の課題に向き合っていくことが期待されているものと考えます。
 また、私たちがこのような課題に力を合わせる時の共通の認識は、平和の問題の大切さです。ウクライナでの戦争でわかる通り、国家は必ずしもすべての人を親切にすることはできてこなかったという事実です。そして、このことはアウグスティヌスやルターが、「神の国・地の国」という言葉で説こうとした問題の一つです。今日、政治や経済にたずさわる個人の、団体の、そして何より国家の責任は重大です。そして、このことをキリストを信じる教会の問題として捉えるならば、教会がこの社会において一市民として「憐れみの循環」、「連帯の循環」の一部として働きの場があることを意味しています。ルターが、先に引用した『キリスト者の自由』の中で、私が「隣人のために一人のキリストとなる」という時、それはまた「隣人はあなたのための一人のキリスト」となり得るということを意味しています。そこには、上から援助するという視点ではなく、自分自身も援助を必要としているという自己認識があります。憐れみと連帯は私たちのだれもが、人生の中で必要としているのです。
 その意味では、ルターが『キリスト者の自由』で明らかにした、神から私たち人間にプレゼントされた愛と自由についての壮大な弁証法的な総合命題は、今日にもそのまま妥当します。他者との共同体に生きるすべての人に妥当するのです。自由な社会とは、その中で可能な限り多くの人々が自分の能力に応じて力を発揮できる社会です。そのような社会の中で、だれもが人生のリスクに対する幅広い社会保障を必要としています。このようなとき、「可視化された愛」、「構造としての愛」の実現に、私たち教会もまた召されていることを確認する時、シノドスが指し示す共通の使命に対する、まさに共同の責務を私たちの教会も担う幸いを感じます。この働きは社会的貢献が大きいか、小さいかという量的尺度ではかられるものではありません。たとえ社会的に評価されず隠れたものであっても、「隣人のために一人のキリストとなる」、そこに私たちのディアコニアの意味があるからです。私たちに今すぐすべてが出来るわけではないかも知れませんが、キリストを信じる者としての愛の志だけは保ちつづけたいと思っています。
 これまでの共同の歩みが、さらに具体的に深まることを心から期待しています。また、同時に私たちもまた日本カトリック司教協議会のこれまでの取り組みに学び、参与する道が開かれることを願っています。
(以下次号につづく)

カトリック「シノドス第16回通常総会のテーマに関するヒアリング」および「シノドス第16回通常総会にちなむ合同礼拝」が行われました

  

  カトリックでは「世界代表司教会議(シノドス)第16回通常総会」に向けて各国の司教団が提出する報告書に、「ともに歩む教会のため—交わり、参加、そして宣教」というテーマに関して、キリスト教諸教派からの意見を盛り込むため、7月21日(木)東京・麹町(聖イグナチオ)教会で開催されたカトリック司教総会の中で、日本聖公会・日本福音ルーテル教会・日本キリスト教協議会の代表者からの応答のヒアリングが行われました。(日本福音ルーテル教会からの応答内容については、本紙において7月号より分割して掲載中です。)
 また同日18時より司教総会の会場であった聖イグナチオ教会主聖堂にて4者による合同礼拝が、前田万葉カトリック枢機卿の主司式のもと、菊地功カトリック東京大司教、髙橋宏幸日本聖公会東京教区主教、大柴譲治日本福音ルーテル教会議長、吉高叶日本キリスト教協議会議長の共同司式によって行われました。新型コロナウイルス感染症感染防止対策のため、出席者を限定しての合同礼拝とはなりましたが、エキュメニカルなキリスト教会の一致と連帯を確認する貴重な機会となりました。
 なお、このヒアリングならびに合同礼拝については、カトリック中央協議会のインターネットサイトにて動画が公開されています。

 

 ※詳細についてはWEBサイトをご参考ください。

22-08-01「永遠のいのち」と、私は書く

 「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。」
(ヨハネの手紙一4章16節b)

  8月になると、昭和を代表する歌手美空ひばりさんの歌「一本の鉛筆」を思い出します。これは、第1回広島平和音楽祭(1974年)のために作られた歌ですから、反戦への思いの強い歌となっています。ロシアによるウクライナ侵攻が始まった頃に、女優の杏さんが歌い、YouTubeに動画を投稿されました。

「一本の鉛筆」(作詞・松山善三、作曲・佐藤勝)
あなたに聞いてもらいたい
あなたに読んでもらいたい
あなたに歌ってもらいたい
あなたに信じてもらいたい
一本の鉛筆があれば
私はあなたへの愛を書く
一本の鉛筆があれば
戦争はいやだと私は書く
あなたに愛をおくりたい
あなたに夢をおくりたい
あなたに春をおくりたい
あなたに世界をおくりたい
一枚のザラ紙があれば
私は子供が欲しいと書く
一枚のザラ紙があれば
あなたをかえしてと私は書く
一本の鉛筆があれば
八月六日の朝と書く
一本の鉛筆があれば
人間のいのちと私は書く

 父なる神さまは、どんなお方なのでしょう? 「神は愛です」。けれども、父なる神さまのお姿を見た人はいません。父なる神さまは人間にまことの愛を伝えるために、この世にイエスさまをお送りくださいました。
 礼拝のはじめにみ名による祝福、「父と子と聖霊のみ名によって」「アーメン」と唱えます。三つにしてひとりの神、交わりの神です。「神は愛です」、愛は単独であらわし示すことができず、その本質として交わりを有します。
 具体的に言いますと、イエスさまも「アッバ父よ」と祈り、いつも心に父を覚え、父との交わりに生きられました。また、母マリアの胎に聖霊が宿り、イエスさまは誕生し、イエスさまが洗礼を受けられた時にも、聖霊が鳩のように降りました。そして、イエスさまは十字架上で「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」(ルカ23・46)と叫び、父とみ霊との交わりの内に生き続けられました。
 礼拝にも三つの交わりがあります。①父と子と聖霊の神との交わり、②み言葉・ロゴスとの交わり、聖書朗読や説教、讃美歌もみ言葉との交わりです。③聖徒の交わり、これは、礼拝に集う会衆、礼拝に招かれた神の子らの交わりです。礼拝には、この三つの交わりがあり、キリストの体・教会の内に留まり、み言葉の内に留まり、神の愛の内に留まることに、神の子たちの命があります。
 キリスト教は「神は愛です」と、愛や平和を説いています。しかし、世界に目を転じますと、戦争によってウクライナに住む多くの人々が他の国へ避難民として逃れています。他にも、アフガニスタンやミャンマーなど、紛争によって大勢の人々が苦しんでいます。私たちは、世界の悲しみをどのように受け止めたらよいのでしょうか?
 歴史や政治の問題が複雑に絡んでいます。何が正義か? 立場によって正しさは異なり、住民同士の激しい対立や憎しみ、分断の悲しい現実があります。私たちには、手に負える問題ではありません。そうかと言って、傍観者でいることにも、罪を覚えます。無関心ではいられない。けれども、人間の知恵を働かせても、罪の現実に圧倒されるばかりです。では、どうすればよいのでしょうか?
 知恵には、人間の知恵と神の知恵とがあります。そして、神の知恵は、独り子を十字架に架けました。それによって、世界のすべての罪をお赦しになりました。聖書を開いて、神の知恵に耳を傾けます。天に心を向けて、父のみ心を尋ね求めます。イエスさまは何と仰っているでしょうか?
「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイ5・9)、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。」(マタイ5・44b〜45a)、「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」(マタイ26・52b)。
 これらは神の知恵の言葉です。心を開いて、み言葉と交わります。すると、聖霊が働いて、私たちに知恵を授け、悟らせてくださいます。
 神の知恵に、私たちはより頼みます。父なる神に憐れみを乞い求め、子なるキリストに救いを求め、聖霊なる神にみ助けを求めます。私たちは交わりの神の愛の内に守られ、平和へ、命へ、導かれています。十字架のキリストこそ、この地上のザラ紙に「永遠のいのち」と書き記された、神の愛のお姿です。

22-08-01るうてる2022年08月号

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 「永遠のいのち」と、私は書く

日本福音ルーテル聖パウロ教会 牧師 小勝奈保子

「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。」
(ヨハネの手紙一4章16節b)

  8月になると、昭和を代表する歌手美空ひばりさんの歌「一本の鉛筆」を思い出します。これは、第1回広島平和音楽祭(1974年)のために作られた歌ですから、反戦への思いの強い歌となっています。ロシアによるウクライナ侵攻が始まった頃に、女優の杏さんが歌い、YouTubeに動画を投稿されました。

「一本の鉛筆」(作詞・松山善三、作曲・佐藤勝)
あなたに聞いてもらいたい
あなたに読んでもらいたい
あなたに歌ってもらいたい
あなたに信じてもらいたい
一本の鉛筆があれば
私はあなたへの愛を書く
一本の鉛筆があれば
戦争はいやだと私は書く
あなたに愛をおくりたい
あなたに夢をおくりたい
あなたに春をおくりたい
あなたに世界をおくりたい
一枚のザラ紙があれば
私は子供が欲しいと書く
一枚のザラ紙があれば
あなたをかえしてと私は書く
一本の鉛筆があれば
八月六日の朝と書く
一本の鉛筆があれば
人間のいのちと私は書く

 

父なる神さまは、どんなお方なのでしょう? 「神は愛です」。けれども、父なる神さまのお姿を見た人はいません。父なる神さまは人間にまことの愛を伝えるために、この世にイエスさまをお送りくださいました。
 礼拝のはじめにみ名による祝福、「父と子と聖霊のみ名によって」「アーメン」と唱えます。三つにしてひとりの神、交わりの神です。「神は愛です」、愛は単独であらわし示すことができず、その本質として交わりを有します。
 具体的に言いますと、イエスさまも「アッバ父よ」と祈り、いつも心に父を覚え、父との交わりに生きられました。また、母マリアの胎に聖霊が宿り、イエスさまは誕生し、イエスさまが洗礼を受けられた時にも、聖霊が鳩のように降りました。そして、イエスさまは十字架上で「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」(ルカ23・46)と叫び、父とみ霊との交わりの内に生き続けられました。
 礼拝にも三つの交わりがあります。①父と子と聖霊の神との交わり、②み言葉・ロゴスとの交わり、聖書朗読や説教、讃美歌もみ言葉との交わりです。③聖徒の交わり、これは、礼拝に集う会衆、礼拝に招かれた神の子らの交わりです。礼拝には、この三つの交わりがあり、キリストの体・教会の内に留まり、み言葉の内に留まり、神の愛の内に留まることに、神の子たちの命があります。
 キリスト教は「神は愛です」と、愛や平和を説いています。しかし、世界に目を転じますと、戦争によってウクライナに住む多くの人々が他の国へ避難民として逃れています。他にも、アフガニスタンやミャンマーなど、紛争によって大勢の人々が苦しんでいます。私たちは、世界の悲しみをどのように受け止めたらよいのでしょうか?

  

歴史や政治の問題が複雑に絡んでいます。何が正義か? 立場によって正しさは異なり、住民同士の激しい対立や憎しみ、分断の悲しい現実があります。私たちには、手に負える問題ではありません。そうかと言って、傍観者でいることにも、罪を覚えます。無関心ではいられない。けれども、人間の知恵を働かせても、罪の現実に圧倒されるばかりです。では、どうすればよいのでしょうか?
 知恵には、人間の知恵と神の知恵とがあります。そして、神の知恵は、独り子を十字架に架けました。それによって、世界のすべての罪をお赦しになりました。聖書を開いて、神の知恵に耳を傾けます。天に心を向けて、父のみ心を尋ね求めます。イエスさまは何と仰っているでしょうか?
「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイ5・9)、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。」(マタイ5・44b〜45a)、「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」(マタイ26・52b)。
 これらは神の知恵の言葉です。心を開いて、み言葉と交わります。すると、聖霊が働いて、私たちに知恵を授け、悟らせてくださいます。
 神の知恵に、私たちはより頼みます。父なる神に憐れみを乞い求め、子なるキリストに救いを求め、聖霊なる神にみ助けを求めます。私たちは交わりの神の愛の内に守られ、平和へ、命へ、導かれています。十字架のキリストこそ、この地上のザラ紙に「永遠のいのち」と書き記された、神の愛のお姿です。

エッセイ「命のことば」 伊藤早奈

㉙「喜び」

「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ5・12)

  「先生ですか?」えっその施設で若い方に声をかけられた事が少ない私はちょっとびっくりしてキョトンとしていると「○○の娘です。いつもお世話になってます」あー○○さんの。何でわかったんだろう?
 あっあの写真だ。部屋に入ったベッドの横に私と写した写真が貼ってありました。
 〇〇さん私と写真撮って嬉しかったのかなぁ?
 最近私はどこかに集中して手を動かそうとするとあっちこっち自分が思わぬ方向に手が勝手に動いてしまうことがあって物を壊してしまったり、倒してしまうということがあります。
 急に〇〇さんのことを思い出し切なくなりました。
 いつも私が「〇〇さんおはようございます。」と言うと〇〇さんの車椅子を押されている方が「〇〇さん伊藤先生だよ」と伝えて下さると、〇〇さんは顔は笑っておられるのに体をバタバタしはじめられいつもびっくりさせられて、私は自分が声をかけて良かったのかわかりませんでした。
 いろんな感情の表現は決まったかたちでなくてもイエス様はいつもわかって下さるんですね。

議長室から 大柴譲治

「良心」

「そこで、パウロは最高法院の議員たちを見つめて言った。『兄弟たち、わたしは今日に至るまで、あくまでも良心に従って神の前で生きてきました。』」(使徒23・1)

 パウロは「良心」を大切にしていました(使徒23・1、同24・16、2コリント1・12など)。それはギリシャ語で〝συνειδησις〟、英訳は〝conscience〟で「共に知ること/共通認識」という意味。日本語の「良」というニュアンスは含まれていません。しかし「良心」と言うと不思議にストンと私たちの腑に落ちるのです。私たちがルター派だからでしょうか。
 1521年のルターのウォルムス国会での弁明を想起します。「聖書の証言か明白な理由をもって服せしめられないならば、私は、私があげた聖句に服しつづけます。私の良心は神のみことばにとらえられています。・・・良心に反したことをするのは、確実なことでも、得策のことでもないからです。神よ、私を助けたまえ。アーメン。(私はここに立っている。私はほかのことをなしえない)」(徳善義和編『ルター』平凡社1976)。
 私たちはしばしば「良心の呵責」を覚えることがあります。心がうずくのです。内面的な価値観に照らして事柄の可否や善悪を判断しているからです。私の神学校時代の卒論は「告解(ざんげ告白)」。それは四つの部分から成ります。①痛悔(良心の呵責)、②告白、③償罪、④赦免(赦しの宣言)。①が良心の痛みです。私たちが見落としがちなのは③「償罪」の部分。ルターの宗教改革運動の発端は「贖宥状(免罪符)」に関するものでした。それは諸聖人の功徳によって陰府における「償罪」を軽減するための「御札」だった。「牧会者(魂の配慮者)」であったルターは、民衆の魂の救いがないがしろにされることに黙ってはいられませんでした。ただキリストの十字架と復活によって私たちの罪は贖われ、私たちは信仰によって神の前に義とされているのであって他の何も必要なかったのです。
 マハトマ・ガンジーの「非暴力不服従」運動が大きな成功を収めたのはそれが英国人の「良心」に強く訴えたからでした。映画『ガンジー』でも壮絶な場面として描かれていますが、何も持たずまっすぐ自分たちに向かってくる無抵抗な民衆を英国兵は次第に銃撃できなくなってゆきます。若くして英国に留学したガンジーは英国人の良識/良心を信じ、それに訴えるかたちで抵抗運動を展開したのです。相手がAI兵器のように良心を持たないマシンだったらそれは功を奏することはなかったでしょう。8月の平和月間に私たちが「良心」について考えることは意味あることと思います。私たち一人ひとりが神と人の前で自らの良心に従って生きることができますように祈ります。地上に平和が来ますように。
s.d.g.

「教会讃美歌 増補」 解説

㉖創作賛美歌解説6増補31番「今 み前に」
永井幸恵(広島教会)

 ルーテルの礼拝式文にはたくさんの歌が集まっていて、とても心地いいです。まだ小さかった子どもたちにもこの礼拝を通して、神様のこと、聖書のこと、キリスト教のことなどいろいろなことを吸収してほしいと願い、足繁く礼拝に通いました。平日はいつも仕事などでバタバタと過ごしていて、週に1回、家族で参加する礼拝がホッとするひととき。聖餐の部では、前へ進み出て配餐が行われます。子どもたちはまだ受洗していませんでしたが、祝福の祈りを受けるため一緒に前に出ていました。子どもたちは、聖餐式のひとつひとつに興味津々、特に「パンとぶどう酒」に関心があったようです。このパンはなあに?この赤いのはなあに?どうしてこんなことをするの?と。礼拝中でしたけれど、一言ずつ牧師先生が子どもたちの問いかけに丁寧にお答えしてくださいました。それが歌詞の内容になっています。それは子どもたちの心に確かに届いたのだと思います。神様の時を経て、子どもたちは受洗しました。共に聖餐に与る幸せを心から主に感謝しています。

世界の教会の声

浅野直樹Sr(世界宣教主事 市ヶ谷教会・スオミ教会牧師)

暴力と分裂に疼く 世界をひとつに

 6月9日から14日にかけて年一度のLWF理事会がジュネーブで開催されました。テーマはコロサイ書1章9〜20節から「すべてはキリストに支えられ(In Christ all things hold together)」。パンデミック以後最初の対面形式での会議となりました。
 開催に先だって恒例として他教派からの挨拶があり、カトリック、メソジスト、ペンテコステ、改革派、東方正教会の代表者が冒頭で祝辞を述べました。彼らが共通して呼びかけたのは、分裂と暴力、利己主義に疼く世界に向けて、キリスト教会が信頼できる証人となるべきであり、そのために神学的な相互理解を一層深め、実のある協力関係を築くことが急務であるというメッセージでした。
 改革派を代表してハンス・レッシング氏は、ロシアのウクライナ侵攻への対応に触れつつ、正義と平和の問題に関してLWFとの協力関係の重要性を指摘しました。テーマのコロサイ書の聖句に触れてこう述べました。「多くの事柄が崩れかけている今、たとえ甚だしい矛盾とおぞましい敵意がはびこっていても、すべてをひとつに保ち支えてくれるところに注目することを今回の理事会は目指しています。そこは目に見えず我々の理解を超えているけれど、すべてを支えるお方がいるところです。すでに手元にあるこの神の賜物を私たちがさらに理解を深めて実生活でも受けとっていくようにと、この聖句は呼びかけています。」
 ペンテコステ教会の代表者ジーン・ダニエル・プルス氏は、2016年に2教会間で初の公式対話が実現したのは、過去20年にわたるLWFのエキュメニズムへの並々ならぬ決意の賜物であり、両教会の対話の最終文書が来たる2023年のポーランドでの総会には間に合うであろうこと、そしてこれが両教会にとって地域レベルでのつながりの具体的な成果になると述べました。プルス氏はまた対話の継続を呼びかけるとともに、今年10月にソウルでおこなわれるペンテコステ教会世界協議会にLWFを招待しました。「異なる実践と信仰に立ちつつも聖霊の力によって互いを理解し、価値を見いだし、生産的な関係を築くことが可能だ」と述べました。
 カトリック代表アウグスティヌス・サンダー氏は3年後に迫るニケア公会議1700年記念について触れました。「全キリスト者に馴染み深いニケア信条によって、声は違っていても同じ讃美歌で神をたたえることで、私たちはひとつにされています。2025年のニケア公会議記念大会が、『争いから交わりへ』の旅路を辿る両教会にとって有意義な憩いの時と場所となり、そこから霊的な集中へと共に向かっていけることを願っています。私たちは時に急ごうとしますが、短距離走者ではなく長距離走者ですから、焦らず一息つきながらゴールを目指しましょう。」
 メソジスト教会のイヴァン・アブラムス氏は、世界各地の紛争、殊にウクライナへの軍事侵攻の最中にLWF理事会が開催されたことに触れ、次のように述べました。「ポストコロナの今、健康管理の脆さが世界的に目立っており、不平等が増大していると実感しています。キリストの直弟子として、エキュメニカルなパートナーと共に希望と癒やしの運び役となり、公正で持続可能な未来を私たちは目指す心づもりです。」
 WCC(世界教会協議会)を代表して事務局長のルーマニア正教会イオアン・サウカ氏もロシアのウクライナ侵攻に言及しつつ、数百万人に苦しみと死、絶望をもたらしている世界のあらゆる不正、差別、抑圧について語りました。ウクライナ戦争を支援するロシア正教会を排除するのかどうかについてサウカ氏は、「WCCは集いと議論のためのプラットフォームとして、平和と和解を目指すために対話の場を提供しています。しかしながら政治と宗教の指導者が、主権国家に対して武装侵攻するために宗教の言葉を利用することには強く反対します。平和構築には保護と忍耐、傾聴と尊敬、そして調停と平和を育むための環境が必要です。」

 

 ※詳細についてはWEBサイトをご参考ください。

エキュメニカルな交わりから

 

⑤NCC女性委員会 安田やまと(都南教会)

 

 NCC女性委員会は毎月第2水曜日に定例委員会を開催している。
 昨年からはコロナの影響でZoomで開催しているが、Zoomの良い点としては地方の女性委員も出席できるという点である。定例会の中では各教派、団体からの活動報告がなされ、情報や課題、祈り合うことなど様々なことを共有している。
 女性委員会の大事な働きの一つには世界祈祷日の開催及び式文の作成、祈りの対象国などへの献金送金がある。今年の世界祈祷日関連の報告として以下の2点を報告する。
・2023年世界祈祷日式文(作成国・台湾)の編集作業が3月末より開始されている。
・2022年世界祈祷日献金額は、6879879円(2022年6月末日現在)。
 特に献金に関してはコロナの影響で大きな集会が開催できずにいる中でも、世界祈祷日を覚えて送ってくださる方々に心より感謝。

 それ以外の今後の具体的な活動計画としては以下のことを予定している。

・女性委員会内研修会開催
 8月24日(水)10時30分~15時30分、会場・キリスト教会館日本キリスト教団4階会議室
 テーマ「教会女性の歩みとこれから」(仮題)。
・フォーラム「女性の視点で聖書を読む」
 形式・対面/Zoom
 日程・2023年2月
・第11回日・在日・韓国NCC女性委員会連帯交流会議(2023年秋)開催に向けて準備に入る。
・WCCワークショップ企画委員会へ参加。
などである。

 13の異なる団体で構成されている女性委員会では教派が違うからこそ意見を交換し合い、話し合い、それによって社会の中で追いやられてしまう弱者(女性や子ども達)の声に少しでも耳を傾けていけることができることを願い祈っている。

社会委員会リレーコラム 「本・出会い・教会」③

内藤文子(小岩教会牧師)

  その船は今、東京夢の島公園にありました。ビキニ環礁で被爆した「第五福竜丸」です。静岡県の焼津にいたころ3月1日に参加したビキニデーで久保山愛吉さんのお墓で祈りつつ、68年前に被爆した第五福竜丸は、今平和を願う人たちの協力で東京に展示されていると聞きました。
 第五福竜丸の被爆は、戦後、1954年3月1日。米国の水爆実験(一発で何千万人も殺せる爆弾)によるもの。無線長だった久保山愛吉さんは9月に亡くなりました。紹介する絵本は、草の根の平和運動から作られた絵本。久保山さんが家族に残した手紙が紹介されています。妻すずさんと3人の娘さんに愛情あふれる言葉が綴られています。驚くことにたくさんの手紙を書くと共に、体の痛みに耐えつつ、娘さんにセーターを編んでおられたことです。
 この久保山さんの死は日本と世界に衝撃を与え「原水爆禁止」運動が広がりました。
 愛吉さんが植え、すずさんが育ててきたばらの苗木も平和の祈りを込めて広がっています。妻のすずさんは93年の2月に亡くなられました。
 第五福竜丸は、その後漁に出ることは無く、忘れられ、ぼろぼろになってごみ捨て場にありましたが、ある人々の手で掃除され、一部修復され、平和を願い、「都立第五福竜丸展示館」に安置されたのです(1976年)。
 私も、会えました!「新木場駅」から徒歩10分。時が経ち、かなり傷みが激しいですが、被爆し傷ついたその姿で、来館した人々を迎え、核のない安心して暮らせる世界への願いを大きな船体で訴えています。
 今回のウクライナ侵攻に関して、「核共有」など恐ろしい話が持ち出されます。人類の最大の問題は、核兵器ではないでしょうか。主イエスの示される平和を希求し、過去の出来事から学びたいと思います。

カトリック第16回「シノドス」総会に向けての日本福音ルーテル教会からの応答②

エキュメニズム委員会

2 共通の課題

 シノドスの問う問いを吟味する時、共通の課題があることを共有しなくてはならないと感じています。

⑴まず第一に考えたいことは、神を信じること、つまり「信仰」の問題です。

 ルターが聖書を重んじ、民衆のためにドイツ語に翻訳した動機もそこにありました。聖書に書かれていること、つまり一人一人が神の恵みを受けとめ、それをイエス・キリストへの信仰へと集中することができるようになるためでした。ルターが著わし、教会員が今も大切に学んでいる『小教理問答』もただ文言を暗記するだけでなく、ともに信仰に裏打ちされた生き方ができるように教育することを目的に書かれました。
 その視点から言えば、私たちは共通の課題としての「信仰」の問題について、共に更に深めることが求められています。先のルターの言葉を借りれば「人々と話したり、かかわりをもつ」ということです。シノドスも「共同の礼拝は、わたし(たち)自身と生活を生かしているか」と問うています。
 私たちは1998年に『カトリックとプロテスタント どこが同じでどこが違うか』を共同で出版しました。しかしもう一歩進めて、私たちは同じキリストを告白するものであると大胆に語る時が来ているのではないかと考えます。特に、日本において「キリスト教」という大きな括りにありながらも、この「同じものである」というメッセージをいまひとつ明確にすることが足りませんでした。
 同時に、信仰者一人一人が、より平易に福音の恵みを語り、確かな信仰告白に至ること、そしてそれにふさわしく生きることを祈り求めなくてはなりません。日本福音ルーテル教会は新しい宣教方策を「魂の配慮(Seelsorge)」という言葉を重要なキーワードとして組み立てました。信仰を一方的に知識として語ってきたのではないかという反省があるのです。信仰者との信仰の対話の回復の必要性は、「教会内における対話」について触れているシノドスの目指す指針とも一致するものと考えます。この点では、信仰者の教育はもちろん、教職者の共同の研修に相互に参加することも、大きな刺激を得ることができるのではないかと考えます。
 またキリスト者どうしのあり方だけでなく(エキュメニズムの課題だけでなく)、他宗教や無宗教の人々との対話も、ますます大事なことになるのではないでしょうか。なぜなら日本の地に確かに教会はありますが、多くの日本の人々が他宗教や無宗教だからです。この指摘は、多くの日本の人々を責めるために言っているのではありません。むしろ逆です。神がお与え下さった日本のこの豊かで美しい自然や、またその中ではぐくまれてきた(たとえ他宗教であっても)豊かで深い宗教的伝統に、私たちもまた深い尊敬をもって「共に歩む」必要があるからです。更に無宗教の人々の問題も、決して日本だけのことでなく、先進諸国に広く見られる傾向です。ですから、彼らがなぜ無宗教であるのかを、私たちもまた「共に歩む」者として、彼らの心や生き方にある時は寄り添いつつ、共に苦しみ考えていく必要があるのではないでしょうか。

⑵次に上げられる共通の課題は、社会にある隣人への取り組みです。

 この点では、私たちに与えられている共通の課題はあまりにも大きく、深く、困難であることを痛感せざるを得ません。グローバルな世界の中に教会が存在していることを、私たちは相互に認識しています。環境・温暖化や原発の問題、戦争・平和・難民の問題、また疫病や生命倫理やジェンダーの問題、更には電子情報技術に代表される近代科学技術の光と影等々、私たちは共通の課題として取り上げることができます。また、このような課題が国内、国外にあることを私たちは知っています。(注2)

(注2)ルーテル世界連盟(LWF)は、近年、以下のような宣教的課題を挙げている。
⑴信仰と教会の在り方に関する事柄として/教会・信仰共同体の公共空間への参与についての神学的基礎づけ、信仰共同体内における違いと対立についての理解と取り組み、教会の宣言・ディアコニア・アドヴォカシーなどの働きへの支援、教会員数の成長と減少の双方への対応、ジェンダージャスティスへの取り組み、社会と教会への青年の参加の保証、一致と協働の証しのためのエキュメニカル・パートナーとの連携、宗教間対話への取り組み、
⑵人々の尊厳、正義と平和を促進するための事柄として/緊急的な危機にある人々への支援、人々の尊厳と権利が守られるための持続可能な開発への支援、ディアコニアの働きへ継続的に取り組むための支援、人々の尊厳・正義と平和の問題に取り組むためのエキュメニカル・パートナーならびに他宗教との協働、気候変動への取り組み、周縁化された人々の人権を守るための取り組み、など。

参考:With Passion for the Church and for the World – LWF Strategy 2019-2024, The Lutheran World Federation, 2018.
(以下次号につづく)

第28期第19回常議員会報告

事務局長 滝田浩之

 6月13日(月)に開催された定例常議員会についてご報告いたします。
(1)方策実行委員会の設置の件
 「第7次綜合宣教方策」の常議員会による仮承認を受けて、方策内でも確認されている「方策実行委員会」の設置が承認されました。
 常議員会では、この委員会の性格について議論が行われました。
 宣教は個々の教会の使命であること、また個々の教会の課題については、これまで通り「教区」を主体として取り組むことを改めて確認した上で、これを実際に進めていく上で日本福音ルーテル教会憲法・規則に照らして「原則」を確認していく作業、また状況に応じた規則変更の必要があれば、これに対応することを委員会の主たる任務とすることが確認されました。つまり個々の教会の宣教のあり方を、上から青写真を提示した上で落とし込んでいくというような旗振り役ではなく、あくまでも教職者の減少に伴い、個々の教会で発生するであろう課題、教区として全体の中で調整すべき課題を共有しつつ、この解決のために必要な対応をこの委員会で取っていくこととなります。つまり現実に起こってくる宣教のフロントである個々の教会の課題、そして教区の課題解決のため、これを共に担い解決に必要な手続きを整備していくことが委員会の目的となります。スムーズに規則にこれを反映させる必要も鑑み、方策実行中は、この委員会が憲法規則改正委員会も兼ねていくこととしました。
 とはいえ、方策全体の中で方策実行委員会が主体的に対応すべき課題があることも事実です。大きな課題は教職の働き方です。改めて現状に起きている様々な課題に対応していく必要があります。またディアコニアの教会として成長していくための指針作りなども方策実行委員会として取り組む課題となっていくものだと考えています。
(2)典礼委員会の設置の件
 式文委員会による主日礼拝の式文の提案、讃美歌委員会による「教会讃美歌増補分冊1」の出版を受けて、典礼委員会の設置が提案され承認されました。
 これは現行の「教会讃美歌」の増刷が、今後、出版業界のデジタル化に伴い難しくなる方向がはっきりとしており、「教会讃美歌」をどのような形で継続的に出版していくかについての大きな方針を検討する必要に対応するものです。典礼委員会から常議員会に方針を提案頂き、それに沿った形で作業部会(式文部会・讃美歌部会)を設置し、実務を委嘱していくことになります。皆様にアンケート等でご意見を頂くこともあるものと思います。その際はご協力をよろしくお願い申し上げます。
(3)総会延期に伴う、諸委員会の調整の件
 総会の延期に伴い、総会選出の常置委員会の欠員等への対応、また常設委員会、諸委員会のメンバーの確定をいたしました。委嘱された方々には委嘱状を送付しているところです。総会延期に伴い、常議員会同様、長く任務をお願いしている方々に感謝するとともに、あと1年、総会開催まで引き続きお働きをお願い申し上げます。
 その他の事柄については、送付しております議事録にてご確認頂けますと幸いです。

22-07-01「わたしの隣人」

 彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。
ルカによる福音書10章27〜29節

 律法の専門家がイエスを試そうとして、「何をしたら永遠の生命が受けられるか」との問いかけをしますが、イエスから「律法にはなんと書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と聞き返されました。彼は間髪入れずに応えたようですが、「隣人とは誰か?」と、確かめようとする姿があります。同一民族で考えれば良いのか、律法学者仲間だけで考えれば良いのか。はたまた、ユダヤ教を信仰に持つ者で考えれば良いのか。
 私が初任地、シオン教会防府チャペル牧師館に住んでいた時、時折「〇〇に行こうとしていたが、途中でお金が尽きたので少し恵んで欲しい」「組の者から追われて広島から逃げてきた。大分の親類を頼りたいので、お金を出して欲しい」と相談に来る方がいました。とりあえず話を聞くのですが、現金を渡すのはどうかと考え、教会集会室で食事の提供をすることもあります。「大分に行きたい」と言った方には、「明日の朝、私の車で送りますよ。」と応えると、「大丈夫です、どうにかします」と言われ、すぐに敷地から走り去ってしまいました。そんな中、路上生活の方が訪ねてこられ、おにぎりを手渡す機会があったのですが、この方をきっかけに数日後に日本バプテスト連盟と日本基督教団の牧師、カトリック教会の神父の4名で路上生活の方々への支援活動が始まりました。この活動をきっかけに、同じ主に導かれ、キリストが示された愛を実現することにおいて、「困難を抱えている人、救いを求めている人がいるときに、教派的な相違は乗り越えられる」ことを確認しました。
 イエスは「隣人とは誰か?」を理解しやすいように、「善きサマリア人」の傷ついた人への対応の話をします。祭司は神殿に仕えていました。レビ人も祭司職に属し、一般の人々に律法を教える役割を果たしていました。この2人は、どちらも律法に精通し、ユダヤ民族としての誇りを強く持っていたことでしょう。しかし、彼らは「その人を見ると、道の向こう側を通っていった」のです。倒れた人に近寄って介抱したのはサマリア人。純潔、純粋民族を誇りとするユダヤ人によって、同じユダヤ人でありながら、異邦人の血が混じっているという理由で、蔑まれ、敵視されていた人々です。
 3人の行動は、「向こう側を通って行った」存在と、「近寄って」きた存在になりますが、傷ついた人に対し「向こう側」にあるのは、能動的な生き方であり、自分の言動は正しいと自信を持っている人でしょう。「近寄ってきた」サマリア人は、ユダヤ人でありながら蔑視され、傷つき苦しみを持って生きて来た人であり、自分自身を愛するようにではなく、自分が愛されたようにとの受動的な生き方をしたと考えられます。サマリア人とはアッシリアに連れられたイスラエル人の子孫であり、植民移住により強制的に混血を強いられたともいえます。その苦しみを通し、傷ついた人の痛みや辛さを知っており、自分の弱さを知るが故に、近寄る行動をとれたのです。
 シオン教会で最初の頃の私は、訪ねてこられる方への対応が、祭司やレビ人と同じ、「自分を愛するように」しか出来ていませんでした。何処かで自分の痛みとして捉えることへの恐れを抱いていたのだと思います。自分自身が傷ついてきたとき、慰められたにも関わらず、何か消化出来ていない部分が存在しました。そのような私に、路上生活をしていた方がきっかけを与えてくれたのです。私が近づいたのでなく、彼が私に近寄ってくださったのです。その瞬間、「支援しなければ」という驕った考えから、「支援させていただきます」の気持ちを大事にしたいと、変えられました。そして常に気をつけたいと思うのです。自分を正当化するのでなく、「自分のように、自分が神さまから愛されているように、私の隣人を愛するように。」

レンブラント作「善きサマリア人」(1630年作)ロンドン・ウォレス・コレクション所蔵

22-07-01るうてる2022年07月号

機関紙PDF

 「わたしの隣人」

日本福音ルーテル挙母教会・刈谷教会 牧師 室原康志

彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。
ルカによる福音書10章27〜29節

  律法の専門家がイエスを試そうとして、「何をしたら永遠の生命が受けられるか」との問いかけをしますが、イエスから「律法にはなんと書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と聞き返されました。彼は間髪入れずに応えたようですが、「隣人とは誰か?」と、確かめようとする姿があります。同一民族で考えれば良いのか、律法学者仲間だけで考えれば良いのか。はたまた、ユダヤ教を信仰に持つ者で考えれば良いのか。
 私が初任地、シオン教会防府チャペル牧師館に住んでいた時、時折「〇〇に行こうとしていたが、途中でお金が尽きたので少し恵んで欲しい」「組の者から追われて広島から逃げてきた。大分の親類を頼りたいので、お金を出して欲しい」と相談に来る方がいました。とりあえず話を聞くのですが、現金を渡すのはどうかと考え、教会集会室で食事の提供をすることもあります。「大分に行きたい」と言った方には、「明日の朝、私の車で送りますよ。」と応えると、「大丈夫です、どうにかします」と言われ、すぐに敷地から走り去ってしまいました。そんな中、路上生活の方が訪ねてこられ、おにぎりを手渡す機会があったのですが、この方をきっかけに数日後に日本バプテスト連盟と日本基督教団の牧師、カトリック教会の神父の4名で路上生活の方々への支援活動が始まりました。この活動をきっかけに、同じ主に導かれ、キリストが示された愛を実現することにおいて、「困難を抱えている人、救いを求めている人がいるときに、教派的な相違は乗り越えられる」ことを確認しました。

  イエスは「隣人とは誰か?」を理解しやすいように、「善きサマリア人」の傷ついた人への対応の話をします。祭司は神殿に仕えていました。レビ人も祭司職に属し、一般の人々に律法を教える役割を果たしていました。この2人は、どちらも律法に精通し、ユダヤ民族としての誇りを強く持っていたことでしょう。しかし、彼らは「その人を見ると、道の向こう側を通っていった」のです。倒れた人に近寄って介抱したのはサマリア人。純潔、純粋民族を誇りとするユダヤ人によって、同じユダヤ人でありながら、異邦人の血が混じっているという理由で、蔑まれ、敵視されていた人々です。

  3人の行動は、「向こう側を通って行った」存在と、「近寄って」きた存在になりますが、傷ついた人に対し「向こう側」にあるのは、能動的な生き方であり、自分の言動は正しいと自信を持っている人でしょう。「近寄ってきた」サマリア人は、ユダヤ人でありながら蔑視され、傷つき苦しみを持って生きて来た人であり、自分自身を愛するようにではなく、自分が愛されたようにとの受動的な生き方をしたと考えられます。サマリア人とはアッシリアに連れられたイスラエル人の子孫であり、植民移住により強制的に混血を強いられたともいえます。その苦しみを通し、傷ついた人の痛みや辛さを知っており、自分の弱さを知るが故に、近寄る行動をとれたのです。

  シオン教会で最初の頃の私は、訪ねてこられる方への対応が、祭司やレビ人と同じ、「自分を愛するように」しか出来ていませんでした。何処かで自分の痛みとして捉えることへの恐れを抱いていたのだと思います。自分自身が傷ついてきたとき、慰められたにも関わらず、何か消化出来ていない部分が存在しました。そのような私に、路上生活をしていた方がきっかけを与えてくれたのです。私が近づいたのでなく、彼が私に近寄ってくださったのです。その瞬間、「支援しなければ」という驕った考えから、「支援させていただきます」の気持ちを大事にしたいと、変えられました。そして常に気をつけたいと思うのです。自分を正当化するのでなく、「自分のように、自分が神さまから愛されているように、私の隣人を愛するように。」

エッセイ「命のことば」 伊藤早奈

㉘「一人ではない」

「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」
(1コリント10・13)

 「検査の結果は何の病気でしたか?」そう聞いた私に〇〇だったわ。とその方は平気に答えられました。えっ大変な病気なのに。その方は今回わかった病気の前に違う病気を長年患っておられました。私と同じ様な経験をされておられるんだと思った時、私にとって、もうその方はとても身近に思えました。私も昔病気がわかった時はとても苦しみましたが最近患った一般的には大病と言われる病気の診断を受けた時はそんなに苦しみませんでした。もう一人そのような人がいました。二つの病気を比べたわけではありません。一つ目の病気を乗り越えられたか乗り越えようとしているのかもしれません。
 ある人は「初めの病気を診断された時の方がショックだった。」と言われました。私もショックの中イエス様が共におられたから乗り越えられそうだと思います。私の表現を使えば「イエス様が共におられるから」と言えますが他の方の表現では色々な言葉で表現されるでしょう。
 病気の種類の比較ではなく、一人一人の経験です。一つ一つの経験という出会いの中でも必ずイエス様は共におられます。あなたは決して一人ではありません。

議長室から 大柴譲治

「小川修パウロ書簡講義録」(全10巻、リトン)完結

 同僚たちと関わってきた仕事が一つ、4月に終わりました。神学校での恩師・小川修先生(1940〜2011)が同志社大学で行ったパウロ書簡講義録を録音から起こす作業が完結したのです。11年がかかりました。走馬灯のように思い出が去来します。ガンで召された先生の納骨を小平霊園で行う最中、あの東日本大震災が起こります。ご遺族の許可を得て那須のご自宅に資料発掘に行きました。全体を10巻に分け、ご遺族の援助の下で出版が始まります。4人で始めた作業は結局7人のコラボレーションになり、各巻の巻末には関係者から貴重な文章が寄せられました。出版はローマ書3巻、コリント書3巻、論文集2巻、ガラテヤ書2巻という順でしたが、最初から最後までリトンの大石昌孝さんにはお世話になりました。
 この10巻には小川先生が50年をかけて読み解いてきたパウロの「ピスティス」理解が息づいています。天地が揺れ動こうとも決して揺らがないもの、それが「神の〈まこと(ピスティス)〉」。「ピスティス」というギリシャ語は通常「信仰」と訳されますが、先生はそれを〈まこと〉と訳し、「第一義の〈まこと〉」と「第二義の〈まこと〉」を峻別するのです。神がご自身の〈まこと(ピスティス)〉をもって私たち人間に呼びかけ、私たちは自らの〈まこと(ピスティス)〉をもって神に応答する。イニシアティブは常に神の側にある。それは滝沢克己氏の「インマヌエル」とも響き合っています。パウロはローマ1・17で「ピスティスからピスティスへ」と書きますが、先生は最初のピスティスを神のもの、第二のそれを人間のものと読み解く。新共同訳聖書では曖昧だったのが聖書協会共同訳では明確になりました。「神の義が、福音の内に、真実により信仰へと啓示されているからです」。

 1980年にルーテル神大(当時)に編入した私は先生の「宗教哲学」の講義に出会います。最初の2年はバルトの『ローマ書』、私には難しいものでした。82年の講義「現代日本のイエス・キリスト研究の検討」に目が開かれます。それはブルトマンの『イエス』、八木誠一の『イエス』、荒井献の『イエスとその時代』、田川建三の『イエスという男』、滝沢克己の『聖書のイエスと現代の思惟』を比較検討する意欲的な講義でした。聖書は読む者の心を映し出す鏡であることを悟ることになったのです。同時に「説教者」として私は、自己の思い込みを聖書に投影するのではなく聖書自体に語らしめることが肝要と知りました。「僕は間違っているかもしれませんよ。君たちは自分で聖書に当たってください」と繰り返された先生の声が私の耳に今でも残っています。

「教会讃美歌 増補」 解説

㉕創作賛美歌解説5 増補29番「主にある友よ」
日笠山太吉(博多教会)

 「ひととき、お怒りになっても/命を得させることを御旨としてくださる。/泣きながら夜を過ごす人にも/喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。」(詩編30・6)この詩人の感謝に、私は深い祈りを重ねます。急ぎ足でやって来る老いの歩みの中で、生かされている感謝と共に、自らの反省・悔いがあります。それは、若い時しっかりと聖書と向き合うべきだったということです。若い方々よ!スポーツも音楽も旅行も恋も良し。青春を謳歌しながらも「人生の灯台」・聖書を座右の銘とされることを祈ります。春夏秋冬、花咲く時、嵐の日、雪の夕べが人生の旅路。こんな節目で声をかけ励ましてくれるのが、家族・教会の主にある友です。少年易老学難成です。
 礼拝で牧師が語るみ言葉に耳を傾け、青年会やキャンプ等、教会にあなた方の声を響かせてください。そして願わくば、ルーテル学院大学・日本ルーテル神学校をノックしてみてください。きっと手応えある応答があります。
 若い方々への希望と祈りを重ねた拙詩に萩森英明氏が心優しい曲を、日田教会の秋山菜穂さんがイラスト、お母さんの真由美さんがちぎり絵でイメージしてくださり感謝です。

増補40番「ひざまずけば」
西川知世(日本ルーテル教団東京ルーテルセンター教会)

 

 ある日、教会讃美歌委員の安藤政泰先生に呼ばれ、小さな譜面を教会で渡されました。教会讃美歌の増補に子どもの洗礼式の賛美歌を加えたいと熱心に話され、私が持ち帰ったのがこの作品の生まれるきっかけです。私は子どもを持ちませんので、子ども賛美歌を作詞することに躊躇と不安がありましたが、教会で子どもたちの洗礼式にたびたび立ち会いともに祈る機会を与えられていました。また、譜面も読めない者ですので不安でしたが、立ち会った子どもたちの洗礼式の様子を思い浮かべ、洗礼盤の前に立つ一人一人の子どもたちの真剣な背中に深い感銘を受けたことが拠り所となりました。洗礼式の子どもたちと、その場に立ち会う大人たちの祈りを籠めることが出来ればと願いました。安藤先生、西川亜季さんのお力でこの作品が出来上がりました。携わられた多くの皆様の力で生まれた歌と感謝します。

世界の教会の声

浅野直樹Sr(世界宣教主事 市ヶ谷教会・スオミ教会牧師)

「命の木の下に」 ~他宗教との集い~

 去る5月16日、「命の木に集う」をテーマにルター派とユダヤ教の神学者によるLWF主催のウェビナーが行われました。「命の木」とは、創世記2章に出てくる善悪の知識の木といっしょに神が創造したもう1本の木です。
 LWFは1947年の創立当初からユダヤ教社会との対話を続けていますが、これはマルティン・ルターが反ユダヤ的な文書を書いたという経緯があるからです。新型コロナウイルスの世界的大流行を契機に、欧米社会では反ユダヤ主義的な陰謀論が広がりました。ウェビナーで交わされたユダヤ教とルター派それぞれからのコメントをいくつか紹介します。ウェビナー出席者は、ルター派からはLWFや神学校、大学の教師たち、ユダヤ教側はラビや神学校教師たちです。
「ヨーロッパやアメリカでは難民や移民が増えたことでいろんな宗教が社会で存在感をもつようになり、いかに平和を保ちつつ共存するかはかつてないほど喫緊の課題となっています。反ユダヤ、反イスラム、反キリスト教主義の主張は、ときに暴力までをも正当化してしまいますが、それに対抗する手立ては謙遜、そして正直な態度でお互いの声を聞き話しあうことです。」(LWF神学・宣教・正義部門長、エバ・クリスチナ・ニルソン)
「異なる宗教間で誠実に向き合う際に必要な三つの原則があります。⑴他者自身が自らを定義すること。⑵自分たちの伝統の中の最良だと思うものを他者の良くない点と比較しないこと。⑶相手の中にうらやましいと思うことを見いだすこと、です。」(エバ・クリスチナ・ニルソン)
「米国ワシントン州にいた10代の頃、ルター派の友人との交流があり、友情、善意、尊敬を分かち合うことができました。双方の両親が、開かれた心をもって相手をもっと知ることを教えてくれたからそうできたのです。」(カナダのラビ、ジョセフ・カノフスキー)
「各宗教の指導者にお願いします。命の木の下に人々を集めてください。憎しみと争いに満ちた時代だからこそ、ここに集って尊敬と友愛の大切さを教え、希望を描いてください。そうした働きをするリーダーを育てることが最大の課題です。」(ラビ、タマル・エラド=アップルバウム)
 タマル氏は、彼女自身がユダヤ教社会で育ったためにキリスト者とのかかわりがまったくなかったことに触れて、次のようにもコメントしています。「ラビとしての最重要の務めは、公的な子育て(public parenting)のモデルを新たに作り、憎悪と分裂の歴史に終止符を打てるよう人々を導くこと。私たちが命の木をお世話する園丁の役目をはたすことです。」
「ルター派的な考え方や説教には反ユダヤ的な神学が根深くあり、このことは現代でも神学的な課題となっています。ただその一方で、教会内では反省や自己批判も高まっていて、地方の教会でもユダヤ教徒、キリスト者、イスラム教徒、仏教徒らが集まって、反ユダヤ主義をはじめ人種差別や宗教差別と戦っています」。(ルンド大学、ヤコブ・ウィレン)
「過去数十年、ユダヤ教徒とキリスト教徒の対話はめざましく進展しましたが、大学や神学校のカリキュラムのさらなる充実を期待したいです。多くのユダヤ人はルターのことを著作で知っている程度です。今日まで積み上げられてきた友好関係には気づいていません。ユダヤ教側からキリスト者のことをもっと知ろうとするべきです。またキリスト教側からも、たとえばファリサイ派などの指導者を否定的に見ていることに気づいてほしいです」。(ラビ、ダビド・サンドメル)
「ルター派信徒はこれまでの学びから、反ユダヤ主義の根深さと複雑さに衝撃を受けてきました。過去を見直し、もう一度神学を練り直して関係改善をすること、そこからしっかりした信頼できるネットワークをつくることが必要です。」(シカゴルーテル神学校、エスター・メン)
「宗教間対話と関係作りを国際レベルで行うだけでなく、世代間でも起こしていくべきです。相手を敬い相手から学ぶことを親から子へ家庭で教えてほしいです。対話することこそ未来へ向けての希望の種を蒔けるのです」。(ラビ、ジョシュ・スタンドン)

 

 ※詳細についてはWEBサイトをご参考ください。

エキュメニカルな交わりから

 

④NCC青年委員会 安田真由子(都南教会)・高村敏浩(三鷹教会・羽村教会牧師)

 

 日本キリスト教協議会(NCC)の青年委員会には、現在安田真由子(都南教会)と高村敏浩(三鷹教会・羽村教会牧師)が委員として関わっています。
 NCC青年委員会は自分たちを「青年の事についてあれこれいろいろ考えて、やれる事を共に色々やってみようとしている繋がり」と定義し活動しています。現在活動を担っているのは、日本聖公会、日本基督教団、日本バプテスト連盟、ウェスレー財団、そして私たち日本福音ルーテル教会からの委員であり、信徒と牧師がほぼ半々の割合の構成となっています。以前は、年に2・3度の頻度で何かしらのテーマのもとで集まり、食事と交流を伴う「エキュメニカルユースの集い」を行っていました。しかし、コロナ禍の現在は、それぞれの教派でどのような活動を行っているのかなどといった情報交換や、コロナ禍での苦労や課題を分かち合ったりして、繋がりのヒントを提供するオンラインでのイベントが中心となっています。
 オンラインでの授業などに疲れた青年にはアピールする力が弱いことは否めませんが、それでも、オンラインになったことで、これまで首都圏に住んでいなければ参加できなかったイベントに、各地からの参加者が加わったことは大きな、そして前向きな変化です。こうしてできたつながりを、ウィズコロナ、ポストコロナにどのようにつなげ、また活かして行くことができるかということが、これからの課題となります。
 もう一つ特筆すべき活動として、青年委員会は、昨年夏にNCC内で発足した「ジェンダー正義に関するポリシー策定のためのワーキング・グループ」(以下WG)と共同でジェンダー正義に関する方針を考え、文書化する働きを担っています。
 性差別などの問題は昨今、社会の様々なところで取り組まれるようになってきましたが、教会にとってこれは神の正義の実現の問題でもあります。あらゆる性別の人(男女だけでなく、ノンバイナリーやXジェンダーなど)は神の似姿につくられ、人間らしく扱われる権利があるはずですが、現状は残念ながらそうではありません。社会においても教会においても、性別やセクシュアリティを理由に差別、抑圧に直面する人は少なくありません。ですが、神は虐げられ、抑圧されている人々とともにおられる神ですから、ジェンダー正義は教会が真剣に取り組むべき正義の問題なのです。
 現在、青年委員会からは安田を含む2名がWGの定例ミーティングに参加しています。ミーティングでは、諸外国の教会でつくられたジェンダー正義ポリシーを読み、学んでいます。今後は、青年委員会からの代表2名とWGの他のメンバーでポリシーの草案を作り、できあがったものを青年委員会全体で見直していきます。ジェンダーの問題は、年齢に関係なく重要ですが、若い世代の意見や感覚をこれからの教会のありかたに反映させることもまた大事なことだからです。

社会委員会リレーコラム 「本・出会い・教会」②

佐伯里英子(シオン教会)

  「乙女峠」は、山口市の我が家から60㎞余の島根県津和野町にある。私は、ドライブで数回訪れている。今年も訪れて本書を購読し、改めてキリスト教信者の凄まじい信仰と殉教の真実を知った。なぜ、このような小都市でここまで悲惨な出来事が起きたのか、100頁に満たない本書に多くの証言が残されている。
 江戸末期に締結された「日米修好通商条約」は、信教の自由について触れている。開国後、浦上の信者は仏教徒を装うことをやめ、キリスト教徒であることを公にするようになった。明治改元の前年幕府は、信者拡大に危機を感じ、長崎で大々的な信者取り締まりをした。(浦上四番崩れ)ここで捉えた信者のうち3414人が西日本の各藩に送られた。津和野は小藩にもかかわらず、リーダー格を含めた153人の信者を受け入れ「乙女峠」に移した。信者たちは役人から改宗を迫られ、従わない者には残酷な拷問が加えられた。三尺牢に監禁、放置された安太郎は「九つ(12時)になると毎夜青い布を纏ったマリア様がお話をしに来てくださるので淋しゅうありません。」と語っている。雪の中、裸で十字架に縛られ人目に晒され、地面に捨て置かれた祐次郎は、十字架のイエスを思い、辱めを甘んじて受ける恵みを祈った。各藩に送られた3414人のうち1022人が転宗を申し出、664人が亡くなった。本書は、永井隆(被爆した放射線研究者)が、生き延びて長崎に帰った信者から聞き取とったものであり、彼の絶筆とも言える。
 閉鎖的な状況で権威者に指示されれば、人は弱者に対して限りなく残酷になり得るというアイヒマン実験を思い起こす。今、ウクライナで起きていることも重なる。
 私たちは歴史から何を学ぶのか。

ルター研究所「牧師のためのルター・セミナー」報告

宮本新(ルーテル学院大学・日本ルーテル神学校専任講師)

 

  2022年5月30〜31日、「牧師のためのルター・セミナー」がオンラインで開催された。テーマは「コロナとウクライナの時代~ルターが今、この時代に生きていたら」。21世紀の今、感染と戦争という二つの現実が目の前にあるが今回のセミナではこれらについて学びまた話し合う機会となった。
 「コロナとウクライナの時代」は世界大の問題ではあるが、セミナーではこれを考えるためにもうひとつ、ルター/ルーテルという観点を据えている。自らに託された教会と宣教の課題を踏まえ等身大で考える足場になると考えたからだ。
 初日ではまず、ルターの戦争文書として知られる『軍人もまた救われるか』と『トルコ人に対する戦争』について、高村敏浩牧師と立山忠浩牧師からそれぞれ研究発表があった。つづいて多田哲牧師からは「東方教会とウクライナ」について発題があった。いずれも今日の私たちに馴染みがある事々ではないが、今知りたいことを聞いて学ぶ機会となった。
 セミナー2日目は江口所長から「戦争~ルターとボンヘッファー」と題する発題講演。ルター研ならではの切り口から、こんにちのキリスト者が考えうる信仰上の構えについて考える機会となった。牧師先生方とも活発なディスカッションの時が持たれることとなった。その他セミナーではウクライナから避難する人たちを支援するルーテル世界連盟の動向についてレポートもあった。
 2日間を通じて牧師、引退教師、そして神学生など40名前後の参加者があり、あらためてこれらの主題への関心の高さが感じられた。そしてもう一つ。これらが世界大の問題であることにかわりはないが、各地で担われ取り組まれている牧会と教会の宣教、そこで重ねられている祈りもまた、これらの問題と有形無形につながっていることが全体協議の折々に感じられた。脱原発問題の取り組みや平和活動、また地域のディアコニアの活動、またたえず祈りの手をあわせ「忘れない」こと…こうした取り組みもまたセミナーで一緒に考える機会となり意義深いひと時になった。このような継続した学びへの期待と課題について意見交換もされてセミナーは終了した。
 なお、当日の発題はルター研紀要・ルター新聞などに掲載予定である。

カトリック第16回「シノドス」総会に向けての日本福音ルーテル教会からの応答①

 カトリック教会において行われるシノドス(Synodus Episcoporum/世界代表司教会議)は、提起された問題を討議し、教皇に意見を具申することを目的に第2バチカン公会議の後、1965年から設置されました。
 2023年10月ローマで、第16回シノドス総会が「ともに歩む教会のために―交わりと参加、そして宣教―」というテーマで開催されるにあたり、教皇フランシスコから世界のカトリック教会に対して、この主題について話し合い、応答することが呼びかけられました。その中には各地でのエキュメニカルな協力についての問いかけもあり、日本カトリック司教協議会から、日本福音ルーテル教会、日本聖公会、日本キリスト教協議会に対して、協力が呼びかけられることとなりました。
 日本福音ルーテル教会では、エキュメニズム委員会を中心に第16回シノドスへの応答文書を作成しました。これは日本聖公会・日本キリスト教協議会からの応答と共に7月21日に行われる日本カトリック司教協議会臨時総会で協議されます。
 以下、日本福音ルーテル教会からの応答文書を数回に分けて紹介いたします。

2022年6月7日
第16回シノドス
(世界代表司教会議)総会からの呼びかけへの応答

日本福音ルーテル教会
エキュメニズム委員会

 このたび日本カトリック司教協議会からの第16回シノドス総会に向けた呼びかけを心から感謝申し上げます。特に『第16回シノドス総会のための質問項目』に記載されている内容は、日本福音ルーテル教会におきましても宣教を考える上で重要な示唆を与えられるものでした。
 日本福音ルーテル教会エキュメニズム委員会は、この呼びかけに以下にように応答いたします。

1『キリスト者の自由』

 シノドスの目指す教会の姿を受け取る時、私たちはルターが1520年に著した『キリスト者の自由』の有名な二つの命題を思い起こしました。
「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない」
「キリスト者はすべてのものに奉仕する僕であって、何人にも従属する」
 第一の命題は、神の恵みによって義とされ救われたがゆえに、キリスト者は自由であるということです。しかし、ここで問題にしたいのは、第二の命題です。ルターはこう語ります。「なぜなら、人間はこの地上においては、身体をもって生きているばかりでなく、他の人々の間でも生きているからである。それゆえ、人間は他の人々に対して行ないなしでいることはできないし、行ないが義や救いのために必要でないとしても、他の人々と話したり、かかわりをもったりしないわけにはいかない。だからこれらすべての行ないにおいては、…その行ないをもって他の人々に仕え、役に立とうという方向にだけ向けられていなくてはならない。つまり、他の人々に必要なこと以外は考えないわけである。」(第26節)。
 加えて「さてキリスト者はまったく自由なのであるが、自分の隣人を助けるために、かえって喜んで自らを僕とし、神がキリストをとおして自分とかかわってくださったとおりに、隣人と交わり、またかかわるべきである。…すなわち、まことに私の神は、まったく価値のない、罪に定められた人間である私に、なんの功績もなしにまったく無代価で、純粋の憐れみから、キリストをとおし、キリストにおいて、すべての義と救いのみちみちた富を与えてくださった。…そこで、キリストが私に対してなってくださったように、私もまた私の隣人のために一人のキリストとなろう。」(第27節)。(注1)
 「わたしもまたわたしの隣人のために一人のキリストとなろう」、このルターの信仰告白は宗教改革500年を迎えた日本福音ルーテル教会にとって大きな使信であり、同時に課題となっています。そして今、この課題に対して、日本のすべてのキリスト教会においても具体的に手を取り合って向き合っていく時(カイロス)が到来したものと考えます。

(注1)訳文は、『キリスト者の自由』を読む』(ルター研究所編著、リトン)所収の訳文によった(ただし、一部変更)。
(以下次号につづく)

2022年度「日本福音ルーテル教会教師試験」について

 2022年度「日本福音ルーテル教会教師試験」を左記要領にて実施いたします。教師志願者は必要書類を整え、教会事務局にご提出くださいますよう、お知らせします。

     記

〈提出書類〉
◇教師志願書
◇志願理由書
テーマ「なぜ『日本福音ルーテル教会の教師』を志願するのか」
書式 A4横書き2枚 フォントサイズ11ポイント
◇履歴書(学歴、職歴、信仰歴、家庭状況等を記入すること)
◇教籍謄本(所属教会教籍簿の写し)
◇成年被後見人または被保佐人として登記されていないことの証明書(法務局交付のもの。任用試験時に必要になります)
◇所属教会牧師の推薦書
◇神学校卒業(見込)証明書及び推薦書
◇健康診断書(事務局に所定の用紙があります)

〈提出先〉
日本福音ルーテル教会
常議員会長 大柴譲治宛

〈提出期限(期限厳守)〉
2022年9月16日(金)午後4時までに教会事務局へ提出すること(郵送の場合は必着とします)

◇個人で神学の研鑽を積み受験を希望する者は、必ず神学教育委員会の推薦を得ること
◇国外のルーテル教会の神学機関に学び神学修士を持ち受験する者は、願書提出前に事務局に相談すること

〈試験日及び試験内容〉
志願者本人に直接連絡します。

留学生公募のお知らせ

 神学校と協議を行い、ドイツにおいてルター神学を学ぶ意欲のある方を、「留学制度に関する規定」第3条2項(2号留学)によって一名募集いたします。留学期間は2年間になります。応募締切は8月末日といたします。提出書類等、詳しくは事務局までお問い合わせください。なお複数名の応募があった場合は、日本福音ルーテル教会内での審査を行い該当者を決定いたします。またこの留学はNCCドイツ語圏教会関係委員会の公募する留学制度を利用して派遣するものです。この委員会の行う試験等に合格することが前提となりますので、ご承知おきください。

公 告

 この度左記の行為を致しますので、宗教法人法第23条の規定に基づき公告致します。
2022年7月15日
宗教法人日本福音ルーテル教会
代表役員 大柴譲治

信徒利害関係人 各位

小田原教会牧師館解体
所在地 小田原市鴨宮字稲荷森
所有者 日本福音ルーテル教会
地番 783番
種類 教職舎
構造 スレート葺2階建
床面積 
 1階 46・26㎡
 2階 34・70㎡
理由 老朽化のため

22-06-01「友と呼ぶ―信仰の継承」

「わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」
ヨハネによる福音書15章15節

 今年の聖霊降臨(ペンテコステ)は、どんな風が吹くのでしょうか。世界を取り巻く環境や身近なところにおいて、疫病も戦渦もなくしてほしいと願っている人は多くおられます。そのなかで、私たちは聖霊の息吹きに希望をいだいています。
 この数ヶ月、私たちの教会や幼稚園・保育園において「キリエ・エレイソン/主よ、あわれみを」(『こどもさんびか改訂版』27番/曲・ウクライナ民謡)の短い賛美をくり返し歌い続けています。そして、東方正教会でもちいるイコン(挿絵参照)も飾り、心に留めています。子どもたちから「このクリクリお目々のふたりはだあれ?」と聞かれます。「イエスさま(右)とメナスさん(左)だよ」と話しました…。
 このイコンに私が出会ったのは、以前ショートターム研修(ELCA主催)に単身で訪れたフランスのテゼ共同体でした。創立者ブラザー・ロジェ(1915〜2005)が特に心にかけていたイコンで「和解の教会」の礼拝堂に飾られています。学びのなかで気づかされたことの一つは「信仰の継承」です。ロジェに大きな影響を与えたのは、第一次世界大戦中、難民を次々と家に迎え入れていた祖母の生き方でした。彼女はキリスト者がいくつもの派に分かれて武器をとり戦っていることを憂い、キリスト者だけでも和解することが出来れば次の戦争を防げるのではないか、と思い描きます。プロテスタントに立脚しながらカトリックの人々と聖書を学び、そして改革派の牧師のロジェの父も祈りを共にしました。ロジェは、超教派(エキュメニカル)の修道会の構想をいだきます。彼もまた第二次世界対戦で戦禍を逃れてきた人々を迎え入れ、その中のロシア難民との出会いで霊性に強い関心をよせます。これらのテゼのビジョンに共鳴したのが東方正教会のコンスタンティノープル総主教アテナゴラスで、正教会内にもう一つのテゼ共同体を創立したいと願い出ました。ロジェは本来の一致への歩みとは異なることを丁寧に説明し、修道士の派遣を要請して創造的な交流を深めました。この流れなかでロシア正教会のひとりの若い神学生がテゼを訪問します。後に彼は神学校の校長、府主教となり、この人物、キリル府主教はテゼに関心を向け再訪し、ロジェの後のテゼを継いだブラザー・アロイス現院長もモスクワに招待します。2009年彼はモスクワ総主教となり、エキュメニズムに関しての展望、ロシアの青年たちへの司牧などについて会合を開きました。今この時に、もう一度それぞれに受け継がれた互いの信仰が交わるよう願い求めたいのです。
 挿し絵のイコンは「友情のイコン」(Icon of friendship)と称されます。子どもたちには…メナスさんは、ローマ帝国の軍人だったのだけれど、ある時国からイエスさまを信じてはダメと言われて立ち止まった。武 器を捨て軍隊をやめんだ。その後、捕らえられてしまったけど、メナスさんの横にはイエスさまがおられる。よく見ればイエスさまの右手がメナスさんの肩を抱いている。そしてイコンの裏には、ロシア語(キリル文字)で「わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」と聖句が書かれているよ。イエスさまは、世界のお友だちとも肩を組み「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ15・17)と言われたいのだね。いっしょに前を見つめながら…と伝えています(詳細はYouTube「ルーテル箱崎教会」こどもへのおはなし)。
 眼前の戦乱に、いち早く動いたテゼ共同体は宿を構えウクライナからスペイン、ポルトガルなどへ逃れていく人たちをコーディネートしています。テゼに関係の深いロシアにいる友は和平を望む声を総主教に働きかけています。またロシアの青年に対して積極的にテゼを訪れてほしいと呼びかけています。表立って目に映るニュースになりませんが、無力ではありません。聖霊の力は、かつて和解の歴史をつくり、今なお私たちを突き動かします。聖霊降臨(ペンテコステ)を迎える時、主は友と呼ぶ私たちに、余すことなくすべて御心を知らせるのです。

1面説教和田憲明2022年6月号図版「友情のイコン「キリストと修道院長メナ」(8世紀、ルーブル美術館所蔵)」

22-06-01るうてる2022年06月号

機関紙PDF

 「友と呼ぶ―信仰の継承」

日本福音ルーテル箱崎教会・聖ペテロ教会・二日市教会・長崎教会 牧師 和田憲明

「わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」
ヨハネによる福音書15章15節

 今年の聖霊降臨(ペンテコステ)は、どんな風が吹くのでしょうか。世界を取り巻く環境や身近なところにおいて、疫病も戦渦もなくしてほしいと願っている人は多くおられます。そのなかで、私たちは聖霊の息吹きに希望をいだいています。
 この数ヶ月、私たちの教会や幼稚園・保育園において「キリエ・エレイソン/主よ、あわれみを」(『こどもさんびか改訂版』27番/曲・ウクライナ民謡)の短い賛美をくり返し歌い続けています。そして、東方正教会でもちいるイコン(挿絵参照)も飾り、心に留めています。子どもたちから「このクリクリお目々のふたりはだあれ?」と聞かれます。「イエスさま(右)とメナスさん(左)だよ」と話しました…。

 このイコンに私が出会ったのは、以前ショートターム研修(ELCA主催)に単身で訪れたフランスのテゼ共同体でした。創立者ブラザー・ロジェ(1915〜2005)が特に心にかけていたイコンで「和解の教会」の礼拝堂に飾られています。学びのなかで気づかされたことの一つは「信仰の継承」です。ロジェに大きな影響を与えたのは、第一次世界大戦中、難民を次々と家に迎え入れていた祖母の生き方でした。彼女はキリスト者がいくつもの派に分かれて武器をとり戦っていることを憂い、キリスト者だけでも和解することが出来れば次の戦争を防げるのではないか、と思い描きます。プロテスタントに立脚しながらカトリックの人々と聖書を学び、そして改革派の牧師のロジェの父も祈りを共にしました。ロジェは、超教派(エキュメニカル)の修道会の構想をいだきます。彼もまた第二次世界対戦で戦禍を逃れてきた人々を迎え入れ、その中のロシア難民との出会いで霊性に強い関心をよせます。これらのテゼのビジョンに共鳴したのが東方正教会のコンスタンティノープル総主教アテナゴラスで、正教会内にもう一つのテゼ共同体を創立したいと願い出ました。ロジェは本来の一致への歩みとは異なることを丁寧に説明し、修道士の派遣を要請して創造的な交流を深めました。この流れなかでロシア正教会のひとりの若い神学生がテゼを訪問します。後に彼は神学校の校長、府主教となり、この人物、キリル府主教はテゼに関心を向け再訪し、ロジェの後のテゼを継いだブラザー・アロイス現院長もモスクワに招待します。2009年彼はモスクワ総主教となり、エキュメニズムに関しての展望、ロシアの青年たちへの司牧などについて会合を開きました。今この時に、もう一度それぞれに受け継がれた互いの信仰が交わるよう願い求めたいのです。

 挿し絵のイコンは「友情のイコン」(Icon of friendship)と称されます。子どもたちには…メナスさんは、ローマ帝国の軍人だったのだけれど、ある時国からイエスさまを信じてはダメと言われて立ち止まった。武 器を捨て軍隊をやめんだ。その後、捕らえられてしまったけど、メナスさんの横にはイエスさまがおられる。よく見ればイエスさまの右手がメナスさんの肩を抱いている。そしてイコンの裏には、ロシア語(キリル文字)で「わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」と聖句が書かれているよ。イエスさまは、世界のお友だちとも肩を組み「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ15・17)と言われたいのだね。いっしょに前を見つめながら…と伝えています(詳細はYouTube「ルーテル箱崎教会」こどもへのおはなし)。

 眼前の戦乱に、いち早く動いたテゼ共同体は宿を構えウクライナからスペイン、ポルトガルなどへ逃れていく人たちをコーディネートしています。テゼに関係の深いロシアにいる友は和平を望む声を総主教に働きかけています。またロシアの青年に対して積極的にテゼを訪れてほしいと呼びかけています。表立って目に映るニュースになりませんが、無力ではありません。聖霊の力は、かつて和解の歴史をつくり、今なお私たちを突き動かします。聖霊降臨(ペンテコステ)を迎える時、主は友と呼ぶ私たちに、余すことなくすべて御心を知らせるのです。

エッセイ「命のことば」 伊藤早奈

㉗「主われを愛す」

「ひととき、お怒りになっても/命を得させることを御旨としてくださる。/泣きながら夜を過ごす人にも/喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。」(詩編30・6)

「先生おはようございます。一緒に歌いましょう」とその方は私が施設に来るのをいつもいつも楽譜を手にして待っておられました。そして必ず歌うのは私がコピーした賛美歌の「主われを愛す」でした。その方は100歳近い方で、幼い頃毎週のように宣教師が行う集会で歌っておられたそうです。本当は宣教師の方から配られる手作りの美味しいお菓子が目的だったと笑っていました。
 まさか今になってこの歌を歌えるなんてと喜ばれていました。
 あっそうかいつも一緒だもんね。と不思議なくらいわかったような気がしました。
 その方がクリスチャンであったのかそうではなかったのかはわかりません。ただわかっているのはその方がクリスチャンであってもなくても神様が寄り添ってその方と共に歩まれて今があることです。
 「まさか今」ということがあります。神様があなたを驚かせたいのではなくて神様はただあなたといつも共に歩まれてくださいます。あなたがそれを忘れているだけです。「あっ神様おられたんですね。」とあなたが神様を思い出す時いつも神様は「あなたを待っている。お帰りなさい。」と喜んでくださいます。

議長室から 大柴譲治

「メタ認知」と「メタノイア」

「命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。」(創世記45・5b)

 2月20日(日)の第一日課は創世記45章でした。兄たちの嫉妬により奴隷としてエジプトに売られたヨセフ。彼は天賦の夢解き能力を発揮しその宰相にまで登りつめてゆく。長引く飢饉の中で食料を求め、父ヤコブによってエジプトに派遣された兄たち。彼らとの再会を通してそこに和解がもたらされてゆくというヨセフ物語の白眉とも呼べる場面でした。
 ヨセフは自分が奴隷として売られたことの中に神の御心があるとは思いもしなかったことでしょう。期せずして兄たちに再会した時、彼は過去を思い出して怒りを抑えられなかったのではないかと思います(創42・7)。しかしヨセフは3度涙を流すのです(創42・24、43・30、45・2)。その3度の涙によってヨセフの目からはウロコが落ち、それまでは曇って見えなかった神の御心がハッキリ見えるようになる。神ご自身がこのために自分をエジプトに派遣されたのだと。
 自己を超えた視点から自身を見つめることを「メタ認知」と呼びます。鏡に写る姿が自分であることを知るにはこのメタ認知能力が必要となります。チンパンジーやオランウータン、イルカやヒトなど限られた動物にその能力は備えられているそうですが、イヌやネコなどはその力を持たないために鏡に写った自分を別の個体としか認識できないと言われます。人間でもある年齢にならなければそれが自分の姿だとは分かりません。ちなみに「メタ」という語はギリシャ語で「超越」を意味します。例えば「メタフィジクス」とは身体性や物質性を超えるところから「形而上学」と日本語に訳されます。
 ヨセフは兄たちとの再会を通して神が自分に与えた使命を知ることができました。それは神の備えられた「和解の時」でもありました。そこに至るために彼は辛く長いトンネルを通らなければならなかった。日毎のCOVID-19やウクライナ危機の報道に接し私たちは断腸の思いを持ちます。一日も早く地上に平和と和解が回復されるよう切に祈ります。
 私たちにとって大切な瞬間は常に水の中から始まります。母の胎内では羊水において、罪からの解放は悔い改めの涙において、新しい人生は主の洗礼において。神の御心に心の目が開かれるというメタ認知の視点は私の中では「メタノイア」(悔い改め)と重なります。ギリシャ語で「ノエオー」は「認識」を意味するからです。「認識を超越する」という神の視点によって私たちは涙と共に新たにされてゆく。「涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。」(詩126・5)のです。

「教会讃美歌 増補」 解説

㉔創作賛美歌解説4
友枝久美子
(二日市教会)

増補27番「イエスさま 名前」

 以前所属していた教会の日曜学校の生徒さん(当時は幼稚園児で、ともえさんというお名前でした)のために作った曲です。悲しいとき、淋しいとき、イエス様のお名前を呼んでみたくなることがあります。お名前を呼ぶだけで、イエス様がいつも一緒にいてくださることが感じられて、心が温かくなります。つらいことも、楽しいことも、全部イエス様にお話ししたくなります。そんな気持ちを歌にしてみました。

増補32番「苦しみも重荷も」
 

 この曲は、最初、全く違う曲でした。讃美歌委員会の方から、歌詞の前半と後半を入れ替えて、それに合った曲にしてください、とのお知らせをいただき、作った曲です。思い切って、歌詞に寄り添って、短調から長調へと移る曲にしてみました。もとの曲は、長調の元気の良い曲で、曲想はとても気に入っているのですが、もともとの歌詞がなくなってしまったので、その曲には新しく、詩編の言葉をアレンジして歌詞とし、「詩編歌」として再生を試みました。

増補35番「イエス様 わたしを見つめてください」

  以前所属していた教会で、同じオルガニストとしてお世話になった方のために作った曲です。その方の柔らかい、優しい雰囲気を、3拍子の曲で表現してみました。その方が、当時悩んでおられたことを知って、少しでも慰めになりますように、という願いを込めて作りました。どんな苦しい状況のもとでも、イエス様に見つめていただいているということが、生きていく力になるのではないか、と思います。

世界の教会の声

浅野直樹Sr(世界宣教主事 市ヶ谷教会・スオミ教会牧師)

LWFのウクライナ難民支援

 ロシアがウクライナに侵攻して以来、LWF(ルーテル世界連盟)は現地で救援活動をするLWF加盟教会をサポートするためチームを結成し、支援態勢を強化しています。近隣諸国の5教会との協議を受けて、まずはポーランドのワルシャワに事務局を設け、ゆくゆくはウクライナに活動拠点を設立することを目指しています。
 チームのリーダーはジェセフ・ファトナーさん。これまでヨルダン、南スーダン、チャド、中央アフリカといった国々でLWF緊急支援チームを率いてきました。もう1人がLWFの教会プログラム担当のレベッカ・マイスナーさん。彼女は最近ルーマニア、スロバキア、ハンガリー、ポーランドを訪れて現地の状況を調査しました。今回は2人の声を取り上げます。

「活動資源があまりないにもかかわらずハンガリーの教会がしていることに驚いています。難民シェルターや食糧支援、輸送、通訳、医療サポートなど、やれることをとにかくやろうという熱意、意気込み、ひたむきさがすごいですよ。教会も手一杯です。それでも困っている人を助けねばと頑張る人たちを後押しする聖霊の働きには目を見張るものがあります。」(ファトナー)

「UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の推定によると、490万人以上がウクライナから避難しており、700万人が戦闘によって現地に取り残されたままとのこと。今後のLWFの役割としては、国ごとに活動内容に地域差があるなか、既に前線で活動中の教会やディアコニア団体をどのように支援するかが重要な鍵になります。」(ファトナー)

「2月24日ロシアがウクライナに侵攻して難民が発生、そこから救援活動も始まりましたが、今は活動にあたる教会の方々への牧会的ケアとサポートも必要です。」「現地の教会は、助けを必要とする隣り人たちと思いを一つに、神様の召しに応えてもてなそうとしていらっしゃいます。ただ現状は複雑でニードが絶えず変化し続けているので、そうした変化に適切に対処して支援できるよう態勢を整えることが私たちの役割です。」(マイスナー)

 マイスナーさんが強調するもうひとつのこと、それは支援する人たちが中立性を保てるのか、対立に加担することなく人道的視点から応答するにはどのようにすればよいのか、という難しい課題です。「ヨーロッパでは今ラディカルな変化が起きていて、これまでは確かだとされていた平和と戦争に対する考え方や対応ですが、本当にこれでいいのかが問われています。殊に教会はそうした問いへの神学的な検討が求められています。」(マイスナー)

 

 ※詳細についてはWEBサイトをご参考ください。

エキュメニカルな交わりから

 

③アジア・キリスト教協議会(CCA)の現状と課題
藤原佐和子(仙台教会・NCC書記)

 

 大学院生の頃、アジアのフェミニスト神学運動史についての博士論文を執筆するために、タイ北部のチェンマイで研究生活を送っていたことがあります。資料収集のために訪れていたのが、アジア・キリスト教協議会(CCA)の資料室でした。当時の私はエキュメニカル運動についてよく知りませんでしたが、アジアの女性神学者たちについて調査する中で、彼女たちの多くがこの運動に深くかかわっていることに気付かされました。このような経緯から、私は2015年からプログラム委員、2018年から常議員としてCCAの働きにかかわり、アジア各地を旅し、新しく出会った人々から学ぶ貴重な機会を与えられました。「旅すること」と「出会うこと」は、エキュメニカル運動の伝統になっているという実感があります。
 歴史を振り返ってみると、エキュメニカル運動の出発点である1910年の世界宣教会議で議長を務めたジョン・R・モットという信徒のエキュメニカルリーダーが、1912年から広範囲にわたり旅をしたのは、他ならぬアジア地域でした。CCAの歴史は、1957年、前身である東アジア・キリスト教協議会(EACC)がインドネシアのプラパトで行った設立準備総会にまで遡ります。1959年、EACCがマレーシアのクアラルンプールにおいて正式に設立されたのは、ペンテコステの前の主日でした。これを記念してCCAは同じ主日を「アジア祈祷日」(Asia Sunday)と呼び、大切にしています。毎年新しく作られる式文は、日本語を含む様々な言語に翻訳されています。本稿執筆時点で、2022年の「アジア祈祷日」(5月29日)の式文はまだ発表されていませんが、過去2年のテーマは「神よ、弱いわたしたちを癒してください」(エレミヤ17・14)、「わたしはあなたをいやす主である」(出エジプト15・26)でした。その背景には、新型コロナウイルスの世界的流行があります。
 新型コロナウイルスの世界的流行以来、「旅すること」と「出会うこと」は難しくなり、CCAもこれまで通りに活動できなくなりました。2020年4月に最初のオンラインセミナーが企画された際、私は日本の様々な教派の牧会者から共有していただいた現場の声をリポートしました。日本福音ルーテル教会の対応に関しては、浅野直樹Sr.牧師(市ヶ谷教会・スオミ教会)から現状と課題を教えていただきました。CCAの活動はその後、オンラインに移行し、アジアを生きるキリスト者たちをつなぐ役割を続けていくための試行錯誤を続けています。5年に1度開催される総会もすでに2年延期されたままですが、CCAの抱える困難はこれに留まりません。
 2021年2月の軍事クーデター以降、ミャンマー軍は不服従運動に参加する市民への弾圧を続けていますが、CCAは一部の共同司牧書簡や声明を除き、平和のメッセージを強く発信できていません。CCAや世界教会協議会(WCC)が軍事政権を公に批判しがたい背景には、迫害の悪化を恐れる現地教会の意向があります。CCAやWCCが大胆に行動できない時にこそ、アジア各地、そして日本におけるエキュメニカルな交わりの働きが切に必要とされていると痛感します。

社会委員会リレーコラム 「本・出会い・教会」①

高田敏尚(修学院教会)

「人生の秋に—ホイヴェルス随想選集」(H・ホイヴェルス著/
林幹雄編、春秋社1969)

 みなさんは、日本人の平均年齢っておわかりですか?平均寿命はよくきくけど、平均年齢は…とおっしゃる方が多いのでは。調べてみると48・4歳だそうで、世界では2位。ちなみに世界の平均は30・9歳です。日本も、1960年は29歳でした。どうりで、まわりをみると老人ばかり。教会も高齢化で維持がたいへんな問題です。社会委員会でコラムを担当することになったのですが、今回はこんな話からはじめようと思います。これを書いている私も高齢者に数えられる年齢です。そんな折に読んでみたい本が『人生の秋に』です。「人生の実りのときを迎える人たちに」という帯がついています。「この世の最上のわざは何?楽しい心で年をとり、働きたいけれども休み、しゃべりたいけれども黙り、失望しそうなときに希望し、従順に平静におのれの十字架をになう」というのが「最上のわざ」という詩の一節です。この本はドイツ生まれのホイヴェルス先生が残したエッセーです。54年間の在日宣教生活、その人生のおりおりに出会った喜びや悲しみ、そのすべてに神の業を見出していく。いやそんな極端なことでなく、鳥の声、花の一輪、それが「どんなことの中にも神をみつけましょう」という小タイトルにこめられています。小さな子どものほほえみにも神のやさしさが輝いているのです。このような本が一人静かに読める、そんな心境になるのも高齢者だからでしょうか。教会や団体に人が集まらない、社会の個人化といわれています。一昔前は、組織化される社会といわれていたのに。社会委員会は、このような社会も分析をして、教会が社会のなかで果たす役割は何かを問いかけられたら。そんなことを願っています。「孤独・孤立担当大臣」をおいているこの日本でこそ求められるのではないでしょうか。

教会のコロナ禍2年間の記録─ 『教会と宣教』第26号の紹介 ─

江口再起(東教区宣教ビジョンセンター『教会と宣教』編集委員)

 

  日本福音ルーテル教会は宣教百年(1993年)を機に、各教区に宣教センターを設置し教会宣教の研究・活動をすることを決議しましたが、結局設立されたのは東教区宣教ビジョンセンターのみということになりました。その活動の柱の一つは雑誌『教会と宣教』の発行ですが、2021年度の第26号は「コロナ禍の教会」特集号です。以下、内容を紹介します。
 意外なことですが、教会の歴史(記録)において肝心な事が残っていません。たとえば戦時中の教会の様子、100年前のスペイン風邪時の様子など。そこで今回のコロナ禍の教会の歩みを、まずは客観的に記録として残しておくことが大事です。
 「コロナ禍の教会」特集号の内容は4部構成になっています。第一部は教会の動向です。教会事務局の対応(「議長談話」等を含む全国の教会への通達など)の完璧な記録、また全国の諸教会のコロナ禍における礼拝や感染対策などへのアンケートの記録。各個教会の努力奮闘ぶりがわかります。
 第二部はルーテル学院大学・神学校の動向、ルーテル関連の諸社会福祉施設の感染対策等の詳細な記録です。機関紙「るうてる」にくわしく連載されていた記事を全て再録しました。実に貴重な記録となりました。その他、青年やこどもキャンプなどの諸活動の記録等々。
 第三部は他教派・教団・海外の動向です。カトリック教会、聖公会、日本基督教団、日本ルーテル教団よりの寄稿を収録しています。そして第四部は数名の牧師先生よりの論考、エッセイを載せました。
 このように全258頁、相当大部ですが客観的記録に徹した内容になっています(なおコロナ禍をめぐる神学的考察については、ルター研究所発行の『ルター研究』17巻(特集・宗教改革と疫病)に掲載されています)。
 2020〜2021年のコロナ禍の2年間、ルーテル教会そして関連諸施設は、どのように感染対策をしたのか、どのように礼拝を守ったのか、どのように活動し信仰生活を送ったのか。恐らく日本中の他教団・教派を眺め渡しても、これほど詳しい記録はないでしょう。あの時代、ルーテル教会はどのような教会活動をしていたのか、と問う50年後100年後に、この『教会と宣教』26号はきっと役に立つと信じています。どうぞお読みください(各教会・施設に送呈させていただいております)。

第28期第18回臨時常議員会報告

事務局長 滝田浩之

 4月25日に開催された標記の件について、ご報告いたします。
 第29・30回定期総会の延期を受けて、総会で扱う予定であった議案について、以下のように審議されました。詳しくは常議員会議事録でご確認ください。

「宗教法人日本福音ルーテル教会規則第26条を適用し承認した案件」
『第26条 総会の権限に属する事項で総会閉会中の緊急必要な事項は、総会に付議しないで、常議員会において決定し、及び執行することができる。』
(1)第2号議案 鶴ヶ谷教会・仙台教会合同の件
 本案件は、すでに個々の教会の総会で合同の決議が行われ、東教区総会で承認されたものである。個々の教会が合同し、共同の宣教を具体的に進める上でも、次年度の総会を待たずに正式な合同教会としての歩みを進めることが肝要と判断し、この合同について承認を行った。合同後は日本福音ルーテル仙台教会宮町礼拝堂、鶴ヶ谷礼拝堂となる。
(2)第3号議案 本教会常議員構成の件
 本案件は、各教区総会が行われ、新たな教区長、教区選出常議員の選出が行われたことを受けて、本来は総会において承認を得るものであるが、常議員会を教区議決を受けて構成するために、これを承認した。但し、九州教区においては4月29日に総会が行われるので、ここで選出される教区長、教区選出常議員については6月の第19回常議員会において承認するものとする。
(3)第8号議案 神学教育に関する協約の件
 本案件は、2022年度末をもって終了する標記の協約(ルーテル学院大学への教会からの支援を規定するもの)を間断なく継続するために、これを承認した。協約の内容は2018年締結のものと同一の内容となっており、日時の更新のみの変更となり、大きな変更がないものであることを確認している。すでにルーテル学院大学理事会において承認されている内容である。
(4)第9号議案 市ヶ谷耐震工事の件
 本案件は、2020年度総会に提案される予定であった。2018年度総会においては、すでに市ヶ谷事業所の耐震問題について何らかの対応を行うという点については承認を受けていることを踏まえ審議を行った。2022年度に入り、入居している賃貸先から耐震補強工事の実施について早急に、その実施についての返答と年度内での実施を強く要望され、かつこれを行わない場合、賃貸契約の解除の可能性を打診されたこと、またすでに2007年耐震検査において大きな地震が発生した場合、市ヶ谷事業所は中破以上の損壊を受けることは確実であり、この状況に対して法人として緊急に対応する必要を確認し、ルーテル学院大学からの借入、それに伴う担保提供、銀行からの借入を含めて、事業計画全体について、2022年度内の実施が承認された。工期は2022年7月~2023年9月初旬の予定である。

「仮承認とした案件」
(1)第5号議案 第7次綜合方策の件
 本案件は2020年度総会に提案される予定であったが、これの延期を受けて2020年度には常議員会で再考を行い、「COVID-19がもたらしたもの」を付記した形で提案される予定であった。2021年度には機関紙「るうてる」において、その内容が紹介されてきた。2022年総会の延期に伴い、2020年から3年間、方策のない状況が続くことを鑑み、常議員会において「仮承認」とした上で、次年度総会において「本承認」を求めることとした。「仮承認」を受けて「方策実行委員会(兼憲法規則改正委員会)」が発足し、予備的な準備を進めることを確認した。また方策の内容について、次年度総会で変更が求められれば「本承認」前に修正され、議場にて承認されることを確認した。
(2)第10~12号議案 決算・予算の件
 2020~2021年度決算、2022年度実行予算、2023~2024年度当初予算については、日本福音ルーテル教会規則第61条2項をもって「仮承認」を行った。

「次年度総会に提案する案件」
(1)第6号議案 アジア宣教の件
 カンボジアへの宣教、そして交流を主たる内容とする「アジア宣教」の件については、海外渡航が難しい状況においては次年度の総会に提案することがふさわしいと判断した。提案者である世界宣教委員会に、総会議決後の具体的な動きについて研究することを付託することを確認している。
(2)第7号議案 ハラスメント常設委員会設置の件
 本案件は、すでに日本福音ルーテル教会規則第61条4項を適用し運用が実施されている状況がある。これを61条3項に明記することを目的とする規則改正提案となっている。本案件は、次年度の総会において、しかるべき講師を招き、総会全体で学びを行った上で承認をうけるのがふさわしいと判断した。

「平和と共働の祈り」がオンラインで行われました

  日本国内における新型コロナウイルス感染症の拡大状況を鑑みて、5月3〜5日に東京・市ヶ谷を会場に予定されていた第29・30回全国総会を1年延期とすることが、3月28日に行われた第18期第17回臨時常議員会にて決定されました。このため、2年に1度行われる定期総会での礼拝が4年間行われていないことを踏まえ、日本福音ルーテル教会に関わるすべての方々が参加できるオンライン(Zoom)による「平和と共働の祈り」の時が5月3日(火)10時半から開催されました。
 当日は145アカウント・220人の参加者と共に、東京教会のパイプオルガンの演奏と聖歌隊による賛美、そして大柴譲治議長によるメッセージ「主の山に備えあり?!」(創世記22・1〜18)を聴き、各教区の代表による連祷を通して、ウクライナおよび世界の平和のため、新型コロナウイルスの終息のため、福音宣教の最前線で活動する個々の教会のために、また2018年以降に主のもとに召された 教職者、定年を迎えられた教職者を覚えて祈りを合わせました。
 なおLWFによるウクライナ人道支援のための連帯献金として4月末時点で503万2689円が捧げられました。感謝して報告いたします。なお連帯献金でのウクライナ人道支援は5月末にて一次受付を終了いたします。
(広報室)

公 告

 この度左記の行為を致しますので、宗教法人法第23条の規定に基づき公告致します。
2022年6月15日
宗教法人日本福音ルーテル教会
代表役員 大柴譲治

信徒利害関係人 各位

本教会所管の市ヶ谷会館耐震補強工事実施の件

・総工費
7億8603万8千円

・資金計画
自己資金(収益会計)
603万8千円
借入金
7億8千万円
借入先 ①学校法人ルーテル学院
借入額 3億円
返済期間 10年
支払利率 年利1%
借入先 ②銀行借入
借入額 4億8千万円

耐震補強を要する理由
・市ヶ谷耐震性能はIS値0・6を大きく下回り中破以上の損壊の可能性が高い。
・賃貸先テナントが耐震工事を実施しない場合、賃貸契約解除の可能性が高い。

・担保
 右記の借入に対する担保を左記の物件とする。

イ 不動産担保
 学校法人ルーテル学院から借入に対して市ヶ谷会館の土地建物(第3順位)に抵当権を設定する。
担保明細は次の通り。
・市ヶ谷会館
土地
所在 東京都新宿区砂土原町1丁目
   地番 一番
地目 宅地
地積 1669・42㎡
建物
所在 東京都新宿区砂土原町一丁目一番地
家屋番号 一番七
種類 教会 事務所
構造 鉄筋コンクリート造陸屋根地下1階付6階建
床面積 4612・65㎡
順位 3番

ロ 銀行借入分の担保設定
 借入条件決定後、この件に関する公告を行うこととする。

22-05-02「開かれた理性」

「そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」
ルカによる福音書24章45節

  ご復活後の主イエスは、弟子たちの「心の目」を開いたと記されています。「彼らの心の目」という言葉の原文は「彼らのヌース(理性)」です。わたしたち日本人に分かり易いように「心の目」と訳されています。このヌースという言葉はパウロ書簡にも出て来ます。コリントの信徒への手紙一2章16節の「『だれが主の思いを知り、主を教えるというのか。』しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。」という箇所で、「思い」と訳されている言葉は「ヌース」です。ヌース(理性)は「心の目」と訳されたり、「思い」と訳されたりしているのです。
 第一コリント2章でパウロが語っているのは、神の事柄を理解するのは「霊の人」であるということです。最後には、「わたしたちはキリストのヌースを持っています」と語られています。「抱いています」と訳されていますが、「持っています」が原文です。「霊の人」とは「キリストのヌースを持っている」人だとパウロは語っているのです。
 このパウロの言葉から考えてみれば、ルカによる福音書24章45節で言われている開かれた理性(ヌース)とは「キリストのヌース」ではないかと思えてきます。その理性(ヌース)が閉じられたままでは、神の事柄を理解することができないということです。そのために、イエスは弟子たちのヌースを開いたのです。そして、宣教へと派遣しました。
 わたしたち現代に生きるキリスト者は、復活のキリストに出会っているのかと思う人もいるでしょう。復活のキリストを見たという人をうらやましいと思う人もいるかもしれません。自分の目で、見ていないならば、わたしは、本当は復活に与っていないのではないかと思う人もいるでしょう。見たなら、宣教できるのにとも思うでしょう。しかし、そうではないのです。復活のキリストに出会った弟子たちは、パウロが言うように神の事柄を理解するようにされたのです。それが聖書を理解するための理性が開かれることだったとルカは伝えています。また、エマオ途上で2人の弟子たちに対して、キリストご自身が聖書を理解するようにと解き明かされた出来事も、ルカは伝えています。そうであれば、聖書に記されているキリストの出来事、十字架と復活の出来事を理解する人は、理性を開かれた人であり、復活に与っている人だということになります。それが、復活のキリストに出会った人たちに起こった神の出来事だったのです。
 パウロはキリスト者を迫害していましたが、ダマスコへ向かう途上で復活のキリストが現れてくださったことによって、それまで否定していたキリストの十字架と復活を宣教する者に変えられました。彼は自らの罪を取り除いてくださった救い主としてキリストを宣べ伝えることになったのです。パウロがそのように変えられたのは、キリストによって聖書を理解するための理性を開かれたからでしょう。そのとき、パウロは復活に与ったのです。同じように、現代に生きるわたしたちキリスト者もまた、十字架と復活を神の事柄として理解するとき、復活に与っているのです。復活のキリストに出会っているのです。復活のキリストのヌースが、わたしたちのうちで働いているのです。
 神の事柄は、人間的な理解を越えています。人間的な理性では受け入れることができない事柄です。それにも関わらず神の事柄を理解するわたしがいるということは、わたしのうちにキリストのヌース、神の霊が働いているからです。キリストの十字架と復活が、このわたしのために起こった神の出来事だと理解するのは、キリストの理性である神の霊を与えられて理解することなのです。
 主のご復活を祝っているわたしたちは、聖書を理解する者としての理性を開かれています。ご復活したキリストのヌースはわたしのうちに働いておられる。キリストがわたしのうちに生きておられる。開かれた理性をもって主の十字架と復活を宣べ伝えていきましょう。

ピーテル・ブリューゲル(父)作
「聖パウロの回心」(1567年)ウィーン美術館所蔵

22-05-02るうてる2022年05月号

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 「開かれた理性」

日本福音ルーテルなごや希望教会 牧師 末竹十大

「そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」
ルカによる福音書24章45節

 ご復活後の主イエスは、弟子たちの「心の目」を開いたと記されています。「彼らの心の目」という言葉の原文は「彼らのヌース(理性)」です。わたしたち日本人に分かり易いように「心の目」と訳されています。このヌースという言葉はパウロ書簡にも出て来ます。コリントの信徒への手紙一2章16節の「『だれが主の思いを知り、主を教えるというのか。』しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。」という箇所で、「思い」と訳されている言葉は「ヌース」です。ヌース(理性)は「心の目」と訳されたり、「思い」と訳されたりしているのです。

 

第一コリント2章でパウロが語っているのは、神の事柄を理解するのは「霊の人」であるということです。最後には、「わたしたちはキリストのヌースを持っています」と語られています。「抱いています」と訳されていますが、「持っています」が原文です。「霊の人」とは「キリストのヌースを持っている」人だとパウロは語っているのです。

 

このパウロの言葉から考えてみれば、ルカによる福音書24章45節で言われている開かれた理性(ヌース)とは「キリストのヌース」ではないかと思えてきます。その理性(ヌース)が閉じられたままでは、神の事柄を理解することができないということです。そのために、イエスは弟子たちのヌースを開いたのです。そして、宣教へと派遣しました。

 

わたしたち現代に生きるキリスト者は、復活のキリストに出会っているのかと思う人もいるでしょう。復活のキリストを見たという人をうらやましいと思う人もいるかもしれません。自分の目で、見ていないならば、わたしは、本当は復活に与っていないのではないかと思う人もいるでしょう。見たなら、宣教できるのにとも思うでしょう。しかし、そうではないのです。復活のキリストに出会った弟子たちは、パウロが言うように神の事柄を理解するようにされたのです。それが聖書を理解するための理性が開かれることだったとルカは伝えています。また、エマオ途上で2人の弟子たちに対して、キリストご自身が聖書を理解するようにと解き明かされた出来事も、ルカは伝えています。そうであれば、聖書に記されているキリストの出来事、十字架と復活の出来事を理解する人は、理性を開かれた人であり、復活に与っている人だということになります。それが、復活のキリストに出会った人たちに起こった神の出来事だったのです。

 

パウロはキリスト者を迫害していましたが、ダマスコへ向かう途上で復活のキリストが現れてくださったことによって、それまで否定していたキリストの十字架と復活を宣教する者に変えられました。彼は自らの罪を取り除いてくださった救い主としてキリストを宣べ伝えることになったのです。パウロがそのように変えられたのは、キリストによって聖書を理解するための理性を開かれたからでしょう。そのとき、パウロは復活に与ったのです。同じように、現代に生きるわたしたちキリスト者もまた、十字架と復活を神の事柄として理解するとき、復活に与っているのです。復活のキリストに出会っているのです。復活のキリストのヌースが、わたしたちのうちで働いているのです。

 

神の事柄は、人間的な理解を越えています。人間的な理性では受け入れることができない事柄です。それにも関わらず神の事柄を理解するわたしがいるということは、わたしのうちにキリストのヌース、神の霊が働いているからです。キリストの十字架と復活が、このわたしのために起こった神の出来事だと理解するのは、キリストの理性である神の霊を与えられて理解することなのです。

 

主のご復活を祝っているわたしたちは、聖書を理解する者としての理性を開かれています。ご復活したキリストのヌースはわたしのうちに働いておられる。キリストがわたしのうちに生きておられる。開かれた理性をもって主の十字架と復活を宣べ伝えていきましょう。

エッセイ「命のことば」 伊藤早奈

㉖「お帰り」

「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。」(ヨハネ14・18)

  ここに書かせていただいた聖句は私が受洗へと導かれたみ言(ことば)です。
 なぜ今思い出したのか?私は信仰を新たにしていただいた気持ちです。
 「主われを愛す主は強ければ…」教会学校で子どもたちの賛美が聴こえてきた時、「うそっどうして私の今の気持ちをわかってくださってるの?」
 その時は入院が続き日曜日も治療があるため、しばらく教会の礼拝もお休みしなくてはいけなくて、とてもとてもいたたまれない気持ちがいっぱいのまま教会へ足を運んでいました。
 どんな顔して礼拝へ行こう?必要以上に笑って笑顔でいれば皆さんは心配されないかな?牧師だからなぁ…「主われを愛す主は強ければ…」あっ私神様にそのままを愛されているんだ。
いつも自分で語るときは「あなたは神様にそのままを愛されていますよ」と語れるのに自分自身が語られると戸惑うときがあるんですね。
 あなたが教会に行かれない時があっても、聖書が開けない時があっても、たとえ誰にも心開けない時があったとしても、神様は言われます。「あなたのそのままを愛してます。」

議長室から 大柴譲治

インマヌエル〜清濁併せ呑む信仰のリアリズム

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。/その名はインマヌエルと呼ばれる。」(マタイ1・23)

 世界状況が緊迫し混沌としているためでしょう、マタイ福音書の「インマヌエル」が強く私に迫ってきます。それはイエスの誕生予告にイザヤの預言の引用として出てくる言葉です(イザヤ7・14、8・8、8・10)。しかしマタイはその語を聖書全体の核心として捉え、それがイエスにおいて成就したことを宣言するのです。そして福音書は復活の主による弟子派遣の言葉で終わります。「私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28・18b〜20)。マタイ福音書はインマヌエルに始まりインマヌエルに終わるのです。
 この言葉は旧新約聖書全体の基調音です。「イエス・キリスト」という表現自体「イエスは私の救い主」という信仰告白です。井上洋治神父は「アッバ」(マルコ14・36)という1語の中にすべてを捉えました。マタイに従えば私たちの信仰告白はただ「インマヌエル、アーメン!」の一言だけでよいのです。

 その視点からマタイ福音書を読み直してみると、彼の伝える信仰のリアリズムが透けて見えてきます。たとえば東からの博士たち。ヘロデ訪問の場面では人間の闇がリアルに描かれます。マタイは王と全住民の持つ闇を「不安」として描くのです(2・3)。彼らは等しく「ユダヤ人の王」により自らが脅かされることを心底恐れました。その最たるものがヘロデによる嬰児虐殺です(2・16)。なんと人間の闇は深くおぞましいことか。暗澹たる思いにさせられます。しかしまさにその闇のどん底でマタイは記すのです。救い主の誕生を告げる星の光が確かに闇の中で輝いていることを。「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子がいる場所の上に止まった。博士たちはその星を見て喜びに溢れた」(2・9〜10)。マタイが記すインマヌエルのリアリティはこれなのです。その光が見る者を喜びに満たす。どのような闇もその喜びを消し去ることはできません。

 次もマタイだけが記す言葉です。「施しをするときは、右の手のしていることを左の手に知らせてはならない」(6・3)。「だから、あなたがたは蛇のように賢く、鳩のように無垢でありなさい」(10・16)。面白いですね。日本語の「清濁併せ呑む」を想起します。しぶとくしなやかに賢い、バランスある信仰をここで主は勧めているように思えます。私たちもそのような信仰のリアリズムに立ち続けたいのです。COVID-19パンデミックという現実においても、ロシアによるウクライナ侵攻という現実においても、大地震という現実においても。闇に希望の光は確かに輝いています。すべての人にインマヌエル、アーメン!
(聖句引用はすべて『聖書協会協同訳』による。)

「教会讃美歌 増補」 解説

㉓創作賛美歌解説3 「田坂さんのこと」
讃美歌委員会
北川逸英
(日本ルーテル教団
池上ルーテル教会・
杉並聖真ルーテル教会牧師)

増補25番「きょうはうれしいクリスマス」・増補28番「目を覚ましていましょう」・増補30番「いのちの花」

 この3曲の賛美歌は、NRK(日本ルーテル教団)鵠沼ルーテル教会信徒・田坂仁さんの作詞です。田坂さんは強くこの増補版の出版を待ち望んでいました。パイロット版である『教会讃美歌増補試用版宗教改革500年記念』の製作では、ボランティアとして校正作業をお手伝いくださいました。けれど残念なことに、分冊Ⅰの完成出版を見ることなく2021年1月、天に召されました。今回はこれまで共に祈り、共に歩いた北川が、田坂さんを紹介して、作品に込められた祈りに、共に思いを寄せたいと思います。
 田坂氏は1936年に東京都豊島区に生まれました。野球に打ち込むスポーツマンで、青少年教育に深い志を持って、中央大学・明治学院大学に学びます。その在学中からアメリカンスクールの臨時職員となって、宣教師との交流から信仰が芽生えました。ラジオ東京から流れていたルーテルアワーで熱心に学び、NRK東京ルーテルセンター教会で受洗します。そして成美学園(現 横浜英和)中学高等学校で、英語科教諭を長く勤めました。いつも教育に情熱を燃やして、定年後も神奈川県の学校で英語指導を続け、さらにアルゼンチンで4年間、またボリビアにも2年間赴任して、日本語と日本文化の教育に力を尽くしました。帰国後は精力的に教会活動と教育活動に邁進し、NRKの内に留まることなく、ルーテル学院大学・神学校後援会でも、大切な働きを最後まで続けました。
 NRKの青少年育成プログラムにも必ず足を運んで、子どもたちや青年たちと全く変わらない、元気な活動をされました。数年前に鵠沼教会で開かれたジュニア・ユースキャンプでも、フォークダンスを皆と一緒に楽しく踊っていました。また新年の高尾山ハイクにも参加され、ケーブルカーを使わず、青年たちと共に、自然研究路を楽しそうに最後まで歩き続けました。
 思い返せば田坂さんはいつも楽しそうでした。そしていつも誰かに熱心に話しかけていました。また田坂さんはいくつも童話を作り、本を出していました。最近の著作は2019年に上梓された『星がかがやくように』です。この短い物語は「美花園」という街角の花屋に並ぶ色とりどりのきれいな花たちが「花たちの歌」を歌っている場面からはじまります。花たちはさまざまな事を語り合い、そこにミツバチが来て詩を朗読し、感想を語り合い最後はまた花たちが歌って物語が閉じます。これにより田坂さんが、歌うこと、話し合うこと、詩をよむことを、生きる糧としていることがよくわかります。「『花開き草木も育てのびやかに愛と平和へ思いを込めて』田坂仁」これが巻末の言葉です。本当に田坂さんは、信仰に立つ、魂の教育者でした。

世界の教会の声

浅野直樹Sr(世界宣教主事 市ヶ谷教会・スオミ教会牧師)

「ウクライナと ロシアのルーテル教会 監督が共に祈る」

 3月18日、ベルリン大聖堂でエキュメニカル平和祈祷会が開かれ、そこにウクライナとロシアのルーテル教会の監督(ビショップ)が出席しました。それぞれの教会代表の監督が祈祷会の席で述べた言葉を紹介します。

ロシア福音ルーテル教会のディートリッヒ・ブラウア大監督
「今年のレント(四旬節)はとんでもなく恐ろしく、辛い試練の時となりました。眼前に広がる悪に対して、無力にただ立ち尽くすだけという経験に打ちのめされています。2月24日、私たちは闇と恐怖に埋め尽くされた現実に目を覚ましたのです。」
「戦争と涙と死。それしか見あたりません。泣きじゃくる子どもたち、逃げ惑う市民、破壊された家々と死体が辺り一面に広がっています。私たちだけでは到底立ち向かえない力に対して言葉もありません。けれども一人ではありません。お互いがあります。私たちは共に祈り、平和を求め、真実を証しし、他者の目を開いていくことができるのです。」

ウクライナのドイツ・ルーテル福音教会のパブロ・シュバルツ監督
「神は私たちから遠ざかることはありません。また無関心でもいられない方です。戦争の犠牲者たちと今苦しんでいる人々と、ここで共にいてくださるのです。神は戦争という地獄にあっても共にいて涙を流し、死の谷を共に歩いてくださいます。」
「キリストはここ、私たちのただ中で十字架にかかっておられます。そして死が最後の言葉ではないと何度も確約してくださっています。恐怖が私たちを黙らせることは永久にありません。いのちが悪の力に勝利することをキリストは約束してくださっています。そして解放と主の平和という水際へ私たちを導いてくださいます。」

 シュバルツ監督のオフィスはウクライナ東部の町ハリコフにあります。ハリコフはロシア軍の大規模爆撃によって多くの被害を受けた町。シュバルツ監督は、戦争終結に向けて尽力する人々、そしてウクライナ市民を支援するすべての人々に感謝を述べ、両手を広げて彼らを歓迎し次のように述べました。

「犠牲者の声に耳を傾け、誰が加害者なのかを明らかにしていく公平な平和へと私たちは召されています。真の和解は、そうすることによってのみ実現できます。私たちは希望を神に託しています。そして私たちが平和を作り出し、ついには和解をもらたす者となれますようにと祈っています。言葉だけでなく行いが伴うクリスチャンにしてくださいと祈っています。」

イレネウス・ルカスLWFヨーロッパ局長のコメント。
「ロシアとウクライナ両ルーテル教会の監督が、公正な平和を求めて共に祈る祈りは力強く、勇気ある証です。罪のない人々が殺され、数百万人が安住の地を求めて家を離れねばならないという困難なとき、こうした祈りがますます必要なのです。」
※この平和祈祷会の詳細については以下のサイトをご参考ください。

※ウクライナの平和を求める灰の水曜日の祈りについては下記サイトで紹介されています。
https://www.lutheranworld.org/news/ukraine-lutheran-bishops-ukraine-and-russia-join-prayer-peace

エキュメニカルな交わりから

 

②NCCジェンダー正義に関するポリシー策定のためのワーキンググループ
藤原佐和子 (鶴ヶ谷教会・NCC書記)

 

 日本キリスト教協議会(NCC)に2021年8月、「ジェンダー正義に関するポリシー策定のためのワーキンググループ」(以下、WG)が新設されました。メンバーは、日本福音ルーテル都南教会信徒の安田真由子さんと筆者を含む10名です。このWGは、「この危機の時代にこそ後退することなく、ジェンダーやセクシュアリティにおける正義、そして真実のパートナー性と多様性を問い直し、それを与えられた恵みの豊かさを感謝し具現していく道へと踏み出さなければなりません」というNCC第41回総会期活動方針に基づき、ACTアライアンス(以下、ACT)をはじめとする世界の教会・団体とのエキュメニカルな連帯に根差して活動しています。ACTは2010年に、ルーテル世界連盟(LWF)や世界教会協議会(WCC)を中心に発足したもので、これまでは人道支援で知られ、日本ではNCCとCWS Japanがメンバーになっています。ACTは、2013年のLWFに続き、2017年に「ジェンダー正義に関するポリシー(基本方針)」を採択したことでも注目され、現在、世界中のメンバーに「2026年までにポリシーを作り、実践しましょう」と呼びかけています。WGでは、既にジェンダー正義に取り組んでいる教会・団体に学びながら、この呼びかけに応えたいと考えています。
 最近のミーティングでは、スウェーデン教会の2010年代以降の文書を分析しました。スウェーデン教会は世界で3番目に大きなルター派(ルーテル教会)で、毎年秋に行われる教会会議では16歳以上のすべての信徒に選挙権が与えられるなど、民主的な教会運営で知られています。スウェーデン教会では1960年から女性牧師が誕生しており、1993年には女性の按手を拒否する権利が廃止され、「性別に基づく差別に反対します」という誓約書にサインしなければ、牧師となることはできません。現在、すべての牧師に占める女性の割合は、わずかに男性を上回っていますが、指導的地位は男性に占められたままで、賃金格差も深刻です。それでも、2009年に世界で初めてレズビアン女性の主教(エヴァ・ブルンネ)が誕生している点、同性婚の祝福を賛成多数で可決している点、2011年の国連人権理事会におけるSOGI(性的指向と性自認)に関する初めての決議にいち早く応答し、翌年には、ジェンダー平等とジェンダー正義は、すべての男性、女性、少年、少女にかかわることであって、「女性たちの問題ではない」との見方を明らかにしている点など、日本福音ルーテル教会から見ても大いに注目すべき教会です。
 スウェーデン教会が、自分たちの立場を明確にしようと心がけてきたのは、そのことが、オープンで率直な対話の場を作り出していくことにつながると信じているからです。このテーマにご関心のある方は、5月21日にオンラインで開催される修学院フォーラム(日本クリスチャン・アカデミー関西セミナーハウス活動センター)にぜひご参加ください。
 次回は、アジア・キリスト教協議会(CCA)の働きについてご紹介します。


https://www.academy-kansai.org/news/2022/03/pg-734.php

外キ協全国協議会報告

小泉基(社会委員長・函館教会牧師)

 「外キ協」とは、「外国人住民基本法の制定を求める全国キリスト教連絡協議会」という長い名前を持つエキュメニカルネットワークです。もともとは1980年代以降に闘われた在日韓国・朝鮮人の指紋押捺拒否運動に刺激されて結成された、「外登法問題と取り組む全国キリスト教連絡協議会」という団体でした。カトリック教会とプロテスタント教会が全国レベルでひとつの課題に力をあわせ、同時に各地に地方外キ連というローカルボディも有するという希有な団体なのですが、日本福音ルーテル教会は長く教派レベルでこの協議会に参加することはなかったのです。
 当初、在日が負わされた課題から出発した協議会でしたが、在日外国人の多様化に伴い、自ら立案した「外国人住民基本法」の制定運度を取り組みの中心に据えることとし、2012年から名称も変更して新しい「外キ協」として再出発しています。
 外キ協は、毎年1月に全国協議会を開催し、その年の活動を展望します。日本福音ルーテル教会も2020年にこの協議会の構成団体に加わり、現在は社会委員会を通してその活動をともに担うようになりましたので、今年の1月28日、オンラインで開催された全国協議会に、北海道からネット参加しました。昨年は、ウィシュマさんという女性が入管施設内で亡くなられた事件によって、かつてないほど日本の入国管理制度に注目が集まった年で、ルーテル教会の社会委員会も2回のオンラインセミナーを開催しました。全国協議会では、入管法の改悪案を撤回に追い込むこととなった昨年の取り組みがわかちあわれた他、今年度の活動として、韓国教会との国際シンポジウムや、平和構築のための日韓青年フォーラム、外国人住民基本法の制定を求める全国署名、冊子「カラフルな仲間たち4」の発行などが提案され、今年度も多様な取り組みをすすめていくことを確認しあいました。ルーテル教会からも、外キ協のプロクラムや各地の外キ連に参加してくださる方が増えていくようにと願っています。

第56回教職 神学セミナー報告

宮本新(ルーテル学院大学・日本ルーテル神学校専任講師)

 

 2月14〜15日、教職神学セミナー(日本ルーテル神学校主催、JELC協賛)が開催されました。
 主題は「これからの10年—教職論再考」。これまでの経験則ではこの先があやぶまれるとき、枝葉ではなく根幹的なことを再確認したいとき、これまでもこのような単純でいて根源的なテーマが選ばれてきたのだろうと思います。2日間のプログラムでは、3つのセッションを設けて、それぞれの発題者・発表者が、そのような再検討課題を差し出し、共に考える機会を持ちました。詳細について紙面の都合でかないませんが、以下のプログラム要旨からその一端を紹介いたします。(以下、敬称略)

★セッション①シンポジウムⅠ「教職論の現在地~職制・職務・実存の問題として」
〈シンポジスト発題〉「職制と職務を考える」立山忠浩氏、「牧師は宗教家か労働者か」滝田浩之氏、「壊れいく宣教と教職の現実に」石居基夫氏
★セッション②「現代社会における教職論~私の職務レポート」
〈レポート〉「キリストを感じてもらう」吉田達臣氏、「女性教職の働きと可能性」小勝奈保子氏、「牧師の働きについての模索」竹田大地氏、「気がついたらやっていること〜Pastoralskills(I acquired when I noticed)〜」岩切雄太氏
★セッション③シンポジウムⅡ 「これからの10年、教職論の課題と展望」
〈シンポジスト発題〉「選択と集中、その判断基準の柔軟性」李明生氏、「みことばと教会形成」後藤由起氏、「教職の預言者的使命を見直す」江本真理氏

 終わって見ると、オンライン故の残念な点はそれに上回る良い点で満たされていました。特に、全国各地・ルーテル4教団の教職の方々が多数参加してくださったのはオンラインならではのことでした。とりわけ、積極的に参加してくださったJELC九州地域教師会の方々、そして受按5年以内の先生方(現任研修)の参加はありがたくもあり、また今後のセミナーの展望を考える糧をいただきました。感謝。

ルターナイツ通算第13回(オンライン開催)

宮本新(ルーテル学院大学・日本ルーテル神学校専任講師)

 2014年に東教区に「信仰を考える会ジュニア」が作られ、教科書で誰でも知っているルターの顔、そして著名なバッハを利用して、宗教改革500年までの3年間、礼拝には呼びづらい友人や同僚にルーテルとのつながりを持てるようにと「ルターナイツ」が企画され、宗教改革500年を終えた後も継続し、12月3日、初回ボリュームゼロから数え13回目が開催されました。
 10回と11回目は東京・恵比寿のJELAホールを借りて開催しましたが、新型コロナにより、前回より完全オンラインで実施しています。司会は市原悠史牧師(横浜教会・横須賀教会)と谷口健太郎さん(市ヶ谷教会)。今回のトークは、一昨年よりコロナ禍で渡米し、アメリカミネソタ州アボットノースウェスタン病院のチャプレン(病院聖職者)として、コロナ病棟や精神科病棟で人々の魂に寄り添い、昨年9月に帰国した関野和寛牧師に、「コロナ室に入り続けた1年間」と題してお願いし、市原牧師によるインタビューやオンラインでの質疑応答を行いました。
 方波見愛さん・角本茜さんによるピアノ連弾デュオ「La Fontaine」は、「かみのみこはこよいしも」と「まきびとひつじを」を、連続出演記録更新中のユースグループ「The Beagles」は、「ハクナ ワカィタ サ イェス」と「まぶねのなかでしずか」を、予め収録した動画にてお届けしました。市原牧師は、前回同様、リアルでギターの弾き語りを披露しました。今回は、JELAによるカンボジアの子ども達への支援活動のための募金を呼び掛け、職員の下川正人さんより説明がありました(写真)。最後は、恒例となった「君は愛されるために生まれた」を皆で歌い、終了しました。ライブと同じような交流の場を設けるため、前後に15分程度Zoomを開放しました。
 徳善義和先生からルターナイツのために頂いたバッハの言葉「祈りをもってする音楽においては常に神がおられる、恵みの現臨をもって。」(徳善先生訳)を胸に、これからも続けていきます。

第28回春の全国ティーンズキャンプ(オンライン)報告

森田哲史(大江教会牧師)

  3月27日、第28回春の全国ティーンズキャンプ(通称・春キャン)が、オンラインにて行われました。今年は「自分の限界を超える」(主題聖句・ガラテヤの信徒への手紙6章2節)をテーマに、関野和寛牧師の講演を中心としたプログラムを行いました。初めに開会礼拝を行った後、青年スタッフが企画してくださったZoom上で出来るアイスブレイクで参加者間の交流を深めました。講演では関野牧師が、アメリカでのチャプレンの働きから、傷つくことを恐れず、外に飛び出し、人と出会うところに牧師としての喜びがあると分かち合ってくださいました。参加者は2名と少数でしたが、来年こそは直接会いたいね、と期待を膨らませています。

  3〈以下感想〉
「春キャンに参加することが出来てとても嬉しかったです。貴重な体験になりました。ありがとうございました。限界を超えろというテーマは初め私にとって考える機会がなかったため難しいものでしたが、牧師先生の話を伺って考えやすく身近なものに変わっていきました。周りの人に合わせるという事も大切な事ですが、周りの人に流されずに強い意志を持ってこれからの生活を送っていきたいです。来年も春キャンに参加したいと思います!」(中学2年生)。
「私は2回目の参加でした。関野先生のお話にとても心を動かされました。アイスブレイクもたのしかったです!ありがとうございました」(高校1年生)。
「なかなか対面で集まれない状況のなか、オンラインでこうして中高生の子たちがつながる機会があること、参加してくれる子がいることがとても素敵だなあと感じ、心が温まりました。ありがとうございました」(青年スタッフ)

ルーテル学院大学・日本ルーテル神学校の新年度が始まりました

 2022年度のルーテル学院大学は、総合人間学部66名(編入学を含む)、大学院15名の新入生を迎えました。また日本ルーテル神学校には牧師養成コースに中山隼輔さん(JELC室園教会)の1名、また神学一般コースに2名の新入生を迎えました。4月4日、神学校入学始業礼拝が司式・河田優チャプレン、説教・立山忠浩校長によって行われ、新年度への歩みが始まりました。なお新型コロナウイルス感染症対策として、2022年度前期の講義は、昨年度に引き続き当面の間オンラインと対面を組み合わせたハイブリッド方式によって行われます。後期の授業形態については、感染状況によってあらためて検討されます。(広報室)

第35回教会音楽祭

  教会音楽祭は、キリスト教の教派を超えて神さまへの賛美をともに捧げようと、1968年から続けられています。日本最大のエキュメニカル(教会一致)活動のひとつです。
 第35回教会音楽祭は2022年10月22日(土)、オンラインで開催されます。
 また、第35回教会音楽祭では、以下の二つの項目で公募が行われます。
①オンライン音楽祭(動画)の中で皆で歌う「応答の歌」のメロディー
②コロナ禍での、新たな賛美の取り組み
 応募される方は、左記教会音楽祭インターネットサイトの公募要項をお読みください。


http://cmf.holy.jp

22-04-01「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」

「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」
ルカによる福音書24章6節a

 イースターおめでとうございます。この朝、イエス様は死からよみがえられました。私たちの罪のために苦しみを負われ、十字架で死なれたイエス様は、父なる神様によって高くあげられ、復活して永遠の命を生きておられます。イエス様が救いのみわざを成し遂げてくださったことを記念するイースターの礼拝は、教会の一年の中で最も大きな喜びの時です。
 ルカ福音書の復活物語は、イエス様に従っていた婦人たちが早朝に香料を持って墓に出かけるところから始まります。香料を遺体に塗って、葬りを完了させるためです。婦人たちはイエス様が死んでしまった悲しみを感じつつも、どこかでイエス様の死を受け入れて、しきたり通りの葬りをするために現実的に行動しています。
 しかし婦人たちが目にしたのは空の墓でした。さらに彼女たちはみ使いからイエス様の復活を知らされます。「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。」と言われた婦人たちは、イエス様が確かに「わたしは死んで復活する」と言われていたことを思い出したのです。
 そうして婦人たちはイエスの復活を確信します。彼女たちは墓から帰って、弟子たちとほかの人皆に一部始終を知らせました。イエス様の墓が空になっていたこと、み使いが現れてイエス様の復活を告げたこと、そして確かにイエス様はご自分の死と復活を約束されていたということ…彼女たちは驚きと興奮、そしてかつてないほどの喜びにあふれてイエス様の復活を告げ知らせたに違いありません。
 しかし報告を受けた弟子たちは彼女たちを信じませんでした。はじめ婦人たちがそうであったように、弟子たちもイエス様があらかじめ言われていたことを理解していなかったのです。イエス様が「わたしは死んで復活する」と言われていたにもかかわらず、死は終わりであって、復活などたわ言だと思っていました。
 これまで熱心にイエス様に従ってきた人たちであっても、イエス様が死んでしまってさすがにあきらめムードといったところでしょうか。私たちがそこにいても、多分同じような反応をしたと思います。人間の力ではどうにもならないことがあると受け入れて、現実的に行動しなければ、この世の中を生き抜いていくことはできないからです。
 私たちは生きていくうえで色々なことをあきらめ受け入れています。年を取ること、病気になること、人との別れ、どれもしんどいことですが、どこかで仕方ないと割り切って、前に進んでいるのです。新型コロナウイルス感染症が流行って今まで通りの生活が送れなくなっても、なんとかその中で折り合いをつけて、今できることを探して生きています。人間の力ではどうにもならないことがあるというのは私たちが常々実感していることです。
 なかでも死はその最たるものです。どんなに大切な人がいたとしても、みんないずれ死にます。死んでしまったら二度と地上で会うことはできません。別れの悲しみは大きく深いものですが、だからといってどうしようもないということを私たちは心のどこかで知っています。この世の中に絶対はなく、永遠に続くものもないからです。
 しかしイエス様の復活は、神様の約束だけは絶対であり永遠であるということを私たちに告げています。神様の約束通り、イエス様は死からよみがえられ、私たちを救って、私たちを永遠の命へと招き入れてくださいました。死でさえも私たちからイエス様を奪うことはできません。イエス様の愛だけは私たちがあきらめる必要のないただ一つのものだからです。
 この復活の朝、死さえも超えて、イエス様は私たちのところに戻ってきてくださいました。イエス様の愛から私たちを引き離すものは何もありません。このことだけは永遠に変わらない真理、決して取り去られることのない喜びです。イースターおめでとうございます。主の復活の喜びを共に分かち合いたいと思います。

M.グリューネヴァルト作「復活」(1511〜1515年)
コルマール・ウンターデンリンデン美術館所蔵

22-04-01るうてる2022年04月号

機関紙PDF

 「イースターおめでとう」

日本福音ルーテル小倉教会・直方教会 牧師 森下真帆

「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」
ルカによる福音書24章6節a

 イースターおめでとうございます。この朝、イエス様は死からよみがえられました。私たちの罪のために苦しみを負われ、十字架で死なれたイエス様は、父なる神様によって高くあげられ、復活して永遠の命を生きておられます。イエス様が救いのみわざを成し遂げてくださったことを記念するイースターの礼拝は、教会の一年の中で最も大きな喜びの時です。
 ルカ福音書の復活物語は、イエス様に従っていた婦人たちが早朝に香料を持って墓に出かけるところから始まります。香料を遺体に塗って、葬りを完了させるためです。婦人たちはイエス様が死んでしまった悲しみを感じつつも、どこかでイエス様の死を受け入れて、しきたり通りの葬りをするために現実的に行動しています。

 

しかし婦人たちが目にしたのは空の墓でした。さらに彼女たちはみ使いからイエス様の復活を知らされます。「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。」と言われた婦人たちは、イエス様が確かに「わたしは死んで復活する」と言われていたことを思い出したのです。
 そうして婦人たちはイエスの復活を確信します。彼女たちは墓から帰って、弟子たちとほかの人皆に一部始終を知らせました。イエス様の墓が空になっていたこと、み使いが現れてイエス様の復活を告げたこと、そして確かにイエス様はご自分の死と復活を約束されていたということ…彼女たちは驚きと興奮、そしてかつてないほどの喜びにあふれてイエス様の復活を告げ知らせたに違いありません。
 しかし報告を受けた弟子たちは彼女たちを信じませんでした。はじめ婦人たちがそうであったように、弟子たちもイエス様があらかじめ言われていたことを理解していなかったのです。イエス様が「わたしは死んで復活する」と言われていたにもかかわらず、死は終わりであって、復活などたわ言だと思っていました。

 これまで熱心にイエス様に従ってきた人たちであっても、イエス様が死んでしまってさすがにあきらめムードといったところでしょうか。私たちがそこにいても、多分同じような反応をしたと思います。人間の力ではどうにもならないことがあると受け入れて、現実的に行動しなければ、この世の中を生き抜いていくことはできないからです。
 私たちは生きていくうえで色々なことをあきらめ受け入れています。年を取ること、病気になること、人との別れ、どれもしんどいことですが、どこかで仕方ないと割り切って、前に進んでいるのです。新型コロナウイルス感染症が流行って今まで通りの生活が送れなくなっても、なんとかその中で折り合いをつけて、今できることを探して生きています。人間の力ではどうにもならないことがあるというのは私たちが常々実感していることです。
 なかでも死はその最たるものです。どんなに大切な人がいたとしても、みんないずれ死にます。死んでしまったら二度と地上で会うことはできません。別れの悲しみは大きく深いものですが、だからといってどうしようもないということを私たちは心のどこかで知っています。この世の中に絶対はなく、永遠に続くものもないからです。

しかしイエス様の復活は、神様の約束だけは絶対であり永遠であるということを私たちに告げています。神様の約束通り、イエス様は死からよみがえられ、私たちを救って、私たちを永遠の命へと招き入れてくださいました。死でさえも私たちからイエス様を奪うことはできません。イエス様の愛だけは私たちがあきらめる必要のないただ一つのものだからです。
 この復活の朝、死さえも超えて、イエス様は私たちのところに戻ってきてくださいました。イエス様の愛から私たちを引き離すものは何もありません。このことだけは永遠に変わらない真理、決して取り去られることのない喜びです。イースターおめでとうございます。主の復活の喜びを共に分かち合いたいと思います。

エッセイ「命のことば」 伊藤早奈

㉕「変わらないもの」

「天は神の栄光を物語り大空は御手の業を示す。」(詩編19・2)

  「あっちにもあるよ、ああそこにも。あの赤く光って動いているのは飛行機かな。」
 普段は別に気にしていないのに入院すると何だか空を見てしまいます。何度か入院が一緒だった友達と夕食後待ち合わせて部屋を抜け出し唯一外の空気が吸える病院内の渡り廊下へ行きます。暗くなり始めた渡り廊下は人影もなく静かでした。そこで渡り廊下の手すりを両手でぎゅっと握って立ち上がり2人で毎日のように空を見ていました。そんな2人には都会の夜の空に少し遠慮がちに輝いている数少ない星を見るのが楽しみでしたし何よりも立って上を向けるなんてこの時にしかできないことでした。
 星は変わらずそこにいます。私たちが見える世界では変わりません。変わるのは見ている私たちかもしれません。
 「変化は恐ろしいことでも悲しいことでもないんだよ。変化することは私たちには当たり前のことなのさ。」昔読んだ本の中に書いてあったこのような台詞を思い出しました。成長であったり気づきであったり私たちが歓迎できる変化もあれば病気の進行や老化のように受け入れることを拒んだり受け入れることに時間がかかることもあります。でもそこには必ず変わらないイエス様が共におられます。あなたは変化する存在ですが変わらないイエス様があなたといつも一緒です。

議長室から 大柴譲治

「聖なるもの」との出会い〜おそれとおののき

「これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、『主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです』と言った。」(ルカ5・8)

 「目の前に美しい花があってもそれを美しいと感じる心が私になければ、その花と出会うことはできない」。これは学生時代に美学の集中講義で今道友信先生から学んだことでした。確かに道端に咲く花の美と出会うためにはそれに気づく感性が求められる。でなければ素通りしてしまう。逆に言えば、自らの感性を研ぎ澄ますことができれば、どこにおいても真・善・美という普遍的な価値に出会うことができるということになる。そのためにも「ホンモノとの出会い」が必要となります。それはハッと思わず息を飲むような体験、深い感動を内に呼び覚まされるような体験です。ゲーテはファウストに「時よ、止まれ。お前はそのままで美しい」と言わせました。確かにそのような至高体験は、「今・ここに・私は・生きている」という鮮烈な実感を与えてくれます。山頂での御来光、澄み切った紺碧の空、たゆたう白雲、陽光にきらめく川面、自由に飛翔する鳥たち、夜空の満天の星、突然の虹の出現、等々。絵画や音楽、映画など芸術作品や書物との出会いもありましょうし、日常生活でのさりげない思いやりの言葉やしぐさに深く感じ入ることもある。

 「聖なるもの」との出会いの場合はどうか。その時私たちは畏怖の念に打たれます。「しかしお言葉ですから」と網を打ち、思わぬ大漁に接したペトロはイエスの前にひれ伏します。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」。彼はそこで聖なるお方と出会って震撼させられたからです。私たちも同じです。強い畏怖の念に打たれると共に自分はその前に立つ資格がない、相応しくないという恥と怖れに満たされる。主日礼拝の中に二つの「告白」(罪と信仰)があるのもむべなるかなです。コインの両面のようにそれらは表裏一体、不即不離の関係にあるのでしょう。
 復活の主と出会った弟子たちも同じでした。彼らは素直にはイエスとの再会を喜べなかったはずです。主を見捨てて自分は逃げてしまったという苦い記憶が影のようによみがえってきたことでしょう。自分は裁かれると恐怖したかもしれません。まばゆい光の前では濃い影ができるのと同じです。しかし主は彼らの心の動きをよくご存じでした。「恐れるな。あなたがたに平安があるように」。復活者の確かな声は弟子たちの複雑な思いを瞬時に消し去ります。完全な赦しと受容の宣言。神の力ある声が人間の恐れとおののきを揺らぐことのない歓喜へと変えてゆきます。このような聖なるお方との出会いが私たちを根底から新たに造り変えてゆくのです。

「教会讃美歌 増補」 解説

㉒創作賛美歌解説2
石原祐子(賀茂川教会)

増補37番「悲しみのなかで」

*祈ることもできない日に

「あなたはわたしのもの。
わたしはあなたの名を呼ぶ。」(イザヤ43・1)
「見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。」(ルカ15・4)
「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(ルカ23・42)

 四旬節に与えられた歌。
 わたしたちの中に痛みがあります。わたしたちの中に悲しみがあります。神さまがみえない、神さまを呼べない。神さまがおられるのならどうしてこんなことが起こるのかと思う。苦しくて御名を呼ぶことさえできない日があります。
 そんなときにも、主がわたしたちの名を呼び、さがし出し、とらえていてくださる。わたしたちのうめきに耳を傾けていてくださる。十字架と復活の主がすでに勝利していてくださる。
 自分の力ではなくこの主に信頼して、ゆだねてゆきたいと願います。

増補39番
「なつかしいあの場所へ」

*子どもたちと、子どもだった人たちのために

「あなたの祭壇に、鳥は住みかを作り
つばめは巣をかけて、雛を置いています。
万軍の主、わたしの王、わたしの神よ。
いかに幸いなことでしょう
あなたの家に住むことができるなら
まして、あなたを賛美することができるなら。」
(詩編84・4〜5)

 

教会学校の子どもたちの堅信式が行われ、感謝をささげるなかで与えられた、詩編84の歌。
 久しぶりに礼拝に出席することがゆるされた日、目を閉じて、皆が歌う賛美歌に耳を傾けました。わたしが賛美できなかった日にも、こうして世界中でずっと賛美と祈りがささげられていたことに気づかされ、感謝の思いがあふれました。
 主の家は帰る場所です。ひとときここをはなれることがあっても、主がわたしたちを呼びもどしてくださいますように。主の家へ。主のもとへ。あたたかい交わりの中へ。

「主の家に行こう、と人々が言ったとき
わたしはうれしかった。」
(詩編122・1)

世界の教会の声

浅野直樹Sr(世界宣教主事 市ヶ谷教会・スオミ教会牧師)

「ウクライナを覆う灰のとばり」

3月2日、四旬節の初日にあたる灰の水曜日にロシアのウクライナ侵攻に苦しむ人々を覚えて、世界のキリスト教徒が連帯と嘆きをともにしようと祈りをひとつにしました。このオンラインでのエキュメニカル礼拝には、その1週間前にロシアの戦闘機、戦車、軍隊の襲撃を受けたウクライナ東部国境地域に住む牧師や信徒たちも参加しました。礼拝はルーテル世界連盟(LWF)のほか、改革派、メソジスト、メノナイト、聖公会代表者らの共同開催で催されました。
 冒頭LWF事務局長アンネ・ブルクハルト師は、「二度と戻ってはならない時代へと世界を突き返してしまった人によるひねくれた政治」を非難しました。「灰のとばりがウクライナを覆っています。『あなたの兄弟はどこにいるのか、カイン?』、神は人類にむけて責任を求めています。この叫び声を暴挙の責任者の心に向けて呼びかけたいのです。」
 80カ国から3000人以上が礼拝に連なって各大陸から平和の祈りがささげられました。世界改革派教会共同体(WCRC)の事務局長ハンス・レッシング師がミカ書の預言「彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」を取り上げ、このみことばが今日まで3000年以上平和を作る人たちに感化を与え続け、すべての教会はこの平和作りという大変な作業のために召されていると述べました。
 2014年から紛争下にあるロシアとの国境に位置する町ルハンスクのメソジスト教会牧師アレクサンダー・シェフチェンコ師が証しをして、ロシアとウクライナの平和と政治指導者の賢明な解決を祈り求めました。包囲された都市ハリコフ近郊に位置するウクライナ・ドイツルーテル教会からパブロ・シュヴァルツ監督は公正な平和を祈り求め、そのためには侵略者と犠牲者の名前を挙げることもプロセスのひとつだと語りました。
 首都キエフにあるウクライナ正教会モスクワ主教座のミコラ・ダニレヴィッチ師は、連日80人規模の人々が爆撃から逃れようと地下シェルターに避難するという現状のなか、「我々も共にいるのです」と述べながら、正教会、プロテスタント、カトリック教会の連日の祈りと支援に対して感謝しました。また南東部の町ベルジャンスクのメノナイト教会、西部地域の改革派教会、西部ウクライナのアライアンス教会、ポーランドのバプテスト教会からの参加者たちが声を挙げ、困難なこの時期に支援を提供してくれる諸教会の活動に感謝しました。
 こうした危機のときにこそ、キリスト者たちの祈りと行動が希望もたらすとの力強い呼びかけで締めくくり礼拝は終了しました。

※ウクライナの平和を求める灰の水曜日の祈りについては下記サイトで紹介されています。
https://www.lutheranworld.org/news/pall-ashes-covers-ukraine-christians-join-prayer-peace

エキュメニカルな交わりから

 

①日本キリスト教協議会(NCC)第41回総会期の主題
藤原佐和子
(鶴ヶ谷教会・
NCC書記)

 

エキュメニカル運動は「教会の一致」を目指す運動と言われてきましたが、厳密には、神によってすでに与えられている一致(しかしながら、人間による罪の結果のために見えなくされている一致)を回復させていこうとする信仰運動です。この運動には、世界レベル、地域レベル(アジアなど)、国内レベルの拠点があり、日本では、日本福音ルーテル教会を含む6教団と、多くの加盟団体で構成される日本キリスト教協議会(National Christian Council in Japan、略称NCC)がその役割を担ってきました。日本には、外国にルーツを持つ人々が多く暮らしていますから、英語名称が「日本の」(of Japan)ではなく、「日本における」(in Japan)NCCとされている点は重要です。
 前総会期には、創立70周年を記念して「NCC主催・宣教会議」が東京で開催されました。そこで採択された「NCC宣教宣言2019」では、「日本におけるキリスト者はその人口の1%以下ですが、聖霊に押し出され、自己保存的な志向から解放されて、常に開かれた共同体、より包括的な共同体でありたいと願います」との姿勢が表明されました。これを受けて、昨年3月に始まる第41回総会期は、「すべての人に命と息と万物とを与えてくださるのは、この神だからです」(使徒言行録17章25節b)という聖句に基づき、「神の与えてくださるすべての命を愛する者として」という主題のもとに活動しています。6名の役員のうち、吉髙叶さん(日本バプテスト連盟)、西原美香子さん(日本YWCA)、筆者の3名が新しく就任し、これまで牧師・男性がほとんどであった役員会に、信徒・女性が増えました。
 現在のNCCには、ルーテルの教職者がリードされている在日外国人の人権委員会(李明生牧師)、平和・核問題委員会(内藤新吾牧師)、部落差別問題委員会(小泉嗣牧師)など、この世においてキリスト者としての社会的責任を果たしていこうとする大切な働きが沢山あります。正義、平和、被造世界の修復をはじめとして、エキュメニカル運動が取り組むべき諸課題は多岐に渡る一方、一人ひとりの意欲や能力には限界があります。ですが、「すべての人を一つにしてください」(ヨハネによる福音書17章21節)という、他ならぬイエス自身の祈りに共鳴し、私たちの限界を超えて働いていて下さる神に信頼し、教派を超えて、たゆまず協働(共に働くこと)していこうとするのが、エキュメニカル運動です。次回は、NCC「ジェンダー正義に関するポリシー策定のためのワーキンググループ」を紹介します。

青年有志によるオンライン配信プログラム
「NYNCステーション」のご案内

⻆本洵(神水教会)

ルーテル青年有志団体No Youth, No Church(以下、NYNC)が、今月から新たな試みをスタートします。今回は「NYNCステーション」と題したラジオ型式の企画です。昨年は、我々NYNCが1泊2日のオンライン合宿と、Pray! Play!! Friday!!!【ぷれぷれ】と題した月に1度のオンライン集会を開催し、ルーテル青年、ルーテル学院生との交流が与えられました。オンライン合宿も「ぷれぷれ」も、非常に充実した時間を過ごすことができましたが、昨今問題となっている「オンライン疲れ」は避けられない課題でありました。また、参加対象として18歳から35歳までの年齢制限を設けたことで、対象から漏れてしまった方々もいらっしゃいました。新たな企画を始めるにあたり、スタッフで議論した結果、スタッフや参加者のオンライン疲れを回避し、なおかつ開かれた企画を発信するためには、思いきってラジオ配信にしてみてはどうか、という結論に至りました。ラジオ配信にすることで、顔と顔を合わせた交流は難しくなりますが「いつでも」「誰でも」「どこでも」聴けることがメリットとして挙げられ、青年だけでなくルーテル教会につながる全国の皆様、さらにはこれから信仰に入ろうとしている方にも聴いていただけると考えています。配信プログラムは、パーソナリティによるお便りの紹介、ゲストとしてお招きする(他教派含む)牧師や信徒による証し等を予定し、現在準備を進めています。「NYNCステーション」は「ルーテル教会はもちろん、教派や宗教を超えた神様とのつながりをラジオ型式で発信することで、信仰のかたちを再確認し、青年たちの日常生活、繋がり、信仰生活の後押しをする。」ことをミッションステートメントとして掲げ、活動してまいります。月に1度、教会の仲間に、そして神様に心を向ける時間を有志の青年たちで作っていきたいと考えます。第1回は恵み野教会牧師中島和喜先生をお招きしての配信です。私たち青年の活動をお祈りに覚え、NYNCステーションをお楽しみいただけましたら幸いです。

【NYNCステーション】
期間 4月から8月までの全5回 第1回は4月22日(金)20時配信予定
ゲスト 中島和喜牧師
配信方法YouTubeもしくはPodcast「NYNCステーション」で検索

第28期第16回 常議員会報告

事務局長 滝田浩之

 

2月21〜22日にオンライン会議で開催された標記の件について、ご報告申し上げます。

⑴第29・30回定期総会の件
 5月3〜5日(火〜木)に予定されています定期総会につきましては、3月28日に開催する臨時常議員会において開催の是非を最終確認することとなりました。開催についてはまん延防止等重点措置、緊急事態宣言が発令されていないことはもちろんですが、参加者の多くが高齢であること、また教職についても社会福祉法人、学校法人、幼稚園・保育園との関りのある者が多いことを加味しつつ判断することを確認しました。顧問弁護士からの助言として、定期総会は憲法・規則に開催することが明記されており、すでに2年の延期を行っていることからも最大限、開催することが前提となること。しかし最終的には総合的な判断をもとに再度の延期を常議員会が判断することができると、すでに常議員会で承認した憲法規則改正委員会の答申を妥当とする旨の確認を頂いているところです。なお常議員会として、総会選出常議員(議長等)については2022年5月末をもって2期4年の任期を終了しているとの理解を確認しました。

⑵市ヶ谷耐震補強工事について
 財務委員会から市ヶ谷事業所をテナントとして利用されている団体より、2022年度内に可能な限り耐震補強工事の実施を強く要望されていること。また工事が延期されて以降、テナントを利用する職員の意識が高まったこともあり、事業所内の設備について特に感染症への対策を求められていることが報告されました。これを受けて、財務委員会としては一旦は工事費について1億5000万円ほどの減額を進めてきましたが、新たな要望を踏まえて工事費を4000万円増額した6億7000万円とする市ヶ谷耐震工事事業計画を常議員会に提案し、これが承認されました。
 常議員会は、この件については定期総会が延期された場合、4月25〜26日に予定している常議員会において宗教法人法第26条を適用し検討することを確認しました。検討にあたっては、耐震工事の更なる延期によるテナントとの契約解消に伴う財務的な課題、日本福音ルーテル教会所有の建物における大地震発生に伴う社会的な責任等が課題になることを確認しているところです。また耐震補強工事を実施するという点については、すでに2018年の第28回定期総会において承認されていることも検討を行う上で重要な議決であることを分かち合いました。

⑶総会提案の議案について
 総会では、「第7次綜合方策」、「アジア伝道について」、「ハラスメント常設委員の件」、「神学教育に関する協約の件」、「市ヶ谷耐震補強工事の件」、「決算・予算」について提案することを常議員会は承認しました。総会が延期された場合は、4月25〜26日に予定する常議員会において議案の扱いについて検討されることになります。総会が開催される場合は議案として提案されることとなります。ご審議をよろしくお願い申し上げます。

⑷「任用制度見直し」の件
 東教区常議員会から提案された、「任用制度見直しについての提言」を受けて常議員会では、これを教職を取り巻く働き方への全般的な問題提起と捉えた上で、憲法規則改正委員会に扱い方も含めて付託することを承認しました。今後、個別の状況にある教職からのヒアリング、また現行の「招聘と応諾」の考え方を確認しつつ検討が行われていくことになります。

 

以上、ご報告いたします。詳しくは送付されます常議員会報告をご確認ください。

2022年度日本福音ルーテル教会人事

 

〈退職〉
(2021年7月31日付)
太田一彦 (定年引退)
宮川幸祐 (退職)

(2022年3月31日付)
德野昌博 (定年引退)
杉本洋一 (定年引退)
中村朝美 (定年引退)

〈新任〉該当なし

〈人事異動〉
(2022年4月1日付)

【北海道特別教区】
該当なし

【東教区】
高村敏浩
仙台教会(兼任)、鶴ケ谷教会(兼任)、(2021年8月1日~2022年3月31日)
松岡俊一郎
仙台教会(兼任)、
鶴ケ谷教会(兼任)
小澤周平
千葉教会(主任)
中島康文
津田沼教会(兼任)
関野和寛
津田沼教会(嘱託/2021年12月1日付)
滝田浩之
小石川教会(主任・兼任)
奈良部恒平
本郷教会(主任)
三浦知夫
板橋教会(兼任)
高村敏浩
羽村教会(兼任)
浅野直樹jr.
八王子教会(兼任)
坂本千歳
八王子教会(嘱託)

【東海教区】
後藤由起
名古屋めぐみ(主任)、知多教会(兼任)
徳弘浩隆
高蔵寺教会(主任)、復活教会(兼任)
後藤直紀
大垣教会(主任)、
岐阜教会(兼任)

【西教区】
竹田大地
天王寺教会(主任)、西宮教会(協力牧師)
水原一郎
西宮教会(兼任)
神﨑伸
神戸教会(主任)、
神戸東教会(兼任)

【九州教区】
小泉嗣
熊本教会(主任)、
玉名教会(兼任)
【任用変更】
関野和寛
 一般任用から嘱託任用へ

【休職】
渡辺高伸
2020年10月14日付

【復職】
坂本千歳
(嘱託任用)

【宣教師】
Mirjam Harju
2022年5月末帰国

【J3プログラム】
〈新任〉
Laura Slezak
 九州学院
Volamala Ranaivoson 
 本郷学生センター
〈任期終了〉
Jessica Hill

○牧会委嘱(2022年4月1日付/1年間)
德野昌博
 仙台教会/鶴ケ谷教会
小山茂
 板橋教会
横田弘行
 掛川菊川教会
明比輝代彦
 新霊山教会
齋藤幸二
 知多教会
大宮陸孝
 賀茂川教会
乾和雄
 神戸東教会

白髭義
 二日市教会
黄大衛
 長崎教会
濱田道明
 合志教会

○ルーテル学院大学・日本ルーテル神学校人事
立山忠浩
校長(再任/2022年4月1日~2026年3月31日・都南教会と兼務)

2022年度教会手帳住所録訂正のお願い

2022年度教会手帳住所録19頁、《引退》のV・ソベリ先生の住所が変更となりました。新しい住所は以下の通りです。

V・ソベリ
(Virpi Soveri)
Hepomäemkatu
4 B 2
80140 Joensuu
FINLAND
(電話番号・Eメールアドレスに変更はありません。)

22-03-01るうてる2022年03月号

機関紙PDF

「受難節を憶えて—あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ—」

日本福音ルーテル熊本教会・玉名教会 牧師 杉本洋一

「イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。
 神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」」
マタイによる福音書4章4節

3月2日の聖灰水曜日から、典礼色も「紫」に変わります。礼拝式文からも福音に先立って歌われていた「ハレルヤ唱」は歌われなくなり、替わって〝キリストはおのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで み旨に従われた〟との詠歌が唱えられます。この期節は、典礼色が示すとおり、真剣な〝悔い改め〟の時となります。

前年の棕櫚主日に使われた棕櫚の葉を燃やして作った灰を取っておき、この日に信仰者の額に、灰で十字のしるしをつけながら、司式者は「あなたは、塵であるから、塵に帰ることを覚えよ」とのことばを添えることも行われてきました。

この「ことば(の持つ意味)」と「灰」により、メメント・モリ(memento mori=「汝の死を忘れるな」)が意識されてきました。〝この世の美しさも、地位も名誉も財産も、しばしの栄華にすぎず、やがてそれらは夢のように消えていく。どんな人であっても、死んだときに残るのは、ただ一握りの灰である〟という死と、朽ちるものであるということを学ぶことでもあります。つまり、それはキリストの苦難と死の意味について考えることであり、その苦難と死へイエス・キリストを導いたのは、わたしの「罪」であり、真の悔い改めを心に刻むことを「灰」は教えようとするのです。灰は死のシンボルですし、生命が、もうぜんぜんないというしるしでもあるのです。

もう3年目に入りますが、私たちは、コロナ感染の不安や心配、閉塞感の中にあります。聖餐式も行いづらい中にあります。パンと葡萄酒をもって、キリストの体と血をいただくことをしてきました。それと同様に、聖灰水曜日は、額に灰をつけることを通して、自分が罪人であることを、自分が罪の中にあることを、死ぬことを憶えるのです。

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3・16)とは、神がどれほどの愛をもって、一人ひとりを愛してくださっているかを感じることのできるみ言葉です。私達の罪を私達から取り去るために、イエスさまが十字架上で死ななければなりませんでしたが、イエスさまの苦しみ、痛み、淋しさ、捨てられた事、侮辱、鞭打ち、死がその背後に裏打ちされているのです。しっかり心に留めたいのは、私達は、「灰」を通して、愛のしるしを見、いのちの神を見ることです。今年も受難節で、私達を赦すために、イエスさまがどんなに苦しみを背負われたことか、悲しい思いをされたのか、つらい思いをされたのかを思い起こし、憶えましょう。
 「灰」である私たちに、いのちの息を吹き込まれたのは神さまです。自己本位にしか生きることのできない存在の私たちと共に生き、支えてくださるのは神さまなのです。
 今、全世界が経験したパンデミックの中で、イエスさまは、語り続けます。「パンだけで生きるものではない」と。それは「パンがなくても良い、生きていける」などと荒唐無稽のことをおっしゃられたのではありません。パンは必要、パンも必要なものです。しかし、パンだけあれば、すなわち体の健康・生活の支えさえあれば私たちは良いのかという問いです。人は、心も体もあるものとして創られました。その全体において、心において生きる価値を味わっているだろうか、人としてこの世に生まれたこと、生かされている喜びはあるだろうかと尋ねておられるのです。

イエスさまは40日間の断食のあと、ガリラヤに戻って、共に食べ、飲み、喜び合う共同体を作っていきます。そこでイエスさまは、イスラエル民族が「荒れ野の40年」で学んだはずの、「人はパンだけで生きるものではない」という精神を受け継いで、貧しい者や弱っている人、あるいは罪人といわれて社会から排除されているような人びとを招いて食事をするということを実践していきました。

いま私たちは、このイエスさまの心を受け継いで、共に食べ、飲み、分け合って喜び合う関係を、つながりを、全ての人に開かれたものとして実現することが求められているのかも知れません。

エッセイ「命のことば」 伊藤早奈

㉔「祈り」

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」(マタイ7・7)

  「どうして今私はここにいるんだろう。」と良く思います。きっとあの時も命のことばであるイエス様と共にあの人が私と一緒に歩いてくれたからだ。
 生きている中で一人一人それぞれがいろんな人に出会うでしょう。そのあなたが出会う人も必ずイエス様が共におられます。私は検査入院の時に強い孤独を感じ「辛い時に話をゆっくり聴いてあげる人になりたい」とまずカウンセラーになりたいと思い資料をかき集め始めました。その時は一般的な勤めをしていたので社会人入試ができる学校を探していました。基本には必ずキリスト教があって欲しいと思いながらたくさん資料を送ってもらいましたが全然見つけられず困っていました。ある時知人が知り合いの心理学を学んでいる人に相談したところ、ルーテル学院のカウンセリングコースを紹介されました。
 その導きがなければ私は今ルーテル教会にはいません。学校でいろんな仲間や先生に出会いそしてみ言(ことば)に出会い今があります。神学校卒業の時久しぶりに会った、私に学校を紹介して下さった方が「こうなると思ってました」と言われました。それを聞いて私は「祈って下さってたんだ」と初めて気づき感謝しました。一人一人にはいつもイエス様が共におられます。それは今もこれからもずっと。「あなたは一人ではありません」

議長室から 大柴譲治

「二つのJ」を愛する〜文楽・豊竹呂太夫

 内村鑑三に「われは二つのJを愛する。即ちJesusとJapanを」という言葉があります。確かに私たちの国籍は天にあるとしても、この二つは共に天から贈り与えられている賜物。遠藤周作は「洋服のキリスト教」を「和服」にするという課題を自らに課しましたが、ともすれば異質なこの二つのJをどのように統合するかは日本に生きるキリスト者として一人一人に求められている信仰告白的な課題でありましょう。事柄としてはキリスト教の日本での「文化内開花/土着化/文脈化」ということになります。

 大阪教会員の林雄治さん(1947〜)は、2017年4月に「六代目・豊竹呂太夫」を襲名された文楽の太夫です。襲名に合わせて『文楽 六代豊竹呂太夫・五感のかなたへ』を出版(創元社2017。Kindle版あり)し、文楽の面白さを大変分かり易く伝えています。文楽は江戸時代に大阪で成立した人形浄瑠璃文楽で、日本の重要無形文化財、ユネスコの無形文化遺産。人形と太夫と三味線が三位一体のような役割を果たしますが、氏はお客さんを含めてそれを「四位一体」と言われます。「お客さんは、喜怒哀楽を巧みに演じる『意思のない人形(木片)』に自分を投影しつつ、己の想像力によって喚起される「私」自身の物語に出会うわけです。この「四位一体」総がかりのすさまじいエネルギーで物語が展開されていく文楽の舞台。これがもう300年以上続いてまして、伝統芸能、古典芸能と呼ばれる所以です」(朝日新聞社言論サイト『論座』2022年1月3日掲載記事より)。

 氏は2000年に豊竹英太夫という名で自らの信仰告白として新作『Gospel in文楽〜イエスの生誕と十字架』を創作。これまで人形入で17回公演されてきました。DVDもあって部分的にはYouTubeで鑑賞も可能です(英語字幕付)。「もろ人の罪を贖わんと十字架にかかりたもう、人となりたる生ける神なり、生ける神なり」という語りは観る者の心にダイレクトに響きます。2017年10月29日には大阪教会でも宗教改革500年を記念した楽劇『ルター〜文楽とルネサンス・ダンスの邂逅』(上村敏文作)の中で『ゴスペルイン文楽』を抄演していただきました。その記録DVDをドイツや米国の教会に持参したところ大変に喜ばれています。キリスト教の日本文化内開花を考える上で一つの貴重な実践例です。本年7月6日には兵庫県立芸術文化センターで18回目の公演が行われる予定で今から楽しみにしています。天から賜った二つのJを恵みとして深く味わいたいものですね。

「教会讃美歌 増補」 解説

㉑創作賛美歌解説1(※公募に寄せられた創作賛美歌の作者による解説を紹介いたします。)
石原祐子(賀茂川教会)

増補24「救いの主イエスよ」

*待降節に
「わたしの魂は主を待ち望みます
見張りが朝を待つにもまして
見張りが朝を待つにもまして。」(詩編130・6)
「『然り、わたしはすぐに来る。』アーメン、主イエスよ、来てください。」
(黙示録22・20)

 

主のご降誕をともに待ち望む恵みを感謝いたします。
 闇しかみえない日。絶望のなかに落ち込んで抜け出せないとき。眠ることができない長い長い夜。
 「神さま、来てください」とひたすら呼び求めます。わたしたちはあてもなく願うのではない。ひとりで待つのではない。
今このときも、同じ地上のどこかで主を求めて祈っている多くの友と共に、すでにみわざを始めてくださっている主の確かさに信頼して、待ち望みます。
 心合わせて信じ、歌い、祈り合いながら、歩ませていただきたいと願います。

増補34番「いかに幸いなことか」

*主にある友のために
「エシュルンの神のような方はほかにはない。
あなたを助けるために天を駆け
力に満ちて雲に乗られる。
イスラエルよ、あなたはいかに幸いなことか。
あなたのように主に救われた民があろうか。」
(申命記33・26、29)

友の病気を知らされ、そのつらさを思い、なんと声をかけたらよいのかわからず祈っていた日に、このみことばが与えられました。
悲しんでいるわたしたち、病のなかにあるわたしたち、うちひしがれて途方にくれているわたしたちに、主は今、「あなたは幸いだ」と宣言してくださいます。
 自分の中に人を励ます力はないけれど、この主の祝福を、心をこめて伝え合う者にならせていただきたいと願います。
主がみことばによって力強く約束してくださったように、今、盾となって大切な人たちを守り、永遠のみうでによって支えていてくださいますように。

世界の教会の声

浅野直樹Sr(世界宣教主事 市ヶ谷教会・スオミ教会牧師)

変化の時代における洗礼

 ルーテル世界連盟LWF北欧地区の5教会がプロジェクト「変化の時代の洗礼」を企画、1月末にオンライン協議を行い、異なる状況や年代層に応じた洗礼の実践と典礼をどうするかなどについて話しあわれました。
 このプロジェクトは2020年から2022年にかけて行われ、北欧5カ国のルーテル教会(デンマーク、フィンランド、アイスランド、ノルウェー、スウェーデン)が進める総合計画「変化の時代における教会」の第1弾にあたります。
 プロジェクトの責任者ハラルド・ヘグスタット教授によると、「北欧の状況は類似しているとはいえ違う点もあり、たとえば洗礼式は主日礼拝に教会でするだけでなく、自宅やそれ以外の場所だったりします。」
「COVID-19はこうした洗礼のやり方に確かに影響を与えています。パンデミックが始まって小児洗礼者数は減少しました。今後「ノーマル」に戻るかどうかは今の時点ではなんとも言えません。」
「洗礼式を礼拝という公共の場ではなく、個別に行うケースが増えてきました。この傾向はパンデミックが今後どうなっていくかに関わらず、北欧の教会では続く可能性があります。」
 プロジェクトはその成果として18の検討課題を提示しました。これは各教会から出されたテーマを手がかりとして、洗礼式の具体例を紹介しつつ課題や問題点を検討した結果、整理されたものです。これが各教会での洗礼の実践を規制するというわけではなく、どう活用するかは各教会の判断に委ねられます。
「プロジェクトを実施したことで思わぬ効果もありました。教会指導者や牧会者レベルでのつながりが強くなりました。これまでも北欧の各教会では様々な共同作業がありますが、お互いから学ぶという姿勢が今回は特に顕著でした。共通言語として英語を用いたのもよかったです。」(ヘグスタット教授)
 イレニウス・ルカスLwFヨーロッパ局長は次のように述べています。「LWF加盟教会の共同作業だったという点に注目しています。信仰の基礎的テーマについて共同研究できたことで、今後もっと幅広い神学的な議論と意見交換が可能になるでしょう。他の地域でもこのプロジェクトを参考にしてほしいです。」
 プロジェクトを締めくくるオンライン協議会では、洗礼に関して次の4点から全部で18の検討課題が提示されました。⑴社会変化と統計、⑵洗礼の神学、⑶洗礼のコミュニケーション、⑷洗礼の実践。

※18の検討課題は下記サイトで紹介されています。
https://churchesintimesofchange.org/recommendations

2022年度教会手帳 住所録訂正のお願い

 

「母子生活支援施設ベタニヤホーム」の電話番号が古い情報のままとなっておりました。
お詫び申し上げますと共に、謹んで訂正させて頂きます。現在の情報は以下の通りです。

母子生活支援施設
ベタニヤホーム
電話(03)6240―2785
FAX(03)6240―2795

オンラインによる全国青年の集い Pray!Play!!Friday!!!報告

髙濱遼太(健軍教会)

全国のルーテル教会につながる35歳以下の青年を対象としたオンラインでの青年の集い「Pray!Play!!Friday!!!」略称【ぷれぷれ】が昨年7月から12月にかけて月に1度、6回開催され全国から各回30〜40名ほどの参加者が集いました。
 昨今激減した青年同士の交わりや分かち合いの時を定期的に持ち、新たな同世代の信仰の友との出会いの場所を持てたらと願ってのことであり、有志の青年によって企画されました。今回の【ぷれぷれ】では、共に聖書を開き、みことばを分かちあうことで、神様との関係、教会との繋がりについて考えるだけでなく、7月16日は竹田大地先生、8月27日は角本浩先生、9月3日は和田憲明先生、10月1日は永吉穂高先生、11月26日は河田優先生、12月17日は関野和寛先生をお招きし、青年に向けた聖書のお話をしていただきました。さらに様々なレクリエーショやトークセッションを企画し、コロナ禍によって失われていた青年同士の交流の時を持つことができました。また【ぷれぷれ】では全国のルーテル教会の青年だけでなくルーテル学院大学の学生も参加の対象とし、新たな仲間との出会いの時とすることができました。
 コロナ禍によって青年活動のあり方も大きく変化しましたが、対面では簡単には会うことができない全国の仲間とオンラインでつながることができ、このような状況にあっても神様を通して私たちがつながっているということを、参加者一人一人が実感できたのではないかと思います。【ぷれぷれ】は12月をもって終了とさせて頂きますが、今回の企画が青年にとって神様や教会とのつながりについて考えるきっかけとなればと願っております。
 最後になりましたが、ゲストとして参加していただいた先生方、【ぷれぷれ】のために案内告知をしてくださった方々、スタッフとして尽力してくださった方々、何より【ぷれぷれ】を最後まで守り導いてくださった神様に感謝しこの報告を終えたいと思います。

ルター研究所〝クリスマス講演会〟報告

江口再起(ルター研究所所長)

 

1521年、ルターは珠玉の名品『マグニフィカート講解』を出版しましたが、その500年を記念して、ルター研究所では〝クリスマス講演会〟をオンラインで開催しました(2021年12月12日)。全国100カ所で視聴され盛会でした。
 マグニフィカートとは、受胎告知を受けたマリアの、神への賛美の歌です(「マリアの賛歌」、ルカによる福音書1章46節以下)。ヴァルトブルク城に保護幽閉されていた時、ルターはその解説書を著わしました。
 講演会は3部構成で行われました。第1部は江口再起(ルター研究所所長)の講演「待つということ─マリアと現代」でした。ここで「待つ」とは、神の顧みに信頼して謙虚に生きるということです。このテーマを現代ドイツの哲学者ハイデガーの「ゲラッセンハイト(放下)」という言葉を参考に考えました。
 第2部は、バッハ作曲「マグニフィカート」の見事な演奏(聖トマス教会でのT・コープマン指揮)。加藤拓未(バッハ研究者)が解説を担当しました。
 第3部は3人の発題者によるシンポジウム「ルターとマリア」でした(司会は石居基夫ルーテル学院大学学長)。最初に滝田浩之(JELC事務局長)が、ルターを尊敬していた将来のザクセンの統治者若きヨハン候との関係の中で、この名著が執筆された経緯について、自らのこの本との出会いを交えて話があり、次に多田哲(日吉教会牧師)が当時のカトリックとルターのマリア像のちがい(祈願から賛美へ、崇敬から記念へ、代弁者から共に祈る者へ)等について語りました。そして最後に安田真由子(ルーテル学院大学講師)が、専門の新約学そして女性の立場から論じました。マリアは1人の素朴な少女であった事、同じ恐れと喜びを共有していたエリザベトとの出会いの重要性、また賛歌の底流に権力への批判がある事などが語られました。三者三様、内容豊かなシンポジウムとなりました(敬称略)。
*なお、第1部と第3部の録画は、日本ルーテル神学校のホームページの「ルター研究所」のサイトから見ることができます。

公 告

 この度左記の行為を致しますので、宗教法人法第23条の規定に基づき公告致します。
2022年3月15日
宗教法人日本福音ルーテル教会
代表役員 大柴譲治
信徒利害関係人 各位

 甲佐教会牧師館 解体
・所在地 熊本県上益城郡甲佐町岩下西園
・所有者 日本福音ルーテル教会
・家屋番号 207番地
・種類 教会 牧師館
・面積 69・22㎡
・老朽化のため

定年教師挨拶

太田一彦

私は昨年の7月心臓病のため退職させていただくことになりました。年度途中の退職は、遣わされている2教会と三つの保育園にまた教区に大きな迷惑をかけることになるので3月迄は頑張りたいと思いましたが、すでに入退院を繰り返しておりその思いが単なる自己満足になって更なる迷惑をかけることが目に見えていましたので、担当医の復帰は無理だろうとの言葉もあり正規の定年まではまだ2年ありましたが退職を決断させていただきました。
 思い起こせば幼少より東京教会の教会学校で育てられ、教職として今日まで主がルーテル教会に私を生かしてくださったことにただただ感謝しております。最初の任地は仙台教会、そして三鷹教会、都南教会、再び仙台の鶴ヶ谷教会・仙台教会でした。皆様に支えられて歩んでくることができた喜びと感謝に今満たされています。草は枯れ、花は散る。しかし神の言葉は永遠に残るとのイザヤの言葉を今退職するにあたり噛み締めています。
 現在は長男の赴任先の気候温暖な静岡市で療養を兼ねて過ごしております。家の中での生活ですがもう暫くこちらで過ごし、許されれば東京に戻りたいと思っているところです。これまでありがとうございました。

「支えを感謝して」杉本洋一

 今、主のご用のために用いていただけたことを感謝しています。これまでかかわりを持っていただいた多くの方々、とりわけ、遣わされた教会の信者・関係者・地域の方々、そしてお付き合いくださった教職者に対しお礼を申し上げたいと思います。私は、神大卒業の後、キリスト教主義学校の教員として、そして牧師として働いてきました。忘れられないことばかりです。得難い経験をさせていただく時間でした。「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」は、私が洗礼を受けてからずっと響いている言葉です。今はもう天に召された教え子のK君は、再び神学校へ戻って牧師になるようにとのきっかけを作ってくれた生徒でした。棺に入った彼の顔は忘れられません。初任地の健軍で、施設を通してのつながりを持ち、育った子どもたちにとっては郷里であることに違いありません。フィンランドでは素朴で熱心な信仰に生きる人々との出会いがあり、深いつながりを今も持っています。田園調布では、地域とのつながりを教会と幼稚園で教えられました。熊本・玉名は、歴史の大事さや熊本地震を通して、人との関係をいただきました。
〈これまでの任地〉健軍教会(熊本)、フィンランド福音ルーテル協会(フィンランド・ヘルシンキ)、田園調布教会・田園調布ルーテル幼稚園(東京)、熊本教会・玉名教会(熊本)

「新たな旅立ち」德野昌博

 わたしは1980年3月に神学校を卒業し、東海教区の名古屋教会で按手を受けました。最初の任地は東海教区の岡崎教会で、5年間働きました。次に任を受けたのは、北海道特別教区の恵み野教会で10年間。そして、西教区の天王寺教会で3年間。その後、熊本の九州ルーテル学院で8年間、大学と幼稚園のチャプレンとして働きました。その後、東教区の小石川教会に転任し、16年間働いて定年退職します。42年間の現役牧師生活でした。
 「40年で終えると、聖書的でいいなぁ」なんて勝手なことを思い描いていましたが、最後の2年間は、いわゆる「コロナ禍」にあって、教会の活動も、牧師の働きも制限してきました。そのせいか、すっかり定年教師になった気分になり、小石川教会には申し訳ない思いでした。それでも、神様の恵みは牧師としての人生に働き、教会の歴史の中に働いていることを実感させられてきました。神様の恵みは、過去の歩みの中だけではありません。未知である、私の老い行く将来もまた、神様の恵みのみ手の中にあることを感謝します。思い新たに、喜んで、「牧会委嘱」の任をいただいて、旅立ちます。皆さん、ありがとうございました。

中村朝美

 40年前、ルーテル神学大学神学科神学専修コースに入学し、大学改組前の最後の卒業生です。「荒れ野の40年」とよく言われますが、私にとっても40年という年月はいろいろな変化がありました。当時、いろいろな場面で選択肢が欲しいと願っていました。今では任用形態も一般、嘱託を選ぶことができ、夫婦同居、単身赴任、通称使用の選択も自由にできるようになりました。とても嬉しいことです。また、名簿から男女の区別を撤廃したことを通して、「個」を尊重することの大切さを広く伝えてゆければ良いと願っています。按手を受けてからずっと、「定年まで牧師生活を全うしなさい」と励まし続けてくださった方がおられたことは何よりの支えとなっていました。東海教区で20年間、希望、岡崎、高蔵寺各教会、また九州教区での講壇交換を通して多くの教会で共に礼拝を守れたことは幸いでした。東海教区では炊き出しを始めとした野宿労働者支援に関わり、その後、宮崎教会を経て八王子教会を以て現職生活を終えることになりました、今までお支えに感謝いたします。

第7次綜合方策の紹介⑾

事務局長 滝田浩之

■方策本文より

第7次綜合方策主文
10.ハラスメント

⑴被害届窓口の新設
 ハラスメント事案に対処するために相談窓口を設ける。

⑵解決システムの構築
 解決に取り組むための体制を構築する。

⑶防止を目指す
 ハラスメントの解決に取り組む組織は、発生した事案に対処するだけではなく、防止することを目的とする。そのために学習の機会を設け、継続する。今後、ハンドブックの作成、啓発活動に取り組む。

1.教会財務
⑴公益会計・基金会計・収益会計

 2010年に総会において採択された「財政内容好転緊急提案」に基づき、日本福音ルーテル教会の公益会計、基金会計、収益会計は、これを持続的に運営する体制を整えてきた。今後も、この方向性を堅持する。

⑵土地・建物計画
 教区を軸として進められる教会編成を土台としつつ、持続的な建物計画に関して、収益事業の見通しから2028年以降、これを実行できる体制を整えていく。また老朽化対策の規則改正を検討する。
 この場合、地域の宣教体制が大胆に編成される時、宣教拠点となる教会建物への土地売却益の用い方について、地域を超えて教区の宣教計画の中で用いられる可能性について検討を開始する。

⑶教職退職金・教会年金
 引退教師を支える教職退職金、教会年金については、現状の体制を維持することに努める。

■解説
「ハラスメント」

 日本福音ルーテル教会は、あらゆる「ハラスメント」を許さない!ということを改めて、私たちが大切にしていく事柄として確認したいと思います。そして何よりも「ハラスメント」とは何かという学びを深めていく必要があります。また「ハラスメント」事案の特徴として、できるだけ早い段階で「相談窓口」にご相談頂くことは事柄を深刻化させないためにも重要なことです。「相談窓口」を委託しているフェミニズム・カウンセリング東京は、24時間体制で相談を受け付けてくださっています。メールでもご相談頂けます。
 また「ハラスメント」を起こさないことが一番大切なことですけれど、私たちはいつでも「ハラスメント」の当事者になり得るという自己認識が必要です。そして「ハラスメント」を起こしてしまった時に、できるだけ早く事柄の重要性に気づき適切な対応を取れる組織でありたいと願っています。個々の教会のみならず、関連する法人・施設、TNGの行うキャンプに関わる方々に、その点をご理解頂けますと幸いです。

「教会財務」
 教会の財務については1969年のアスマラ宣言から50年を経過しています。2003年からは海外からの人的支援を除くすべての直接的金銭支援が終了しています。来年で20年を経過することになります。この間、日本福音ルーテル教会として自立路線と言われる道筋を様々な方策を通して形にしてきました。これらの経験を踏まえつつ、これからも目まぐるしくかわる社会状況の変化に対応していくことになります。
 しかし財務的な経験を通してはっきり言えることは、最も確かな教会の財源は会員の皆様の貴い「献金」です。収益事業は、特に今回のコロナ禍で明らかなように大きく変動するものです。そして教会の様々な課題を解決していく糸口、それは個々の教会の確実な成長です。「確実」という言葉を用いました。この「確実な成長」のあり方について、第7次綜合方策全体は語ってきたと理解しています。
 方策の解説の場を与えられたことを感謝しつつ、日本福音ルーテル教会が、み言葉を伝え、隣人を愛し、平和を願う道を通して、地道に、そして確かに「キリストの教会」に成長することを願っています。 (了)

22-03-01イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」

イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。
神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」
マタイによる福音書4章4節

 3月2日の聖灰水曜日から、典礼色も「紫」に変わります。礼拝式文からも福音に先立って歌われていた「ハレルヤ唱」は歌われなくなり、替わって〝キリストはおのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで み旨に従われた〟との詠歌が唱えられます。この期節は、典礼色が示すとおり、真剣な〝悔い改め〟の時となります。
 前年の棕櫚主日に使われた棕櫚の葉を燃やして作った灰を取っておき、この日に信仰者の額に、灰で十字のしるしをつけながら、司式者は「あなたは、塵であるから、塵に帰ることを覚えよ」とのことばを添えることも行われてきました。
 この「ことば(の持つ意味)」と「灰」により、メメント・モリ(memento mori=「汝の死を忘れるな」)が意識されてきました。〝この世の美しさも、地位も名誉も財産も、しばしの栄華にすぎず、やがてそれらは夢のように消えていく。どんな人であっても、死んだときに残るのは、ただ一握りの灰である〟という死と、朽ちるものであるということを学ぶことでもあります。つまり、それはキリストの苦難と死の意味について考えることであり、その苦難と死へイエス・キリストを導いたのは、わたしの「罪」であり、真の悔い改めを心に刻むことを「灰」は教えようとするのです。灰は死のシンボルですし、生命が、もうぜんぜんないというしるしでもあるのです。
 もう3年目に入りますが、私たちは、コロナ感染の不安や心配、閉塞感の中にあります。聖餐式も行いづらい中にあります。パンと葡萄酒をもって、キリストの体と血をいただくことをしてきました。それと同様に、聖灰水曜日は、額に灰をつけることを通して、自分が罪人であることを、自分が罪の中にあることを、死ぬことを憶えるのです。
 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3・16)とは、神がどれほどの愛をもって、一人ひとりを愛してくださっているかを感じることのできるみ言葉です。私達の罪を私達から取り去るために、イエスさまが十字架上で死ななければなりませんでしたが、イエスさまの苦しみ、痛み、淋しさ、捨てられた事、侮辱、鞭打ち、死がその背後に裏打ちされているのです。しっかり心に留めたいのは、私達は、「灰」を通して、愛のしるしを見、いのちの神を見ることです。今年も受難節で、私達を赦すために、イエスさまがどんなに苦しみを背負われたことか、悲しい思いをされたのか、つらい思いをされたのかを思い起こし、憶えましょう。
 「灰」である私たちに、いのちの息を吹き込まれたのは神さまです。自己本位にしか生きることのできない存在の私たちと共に生き、支えてくださるのは神さまなのです。
 今、全世界が経験したパンデミックの中で、イエスさまは、語り続けます。「パンだけで生きるものではない」と。それは「パンがなくても良い、生きていける」などと荒唐無稽のことをおっしゃられたのではありません。パンは必要、パンも必要なものです。しかし、パンだけあれば、すなわち体の健康・生活の支えさえあれば私たちは良いのかという問いです。人は、心も体もあるものとして創られました。その全体において、心において生きる価値を味わっているだろうか、人としてこの世に生まれたこと、生かされている喜びはあるだろうかと尋ねておられるのです。
 イエスさまは40日間の断食のあと、ガリラヤに戻って、共に食べ、飲み、喜び合う共同体を作っていきます。そこでイエスさまは、イスラエル民族が「荒れ野の40年」で学んだはずの、「人はパンだけで生きるものではない」という精神を受け継いで、貧しい者や弱っている人、あるいは罪人といわれて社会から排除されているような人びとを招いて食事をするということを実践していきました。
 いま私たちは、このイエスさまの心を受け継いで、共に食べ、飲み、分け合って喜び合う関係を、つながりを、全ての人に開かれたものとして実現することが求められているのかも知れません。

日本福音ルーテル熊本教会・玉名教会 牧師 杉本洋一

W.ブレイク作「最初の誘惑」(1815-1819年)
ケンブリッジ・フィッツウィリアム美術館所蔵

22-02-01るうてる2022年02月号

機関紙PDF

「御心ならば、清くすることがおできになります」

日本福音ルーテル八王子教会牧師 中村朝美

「すると、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、
『主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります』と言った。」
マタイによる福音書8章2節

 ある教会でこのようなことを話してくださった方がおられました。「子どもが小さかった時、重い病気にかかり、当時通っていた教会の牧師先生にお祈りをお願いしました。『御心でしたら癒やしてください』とお祈りされました。何故、癒やしてくださいではなく、御心でしたら、と祈られたのかと、私は素直に聞けず、また非常に悲しかった思いをしました。」
 病床訪問する時、「早くお元気になってください」などと言いたくなるのが人情ですが、この方の言葉が主イエスの病気の癒やしを伝える箇所を読むたびに心を横切るのです。福音書には主イエスによる病気の癒やしの出来事がいくつも語られています。多くの場合、様々な病気を患っている人々—目の見えない人、体の不自由な人々、悪霊に取り付かれている人たち—が主イエスに憐れんでいただきたいと願い出ることから、或いはその人々を主イエスがご覧になり、深く憐れまれることによって癒やしの御業がなされています。ルカ福音書17章で語られている重い皮膚病を患っている人々の癒やしにおいても、患っている人々が、憐れみを願っています。
 しかしながら、マルコ福音書1章40節以下及びその並行箇所で語られている「重い皮膚病を患っている人の癒やし」の出来事は本人は直接憐れんでくださいと訴えてはいません。「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願い出ています。

 「重い皮膚病」とわざわざ語られていることで、この人が負わされている社会的、宗教的に差別され、負わされている苦悩は幾重にも取り巻き、絶望の日々を送っていたことが伝わってきます。この病は他の病とは異なり、ただ単に癒やされるのではなく、清められなければならない病でした。だからかも知れません。主イエスの御前にひれ伏すしかなかったのでしょう。
 癒やしの奇跡の出来事の多くが、「ご覧になって」、「深く憐れまれて」と主イエスから声をかけられているのに対して、この人は憐れみを乞う前に主イエスの意思を尊重しています。御心ならば…と、あなたがそうしようとお思いになるならばと、憐れみをこいねがう相手に対する深い信頼を込めて願い出ています。そこには自分には理解できないことでも、不可解なことであっても、神の深いご計画が隠されているならばそれを引き受けます、あなたは決して不幸のままに終わらされないからですという信頼、信仰が込められているのではないでしょうか。

 病気の時、「祈ってほしい」という願いの中には、早くよくなるように、信仰があれば癒やされる…と慰めや励ましを求めていることが多いように思えるのです。医学的に見込みがないとご本人も知っていても、奇跡を願う思いはどこかにあるように思うのです。事実、末期がんから生還した方もいらっしゃいます。信仰があれば治ると思いたいのではあります。治りたい、治る、でも治らない、という時の葛藤は、信仰を持っている場合と、そうでない場合は違ってくると思えるのです。
 そのような葛藤を主イエスはゲッセマネの園での祈りを通してご自分のものとされています。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」
 病気が治る、治らない、願いが叶う、叶わないは本人にとって大きな問題であることに間違いないことです。病気の子どものために祈ってほしいと願った方は、「御心のままに」という祈りに悲しい思いをされたと語られましたが、その方にとって「御心でしたら」という言葉をずっと思い巡らされていたのでしょう。そこから、主イエスの御意思がどこにあるのか、何であるのかを問う、新しい信仰の歩みをされていったのではないかと思えるのです。その時は受け止めきれなくても、じっと見守って下さっている憐れみの中に置かれていることを信じてゆきたいと思うのです。

エッセイ「命のことば」 伊藤早奈

㉓「寄り添って」

私はあなたを胎内に形づくる前から知っていた。/母の胎より生まれ出る前にあなたを聖別していた。/諸国民の預言者としたのだ。」(エレミヤ書1・5協会共同訳)

 「あの時もイエス様が共にいらしてて私は一人ではなかったんだ。」と最近やっと気づきました。
 私は二十数年前2週間ほど検査入院をして今の病気がわかりました。入院中はずっと一人だと思い孤独で孤独でいつも誰かに話を聞いて欲しくてどうしようもありませんでした。自分の体が変で調べて欲しいから病院に行ったのにいざ検査入院となると毎日毎日検査続きで、多い日には検査が1日に3種類も4種類も行われて、いったい自分の体で何が起こっているのかと不安で眠れない毎日でした。孤独を感じる時、そうなる人は多いような気がします。でもお医者さんも看護師さんたちも忙しそうで話を聞いて頂くどころではありませんでした。漠然とカウンセラーの方なら話を聞いて下さるのかなと思い後々学びに入ります。
 「イエス様はいつもあなたと共におられます。」と私は神様から今語られ伝えております。そう言う今の自分と過去の自分が最近自分の中で出会いました。私が検査入院で孤独を感じ誰かに話を聞いて欲しかった時もすでに私と共にイエス様がおられて私の心を聴いて下さっておられたのだと今は思えるのです。
 いつもあなたと共にイエス様がおられます。あなたは決して一人ではありません。

議長室から 大柴譲治

sola gratia〜母の胎にいる時から

「私はあなたを胎内に形づくる前から知っていた。/母の胎より生まれ出る前にあなたを聖別していた。/諸国民の預言者としたのだ。」(エレミヤ書1・5協会共同訳)

 パウロは自らの召命をエレミヤと重ね合わせています(ガラテヤ1・15)。ダマスコ途上で復活の主に呼び止められて劇的な回心をするまでパウロはファリサイ派の若きリーダー、キリスト教の迫害者でした。彼は最初の殉教者ステファノの死にも立ち会っていた(使徒8・1)。自らを「罪人の頭」(一テモテ1・15協会共同訳)と呼ぶ背後にはそのような苦い思いもあったのでしょう。しかしキリストと出会ってパウロは全く新しい人間に生まれ変わります。ローマ書で言えば7章から8章への劇的な転換を体験したのです。キリストとの出会いがすべてを不可逆的に反転させた。彼は記します。「私はなんと惨めな人間なのでしょう。罪に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか」(ローマ7・24協会共同訳)。それに続けて神を讃美します。「私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝します」(ローマ7・25協会共同訳)。この二つの節の間には人間には乗り越えられない深淵がある。それを向こう側から乗り越えてくださったお方がいる。キリストと出会ったこの喜びは生涯彼を捕らえて放すことはありませんでした。フィリピ書3章には彼のキリスト以前と以後の価値の転換が告げられています。かつて「利益」と思っていたことはすべて「主イエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさ」に色褪せてしまった(3・8)。「キリストの真実(ピスティス)」によって義とされたパウロはその根底から新たにされたのでした。そこから遡ってすべてを振り返った時にパウロに見えてきたもの、それは自分が母の胎にある時に既に恵みの神によってコールされ祝福されていたという根源的な事実でした。神は「母の胎にいるときから私を選び分け、恵みによって召し出してくださった」お方なのです(ガラテヤ1・15協会共同訳)。
 個人的なことですが私の名はその誕生日に由来し米国初代大統領から取られました。外国でも通用する名をという父の願いもあったようです。漢字は母の好きだった童話作家・坪田譲治から取られました。「譲り治める」という意味の名を私自身は気に入っていますが、大統領とは何と大それたことかと思います。総会議長のことを英語ではPresidentと呼ぶので今は不思議なシンクロを感じています。「命名」は天からの祝福を願う親の「祈り」の行為です。既に母の胎にいる時に私たち一人ひとりは神によって召し出されている。「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」という神の確かな声が一人ひとりの魂底には今も響き続けているのです。

「教会讃美歌 増補」 解説

⑳増補11番「神はほめたたえられよ」・増補12番「喜べ教会よ」
讃美歌委員会 日笠山吉之 (札幌教会牧師)

増補11番「神はほめたたえられよ」

ルターの『小教理問答』の中には、ご存知のように「十戒」「使徒信条」「主の祈り」がありますが、聖礼典である「洗礼」と「聖餐」も含まれています。それら『小教理問答』の内容を賛美歌としても歌えるように整えた一連のコラールは〈カテキズム・コラール〉と呼ばれていますが、11番もその一つ。聖餐のコラールです。ルターは、14世紀頃から既に歌われていた歌詞を第1節としてそのまま残した上で、2節と3節を新たに書き下ろしました。主イエスの体と血が、ほかでもないこの私のために与えられた恵みであることを覚え、心に刻もう、と歌われる第2節。それゆえ、隣人と共に私たちを御子の道に歩ませてください、聖霊を注いでください、と祈る第3節で締めくくられます。各節で2回ずつ歌われる「キリエレイソン」が印象的ですが、旋律はルター自身によるものではなく、14世紀から歌われていたものだと言われています。

増補12番「喜べ教会よ」

このコラールは、歌詞が10節まであることにまず驚くかもしれません。全節を歌っていたら礼拝が長くなってしまうよ…とぼやく牧師は、自らに与えられた説教時間を短くしてでも全節を歌う価値があると思います。なぜならルターが書いた歌詞は『ローマの信徒への手紙』に基づき、極めて神学的に、かつ信仰的に整えられているからです。まず第1節は「喜べ教会よ」と全キリスト者への呼びかけで始められ、神の救いの御業が成し遂げられたことを賛美します。続く第2節と3節では一転して、罪人である人間の行いの空しさが指摘されます。すると、神の憐れみに目が向けられ(第4節)、神が御子を派遣する約束をし(第5節)、御子の降誕と受肉が語られます(第6節)。第7節以下は、御子イエスが語られた恵みの御言葉です。このように見ていくと、どの節とて省くことができないことがお分かりいただけるでしょう。全節通して歌うのが難しいなら、1〜3節、4〜6節、7〜10節と分けて歌うことも可能かと思います。旅人が口ずさんでいた歌をルターが聞き取ってアレンジしたと言われる旋律も、明朗で歌いやすいものとなっています。

世界の教会の声

浅野直樹Sr(世界宣教主事 市ヶ谷教会・スオミ教会牧師)

ルンド カトリックとの出会いから5年

  宗教改革500年記念(2017年)に先駆けて、2016年の宗教改革記念日(10月31日)にルーテル世界連盟(LWF)とカトリック教会の共同主催で宗教改革500年記念礼拝がスウェーデンのルンドで開催されました。ルンドは、LWF第1回総会の開催都市だったことからLWF発祥の地として知られ、今回の記念礼拝会場に選ばれました。
 500年記念礼拝のときもそして今もなおルンド教区の監督として、この歴史的事業に携わってきたのがヨーハン・テュールベルイ氏です。あれから5年、両教会のエキュメニカルな関係がルンドをどう変えたのかを振り返ったLWFによるインタビュー記事の一部を紹介します。

(参考記事のHP)

—合同記念礼拝の2年前からすでにルンドの監督でいらっしゃいましたが、あのとき以来何か変化はありましたか。

 前日の2016年10月30日が日曜日で、その日のカテドラルの礼拝は、当日以上に感動的で心に残りました。というのはカトリック教区とルーテルのルンド教区が、ルンドのカテドラル(ルーテル教会)で礼拝の最後の部分を一緒に守ったのです。これはその後もずっと話題になりました。
 ルンドのカトリック教区とルーテル教区が共同で作業しましたから、大いに変わりましたね。今でも時々日曜日に夕べの祈りや礼拝を合同でしています。もちろん聖餐式はできませんが。気候を覚える巡礼日といった特定の日に、いっしょに祈るようになりました。また私たちの教区では、晩祷でカトリック形式を用いるようになりました。これもまた隣人に一歩近づく方法なのです。相手にこうしてくださいと私たちのやり方をお願いするのではなくて、私たちが彼らのやり方を取り入れて祈ることです。こうすることで隣の扉も開き、近づいていけます。
 カールスクローナではルーテル教会が所有していた住宅をいくつかカトリックに売却しました。それによってそれまで郊外にあったカトリック教会が町の中心部へと移りました。こうしたことも2016年の合同礼拝があったからこそ実現したのだと思います。ルンド以外の教区ではさほど大きな変化は今のところありませんが、エキュメニカルな働きへの理解は広がったといえます。
 私たちの教区が位置する地域にはカトリック教会の男性修道院が六つありますが、そのうちの四つはエキュメニズムへの関心もとても強く、快く訪問者を受け入れてくれています。ルーテル教会地区の訪問者が以前よりも増えたと思います。
 もうひとつ私が気づいた変化は、ルーテル教会が若者たちのコミュニティとしても成長していることです。一定期間たとえば半年あるいは2年、3年というスパンで彼らが教会活動に参加するようになりました。カトリックとの合同礼拝が影響してそうなったのかどうかはわかりませんが、確かにそうした変化が起きています。若者が人生を真剣にみつめ始めるうちに、教会活動にも主体的に関わり祈るようになったからではないでしょうか。

東教区第26回宣教フォーラムスピンオフ版報告

2021年11月20日(土)
「信徒の信徒による信徒のための宣教フォーラム」
テーマ「コロナ禍で、信徒みんなで考えるルーテル教会の将来像」

第26回宣教フォーラム準備委員会委員長 田村忠夫(藤が丘教会)

 昨年は、コロナ感染の拡大によりやむなく休止となったフォーラムを今年は何とか実施できないかとフォーラム委員会では話し合いを重ね、初の試みとしてWeb開催をいたしました。
 今回の「宣教フォーラムスピンオフ版」の大きな特徴は、アンケート項目(第58回東教区定期総会で示された「教区長報告」及び「東教区宣教方策〝新しい教会をめざして〟」を受けて)を信徒が作成し信徒へと問いかけたことではないかと思います。それは、今まで行われてきた教職から信徒へとの取り組み方法から、新たなる一つの手立てを見出すためのアンケート調査でもありました。そこで、まずは信徒皆さまの気持ちを広く知り、その得られた結果から今の置かれている東教区の現状に対し、信徒は何が出来るのだろうか、また何が出来ないのかを把握できたらとの願いを込めたものでした。
 お陰様で、多くの方々のお力添えにより予想以上の回答を得ることが出来ました。この貴重なアンケート結果を丁寧に考察して、現状課題への不安感を解消しつつ平安の内に日々の信仰生活を歩み続ける一つの道筋として、今後の進むべき方向性を教職・信徒と共に見出すことへ活用できたらと思っています。
 調査結果の中で特に注目したのは、「『各個教会主義の脱却、これからは他の教会との協力なしには教会形成が難しくなる。』についてはどのようにお感じになられますか。/協力に賛成/協力にやや賛成/協力にやや反対/協力に反対/考えたことがなかった/その他」という設問に対しての回答率です。協力に賛成75・8%、協力にやや賛成13・6%と二つを含めると89・4%(11月20日現在)ほぼ9割の方が何らかの教会間の協力が必要であると捉えており、現状を打開する大きな手立ての一つとして見ていることが解ります。そこで信徒自らは、今後教会間の信徒交流へ前向きに取り組むことで現状改善への小さな力であるかもしれませんが、寄与することができるのではないでしょうか。ゆっくりとした歩調であったとしても、教会間の信徒交流の輪が広がってゆく事を切に願っています。
 今回の新しい挑戦(アンケート実施とオンライン開催)を期に、毎年実施されています宣教フォーラム活動が皆さまの思いや願いに沿いながら、更に豊かな活動へと繋がってゆくことを思っています。

オンライン全国教師会退修会報告

西川晶子(全国教師会相互扶助会会計・久留米教会・田主丸教会・大牟田教会牧師)

 なかなか出口の見えないCOVID―19の影響下にあって、これまで約3年に一度行われてきた全国教師会の退修会も、2017年の宗教改革500年記念の年を最後に、共に集う形での開催は見送られています。そのような中、やはりたとえ画面越しでも同労の牧師が顔を合わせる機会を持つことができればと、Zoomを用いたオンライン全国教師会退修会が2021年11月11日に開催され、全国から約60名の教師の参加がありました。
 立山忠浩教師会長による開会礼拝に始まり、今春引退される3名の先生からのご挨拶、そして「宣教、礼拝、聖餐、伝道牧会」という視点で、現状での取り組みを小勝奈保子牧師、ポストコロナに向けての展望を池谷考史牧師より、それぞれ発題していただきました。その後、発題を受けての年代別グループでの協議の時間が設けられましたが、その中で、お互いの取り組みやポジティブな成果だけではなく、難しいと感じるところを分かち合えたことは有益でした。たとえば、これまで顔を合わせて共に礼拝していたものが突然インターネット越しになり、それに伴う礼拝メッセージの内容や伝わり方の変化、また共に集うことが難しくなる中での教会運営の難しさなど、この2年間、同労の先生方が同じような難しさを感じつつ歩んでいたと知ることができただけでも、励まされました。
 退修会は3時間ほどでしたが、そのあと夕方から、自由参加の懇親会も行われました。懇親会では、世代に関係なく集まることのできるメインルームのほか、「按手年代別の部屋」や「若手教職の部屋」、「女性教職の部屋」が設定され、自由にその間を行き来できるようになっていました。「女性教職の部屋」は、私が個人的に必要性を感じて作っていただいた部屋ですが、普段、何かを相談したくとも地域的な距離もあってなかなか機会が取れなかった先生方と、ゆっくりお話しできる貴重な機会でした。
 今回の退修会は短い時間でしたが、画面越しであっても久しぶりの方々と顔を合わせることが、自分でも意外なほどに嬉しく感じられました。逆に言えば、オンラインの交わりでも嬉しく感じられるほどに、交わりの機会から遠ざかっていたということでもあります。また、やはりオンラインでは、インターネット環境などの都合で参加が難しい教師もおられましたので、また直接顔を合わせてお会いできる日が、一日でも早く訪れることを願っています。

北海道特別教区発行『み言葉に生かされて』の紹介

岡田 薫(北海道特別教区書記・財務部長・帯広教会牧師)

 長引くパンデミック下において、北海道特別教区では「主の祈りを祈りましょう」というキャンペーンを2020年の復活祭より続けています。主日礼拝ですらままならない時もありましたが、祈りをあわせ知恵と工夫を凝らしつつ共に励ましあいながら過ごしてきました。教区の財政的な支援もあり、それぞれの礼拝堂にはオンラインのための機材が備えられ、礼拝の配信だけでなく各地をつないでの集会や合同の聖書研究など新たな取り組みも進められています。
 2021年4月29日には各教会をオンラインでつないでの「春の集い」を開催。直前に感染再拡大のため札幌近郊では礼拝堂に集うことができなくなり、急遽集えるところは礼拝堂、集えない所はご自宅から参加という形式に変更せざるを得ませんでした。全道から40名ほどが参加し、それぞれが大切にしてきたみ言葉と、そのみ言葉にまつわる出会いや想い出を語りあい、短い時間ではありましたが実に豊かなひと時でした。
 しかしながら、オンラインの集まりに対応できず、参加が適わない方がおられたことも事実です。この溝を埋めるにはさらなる知恵と工夫が必要だ、ということで常議員会では協議の結果、この時に集約された愛唱聖句カードと、その後にそれぞれの教会で集めた愛唱聖句カードをひとつの冊子にまとめ発行することといたしました。嬉しいことに、各教会からたくさんの聖句が集まり100名を超える仲間たちの愛唱聖句と想いを束ねた小冊子が完成しました。
 編集長である小泉基教区長のセンスの光る明るい小冊子は、実りの秋に各教会に連なるみなさんへと配布されました。手にされた方々からは「お一人おひとりのお顔を思い浮かべながら毎日読ませていただいています。」「聖句やコメントを通して皆さまの証しを聞く思いです」などの感想も寄せられています。特に長期にわたって外出を控え、礼拝に出席できずにおられる方にとっては、手に取って繰り返し読むことのできる小冊子という形態が良かったようです。み言葉に添えられた想いは、短いひと言であっても、今この時の一人ひとりの生きた信仰の言葉。未だ一堂に会することが難しい中ではありますが、み言葉に生かされ、祈りに励まされつつ、共に歩んでいる恵みをわかちあう体験となりました。

第7次綜合方策の紹介⑽

事務局長 滝田浩之

■方策本文より

第7次綜合方策主文
7.神学教育

⑴神学校(神学教師)
 牧師養成が教会宣教にとって重要な役割をこれまでも果たし、これからも果たすものであることを改めて確認する。よって神学校として必要な、その中心的な働きを担う神学教師の後継者については、教会全体の課題として取り組む。また教職の現任教育について、信徒の研修について共同してこれを行う。

⑵機関維持(大学経営)
  牧師養成を行う神学校を継続していくためにも、大学の経営状況について教会は大きな関心を持つ。経営が適切に行われ、機関維持を行う責務は、大学にあると共に教会の課題であると認識する。これまでも三者協議会、神学校・ルーテル学院大学委員会、神学教育委員会などで密接にこれに関与してきたが、今後もこの関係を堅持する。

⑶神学生
 神学生を生み出す責務は、教会にあると理解する。今後も神学校と連携しつつ、具体的な施策を行う。

8.世界宣教
⑴海外教会

 共にキリストにより宣教に派遣された教会として、変化する世界状況の中で、関係海外教会及びLWFとのパートナーシップを堅持しつつ、世界宣教に参与する。

⑵アジア伝道
 ブラジル伝道の終了に伴い、アジア伝道に取り組むために、LWF、ELCA及びJELAとの連携を図りつつ、共同事業の可能性を探る。

9.エキュメニズム
⑴日本ルーテル教団(NRK)

 「聖餐と講壇の交わり」を持つ日本ルーテル教団とは、神学教育を中心に宣教協力を整えてきた。今後は、教会数減少も加味しつつ宣教協力をより一層進めていく。

⑵カトリック・聖公会
 カトリック・聖公会とのエキュメニズムの対話は、1967年以来、100回を数える。1989年にはカトリックとの間で「洗礼の相互承認」、1994年には聖公会との「洗礼の相互承認」が行われたことを歴史的な事柄として受けとめ、この延長線上に長崎におけるカトリックとの共同礼拝、そして今後の展開があることを確認する。

⑶NCC等との連携
 NCC、外キ協、マイノリティー宣教センター、キリスト教カルト問題連絡会、ACT-JAPANフォーラムなどエキュメニカルな働きをリソースとして活用しつつ、連携をしていく。

■解説
 宣教の内容、担い手が確認されたところで、それをリソースとして支える働きが確認されます。
 それが神学教育、世界宣教、エキュメニズムです。
 宣教の重要な担い手である牧師を育てる神学校の働きが大切なことは誰もが合意頂けることと考えます。またこれまでも教職神学セミナーにおいて教職の継続教育が行われてきましたが、今後は一層、この働きを強めていく必要があります。28期では卒業後5年以内の教職については、教職神学セミナーへの参加に対して補助を行うなど、卒業後の振り返りとリフレッシュを促しているところです。ルター派の教派神学校として神学教師の後継者については教会が派遣する責任があることは言うまでもないことです。またこれを支える学校法人を支えること、その課題を共有していくこともまた教会の役割と考えます。何よりも神学生を生み出す責任は、個々の教会、教区、全体教会にあることは繰り返し確認していく必要があります。神学校、神学教育委員会は、ここ数年「オープンセミナリー」を開催しています。
 神学教育が宣教の支え手であることは自明なこととして受けとられることと思います。しかし同じ大切さに、世界宣教、エキュメニズムがあることをしっかりと把握したいと思います。日本福音ルーテル教会は、海外の教会からの宣教によって生み出された教会であることはすでに確認した通りです(七つの宣教団体)。そして今も、私たちはLWF(ルーテル世界連盟)に参画しながら、世界宣教という大きな枠組みの中で宣教を担っているということに目を留めたいと思います。同じようにエキュメニズム、他のキリスト諸教会、諸団体と共に手を取り合って宣教を担っているのです。日本ルーテル教団は神学教育を共に担うパートナーです。カトリック教会、聖公会、NCC(日本キリスト教協議会)は神学的も宣教的にも共働の働きを担うパートナーです。
 これらの支え手を通して、私たちはいつも二つのことを教えられています。一つは、私たち日本福音ルーテル教会がキリストを宣教するという時、それは世界中の教会に祈られている働きであるということです。そしてもう一つは、私たちはいつも共に宣教を担うパートナーを通して、自分たちの宣教を見直す機会を与えられているということです。私たちの宣教は、キリストから託された独りよがりなものではないということ、同時に、私たちの宣教が独りよがりなものになっていないかという点検が、これらの支え手との関りを通して教えられるのです。支えられるだけでなく、私たちはこれらの働きに貢献することができる喜びも与えられていることを覚えたいと思います。

2021年度「連帯献金」報告

 2021年度も多くの方々から「連帯献金」に支援を頂きました。感謝して報告いたします。(敬称略・順不同、複数回の献金もまとめての報告となります。)

■災害支援 181,069円
国府台母子ホーム、神水教会、阿久根教会、JELA

■ブラジル伝道 40,149円
小城ルーテルこども園、箱崎教会女性の会、東教区女性会

■世界宣教(無指定) 375,634円
久留米教会(岩切華代、光延和賀子、原真理、里村朝子、宮原家、西川晶子、在津恵美子)、小澤周司、千葉教会、NRK福島いずみルーテル教会、箱崎教会(らぶぴコンサート席上献金)、角田健、大柴譲治、内山大地、大阪教会、シオン教会柳井礼拝所(一粒の麦・女性会)、岐阜教会、重野了子、小岩教会、帯広教会、小岩教会ルーテルキッズ、千葉教会、学校法人札幌ルター学園めばえ幼稚園、日吉教会、匿名献金

 今年度も、社会・世界における福音の宣教、奉仕、災害・飢餓に苦しむ方々に連帯したいと祈り願います。「連帯献金」をお捧げくださる際には、それぞれの献金目的[ブラジル伝道][喜望の家][メコンミッション][世界宣教][災害支援]を郵便振替用紙に明記頂き、下記の郵便振替口座にご送金ください。
郵便振替 00190−7−71734
加入者名 (宗)日本福音ルーテル教会

「聖書日課」購読のお勧め

 聖書日課は、ルーテル教会諸派の有志が共同で作成する、ルーテル教会の教会暦にそった日毎のみ言葉の説きあかしです。
 執筆者もルーテル教会の先生方にお願いし、誰もが身近に日毎に聖書の言葉を味わうことができるように工夫されています。
 是非、会員になって頂き、み言葉に満たされ、同時に文書宣教の業を支えて頂けたらと願っています。
 刊行は年4回行われています。1月号から1年会員となって頂いた場合、年4回の配布で1600円(1冊400円)、年度途中からの会員の方は1冊450円となっています。
 いつでも入会可能です。
次回は4月号(聖書日課122号)からの受付となります。年3回の配布で1350円(1冊450円)です。(ただし、在庫にかぎり121号からのお申込みも承ります。)
 お申込みは、各教会の聖書日課担当の方にお申し出ください。
 また、WEB会員は年会費1000円でご利用いただけます。WEBサイトからお申込みください。

聖書日課を読む会事務局
〒162-0842 東京都新宿区市谷砂土原町1-1
日本福音ルーテル教会事務局内
TEL(03)3260―8631 FAX(03)3260―8641
E-mail:seishonikka@jelc.or.jp
*2021年10月より聖書日課事務局が移転いたしました。

22-02-01御心ならば、清くすることがおできになります

「すると、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、
『主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります』と言った。」
マタイによる福音書8章2節

  ある教会でこのようなことを話してくださった方がおられました。「子どもが小さかった時、重い病気にかかり、当時通っていた教会の牧師先生にお祈りをお願いしました。『御心でしたら癒やしてください』とお祈りされました。何故、癒やしてくださいではなく、御心でしたら、と祈られたのかと、私は素直に聞けず、また非常に悲しかった思いをしました。」
 病床訪問する時、「早くお元気になってください」などと言いたくなるのが人情ですが、この方の言葉が主イエスの病気の癒やしを伝える箇所を読むたびに心を横切るのです。福音書には主イエスによる病気の癒やしの出来事がいくつも語られています。多くの場合、様々な病気を患っている人々—目の見えない人、体の不自由な人々、悪霊に取り付かれている人たち—が主イエスに憐れんでいただきたいと願い出ることから、或いはその人々を主イエスがご覧になり、深く憐れまれることによって癒やしの御業がなされています。ルカ福音書17章で語られている重い皮膚病を患っている人々の癒やしにおいても、患っている人々が、憐れみを願っています。
 しかしながら、マルコ福音書1章40節以下及びその並行箇所で語られている「重い皮膚病を患っている人の癒やし」の出来事は本人は直接憐れんでくださいと訴えてはいません。「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願い出ています。
 「重い皮膚病」とわざわざ語られていることで、この人が負わされている社会的、宗教的に差別され、負わされている苦悩は幾重にも取り巻き、絶望の日々を送っていたことが伝わってきます。この病は他の病とは異なり、ただ単に癒やされるのではなく、清められなければならない病でした。だからかも知れません。主イエスの御前にひれ伏すしかなかったのでしょう。
 癒やしの奇跡の出来事の多くが、「ご覧になって」、「深く憐れまれて」と主イエスから声をかけられているのに対して、この人は憐れみを乞う前に主イエスの意思を尊重しています。御心ならば…と、あなたがそうしようとお思いになるならばと、憐れみをこいねがう相手に対する深い信頼を込めて願い出ています。そこには自分には理解できないことでも、不可解なことであっても、神の深いご計画が隠されているならばそれを引き受けます、あなたは決して不幸のままに終わらされないからですという信頼、信仰が込められているのではないでしょうか。
 病気の時、「祈ってほしい」という願いの中には、早くよくなるように、信仰があれば癒やされる…と慰めや励ましを求めていることが多いように思えるのです。医学的に見込みがないとご本人も知っていても、奇跡を願う思いはどこかにあるように思うのです。事実、末期がんから生還した方もいらっしゃいます。信仰があれば治ると思いたいのではあります。治りたい、治る、でも治らない、という時の葛藤は、信仰を持っている場合と、そうでない場合は違ってくると思えるのです。
 そのような葛藤を主イエスはゲッセマネの園での祈りを通してご自分のものとされています。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」
 病気が治る、治らない、願いが叶う、叶わないは本人にとって大きな問題であることに間違いないことです。病気の子どものために祈ってほしいと願った方は、「御心のままに」という祈りに悲しい思いをされたと語られましたが、その方にとって「御心でしたら」という言葉をずっと思い巡らされていたのでしょう。そこから、主イエスの御意思がどこにあるのか、何であるのかを問う、新しい信仰の歩みをされていったのではないかと思えるのです。その時は受け止めきれなくても、じっと見守って下さっている憐れみの中に置かれていることを信じてゆきたいと思うのです。

日本福音ルーテル八王子教会牧師 中村朝美

ルーカス・クラナッハ(父)作「ゲッセマネの祈り」(1518年頃)東京・国立西洋美術館所蔵

22-01-01るうてる2022年01月号

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「日々新たにされて」

日本福音ルーテル小石川教会・板橋教会 牧師 德野昌博

「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、
わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」
コリントの信徒への手紙二 4・16

 私たちは、「贖われし罪人」です。ですから、日々新たにされて生きるのです。
 イザヤ書43章で、天地万物を創造された主なる神様が、いきなり、何の条件も全く付けず、「恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの」(1節)と言っています。まことに驚きです。「贖う」とは、神様が、神のものとなった私のすべてを引き受けてくださる、責任をとってくださるということです。

 神様に背いて、どうにもこうにも言うことを聞かない私のために、イエス・キリストが十字架で死んで、私の罪を贖ってくださったのです。イエス様の十字架によって、決定的に重大な問題が解決されたのです。創造主である神様に背いているという、これ以上に、私たち人間にとって重大、深刻な問題はありません。その罪を、父なる神様は御子イエス・キリストにおいて解決してくださったのです。これが 、私たちに与えられた救いです。まことに有り難いことです。これこそ、わが人生最もビッグでグッドなニュースです。

 神様は続けて、「わたしはあなたの名を呼ぶ」と言っておられます。「名を呼ぶ」と言うことは、一人一人に対して、神様が一対一で向かい合い、覚えていてくださるということです。ですから、私がいかなる信仰生活をしていようと、あるいは年老いて、前後不覚に陥って、神様に向かって憎まれ口をたたいたり、突然、「主の祈り」ではなく、念仏を唱え出したりしたとしても、神様は、私のすべてを知った上で、「わたしはおまえのことを引き受けた。まかせておけ」、そう言ってくださるのです。それが「名を呼ぶ」ということです。

 「あなたはわたしのものだ」と言われる主なる神様が、私たち一人一人の名を呼んで、私のすべてを自分のこととして 引き受けてくださっています。その絶対の保証としてのイエス・キリストの十字架です。

 救いは、私たち人間の側のどのような事態、どのような問題によっても取り消されたりはしません。パウロが、「ローマの信徒への手紙」8章で、「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来 のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな 被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(38〜39節)と言っている通りです。ですから、たとえ私たちの体や心がどんな状態になっても、私たちは決して滅びることはなく、神様の愛の中にちゃんと、しっかり受けとめられているのです。

 やがて私も年老いて何も分からなくなり、信じることも、告白もできないようになる時が来ることでしょう。しかし、今はまだできます。今は、私が御言葉を聞いて信じ、そして、自分の、これからのことも含め、すべてを、「神様、あなたにおゆだねします。私を憐れんでください」と言うことができます。そう言える今、たとえこれから先どんなことがあるか分かりませんが、「絶対大丈夫」という平安が与えられています。

 神様は、無条件で、「わたしはあなたを贖う」と約束してくださっています。神様の、その絶対の恵みを知り、信じることができ、それによって本当に喜び、平安に生きることができるというのは、礼拝を通して与えられる恵みです。

 やがて、もうどうすることもできなくなるであろう時のために、今ここで、私は礼拝において神様との本当に深い交わりを持ちたいと願っています。礼拝に出席することが困難になって、初めて私たちは礼拝に出席し、仲間と顔と顔を合わせるということがどんなに幸いなことであるか、どんなに大きな恵みであるかと いうことを身にしみて思い知らされました。

 「わたしたちの外なる人は衰えても、内なる人は日ごとに新しくされていく」のです。自分で、自分の力、頑張りで新しくなるのではありません。神様が新しくしてくださいます。「だから、わたしたちは落胆しない」のです。

エッセイ「命のことば」 伊藤早奈

㉒「音」

「門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。」
(ヨハネ福音書10・3)

 なんだかうるさく聞こえる物音でもその原因や主(ぬし)がわかり物音をさせるその理由までわかるとうるさく感じなくなったことありませんか?私はあります。毎朝聞こえる小鳥の鳴く声が甲高くうるさく感じてました。先日観ていたテレビ番組で私が毎日聞いてうるさく感じていた小鳥の声を解説されていて何の小鳥がどのような理由で鳴いていたのかがわかりました。その小鳥の正体と鳴く理由がわかった途端、朝聞く「うるさい音」が「かわいい鳴き声」に変わりました。
 大切な大切な存在なら尚更だろうなって思います。こんなことも思い出します。ある食品売り場で、きっと迷子になったんだろうなぁと思う様な小さな子が「ママー」と呼びます。するとどこからか見えないのに「なーに?」って聞こえ「ママどこにいるの?」と子どもが安心したように走り出す光景です。
 きっと神様も同じだろうな、いやもっと一人一人を大切にされているのかもしれないと思うと私の声も神様にとってはうるさいその他大勢の声ではなく大切な大切なかけがえのない一人の私という存在の声なのかなって嬉しくなります。
 そして私を大切にして下さる神様の声は、いつもあなたと共にあなたを包んでいて下さるから、あなたに心地良い音なのでは。

議長室から 大柴譲治

〈われとなんじ〉と〈われとそれ〉

 「ひとは世界にたいして二つのことなった態度をとる。それにもとづいて世界は二つとなる。ひとの態度は、そのひとが語る根源語の二つのことなった性質にもとづいて、二つとなる。根源語は孤立した語ではない。複合的な語である。根源語の一つは〈われ〉−〈なんじ〉であり、他は〈われ〉−〈それ〉である。」(マルティン・ブーバー「我と汝」野口啓祐訳、講談社学術文庫2021、8頁より)

 安倍川上流にあった梅ヶ島ルーテルキャンプ場で、学生時代にある方から教えていただいたブーバーの「我と汝」。この本との格闘を通して私は対人関係の基本を学んできました。原著〝Ich und Du〟 (1923)がドイツ語で出版されて来年でちょうど100年。対人援助職にとって古典的名著です。
 ドイツ語には「あなた」を意味する〝Sie〟と〝Du〟という2語があり、前者は丁寧な呼び方、後者は親しい間柄で用いられる親称。冒頭のように『我と汝』は数学の公理の提示のように始まり、とても難解で18歳の私には全く歯が立ちませんでした。以来46年間、繰り返し読む中で見えてきたことは、世界は私の語る根源語の二重性に応じてその姿を変えるということです。ヘブル語の「ダバール」という語は「言葉」を意味すると同時に「出来事」を意味します。言葉を語ることは出来事が起こることでもある。根源語〈われ−なんじ〉は相手を人格的な応答関係の中に捉えるダイアローグ的で全人的な態度。根源語〈われ−それ〉は相手を徹底的に自分の経験・利用の対象として捉えるモノローグ的な態度。前者の例としてブーバーはソクラテス、ブッダ、イエス、ゲーテを、後者の例としてナポレオンを挙げます。もちろん、物質が悪ではないように〈われ−それ〉を語ること自体は悪ではありません。〈われ−なんじ〉関係は過ぎ去ってしまうと「過去の記憶」という〈それ〉になってしまう。彼はそれを「大いなる悲哀」と呼びます。〈われ−なんじ〉の出会いは天からの恩寵であって人間が探し求めることによって獲得できるものではありません。「すべての真の生とは出会いである」。
 ユダヤ人思想家であったブーバーは旧約聖書のドイツ語翻訳者としても知られています。「〈われ−なんじ〉の延長線上には〈永遠のなんじ〉が垣間見える」とか「個々の〈われ−なんじ〉の出会いの延長線は〈永遠のなんじ〉の中で交わる」という表現から分かるように、ブーバーは「なんじよ(Du)」と親しく呼びかけてくださる神を「永遠のなんじ」と呼び、個々の具体的な〈われ−なんじ〉の出会いを通して永遠のなんじが私たちに呼びかけておられると見ているのです。
 新しい年も、耳と目と心を一つにしてそれらを十全に用いて神の声に聽いてゆきたいと念じています。この主の年2022年が、皆さまお一人お一人にとって〈永遠のなんじ〉との豊かな対話という祝福のうちに置かれた1年でありますようお祈りいたします。

「教会讃美歌 増補」 解説

⑲増補9番「天にいます父よ」・増補10番「主はヨルダンに来て」
讃美歌委員会 石丸潤一(西日本福音ルーテル新田教会)

 新しい年を迎え、皆さんいかがお過ごしでしょうか。私は、新年を迎える度に、新しくなることの期待感と、一方で、移りゆく時の中でも変えずに継続していくべきものの大切さを思います。
 今回ご紹介する2曲は、神様から信仰者が与えられているその二つの相反することについて深く味わわせてくれるカテキズム・コラールではないかと思います。

 増補9番「天にいます父よ」は、「教会讃美歌」364番に収録されているなじみ深い「主の祈り」の賛美です。今回は、他のカテキズム・コラールとの関連曲として、新しい訳詞と9節を加えて収録しました。2~8節の「求め祈ります」という締めくくりの詞には、関連性とリズム感を持って、「主の祈り」の一つ一つの祈りが私たちに何を教え、何を神様に求めさせるのかをよく知ることができるようにという意図が込められています。
 イエス様が教えてくださった「主の祈り」は、私たちの信仰生活に欠かせない、継続していくものです。であるからこそ、「小教理問答」とカテキズム・コラールを通して、いつも祈りの意味をかみしめながら、祈り続けることが大切ではないでしょうか。

 増補10番「主はヨルダンに来て」は、洗礼の意味について教えるカテキズム・コラールです。1月の教会暦には「主の洗礼」を記念する主日が備えられています。この賛美は、イエス様の洗礼の場面を踏まえていますので、その頃に賛美されるのにも良い曲ではないでしょうか。
 洗礼は、神様が私たちに、みことばと聖霊と共にある水を通してみずから授けてくださる恵みの礼典です。私たちは等しく罪の中に沈み、自分の行いでは浮上することのできない者です。しかし、神様の恵みを信じて洗礼を受ける時、キリストの血潮が大波のようになって私たちの罪を押し流し、罪の深淵から命の日々へと救い出してくださいます。水のイメージが要所にちりばめられたこの賛美は、洗礼を通して、私たちの命が全く新しくされているというダイナミックな喜びのイメージを生き生きと感じさせてくれるでしょう。

世界の教会の声

浅野直樹Sr(世界宣教主事 市ヶ谷教会・スオミ教会牧師)

気候正義を求めるLWFユース

 11月英国のグラスゴーでCOP26が開催され、地球の気候変動対策が議論されました。LWFは2011年来国連の気候関連会議に青年代表を派遣していますが、今回の会議ではオンライン出席を含めると、7つのLWF区域すべてから参加者があり、過去最大の32名の代表が出席しました。
 会議では地球の気温が産業革命前より1・1度上昇したことへの警鐘が鳴らされ、気温上昇をパリ協定で定めた1・5度に抑えるという努力目標を追求することが採択されました。これについてLWF気候問題担当Elina Cedillo氏は「石炭火力を使い続ける限り達成は危うい」、さらに「各国政府が設定した2030年の温室効果ガス排出量削減目標は不十分で、このままだと2050年には2・4度に達してしまう」と述べています。

 LWFが、気候変動(climate change)とあわせて呼びかけているもうひとつの用語に「気候正義」(climate justice)があります。日本ではまだ馴染みが薄い言葉ですが、気候変動が環境問題だけでなく、倫理的、政治的問題でもあることを訴えています。経済大国による大量の排出ガスの影響で、排出量が少ない多数の国や地域が犠牲になっているといった問題が顕在化しつつあります。COP26では、そうした地域の少数民族の役割も欠かせないという認識が得られました。
 青年たちはグラスゴーの街へ繰り出し、各国リーダーに向けてさらに徹底した対策をと呼びかけました。そして青年や周辺国のリーダーにも決議に参加できる仕組みを作るよう求めました。
 会議に参加したある青年は次のように述べています。「信仰をもつ者としては今回の会議に物足りなさを感じますが、だからといって落胆しているわけではありません。エキュメニカルなパートナーとして、これからも神様が創造した世界を大切にしながら、気候正義の実現のために活動を続け、大変な被害を被っている人々に寄り添っていきます。私たちはこれからも世界の教会に向けて声を挙げていきます。」
参考記事のURL
https://www.lutheranworld.org/news/cop26-lwf-delegates-disappointed-not-disheartened-lack-results

第3回オープンセミナリー報告

河田優(ルーテル学院大学・日本ルーテル神学校チャプレン)

 11月14日(日)Zoomを用いて第3回神学校オープンセミナリーが開催されました。今回も日本福音ルーテル教会(JELC)、日本ルーテル教団(NRK)の両神学教育委員会と日本ルーテル神学校の共催であり、JELCから3名、NRKから1名の参加者がありました。
 第1部は、神学校での学びと生活についての紹介が中心です。特にミニ講義では平岡仁子牧師がコロナ禍におけるオンライン礼拝について取り上げ、神学校で学ぶ礼拝学は私たちの礼拝生活に直接結びついていることを話されました。
 第2部では、神学生が考えた楽しい企画に2人の若手牧師も加わり、互いの紹介やミニゲーム、質問コーナーなど和気あいあいと交わりが進められていきます。最後は、神学校1年生2人がそれぞれの証しも含めて閉会礼拝を行い、祈りを合わせました。
 神様の導きとして神学校での学びを考える人たちがいます。その人たちを支え、後押しするのはそれぞれの教会です。どうぞこれからも教会から、神の働き手としての献身者を送り出していただきますようにお願いいたします。
 以下、今回の参加者からお2人、感想を書いていただきました。

 今回、初めてオープンセミナリーに参加させて頂きました。始まる前はどのようなことを知れるのか、学べるのかと胸を躍らせておりましたが、実際はその期待を上回るほどの有意義な時間となりました。特に神学生や牧師への質問コーナーでは先に提出していた質問全てにお答えしていただき、良い情報を得ることが出来ました。ここで得たことを糧に神学校での学びの準備をしていきたいと考えております。このような機会に私を送り出して下さった崔大凡先生や室園教会の方々、企画をしてくださった神学教育委員会と神学校の先生方に感謝します。
(中山隼輔・JELC室園教会)

 私は洗礼を受けて以来献身への迷いがあったため、神学生オープンセミナリーに参加させていただきました。模擬講義では現代のコロナ禍を通して改めて礼拝の意義について考える機会を与えられ、交流会では牧師先生や神学生の方々との貴重な交わりの時を持つことができました。さらに牧師を目指す上での大切な気づきと励ましも与えられました。オープンセミナリーに参加して、今まで漠然としていた献身への思いが少しだけ形づくられた気がします。今後どうなっていくかはわかりませんが、神様に祈りつつ歩んでいきたいと思います。
(鷲見和哉・JELC大阪教会)

献身者がおこされるために
—取り組みの紹介とお願い—

三浦知夫(神学教育委員長・東京池袋教会牧師)
小林千恵子(大垣教会) 徳弘由美子(岐阜教会)

 学校の先生になりたいと思ったら、大学などに入学して、教員免許を取得できる学びを始めようとするでしょう。では、牧師になりたいと思ったらどうでしょうか。同じように神学校に入学して、その準備を始めますが、その前にキリスト者として教会生活を送っているという前提があって、所属している教会の牧師に推薦をしてもらわなければなりません。牧師は他所から採用したり派遣されるのではなくて、私たちそれぞれの教会の中からおこされるからです。各教会が献身者を神学校に送り出さなければ、牧師は誕生しないということでもあります。昨年は、私たちの教会に新しい牧師が与えられませんでした。今年の春も予定はありません。そのような状況の中で、教会と神学校が協力して、「献身者を求める祈り」の動画を作成したり、礼拝で「献身者を求める祈り」をしていただくようにお願いしたりしてきました。
 そんな中、大垣教会と岐阜教会信徒の有志の方々が「自分たちにも何かできないか」と祈り考え、写真のようなフレームを作成してくださっています。御言葉とクイリングという手芸の十字架、そして呼びかけの言葉が記されたフレームです。各教会の集会室の壁や玄関に下げたり置いたりし、いつも教会の方々の目に留まり、献身を呼掛け考えるきっかけになればと願ってのことです。
 この運動を受けて、私とこれら有志の方々からお願いがあります。この企画をお手伝いいただけないでしょうか。この取り組みを、神学教育委員として喜びつつ、祈りと奉仕が全国の教会に広がっていくことを願ってのお願いです。教会でも個人でも構いません。案内やフレームの個別の封入や発送を全国120箇所ほどにすることになりますので、4~6教会(名)が、20~30個ずつ引き受けてくださればと考えています。ご質問や参加希望は2月15日までに三浦(東京池袋教会)か岐阜教会に連絡ください。発送作業は3月頃の予定です。献身者をおこすために心をあわせて祈っていきましょう。

集計表男女区分の廃止について

小泉基(社会委員長・函館教会牧師)

 昨年11月16日の全国常議員会で、「集計表における人数表記の件」が決議され、来年度の新しい集計表から男女区分をなくすことが決まりました。今回もオンラインで行われた常議員会でしたが、議場では活発な意見交換が行われましたから、提案の背景と主な意見をご紹介したいと思います。
 今回の提案の直接的なきっかけは、昨年7月に社会委員会が提出した「本教会統計表における男女区分の扱いについて」という要望書でした。けれどもそれ以前から教会内で、礼拝の受付で男女の二者択一を迫ることが、性的マイノリティの人たちに苦痛を強いているのではないか、という声が聞かれるようになっていました。実際に、受付での男女区分をなくしたり、週報等での兄姉呼称を「さんづけ」に統一した、という報告も聞かれるようになっていました。委員会が、そうした背景をより多くの人に知っていただきたいと2020年3月に発行したのが「多様な性を知るために」という小冊子です。ひとくちに性的マイノリティといっても、その内実は、体の性、性自認(心の性)、性的指向、表現する性など、多岐にわたっています。多様な性のあり方を知りながら、そうした方々が安心して受け入れられる教会形成をしていきたいという願いがありました。また教会は、歴史的に同性愛を罪として断罪してきた経験があり、それはルーテル教会が1988年に発行した「教会員ハンドブック」にも反映されてしまっています。委員会の小冊子の発行と、常議員会への要望書は、そうした教会の歩んできた歴史に対する反省の上になされたものです。常議員会では、男女比率がわからなくなることが女性の社会進出をかえって阻むのではないか、男女の他に「X」欄を設けてはどうか、教会の宣教計画の立案に影響するのではないかといった意見も出されましたが、痛みを覚える方々に寄り添うことを優先しようとする意見が大勢を占めました。もちろん、この決定が何かをすぐに解決するというものではありません。これをきっかけに、教会内でさまざまな学びや取り組みがすすめられていくことこそが、委員会として願っていることですから、どうぞご協力お願いする次第です。(なおパンフレット「多様な性を知るために」は、日本福音ルーテル教会インターネットサイトでPDFが公開されていますのでご活用ください。また冊子版も事務局に多少残部があります。必要な方は事務局までお問い合せ下さい。)

2022年度教会手帳住所録訂正のお願い

 2021年7月31日付で引退されました太田一彦先生について、2022年度教会手帳住所録の《引退》欄への掲載がなされておりませんでした。お詫び申し上げますと共に、謹んで訂正させて頂きます。
 2022年度教会手帳住所録20頁に以下を追記ください。

太田一彦
420−0886
 静岡県静岡市葵区大岩 2−41−14

第7次綜合方策の紹介⑼

事務局長 滝田浩之

■方策本文より

第7次綜合方策主文
5. 信徒の働き

⑴信徒の役割
①宣教の働きは、教職、宣教師だけに与えられたものではなく、教会の全信徒に与えられている。信徒は宣教の担い手であり、受け身の立場ではなく、積極的・能動的に福音宣教に参与する。信徒が牧師とともに宣教に具体的に参与する道筋を整える。
②信徒の「相互牧会力」を育てることは教会成長にとって大きな意味があることを確認し、具体的な研修プログラムを神学校と共同して検討する。
③宣教を推進する担い手としての自覚の育成について、各委員会等、その専門性を生かしプログラムを策定し実施する。
④信徒説教者については、「信徒説教者実施要項」について、信徒の執事としての働きとしての「み言葉の奉仕」として位置付けると共に、信徒の執事職(信徒奉仕者)をより幅広く教会の中で理解していくことも含めて、改正を検討する。
⑤配餐補佐についても「信徒説教者実施要項」の中で、神学的な課題についても整理した上で適切に位置付けていく。
⑥教会の執事的働き(管理や事務など)については、個々の教会、あるいは教区内で今後、有給の可能性も含めて検討され位置づけられていくものと考える。
6.教職の役割
⑴現任教職
 現在、教職の働きは、多重責任・役割、多様化、孤立化の傾向にある。教職としての守備範囲が解りづらくなっており、職務の明確化が求められる。
①宣教する教会であるためには、それぞれの教職が宣教への使命と職務を的確に果たすことが重要である。そのためにも神学的自己研鑽に取り組み、宣教と教会形成への責務を自覚することが求められる。
②「牧会力の成長」を促すことは教会の責任として捉え、本教会としても按手後、5年以内の教職については継続的な研修プログラムを神学校と共同して検討していく。
③人事配置については人事委員会がその実務を担っているが、教会財政も加味しつつ、全体的宣教力を図り、個々の教会、地区の将来像について教区の方向性を加味しつつ、常議員会の責任のもと確認していく。宣教拠点は2か所(教会、または施設)までを一つの目安として用いることができる。
④牧師の重要な任務に「役員会の形成」を明記する。役員の成長こそ、牧会力の回復につながることを確認する。
⑤職務を果たしていくために、健康管理への自覚的取り組みが必要であることを認識し、必要な手立てを教師会と共に検討する必要がある。
⑥教職の立場を教会の制度と組織に正当に位置づけると共に、教職の質の向上を高めるために必要な機会を、本教会、教区及び教師会は適宜提供していく。
⑵定年教職
①資格
 日本福音ルーテル教会の教職は定年制度に従って70歳を迎えて現職の務めから退いてきたが、これまでの実態と課題を整理した上で、「牧会委嘱規定」を見直し、主任の委嘱についても検討する。また、定年後も「説教とサクラメント」を行う資格を持つ者として、教区の主体的な判断の中で日本福音ルーテル教会の教職としての責務を果たすことを期待する。
②働き
 定年教職が教区及び関連施設の要請に応じ、期間を限定して牧会委嘱、巡回説教者、チャプレン等を担い、それによって宣教の働きが補われ、支えられていることに、全体教会として感謝する。

■解説

 宣教とは何かが明確に確認されたところで、その具体的な担い手が確認されています。
 このことを考える上で重要なのは「宣教の働きは、教職、宣教師だけに与えられたものではなく、教会の全信徒に与えられている」、この文言につきます。「全信徒祭司性」です。宣教は教職と信徒の共働の業であることを確認したいと思います。
 第7次綜合方策では、これまで自明のこととのように行われてきた信徒奉仕の働きを、教会の働きとして再確認していく必要があると考えています。教会はこれまで有形無形の信徒たちの働き、献財、祈り、奉仕によって支えられてきました。そしてこれからも、その支えがなしには教会は宣教の働きをなすことができません。一つ一つのそのような働きをきちんと確認して、次の世代に手渡していく。そこで大事なことは、今まで通りの形では手渡すことは難しいということだと思います。変えられるもの、変えられないものを見定め、変えられるものは大胆に変えていくことが求められています。
 同じように教職の役割も節目を迎えています。戦後、多くの宣教師とキリスト教ブームの中で与えられた多くの牧師(両方合わせて200名)で支えられてきたルーテル教会は、現在、現役の牧師は80名となっています。この面からも持続可能な教職の働き方を考えていく時が来ているのです。
 この共働の業を担う「役員会」の働きは、これからさらに大きなものになると考えます。同時に「役員会」がきちんと機能できるか否かが、その教会を組織として維持できるか否かも担っていることになります。

第28期 第15回 常議員会報告

事務局長 滝田浩之

 11月15〜16日にオンライン会議にて行われた標記の件についてご報告いたします。
⑴協力金の件
 2022年度から10%に戻す予定であった協力金ですが、2021年度のCOVID|19による非常事態宣言が想定以上に長引いたことを鑑み、引き続き8%に据え置くことが承認されました。但し、建築会計からの一般経常会計への繰入について協力金算定に含めないという措置については2021年度で予定通り終了とすることを確認しました。なお2023年度は10%に戻すことを予定しています。
⑵集計表の件
 2021年度の集計表より教勢報告について男女の区別を廃止することが承認されました。詳しくは社会委員会からの報告をご覧ください。
 またインターネット礼拝の出席者と対面による礼拝の出席者を区分して記入できるように集計表が変更されています。インターネット礼拝の出席者とは、基本的には主日礼拝にオンラインで同時参加くださっている方と理解しています。また一つのPCで複数の参加がある場合のカウントについては個々の教会のご判断に委ねたいと思います。
⑶定期総会の件
 2022年5月3〜5日に予定されております定期総会については、すでに「ガイドライン」で確認しています通り一か所に参集し、また2泊3日での開催を準備しています。会場については400名収容の会場に200名の出席議員とするなど、感染予防対策を徹底した上での開催となります。当然、感染拡大の中で開催が難しいということになれば更に延期ということも確認しているところです。
⑷ルーテル学院大学からの長期貸付の受入の件
 ルーテル学院大学の積立資金の一部を、日本福音ルーテル教会の収益会計が長期貸付金として受け入れることを確認しました。このことによって教会側は大学側に利息という形で支援することになります。教会としては予定されております市ヶ谷耐震工事について銀行からの借入を減少させることで借入に伴うリスクを軽減できることになります。契約内容については市況一般的な利息を適用することで教会と大学で合意が行われているところです。
⑸市ヶ谷耐震補強工事の件
 定期総会での議案となる市ヶ谷耐震補強工事については、収益部門の減収に伴い計画を見直し、事業費を1億5千万円ほど減少させる案が財務委員会より提案されました。事業費を当初の9億円から7億5千万円とし、耐震補強工事に特化することとしました。定期総会でのご審議をお願い申し上げます。
⑹人事案件
 教師資格者であった坂本千歳牧師が嘱託任用での復帰願いを出され、面接の後、これが承認されました。関野和寛牧師については一般任用から嘱託任用への任用変更願が提出され、これが承認されました。加えて12月1日付けで津田沼教会(主任牧師・小泉嗣牧師)に嘱託任用での任用が承認されました。関満能牧師は9月1日付けで水俣教会、八代教会、阿久根教会の主任牧師に病気休職から復職が承認されました。

22-01-01日々新たにされて

「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」コリントの信徒への手紙二 4・16

 私たちは、「贖われし罪人」です。ですから、日々新たにされて生きるのです。
 イザヤ書43章で、天地万物を創造された主なる神様が、いきなり、何の条件も全く付けず、「恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの」(1節)と言っています。まことに驚きです。「贖う」とは、神様が、神のものとなった私のすべてを引き受けてくださる、責任をとってくださるということです。
 神様に背いて、どうにもこうにも言うことを聞かない私のために、イエス・キリストが十字架で死んで、私の罪を贖ってくださったのです。イエス様の十字架によって、決定的に重大な問題が解決されたのです。創造主である神様に背いているという、これ以上に、私たち人間にとって重大、深刻な問題はありません。その罪を、父なる神様は御子イエス・キリストにおいて解決してくださったのです。これが 、私たちに与えられた救いです。まことに有り難いことです。これこそ、わが人生最もビッグでグッドなニュースです。
 神様は続けて、「わたしはあなたの名を呼ぶ」と言っておられます。「名を呼ぶ」と言うことは、一人一人に対して、神様が一対一で向かい合い、覚えていてくださるということです。ですから、私がいかなる信仰生活をしていようと、あるいは年老いて、前後不覚に陥って、神様に向かって憎まれ口をたたいたり、突然、「主の祈り」ではなく、念仏を唱え出したりしたとしても、神様は、私のすべてを知った上で、「わたしはおまえのことを引き受けた。まかせておけ」、そう言ってくださるのです。それが「名を呼ぶ」ということです。
 「あなたはわたしのものだ」と言われる主なる神様が、私たち一人一人の名を呼んで、私のすべてを自分のこととして 引き受けてくださっています。その絶対の保証としてのイエス・キリストの十字架です。
 救いは、私たち人間の側のどのような事態、どのような問題によっても取り消されたりはしません。パウロが、「ローマの信徒への手紙」8章で、「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来 のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな 被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(38〜39節)と言っている通りです。ですから、たとえ私たちの体や心がどんな状態になっても、私たちは決して滅びることはなく、神様の愛の中にちゃんと、しっかり受けとめられているのです。
 やがて私も年老いて何も分からなくなり、信じることも、告白もできないようになる時が来ることでしょう。しかし、今はまだできます。今は、私が御言葉を聞いて信じ、そして、自分の、これからのことも含め、すべてを、「神様、あなたにおゆだねします。私を憐れんでください」と言うことができます。そう言える今、たとえこれから先どんなことがあるか分かりませんが、「絶対大丈夫」という平安が与えられています。
 神様は、無条件で、「わたしはあなたを贖う」と約束してくださっています。神様の、その絶対の恵みを知り、信じることができ、それによって本当に喜び、平安に生きることができるというのは、礼拝を通して与えられる恵みです。
 やがて、もうどうすることもできなくなるであろう時のために、今ここで、私は礼拝において神様との本当に深い交わりを持ちたいと願っています。礼拝に出席することが困難になって、初めて私たちは礼拝に出席し、仲間と顔と顔を合わせるということがどんなに幸いなことであるか、どんなに大きな恵みであるかと いうことを身にしみて思い知らされました。
 「わたしたちの外なる人は衰えても、内なる人は日ごとに新しくされていく」のです。自分で、自分の力、頑張りで新しくなるのではありません。神様が新しくしてくださいます。「だから、わたしたちは落胆しない」のです。

日本福音ルーテル小石川教会・板橋教会 牧師 德野昌博

レンブラント作「写字台の聖パウロ」(1629-1630年)ニュルンベルク・ゲルマン国立博物館所蔵

21-12-01るうてる2021年12月号

機関紙PDF

「あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川」

日本福音ルーテル教会牧師 太田一彦

「御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。」
コロサイの信徒への手紙1・17

  私はこの7月に38年間の牧師としての務めを終えることになりました。突然の心臓病のためでした。思えば最初の任地が仙台、そして最後の任地も仙台でした。
 その仙台を去る日、私は心の中に魯迅の言葉を思い巡らしていました。魯迅は仙台にゆかりの深い作家・思想家です。彼の「絶望の妄想なること、まさに希望と相同じ」(※1)という言葉をです。彼は絶望も希望も同じく妄想だと言うのです。実に衝撃的な言葉。この魯迅の言葉は、今、主のご降誕を希望の中で待っている私たちには正反対にある言葉のように感じたのではないかと思います。なぜなら希望も絶望と同じく虚しいものだと彼は言っているからです。この言葉が私の頭から消えなかったのです。コロナで閑散とした新幹線の中で私はこの言葉を思い巡らしていました。

 電車が福島にさしかかった頃、妻が隣で突然「あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川。智恵子抄。うふふ。」(※2)と笑うのです。長く私と一緒に教会に仕えてきてくれた妻の変わらない笑顔に私は「そうか、魯迅の絶望の妄想なること、まさに希望と相同じという言葉は絶望も希望も同じく妄想だと彼は言っているのではないぞ」と気がつかされたのです。私たちが今、何かに絶望を抱いていて、それを自分で絶望としてしまうなら、希望もまた虚しいもの、絶望と同じものになってしまうということを魯迅は言っているのではないかとそう思ったのです。逆に絶望の中に在っても、希望を失わず、希望を持ち続けるならば、絶望は決して絶望ではなくなるのです。つまり、ポイントは、何が真の希望なのかという事なのです。

 私たちにとって真の希望とは何か。それはキリストです。クリスマスに生まれ給う主イエス・キリストです。今マリアの胎に神の御心・御旨によって宿っている主イエス・キリストなのです。その御旨・御心とは私たちの救いです。それが、マリアがヨセフによってではなく、聖霊によって身ごもったということの中味なのです。主が聖霊によって宿ったのでなければ、主は私たちの真の希望とはなりませんでした。何故なら、それはヨセフとマリアの子であって、神の御子ではないからです。神の御子であるから主イエス・キリストは私たちの救い主・真の希望なのです。

 今私たちは主の来り給うを待っています。アドヴェント。それはまた、主の十字架を思うときでもあります。なぜなら、主がお生まれになったのは、十字架におつきになるためであったからです。人間には必ず誕生と死があります。命ある者には、必ず誕生と死があります。初めがあることは嬉しいことです。しかし終わりがあることはとても悲しいことです。しかしその死を打ち砕くために、キリストは十字架にお付きになられました。主は、私たちを死からお救いになるためにお生まれになられたのです。私たちの救いはこのキリストの受肉から始まります。私たちがクリスマスを待つのは、真の神が真の人となって、この世に来られるからなのです。そしてこの事実は、天の使いが「あなた方のために救い主がお生まれになった」と告げたように「民のすべてに及ぶ」のです。私たちはこの救い主・キリストを迎えるとき、罪と死から救われます。慰めと喜びが与えられます。絶望が希望へと変えられるのです。だから私たちは無残に十字架にかかって死に、その死によって私自身の罪を赦し、復活して私たちに命の約束をしてくださり、希望を与えてくださった救い主イエス・キリストの誕生を祝う。それがクリスマス。

 「御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。」これはコロサイ書1・17の言葉です。私たちの存在は、命は、キリストによって支えられているのです。キリストは私たち一人一人の内にどんな時でも共にいてくださいます。だから私たちに絶望はありません。キリストがいつも私たちと一緒にいてくださるので、たとえ私たちが「死の影の谷を歩もうとも」私たちに絶望はないのです。在るのは希望。絶望ではなく希望なのです。

編集部註
※1魯迅「希望」、「野草」(1927)所収参照
※2高村光太郎「樹下の二人」、詩集「智恵子抄」(1941)所収参照

エッセイ「命のことば」 伊藤早奈

㉑「また明日」

「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6・34)

  明日のことまで思い悩むなって言われてもいろんなことを心配してしまいます。しょうがないよと思ったりもします。逆に明日が来て当然と思うこともあります。
 このような経験があります。学生の時の実習で末期患者さんに関わる施設で実習させて頂き、早速担当する方の部屋へと看護師さんと訪ねました。看護師さんが「Aさん、今日から実習でAさんを担当されることになられた学生さん、いっぱいお話ししてあげてね」と言われました。そしてその看護師さんの目をAさんはじっと見られていました。「Aさんよろしくお願いします。」と私が言った後、看護師さんは部屋を出て行かれました。するとAさんは目を閉じられてしまい、私が何度かお呼びしても目を閉じられたままでした。他の部屋へ行くようにと呼ばれたので席を立とうとした時にAさんは目を開けられ、じっと私を見つめておられました。
 「明日こそ話そう」と思いながら他の部屋に行きました。
 Aさんどうしてるかな?今日こそ話すぞ。と思っていた私の耳に朝のミーティングで報告される言葉が聞こえてきました。「Aさんは昨夜亡くなりました。」
「えっ…」
 Aさんとの出会いはかけがえのない「今」を私に教えてくれました。今与えられる出会いを感謝します。

議長室から 大柴譲治

マリアの信仰

「お言葉どおり、この身になりますように。」(ルカ1・38協会共同訳)

  受胎告知時にマリアはおそらく13〜14歳前後。今とは単純に比較できないでしょうが、その頃は身体的にも精神的にも子どもから大人に移り変わってゆく不安定な時期。第二反抗期のまっただ中、自身のアイデンティティを確立するための大切な時期です。その意味でこの出来事は、マリアのみならず私たち自身のアイデンティティ確立の物語として捉えることもできましょう。向こう側から私たちに呼びかけてくる「永遠の汝」との関係の中に私たちは創造されています(創世記1・27、2・7)。私たちは神との対話的な応答関係の中に生きるのです。まず神が私たちの名を呼びます。「アダムよ、アダム」。そして私たちが答えるのです。「はい、主よ。私はここにおります」。
 天使の突然の来訪はマリアにとっては晴天の霹靂、さぞかし驚いたことでしょう。聖書でのイニシアティブは常に神の側にあって、神の呼びかけを人が受け止めるのです。私たちには予測はできないし、気づかないと応答できない。ノックの音が聞こえて初めて私たちは扉を開けることができるのです。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」(黙示録3・20)。目を覚まし、耳を澄ませて神からの呼びかけに備えていたいと思います。
 福音書では「天使」はクリスマスと荒野の誘惑、復活の3場面にしか登場しません(言葉としてはイエスの話にしばしば出て来ますが)。文字通り「天使」とは神からの使者であり、人と超越的な次元とをつなぐ仲介的な存在です。ボンヘッファーの獄中書簡から作られた讃美歌『善き力にわれかこまれ』(讃美歌21・469)は、教会讃美歌266「いま主のみ前を」同様、天使の存在を前提としています。
 マリアの天使への応答は私たちの魂を揺さぶります。「私は主の仕え女です。お言葉どおり、この身になりますように」(ルカ1・38協会共同訳)。マグニフィカート(ルカ1・47〜55)につながるマリアの信仰告白。自分の理解を超えていたとしても、黙ってすべてを神の御心として受け止めてゆく謙遜と従順。御言葉への絶大な信頼と全面降伏(サレンダー)。「信仰の父」アブラハムの姿とも重なります。天使はそのようなマリアに「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」と祝福を宣言しています。このように天からの祝福の声を聴き取ることができる者は幸いです。よきクリスマスをお迎えください。

「教会讃美歌 増補」 解説

⑱増補7番「祝福のうちに」・増補8番「われら信じます」
讃美歌委員会 松本義宣 (東京教会牧師)

増補7番「祝福のうちに」

 6番「これこそ聖なる十の戒めよ」が12節からなるルターのカテキズム(教理問答)コラール、「十戒」のフルヴァージョン版とすれば、これはその短縮版の歌です。6番と同じく1524年に作詞されて、始めは同じ旋律で歌われました。しかし、同年に出たルターの友人で協力者だった音楽家ヨハン・ヴァルター(1490〜1570)の賛美歌集に、それぞれの歌には固有の旋律が望ましいとのことで、彼の曲で収録されました。ただしここではその旋律ではなく、1525年にストラスブールの歌集に登場した、この7番のメロディを付しました。その後カルヴァンの十戒歌でも用いられたそうで、「宗教改革」へのオマージュの意味も込めました。もちろん、6番の旋律でも歌えます。
 5節の中に、序言(呼びかけ)から十の戒めを含むコンパクトな内容が込められた歌です。また、6番と同じく各節が「キリエライス」という、「キリエ・エレイソン(主よ、あわれんでください)」の短縮形が終りに使われる、通称「ライゼン」と呼ばれる様式です。十戒を学び、生きるのも、常にキリスト=「主」の助けが絶対に必要なのだ、その祈りが込められています。

増補8番「われら信じます」

  この歌もルターのカテキズム・コラールで、前曲同様1524年の作です。十戒に次ぐ信条(信仰告白)を歌いますが、小教理問答書(エンキリディオン)でお馴染みの使徒信条ではなく、「ニケア信条」に基づいています。教会讃美歌233番には、トビアス・クラウスニッツァー(1619〜1684)作の信条歌(こちらは使徒信条が下敷き?)がありますが、このルターの歌は、旋律もここに付されたオリジナルのまま、今でも米国ルーテル教会の歌集(ELW・2006年刊、411番)やドイツ福音賛美歌(EG・1994年刊、183番)でも、現役で収録されています。やっと私たちも日本語で歌えるようになった、ルターの代表的な賛美歌と言えるでしょう。
 旋律は、元は1300年頃のラテン語「クレド(ニケア信条歌)」で、15世紀初め(1417年)にブレスラウで、1500年頃にはツヴィッカウで確認できる、ドイツ語で信条を歌う際に添えられたものだと言われます。1524年のヴィッテンベルクの歌集から、このルター作詞の歌として掲載されました。慣れないと少し歌いづらいメロディですが、チャレンジしてみたいと思います。
 カテキズムの歌は、学校や家庭で、エンキリディオンの学びに際して、本文を朗読し、学びを深め覚えつつ1節ずつ歌われたそうです。また、教理を扱う連続説教礼拝(午後の礼拝等)に際して、礼拝の始めに歌われたそうです。改めて身近に接したい歌です。

世界の教会の声

浅野直樹Sr(世界宣教主事 市ヶ谷教会・スオミ教会牧師)

LWF新事務局長

 LWF(ルーテル世界連盟)の新事務局長にエストニア出身の神学者アンネ・ブルクハルト氏が選ばれました。過去11年にわたって務めたマーティン・ユンゲ氏を引き継ぎ、今年の11月から148の加盟ルーテル教会を率いることになりました(日本福音ルーテル教会も加盟教会です)。女性として初、また中東欧地域から選ばれた最初の事務局長でもあります。
 ブルクハルト氏はこれまでもLWFでエキュメニズム研究部門での働きと、宗教改革500年記念行事及びナミビアで開催された第12回総会のコーディネーターを担ってきました。
 エストニアがまだソビエト占領下だった1975年の生まれ。祖父母はルター派クリスチャンでしたが、旧ソ連時代に父親と祖母はシベリアへ強制送還されてしまいます。ソ連の機嫌を損ねてしまういかなる行動もとらないように注意しながらの暮らしだったので、宗教とは無縁の家庭で育ちました。そうしたなか、エストニアでは数少ない宗教を学べる学校へ通ったことが、彼女のキリスト教との出会いでした。そして2004年には按手を受け牧師となりました。
 「クリスチャンファミリーで育って自然に信仰の道を歩む人もいれば、使徒パウロのように突然回心して入信する人もいますが、私の場合はいろいろ問いを繰り返しながらゆっくりと徐々に信仰が育まれました。」
 今回の選出について次のように述べています。「大変な名誉に恐縮しています。理事会が私をここまで信頼してくださったことに深く感謝しています。LWFのコミュニオン(キリストにある交わり)での特別な責任を担うにあたって、神の霊の導きを祈っています。LWFは神様のミッション全領域に取り組んでいるので、理事会、加盟教会、そしてパートナー関係にある様々な教会と共に宣教に携われることを嬉しく思っています。」
「すべての人々の公平、平和、尊厳のために共に働き証しする教会、キリストを中心に集う教会というコミュニオン、それがLWFのいのちです。世界の教会がイエス・キリストを中心としたひとつのミッションに携わり、共に成長していくのにお役にたてるようにと祈っています。」

 LWF新事務局長が取り組む今後の課題は、新方策「With Passion for the Church and the World」の実行、そして2023年9月にポーランドのクラカウで開催予定の次期総会に向けて陣頭指揮を執ることです。
(了)

LWF新事務局長「アンネ・ブルクハルト氏

パンデミックの中の教会 九州教区の取り組みから

角本浩(九州教区教区長・神水教会・荒尾教会・合志教会・松橋教会牧師)

   新型コロナウイルス感染第1波が広がり始めた昨年3月の教区総会。オンライン配信を用いて礼拝等を守ることの推進を、教区宣教方策の一つとして掲げた。それは南九州地域において既に実践されていたことでもあった。・・・とはいえ、それは、ひとつのところでなされている実践であって、それが各地で行われていくのだろうか、自分のいるところで行われていくのだろうか。・・・どこか現実味を帯びていない思いで受け止められていたと思う。
 ところが、その後、わたしたちの意識とは裏腹に、配信による礼拝、会議、研修等は一気にトップギアに入って行った感がある。礼拝休止の教会が増える中、郵送などで信徒のもとへ文書が届けられていくのと並び、YouTube配信などで礼拝が行われるところが増えていく。さっと取り組んでいかれたのは、より若い牧師、信徒の方々が多かったと思う。
 その年の夏、おもに熊本南部を豪雨災害が襲った。他県ナンバーの車が走ったり、停車しているだけで、眉間にしわを寄せる雰囲気があった中で、集って会議をするには、常議員たちが県を越えて来なければならなかった。が、オンラインによってその対策会議は行われていった。「おお、これは便利ばい」「○○さん、音ば消しなっせ」慣れない感じも持ちつつ、今となっては、ごく当たり前になっている画面上での会議がことをスムーズに運ばせていった。

 今、私がこの原稿を書いているのが2021年11月であるが、つい1週間ほど前にルーテル阿蘇山荘の解体前の感謝礼拝を行った。行きたい気持ちはあっても、平日に阿蘇山荘まで行けない方々も多かったであろう。ただ、今回もYouTube配信でこれを全国の方々に配信することができた。私は会衆と、カメラの前でメッセージに集中するだけでよかった。ササッと配信設備を整えてくださる方々の頼もしいこと。
 現在も続いていることであるが、礼拝等の取り組みは基本的に各教会の判断に任されている。実施するのか、休止するのかなど。それは当初、たとえば地区ごとに相談しつつという話もしていたが、現状においては基本的に各個教会にゆだねられている。その足並みをそれぞれの判断でとしていたのは、果たして良かったのか。近隣教会が違う判断をしていることは、どう映っていただろうか。感染症という状況に限らず、検証していかねばならない課題かもしれない、と思っている。

ブックレビュー

「LAOS『神の民』としての教会」
北尾一郎著
(ヨベル・2021年)

三浦知夫(東京池袋教会牧師)

 2019年11月に東教区城北地区の五つの教会で、合同礼拝と学びの時を持ちました。その数か月前、その準備のための地区牧師会の学びの時間で、牧師が減少し教会が力を落としていくような不安を感じている、今の私たちの教会の「これからの宣教」をテーマに行いたいということになり、講師として定年教師の北尾一郎先生のお名前が挙がりました。失礼と思いながらも、その場からお電話をさせていただき、こちらも思いをお伝えしますと快諾してくださいました。その後、出席者に配布するための十数頁に及ぶレジメを用意してくださり、恵みあふれる学びの時を持つことが出来ました。その講演を聞かれた板橋教会の信徒の方が中心になり、講演を是非ブックレットにして出版したいと準備を始められ、この7月に「LAOS『神の民』としての教会」が発行されました。

 限られた時間の講演でお話くださったことに加筆をされ、ブックレットでは信徒と牧師が共に「神の民」として宣教していくことを分かりやすく教えてくださっています。北尾先生の宣教論の中で、先生がこれまで宣教牧会をされた教会での事例がいくつも紹介されており、私たちの宣教のためのヒントがたくさん詰まっているように感じます。ただ誤解を恐れずに記しますと、信徒と牧師が共に力を合わせて宣教していこうということは、これまでも幾度となく聞き、また話し合われてきたことです。問題と感じることは、実際にそのような宣教を展開している教会が多くないということです。学び、話し合うだけで一歩を踏み出すことがなかなかできていないというのが、私自身を含めた私たちの教会の現実であるように思うのです。だからこそこの「LAOS『神の民』としての教会」が私たちに、すべきことの具体的なヒントを与え、また前へ進むための後押しをしてくれると感じています。この場をお借りして北尾先生に心から感謝を申し上げます。そして皆様にお読みくださるようにお勧めいたします。

ルター 「マグニフィカート」500年記念
ルター研究所主催
クリスマスオンライン講演会のご案内

江口再起(ルーテル学院大学・神学校ルター研究所所長)

  ルカ福音書1章に、受胎告知を受けたマリアが唱った「マグニフィカート(マリアの賛歌)」が記されています。この賛歌についてルターは解説書「マグニフィカート」を著わし、今年は500年の記念の年です。
 コロナ禍のこの2年間、私たちも大きな体験をしましたが、その中でクリスマスを迎えます。聖書と ルターに学びつつ、主のご降誕を迎えたいと思います。ぜひ、クリスマスを迎える準備として、教会の プログラムの一つとして、講演会にご参加下さい。

12月12日(日)
13〜15時

オンラインで開催(オンライン参加のための情報は別途各教会にお知らせいたします。)
〈プログラム〉
◇講演「待つということ│マリアと現代」 江口再起(ルター研究所所長)

◇バッハ〝マグニフィカート〟演奏と解説 加藤拓未(音楽学者・NHK−FM「古楽の楽しみ」解説者)

◇シンポジウム「ルターとマリア」司会・石居基夫(ルーテル学院大学学長)
○ルター「マグニフィカート」紹介 滝田浩之(事務局長)
○ルターとマリア 多田 哲(日吉教会牧師)
○聖書・女性・マリア 安田真由子(ルーテル学院大学講師)

第7次綜合方策の紹介⑻

事務局長 滝田浩之

■方策本文より

第7次綜合方策主文
⒊ ディアコニア活動
⑴宣教の広がり

 ①宣教とは何か
福音宣教とは、単に伝道という枠に留まらず、広く社会に仕える働きをも宣教として理解する。平和・環境・人権に関する基本的な理念と取り組みも、この領域に含まれる。
②ディアコニア諸活動
 教区、個々の教会、関連施設での後援会組織等により、多様に実施されているディアコニア活動は、関係責任組織の主体性に委ねることを基本姿勢とする。
③釜ヶ崎活動
 釜ヶ崎ディアコニアセンター喜望の家の活動は西教区の責任下にあり、運営と教職の位置づけも含めた今後の可能性を責任教区と海外支援機関で必要な検討をしていただく。
④社会的マイノリティーの学習と支援
 教会が差別解消に取り組むことは、社会の中で福音を分かち合う働きである。痛みを聴き、認識し、共有することに努める。
⑤脱原発への取り組み
 すでに総会で承認された、脱原発の取り組みについて教区、個々の教会で学びを深め、エキュメニカルな活動へ参与していく。

⑵るうてる法人会連合における共同の可能性を探る。
①るうてる法人会連合という交わりが与えられていることを感謝する。
②一つの宣教共同体としての意識を更に強め、人材交流、人材育成について互いに連携し、その結びつきを強める具体的な展開を目指す。

⒋ 諸活動
⑴青少年育成

①次世代育成
 個々の教会及び教区の育成計画との整合性に配慮しつつ、次世代育成プログラムの継続と発展を全体的に図っていく。そのために、予算化と財源を確保し、適正なサポート態勢を継続する。
②国内・国際的プログラム
 グローバルに青少年の育成を図るため、沖縄など国内で社会の課題に触れ合う研修、あるいは海外教会及びLWF等の研修や体験学習の機会を、JELA及び海外教会の協力を得て、随時提供していく。

⑵女性会連盟
日本福音ルーテル教会に連なる重要な宣教推進と教会教育の担い手である女性会連盟に関しては、その主体性を尊重して、必要な協力関係を教区及び本教会において保ち、活動の育成に配慮する。

⑶インターネット伝道
①社会と世界に向けての教会の接点及び社会への教会の存在の告知という面から、今やインターネットの活用は有効かつ常識と受けとめる。
②インターネットによる礼拝は個々の教会の主任牧師の責任の下、すでに取り組みが行われている。今後もあくまでも主任牧師の責任のもと、教会間の協力のあり方の一つとして受けとめる。
③但し、聖餐をめぐっては教会論的、神学的検討を要する課題が残されていることを確認する。

■解説
 ここまで私たちは「個々の教会・教区・本教会」の役割について整理してきました。いよいよ日本福音ルーテル教会としての福音宣教の働きの内実が確認されていきます。
 エキュメニカルな対話を通して、「ルーテル教会はディアコニアの教会ですよね」と評されたことがありました。皆さんはどのような感想をお持ちになるでしょうか。もちろん自戒を込めて、隣人の痛みに連帯するに乏しい足りなさを私たちは告白せざるを得ません。しかし外から見れば、そのように評される側面を私たちは神学的にも、教会の体質としても持っているということは再認識されるべきではないかと考えます。事実、2017年の宗教改革500年を覚えた時、私たちはそのことを確認したところでした。第7次綜合方策を検討する委員会、また宣教会議などを通して宣教の内実を「福音宣教とは、単に伝道という枠に留まらず、広く社会に仕える働きをも宣教として理解する。平和・環境・人権に関する基本的な理念と取り組みも、この領域に含まれる」と明確に定義するに至ったことは重要なことです。この立ち位置から様々な活動が福音宣教という枠組みにしっかりとした足場を持って行われていくことが期待されます。

クリスマスに向けてペーパークラフトの作り方動画のご紹介

 現在、東教区YouTubeチャンネルには、ステンドグラス工房アスカ主宰・山崎種之さん(松本教会員)のご指導によるペーパークラフトの作り方の動画が公開されています。これらの動画は2020年と2021年の東教区のオンラインCS研修会のために東教区教育部の活動の一環として作成されました。これまでに、左記の6種類が紹介されています。
(各動画は5〜6分程度です。)
 教会学校だけでなく、様々な教会活動、また幼稚園・保育園や関係諸施設の活動にも是非ご活用ください。

公 告

この度左記の行為を致しますので、宗教法人法第23条の規定に基づき公告致します。

2021年12月15日
宗教法人日本福音
ルーテル教会
代表役員 大柴譲治
信徒利害関係人 各位

横浜教会土地一部売却
・所在地
横浜市神奈川区松ケ丘
・所有者
日本福音ルーテル教会
 地番 8番4、8番5
 地目 境内地
・地積
 8番 4 225.06㎡
 8番 5 145.79㎡
・理由 売却のため

21-12-01あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川
「御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。」
コロサイの信徒への手紙1・17

 私はこの7月に38年間の牧師としての務めを終えることになりました。突然の心臓病のためでした。思えば最初の任地が仙台、そして最後の任地も仙台でした。
 その仙台を去る日、私は心の中に魯迅の言葉を思い巡らしていました。魯迅は仙台にゆかりの深い作家・思想家です。彼の「絶望の妄想なること、まさに希望と相同じ」(※1)という言葉をです。彼は絶望も希望も同じく妄想だと言うのです。実に衝撃的な言葉。この魯迅の言葉は、今、主のご降誕を希望の中で待っている私たちには正反対にある言葉のように感じたのではないかと思います。なぜなら希望も絶望と同じく虚しいものだと彼は言っているからです。この言葉が私の頭から消えなかったのです。コロナで閑散とした新幹線の中で私はこの言葉を思い巡らしていました。

 電車が福島にさしかかった頃、妻が隣で突然「あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川。智恵子抄。うふふ。」(※2)と笑うのです。長く私と一緒に教会に仕えてきてくれた妻の変わらない笑顔に私は「そうか、魯迅の絶望の妄想なること、まさに希望と相同じという言葉は絶望も希望も同じく妄想だと彼は言っているのではないぞ」と気がつかされたのです。私たちが今、何かに絶望を抱いていて、それを自分で絶望としてしまうなら、希望もまた虚しいもの、絶望と同じものになってしまうということを魯迅は言っているのではないかとそう思ったのです。逆に絶望の中に在っても、希望を失わず、希望を持ち続けるならば、絶望は決して絶望ではなくなるのです。つまり、ポイントは、何が真の希望なのかという事なのです。

 私たちにとって真の希望とは何か。それはキリストです。クリスマスに生まれ給う主イエス・キリストです。今マリアの胎に神の御心・御旨によって宿っている主イエス・キリストなのです。その御旨・御心とは私たちの救いです。それが、マリアがヨセフによってではなく、聖霊によって身ごもったということの中味なのです。主が聖霊によって宿ったのでなければ、主は私たちの真の希望とはなりませんでした。何故なら、それはヨセフとマリアの子であって、神の御子ではないからです。神の御子であるから主イエス・キリストは私たちの救い主・真の希望なのです。

 今私たちは主の来り給うを待っています。アドヴェント。それはまた、主の十字架を思うときでもあります。なぜなら、主がお生まれになったのは、十字架におつきになるためであったからです。人間には必ず誕生と死があります。命ある者には、必ず誕生と死があります。初めがあることは嬉しいことです。しかし終わりがあることはとても悲しいことです。しかしその死を打ち砕くために、キリストは十字架にお付きになられました。主は、私たちを死からお救いになるためにお生まれになられたのです。私たちの救いはこのキリストの受肉から始まります。私たちがクリスマスを待つのは、真の神が真の人となって、この世に来られるからなのです。そしてこの事実は、天の使いが「あなた方のために救い主がお生まれになった」と告げたように「民のすべてに及ぶ」のです。私たちはこの救い主・キリストを迎えるとき、罪と死から救われます。慰めと喜びが与えられます。絶望が希望へと変えられるのです。だから私たちは無残に十字架にかかって死に、その死によって私自身の罪を赦し、復活して私たちに命の約束をしてくださり、希望を与えてくださった救い主イエス・キリストの誕生を祝う。それがクリスマス。

 「御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。」これはコロサイ書1・17の言葉です。私たちの存在は、命は、キリストによって支えられているのです。キリストは私たち一人一人の内にどんな時でも共にいてくださいます。だから私たちに絶望はありません。キリストがいつも私たちと一緒にいてくださるので、たとえ私たちが「死の影の谷を歩もうとも」私たちに絶望はないのです。在るのは希望。絶望ではなく希望なのです。

編集部註
※1 魯迅「希望」、「野草」(1927)所収参照
※2 高村光太郎「樹下の二人」、詩集「智恵子抄」(1941)所収参照

日本福音ルーテル教会牧師 太田一彦

21-11-01天国に旅立たれた人たち
「こう言ってから、『ラザロ、出て来なさい』と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、『ほどいてやって、行かせなさい』と言われた。」

ヨハネによる福音書11章43~44節

  全聖徒主日を迎えます。私たちより前に、天国に旅立たれた人々を覚えます。
 教会によっては、召天者のお写真を並べます。すでに天に召されていますがこの世にありし日の命が輝いていた頃のお姿が思い出されます。そして、そのおなつかしい笑顔を見ながら、私たちも、残された日々を主にあって、ありのままに安らかに歩みたいと願います。それはまるで、私たちに「死に向けての準備、心構えをしなさい」と導いてくれているようです。牧師である私であっても、死を前にすることになったら、どうでしょう。衝撃を受け、まさに真剣に祈るでしょう。死と隣り合わせの生を一日一日生きながら、十字架の贖いにすがることにより救われる恵みをまさにまのあたりにするでしょう。

 ヨハネによる福音書11章には、墓に着いたイエスさまがいます。その墓に病気で葬られたラザロが眠っています。そして、そばにはイエスさまのお出でを今か今かと待ち続けた姉のマルタ。マルタが言います。「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます。」(39節)遺体は腐り始めている状況を伝えます。イエスさまは、天を仰いで、父なる神に感謝し、その後、墓に葬られたラザロを大声で呼びます。「ラザロ、出て来なさい。」(43節)ラザロは手と足を布で巻かれたまま出て来ました。
 人間の悲しみの極み、それは愛する者の死。誰もが遭遇します。それは、すべての人の上に起きてくるのです。2千年前、ラザロという1人の人の上にその悲しみが起きました。しかし、悲しみを前に、ラザロを死から生へよみがえらせるという奇跡が起こったのです。

 私たちは、時に不条理に満ちたこの世を生き、そして命の限界を知り空しさを感じます。しかし主イエスさまと出会い、十字架と復活を信じる者は、苦難の中にも、神が共にいてくださる。終わりの日には主イエスさまと同じ栄光の体に変えられるのです。
 この約2年間、コロナ禍の中、何人かの信仰の友を天に送りました。新型コロナウイルス感染防止のため、大変親しくしていた方へ最後のお別れをすることが許されませんでした。家族さえ病室に入ることが禁止されましたので、お見舞い出来なかった近しい方々が多くいます。残念な思いは尽きませんが、信仰の友たちは、皆、主イエスさまと共に歩みひっそりと天に移った。それにより、ひとりひとりへの神のなさる救いのすべてが完結したと感じるとき、感謝にたえません。
 もう6年前になります。(コロナ禍ではありませんでしたが)私が牧会していた教会のリーダー的役割をしておられた1人の女性信徒が亡くなりました。しかし、死を覚悟してからの2年の彼女の残した最後の日々は、孤独の内にも、主と共なる歩みでした。
 「炎天下日陰日陰を選び歩き」末期のがんの闘病を続けつつ、夏から秋に厳しい暑さの中でも、なんとか前向きに一歩一歩歩いた彼女の残した俳句です。

 主イエス・キリストへの信仰を貫き、教会を愛していた彼女のそれからの、「終活」の時は、牧師の私がびっくりさせられるものでした。「もう、あと数ヶ月しか命は持ちません。今のうちに教会で、証しをさせてください。」ご自分からの申し出で、礼拝の説教の後に彼女は「主イエスさまとの出会いと、教会生活。そして、晩年、熱心に取り組んだ平和活動について。」を証しされたのです。その後は、家にあるものの整理。手編みの衣類は、サイズの合う方を尋ねて贈られる。家事道具も、教会や個人へ「使ってくださいね。」と分かち合う。自分より高齢の方のお祝いの会をどうしてもして差し上げたいと、痛む体を押して、企画・開催したその宴席は驚く程、心のこもったものでした。

 最後に病床でお祈りした時に言われた言葉が忘れられません。「こんなに長く生きるとは思いませんでした。神様に与えられた時間が残り少ないとわかったとき、短い時間をいかに質を豊かにするかを心がけました。クオリティーオブライフです。」残された時をどう生きようか。それは自分に出来ることを精一杯、神様のために、隣人のために捧げるということ。信仰により、まっすぐつながる神様の国への最後の道のりを、彼女は歩き終えたのです。

日本福音ルーテル小岩教会牧師 内藤文子

photo/カラヴァッジオ作「ラザロの復活」(1609年頃)メッシーナ州立美術館所蔵

21-11-01るうてる2021年11月号

機関紙PDF

「天国に旅立たれた人たち」

日本福音ルーテル小岩教会牧師 内藤文子

「こう言ってから、『ラザロ、出て来なさい』と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、『ほどいてやって、行かせなさい』と言われた。」(ヨハネによる福音書11章43~44節)

 全聖徒主日を迎えます。私たちより前に、天国に旅立たれた人々を覚えます。
 教会によっては、召天者のお写真を並べます。すでに天に召されていますがこの世にありし日の命が輝いていた頃のお姿が思い出されます。そして、そのおなつかしい笑顔を見ながら、私たちも、残された日々を主にあって、ありのままに安らかに歩みたいと願います。それはまるで、私たちに「死に向けての準備、心構えをしなさい」と導いてくれているようです。牧師である私であっても、死を前にすることになったら、どうでしょう。衝撃を受け、まさに真剣に祈るでしょう。死と隣り合わせの生を一日一日生きながら、十字架の贖いにすがることにより救われる恵みをまさにまのあたりにするでしょう。

 ヨハネによる福音書11章には、墓に着いたイエスさまがいます。その墓に病気で葬られたラザロが眠っています。そして、そばにはイエスさまのお出でを今か今かと待ち続けた姉のマルタ。マルタが言います。「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます。」(39節)遺体は腐り始めている状況を伝えます。イエスさまは、天を仰いで、父なる神に感謝し、その後、墓に葬られたラザロを大声で呼びます。「ラザロ、出て来なさい。」(43節)ラザロは手と足を布で巻かれたまま出て来ました。
 人間の悲しみの極み、それは愛する者の死。誰もが遭遇します。それは、すべての人の上に起きてくるのです。2千年前、ラザロという1人の人の上にその悲しみが起きました。しかし、悲しみを前に、ラザロを死から生へよみがえらせるという奇跡が起こったのです。

 私たちは、時に不条理に満ちたこの世を生き、そして命の限界を知り空しさを感じます。しかし主イエスさまと出会い、十字架と復活を信じる者は、苦難の中にも、神が共にいてくださる。終わりの日には主イエスさまと同じ栄光の体に変えられるのです。
 この約2年間、コロナ禍の中、何人かの信仰の友を天に送りました。新型コロナウイルス感染防止のため、大変親しくしていた方へ最後のお別れをすることが許されませんでした。家族さえ病室に入ることが禁止されましたので、お見舞い出来なかった近しい方々が多くいます。残念な思いは尽きませんが、信仰の友たちは、皆、主イエスさまと共に歩みひっそりと天に移った。それにより、ひとりひとりへの神のなさる救いのすべてが完結したと感じるとき、感謝にたえません。

 もう6年前になります。(コロナ禍ではありませんでしたが)私が牧会していた教会のリーダー的役割をしておられた1人の女性信徒が亡くなりました。しかし、死を覚悟してからの2年の彼女の残した最後の日々は、孤独の内にも、主と共なる歩みでした。
 「炎天下日陰日陰を選び歩き」末期のがんの闘病を続けつつ、夏から秋に厳しい暑さの中でも、なんとか前向きに一歩一歩歩いた彼女の残した俳句です。

 主イエス・キリストへの信仰を貫き、教会を愛していた彼女のそれからの、「終活」の時は、牧師の私がびっくりさせられるものでした。「もう、あと数ヶ月しか命は持ちません。今のうちに教会で、証しをさせてください。」ご自分からの申し出で、礼拝の説教の後に彼女は「主イエスさまとの出会いと、教会生活。そして、晩年、熱心に取り組んだ平和活動について。」を証しされたのです。その後は、家にあるものの整理。手編みの衣類は、サイズの合う方を尋ねて贈られる。家事道具も、教会や個人へ「使ってくださいね。」と分かち合う。自分より高齢の方のお祝いの会をどうしてもして差し上げたいと、痛む体を押して、企画・開催したその宴席は驚く程、心のこもったものでした。

 最後に病床でお祈りした時に言われた言葉が忘れられません。「こんなに長く生きるとは思いませんでした。神様に与えられた時間が残り少ないとわかったとき、短い時間をいかに質を豊かにするかを心がけました。クオリティーオブライフです。」残された時をどう生きようか。それは自分に出来ることを精一杯、神様のために、隣人のために捧げるということ。信仰により、まっすぐつながる神様の国への最後の道のりを、彼女は歩き終えたのです。

エッセイ「命のことば」 伊藤早奈

⑳「思い出」

「わたしは言ったであろう。『彼らを跡形もなくし/人々から彼らの記憶を消してしまおう』と。」申命記32・26

  「あーこんなこと忘れられたらいいのに。」「これはいつまでも覚えてたいな。」でも記憶って選べませんよね。私は今、車椅子の生活がほとんどです。自分の足で歩いたり走ったりしたことを忘れたいと思ったことは何度もあります。「記憶なんて無くなればどんなに楽だろう」と。
 でもこのことは忘れたくないな、と忘れたくないことも自分にはいっぱいあることを思います。病気で記憶を失っていく人に病院などで出会いました。ほとんどの方が自分で忘れたくないことまで忘れることがあり辛そうです。覚えているからこそわかると言うことがいくつか思い出されます。自分で歩けていた時に電車で席を譲るか譲らないかとても迷い、結果席を譲ろうとして断られた経験がありました。逆に杖で歩くようになり電車で立っていたら席を譲って下さった人がいて嬉しくて「ありがとうございます。」と言って座りました。あれ私今「ありがとう」って言った。
 人から何かしてもらうと私は大抵「すいません」と言っていました。何も悪いことしていないのに。感謝が謙遜になっていたかもしれません。ただ譲る側の気持ちになると別に謙遜して欲しいわけではなく感謝されるだけでも嬉しいんだと思い「ありがとう」を伝えることが増えたような気がします。

議長室から 大柴譲治

慰められる声の力〜〝Graceful Passages〟

「地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。」(列王記上19・12)

 11月は死者を覚える月、私たちにつながる大切な人々のことを想起する時です。私たち夫婦は2006年から2017年にかけて親を見送ってきました。それ以来最も慰められてきたオーディオブックをご紹介させてください。タイトルは〝Graceful Passages – A Companion for Living and Dying〟(2003)。そこに収められているのはキリスト教、ユダヤ教、仏教、儒教等の宗教者と終末期ケアに関わってきた12人のメッセージ(英語)と音楽です。「死ぬ瞬間」で知られるエリザベス・キューブラー・ロス、ラム・ダス、ティクナット・ハン、マハトマ・ガンジーの孫等の声が文字としても記録されていて貴重な歴史証言となっています。
 このCDアルバムは私たち夫婦を深いところで慰め、支え、励ましてきてくれました。メッセージの内容は多様ですが、一つ一つがinspirationalで、声とことばと音楽が心に響きます。聖書で「霊」は「息」とも「風」とも訳されますが、その息遣いは霊の臨在をすぐ身近に感じさせてくれ、悲しむ者に不思議な慰めを与えてくれます。呼吸が楽になるのです。私たちはこれまで少なからぬ方々にこのアルバムをお贈りしてきました。
 特に最初のLew Epstein(1919〜2003)の〝Letting Yourself Be Loved〟というメッセージで、家族の一人ひとりに 〝Farewell my son, farewell my daughter. Farewell my father, farewell my mother.〟と親しく呼びかけながら「私を愛してくれてありがとう。私にあなたを愛させてくれてありがとう」と別れを告げる声は私の魂に響きます。〝Farewell(ごきげんよう)〟とはなんと美しく温かな響きを持つ言葉であることでしょうか。それが私の心に深く響いてくるのは、親にきちんと感謝と別れの言葉を告げることができなかったという悔いる気持ちが私に残っているためでしょう。御国においてもし再会が許されるならば、いろいろと話したいと思っています。
 COVID—19によって世界ではこれまで500万人もの生命が失われました。ここかしこから嘆きの声が聞こえてくるように思います。天に召された者の魂のために、そして遺された者の魂のために、主の慰めと平安とをお祈りいたします。
requiem aeternam.

「教会讃美歌 増補」 解説

⑰増補5番「いのちのさなか死に囲まれて」 増補6番「これこそ聖なる十の戒めよ」
讃美歌委員会 日笠山吉之 (札幌教会牧師)

増補5番「いのちのさなか死に囲まれて」

  この賛美歌では、誰もが避けることのできない死を前にして、人は誰に救いを願うことが出来るのか?ということがまず問われます。キリスト者は幸いなことにその答えを持っています。「主よ、あなただけ」と。それゆえ、後半では主を「聖なる神、ちからの神、慈愛の救い主、永遠の神」と呼ばわり、主に「死の淵から、助けてください」「陰府の火から、助けてください」「堅い信仰に立たせてください」と祈り、「キリエレイソン」(主よ、憐れみたまえの意)と締めくくられられます。第1節は、8世紀に作られたラテン語の応答歌をルターがドイツ語訳にしたもの。ルターは、昔から歌い継がれてきたこの賛美歌の価値を認めていたのでしょう。さらにルターは、自身で2節と3節を書き加えました。こうしてルターの手によって新たに生まれ変わった賛美歌は、1537年には早くも当時のカトリック教会の賛美歌集に収められました。良い歌は、教派を超えて広く用いられるという好例ですね。メロディーはルターによるものではありませんが、15世紀にはザルツブルクで歌われていたようです。

増補6番「これこそ聖なる十の戒めよ」

 言わずもがな「十戒」をテキストとするカテキズム(教理問答)コラールです。ルターは、子どもたちにもまた大人に対しても、生涯にわたって信仰教育が必要であると考えていました。そのために産み出されたのが、ルーテル教会員なら誰でも一度は学んだことがある『エンキリディオン(小教理問答)』です。然り、エンキリディオンとは「必携」と言う意味ですから、洗礼や堅信の時だけでなく、信仰生活を全うするまで私たちは常にこれを傍に置いて学び続ける必要があるのです。ルターもそれを強く願っていたのでしょう。『エンキリディオン』の筆頭に収録された「十戒」を歌えるようにしました。私たちは字面を追うだけではなかなか頭に入ってきませんが、それが歌になるといつの間にか覚えてしまうものです。ルターがこの賛美歌のために書き下ろした歌詞は、『エンキリディオン』のテキストそのもの。旋律は、15世紀には歌われていたエルサレムの巡礼歌に由来します。十戒を一つずつ丁寧に学んでいくように、この賛美歌も1節ずつそのつど取り上げて歌うのも良いでしょう。

世界の教会の声

浅野直樹Sr(世界宣教主事 市ヶ谷教会・スオミ教会牧師)


「義認の教理に関する共同宣言」その後
LWF、20周年記念版の出版

今から4年前、2017年の宗教改革500年記念は、現代を生きるルター派クリスチャンの信仰の記憶に深く刻まれたことと思います。実はもうひとつ、ルター派の信仰の歴史に残る大きな出来事がありました。こちらは神学に関する話題だったために、一般にはそれほどの広まりはなかったかもしれませんが、今から22年前の宗教改革記念日、1999年10月31日にドイツのアウグスブルクで、ルーテル教会とカトリック教会が交わした「義認の教理に関する共同宣言」です(Joint Declaration on the Doctrine of Justification、頭文字をとってJDDJ)。救いは神からの賜物という信仰の根幹に関わる解釈について、これまで分裂していた歴史を解決しようと両教会が歩み寄り、署名した合意文書のことです。その後何らかの進展があったのかどうかが気になるところですが、この歴史的宣言を他教会が受け入れたことについては、あまり知られていません。
 ルーテル世界連盟(LWF)のように他教派にも世界規模の教会連合組織がありますが、世界メソジスト協議会が2006年に、全聖公会中央協議会が2016年に、そして2017年に世界改革派教会共同体がJDDJを受け入れました。そしてこれら五つの教会連合体は、1999年から20年後の2019年3月に米国ノートルダム大学に代表を派遣、共同声明を発表し、JDDJについての合意を再確認したのです。それが「義認の教理に関する共同宣言」20周年記念版です。英語、ドイツ語、フランス語、スペイン語、イタリア語に翻訳されています。内容は、以下のような構成となっています。

・署名した各教会団体代表者連名の前書き
・元々の義認の教理に関する共同宣言と公式共同声明と公式共同声明への付属文書
・世界メソジスト協議会(World Methodist Council)の「義認の教理に関する共同宣言」についての声明
・全聖公会中央協議会(Anglican Consultative Council)の決議16.17「義認の教理に関する共同宣言」
・「義認の教理に関する共同宣言」についての世界改革派教会共同体(World Communion of Reformed Churches)の関わり
・ノートルダム協議会声明(Notre Dame Consultation Statement)

 20周年版は、教会の相互理解に向けての確かな進展があったことを証しています。
(「義認の教理に関する共同宣言」20周年記念版はこちらのサイトからダウンロードできます。)

パンデミックの中の教会 西教区の取り組みから

竹田大地(西教区書記・伝道奉仕部長・西宮教会・神戸東教会・神戸教会牧師)

  西教区においては、特に関西圏を中心に多大な影響を受けた。まん延防止等重点措置下での各教会の判断は、まちまちであったが、緊急事態宣言下においてはすべての教会が礼拝堂に集っての礼拝を自粛せざるを得ない状況となった。また、関西地区以外の東中国地区、西中国地区においても、当該地域における感染者の状況によって礼拝の自粛などの対応を余儀なくされた。

 特に2021年は関西地区における状況が芳しくなかった。2回目~4回目のいずれも多少の発令追加のタイミングのズレはあったものの200日前後であり、1年の半分以上の日々が緊急事態宣言下にあり、首都圏同様に大変な状況に置かれ、礼拝においても既に半数近くの主日が自粛となっている。
 この間、西教区内の各教会は、Facebook・YouTubeでの配信など新しいツールを用いる教会、毎週の週報・説教要旨発送、メールでのお知らせなどでカバーする教会と対応は一定ではなかったが、各教会の状況に合わせて牧師、役員会で判断されていた。

問題点として、
①新しいツール、特にインターネットを用いての礼拝は技術的差異、機材の差異などが大きく影響。
②インターネット配信をしない教会の通信輸送料の増加。
③明確な基準が無く、各教会の判断にまったく委任されていること。
④複数教会兼任の牧師の県外移動の問題(心理的、健康的不安、忌避感)。緊急事態宣言当該地域、教会の地域での患者発生のために県外の担当教会に行けない事態の発生。
 特に④については、広範な地域を担う兼牧において、緊急事態宣言地域、感染者増加地域のため思いがあっても礼拝に行けない、執行できないということが生じている。これは首都圏、関西圏の牧師とは一線を画す事態であると言える。
 いずれにしてもこのような状況下においていかに礼拝を担保するかが課題であり、各教会とも新しい取り組みを余儀なくされた。また西教区においては関西地区と東・西中国地区とでパンデミック下の在り方についてコントラストが大きかったように思う。

ブックレビュー


「わかちあいの食卓」
小泉基著(かんよう出版2021年)

秋山 仁(豊中教会牧師・喜望の家代表)

  2016年4月14日と16日、2度にわたる最大震度7の地震が熊本地方を襲いました。熊本市に隣接する益城町を中心に大きな被害がもたらされた「熊本地震」。このとき、熊本市内でも被害の大きかった東区にあったのが、著者小泉基牧師が当時牧会していた健軍教会でした。2度の大きな揺れにもかかわらず、健軍教会は、幸いにしてしっかりとした基礎工事のおかげでびくともせずに、「避難できます」という張り紙を出したそうです。
 2度目の大きな揺れの後、著者も家族共々、教会の駐車場で、近所から避難してきた人たちと一緒に、不安の夜を明かします。が、その翌日から、とりあえずの「私設」の避難所として、教会堂を開放することになります。その後四十数日間、健軍教会は、地域の避難所として、また地域への生活復旧支援の拠点として、活動を続けました。

 本書「わかちあいの食卓」は、このときの避難所開設から、その解消までの日々、牧師であった著者が経験したことを通して、聖書を読んでいった一つの記録です。著者は被災直後から、SNSを通して、被災地や避難所の様子を発信していました。それらの発信された情報が 本書の下地になっています。(小泉牧師のブログの日録は、地震発生の翌年に健軍教会がまとめた「あの時わたしは-熊本地震と健軍ルーテル教会」という文集に収録されています。)
 「わかちあう食卓」という題名から明らかなように、本書は避難所での食事や食卓の出来事、あるいは最寄りの小学校で行った炊き出しなどを中心に記述されています。印象的な記事の一つは、教会の駐車場で摂った最初の朝食です。教会の女性会の方たちが、「『何はなくともまず朝ごはん!』と食卓の準備に向か」い、「ペットボトルの水とお米とみそ、それにありあわせの乾物」で用意されたおにぎりとお味噌汁。教会の駐車場で、「避難して来られ、寒さの中で共に夜を明かしたご近所さんと信徒さんたち20人ほど」で囲む食卓で、小泉牧師は、詩篇23篇5節の言葉を連想しています。

 また、被災2日後の礼拝で行った「愛餐(アガペーミール)」でのパンのわかちあい(しかも避難者から提供されたチョコパン)も印象的です。それは、「分かち合うことで、共に支え合う存在になる」という著者の言葉とともに、教会という共同体が、原始教会以来保ってきた「パン裂き」を中心としたものであることを、想起させます。各章は、また避難所の経験を通した聖書の言葉の解き明かしにもなっています。「わかちあうこと」を中心に、避難されていた方々に寄り添いながら、健軍ルーテル「避難所」は活動していました。

 本書は、教会が本来潜在的に持っている地域の中での役割を、あらためて教えてくれます。教会が地域における防災拠点の一つとなっている、その実際の姿が垣間見られます。地域防災の観点からも、ぜひ本書を手に取られることをお勧めいたします。

JELAが財団法人として出発

古屋四朗(一般財団法人JELA理事長・日吉教会)

  このほど、JELAは日本福音ルーテル社団(Japan Evangelical Lutheran Association)という名称の社団法人から、財団法人に転換し、「一般財団法人JELA」となりました。
 ルーテル・グループには多くの法人がありますが、JELAは1909年創立の一番古い法人です。創設当初は、アメリカのルーテル教会から来た宣教師たちの社団法人でした。戦前にできた教会、学校、福祉施設などの大半は、この社団法人の中にありました。
 しかし軍国主義の足音と共に、ひとつは敵国・アメリカの影響を排除するため、ひとつは宗教をも国の統制下に置くために、教会も学校も施設も分離させられ、宣教師は追放、宣教師社団は日本福音ルーテル社団と改名させられました。戦後は、教会・学校・施設の再建が、社団を通して米国教会からの莫大な援助を得て行われました。それが一段落して、日本の教会が経済的自給に踏み切ると、社団は宣教師会の土地や建物の管理団体という存在になりました。
 1985年に一人の国際難民のお世話を始めたのが、社団が新たな存在意義に目覚める契機になりました。やがて木造アパートを購入して本格的な難民シェルターを始めました。一時は社団法人を解散してはという話もあったのですが、戦前から社会に大きな貢献をしてきた信用を活かして、教会ではできない公益活動をする団体に変身しようと決め、次々に新しいプログラムを始めました。国内外のパートナー団体との提携により、少ない職員で幅広い活動を展開しています。
 次の目標は、公益法人になることです。公益法人になると、公益団体として高い信用を得ることができ、寄付者にも税制特典を提供できます。ルーテル教会の身内の団体ではなく、隣人愛に共感するすべての方々に参画していただける組織になります。しかし一方で、理念や運営体制は今後もルーテル・グループの一員として安定させたい。そこで、法人形態を財団法人に転換した上で、幅広く継続的な寄付者を募り、この方々には「JELAサポーター」として参画していただくことにしました。また、正式名称からあえて「ルーテル」を外しました。
 「JELAサポーター」は、毎月または毎年一定額の寄付を通じて、継続的にJELAを支えてくださる方々です。金額は、高校生でもできる年額千円から、月額1万円まで、お気持ちで決めていただきます。JELAのホームページから登録できるので、あなたもJELAサポーターになっていただけませんか?


JELAミッションセンター1階ホールにあるステンドグラス。マタイ伝25章にある、飢えた人、渇いた人、旅人、裸の人、病人、牢にいる人に手を差し伸べる様子を描いている

第7次綜合方策の紹介⑺

事務局長 滝田浩之

■方策本文より

第7次綜合方策主文
2.宣教態勢
⑴個々の教会

 日本福音ルーテル教会の宣教態勢は、個々の教会の宣教活動、それを支える教区による共同の宣教活動、さらに包括的に補う形で全体教会(本教会)の宣教活動により成り立っている。
①共同宣教
 宣教の第一線は個々の教会であるが、それぞれに日本福音ルーテル教会の宣教の働きと責任を担っている。それゆえ、個々の教会と教区及び本教会が連携するために、日本福音ルーテル教会として宣教を担い合っている意識と一致が根底に保たれる必要がある。
②自給と教会形成
 個々の教会が宣教する教会であるために、基本姿勢として自給を目指すことを前提として教会形成が目指されてきたが、それぞれの置かれた状況により個々の教会の共同により自給が果たされている現状がある。包括的には教区自給の態勢で進められている。
③適正規模
 個々の教会の適正規模というものは存在しないが、宗教法人格のある教会の場合、役員の構成メンバーが3名を切った時、法人格を維持できないことを鑑み、現実的に役員の任を果たすことができる役員5名の選出が難しい状況に陥った場合を一つの目安として、あえて伝道所(集会所)となること、あるいは建物の維持に困難を覚える場合、閉鎖、家庭集会として再出発できる。何よりも牧会が充実するためのあり方として、組織のあり方、多様な礼拝の持ち方があることを確認する。教会種別のあり方も含めて、規則も整備を進める。

⑵教区
①教区の責任
 教区は与えられた地域での宣教と、そこに置かれている個々の教会の伝道を推進する責任を有する。
②宣教拠点の適正化
 各教区の歴史及びそれぞれの宣教計画の独自性を尊重しつつ、地域の協力態勢の構築と教会間の共同を進めるために、今後も教区レベルで取り組んでいくこととする。(全体教会としては個教会の編成時のガイドラインを規則化と共に整えることとする。この場合文化庁の不活動宗教法人への対応を参考とする。)
③主日礼拝
 個々の教会における共同、地区での共同による、兼牧、連立という兼任態勢にある教会の主日礼拝に関しては、日曜日のみに限定しない。また、毎週主日礼拝が行われることが望ましいが、個別の教会、あるいは地域によっては隔週、月1回程度であっても「魂の配慮の場」として礼拝が行われる場合、これを主日礼拝として理解する。

⑶本教会
①本教会事務局
 全体教会の実務を担う機能を果たすために、以下の点に留意する。
a.責任と権限の明確化(本教会、教区)
b.適正人数で処理可能な態勢の確立(効率化)
 事務局、室体制について、より一層の職員のスキルアップに取り組む。これまでの事務局2名体制の維持は困難であり、事務局長も含め個教会との兼務も視野にいれておく必要がある。
c.宣教の責任主体は個々の教会及び教区であることの堅持

■解説
 「1.基本方針」に続き「2.宣教態勢」が確認されます。
 日本福音ルーテル教会の宣教(伝道)の最前線は、「個々の教会」にあります。そして「個々の教会」は孤立無援に、それに当たるわけではありません。日本福音ルーテル教会は、この働きを「地区・教区・本教会」が支えることを確認しています。この「支え」は牧師数が教会数と合っていた時代は、特別協力金による牧師給の相互支援という態勢によるものでした。しかし経済的な相互支援は、この相互の「支え合い」が見えにくい側面もあったかもしれません。
 しかし「個々の教会」が教勢の低下の中で信徒数や献金額が減少しています。また牧師数減少もあり居住しての牧師が与えられない状況が恒常化しています。このような「個々の教会」の危機が、この「支え合い」を目に見えるものにしていることを私たちは覚えたいと思います。困難にある「個々の教会」を地区の教会と牧師は、これを支えることを自明のこととして兼牧を受け入れてきました。このようなことは「各個教会主義の連合体」ではあり得ないことです。牧師を送り出す教会も、そして兼牧を受け入れる教会も「包括的」な一つのルーテル教会であるという認識があるからこそ、これを可能にしてきたのです。もちろん、このような兼牧体制の中で、礼拝時間をずらす礼拝所もあります。あるいは主日礼拝の曜日を変更する礼拝所もあります。あるいは牧師が司式する礼拝は月1度程度になっている礼拝所もあります。礼拝所の閉鎖に伴い、家庭集会となっているところもあります。このような兼牧を通して教会合同に至った教会もあります。その後、時間の経過の中で礼拝所を1カ所に集約し、残った礼拝所を売却し、集約した場所に新たな会堂を建てた教会もあります。
 もちろん「個々の教会」が成長することが綜合方策の目指すところです。そのための綜合方策です。しかし、この成長のために必要なことは「魂の配慮」、牧会の充実にあります。その意味で本方策は、「個々の教会」、そしてそこに集う一つの魂のために、近隣の教会同士が支え合うことを宣教の後退とは捉えません。いえむしろそのように「共に集まること、共に触れ合うこと、共に分かち合うこと、共に助け合うこと、共に訪ね合う」道筋にこそ、宣教の前進があると考えているのです。

「ありがとう神さま」~みんなでつながろう! Zoomでルーテルこどもキャンプ報告

池谷考史(TNG子ども部門・博多教会・福岡西教会牧師)

 毎年夏に2泊3日で行われていたルーテルこどもキャンプは、8/9(月・祝)に、昨年に引き続いてオンラインで行われました。
 昨年から日常生活のあらゆることが制限され、直接顔を合わせることも難しい状況だからこそ、そんな日常で子どもたちが見つけた「ありがとう神さま」の気持ちを、参加者がそれぞれ持ち寄って、「つながり」を持ちたいと願ってのことでした。
 当日は、青年のリードでの讃美、アイスブレイクのゲームなどの後、参加した子どもたちと青年に「神さまありがとうと思うこと」を分かち合ってもらいました。子どもたちは画面上での初対面ということもあり、少し緊張気味ではありましたが、キャンプ卒業生の青年たちが盛り上げてくれたこともあり、楽しく過ごせたのではないかと思います。
 コロナ禍の中、こどもキャンプのあり方も大きく変わりましたが、このキャンプが子どもたちの心に残り、友達や教会、神さまにつながってくれればと願っています。
 今回のキャンプのために、案内告知してくださった方、スタッフとして快くお手伝いくださった方、お祈りに覚えてくださった方など、すべての方に感謝いたします。参加した子どもたちが感想を寄せてくれたので紹介させていただきます。

♣初参加でした。「神様に感謝すること」は毎日元気でいられることです。コロナがおさまったら今度はみんな集まって一緒に遊びたいです。(I・Hさん むさしの教会 小学5年)

♣最初は緊張したけど、色んな人と話していくうちに、緊張が解けて、楽しかった。
 みんなとの交流を深められて嬉しかった。来年のこどもキャンプはみんなと会えるといいです。(M・Mさん 栄光教会藤枝礼拝堂 小学5年)
 
♣ぼくは、ルーテルこどもキャンプに参加して、たくさんの仲間に会えて、とてもうれしかったです。主に感謝します。(A・Sさん下関教会 小学6年)

♣今までは帰省のためにキャンプに参加できませんでしたが、今回は参加できて楽しかったです。他地域の教会の皆さんと交流出来て良かったです。(I・Hさん 東京教会中学1年)

日本福音ルーテル教会作成週報用紙・チラシ・ポストカードをご活用下さい。

 昨年お知らせいたしましたとおり、在庫整理にあたり、以下の日本福音ルーテル教会作成週報用紙・チラシ・ポストカードについて特別に送料のみのご負担でお分けいたします。在庫がなくなり次第、終了となります。ご了承下さい。
★ポストカード「ベツレヘムの星」(絵・葉祥明氏)
★バンドパンフレット「ガリラヤの湖畔にて」(絵・葉祥明氏)
★B5週報用紙「ベツレヘムの星」(絵・葉祥明氏)
★B5チラシ「飼い葉桶(文字無し)」(絵・葉祥明氏)
★B5チラシ「ベツレヘムの星(文字入り)」(絵・葉祥明氏)
★A4週報用紙「飼い葉桶」(絵・葉祥明氏)
 お届けまでに2週間ほど頂きます。予めご了承ください。在庫確認等、問い合わせ・お申し込みは事務局までお願いいたします。
電話03(3260)8631

21-10-01真理はあなたたちを自由にする
「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」

(ヨハネによる福音書8章32節) 

 未曾有の感染症の危機に直面する中、自由を奪われたような毎日です。この暗闇の中で、イエス・キリストの言葉が光ります。「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」。
 この聖書の言葉は宗教改革日の日課にあります。宗教改革はおよそ500年前にヨーロッパで起きたキリスト教会の改革の出来事ですが、過去の話ではありません。信仰的な観点からは聖書を読む運動とも言われ、今なお続く改革運動だからです。その性質故に教派を超えたキリスト者の運動でもあります。このことを4年前の宗教改革500年記念事業を通して実感された方も沢山おられることと思います。

 福音書の日課において、イエス様はこの時、ご自分を信じたユダヤ人たちに向かって言いました。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」。この後の議論を通して、イエス様は罪の奴隷という事実を明らかにします。これは、私たちの奥深い部分にある根本的な不自由さのこととも言えるでしょう。そもそも、人は皆、不自由。私たちの内にある傲慢さや自己中心、神様から背く思いが、私たちを平和とは逆の世界に縛り付けてしまいます。

 この罪の奴隷からの解放は、本当の自由は、真理、すなわちイエス・キリストによって、その言葉にとどまることにおいて与えられます。ローマの信徒への手紙3章22節以下には次のように記されます。ここでは聖書協会共同訳を引用してみます。聖書の言葉の味わいが深まるかも知れません。「神の義は、イエス・キリストの真実によって、信じる者すべてに現されたのです。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっていますが、キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより価なしに義とされるのです」。

 キリストによって本当の自由を得た私たちはどうなるのでしょうか。宗教改革者マルチン・ルターは、聖書から深い考察を示します。私たちは、キリストの弟子となり、キリストの務めを与えられ、祭司とされる。それ故、神様の前に立つことをゆるされ、他者のために執り成しの祈りをする者とされる。イエス・キリストは私たちの心を解放し、他者のために祈り仕える自由を与えてくださったのです。だから、本当の自由を得た私たちは、キリスト者の自由に生きる者とされていきます。

 この約1年半、私自身も自由について考えさせられました。私たちの教会でも緊急事態宣言の度に会堂での礼拝参加の自粛をお願いし、集会を見送ってきました。信仰も命も大事ですと呼び掛けながらも、耐える期間が長くなるほど、思い通りにならない不自由さを感じてしまいます。しかしある時、私は、自分の想像を超えて教会員の方から励ましを頂くことがありました。礼拝の動画配信によって、ご自宅で、ご家族と教会のことを話せるようになったということをうかがったのです。その方は、長年、教会のことを話しにくい不自由さにありましたが、昨春から始めた教会の働きによって代弁者を得ておられました。私は、人の想いを超える神様の出来事を感じました。礼拝が、キリストの言葉が、1人の信仰者の心を解放していたことを教えられました。

 私たちの目の前には、依然として困難が横たわります。しかし、神様は私たちの想いを超えて働かれます。イエス様は「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」と約束します。今なお、聖書を読む運動の道半ばにいる私たち。その道しるべは、イエス・キリストの言葉です。願わくは、私たちが、イエス様の言葉にとどまり、本当の自由を得ることができますように。そして、他者のために祈り、仕え、この世に平和を成す者とされますように。

日本福音ルーテル名古屋めぐみ教会牧師 小澤周平

photo/ワイマール・聖ペーターとパウル市教会の祭壇画、ルーカス・クラナッハ(子)作、1555年

21-10-01るうてる2021年10月号

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「真理はあなたたちを自由にする」

日本福音ルーテル名古屋めぐみ教会牧師 小澤周平

「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネによる福音書8章32節)

  未曾有の感染症の危機に直面する中、自由を奪われたような毎日です。この暗闇の中で、イエス・キリストの言葉が光ります。「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」。

 この聖書の言葉は宗教改革日の日課にあります。宗教改革はおよそ500年前にヨーロッパで起きたキリスト教会の改革の出来事ですが、過去の話ではありません。信仰的な観点からは聖書を読む運動とも言われ、今なお続く改革運動だからです。その性質故に教派を超えたキリスト者の運動でもあります。このことを4年前の宗教改革500年記念事業を通して実感された方も沢山おられることと思います。

 福音書の日課において、イエス様はこの時、ご自分を信じたユダヤ人たちに向かって言いました。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」。この後の議論を通して、イエス様は罪の奴隷という事実を明らかにします。これは、私たちの奥深い部分にある根本的な不自由さのこととも言えるでしょう。そもそも、人は皆、不自由。私たちの内にある傲慢さや自己中心、神様から背く思いが、私たちを平和とは逆の世界に縛り付けてしまいます。

 この罪の奴隷からの解放は、本当の自由は、真理、すなわちイエス・キリストによって、その言葉にとどまることにおいて与えられます。ローマの信徒への手紙3章22節以下には次のように記されます。ここでは聖書協会共同訳を引用してみます。聖書の言葉の味わいが深まるかも知れません。「神の義は、イエス・キリストの真実によって、信じる者すべてに現されたのです。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっていますが、キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより価なしに義とされるのです」。

 キリストによって本当の自由を得た私たちはどうなるのでしょうか。宗教改革者マルチン・ルターは、聖書から深い考察を示します。私たちは、キリストの弟子となり、キリストの務めを与えられ、祭司とされる。それ故、神様の前に立つことをゆるされ、他者のために執り成しの祈りをする者とされる。イエス・キリストは私たちの心を解放し、他者のために祈り仕える自由を与えてくださったのです。だから、本当の自由を得た私たちは、キリスト者の自由に生きる者とされていきます。

 この約1年半、私自身も自由について考えさせられました。私たちの教会でも緊急事態宣言の度に会堂での礼拝参加の自粛をお願いし、集会を見送ってきました。信仰も命も大事ですと呼び掛けながらも、耐える期間が長くなるほど、思い通りにならない不自由さを感じてしまいます。しかしある時、私は、自分の想像を超えて教会員の方から励ましを頂くことがありました。礼拝の動画配信によって、ご自宅で、ご家族と教会のことを話せるようになったということをうかがったのです。その方は、長年、教会のことを話しにくい不自由さにありましたが、昨春から始めた教会の働きによって代弁者を得ておられました。私は、人の想いを超える神様の出来事を感じました。礼拝が、キリストの言葉が、1人の信仰者の心を解放していたことを教えられました。

 私たちの目の前には、依然として困難が横たわります。しかし、神様は私たちの想いを超えて働かれます。イエス様は「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」と約束します。今なお、聖書を読む運動の道半ばにいる私たち。その道しるべは、イエス・キリストの言葉です。願わくは、私たちが、イエス様の言葉にとどまり、本当の自由を得ることができますように。そして、他者のために祈り、仕え、この世に平和を成す者とされますように。

エッセイ「命のことば」 伊藤早奈

⑲「生まれてきてくれてありがとう」

「あなたは、わたしの内臓を造り/母の胎内にわたしを組み立ててくださった。/わたしはあなたに感謝をささげる。/わたしは恐ろしい力によって/驚くべきものに造り上げられている。/御業がどんなに驚くべきものか/わたしの魂はよく知っている。」(詩編139・13〜14

  「ハッピバースデートゥーユー♪」これって神様が毎日一人ひとりに歌って下さっておられるのかもな。そう私に思わせたのは「毎日カードに光が当たるとハッピーバースデーの歌が流れてくるんだよ。」と知り合いが教えてくれた時です。
 
神様って直接話せないけどいろんなかたちで私たち一人ひとりに囁いて下さるんですね。

 私は働かせて頂いていた施設に入居されていた皆さん一人ひとりに誕生日カードをお配りしておりました。いつもご挨拶をしても下を向いて私の顔なんて見ても下さらなかった方が私の目を見て下さるようになったりしました。いつも出勤した月の一番初めの日に配るようにしていたのですが、たまたまその日にお誕生日の方がおられたので「お誕生日おめでとうございます。今日お誕生日ですね。お誕生日の歌、歌っていいですか?」と言ってハッピーバースデーの歌を歌いました。ベッドに横たわり寝ていたのかと思っていました。いつもお会いすると怖い顔を私に向けていたその方がある日ひょっと私を見て嬉しそうにされました。あまりにも意外でしたが神様が私を通して働かれたことを思いました。ハッピーバースデー。

議長室から 大柴譲治

神無月に〜魂のための時間

「順境には楽しめ、逆境にはこう考えよ/人が未来について無知であるようにと/神はこの両者を併せ造られた、と。」(コヘレト7・14)

  「健康は人を外に向かわせ、病気は人を内に向かわせる」と言われます。確かに逆境の時は、私たちを内へ内へと深く沈潜させてゆく内省の時であり、自己のレジリエンスを鍛錬する時でもある。「順境には楽しめ。逆境には考えよ」とコヘレトが告げている通りです。

 昨年2月以降のCOVID─19による世界的なパンデミックは私たちを内面深く沈潜させてゆきました。この状況はいったいいつまで続くのでしょうか。「外的奉仕のための内的集中」(ボンヘッファー)という言葉については前に触れたことがあります(2020年5月号)。確かに外に向かって奉仕するためには内的に集中して力を蓄える必要がある。何事もバランスです。

 動物写真家の星野道夫さんが紹介しているエピソードです(『旅をする木』)。南米のアンデス山脈で考古学の発掘調査のためガイドとして現地の案内人たちが雇われます。調査隊の一行はある地点までは順調に進んできたのですが、ある時にガイドたちがピタッと止まってまったく動かなくなってしまった。ストライキと思った調査隊は困ってお金をさらに支払うからと交渉する。しかし彼らは座ったまま一歩も動こうとしない。曰く、「我々はあまりにも速く来すぎてしまった。だからここで、魂が追いついてくるまで待つのだ」と。ハッとさせられます。魂がからだに追いついてくるための時間とは…私たちもこれまで急いで歩み過ぎてきたのかも知れません。魂が追いついてくるまでを待つ時間としてこの時が与えられたと受け止めることもできましょう。

 それにしても魂のための時間とはどのような時間か。コヘレトは告げています。「人が未来について無知であるようにと神はこの両者(順境と逆境)を併せ造られた」と。本来魂は神に向かって造られていますので、それは神に思いを向ける時です。詩編の言葉を想起します。「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(口語訳46・10)。〝Be still, and know that I am God!〟(NRSV)。立ち止まって沈思黙考し、自らを省みると共に神に思いを向け、祈る時。魂が追いついてくるまでの静謐の時としてこの時を位置づけたいと思います。

 10月は樹木の葉が微妙な寒暖の変化の中で美しくその色合いを変えてゆく季節。日本では古来「神無月」と呼ばれる月であり私たちの教会にとっては宗教改革の月。それはまた私たちが魂の在処を確認する月でもある。じっくりとこの時を味わってみたいのです。

「教会讃美歌 増補」 解説

⑯増補3番「今こそわたしは去りゆく」・増補4番「主は死に打ち勝ち」
讃美歌委員会 石丸潤一(西日本福音ルーテル 新田教会牧師)

 ルターの時代、ペストがたびたび流行し、またトルコがヨーロッパを攻め、すぐそばに生きている人々に死の陰が迫りました。ルター自身も、宗教改革の進展の中で敵と戦いつつ、命の危険を感じる日々を送っていました。
 「メメント・モリ」ということばをご存じでしょうか。「死を忘れない」という意味のラテン語の言葉です。死は誰にでも訪れるもの、誰も乗り越えることのできないもの、すべて生きている人が誰も知らない世界へとひとり無理矢理に連れて行かれることです。だからこそ、死は恐れるべきものであって、死に対する解決を誰もが望みます。

 古代には、このことばは、「死を忘れるな。そして、生きる今を楽しめ」というように使われたようですが、今の人生をどれだけ楽しんでも、死の解決にはなりません。
 現代はどうでしょう。私は、死にそっぽを向く時代になったように感じます。人の知らない感染症が流行し、災害や戦争が起こる。世界の様子はかつての時代とそれほど変わらないのに、死が情報や数字に変えられることで、死を自分のものとし、恐れることが薄くなっていると感じます。しかし、死から目を背けても、死は必ず自分の身に起こります。

 死に対する解決は、死を経験したことのない、生きている者には生み出せません。とはいえ、もはや死に飲み込まれた人は、解決を生み出すことができません。死の解決は、死んで、死に勝利して、生きておられる方にこそあるのです。イエス・キリストの十字架の死に私たちの死は取りさられ、イエス・キリストの復活が死への勝利を与えます。主を信じる信仰によって罪の救いと永遠の命を受ける時、私たちは死の解決と、また死を恐れつつも勝利を確信しながら力強く歩む命の日々が与えられるのです。

 「今こそわたしは去りゆく」と「主は死に打ち勝ち」は、死の恐れがいつも傍らにある世界と人々に向かって、みことばに示された解決と勝利を力強く宣言する賛美です。救い主イエス様を信じ、私の命と人生にお迎えし、永遠の命と天の御国の約束へと去りゆく日まで、主の御心に生きる毎日を送りましょう。救い主を胸に抱いたシメオンのように。

世界の教会の声

浅野 直樹Sr.(世界宣教主事 市ヶ谷・スオミ教会牧師)


スウェーデンのインターネット牧師③

 ルーテル世界連盟(LWF)がスウェーデンのシャルロッテ・フルックルンド牧師にインタビューした記事(2021年3月19日)の紹介の最終回です。

(元の記事のURL)
https://www.lutheranworld.org/news/sweden-internet-pastor-engages-faith-seekers-online

 最近は、人々が退屈してきているようで、退屈さと向き合うための祈りですとか、退屈に耐える程度のことが自分の最悪の事態で済んでいることを感謝したい、といった祈りもあります。COVID─19の間、皆さんが今感じていること、向き合っていることにオンラインでの祈りで関われることを私たちは嬉しく思っています。

—ソーシャルメディア牧師であることをどう思っていますか。
 人生における実存的な問いについて皆さんとお話しできるので、やり甲斐があります。いわば彼らの「今そのとき」に私もそこにいられるのです。通常の牧会だとそのためにわざわざ時間をつくり、腰を下ろして話すという形式ですが、そうではなく問題があったら即座に対応できるのです。困ったことや何か嬉しいことがあったらスマホから手を離すのではなく、むしろスマホを手に取って利用するのです。ピンチのときも喜びの只中でも、すぐそこに教会があって、私が関われるのです。私はそこにやり甲斐を感じています。

—オンライン牧会に期待することはありますか。
 世界のオンライン牧師たちとつながりたいと思っています。ソーシャルメディア牧会は素晴らしい召しですが、同じ働きに携わる方々との交流や学習をできるといいですね。

—オンライン牧会を教会が実施していくためのアドバイスはありますか。
 オンライン教会は、パンデミックのときに限らず良い働きです。参加しやすくつながりやすいからです。ヴァーチャルな礼拝のほうが対面する礼拝よりもたくさん出席してくれるという同僚たちの声もあります。教会へでかけることは無理でも、礼拝には参加したいという人たちのためにも、こうした牧会を今後も続ける必要を感じます。オンラインを続けましょう!Facebook、Instagram、TikTokなど利用できるメディアがなんであれ、教会がやりたいこと、必要と思うことを見つけてそこに登場してください。

—スウェーデン教会、そしてあなたの仕事、御自身にとって、教会のコミュニオンとは何か教えてください。
 ルーテルはグローバルな教会ですが、世界の人々と毎日顔を合わせているわけではありません。けれどもソーシャルメディアだとそれができます。これを用いて私たちが共に祈るなかで、コミュニオンというルーテル教会の「輪」のなかにいる1人だと気づけるのです。(了)

パンデミックの中の教会 東教区の取り組みから
東教区オンライン信徒講座

小勝奈保子(東教区教育部長・聖パウロ教会牧師)

  東教区の新しい試みとして、オンライン信徒講座が始まりました。諸集会の開催が難しい状況が続いています。聖書会の休止が続いている教会もあれば、オンラインで始めた教会もあります。単独ではネット配信の難しい教会もあるでしょう。そこで、東教区27教会を対象にZoomによる、他教会のメンバーと一緒に学ぶ、聖書講座を計画しました。全体で70分(講座60分+案内10分)です。
 第1回(6月)は「聖書日課のススメ・詩編とルター」松本義宣牧師、第2回は(7月)「求道者に伝える聖書」(フィリピとエチオピアの高官)、それぞれ約50名の参加がありました。講師の方々には、今回のテーマとして、宣教、信徒として伝えることを意識した聖書の学びをお願いしています。

 準備の段階では、申込者が100名を越えたらどうしよう?との心配もあったことから、各教会1~4名の枠を設けました。後日、希望する教会には録画(YouTube限定配信)のURLをお送りすることで、92名のお申込みがありました。
 オンライン上でも共に集い学び合えることは大きな喜びです。しかし、ネット環境の難しさも感じています。Zoomの良さは相互交流にあるのですが、出席者が50名近くになりますと、参加者一人一人の発題の提供が難しくなります。しかし、講師の一方的な講義だけ終わってしまうのは、もったいないと頭を悩ませているところです。また、資料の取り扱いに関しても、スマホによる参加者の方もおられますので、印刷の準備や画面共有の視聴にも限界があり、つながりあっているけれども、個々のニーズに応えるのはやはり難しいですね。やってみないと分からないものですが、新たな課題も与えられます。

 しかし、良い点は、他の教会の牧師から聖書の学びが受けられる、遠く離れている人々と同じ時間を共有できる、忙しい時間の合間でも遠い会場まで足を運ばずに自宅にて集いに参加できるなど、多くの利点もありました。
 牧師にとってもオンライン上で伝えることは、まだまだ慣れない状況です。だからでしょうか、参加者には教職者の姿も多く見受けられました。新しい伝え方を信徒も牧師も共に学び合っています。

〈今後の予定〉
第3回9月24日(金)19時「子どもへ伝える聖書」
朝比奈晴朗牧師
第4回10月23日(土)10時「旧約の預言者たち」
後藤由起牧師
第5回11月26日(金)19時「はじめてのパウロ」
立山忠浩牧師
 録画(YouTube限定配信)のURLに関しては、所属教会を通じて東教区教育部へお問合せください。

熱海市伊豆山地区ボランティア報告

渡邉克博(浜松教会・浜名教会牧師)

  7月3日、熱海市伊豆山地区で大規模な土砂災害が起きました。その後の7月22日、2年前の千葉県館山市の台風の被災者支援の際にお世話になったNGO団体が、発災直後から現地に入って支援活動をしていることを知りました。それから、役員会での議論を経て、ボランティア参加後2週間の自主隔離と、事前のPCR検査だけでなく自主隔離の後にもPCR検査を受けることを条件として、JELCも運営委員会に参加しているACTジャパン・フォーラムを通して、8月9日に現地でのボランティア活動に参加することとなりました。

 その団体は地域の自治会と協力して被災者支援を行っていました。その活動は二つです。一つは市などから届く生活必需品の戸別配布と住民のニーズの聞き取り、もう一つが住民のニーズを受けて、絵本の宅配、キッズクラブ(子どもたちの交流の場)、移動困難者の車での移送支援などの具体的な被災者支援プログラムの展開です。ここには彼らの提唱する「市民(ボランティアなどによる)ソーシャルワーク」という方法がとられています。

 私は戸別訪問に同行し、狭い山道を車で移動し、移動先で夏の日差しの中で汗をかきながら支援物資を徒歩で戸別配布し、住民の日ごとに変わるニーズの聞き取りを行いました。熱海市の伊豆山地区は、山地を切り開いた集落で、古くからの地域住民の住居と、別荘とが混在しています。水や食料や日用品が地域の支援拠点の公民館に届くのですが、高齢の住民は急な坂を上り下りしなければなりません。活動の最中、大雨の被害の爪あとを見たり、被災された方々の口から自然と溢れる苦しみと痛みの声に耳を傾ける場面もありました。

 コロナ禍の中での多忙な現実の状況に生きていて、自分の教会の近くや教区での次の災害に対して何をどう備え、実際に起きたときに何をすべきか、そういう問いかけを受けているのではないかということを感じつつ、今、コロナ禍の中での被災者支援について考えています。

比叡山宗教サミット34周年記念
「世界平和祈りの集い」報告「食卓を囲めますように」

竹田大地(西宮教会・神戸東教会・神戸教会牧師)

 8月4日(水)に比叡山延暦寺にて天台宗主催の「比叡山宗教サミット34周年記念 世界平和の祈りの集い」が開催され、日本福音ルーテル教会より大柴譲治総会議長(リモート)と竹田(現地参列)が出席した。
 この集いは1986年10月にヨハネ・パウロ2世の呼びかけによってイタリアのアッシジで始められた宗教間対話の催し「平和の祈り」が発端となっている。これは「平和は誰もが恒久的に求め、それは宗教の違いは関係ない共通の目標である」ということで始められた祈り会である。この理念に共感した当時の天台宗第253代座主山田惠諦氏が、これを日本でも毎年行っていこうと声を挙げ始められ、今年で34回目となった。
 キリスト教界からは日本福音ルーテル教会の他にカトリック2名、聖公会2名が現地に参集し、リモートでバチカン市国駐日大使などが出席をした。
 今回は現座主によって、戦争に限らず、新型コロナウイルス禍のことを含めて「宗教を超えて相互理解を深め博愛、利他、連帯によってともに祈り、世界平和を希求し、我々宗教者は一層の努力を積んでいく必要がある」という主旨の挨拶がされた。
 この催しで、高校生が平和を願い、色紙に言葉を書いたものが掲示されていた。その中の一つに「食卓を囲めますように」というメッセージが目に留まった。私はそのメッセージに感動を覚えた。まさに平和の姿とは、愛する家族や友と食卓を囲むことから始まる。キリストもまた弱められ、悲しみを抱え、悩んでいる人々、罪人と食卓を囲むことによって平和をお示しになったことを思い出したからである。食卓には小さな平和があり、この世の隅の小さな食卓の出来事が実は他者を思いやり、愛し、交わりを深め、喜びに満ち溢れさせる出来事であったとハッとさせられた。隣人との関りは「同じ釜の飯を食う」ではないが、そういう親しい食の交わりから生まれることは多々ある。そのしるしとして私たちは聖餐という恵みをいただいている。今はそれが奪われ、むしろ悪いことのようにされてしまっていることは悲しく、辛いことである。一日も早く共に食卓を囲む日が訪れるようにとこの高校生の祈りに思いを合わせ、この「食卓を囲めますように」という祈りが真実にこの平和でない世界に必要なメッセージだと感じた。

第7次綜合方策の紹介⑹

事務局長 滝田浩之

■方策本文より 第7次綜合方策主文

1.基本方針
(1)宣教の根拠
①基本的立場
 ルターの宗教改革で意図された「聖書のみ」、「信仰のみ」、「恵みのみ」、すなわち「キリストのみ」を基本的立場とし、今日の世界に対して神の愛と義による救いを、神の言葉と共に伝えることが日本福音ルーテル教会の宣教である。
②宣教の目的
 日本福音ルーテル教会の宣教の使命は、キリストの命に従って、すべての人に福音を宣べ伝え、教会を建て、愛による奉仕をなし、これらのことによって神に仕えることを目的とする。(日本福音ルーテル教会憲法第9条)
③教会の意義
 福音の宣教として恵みの手段(説教とサクラメント)を神より託された教会は、キリストへの信仰により、神の救いの働きを担う使命共同体であることを、教会の宣教を通して証しする。

(2)教会の使命
①伝道
 教会は、折がよくても悪くても、神の国の完成を目指し、祈りつつ、希望と確信をもってキリストと共に歩むものである。(方策を支える重要理念)
②宣教の器
 教会は、説教とサクラメントを通して、福音を伝えるためにより良い宣教の器となることを目指す。
③教会の「リ・フォーメイション(再形成)」
 今日の世界と社会及びそれぞれの地域において、自らの責任能力に応じて宣教する教会であるために、その実現に向けて教会組織の再形成を必要とする。主任牧師が、個々の教会の将来像を地区、教区と協力して描くことが重要である。「方策実行委員会」は、その方向性を支援するために、必要な規則改正等に対応する。

(3)本教会と個々の教会
①教会形成
 日本福音ルーテル教会の個々の教会がそれぞれの宣教地において、すべての人にキリストの福音を伝え、教会の一員として招き、信仰の群れとして教会を形成することが宣教の中心的働きである。
②教区の役割
 一つの教会としての日本福音ルーテル教会を構成する個々の教会こそが福音宣教の第一線に置かれるものであり、個々の教会が属する一定の地域毎に構成される地区・教区によって地域の宣教が進められる。
 また、教区は全体の一致と宣教の進展を図るための責任機関である。教区は個々の教会、地区(教会共同体、教会群)の意見をまとめ、「招聘と応諾」については基本的に堅持しつつ、具体的な招聘手続きを個々の教会、地区の描く将来像に基づき行う。一人の教職が担える範囲を、具体的に二つの宣教拠点(教会、あるいは施設)を目安に進められることが望ましいと考える。
 各教区の状況は大きく異なっている。また教会再編は、あくまでも牧会力の回復のために必要と判断されるところから検討されるべき対応策の一つである。よって一律のタイムスケジュールを組むことで力のある教会の宣教を阻害する恐れもある。よって各教区での活発な議論の開始を期待したい。
③教会間の共同
 教区は地域における教会間での協力の意義を受けとめ、牧師が複数の宣教拠点を抱える場合、積極的に地域の宣教のあり方について提案する責任を負う。
④全体は一つの教会
 日本福音ルーテル教会は一つの教会として、個々の教会、教区、本教会が宣教するための活動と維持のために、それぞれの役割分担を明確にし、これを共に担っていく必要がある。
⑤本教会の役割
 本教会は、全体を一つの教会とし、その組織・制度を維持・発展させていくために、内的・対外的な教会行政と宣教活動及び教職養成機関の維持と推進を中心的業務とする。

■解説

 第7次綜合方策の「本文」に入ります。具体的な指針を示すものとなります。
 日本福音ルーテル教会は、今、岐路に立っている、あるいは危機的な状況にあるのではないかと評価されることがあります。確かに、戦後のキリスト教ブームの時に多くの洗礼者が生まれるような状況に私たちはありません。また、その頃に洗礼を受けられた方々に、今も教会が支えられていることを否定することはできません。
 しかし、私たちは、そのような危機的な状況にあるからこそ、教会の原点にいつも立ち帰ることが必要ですし、それしか活路はないことも知っています。ルター神学の特徴が「一点突破、全面展開」と言われるならば、まさに「一点」は福音の喜びを、「折がよくても悪くても」伝えることにあります。
 この喜びを伝えるのは「個々の教会」の礼拝であることも、私たちにとって自明なことです。もちろん、私たちの教会は各個教会主義でも、あるいは各個教会の連合体でもありません。個々の教会は教区を形成し、教区は本教会を形成し「ひとつの教会」であると私たちは理解しています。このような教会理解を持つ私たちだからこそ、「個々の教会」をどのように活性化し、どのように支えるのか、群れを託されている主任牧師、そして教区の役割は大きなものがあるものと考えます。
 その時、もう一つの視点として考えたいのは、1人の教職が、十分に「福音の喜びの伝達」のために機能することのできる範囲です。第7次綜合方策では、この範囲の一つの目安として、1人の教職は二つの宣教拠点(個々の教会、施設)までは十分に担えるのではないかと考えました。もちろん、これは機械的に二つの拠点までとするというものではありません。なぜなら「個々の教会」の特性や働き、そして置かれた地域や距離、あるいは「施設」の運営形態や規模によって事情は異なるからです。ルーテル教会形成の特徴は「バトンタッチ」にあります。教職は必ず、任務を「バトンタッチ」する責務を負っています。次に働いてくださる教職が、喜んで責務を担うことができるためには、今何をする必要があるか。この課題を共に悩み、共に答えを見出していく時を私たちは迎えています。

るうてる法人会連合全体研修会(オンライン)に参加して

宮原サラ(久留米教会・日善幼稚園教諭)

 今年は新型コロナウイルス感染拡大防止の為、オンラインでの研修が行われました。講師は日本福音ルーテル教会総会議長の大柴譲治先生で、緊急事態宣言が発令されている状況の中で、色々な困難や悲しみにどう向き合うべきかを学ばせて頂きました。
 先月も5回目の緊急事態宣言が発令されましたが、発病して数週間で命を落とす方もいれば、無症状で自宅待機を余儀なくされている方もいらっしゃいます。大柴先生は、悲しみや苦しみの中におられる時、「嘆くことの大切さ」を話されました。「悲しいこと、困難なことにぶち当たった時に、嘆いて良いのです。嘆きを受け止めてくれる誰かがいることが大切です。」と述べられました。「それは、家族でも友人でも、温かい共同体(教会やサークル、いのちの電話等)でも、共に話を聴いて受け止めてくれる人がいるだけで良いのです。」と。
 子ども達も、お友だちとけんかしたり、自分の思うようにいかなくて涙がでたり、お家の人の事を思い出して寂しくなったり…そんな時に教師が子どもの気持ちを聞いて、寄り添い、悲しみを受け止めてあげる事が大切ではないかと、改めて思います。
 また大柴先生は、「レジリエンス」の重要性を話されました。この言葉は元来、ばねの回復力という意味ですが、人間も、再生能力・逆境に乗り越えられる力、すなわちレジリエンスを持っているそうです。そのレジリエンスを高めるには、①ほがらかにする。②1人でもいいから、自分のありのままを受け止める人を持つ。③家族や職場など、温かい雰囲気や、信頼関係を持てる環境の中で、祈り合える場が大切だ、と教えて下さいました。
 今、子ども達は厳しい環境の中にいますが、幼稚園で少しでも自分のありのままを出して、お友だちと楽しい時間を送ることができるよう、私も子どもに寄り添い関わっていきたいと思います。

※8月23日に行われた、るうてる法人会連合全体研修会での大柴譲治議長による主題講演「COVID―19下での悲嘆とそのケア」はhttps://youtu.be/BwINGLnsqkYでご覧頂けます。

第3回「神学校オープンセミナリー」のご案内

立山忠浩(日本ルーテル神学校校長・都南教会牧師)

 第3回「神学校オープン・セミナリー」を今年も開催します。新型コロナウイルス感染症の蔓延が収まる状況にありませんので、昨年と同様にオンライン(Zoom形式)で行います。日本福音ルーテル教会(JELC)及び日本ルーテル教団(NRK)の信徒で、神学校に関心のある者だけでなく、教会の働きへの献身を考えている者をも対象とします。18歳~30代までとし、10名程度の定員となります。

 オンラインでの開催は、直接神学校を体験することができず、参加者や神学教育の教会の責任者及び神学校教師と対面することはできませんが、自宅から参加できるというメリットがあります。全国の教会の皆さん、どうぞご参加ください。
 プログラムは第一部と第二部に分かれます。第一部では、神学校の模擬授業を体験していただきます。神学校の授業時間は100分ですが、その半分ほどの時間で神学生の授業を味わっていただきます。きっと新鮮な体験となることでしょう。受験・入学に関するガイダンスも行いますので、有益な情報を入手できると思います。

 夕食と休憩時間を挟んで、第二部は交流会です。現役の神学生の進行の下、リラックスした雰囲気で参加者が交流を深める時です。若手牧師にも参加していただき、神学校を受験するまでの葛藤や、神学生時代の生活、牧師となった今を率直に話してくださることでしょう。要は、皆さんの参加を心から歓迎し、その準備を精一杯しているということです。

開催日 : 11月14日(日)  第一部(15時~17時) 第二部(18時半~21時)
申し込み : 所属教会牧師の推薦を受け、各教区長に申し込みのこと
締め切り : 10月31日(日)
共催 : JELCとNRKの神学教育委員会、日本ルーテル神学校
問い合せ : ルーテル学院・河田チャプレン(mkawata※luther.ac.jp)※→@

21-09-01るうてる2021年9月号

機関紙PDF

「隠されている恵み」

日本福音ルーテル大森教会牧師 竹田孝一

「汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。」(マルコによる福音書7章25節)

 高校生の時、ネフローゼ症候群を発症し、長期入院を繰り返していた私の治療のために両親を心配させ、苦労をかけさせていたことを今でも申し訳なく思っています。こどもが病気であるということは親には大変に辛いもので、どうしてもこどもの病気が癒されることを願わずにはおられません。この福音書の物語の娘の癒しを願う母の必死の求めは、私の母の必死な求めと重なってきます。

 しかし、この親の必死さに対してイエスの態度、言葉は私には理解できません。「娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。イエスは言われた。『まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。』」(27節)とこの母親の願いを拒絶するのです。

 「イエスのことを聞きつけ」とはイエスの良い評判であり、福音であり、恵みの言葉であったはずです。これを聞きつけてやってきたのですが、しかし、恵みの言葉としての福音が、一見それとは思えないような現れかたをした。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」と、なんと残酷な拒絶でしょうか。これが試練です。試練は、自分が神から見捨てられたという疑問が起き、神の愛から遠ざけられたという関係が生じてきたとき起こるものです。

 しかし、この母親はこの試練をみごと超えていくのです。母親としての、自分の子どもを癒してほしいというイエスへの願いが強ければ強いほど、イエスの拒絶はどれほど辛いものであったでしょうか。母親は、自分がフェニキア人、異邦人であること、イエスの「子ども」でないことをどんなに呪ったでしょうか。しかし、全ての思いを捨て去り、ひたすらイエスの言葉をいただこうとしたのです。主イエス・キリストへの信頼しか自分には残っていないことを母親は試練の中で選び取ったのです。

 試練がある、しかし、その試練の中で、信仰者である私たちは、信仰とは何なのかと問われ、信仰を深めさせられていく恵みのときとなるのです。

 試練にあるこの母親は私たちに教えてくれているのです。信仰、それは徹底的な神のみ言葉、つまりイエス・キリストへの信頼であるということを。

 今、母親は、万事休すという試練の中にたたされている。しかし、なおもイエスに救いを求め、イエスにひたすら向かう母親に対して、「それほど言うなら、よろしい。」というイエスの言葉には、母親の願いを聞こうとする神の、イエスの、強い意志・気迫が伝わってきます。
 神の救いが私から失われ、無関係になっているのではないかと思われる試練の時・場にあって、キリストの恵みが、答えが隠されています。

 「女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた」(30節)。

 新型コロナウイルス感染症の拡大という中で、自分の命さえどうなるか分からない日々があり、礼拝もままならぬところで、自分は神の恵みと無関係ではないかという信仰の試練の内に私たちはいます。が、イエスのその足もとにひれ伏し、試練の内にこそ隠された神のみ言葉、恵みがあることを信頼して、「たとえ、明日世界が終わるとしても、それでも今日私はリンゴの木を植える」という今日の一歩を主イエスの御心の内に歩みだしましょう。

エッセイ「命のことば」 伊藤早奈

⑱「におい」

「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。」(エフェソ5・2)

 これは秋の匂い、これは冬の匂い。私たちは匂いのないものの匂いを感じたり、匂いが思い出を運んできたりします。昔歌った歌に「おかあさん、なぁに。おかあさんていいにおい。せんたくしていたにおいでしょ。シャボンのあわのにおいでしょ。」という歌があります。季節の匂いについて思いを馳せていたら、何度も何度も心の中でこの歌が流れました。

 そしてこれから訪れる秋には金木犀が香ります。金木犀の匂いは私になぜか運動会を思い出させます。先生が鳴らすかけっこのスタートの音、子どもや親の歓声、立ち上る砂埃の匂い。冬は雪の匂い。春は紅梅や沈丁花、クチナシの花など。紅梅が香ると幼いころに親戚と集まって祝ったひな祭りを思い出します。夏は新緑や風の匂い。キリがなく広がる思い出はきっと一人ひとり違うのでしょう。

 イエス様って何の匂い?考えてもみませんでした。だから今考えてみます。
 「愛の香り?」イエス様は思い出を思い出させるような決まった匂いではありません。一人ひとりが違ってていいのです。今を生きているあなたに「あなたはそのまま生きていていいんだよ」と優しく語りかけて下さる。それがイエス様の匂いなのかもしれません。
(日本音楽著作権協会(出)許諾第2106931-101号)

議長室から 大柴譲治

左手のピアニスト~舘野泉

「後の世代のために/このことは書き記されねばならない。/『主を賛美するために民は創造された。』」(詩編102・19)

 芸術の秋。舘野泉というフィンランド在住のピアニストがいます。2002年1月のタンペレでの演奏会、最後の和音を弾き終わったところで脳溢血に倒れます。65歳。以降は後遺症のため右半身不随。リハビリに励みますが右腕は動きません。1年半ほど経った頃に米国留学中のヴァイオリニストの息子さんが「お父さん、このような楽譜を見つけたよ」と左手のためのピアノ曲をそっと傍らに置いてくれました。その時はピンときませんでしたがある時ハッとします。「そうか、両腕でなくても、片腕でも音楽は表現できるのか。」すぐに日本の友人の作曲家に電話をして、1年後に日本で復帰リサイタルを開くからと左手のためのピアノ曲を作曲依頼。2004年に東京・大阪・福岡・札幌で「左手のピアニスト」として演奏会を開きました。病に倒れて2年半後のことでした。

 舘野氏の言葉です。(40周年の演奏会が)「終わって一ヶ月も経たないうちに、演奏中にステージで脳溢血に倒れ、半身不随になった。もう、演奏家としては終わりだと思った。二年半の闘病生活を経てステージに復帰したとき、自分は左手のみで演奏するピアニストになっていた。でも、また演奏が出来るということがただただ嬉しかった。嬉しくて嬉しくて、自分が左手だけで演奏しているとか、不便不自由であるとか、そのようなことは一切感じなかった。弾いているのは音楽なのである。片手であろうが両手であろうが、手が三本であろうが、そんなことはまったく問題にならない。ただ、演奏出来る曲目が少なかったのは事実である。しかし、少なければ書いてもらえばよい。間宮芳生さんの《風のしるしーオッフェルトリウム》が邦人初めての左手の作品として埋めれ、林光、吉松隆、末吉保雄、谷川賢作など多くの作曲家達がそれに続いた。‥世界の各地からも作品が寄せられている。‥限りなく豊かな思念、詩情、情感、夢が、そして人の心を満たし動かしてくれるものが生まれ続けている。なんと有難いことだろう。」(演奏生活50周年演奏会ちらしより)

 詩編102編には「祈り~心くじけて、主の御前に思いを注ぎ出す貧しい人の詩」とありますが、その19節は深く心に響きます。「後の世代のためにこのことは書き記されねばならない。『主を賛美するために民は創造された。』」そこには苦難を味わい尽くした者だけが到達できる次元がある。主を賛美するためこの人生は与えられた!私たちも与えられた今ここを大切にしてゆきたいのです。

「教会讃美歌 増補」 解説

⑮増補1番「み使いの群れが」・増補2番「なぜ恐れるのか」
讃美歌委員会 松本義宣(東京教会牧師)

1.増補1番「み使いの群れが」
 ルターのクリスマスの賛美歌と言えば23番「天よりくだりてうれしきおとずれ」が有名です。1534年のルター家のクリスマス、幼い子どもたちと共に歌うため、当時よく知られていたなぞなぞ歌を下敷きに作ったと言われます。ルター作の今の旋律は1539年の歌集のものです。ベージェント形式で、子供たちも「天使」等の役割分担で歌っていたようです。
 この増補1番「み使いの群れが」は、いわばその続編として作られた歌です。1542年、長女マグダレーナが13歳で天に召されます。悲しみにあるルター家、その年のクリスマスは、彼女が担当した部分(天使?)を含む、これまで歌い続けていた歌が歌えなくなります。恐らく、悲しみの中でルターは、新しくこの歌を作詞したのだと思われます。旋律は同じものが使われたようですが、今回の増補版では、別の旋律を付しました。ドイツ福音主義教会賛美歌(EG)25番で採用された曲で、1535年のヴィッテンベルク歌集に載った民謡調の曲です。先の23番の別旋律として歌われているもので、どちらの旋律でも歌えるように訳してあります。お馴染みの23番(18番も!)の方を用いてもかまわないので、ルターが、楽しいクリスマスだけでなく、み子の降誕を心に刻んだこの歌、殊に4節「罪も死も消えろ。神様が味方。悪魔が襲っても、み子イエスが味方。」5節「み子は見捨てない。信じよう主イエスを。試練の時にも、委ねよう主イエスに。」を味わいましょう。

2.増補2番「なぜ恐れるのか」
 1541年12月12日に成立したという信頼にたる伝承がある歌です。証言者は作曲家であり、ルターの友人で協力者だったヨハン・ヴァルターです。14世紀から愛されてきたローマ・カトリックの賛歌(Hymnus)で、各節がアルファベットで始まる A solis ortus cardineの最後に当たる8,9と、11と13節の Hostis Herodes impie(不信心にも敵ヘロデを)を翻案したもので、ルターは1節を翻訳、2~5節を作詞して、顕現日(1月6日)の祝日の賛美歌として作られたものです。旋律は43番「もろ国びとらよ、目覚めて歌えや」と同じもので、今回はより古い形のものを採用しています。顕現日として、当方の占星術の学者の来訪が2節で歌われ、また、もともとイエス様の洗礼も覚える日であったことから3節では洗礼に言及があり、また4節ではカナの婚礼(水がぶどう酒となったしるし)も覚える内容になっています。

世界の教会の声

浅野 直樹Sr.(世界宣教主事 市ヶ谷・スオミ教会牧師)


スウェーデンのインターネット牧師②

ルーテル世界連盟(LWF)がスウェーデンのシャルロッテ・フルックルンド牧師にインタビューした記事(2021年3月19日)の続きを紹介します。

(元の記事のURL)
https://www.lutheranworld.org/news/sweden-internet-pastor-engages-faith-seekers-online

—牧師と出会える場だと気づくのはどういう人たちでしょうか。
 そうしたニードがある人たちです。オンライン上に、ソーシャルメディアで教会と会話をしたがっている人たちがいたんです。この仕事も最初はパートタイムだったのですが、オンラインで牧師と対話したい人が現実にはもっとたくさんいたのです。牧師に質問して答えがほしいという要望がさらに増えていったので、とうとうスウェーデン教会はこの働きのためにフルタイムで私を任命しました。

—オンラインでつながる人はどういう人たちでしょうか。
 スウェーデン教会のFacebookにやって来る大半の人は55歳より上で、わずかに男性より女性のほうが多いです。InstagramとTwitterですと、Facebookのような年齢差や性差はないのですが、そちらだとフォロアー(つながり続ける人)は若い世代が幾分多いように思います。
 Instagramは13~20歳より若い世代を対象に起ち上げたのですが、こちらはまだまだです。おそらく私たちが彼らの側に立って話せていないのだと思います。50歳の人よりも20歳程度の人がやったほうがうまくいくでしょう。

—COVID-19以後ソーシャルメディアの利用者は増えましたか。
COVID-19以後、教会のソーシャルメディアは大きく変わりました。なんといっても各教会がこれを利用するようになり、ライブ配信やFacebookに人が集まるようになりました。多くの人々が、オンラインにも自分の教会があると気づいたのだといえます。そこで私と広報担当チームは、週に1回Facebook上で手短な祈りを始めたのですが、これがつながるきっかけになりました。せいぜい3~4分程度のオンラインの祈りですが、利用者の方たちはFacebookの祈りの映像を大きなテレビに映して、ローソクをもってきて、たぶんコーヒーカップもそばに置きながら、ひとときを過ごしています。そうすることで礼拝しているのと同じ気分になれますからね。
 パンデミックの間に寄せられる質問内容も変化しています。悩みや不安、病人や医療従事者のための祈りが増えました。
(次号につづく)

パンデミックの中の教会
東海地区の取り組みから
東海地区伝道セミナー「Zoomでベツレヘムツアー」

徳弘浩隆(東海教区長・大垣教会・岐阜教会・掛川菊川教会・新霊山教会・知多教会牧師)

 感染症対策で礼拝や集会が難しく、健康や家族構成の違いから意見の相違もあるでしょう。しかし、「時が良くても悪くても宣教に励む」べく、代替プランを考えました。

 海外旅行はおろか旅行も難しいですが、ふさぎ込んでいないで、Zoomで楽しい外国旅行ををと思いました。ルーテル教会は世界中にありますから、聖書の地やルターゆかりの地などいくつも企画できます。

 最初はベツレヘム。2005年に日本に招いて各地で講演会をしてもらった知り合いのミトリ・ラヘブ牧師に声をかけました。当時その企画を一緒にした立野先生に相談しミトリ先生にメールするとすぐに返事が来て、3人でZoomで話し合い。「似たアイデアがあったが実行できずにいたが、先生たちが言うならやってみよう」と即決しました。

 東海地区の宣教部で話題にすると「ぜひ教区のプログラムとしても」となり、渡邉克博宣教部長が取りまとめや現地連絡を引き継いでくれました。

 ミトリ先生が公開しているYouTubeでは、イスラエルはワクチン接種が進んでもパレスチナは進まない事、ロックダウンで観光産業が止まりパレスチナ社会が経済的に大変厳しいことが報告され、このパンデミックが終わったら、ぜひベツレヘムに来てください」と。しかしコロナ禍でもZoomで「訪問と交流」はできると思ったのです。

 企画の全体像は、ベツレヘムについて聖書から学ぶことと、それ以降の世界史の中で何が起こり今どういう状況かなどを3回シリーズで学び、10月に「訪問交流会」をします。それらを通して信仰や生き方を学びます。Zoomが難しい方は教会で一緒に参加したり、日程が合わなければYouTubeで追いかけ受講もできます。

 初回までの申込者は110人程でした。期日までに申し込まれた方にはベツレヘムからお土産もあります。教区補助金があり個人負担を少なくしました。他教区の方でも適応されます。
 さあ、ベツレヘムに行きましょう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではありませんか!

コロナ禍での女性会
連盟総・大会
「できるしこですたい」

中原通江(女性会連盟24期会長・西条教会)

 3年に1度の再会を楽しみにしている会員の思いにフタをして、熊本で予定されていた総・大会開催を断念する苦渋の選択をしました。第1回総会(1949年)以来初めてのことです。それに代わり、総会の部は書面議決とし、4月中旬に総会資料と「表決書」を発送。6月8日に東京教会で開票し、正議員171名中、投票総数159票で総会が成立。25期の主題「主イエスのまなざしと出会う」、副主題「神様に、隣人に、そして社会に仕える」などの議案すべてが承認されました。

 また、併せて連盟活動に対する「提言」を募集。どのご意見も貴重なもので今後の参考になります。7年後に創立100周年を迎える連盟ですが、今日、社会情勢やルーテル教会の状況も大きく変わってきました。今、求められる女性会像を探っていかなければなりません。

 大会の部は慈愛園理事長、潮谷義子氏の講演「人生100年時代・・・未知の時代の到来」。これは6月9日に熊本の健軍協会で現地実行委員会と数名のスタッフを前にご講演いただき、YouTubeでライブ配信しました。7月末には千回を超える視聴があり、大きな反響がありました。先生の深い見識と長年にわたる現場経験に基づく講演は、女性会にとって多くの示唆を得るものでした。

 「会員が集って牧師共々会堂で聴いた」という教会も。また、「熊本までは行けないと思っていたが、家に居ながらにして大会講演が聴けて有難い」という声も寄せられました。コロナ以前には当たり前だった、集い、祈り、賛美し、メッセージを聴くこと。これらすべてが恵みの時だったことを覚えます。また同時に、「今、出来ることをする」ことも大事にしたいと思います。潮谷先生の言葉をお借りすれば、「できるしこですたい」です。(講演の動画はまだしばらくの間視聴可となっています。下記URLをご利用ください。)

https://youtu.be/iidCMOYHz_Y

ルーテル世界連盟(LWF)のセミナーに参加して

谷口和恵(東教区選出常議員・松本教会)

 今年6月27日から7月3日までの1週間、LWF主催のセミナーに参加する機会をいただきました。毎日2時間のZoomでの開催でした。本来ならドイツ・スイスへ出向いてのセミナーでしたが、昨年はコロナで延期、今年も延期だろうと思っていましたら4月の終わりごろ先方からZoom開催のメールが入り‥えっ?Zoomですかぁ?私の英語力では厳しいなぁをひるみましたが、そこは持ち前の前向きな性格(おっちょこちょいとも言えます)と好奇心の強さが先に立ち「参加します!」と返事してしまいました。
6月初旬に資料が送られてきましたが、時すでに遅し!ドイツの神学者たちのまるで論文のような資料が2部その他で計50ページ以上の英語のペーパーと格闘することになりました。錆び付いた頭の回転はすこぶる悪く、さすがに同情してくれた夫や友人の力を借りながら何とかセミナーにこぎ着けた次第です。セミナーは『Lay person Leadership in churchー教会における信徒のリーダーシップのあり方ー』を学ぶものでした。

 一般社会の在り方と違うのは、神さまの前では牧師を含む皆が等しい存在であり、特にリーダーシップをとる者は誰よりも人に仕える者にならなければいけないということ、それはイエスさまが弟子たちの足を洗う行為で率先して示してくださったことに他ならないというものでした。しかし生まれながらに人に仕えるというタラントが備わっている人はいるのでしょうか?少なくとも私には足りないところです。それでも私たちは教会の中での問題にぶち当たるたびに、祈りつつ神さまの言葉に耳を澄ませ、足りないところは神さまが補ってくださるはずと信じ進む以外方法がありません。そして、お互いに仕え合い、支え合い、許し合えばそこは神さまに祝福された場所になるのだと思います。その喜びは福音を伝える力にもなるでしょう。

 今回、ルター派の信仰を同じくする世界中の参加者と出会い意見を交換する中で、多くの学びと気づきが与えられ、また力をもらいました。特にこの厳しいコロナ禍においてどの国もたびたびの礼拝の中止、プログラムの縮小を余儀なくされています。オンラインでの試行錯誤の礼拝の持ち方も日本と同様です。そのような中、今回学びの機会を作ってくださったLWFの働きに感謝しています。

 私たちのルーテル教会は世界に繋がっていることを再認識する良い機会となりました。そしてコロナが終息した先に広がる教会の風景が、居場所のない誰かの居場所になり、神さまに用いられ、愛に満ちたものとなりますように!

 

2010年より本紙レイアウトを担当した中川浩之氏は今号をもって交代いたします。中川氏の長年にわたるお働きに感謝申し上げます。 編集部

第7次綜合方策の紹介⑸

事務局長 滝田浩之

■方策本文より

2.方策作成の意義
 個々の教会とそれを束ねる教区からなる日本福音ルーテル教会が、ルター派に立つ教会としてキリストが向かわれるところへ共に出かけて行くために、綜合方策は以下の点から必要とされる。

①「一つの教会・キリストのからだ」としてのルーテル教会の出発点を確認し、一致して共に歩むため。
②個々の教会・教区・全体教会の方向性を示すため。ルーテル教会としての歩むべき道は、来たところと行くところを認識することによって示される。
③「ポスト宗教改革500年」リ・フォーメイション(再形成)する教会。神の前に在っても、社会においても、完成された教会はない。神に生かされている教会として、絶えず新しくされなければならない。向かうべきところにふさわしく教会の使命と仕組みをリ・フォーメイションするために方策が策定される。
④グローバルな宣教を展開するために、日本福音ルーテル教会は総会において今後はアジアを視野にいれた宣教に取り組むべく方針を承認した。これを受けて具体的な展開をはかるため。同時に日本社会における在日外国人の抱える諸問題を学び、取り組む人々への支援と連帯を目指すため。
⑤日本社会におけるマイノリティーの立場の人々の側に立つキリストに出会うことを通して、私たちの向かうべき方向を絶えず確認するため。

3.方策の概要
 第7時綜合方策は、以下の表題、主題聖句、基本目標、主要課題、かつ方策前文に明記されている大前提を指針として、日本福音ルーテル教会が、日本のみならず、世界とりわけアジアの地において、キリストの体としてふさわしい宣教の器とされることを求めるものである。

期間 2022年6月から2030年5月
標題 「隣人のために一人のキリストとなる」(隣人と共にあるキリストに出会う)
主題聖句 「生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ2・20)
基本目標 「教会のリ・フォーメイション(再形成)」
①「ポスト宗教改革500年」を教会のリ・フォーメイションの時とし、宣教態勢の大胆な見直しと教会の構造改革に取り組む。
②出かけていくところでキリストと出会い、留まるところでその福音を鮮やかに伝え、より良く分かち合っていく力を養う。
③教職と信徒による使命共同体の働きを推進する。

主要課題
①教会は人、魂の配慮の場(重要キーワード)
②教区による宣教態勢のリ・フォーメイション
③教区間・教会間の連携
④宣教共同体としてのディアコニア活動との連帯
⑤アジア宣教への取り組み、派遣プログラムの創出
⑥社会的マイノリティーの問題への学びと支援
⑦安心できる教会であるためにハラスメントの問題に取り組む
⑧神学教育のリ・フォーメイション
⑨教会財務のリ・フォーメイション
⑩海外のパートナーシップ教会(協会)との交流を深める

■解説

 方策の意義、概要、主要課題が確認されています。
 綜合方策は、「総合」ではなく「綜合」の文字が使われていることにお気づきでしょうか。辞書によれば、意味に大きな違いはないということになりますが、過去の方策策定時においては、そこにはこだわりがあったと伝えられています。

 日本福音ルーテル教会は、「ひとつの信仰、ひとつの神学校、ひとつの給与」という旗印のもとに「ひとつの教会」であると自身を認識してきました。そして同時に、「個々の教会」、「教区」、「全体教会」をもって「ひとつの教会」であるとも理解してきました。私たちは、すでに日本福音ルーテル教会という一つの教会があることを自明のことのように感じているかもしれませんが、私たちの教会は合同教会であるという歴史的経緯があることを知っておくことは、方策を理解する上でも重要だと考えます。市ヶ谷教会礼拝堂に釣らされている十字架のモニュメントは7つの十字架が重なり合ったものになっています。私たちの教会は7つの宣教団体の合同によって生まれた教会だからです。つまり日本福音ルーテル教会が「ひとつの教会」であるという時、それは一色の「ひとつの教会」があるのではなく、多様な国の背景、また歴史的経緯を持つ多色の(カラフルな!)「個々の教会」、あるいは「教区」が「日本福音ルーテル教会」という一つの旗印のもとに集められているということなのです。よって「特色」、「個性」のある「個々の教会」があることが自然ですし、「一色」に塗り替えていくことが方策の目的ではないのです。先輩たちが「綜合」という言葉に込めた思いもそこにあります。「ひとつの教会」としての大きな枠組み、あるいは方向性を示しつつ、「個々の教会」、「教区」の特色や個性が鮮やかにされていくために「綜合方策」はあるのです。

 その「綜合方策」にはっきりと「ディアコニア、アジア、マイノリティー、ハラスメント」という主要課題(方向性・枠組み)が列挙されていることは、本方策の大きな特徴です。様々な課題を負いつつも、私たちはキリストの教会として、小さな群れではありますがキリストの委託を果たす群れとして成長することを「綜合方策」において確認するのです。

オンライン「一日神学校」へのお誘い

石井基夫(ルーテル学院大学学長)

 今年もルーテル学院は「一日神学校」をオンラインで開催いたします。日時は9月23日午後1時半から、配信方法は、YouTubeでの限定ライブ配信となります。
テーマは、「その人を支え、ともに生きるために~『総合人間学』とは~」。

 昨年、新型ウイルスの猛威に襲われて以来、いまだに感染防止の大原則の中で、教会の礼拝も活動も大いに制限をされています。ルーテル学院でも大学、神学校ともに、学生は基本的には午後の時間だけキャンパスで授業を受けますが、オンラインでの授業も多く、またサークルなど学生活動も制限されたなかで学びを続けています。
 こうした今のキャンパスの姿を知っていただくことも含めて、何よりここに集う交わりにこそ「一日神学校」の喜びがあることを思うと、三鷹に皆さんをお招きしたいのです。しかし、感染の状況はやはり深刻で、東京の緊急事態宣言等もいつ解除されるのかわからない現実を踏まえるならば、今年も「一日神学校」はオンラインでの開催とせざるを得ないと決断するに至りました。

 ルーテル学院大学が社会福祉教育を始めたのは1976年、今からちょうど45年前のこととなります。当時の間垣洋助学長は、「福祉の仕事は、元来キリストがおこない、また弟子たちにこれをなすように命じた、教会の負うべき重大な使命」と受け止め、福祉分野への人材育成が神から与えられた使命としてこれを担うを言われました。もちろん、ルーテル教会が日本での宣教の始まりの時から、教会とともに福祉施設を作り、困難を持つ方々を支える氏名を担ってきた取り組みがこの言葉を裏付けます。そして、この教育を支えるものは「神の愛された人間」についての福音的理解にあるのだと思います。社会福祉、臨床心理と大学の教育研究の領域が広がる中で、対人支援の専門教育において「総合人間学」と呼ぶものが求めていくところを、今年の「一日神学校」を機会に、共に問い学びたいと思っています。
 開会礼拝に始まり、シンポジウム「ルーテルの総合人間学とは何か?~共生の羅針盤を求めて~」、そして、「神学生による神学校紹介」の三つのプログラムとなります。詳細や参加の方法などは大学ホームページ、また各教会に送付されている案内をご覧ください。
 皆様のそれぞれの参加をお待ちしております。

21-09-01隠されている恵み
「汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。」

(マルコによる福音書7章25節)

 高校生の時、ネフローゼ症候群を発症し、長期入院を繰り返していた私の治療のために両親を心配させ、苦労をかけさせていたことを今でも申し訳なく思っています。こどもが病気であるということは親には大変に辛いもので、どうしてもこどもの病気が癒されることを願わずにはおられません。この福音書の物語の娘の癒しを願う母の必死の求めは、私の母の必死な求めと重なってきます。

 しかし、この親の必死さに対してイエスの態度、言葉は私には理解できません。「娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。イエスは言われた。『まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。』」(27節)とこの母親の願いを拒絶するのです。

 「イエスのことを聞きつけ」とはイエスの良い評判であり、福音であり、恵みの言葉であったはずです。これを聞きつけてやってきたのですが、しかし、恵みの言葉としての福音が、一見それとは思えないような現れかたをした。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」と、なんと残酷な拒絶でしょうか。これが試練です。試練は、自分が神から見捨てられたという疑問が起き、神の愛から遠ざけられたという関係が生じてきたとき起こるものです。

 しかし、この母親はこの試練をみごと超えていくのです。母親としての、自分の子どもを癒してほしいというイエスへの願いが強ければ強いほど、イエスの拒絶はどれほど辛いものであったでしょうか。母親は、自分がフェニキア人、異邦人であること、イエスの「子ども」でないことをどんなに呪ったでしょうか。しかし、全ての思いを捨て去り、ひたすらイエスの言葉をいただこうとしたのです。主イエス・キリストへの信頼しか自分には残っていないことを母親は試練の中で選び取ったのです。

 試練がある、しかし、その試練の中で、信仰者である私たちは、信仰とは何なのかと問われ、信仰を深めさせられていく恵みのときとなるのです。

 試練にあるこの母親は私たちに教えてくれているのです。信仰、それは徹底的な神のみ言葉、つまりイエス・キリストへの信頼であるということを。

 今、母親は、万事休すという試練の中にたたされている。しかし、なおもイエスに救いを求め、イエスにひたすら向かう母親に対して、「それほど言うなら、よろしい。」というイエスの言葉には、母親の願いを聞こうとする神の、イエスの、強い意志・気迫が伝わってきます。

 神の救いが私から失われ、無関係になっているのではないかと思われる試練の時・場にあって、キリストの恵みが、答えが隠されています。

 「女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた」(30節)。

 新型コロナウイルス感染症の拡大という中で、自分の命さえどうなるか分からない日々があり、礼拝もままならぬところで、自分は神の恵みと無関係ではないかという信仰の試練の内に私たちはいます。が、イエスのその足もとにひれ伏し、試練の内にこそ隠された神のみ言葉、恵みがあることを信頼して、「たとえ、明日世界が終わるとしても、それでも今日私はリンゴの木を植える」という今日の一歩を主イエスの御心の内に歩みだしましょう。

日本福音ルーテル大森教会牧師 竹田孝一

21-08-01あなたのそばにある平和
「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」

(ヨハネによる福音書15章12節)

  昨今の世界的なCOVID-19感染拡大にあって、病院や施設を訪問する機会が減ってしまいました。ご家族さえ面会が厳しく制限されている状況に在って、『お元気ですか』と訪ねてゆくことのままならない日常は、やはり平時とは異なると感ぜずにはいられません。施設によっては、市内の感染状況と照らし合わせながら面会制限の緩和がありますから、制限が緩和されたと報せを受けたならば訪ねてゆきます。

 ある施設に入るAさんを訪問した時のことです。その施設では、施設内に立ち入っての面会は許されておりませんでした。ですが、入り口の自動ドア越しにお顔を見ることができます。そして私の携帯電話と施設の電話とを繋ぎ、ガラス1枚を隔てではありますが近くに居ながらお話しすることができるよう配慮してくださいます。何度か訪問するうち、その方式にお互い慣れてきた頃のことです。面会の最後にはお祈りをするのですが、施設の職員さんが少しだけ、10センチほど自動ドアを開けてくださいました。そして私の手を消毒するよう促し、『どうぞ、Aさんの手を握ってあげてください』と言われたのです。

 驚きと同時に、喜びがこみ上げてきました。その職員さんは、いつも面会を隣で見ている中で、お祈りは特別なものだと感じられたそうです。そして、きっと手を握ったほうが良いと感じたと言うのです。
 私たちは教会で、それぞれの生活の中で、祈ります。祈りがどれほどの力を持っているか、疑うことはなくとも、どれほどその力を確信しているでしょうか。しかし、祈り合う姿を見て、確かにそこには力があるのだと感じられた隣人がいたのです。

 訪問の度に「教会の皆さんは元気ですか?」「教会は礼拝できていますか?」と繰り返し心配されるAさんの姿を見て、Aさんが本当に大切にしているもの、委ねているものが何であるかがはっきりと伝わっていたのです。

 「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」この言葉は、イエスさまの告別説教と呼ばれる箇所の真ん中に記されています。弟子たちに託した、最後の教えの中心です。互いに、ですから、他者・隣人を愛することを教えています。そして隣人とは、自分の思い描く好き勝手な誰かのことではありません。イエスさまに敵意を向け十字架につけて殺した彼らを、それでもなお彼らをお赦しくださいと父なる神さまに祈るような、壁という壁を超えた先にいるような、そういう隣人です。

 憎しみに対して憎しみをもって対峙するのではなく、愛をもって向き合ってゆく姿勢は、弟子たちを通して、そして2000年の時を超えて今の私たちに語られるイエスさまの大切な教えです。それこそが平和への道であるのです。

 2000年、イエスさまが大切な教えを残されてから長い時が流れました。それでも、この世界は平和であるとは言えません。6月にはミャンマーにおいて教会を標的とした砲撃が何度もありました。平和は、どれだけ手を延ばしても届かないようなところにあるとさえ思います。

 しかしイエスさまは、隣人を愛することを私たちに最も大切な掟として、一番近くに、いつでも振り返り、立ち帰ることのできる場所に置かれました。何故なら、平和は私たちのすぐそばにあるからです。

 私たちが隣人へと愛を持って接するとき、そこには確かにキリストの平和があります。とても小さいことかも知れません。

 しかし、この小さな平和を信じられずに、どうして大きな平和を信じることができるでしょうか。イエスさまが示された、私たちにも祈り求めてゆくことのできる平和。隣人へと愛をもって接することによって、この世界に現わされてゆく平和。それは扉をたった10センチ開けることしかできないものかも知れません。

 しかし、この10センチが、確かにこの世界にキリストの平和があることを教えてくれているのだと思えてならないのです。

日本福音ルーテル下関教会・厚狭教会・宇部教会牧師 中島共生

21-08-01るうてる2021年8月号

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「あなたのそばにある平和」

日本福音ルーテル下関教会・厚狭教会・宇部教会牧師 中島共生

「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。
これがわたしの掟である」(ヨハネによる福音書15章12節)

 昨今の世界的なCOVID-19感染拡大にあって、病院や施設を訪問する機会が減ってしまいました。ご家族さえ面会が厳しく制限されている状況に在って、『お元気ですか』と訪ねてゆくことのままならない日常は、やはり平時とは異なると感ぜずにはいられません。施設によっては、市内の感染状況と照らし合わせながら面会制限の緩和がありますから、制限が緩和されたと報せを受けたならば訪ねてゆきます。

 ある施設に入るAさんを訪問した時のことです。その施設では、施設内に立ち入っての面会は許されておりませんでした。ですが、入り口の自動ドア越しにお顔を見ることができます。そして私の携帯電話と施設の電話とを繋ぎ、ガラス1枚を隔てではありますが近くに居ながらお話しすることができるよう配慮してくださいます。何度か訪問するうち、その方式にお互い慣れてきた頃のことです。面会の最後にはお祈りをするのですが、施設の職員さんが少しだけ、10センチほど自動ドアを開けてくださいました。そして私の手を消毒するよう促し、『どうぞ、Aさんの手を握ってあげてください』と言われたのです。

 驚きと同時に、喜びがこみ上げてきました。その職員さんは、いつも面会を隣で見ている中で、お祈りは特別なものだと感じられたそうです。そして、きっと手を握ったほうが良いと感じたと言うのです。
 私たちは教会で、それぞれの生活の中で、祈ります。祈りがどれほどの力を持っているか、疑うことはなくとも、どれほどその力を確信しているでしょうか。しかし、祈り合う姿を見て、確かにそこには力があるのだと感じられた隣人がいたのです。

 訪問の度に「教会の皆さんは元気ですか?」「教会は礼拝できていますか?」と繰り返し心配されるAさんの姿を見て、Aさんが本当に大切にしているもの、委ねているものが何であるかがはっきりと伝わっていたのです。

 「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」この言葉は、イエスさまの告別説教と呼ばれる箇所の真ん中に記されています。弟子たちに託した、最後の教えの中心です。互いに、ですから、他者・隣人を愛することを教えています。そして隣人とは、自分の思い描く好き勝手な誰かのことではありません。イエスさまに敵意を向け十字架につけて殺した彼らを、それでもなお彼らをお赦しくださいと父なる神さまに祈るような、壁という壁を超えた先にいるような、そういう隣人です。

 憎しみに対して憎しみをもって対峙するのではなく、愛をもって向き合ってゆく姿勢は、弟子たちを通して、そして2000年の時を超えて今の私たちに語られるイエスさまの大切な教えです。それこそが平和への道であるのです。

 2000年、イエスさまが大切な教えを残されてから長い時が流れました。それでも、この世界は平和であるとは言えません。6月にはミャンマーにおいて教会を標的とした砲撃が何度もありました。平和は、どれだけ手を延ばしても届かないようなところにあるとさえ思います。

 しかしイエスさまは、隣人を愛することを私たちに最も大切な掟として、一番近くに、いつでも振り返り、立ち帰ることのできる場所に置かれました。何故なら、平和は私たちのすぐそばにあるからです。

 私たちが隣人へと愛を持って接するとき、そこには確かにキリストの平和があります。とても小さいことかも知れません。

 しかし、この小さな平和を信じられずに、どうして大きな平和を信じることができるでしょうか。イエスさまが示された、私たちにも祈り求めてゆくことのできる平和。隣人へと愛をもって接することによって、この世界に現わされてゆく平和。それは扉をたった10センチ開けることしかできないものかも知れません。

 しかし、この10センチが、確かにこの世界にキリストの平和があることを教えてくれているのだと思えてならないのです。

エッセイ「命のことば」 伊藤早奈

⑰「目に見えなくて触れられないもの」

「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。/苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。」(詩編46・2)

 「シャーッ」いきなり目の前のカーテンが閉められました。6人部屋に入院していた私は面食らいました。慌てた様子で白衣の先生が「検査で陽性が出たんだよね」と私に言い、そして「部屋を個室に移ってもらわないとならないんだ」と何人かの看護師さんたちが私の荷物をガタガタとまとめ始めます。しかも普段どんなに私が不便そうにしていても一度も手伝ってくれなかった看護師さんまで手伝って下さって。「あら、ありがとう」と思いながらあれよあれよとあっという間に部屋を移動しました。

 部屋を移ってからは、「触れるなキケン」扱いです。なるべく部屋から出ないように言われ、部屋に入ってくる看護師さんはビニールのエプロンをかけ私の部屋を出たらエプロンを捨てていました。違う病棟に入院していた友人も私と親しく接触していたと言う理由で個室に移ったそうです。他の人にうつらないように?看護師さんのため?私が悪いの?

 これは10年前、インフルエンザの時の体験です。時々目に見えなくて触れられないものは恐怖や不安を私たちに抱かせます。私たちはあたかも見えて触れられるものだけしか安全ではないと思う時があります。でも目に見えて触れられるものも見えなくて触れられないものも全ては神様に守られています。決して恐れることはありません。

議長室から 大柴譲治

韓国・巡礼の旅

「そのとき、イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。』」(ルカ23・34)

 1991年8月6日(火)〜13日(火)の「韓国・巡礼の旅」(西教区・平和と核兵器廃絶を求める委員会=PND主催)からちょうど30年。暑い夏、忘れられない夏でした。「過去に目を閉ざす者は、現在に対しても目を閉ざす」(ヴァイツゼッカー『荒れ野の40年』)。過去の過ちを繰り返さないためにも私たちは過去を心に刻み、それを想起し続けることが必要です。旅の目的は韓国ルーテル教会(KLC)池元祥(ジ ウォンサン)議長に宛てた内海望議長の書簡に記されていました。「私たちJELCの宣教百年を前にして、過去の検証と罪責告白とを目的としたメタノイアの旅です。そしてそれは過去への旅でもあると同時に、新しい未来に向かっての旅でもあります」。私たちを受け容れてくださったKLCをはじめ韓国の関係者の方々に心より感謝します。

 武村協牧師(PND委員長)が団長で私が全体の世話役、私の妻・韓国出身の金賢珠(キム ヒョンジュ)が通訳。参加者は西教区から水野登美子氏や高田敏尚氏、仙台から杉山昭男牧師と伊藤節彦氏(後に参加者同志でご結婚。後に牧師となられました)、熊本から斉藤忠碩牧師、三鷹の神学校から永吉秀人チャプレン、白川道生、三浦知夫、白井真樹(NRK)など神学生ら総勢27名(3歳と1歳の我が子2人を含む)。8月6日、当時広島平和公園の「外」にあった韓国人原爆犠牲者慰霊碑の前で祈りを捧げて旅は始まりました。関釜フェリーで釜山に渡り、慶州(ナザレ園訪問)、ソウルと進みます。ソウルでは9日に三・一万歳運動が始まったパゴダ公園、景福宮を遮るように建てられていた旧朝鮮総督府の建物(当時はソウル国立中央博物館。1995年に解体撤去)、10日に天安の独立記念館と堤岩里教会を訪問。記念館では「天皇の軍隊」による拷問場面が蝋人形で再現されていて、ちょうど見学に訪れていた小学生たちと共に見ることになった心痛は忘れられません。堤岩里の生き証人の田同禮(チョン ドンネ)ハルモニにはお会いできませんでしたが、ハルモニは72年間毎日欠かさず事件のあった午後2時に日本のために「彼らをお赦しください。何をしているか分からずにいるのです」と十字架の祈りを捧げてこられた方です。そこで発せられた在日コリアン参加者の「私はどうしても日本人を赦せない」という悲痛な声と重なります。主の十字架による和解と平和を祈らずにはおれません。

 11日(日)早朝、南山にある義士・安重根(アン ジュングン)記念館を訪ね、そこから中央ルーテル教会まで歩いて主日聖餐礼拝を守りました。礼拝では私が英語で説教し、金海喆(キム ヘチョル)中央教会牧師が通訳でした。説教後に金先生が「配餐はどうぞ日本語でしてください」という言葉と差し出された手の温もりが忘れられません。私にとって一つの和解の体験でした。そして教会員との昼食交流会。午後3時にはそこで韓国原爆被害者協会会長の辛泳洙(シン ヨンズ)氏から被爆証言を伺いました。いずれの場所でも私たちは、自らが日本人であることを深く恥じいたたまれない思いになりました。しかしこれが私自身の原点となっています。アジア諸国と向かい合う時、過去の罪責を踏まえながら主の憐れみのうちに未来の和解に向かって共に歩みたいと願っています。
(韓国・巡礼の旅の報告書はルーテル学院大学図書館に収蔵)

「教会讃美歌 増補」 解説

⑭ルターのコラール
讃美歌委員会 日笠山吉之(札幌教会牧師)

 「讃美歌委員からの声」が一巡りしましたので、いよいよ「増補(分冊1)」に収められる曲目の解説に入っていきたいと思います。まずは、最初の方に収録されるルターのコラール群の全体像についてお話ししましょう。

 今回収められる全54曲のうち、23曲はルターのコラールが占めています。コラールとは、賛美歌のこと。賛美歌は言うまでもなくまず歌詞があってこその賛美歌ですから、ルターのコラールと言った場合もルター自身が歌詞を書いた賛美歌を指します。現行の「教会讃美歌」には、ルターが歌詞を書いたコラールが17曲収められていますが、それはルターが生涯に書いたと言われるコラールの半分にも満たないものでした。それで、今回はルターが作ったと言われるコラールはすべて収録しよう!という編集方針のもと、試行錯誤しつつ成し遂げました。ルターが書いたオリジナルのドイツ語の歌詞を、単に日本語に訳し直すだけでなく、賛美歌として歌えるようにする作業は本当に大変だったのです。これだけでも、ルーテル教会はもとより日本の賛美歌界にも一つの貢献が出来たのではないかと思います。

 ルターは神学者であるだけでなく、リュートをたしなむ音楽愛好家でもありましたので、作曲も出来ました。従って、ルターのコラールの中には彼自身が作詞・作曲をしたものも幾つかあります。「教会讃美歌」の中に収められた23番「天よりくだりて」や、450番「ちからなる神は」等は皆さんもよくご存知でしょう。今回の「増補(分冊1)」の中にも、ルター自身が作曲も手がけたコラールがかなり含まれています。あるいは、ルターが当時のカトリック教会で歌われていた聖歌や世俗の流行歌を編曲して歌えるようにしたものもあります。ルターといえば、当時のカトリック教会と喧嘩別れして追い出された人?というような印象があるかもしれませんが、カトリックの良いところはちゃんと認めて吸収したのです。それだけでなく、世俗的な歌まで取り入れて賛美歌に仕立ててしまうのですから、なかなか懐が深い人ですよね。それでは、次回から1曲ずつルターのコラールを取り上げていきましょう。

世界の教会の声

浅野 直樹Sr.(世界宣教主事 市ヶ谷・スオミ教会牧師)

スウェーデンのインターネット牧師①

ルーテル世界連盟(LWF)がスウェーデンのシャルロッテ・フルックルンド牧師にインタビューした記事(2021年3月19日)を何回かに分けて紹介します。

(元の記事のURL)
https://www.lutheranworld.org/news/sweden-internet-pastor-engages-faith-seekers-online

 シャルロッテ・フルックルンド(Charlotte Frycklund)牧師は、スウェーデン教会(Church of Sweden)のソーシャルメディア上で牧会する「インターネット・プリースト(司祭)」として、コミュニケーション部門のスタッフと夜昼問わずネットで人々を教会へつなぐ働きをしています。信仰、教会、神学など、簡単な質問から込み入ったものに至るまで答えながら祈り、COVID–19という未曾有の時代と向き合っています。

 フルックルンド牧師は、ウェブの場を自身の牧会地とするスウェーデン教会最初の牧師です。彼女はCOVID–19で多くの教会がオンラインを使い始める数年前から、すでにこの働きに着手しています。

インターネット・プリーストとして活動を始めたのはいつからですか。
 2016年です。スウェーデン教会が、ソーシャルメディアを利用して人々とのつながりを深めようとキャンペーンをやり始めたのが出発点です。話を進めていくうちに、信仰や教会の伝統に関する質問にオンラインで答えてみてはどうか、というアイデアが浮かびました。礼拝で祭服を着るのはなぜかとか、善と悪の問題のような牧会的な質問もあります。ソーシャルメディアは、答えを求める求道者と牧師が深く対話できる格好の場です。そういうやりとりなら、日曜日の朝の時間帯よりずっと多いですよ。(以下、次号につづく)

パンデミックの中の教会
北海道特別教区の取り組みから

中島和喜 (恵み野教会牧師 札幌教会協力牧師)

 昨年のクリスマス礼拝後、次第に教会でもオンライン化の機運が高まっていく中で、教会員が一言「これだけオンライン化が進んでいるんなら、聖研もオンラインで出来るんじゃないですか?」とおっしゃられました。なるほどと思い、教区の牧師会が開かれた際に「そういえばオンラインで聖研なんてのも面白いんじゃないですか?」と何気なく投げかけたところ、あれよあれよと話は進み、今年の4月から毎週水曜日の夜と木曜日の朝に「教区主催合同オンライン聖書研究会」がZoomを用いて開かれることとなりました。即座に決まっていったのには、皆で共にみ言葉を聞く時を渇望する気持ちが表れていたのだと思います。

 北海道には4名の牧師がいますので、春夏秋冬の4学期制にし、それぞれがテーマを定めて7回ずつ担当、年間で計28回の聖研をオンラインで開くこと となりました。初めはどれだけ人が来るのか予測もつかず、「夜の部は3名以下の場合は開講いたしません。」そんな保険をかけていましたが、蓋を開けてみると夜20名、朝20名、計40名が集まる大変賑やかな聖研となりました。

 参加される方々はオンラインに慣れている方ばかりではありません。むしろZoomを初めて使うという方が多く、初めはサポートも必要でしたが段々と慣れていき、今となっては初めのころに接続がうまく繋がらず牧師が電話越しでサポートしつつ数十分格闘して何とか出来るようになった方が、今度は誰かに設定方法を教えて聖研に参加できるようにするなんて事も起こり、人から人へ主の御業が広がっていく伝道の豊かさが表されていきました。

 年齢層もバラバラ、地域も同じ北海道とは言え端から端まで400キロ以上。中にはドイツから参加される方もおられ、まさにオンラインだからこそ実現した聖研となり、同時にそこには新しい群れが生まれました。「コロナが納まったらこの人たちと実際に集まりたい!」そんな思いが強められ、北海道特別教区の繋がりは以前よりもより深いものになったように思います。

 実際に会って集うことができない現状でありますが、北海道特別教区はそもそも距離の問題から中々集まることが難しい教区でした。だからこそ、オンライン化によって以前よりもむしろ各教会の心の距離が縮まっていったように思います。画面越しでも共に豊かに集うことが出来る。それは中心に主のみ言葉があるからでしょう。改めて、主のみ言葉の力強さを味わうひと時となりました。

神学生修養会報告と「献身者を求める祈り」の呼びかけとお願い

神学教育委員会  池永清(市ヶ谷教会)

神学生修養会(報告)

 「2021年度神学生修養会」が6月7日(月)、8日(火)いずれも9~12時にルーテル神学校で開催されました。参加者は神学校の牧師養成コースに在籍する神学生全7名(現在すべてJELCでNRKは在籍者なし)、神学校教員、神学教育委員で、オンライン参加も併用して行われました。 以下に簡単に概要だけご報告いたします。

〇修養会のテーマ
『神学すること~実存的な出会い』

〇修養会が目指すこと/
自分の信仰のルーツと思える体験を互いに分かち合い、信仰とは私の人生においてどのようなものであったのか、そして、あるのかを考える。

6月7日
テーマ『私の信仰のルーツ』
⑴証し(神学校教員1名、神学教育委員1名)
⑵協議/グループに分かれて自分の信仰のルーツを共有し分かち合う。

6月8日
テーマ『私と神学』
⑴ミニ講義「神学すること」(ルーテル学院大学学長 石居基夫)
⑵ワークショップ/グループに分かれ相互インタビュー形式により「聞く力、伝える力」を学ぶ。

「献身者を求める祈り」の呼びかけとお願い

 私たち信徒は教会でみことばを聞き、交わりを持てることを何よりの喜びとしています。牧師はさまざまな形で神さまと私たちとの取り次ぎをしてくださいます。しかしその牧師が現在も将来的にも不足しています。

 本紙4月号で三浦知夫先生(神学教育委員長・東京池袋教会牧師)が「献身者を求める祈り」について次の様に述べておられます。

〇神学校と日本福音ルーテル教会と日本ルーテル教団の神学教育委員会で「献身者を求める祈り」の動画を作成しました(中略)可能ならそれぞれの教会で動画を一緒にご覧になる機会を設けていただければと思います。

〇今年の第5日曜日となる5月30日、8月29日、10月31日の礼拝の中でともに祈りを合わせていただければと思います。

 献身者を生み出すのは教会です。お一人お一人の祈りの中に、また教会の祈りの中に献身者を求める祈りを加えていただければと思います。なお動画(約30分 YouTube)は関係者限定公開となっていますので、視聴のためのURLは所属教会にお尋ねください。

連帯献金の呼びかけ

事務局長 滝田浩之

 2021年度の連帯献金を呼びかけます。

 今年度は「世界宣教のために」、「災害支援のために」、「喜望の家の働きのために」、以上の諸課題のために献金を呼びかけます。

 「世界宣教」は「ブラジル宣教」については一区切りとなり、今後はアジアへの宣教について世界宣教委員会から提案される予定です。

 また「災害支援」につきましては、日本福音ルーテル教会はACT–JAPANに加入しています。国内外の災害に、迅速に対応していきます。このたびの豪雨被害についても「災害支援」としてお受けしています。ご支援をお願い申し上げます。

 今回は、特に「喜望の家」の働きをご紹介いたします。関心を持って頂き、貴重な働きのためご支援を頂けますと幸いです。

喜望の家の活動紹介と現状報告

秋山仁(喜望の家代表・ 豊中教会牧師)

 いつも皆様には、お祈りとお支えをいただき、ありがとうございます。紙面をお借りして感謝申し上げます。

 喜望の家は、1976年11月、大阪市西成区の日雇い労働者の町、通称「釜ヶ崎」に、日本福音ルーテル教会によって設立された施設です。当初より、アルコール依存症およびギャンブル依存症の問題を持った方々が回復していくための援助を行っています。

 活動の内容は、毎週火曜日から土曜日まで、⑴依存症の問題を抱えている方々の居場所提供、⑵カウンセリングや作業療法など、依存症からの回復のためのプログラムの提供、⑶生活保護受給並びに受給後の生活相談などを行っています。また他にも⑷厳寒期の越冬夜回りの担当など、釜ヶ崎キリスト教協友会のメンバーとして共同で地域活動をしている、⑸依存症や教会のディアコニア運動に関する啓発活動などを行っています。

 昨年は、COVID-19感染に対する最初の緊急事態宣言の際には、週5日の活動日を週4日にするなどして対応しました。ただ利用者の方から「休館日が退屈で仕方がない」という話が出てからは、マスク着用、手指の消毒、室内では3密にならないようにする、部屋の換気を心がけるなど、感染予防対策をしっかり行ったうえで通常通りの活動をしています。とはいえ、食事会や外出レクリエーションなどのプログラムは、COVID-19の流行が収まるまでは休止していますし、「宣言」が発令されればボランティアの方々の出入りも休止していただくなど、制限されることも多いのが現状です。ただ、高齢者の方々のワクチン接種も進んでいて、皆さんお元気に毎日を過ごしています。

 隔月でニュースレター「きぼう」を発行し、喜望の家の活動や様子、釜ヶ崎地域での出来事、依存症やディアコニア運動に関する啓発活動などの記事を掲載して、支援者の皆様のところにお届けしています。各教会にもお送りしていますので、是非お読みください。今後ともご支援をよろしくお願いいたします。

第7次綜合方策の紹介⑷

事務局長 滝田浩之

■方策本文より

教会のリ・フォーメイション
 第7次綜合方策は、そのキャッチフレーズを「教会のリ・フォーメイション(再形成)」として、「魂への配慮」を実現することによってルター派に立つ教会形成を行い、そこに徹底的にこだわることによって教会が成長することを信じるものである。個々の教会が宣教の最前線であり、この成長と充実が目指されるべき方向である。

 第7次綜合方策は、長年、教会の中で課題とされてきた「宣教力の低下」を、明確に「牧会力の低下」、「分かち合う力の低下」にその原因を見る。「牧会力と分かち合う力」は、牧師の責任は言うまでもないが、個々の教会の課題であると告白する。しかし戦後宣教師を加えると200名近い教職が在籍していた時の教会数を、80名前後の教職で担わなければならないという物理的な環境の変化にも原因の一因があると考える。更に、このような外的な要因は、今後教職が明らかに減少する傾向を見る時に、より一層深刻化することは間違いがない。

 もちろん、私たちは教職の与えられることを祈り、ありとあらゆる施策を実行する。一方では牧師の数を確保するため牧会委嘱のあり方についても検討を開始する。

 しかし、「目指すべき教会の姿」を実現しようとする時、牧師が個人として資質を成長させるのと同時に、一人の牧師が、どのような形で、託された群れの牧会を実現していくのか。いかにすれば、「牧会力と分かち合う力の回復」を果たし、「ルター派に立つ教会」を形成できるのか。
 
第7次綜合方策は、経済的自給を果たした今、牧会力と分かち合う力の回復を課題としつつ宣教のあり方を再考し、ルター派に立つ教会の形成を目指し教会の「リ・フォーメイション(再形成)」を行う。

■解説

 日本福音ルーテル教会は各個教会主義の連合(連盟)組織ではありません。それは規則の上でも「個々の教会」と表現するところに表れています。「個々の教会」は近隣の個々の教会と「教区」を形成し日本福音ルーテル教会を形成しているのです。そして私たちは確かに教区という単位で経済的に相互に分かち合ってきました。しかしこれから重要なことは、更に近隣の教会同士が「ルター派の教会を形成する」という旗印のもとに、どうすれば血の通った一つの宣教共同体を形成することができるのかにあります。

 よって第7次綜合方策は、トップダウン式に教会の統廃合を行うことを目指すものではありません。なぜなら教会は分かち合うことを通して本来の姿を取り戻すと考えるからです。牧師不足の中で、個々の教会が牧師によって結びつくという形から、個々の教会同士、信徒の方々が、宣教の働きを相互に分かち合うところに生まれる、宣教共同体となっていく道筋です。

 分かち合う教会への成長、この思いが「教会のリ・フォーメイション(再形成)」というキーワードには込められています。

第28期第14回 常議員会報告

事務局長 滝田浩之

 6月14日、オンライン会議で行われた標記の件、ご報告いたします。

⑴人事案件
 病気休職中であった宮川幸祐牧師の退職、鶴ケ谷・仙台教会の太田一彦牧師の引退を受理しました。日本福音ルーテル教会の宣教の働きに献身くださったことを心から感謝すると共に、これからの新しい歩みが主に祝されたものになることを心からお祈りしています。

⑵「教会讃美歌 増補(分冊1)」について
 ルーテル4教派で10年以上の歳月をかけて準備をしてきた「教会讃美歌増補(分冊1)」の発行が今年の宗教改革主日に行われることが報告されました。1冊1100円(税込)での販売になります。ルターの賛美歌を多く収録し、また現代の賛美歌も収録されています。各教会での礼拝がさらに豊かにされるものになることが期待されます。各教会へはサンプルとして1冊を贈呈することを予定しています。各教会で購入をご検討頂けますと幸いです。

⑶教会関係法人関連規程の問題点と見直しの方針
 財務委員会から検討資料として標記の案件について説明が行われました。
 「関係法人」とは個々の教会の宣教の働きから生まれた幼稚園、保育園の働きが、運営の安定、あるいは地域行政の働きかけで学校法人、あるいは社会福祉法人を取得して運営されている法人を指します。規程が作成された時代から年月が経過し、現在の法律に適合していない部分、また法人化することで個々の教会の宣教の働きとしての位置づけが継続的に行われていくことができるように、そのガイドラインを改めて確認する必要が説明されました。

 今回の常議員会での説明、また今後は教区や、実際に関係法人の意見を集約しつつ議論を重ね規則改訂を進めていくことが確認されました。

 なお「議長報告」において「集計表における男女の人数」の把握について、多様な性のあり方が尊重される今日の社会的状況を加味し、男女の区分の取りやめなど 、人数の把握のあり方について適切な対応をしていくことが提案されました。事務局としては、これを受けて社会委員会に、この件に関する意見を求めることとし、それを踏まえて次回常議員会に提案する予定です。単に集計表の記載方法を変更することに留まらず、社会委員会の作成された『多様な性を知るために』などもお読み頂き、関心を深めていただけますと幸いです。またこの件に関して、ご意見を事務局までお寄せください。

 この他の案件については常議員会議事録でご確認頂けますようにお願い申し上げます。

全国ルーテル青年の集い、再び!

森一樹(市ヶ谷教会)

 今年2月に開催された全国のルーテル教会に集う青年を対象にしたオンライン合宿の好評を受けて、新たに、月に1度の青年の集い「Pray! Play!! Friday!!!」略して【ぷれぷれ】がオンラインで開催されることになりました。昨今激減している青年同士の交流や分かち合い、また新たな仲間との出会いの場を定期的に持てたらと、有志の青年らによって企画がなされました。今回の【ぷれぷれ】では、共に聖書を開き、御言葉を分かち合うことで、自身と神様、また教会との繋がりを考えるだけではなく、毎月異なる牧師をゲストとしてお招きし、青年に向けた聖書のお話をして頂く予定です。また、青年同志の交流にも重点を置き、同世代の信仰の友と出会い、親交を深められるよう準備もしております。開催方法としては今回もオンラインですので、全国どちらからでもご参加頂けます。また青年活動への参加が初めての方や久しぶりの方でも参加しやすい様、配慮をしていますので、ぜひこの記事を読んで下さっている皆さまから、お知り合いの青年にもお知らせ頂けると幸いです!そして、この先の教会を担っていく青年たちが互いに信仰を励まし合う関係を築ける様に、またこれから新たに教会の輪に加わる青年が一人でも多く与えられるようお祈りください。

 開催日時など詳しい情報は、各教会の牧師宛てにメールでお送りしている開催案内とポスターをご確認下さい。また青年向けに公式インスタグラムでも情報を発信していますので、左記QRコードからぜひインスタもご覧ください。

開催期日:毎月1度いずれかの週の金曜日21時より(今年12月まで)。
開催方法:オンライン(Zoom)
参加対象:全国のルーテル教会に集う青年(18歳から35歳まで、原則高校生不可)。

2021年度「日本福音ルーテル教会教師試験」について

 2021年度「日本福音ルーテル教会教師試験」を下記要領にて実施いたします。教師志願者は必要書類を整え、教会事務局にご提出くださいますよう、お知らせします。

〈提出書類〉

◇教師志願書
◇志願理由書
テーマ「なぜ『日本福音ルーテル教会の教師』を志願するのか」
書式 A4横書き2枚 
フォントサイズ11ポイント
◇履歴書(学歴、職歴、信仰歴、家庭状況等を記入すること)
◇教籍謄本(所属教会教籍簿の写し)
◇成年被後見人または被保佐人として登記されていないことの証明書(法務局交付のもの。任用試験時に必要になります)
◇所属教会牧師の推薦書
◇神学校卒業(見込)証明書及び推薦書
◇健康診断書(事務局に所定の用紙があります)

〈提出先〉
日本福音ルーテル教会
常議員会長 大柴譲治宛

〈提出期限(期限厳守)〉
2021年9月17日(金)
午後4時までに教会事務局へ提出すること

◇個人で神学の研鑽を積み受験を希望する者は、必ず神学教育委員会の推薦を得ること
◇国外のルーテル教会の神学機関に学び神学修士を持ち受験する者は、願書提出前に事務局に相談すること

〈試験日及び試験内容〉
志願者本人に直接連絡します。

21-07-01主に献げて委ねる
「さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。」

(ヨハネによる福音書6章11節)

 「パンの奇跡」は四福音書のそれぞれが物語る唯一の奇跡です。弟子たちにとってこの奇跡ほど印象深いものはなかったのでしょう。日が傾きかけた頃、ベトサイダの「人里離れた」(マコ6・35)草地で起こったあの出来事の消息を思い巡らします。それは私たちのこころざしを主に信頼して委ねたときに、主が私たちの思いを超えて豊かに用いてくださった奇跡のように思われます。

 四福音書の内でヨハネだけが主イエスと弟子のフィリポやアンデレとのやりとりを実に生き生きと伝えていて、これは現に起こった出来事だったと感じずにはおられません。

 その日、主はご自分を慕ってくる群衆を見て憐れまれ、この辺りに土地勘のある「フィリポ」(ヨハ1・44)に「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」(ヨハ6・5)と尋ねました。ヨハネ福音書は主が「フィリポを試みるため」(ヨハ6・6)にそのように問われたと述べています。

 するとフィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」(ヨハ6・7)と婉曲に断りました。200デナリオンは労働者の半年分以上の賃金に相当します。たとえ少しずつ配るとしてもかなりの金額です。フィリポは主のこの群衆への「深い憐れみ」(マコ6・34)に共感したものの、とても現実的ではないと結論したのでしょう。他の弟子たちも同じ考えだったようです。
 共観福音書では、ここで弟子たちは「人々(群衆)を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べ物を買いに行くでしょう」(マコ6・36、マタ14・15、ルカ9・12)と進言し、これに対して主は「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」(マコ6・37、マタ14・16、ルカ9・13)とお答えになります。

 主と弟子たちとのこうした会話は側にいた人たちにも聞こえたのではないかと想像します。群衆は15キロもの距離をやってきたと考えられます。群衆の中には自分や家族のためにパンや魚を持っている者がいても不思議はありません。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」という弟子たちへの言葉を、「主はこの私にも呼びかけられた」と聴きとって心を開いた家族があった。彼らは主を信じて、持っていたパンと魚を主にお委ねしようと決意した。だから一人の少年が立ち、精一杯の献げものであるパンと魚を差し出してくれたのだと思います。

 アンデレは急いで主に報告します。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます」(ヨハ6・9)。そしてつぶやきました。「けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」(ヨハ6・9)。アンデレは「これだけでは不十分だ」と思い込んでいます。私たちもついこういう見方に陥ります。

 しかし主はこの心からの献げものを喜んで受け取られた。そして弟子たちに命じておよそ5千人もの人々を座らせると「パンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた」(ヨハ6・11)。四つの福音書が異口同音に人々は満腹した、「残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった」(ヨハ6・13、マタ14・20、マコ6・43、ルカ9・17)と証言します。一体何が起こったのか?四つの福音書が、パンと魚を持っている家族がいた、それが主に献げられた、主はこの献げものを神に感謝し、祈り、人々に分け与えられたと語ります。

 「あなたがたがやしないなさい」とのみ言葉を、あの子どもの家族のように聴き取り、自分たちに出来る精一杯を、主に献げて委ねる人々が、次々と起こされたとしたらどうでしょうか。主イエスによって私たちが神につながるとき、そこにはきっといつの時代でも、今も、あの時のように「神の国」のような世界が実現します。

日本福音ルーテル湯河原教会・小田原教会牧師 岡村博雅

21-07-01るうてる2021年7月号

機関紙PDF

「主に献げて委ねる」

日本福音ルーテル湯河原教会・小田原教会牧師 岡村博雅

「さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。」(ヨハネによる福音書6章11節)

 「パンの奇跡」は四福音書のそれぞれが物語る唯一の奇跡です。弟子たちにとってこの奇跡ほど印象深いものはなかったのでしょう。日が傾きかけた頃、ベトサイダの「人里離れた」(マコ6・35)草地で起こったあの出来事の消息を思い巡らします。それは私たちのこころざしを主に信頼して委ねたときに、主が私たちの思いを超えて豊かに用いてくださった奇跡のように思われます。

 四福音書の内でヨハネだけが主イエスと弟子のフィリポやアンデレとのやりとりを実に生き生きと伝えていて、これは現に起こった出来事だったと感じずにはおられません。

 その日、主はご自分を慕ってくる群衆を見て憐れまれ、この辺りに土地勘のある「フィリポ」(ヨハ1・44)に「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」(ヨハ6・5)と尋ねました。ヨハネ福音書は主が「フィリポを試みるため」(ヨハ6・6)にそのように問われたと述べています。

 するとフィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」(ヨハ6・7)と婉曲に断りました。200デナリオンは労働者の半年分以上の賃金に相当します。たとえ少しずつ配るとしてもかなりの金額です。フィリポは主のこの群衆への「深い憐れみ」(マコ6・34)に共感したものの、とても現実的ではないと結論したのでしょう。他の弟子たちも同じ考えだったようです。
 共観福音書では、ここで弟子たちは「人々(群衆)を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べ物を買いに行くでしょう」(マコ6・36、マタ14・15、ルカ9・12)と進言し、これに対して主は「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」(マコ6・37、マタ14・16、ルカ9・13)とお答えになります。

 主と弟子たちとのこうした会話は側にいた人たちにも聞こえたのではないかと想像します。群衆は15キロもの距離をやってきたと考えられます。群衆の中には自分や家族のためにパンや魚を持っている者がいても不思議はありません。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」という弟子たちへの言葉を、「主はこの私にも呼びかけられた」と聴きとって心を開いた家族があった。彼らは主を信じて、持っていたパンと魚を主にお委ねしようと決意した。だから一人の少年が立ち、精一杯の献げものであるパンと魚を差し出してくれたのだと思います。

 アンデレは急いで主に報告します。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます」(ヨハ6・9)。そしてつぶやきました。「けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」(ヨハ6・9)。アンデレは「これだけでは不十分だ」と思い込んでいます。私たちもついこういう見方に陥ります。

 しかし主はこの心からの献げものを喜んで受け取られた。そして弟子たちに命じておよそ5千人もの人々を座らせると「パンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた」(ヨハ6・11)。四つの福音書が異口同音に人々は満腹した、「残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった」(ヨハ6・13、マタ14・20、マコ6・43、ルカ9・17)と証言します。一体何が起こったのか?四つの福音書が、パンと魚を持っている家族がいた、それが主に献げられた、主はこの献げものを神に感謝し、祈り、人々に分け与えられたと語ります。

 「あなたがたがやしないなさい」とのみ言葉を、あの子どもの家族のように聴き取り、自分たちに出来る精一杯を、主に献げて委ねる人々が、次々と起こされたとしたらどうでしょうか。主イエスによって私たちが神につながるとき、そこにはきっといつの時代でも、今も、あの時のように「神の国」のような世界が実現します。

連載コラム「命のことば」 伊藤早奈

⑯「行きたいですか?」

「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」(エフェソの信徒への手紙1・23)

 「教会へ行きたいですか?」と質問したことを私はすぐに後悔しました。なぜかと言うと、いつも明るく笑っていたその人の目からポロポロと涙が溢れていたからです。

 くしゃくしゃになった表情の口から絞り出すように言われた一言は「行きたいよ。」でした。病気で長く入退院を繰り返しておられる彼女は何年も教会には行かれておられないとのことでした。私が彼女の向かいのベッドに入院した時は嬉しそうに自分はクリスチャンだと話され私と向かい同士だと喜ばれた矢先のことでした。私は心の中で「ごめんなさい」を繰り返していました。

 自分が具合悪いからという理由だけではなく、いろんな理由で教会へ行かれないという方が多いと思います。特に昨年から拡がった感染症のために、それぞれの方々が通われる教会もいろいろな工夫をされ、教会につながるお一人お一人がいろんなかたちで礼拝を守られたことと思います。お一人お一人と共に神様はおられるのです。そのようなお一人お一人に「教会へ行きたいですか?」なんて聞けません。

 同じようにいろんな状況に置かれて、いろんな理由の方がおられます。その全ての理由や状況をわかっておられるのが神様です。あなたが隣人のために行動していることを神様はわかっておられます。

議長室から
総会議長 大柴譲治

恥と罪

「ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」(ルカ15・20b)

 私の神学校の卒論は「ルターとボンヘッファーにおける罪の赦しの神学」(1986)。当時29歳の私にはまだ「罪責感情(罪/Guilt)」という次元しか見えていませんでした。9年の牧会経験を経て米国で学ぶ機会が与えられます。2年の格闘の末辿り着いた主題は〝Ministry to the Shame-bound Japanese〟(1997)。人生の午後が始まろうとする40歳にしてようやく「羞恥感情(恥/Shame)」の次元が見えてきたのでした。

 両者は共に深い痛みを伴う感情で重なり合うことも少なくありませんが、区別が必要です。異なる対処が求められるからです。罪が行為の次元における痛み/悔いであるのに対し、恥は存在自体の次元における痛み/悔いです。存在は行為に先立ちその前提となっているように、恥は罪よりも深いところに位置する。「恥ずかしくて穴があったら入りたい」という表現が自己の存在を抹消したいというところからもそれは分かります。
 現に聖書では恥の方が罪より先に登場します(創世記3・6〜10)。また、強い恥意識を持つ人は強い誇りの意識をも併せ持ち(職人気質など)、両者は一対、表裏一体です。罪からの解放には「赦し」が必要ですが、恥からの解放にはあの放蕩息子の父親のように、「ボロボロになった惨めな(無力さをuncoverされた)自分をありのままで受容(cover)してくれる愛」が必要なのです(ルカ15・20)。そこでの父親は母性的な愛の体現者でした。そのように恥の次元が見えてきた私には福音の喜びがより立体的に見えてきました。主の十字架は私たちを罪だけでなく恥の痛みからも解放してくれる和解の出来事だということが。

 「恥の多い生涯を送って来ました」と主人公に語らせたのは太宰治(『人間失格』)。遠藤周作がキリスト教を「母なる宗教」と呼ぶ時、自らの無力さと恥に苦しむ者をそのままで抱きとめる「母なるキリスト」の姿をそこに見ているのだと私は思います。恥の研究を通して出会った二つの名言を紹介します。「高くジャンプするためには低く屈まなければならないように、恥意識の強さはその人の魂の飛翔性の高さを示している」(マックス・シェーラー)。「自分がどうしようもないと思うまさにその一点こそ、神がご自身の聖名(イエス・キリスト)を署名してくださった一点である。なぜなら神こそ私たちのために無となってくださったお方なのだから」(トマス・マートン)。

「教会讃美歌 増補」 解説

⑬讃美歌委員からの声⑻
讃美歌委員会 石丸潤一 西日本福音ルーテル 新田教会牧師)

 千葉県市川市にあります西日本福音ルーテル教会新田教会で牧師をつとめています、石丸潤一と申します。

 『教会讃美歌 増補』の編集のため、四つのルーテル派教団から讃美歌委員会が構成されました。私は、当初委員をつとめてくださった当教団の小賀野英二牧師、ハリー・フオヴィネン宣教師の後を継ぐかたちで、委員に任ぜられました。

 以来、委員の働きをつとめる間に、関西、山陰、関東と牧会の働きの場が変わりました。それだけ多くの年月がかかったにもかかわらず、「分冊Ⅰ」の発行間近である今でも、まだ作業が足りないと感じます。原曲の選定、新作賛美の募集、外国作品の翻訳、訳詞の作成、伴奏の編曲、楽譜の体裁の統一、著作権のチェック、等々。1冊の賛美歌集の背後に膨大な作業が隠されていることを、委員となって、初めて知らされました。
私は、教団の賛美委員会や韓国の賛美宣教団の奉仕(韓国語賛美の訳詞作成など)にも携わらせて頂いていますが、音楽や文学の専門的な学びを修めたわけではなく、「賛美が好き」という程度の者です。讃美歌委員のつとめには分不相応と常々感じていました。ですが、神様は、委員の働きを通して、恵みに気付かせてくださいました。様々な編集作業に携わることで、私の信仰生活が、先人のすばらしい信仰と賜物とバイタリティの上に立たせて頂いていたことを思い起こされました。また、音楽に造詣の深い他の委員の皆様からたくさんのことを学ばせて頂き、得がたい経験を重ねました。感謝です。
 賛美は、私たちから出る前に、多くの恵みに支えられています。

 父なる神様が音のある世界を創られ、音楽を与えられました。御子イエス・キリストの十字架と復活によって、神様を賛美するいのちと舌を頂きました。聖霊が私たちに働いて、私たちの賛美する信仰を導かれます。聖霊の導きのもと、多くの信仰者が、みことばに基づく賛美歌を生み出しました。

 賛美に先立つ神様の恵みにまず感謝し、さあ、ともに賛美を始めましょう。
ルターのコラールは、私たちが忘れてはならない信仰の根を教えます。新しい日本の賛美歌は、時と空間を超えて今に受け継がれてきた信仰の根から咲いた色とりどりの花のように、神様の栄光と信仰生活の喜びを証しします。

 皆さんの信仰生活が主にある喜びでますます満たされるため、また世に主の救いの恵みが広げられるため、「教会賛美歌 増補」と収録された賛美が用いられますように。

私たちの礼拝 —式文ハンドブック—

⑫信徒の礼拝奉仕
松本義宣(式文委員会委員長・東京教会牧師)

 礼拝(Liturgy)を表わすギリシャ語はレイトゥルギア、原意は「民の業・働き」です。新約聖書では、ヘブライ語の「祭儀」の訳語として用いられています。もちろん、礼拝はまず神様が人にみことばをもって奉仕してくださる出来事ですが、その恵みに応答する意味で、しかも私たち全てがその「神奉仕」の業に参与する重要性から、「(神の)民の業」である礼拝という側面が注目されてもよいでしょう。教会は「礼拝する民」の共同体です。

 そのために、礼拝において様々な奉仕、役割が私たちには与えられています。定められた時間に定められた場所に集うところから始まります。その神の民の業に仕える司式者の重要性はいうまでもありませんが、何より会衆、礼拝に集う一人一人が、恵みに与るだけでなく、応答し参与する者として、奉仕と役割を担っていることを確認しましょう。

 現在、新型コロナウイルス感染症の下、この当たり前だったことが、そうではないことを改めて知らされる経験をしています。整えられた礼拝堂で、司式者の下で共にみことばを聞き、賛美し、祈り、聖餐に与ることが、まさにかけがえのない恵みであることを痛感します。

 また、今回のハンドブックでは、これまであまり触れられてこなかった「信徒の礼拝奉仕」の項目が加えられました。もちろん、これまでも各教会で様々な奉仕がなされてきました。まず特別な賜物の奉仕として奏楽があり、信徒説教者もあります。他にも聖書朗読、献金やお祈りなどの担当等です。

 しかし、現在、常に礼拝時に牧師(教職)が司式を担当しない状況も出てきました。あるいは、この感染症下にリモート(オンライン)礼拝に、個人や家庭ではなく一定の人数が集って与るということもあり得ます(既になされてもいます)。信徒によって司式がなされ、説教原稿の代読といった重要な奉仕が担われてもいます。

 これは、礼拝を司る役目の牧師数の減少という課題に対応する側面だけでなく、もっと積極的に、本来の意味で「会衆」が参与し、神の民に仕える「信徒の礼拝奉仕」が見直され、新たに位置づけられていくことが求められているからです。

 また、それは礼拝での様々な担当だけではありません。その前後の準備、昔からなされている受付や新来会者、高齢者や子どもたちへの配慮、マイク等の整備等、すべてが大切な奉仕と役割であることを、改めて各教会で話し合い、担い合っていくことが求められていることを覚えましょう。

全国教師会オンライン集会報告

立山忠浩(全国教師会会長・ 都南教会牧師)

 連休最後の5月5日に全国教師会オンライン集会を開催しました。初めての試みでしたが、60名もの参加がありました。全国教 師会の総会は、2年ごとに開催される教会の全国総会の前日に開くことになっていますが、全国総会が来年5月に延期されましたので、それに合わせて来年に延期しました。2年に一度、教師全員が一堂に会する貴重な機会を失ったことになります。それに加え、3〜4年ごとに開催する退修会も、本来ならば今年の秋に開催する計画でしたが、断念せざるを得ませんでした。新型コロナウイルスに翻弄された形です。

 オンライン集会を開催した理由は、延期された教師会と退修会を穴埋めするためです。一堂に会することはできませんが、
画面を介して互いの音信を分かち合い、元気な姿を確認し合う恵みの機会となりました。

 教会規則には教師会の任務が記され、諸事項を適切に処理する役目が明記されています。例えば「教理、神学に関する共通の理解に関わる事項」とあります。教理や神学に関することでの教師間の共通理解を求めています。霊的修養や生涯研修、宣教に係わる事項なども列記されています。

 ただ、教師会の任務を語る前に、整えなければならない課題があることを痛感しています。以前から内在していた課題が、このコロナ禍によって顕在化しているのです。牧師不足の深刻さがさらに増し、1人の牧師が複数の教会を牧会することが当たり前です。教会と関連する諸施設や幼保園・こども園などの兼務も多くの牧師が担っています。いずれも宣教上極めて重要な働きであるゆえに、その任を託される牧師は懸命に励んでいますが、どこかでからだが悲鳴を上げているように思えるのです。私に妙案があるわけではありません。でも教会全体で考えなければならない構造的な問題です。

 宣教の地に牧師は1人で派遣されます。本来孤独は避けられません。しかし宣教の地での現実について語り合い、分かち合える仲間がいるならば、きっと孤独感や孤立感から逃れる道が見つかるのではないか。まずここから取り組みたいのです。教師会で始まった試みは、今秋のオンライン退修会へと継続されることになります。

コロナ時代の説教と聖餐
—牧師のための ルター・セミナー(2021年)報告

江口再起(ルター研究所所長)

 5月31日~6月1日にルター研究所恒例の「牧師のためのルター・セミナー」が開かれました。しかし今年のセミナーは例年とは少し違う形で開催。一つはコロナ禍のためウェブ会議方式(Zoom)で開かれたこと、そしてもう一つはセミナーの初心にもどって、牧師の真剣な討議の会としたことです。

 コロナ禍の困難の中にあって、牧師こそが先頭に立って、改めてもう一度、教会が直面している諸課題について学ぶ必要があると考えたからです。

 というわけで全国から1日目約60名、2日目約50名の牧師(現職、引退)と神学生が参加しました。
主題テーマは、ズバリ「コロナ時代の説教と聖餐」。
 教会にとって一番大切なことは、言うまでもなく「説教」と「聖餐」ですが、このコロナ禍にあって、いつも通り礼拝ができなかったり、オンライン礼拝に切り替わったり、聖餐式ができなかったり、今、全世界の教会において歴史上、体験したことのない変化が起こっています。この問題をどう考えるべきか。

 1日目午前はシンポジウム「コロナ時代の説教」。後藤由起(本郷教会)、小泉基(函館教会)、神﨑伸(天王寺教会)の各牧師より実際の教会現場からの説教事情と課題をめぐって発題がありました。
 午後は立山忠浩牧師(都南教会)より「説教と聖餐」について、ルターの著作と聖書を繙きつつ講演がありました。
 リアクターは高井保雄牧師(引退教職)。ヨハネ福音書4章にでてくるイエスとサマリアの女の問答をめぐり「まことの礼拝」とは何かが問われました。

 2日目午前は、宮本新牧師(神学校)より講演「ルーテル教会という構造~礼拝・教会・宣教」がありました。
 アメリカ福音ルーテル教会のコロナ対応の問題を糸口に、そもそもルーテル教会とはどういう教会なのか、いったい礼拝とは何か、そして改めて伝道(宣教)は今日という時代において、いかにあるべきなのかが、問いただされました。リアクターは大柴譲治牧師(大阪教会)。
 2日目午後は、全体討議「ルーテル教会はどこへ行く?~ポストコロナの時代を見すえて」。参加者全員でコロナのこと、教会の過去・現在・未来、そしてその中での牧師の使命と実存などなど、喧々諤々。もとより教科書的な正解があるわけではありません。しかし、このように信仰について、教会について、説教について、聖餐について、かくも熱く真剣に話し合い、学び合うところにこそ、ルーテル教会の伝統と、そして未来があることを実感できるセミナーとなりました。

アメリカ病院聖職者 チャプレン報告3
関野和寛

 日本福音ルーテル教会の留学制度を利用して昨年よりアメリカ、ミネソタ州の病院でチャプレンとして週5日、フルタイムで働き出し、もうすぐ1年になろうとしています。コロナ室と精神科病棟が私の担当でしたが、ワクチン接種開始から半年コロナ入院患者は激減し、コロナ患者よりも一般患者の看取りや家族のケアをする時間の方が多くなってきました。一般病棟の患者、家族のケアの中にはアメリカの社会問題が凝縮されています。アメリカの自己破産の大きな要因は医療費であり、コロナショックにより失業、車や家を売り入院費用を賄わなくてはならない人々がいます。ベトナム戦争、イラク戦争のトラウマで苦しみ入院している患者の元に駆けつける夜もあります。また非常に驚くことにこちらでは家族や近親者が殺人事件に巻き込まれ癒える事のない傷と共に闘病をしている患者がとても多く、そのような苦しむ心に向き合う働きをしています。ここミネアポリスでは犯罪率がコロナパンデミック前の何倍にも跳ね上がっています。経済が回復方向に向かっているように見えますが、格差、断絶、マイノリティーかつ貧しい人々の苦しみは日に日に大きくなっています。

 病棟を周りそのような患者と向き合うという事は、一人ひとりと向き合うということと同時に社会問題、そして世界の痛みに向き合うことなのだと感じています。そしてその大きな傷の前にチャプレンは無力で解決策を持っていません。けれどもその無力さからでる共感、そして祈りの中に神が働く事を信じて日々努めています。この秋からはここで得たものを持って日本の神学校で臨床牧会訓練の指導に参加させていただく予定です。

「ありがとう神さま」 ~みんなでつながろう!~
Zoomでルーテルこどもキャンプ

 例年8月に行われている「こどもキャンプ」の案内です。今年もコロナの影響で実際に集うことはできませんが、ウェブで全国の友達とつながろう!ということでキャンプを企画しました(小学校5・6年生、中学校1年生が対象です)。

日時 8月9日(月・祝)午後2時から1時間程度(ウェブ会議サービスZoomを使用します)
テーマ「つながり ~かみさまありがとう~」
主題聖句「いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい」エフェソの信徒への手紙5・20

 オンラインで全国の友達と顔を合わせて、神さまに「ありがとう」と思えることをグループで分かち合い、全員で一緒に楽しく讃美し、礼拝をしたいと思います。

 また、プログラムが終わった後、フリータイムも予定しています(自由参加)。対象の子どもたちにお声がけや参加できるようご協力をお願いいたします。

 キャンプ案内は日本福音ルーテル教会TNGブログをご覧ください。
https://the-next-g.blogspot.com

 また、参加申し込みは以下のサイトからお願いします。
(7月12日(月)まで)
https://forms.gle/KzVPJJk63EJEdwNJ8

 あわせて、グループリーダーなど、キャンプをお手伝いしてくれるスタッフも募集しています(18歳以上で堅信を受けている人)。
TNGブログからお申込みください。

第7次綜合方策の紹介(3)

事務局長 滝田浩之

■方策本文より

綜合方策の目指すもの

 本綜合方策の目指すものは、一つの教会として「経済的自給」を背景にしつつ、「宣教的自立」を果たすことにある。

 様々な外的要因によって右往左往する教会ではなく、牧師も信徒も互いに知恵を出し合って討議し、採択し、その合意のもとに目指すべき「教会の姿」を共有し、そこへ共に歩みだしていく自立した教会である。

 それでは、私たちが目指す「教会の姿」とは何か。それは、戦後のキリスト教ブームの再来を期待する教勢拡大にはない。それは、明確に「ルター派に立つ教会の形成」である。

 それでは「ルター派に立つ」とは何か。それは、聖書のみ、信仰のみ、恵みのみ、すなわちキリストのみに生きる教会である。だから福音に生きる教会は、賛美し、祈る。つまり喜びをもって礼拝する。ルターは、私たちがひとりで祈るのではなく、すべてのキリスト教会がともに祈っていることを強調した。一つの祈りは全世界に関わる。祈りは、全世界を一つの共同体とする。

 だからルターは、信仰の喜びに生きるキリスト者の他者への愛の奉仕、つまり隣人愛を強調した。『キリスト者の自由』が語る通り、キリスト者は、すべての者の上に立つほど神によって自由にされており、同時に愛において他者のために存在する。『わたしもまた隣人のために一人のキリストになる』(『キリスト者の自由』第27項)。また私たちは知っている。「隣人と共にキリストがおられる」ということを。

 よって「隣人のために一人のキリストとなる」とは、「隣人と共にあるキリスト」に出会うことでもある。この福音の相互性、キリストの喜びを分かち合い生きる教会、ここに私たちの目指すべき「教会の姿」がある。

 この時、この「教会」という概念は、明確に「全信徒の集まり(人)」である(アウグスブルク信仰告白第7条)。教会の使命は、神の言葉によってすべての人が、この信仰へと導かれ配慮されることにある。この定義に照らす時、ここで語られる「教会」はすでに個々の教会の建物や組織を意味するのではない。むしろ重要なことは、この一人一人の教会生活への責任を誰が持つかという点である。

 私たちは、これまで自明とされてきた「正規の召し」(アウグスブルク信仰告白第14条)を受けた「牧師」の責任を改めて確認する。牧師は信徒と共働しつつ、「目指すべき教会の姿」へと導く牧会者である。

 「誰が私を福音の喜びへと導くのか」、表現をかえて言えば、「誰が私を看取り、キリストが共にあることを想起させ、死を終わりとせず新しい旅路へと導くのか」という牧会の責任の所在を明確にすることこそ宣教力の向上につながると考える。

 同時に、それは「牧師」の牧会力の向上をより一層必要とすることを意味する。もちろん牧師が信徒と協働しつつ牧会力の更なる強化が起こることが不可欠である。しかし牧会の源泉、それは「説教とサクラメント」である。そして、この方策が問うのは「説教とサクラメント」が会衆の中で「喜びの出来事」となるためには教会の分かち合う力が不可欠であるという、この同時性である。更に第7次綜合方策は、この牧会の射程を、今、礼拝に集う者はもちろん、未だ出会っていない新たな仲間へと向ける。集いし者、そしてこれから出会う者へ福音が及ぶ時、すべての必要は主によって満たされると信じる。

■解説

 説明の必要のない文章だと思います。日本福音ルーテル教会は2003年以降、18年間、海外からの財政的な支援を受けない形で運営されています。1969年のアスマラでの自立宣言を経済的な側面からは事実上果たしたと言っていいと思います。

 このような時にこそ、私たちは「ルター派に立つ教会」とは何かという、私たちの原点に立ち還ることが重要だと考えました。福音の喜びを確認するということです。この喜びの分かち合いこそ、私たちの使命です。この使命を私たちは自らの足で立って果たします。

 自立とは自らの限界を踏まえつつ、責任をもって生きるということです。経済的な自立にある時、それは自ずと極めて現実的な判断が求められることは言うまでもありません。経済だけではありません。牧師の数もまた限りがあります。このような限りの中で、できることできないことを峻別しつつ歩むことこそ「宣教的自立」であると本方策は考えるのです。

「第6回るうてる法人会連合全体研修会」開催のご案内

 2021年度、法人会連合ではオンライン(Zoom)にて全体研修会を開催することとなりました。関係法人職員の皆様、また教会員の方々のご参加をお待ちしております。なお人数把握の都合上、各法人、各教会でとりまとめてお申し込みをお願いいたします。

■日時 2021年8月23日(月)10時 〜 12時30分
■参加方法 オンライン 会議システム「Zoom」を使用
■参加費 無料(通信費は各自のご負担となります)
■主題講演「COVID―19下での悲嘆とそのケア」大柴譲治牧師
※氏名とメールアドレスを各法人・教会ごとに取りまとめて頂き、左記EメールまたはFAXにてお申込みください。お知らせいただいたメールアドレスにZoomミーティングURLのご案内を8月初旬にお送りいたします。
■申込・問合せ先
日本福音ルーテル教会事務局 担当・平野
電話(03)3260・8631
Eメール soumu08@jelc.or.jp
FAX(03)3260・8641
■申込締切 2021年7月30日(金)

21-06-01天の青空をその会堂の天井とし
「イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。大勢の人が、イエスの周りに座っていた。『御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます』と知らされると、イエスは、『わたしの母、わたしの兄弟とはだれか』と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。『見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。』」

(マルコによる福音書3章31~35節)

 コロナ禍の中、これまで私たちは様々な工夫をして主日礼拝に与かってきました。昨年から続いているこのウィズコロナの時代、私は、教会とは何であるのかと考え、模索してきました。私は、牧師として着任してから1年もたたない内に新型コロナウイルスの感染拡大に遭遇し、心が揺さぶられ、果たして教会とは何であるのかと、考えてきたのです。
 理解は様々です。職制や正典、信条を持ち出して教会を説明する方がいれば、ルーテル教会としては、アウグスブルク信仰告白を用いて説明する方もおられると思います。では、それらの教会論を全て踏まえた上で、私たちは教会とはいったい何であるのかと考えていくのでしょうか。この問いは、神学的な問いだけではなく実存的な問いであると思います。ウィズコロナの時代になり、教会活動の自粛がひびく中、私はあらためて教会とは何であろうかと問いたいのです。

 教会の交わりで傷つき、倒れている方がおられます。傷を負い、心の深いところに痛手をおって、それでも尚、教会生活を続けている方もおられます。このコロナ禍で、交わりが断たれ孤独のうちに暮らしている方もいれば、主日礼拝の讃美のひと時が与えられず、恵みの機会が奪われ、不安の中で過ごされている方もおられます。

 主イエスは、今日の福音書で衝撃的な言葉を告げます。母と兄弟姉妹を目の前にして「私の母、私の兄弟とはだれか」と言うのです。端的にまとめると、主イエスは周りに座っている人々を見回して、「神の御心を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだ」と、私たちの常識や既成の考え方を覆すような言葉を述べるのです。主イエスは私たちの家族の垣根を壊し、神の御心を行なう人間こそが、本当の意味での家族であると言うのです。

 私はここで言われていることは、家族だけのことではないように思います。神の御心を行なう者の集まり、それは教会にも当てはまることではないでしょうか。

 ウィズコロナの時代で閉塞感が漂う中、私たちはここでの主イエスの斬新な発想を突き詰めて考えていくとき、教会に対する私たちのこれまでの既成概念をもっと越えでて、考えても良いのではないでしょうか。

 ここで再び問います、教会とは何でしょうか。この問いを胸に、コロナ禍でよたよたと歩いていた私に語りかけて来る言葉がありました。それは内村鑑三の言葉です。
「神あり、キリストあり、聖霊あり、神と人とを愛する心あり、其教会堂は上に蒼穹(そうきゅう)を張り、下に青草を布(し)きたる天然なり、其礼拝式は日々の労働なり、其音楽は聖霊に感じたる時の感謝の祈祷なり、其憲法は聖書なり、其監督はキリストなり、而(しか)して其会員は霊と真とを以て神を拝する世界万国の兄弟姉妹なり」(『新希望』74号より)

 詩情あふれる表現です。この内村鑑三の教会への視点は、私の心を揺さぶりました。ぬけるような天の青空をその会堂の天井とし、大地の豊かな青草をその会堂の床とし、森の小鳥の声を賛美の声とする教会。私は、主イエスが弟子たちとガリラヤ湖を歩く姿を思い浮かべつつ、この比類なき教会のスケールの大きさに心を奪われました。主イエスの言葉と内村の言葉が、私の中でこだましたのです。

 教会とは、私たちの垣根や想像を越え、この宇宙的な賛美の声が響いている場として存在している、そのような新たなインスピレーションが与えられました。この教会には深い喜びがある、直感的にそう感じました。閉塞感に包まれた教会の状況の中で、内村の言葉は私たちの既成の考え方を打ち壊します。星が輝き、宇宙全体を包み込んでいる壮大なスケールの内にある教会の姿を提示しているのです。広大な宇宙と教会の姿が重なりあっているのです。

 この宇宙(コスモス)の教会に私たちは包まれています。この気づきから、私たちは明日の教会のビジョンを見ていきます。私は今、いのちに溢れる教会に生きているのだ、このまばゆい大地と、静かにさえずる小鳥の讃美と共に、宇宙を感じ、神の言葉を感謝と共に聞きながら—

日本福音ルーテル甲府教会・諏訪教会牧師 筑田仁

21-06-01るうてる2021年6月号

機関紙PDF

「天の青空をその会堂の天井とし」

日本福音ルーテル甲府教会・諏訪教会牧師 筑田 仁

「イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。大勢の人が、イエスの周りに座っていた。『御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます』と知らされると、イエスは、『わたしの母、わたしの兄弟とはだれか』と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。『見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。』」
(マルコによる福音書3章31~35節)

 コロナ禍の中、これまで私たちは様々な工夫をして主日礼拝に与かってきました。昨年から続いているこのウィズコロナの時代、私は、教会とは何であるのかと考え、模索してきました。私は、牧師として着任してから1年もたたない内に新型コロナウイルスの感染拡大に遭遇し、心が揺さぶられ、果たして教会とは何であるのかと、考えてきたのです。
 理解は様々です。職制や正典、信条を持ち出して教会を説明する方がいれば、ルーテル教会としては、アウグスブルク信仰告白を用いて説明する方もおられると思います。では、それらの教会論を全て踏まえた上で、私たちは教会とはいったい何であるのかと考えていくのでしょうか。この問いは、神学的な問いだけではなく実存的な問いであると思います。ウィズコロナの時代になり、教会活動の自粛がひびく中、私はあらためて教会とは何であろうかと問いたいのです。

 教会の交わりで傷つき、倒れている方がおられます。傷を負い、心の深いところに痛手をおって、それでも尚、教会生活を続けている方もおられます。このコロナ禍で、交わりが断たれ孤独のうちに暮らしている方もいれば、主日礼拝の讃美のひと時が与えられず、恵みの機会が奪われ、不安の中で過ごされている方もおられます。

 主イエスは、今日の福音書で衝撃的な言葉を告げます。母と兄弟姉妹を目の前にして「私の母、私の兄弟とはだれか」と言うのです。端的にまとめると、主イエスは周りに座っている人々を見回して、「神の御心を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだ」と、私たちの常識や既成の考え方を覆すような言葉を述べるのです。主イエスは私たちの家族の垣根を壊し、神の御心を行なう人間こそが、本当の意味での家族であると言うのです。

 私はここで言われていることは、家族だけのことではないように思います。神の御心を行なう者の集まり、それは教会にも当てはまることではないでしょうか。

 ウィズコロナの時代で閉塞感が漂う中、私たちはここでの主イエスの斬新な発想を突き詰めて考えていくとき、教会に対する私たちのこれまでの既成概念をもっと越えでて、考えても良いのではないでしょうか。

 ここで再び問います、教会とは何でしょうか。この問いを胸に、コロナ禍でよたよたと歩いていた私に語りかけて来る言葉がありました。それは内村鑑三の言葉です。
「神あり、キリストあり、聖霊あり、神と人とを愛する心あり、其教会堂は上に蒼穹(そうきゅう)を張り、下に青草を布(し)きたる天然なり、其礼拝式は日々の労働なり、其音楽は聖霊に感じたる時の感謝の祈祷なり、其憲法は聖書なり、其監督はキリストなり、而(しか)して其会員は霊と真とを以て神を拝する世界万国の兄弟姉妹なり」(『新希望』74号より)

 詩情あふれる表現です。この内村鑑三の教会への視点は、私の心を揺さぶりました。ぬけるような天の青空をその会堂の天井とし、大地の豊かな青草をその会堂の床とし、森の小鳥の声を賛美の声とする教会。私は、主イエスが弟子たちとガリラヤ湖を歩く姿を思い浮かべつつ、この比類なき教会のスケールの大きさに心を奪われました。主イエスの言葉と内村の言葉が、私の中でこだましたのです。

 教会とは、私たちの垣根や想像を越え、この宇宙的な賛美の声が響いている場として存在している、そのような新たなインスピレーションが与えられました。この教会には深い喜びがある、直感的にそう感じました。閉塞感に包まれた教会の状況の中で、内村の言葉は私たちの既成の考え方を打ち壊します。星が輝き、宇宙全体を包み込んでいる壮大なスケールの内にある教会の姿を提示しているのです。広大な宇宙と教会の姿が重なりあっているのです。

 この宇宙(コスモス)の教会に私たちは包まれています。この気づきから、私たちは明日の教会のビジョンを見ていきます。私は今、いのちに溢れる教会に生きているのだ、このまばゆい大地と、静かにさえずる小鳥の讃美と共に、宇宙を感じ、神の言葉を感謝と共に聞きながら—

連載コラム「命のことば」 伊藤早奈

⑮「土」

「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。」(創世記1・31)

 咲いた、咲いた、チューリップの花が…赤・白・黄色…♪幼い頃よく歌った歌の一つです。でも季節やいろんな状態で彩りを変えて、私たちを和ませてくれるものは花や草木だけではありません。

 その中の一つが「土」です。「今朝は白いな。霜が降りてるんだ。」「今日は乾いてる。なんだか暑そう。」そして雨が降ると雨が染み込み黒くなります。

 草がいっぱい茂っている時は、真夏の光の中でも草の影になって黒いのに、全く影になっていない所は乾いています。「土」も生きているんですね。「土」はいろいろな思い出を運んでもくれます。

 何年か前のイスラエルへの旅でした。そのツアーに参加した皆さんが一緒に乗っていたバスでガイドさんが回すマイクを手にこのツアーに参加した理由を楽しそうに話されていました。私の番が回ってきてマイクを渡された私は「自分の足でこの国の土(土地)を踏みしめたいからです」と言いました。その時は杖をついて歩いていました。いずれ自分は車椅子になって自分の足では歩けなくなるとお医者さんから聞いていても、まさかという思いで半信半疑で言ったのを覚えています。

 私たち一人ひとりも自然の一つ一つの全ても神様に造られて「良し」とされて今があります。

「ありがとう神さま」~みんなでつながろう!~
ZOOMでルーテルこどもキャンプ

8月9日(月・祝)午後2時から1時間程度
(ウェブ会議サービスZOOMを使用します)

テーマ「つながり ~かみさまありがとう~」
主題聖句 「いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい」エフェソ5:20

※プログラムが終わった後、自由参加でフリータイムも予定しています。
詳細は次号でお知らせいたします。

議長室から
総会議長 大柴譲治

打ち砕かれ悔いる心を求める神

しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。/打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません。」(詩編51・19)

 2002年でしたか、潮見のカトリック中央協議会での「インターネットと教会」という講演会に足を運びました。教会のウェブサイト立ち上げの参考にするためでした。講師はカトリック新聞の松隈康史氏。氏は現代社会の持つ三つの特徴を挙げました。①「コンビニ時代」②「多チャンネル時代」③「インターネット時代」。現代は人間の「肥大化した自我の欲望」を満足させる方向で「進化」してきたというその指摘は印象的でした。①「コンビニ時代」。必要なものがあっても以前は夜には店が閉じていて朝まで我慢しなければならなかった。しかし今やコンビニは24時間オープン。実にconvenient!いつでも必要なものが簡単に入手できる。我慢する必要はないのです。②「多チャンネル時代」。昔はテレビで野球のナイター観戦をしていても時間になると途中で終了。「嗚呼、いいとこなのに!」と慌ててラジオに切り替えたものです。しかし今や多チャンネル時代。放映が途中で終わることはありませんし、留守録にすれば好きな時にいつでも再生できる。自分のペースで存分に楽しめる。③「インターネット時代」については言わずもがな。自分の関心に沿って自在にネットサーフィンが可能です。
 確かにこれらの三つは便利にも自我の欲求を満足させてくれます。もちろんアディクティブな危険性があることにも注意しておかなければなりませんが。

 しかし氏は指摘されたのです。私たちは自我/欲望の肥大化の延長線上ではキリストに出会うことはできないのではないかと。ハッとしました。確かに私たちは「自我」が打ち砕かれる中でキリストと出会う。神は「打ち砕かれた霊/魂」を喜ばれるのです。教会のホームページは確かに教会を紹介する入口になったとしてもそこにはやはり信仰者の具体的な交わりが求められてゆきます。もちろんインターネットを通しても神の聖霊は働くことでしょう。「風は思いのままに吹く」のですから(ヨハネ3・8)。私たちは「打ち砕かれ悔いる」体験を通して独り子を賜るほど深い神の愛と憐れみを知る。私たちの教会の交わりがそのような次元を備えているかは問われることでしょうが、個々の〈われ=なんじ〉の出会いを通して悔い改めは生起するのです。

 後日談があります。2017年の宗教改革500年大会(浦上天主堂)で私は偶然松隈氏と再会しました。「神のなさることは皆、その時に適って美しい」。偶然は神の必然でもあると改めて思わされた次第です。

「教会讃美歌 増補」 解説

⑫讃美歌委員からの声⑺
日本ルーテル教団教会讃美歌委員 西川亜季(旭川聖パウロルーテル教会)

 皆様こんにちは。NRK旭川聖パウロルーテル教会の西川亜季と申します。私が讃美歌委員会に参加させていただいてから約8年が経ちました。
私が初めて参加した時には、既に他の委員の方々が出版に向けて作業を進めてくださっており、わからないことだらけの中でのスタートでした。私は当時ピアノ教室をしながら、主日は杉並聖真ルーテル教会で奏楽奉仕をしておりましたが、讃美歌集の成り立ちに関しては無知の状態でした。

 委員会の作業を振り返ると、外国語の歌詞の訳詞を、歌えるよう音符に当てる作業が最も大変だったように思います。音にただ言葉を当てるのではなく、 歌詞は神学的に正しいか、音楽的なフレーズと歌詞のフレーズが合っているか、現代的な言葉遣いか等々…配慮をしながら意見を出し合い、時にはぶつかりながら懸命に皆でまとめてきました。

 そして、創作讃美歌の完成のために作曲という形で関わらせていただいたことは、とても光栄に思っています。私は子どもの頃から作曲が大好きで、26歳の時に洗礼を受けてからは、讃美歌も作曲するようになりました。神様からいただいた「好きなこと」を生かして今回の創作讃美歌の制作に携わることができたのは、とても嬉しく、また楽しいことでした。ピアノ教室を始めた際に夫からフィナーレという楽譜制作ソフトの使い方を習い、生徒の指導のための楽譜を作っていたのですが、そのことは増補版制作の楽譜検討過程で役立ちました(同時に、増補版の楽譜制作のために、より高度な操作を頭を抱えながら説明書で調べ、そこで得たスキルが自分のレッスンの楽譜作りにも役立つという副産物も得ました)。

 4年前に旭川に転居してからはオンラインで委員会に参加していましたが、昨年出産してからは委員としての働きができておらず、申し訳なく思っています。コロナ禍で苦心しながら出版まで作業を進めてくださった委員の皆様に心から感謝致します。そして、私たちの働きを導いてくださった神様、本当にありがとうございます‼この讃美歌集が、皆様の心からの賛美へと繋がりますようにお祈りしています。

私たちの礼拝 —式文ハンドブック—

⑪礼拝式文曲について
中島康文(市川教会)

 2014年全国総会において、改訂式文のために用意された礼拝曲の一部(現在のハートバージョン)を用いてデモンストレーションを行いました。礼拝に用いられる曲の殆どが準備できていたこと、これまでにない曲調であったこと、それがハートバージョンを選んだ理由でした。

 ただ、未だ「案」の段階であったため、譜面をお手元に配布することが出来ませんでした。そのこともあってか、総会後のアンケートでは、「歌が難しく馴染めない、オルガニストがいない教会では用いられない」等の戸惑いや否定的な声が多く寄せられました。その一方、「美しい曲が多く、明るく好感がもてた、若い人たちには歌いやすい」という感想も寄せられました。

 改訂式文のために新しい礼拝曲を3名の方、現行式文の編曲での作業を1人の方(全員ルーテル教会員)に依頼しました。式文委員会には音楽の専門家はいませんので、式文曲に関しては全てお任せしました。是非はともかく、時代を感じさせる新しい発想で作曲してくださったと感じています。2014年の総会後の感想も、全く予想していなかった訳ではなく、「時間をかけ折に触れ紹介し続けるしかない」と再確認したことを記憶しています。

 2017年11月の全国教師会では、市川教会の協力を得て作成したデモ音源を紹介し、その音源をCDにして2018年定期総会前に配布いたしました。

 更に、2018年の総会では全てのバージョン(一部未完成)の紹介を行いましたが、最初のデモンストレーションから4年、触れるために様々な機会を設けてくださったこともあって、前向きなご意見を頂くことができたように思います。同年冬、校正作業を行い、2019年初冬に四つのバージョンを掲載した改訂礼拝式文を製本し、全教会へ配布することができました。

 様々なご意見を伺いながら、皆様が「式文を大切にしている」ことを実感しています。改訂式文が豊かな礼拝のための一助となりますように願っております。

教会手帳2021訂正のお願い
〈週間カレンダーの訂正〉
週間カレンダー2021年8月22日聖霊降臨後第13主日の典礼色に誤植がありました。
恐れ入りますが左記のようにご訂正をお願いいたします。
(誤)聖霊降臨後第13主日(赤)
(正)聖霊降臨後第13主日(緑)

フィンランドとの合同教会学校
榎本尚(市ヶ谷教会)

 4月25日(日)、フィンランドHelsinki Pyhän Sydämen Kappeli教会と市ヶ谷教会のオンライン(インターネット)による合同教会学校が実現しました。

 これは、市ヶ谷教会で
ご奉仕をいただいている、ミルヤム・ハルユ宣教師(LEAF)の紹介により、実現したものです。開始時間は時差を考慮して、日本時間午後4時(フィンランド時間午前10時)から開催しました。日本からは、6家族・8名、フィンランドからは、9家族・22名の参加がありました。

 内容は、点呼から始まり、「主われを愛す」を讃美、学校および教会学校の近況報告(日本、フィンランドから1家族ずつ)、フィンランドからのメッセージ、信仰告白、ゲーム、お祈り、祝福(Jari Rankinen牧師、浅野直樹Sr.牧師)、主の祈り、約1時間の内容でした。

 それぞれ、フィンランド語と日本語を交えて行いましたが、「主われを愛す」の讃美は、フィンランド語でも歌うことが出来るよう、事前の教会学校で練習をしました。

 フィンランドからのメッセージは、教会学校講師である、Kirsi Nummi先生から、ヨハネによる福音書14章6節「わたしは道であり、真理であり、命である」から、お話をいただきました。天国と永遠の命の道は一本だけある。それはイエス様だということ、世界の国、どこに住んでいても、イエス様を信じていれば、天国に入れるということを学びました。そして、「イエスは主であると信じます」という信仰告白を一緒にしました。

 ゲームでは、フィンランドと日本に関することや、それぞれの言語で「教会」はなんと言うのかスライドを見せながらクイズ形式で行いました。また、日本語とフィンランド語によるじゃんけんでは、お互いの国の言語を実際に使って楽しむことができました。子供たちは、ゲームを通して、言葉は違うけれど自分の国と同じことや違うことを知ることができました。

 市ヶ谷教会では昨年の5月から、コロナウイルスの影響で、オンラインによる教会学校を始めており、子どもたちと学んでおります。今回は初めての試みで、3月に決定し、短い準備期間でしたが、ミルヤム・ハルユ宣教師を通して、当日の進行、通訳など、多くのご奉仕により、恵みのある教会学校となりました。フィンランド、日本から参加した子どもたちにも、神さまを通して国も言葉も違うお友だちと、神さまの話を聞き、交流ができたことが、参加した一人ひとりの心に残ったことと思います。また、教会学校の教師もお互いを知り、一緒に学ぶ機会が与えられました。

 最後に、今回の合同教会学校を開催できたことを神さまに感謝するとともに、今後も交流を続けることができることを願っております。Kiitos!

アメリカ病院聖職者チャプレン報告2
関野和寛

 2020年9月より留学制度を利用しアメリカのミネアポリスでチャプレンとしてフルタイムの仕事を開始し10カ月が経とうとしています。アメリカでも特に他人種多文化他宗教の街として有名であったミネアポリスでしたが黒人市民が警察官に殺害され大暴動が起きました。先日もその裁判を巡って暴動の危険性が高まり夜間外出禁止令が発令されました。またコロナパンデミックと共に貧困や格差により治安も悪化、そのような街の病院でコロナ室と精神科病棟で毎日働いています。

 コロナ病棟の中には家庭、刑務所、路上、施設、様々な場所から患者さんたちが運ばれてきます。夫婦で運ばれてきて別々の部屋で亡くなったケースもありました。中には錯乱して隔離室で暴れてしまう患者さんたちもいます。そのような中に防護服を着て入っていきなんとか落ち着いてもらえるようにするのもチャプレンの仕事です。

 また精神科病棟にはコロナショックによる失業、リモート授業のストレス、家族関係崩壊などで心の病を負った患者さんたちが沢山居られます。また病棟内でも差別問題や暴力問題も起こります。アメリカ社会に根深く存在していた問題がパンデミックにより炙り出され、そしてそこで傷ついた人々が病院に運ばれてきています。病院で患者さんをケアするということは個人をケアする事のみならず、そこには社会と世界の歪みと傷の前に立たされる事であると実感しています。

 そのような中でも毎日、患者さんに聖餐式を届け、聖書を読み、また洗礼式もとり行います。また宗教を超えてイスラム教の患者さんにコーランを届けたたり、ネイティブアメリカンの患者さんたちが浄めの儀式を行えるように場を整える働きもいたします。ですがチャプレンと言っても宗教的な働きや会話ではなく、人としての悩みや痛みに触れていく時間の方が圧倒的に多いのが実際です。理不尽さや残酷な現実を生きる中でそれでも共に希望を探していく事そのものが宗教なのではないかと感じています。毎日、誰と出会うのか、何をするのか、何を与えられるのか想像もつかない日々ですが、この働きを日本に持ち帰れるようにと努力を続けています。

企画展図録「信仰の灯は永遠に―日本福音ルーテル池田教会と吉田康登牧師の足跡」が発行されました

岡田薫(帯広教会牧師)

 去る2019年11月から約2カ月にわたって浦幌町立博物館と日本福音ルーテル帯広教会との共催として開催された企画展「信仰の灯は永遠に:福音ルーテル池田教会と吉田康登牧師の足跡」の図録が、2021年4月に発行されました。この図録は企画展の展示図録であると同時に、2019年8月25日に惜しまれつつも祈りの家としての役目を終えた日本福音ルーテル池田教会の歩みと思い出を記録した記念誌として、浦幌町立博物館と日本福音ルーテル帯広教会が協力して作成したものです。

 企画展示をもとに再構成された第Ⅰ部を浦幌町立博物館学芸員の持田誠氏が担当され、第Ⅱ部「池田教会の想い出」の執筆・編集は日本福音ルーテル帯広教会記念誌編集委員会が行いました。また第Ⅲ部「論考・資料編」は帯広教会と浦幌町立博物館とが合同で作成いたしました。持田誠学芸員の丁寧な調査によって、池田教会の初代牧師である吉田康登氏と浦幌町および池田町の人々との交わりや、確かに紡がれてきた歴史を、あらためて深く知る貴重な機会となりました。

 今回の図録(記念誌)発行については5月12日付北海道新聞朝刊の地方欄でも取り上げて頂きました。また浦幌町立図書館の他、帯広市図書館や池田町立図書館、浦幌町立図書館、釧路市中央図書館など、各地の図書館にも所蔵され閲覧可能となります。また、国立国会図書館や北海道立図書館にも収蔵されていますので、各地の図書館から相互貸借制度により、貸出を受けることができます。

 小さな町の小さな教会は建物としてはなくなってしまいましたが、このような形で図録(記念誌)が発行され、福音を証しすることできたことは本当に大きな恵みです。ご寄稿くださった方々、資料や情報をお寄せくださった皆様、またお祈りやお心を寄せてくださった多くの方々に、心より感謝申し上げます。

 残部僅かですがご希望の方には郵送手数料込み500円で頒布いたします。帯広教会までお問い合わせください。

電話(0155)25・3665
FAX(0155)25・3664
Eメール obihiro@jelc.or.jp

第7次綜合方策の紹介(2)

事務局長 滝田浩之

COVID -19がもたらしたもの

 本綜合方策が定期総会に上程される予定であった2020年、私たちは誰もが予見しないCOVID -19のパンデミック(爆発的感染拡大)を体験することとなった。私たち一人一人の日常生活が揺さぶられると共に、教会生活もまた、その根本から揺さぶられ、問い直されることとなった。感染拡大を防止するために日曜日に教会の扉を閉めるという前代未聞の事態となり、教会形成と教会生活を根本から見直すことになった。

 集まること、触れ合うこと、分かち合うこと、助け合うこと、訪ね合うことは、キリスト者としての信仰生活上、重要な要素であり、かつ無くてはならないものである。そこが中断され、分断され、損なわれたのである。

 パンデミックを経験した世界は、その終息後、元に戻ることや元に戻すことは考えられない。それは新たなパンデミックに備えるためである。このような事態への私たちの様々な経験において、教会は以下の事柄に気づかされ、それを深め、拡げる取り組みをしたものと理解する。

⑴礼拝を配信するということの意義と責任
⑵文書伝道の見直しと展開
⑶礼拝式の再考。歌う教会としての主体性以前に、みことばの教会として最新式文の言葉の導入推進
⑷礼拝の回数や時間などの多様なあり方
⑸教会の諸活動の見直しと今後のあり方

 これらの取り組みとこれからの位置づけは、第7次綜合方策においても重要な課題となることを確認し、日本福音ルーテル教会としての共通の理解の醸成は不可欠なものと考える。

解説

 本項目は、現在も渦中にあるCOVID -19の経験を踏まえて付加されたものです。

 COVID -19は、私たちにとって未知の経験ではありますが、教会の方策という観点から考える時、それはそれまでの教会の抱えていた課題がより顕在化した出来事であると、この本文は理解しています。

 公開の礼拝を毎週行うことができないという事態は、すでに牧師数の減少に伴う事態の中で地方教会は経験していることでした。あるいは信徒の方にとってもご病気や、ご高齢のため毎週礼拝に集うことは難しくなっている状況を私たちは知っていました。つまり、私たちはCOVID -19の経験を通して、教会の本来の務めは「集まること、触れ合うこと、分かち合うこと、助け合うこと、訪ね合うこと」であることを改めて確認することになったのです。そして同時に教会の宣教という観点からいえば、「集まる、触れ合う、分かち合う、助け合う、訪ね合う」力の回復こそ、今求められている私たちの方策である。第7次綜合方策は、COVID -19の発生前から、ここに宣教力の課題を見てきました。

 では「集まること、触れ合うこと、分かち合うこと、助け合うこと、訪ね合うこと」の中心にあるものは何か、それは「み言葉(説教と聖礼典)」です。何よりも「み言葉(説教と聖礼典)」は私たちの「魂」を助け、慰め、導きます。

 教会には様々な課題があります。宣教の行き詰まりからくる、将来への不安が大きくあります。確かにこれまで通りではいかないことも多々あるでしょう。第7次綜合方策は、このような変化の中にあっても、いかにして「魂の配慮」を実現することができるか、そのような視点にたって以後、一つ一つの課題について整理していくことになります。

第27回春の全国ティーンズキャンプ報告

森田哲史(大江教会牧師)

 3月29日、春の全国ティーンズキャンプ(通称:春キャン)が、初のオンラインにて行われました。今年は「I NEED YOU!」をテーマ(主題聖句ヨハネ15章5節)に、コロナ禍で失われてしまったつながり、それでも失われることのないつながりを考えるプログラムを行いました。

 春キャンは昨年、新型コロナウイルスの影響で中止となっており、多くのティーンズが、集い、語り、賛美することが出来ないことに落胆していました。その後も新型コロナウイルスの終息が見通せない中、TNG –teens部門長である小泉嗣牧師の「オンラインで春キャンをやろう」という一声でスタッフが集められ、準備を進めてきました。

 これまで、100人以上が3日間対面で行ってきたことをオンラインに落とし込むことには多くの課題がありました。当日のトラブルに直接対応できないこともあり、事前の準備やシミュレーションにも多くの時間を費やしました。

 当日は40名弱の参加者が与えられました。実際に会うことが出来ない寂しさはありながらも、2年ぶりに開催された春キャンにティーンズからも笑顔がこぼれていました。プログラムでは、チャプレンの松本義宣牧師の「私たちが必要とする以上に、神様が私を必要としてくれている」という言葉に表されるように、どんな時も神様が私たちをしっかりとつかんでくださっていることを覚えることが出来ました。

〈以下参加者からの感想〉

「今日初めて春キャンに参加して、思っていた以上に楽しかったです。学校ではあまり話せない聖書の深い話や、コロナに対して今まであまり考えなかったことなどをたくさん話すことができたので良かったです」

「松本先生の『自分を大切にする』という言葉が心に残っています。この1年、私は私をあまり大切にできてなかったように思います。しかし、今日、グループのメンバーとたくさんの繋がりや支え合いについて話し合う中でもっと自分を大切にしよう、悩みがあったらちゃんと相談しようと思いました」

教勢報告集計表に見られるCOVID−19の影響

財務委員会 市吉伸行(日本福音ルーテル教会会計)

 2020年度の「教勢報告集計表」への各個教会のご協力に感謝いたします。新型コロナウイルス感染症(COVID-19)状況下の財務的対策として行った施策に対する検証も兼ねて、財務委員会にて2019年度との比較を行いましたので、ご報告いたします。全体傾向に関する分析であり個々の教会の状況とは異なる場合もありますので、その点はご承知ください。

礼拝出席者数、召天者数、受洗者数

 感染拡大防止対策として礼拝堂に集まる礼拝を一時的に休止した教会も多く、平均主日礼拝出席は2019年度3,516名から2020年度2,751名へ22%の減少となりました(オンライン礼拝を持った時の礼拝出席者の数え方は各教会の判断に委ねています)。ご召天者数はほぼ変わりませんでしたが(143名→149名)、教会で交流し難い状況を反映してか、受洗者数は大幅に減少しました(111名→56名)。

基礎収入および支出

 集会式礼拝の休止にほぼ連動して礼拝献金は18%減少しました(12,700万円→10,400万円)。2020年6月常議員会で、協力金を規定上の「前々年度基礎収入の10%」から6%に減免することを決定しましたが、結果としてその減少額2,800万円(7,160万円→4,360万円)は礼拝献金の減少幅2,300万円減をカバーするものになりました。一方、維持献金は4%の減少(36,200万円→34,800万円)に留まりました。これは集会式礼拝休止中の分をまとめて献金されたり、振込み献金をされたりした方が多かったためと思われます。特別献金は7%増でした(27,400万円→34,200万円)。これは大口の遺贈があったほか、献金趣旨を明示していない振込み献金を維持献金・特別献金に案分する会計処理を行うこともあったためと推測されます。その他の収入も含め、「献金ほか基礎収入」の総額は2019年度の85,600万円から84,000万円と僅か2%減少に留まりました。

 支出は、上述の協力金減免や活動費17%減などがありましたが、全体では2019年度とほぼ同額でした(97,100万円→97,200万円)。

 厳しい状況の中で、2020年度も教会員の方々の献身と献財に支えられましたことを心から感謝いたします。2021年度以降も教会の宣教・財務は厳しい状況が続くと予想され、財務委員会としても引き続き注視して参ります。

21-05-01るうてる2021年5月号

機関紙PDF

「喜び祝う神」

日本福音ルーテル藤が丘教会牧師 佐藤和宏

「どうか、主の栄光がとこしえに続くように。/主が御自分の業を喜び祝われるように。(詩編104編31節)

各個教会規則(雛型)第3条には、教会の目的が次のように規定されています。

「この教会は、キリストの命に従って、信仰の交わりをなし、福音の宣べ伝え、みことばを教え、愛による奉仕をなし、これらのことによって神に仕えることを目的とする」。

 教会はキリストの命じられたことに従って、伝道をし、教え、人々に奉仕をするのですが、それらはすべて神に仕えるためである、というのです。私はこの「教会の目的」の大切さを共有するため、毎年教会宣教計画の冒頭に、前提として明記することにしています。教会が教会であるために、その目的を見誤ってはならないと思うからです。

 教会の宣教と聞くと、私たちは人数や財政といった結果に目を奪われてしまうことがあります。いかに人が増えたか、経済的にどうかなど、これらを宣教の成果としてしまうのです。しかし大切なことは、目的なのだと思うのです。私たちのなす業がいかに乏しく、成果がみえなくとも、それが神に仕えるとの目的に沿う限り、それは尊いのです。反対に、私たちのなす業がどれほど効果的にみえ、人の目に輝いて映ったとしても、神に仕えることを忘れているなら、それは虚しいのです。いずれにしても、私たちが先の教会の目的から知らなければならないのは、教会は内に向かうものではなく、外に向けて働くものであるということです。すべての人々に仕えることを通して、神に仕える。これが教会なのではないでしょうか。

 聖霊降臨を指して「教会の誕生日」と言われることがあります。それは聖霊降臨の場面(使徒言行録2章)に、教会が教会であるために欠かせない要素が示されているからにちがいありません。それは「一同が一つになって集まっている(1節)」、 「(霊が)一人一人の上にとどまる(3節)」、「〝霊〟が語らせるままに…話し出す(4節)」の三つです。「〝霊〟が語らせるままに…話し出す」ということですが、宣教は人から出るものではなく、聖霊によるということです。たとえ無力に思われても、聖霊が語らせるままに話し出す、これが教会なのです。そしてそのために、「(霊が)一人一人の上にとどまった」のでした。それは一人一人の違った個性が、それぞれに大切にされているということです。聖霊によって、その一人一人を通して宣教がなされる。これが教会なのです。

 「一同が一つになって集まっている」ということについてです。礼拝に集められる私たちは決して同じではなく、違う考えを持った者の集まりですから、違いを認め合い、赦し合いながら集まっていると言えるでしょう。これが一つになるということです。それは牧師によってでも、役員会によってでもなく、ただキリストの名のもとに、違いを尊び、一つとされるのです。そしてこの「一つになる」とは、各個教会にとどまらず、ルーテル教会全体についても、同じように言えるでしょう。ルーテル教会は一つの教会であるのですが、どうしても目に見える各個教会のことを思ってしまいます。しかしキリストの名のもとに、全国のルーテル教会が一つとされているのです。互いの違いを認め合い、大なるものも小なるものも、違いを認めつつ、一つになれる。これがルーテル教会なのだと思います。

 「改訂共通聖書日課(RCL)」によると、ペンテコステには詩編104編24節以下が選ばれています。31節に「どうか、主の栄光がとこしえに続くように。/主が御自分の業を喜び祝われるように」とありました。

 「主が御自分の業を喜び祝われるように」とは、御自分の業である私たちを含めたすべての被造物を喜び祝われるということなのでしょう。「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」(創世記1章31節)という場面を思い起こします。

 私たちが神に喜び祝われるようになるのは、私たちの努力によるのでも、私たちが役に立つからでもありません。ただ、私たちがキリストの名のもとに違いを認め合って一つとされ、植えられたそれぞれの地において、ただ神に仕えるために人々に向かって宣教の業に励むようにと、聖霊が注がれたことによるのです。すべて神の御業によって、私たちは教会とされて生きるのです。神はそのような私たちを、ご自分の業として、喜び祝われるのです。

エッセイ「命のことば」 伊藤早奈

⑭「生かされる」

「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記2・7)

「この子生きてるのよ。この呼吸器止めたら死んでしまうの。」

 生きるって何だろう。そんなことを考えさせられました。この言葉をお母さんから聞いたのは私もその人も入院している時でした。その人に初めてお会いした入院から3カ月で車椅子に乗っておられた状態からあっという間にベッドに寝たきりになり、呼吸器をつけないと息ができなくなられました。

 その人は今、瞬きで話しておられ、昨年のコラムでも登場されておられます。

 生きるって何でしょう。息を吸うこと?笑ったり泣いたり怒ったりすること?歩くこと?空気が無くなったら生きられない。喜怒哀楽の感情は?運動能力は?私と同じ病気がわかったばかりの方が「自分で歩けなければ人間じゃない」って言っていたことを思い出します。生きるということと人間であるということも違うような気がします。この病気がいいとかあの病気は嫌とか、あの姿はいいけどこれはダメとか。それらは一体誰が決めるんでしょうか。

 こんな言葉も聞いたことがあります。「生きていればいいのよ」。自分の家族がほとんど何も食べられなくなり、眠っておられることが多い方のことを言っておられました。神様にとっては、あなたは家族。「そのまま生きていていいんだよ」ときっと言われます。

議長室から
総会議長 大柴譲治

「風のそよぎを感じたか」

「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。」(ヨハネ福音書3・8)

 風薫る五月。しばらく前の大河ドラマに宮本武蔵が描かれたことがありました(原作・吉川英治、2003年NHK)。史実かフィクションかは定かではありませんが、私には忘れられない一場面があります。若い頃の彼は大変な狼藉者で、有り余るエネルギーを持て余し、「武者修行」と称しては道場破りを繰り返している。ある時彼は藤田まこと演ずる新陰流・柳生石舟斎の道場を訪ねます。相手に果敢に挑みかかってはゆくものの素手の石舟斎に全く敵わず、完膚なきまでの敗北。茫然自失した武蔵に石舟斎はこう問うのです。「お前は風のそよぎを感じたか。鳥の声、せせらぎの音が聞こえたか」。武蔵はハッとします。言われてみれば確かに周囲には風がそよぎ、土が香り、鳥の声や水の音がしている。しかし自分は相手を打ち負かすことばかり考えていて、外界で起こっていることを何も感じていなかったことに気づく。それは打ち砕かれた武蔵にとってモノローグ的な生からダイアローグ的な生へのコペルニクス的転換を促す声でした。そこから彼はやがて「剣聖」と呼ばれる至高の歩みを成し遂げてゆくことになります。

 このエピソードは私たちに、内に閉ざされた自己完結的な生を超えた、外に向かって開かれた対話的な生の次元を教えています。マルティン・ブーバーの表現を借りれば、根源語<われ|それ>だけを語る次元から根源語<われ|なんじ>を語る次元への恩寵による突破です。私たちは何かに燃えている時にも、逆に何かに悩む時にも、周囲が見えなくなることが少なくありません。そのような時には五感を開いて周囲の世界を感じてみる。するとそれまでとは違った視点が与えられ、見えなかった次元が見えてくることがある。私の関わる「グリーフケア」や「スピリチュアルケア」はケアの中心にこのような在り方を据えています。

 イエスも言われました。「野の花、空の鳥を見よ」。五感を用いて周囲に目を向けてみる。するとそこに風のそよぎを感じることができる。風は思いのままに吹くのです。寅さんも言いました。「風の吹くまま、気の向くままよ」。かつて福山にいた時、地区牧師会の説教セミナーに関田寛雄先生をお招きしたことがありました。『男はつらいよ』をこよなく愛する先生は「これは極めて聖書的な言葉です」と言ってヨハネ3・8を引かれました。強く印象に残っています。喜びの時にも悲しみの時にも私たちも天からの風を感じて生きたいのです。聖霊降臨日を前にそのように思わされています。

「教会讃美歌 増補」 解説

⑪讃美歌委員からの声⑹
日本ルーテル教団教会讃美歌委員 井上栄子(戸塚ルーテル教会)

 「新しい賛美歌を歌えて楽しいですよ」「仕上げの段階なので一年弱しかないが、一緒にやりませんか?」というお誘いでした。私にできる事があるなら、と気軽にメンバーに加えていただきました。しかし、予想外の大役に慄き、末席を汚しながら早4年(2021年3月末現在)が経ちました。作業も第五稿に辿り着き、次回は出版社からデータではなく、冊子として整った形で、第六稿の校正が出来る運びとなりました。

 私の入会時、既に試用(パイロット)版が活用されておりました。が、継続的作業として、候補として挙げられていた230余りの曲を分類別に再度整理し、原譜、原歌詞、伴奏譜の資料を集め、作編曲者、作詞者の情報、引用聖句を調べました。 日本語以外の詩は音符の数に合わせて日本語に訳し(この作業に相当な時間を費やしました)、伴奏譜の無い曲には伴奏を作曲し、現代曲にはコードを付けました。原稿が出来上がって、レイアウトの細部に気を配り(音符の棒や付点の方向や位置、歌詞の誤字脱字、フォントなどのバランス)、赤ペンで紙面を真っ赤に染めた校正作業を繰り返し、現在に至ります。

 主は、牧会の業のみならず、その他多くの賜物を委員に備えてくださいました。辞書要らずの外国語堪能者、讃美歌編集経験者、作編曲のプロ、PCでの莫大な資料整理の達人。Zoom使用前には、各地方からの参加者とのスカイプ会議の算段。あらゆる情報を、幅広い知識や様々な手段で繰り出す専門家。初見奏(唱)も即興演奏も万能な演奏者等々…。また会議の場には居られずとも、快く相談に乗って下さった方々の存在。沢山の背後の祈りと協力…。小さな地方教会の一信徒である私には、作業の一瞬一瞬が驚きと感動の連続でした。この長く繊細な作業を、ここまでお導き下さった神に感謝します。

 間もなく完成するこの増補分冊Ⅰに、どうぞご期待下さい。これが用いられ、皆様と共に声を合わせて主の栄光と感謝を賛美できます日を、心より待ち望みます。

私たちの礼拝 —式文ハンドブック—

⑩聖書日課
浅野直樹Sr. (市ヶ谷・スオミ教会牧師)

 聖書朗読は礼拝において欠かせませんが、どの箇所を読んで礼拝すればよいのか、毎週の礼拝でどういう順番で読み進めたらいいのかという悩みは、教会が誕生した初期からありました。

 そこで朗読箇所を配分して利用するための方法として、聖書日課が考案されました。恣意的に偏らず、神の言葉全体を年間を通して満遍なく聴けるようにと工夫した結果が聖書日課だといえます。旧約聖書しかなかった時代は旧約のみの利用でしたが、2世紀になると使徒書が、さらには福音書が使われ、5世紀頃になると、時宜に適った特定の聖書箇所を読むという伝統へと発展していきます。

 20世紀中葉に行われた第二バチカン公会議でカトリック教会は、信徒が聖書により親しめるようにとミサの大改革を行い、旧約、使徒書、福音書の三つの聖書朗読からなる「3年周期聖書日課」が誕生しました。3年周期とは共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ福音書)を毎年ひとつずつ繰り返して読むためのサイクルです。

 そこに教会一致推進運動(エキュメニズム)が追い風となり、70年代になるとアメリカのプロテスタント教会諸派から、カトリックといっしょに聖書日課を作ろうという気運が高まり、ルーテル教会もそれに加わりました。こうした流れから1983年、「共通聖書日課」(Common Lectionary 略してCL)が完成します。日本福音ルーテル教会の礼拝でも、これを基本とした聖書日課をこれまで長らく使用してきました。

 その後も改訂作業は続き1992年、北米15教会の合同作業で「改訂共通聖書日課」 (Revised Common Lectionary 略してRCL)が完成し、今日多くの主要教派がこれを用いています。私たちの教会でも2020年から教会手帳に正規採用され、礼拝での利用が広がりました。筆者の教会でも昨年から利用を開始しましたが、CLと比べると三つの聖書テキストがより関連づけられているのを、説教しながら感じています。

 聖書日課があることで、キリストの生涯を一年かけて追体験できます。礼拝で朗読される毎週のみことばが系統的につながっているので、みことばを聴きながら神の救いの歴史を辿ることができます。また世界各地の主要教派がRCLを採用していることで、同じ日曜日に同じみことばを聴くという主にある一体感を共有できます。聖書日課を用いる意義はまさにそうしたところにあり、大きな恵みといえます。

ルーテル学院大学・日本ルーテル神学校が新年度へと歩み出しました

2021年度のルーテル学院大学・日本ルーテル神学校は、ルーテル学院大学総合人間学部101名(編入学を含む)、大学院17名、そして神学校に4名の新入生を迎えてスタートしました。神学校の牧師養成コースの新入生は曽我純さん(JELC三鷹教会)、ネルソン・デービッドさん(JELC本郷教会)、大和友子さん(JELC大岡山教会)の3名です。また神学一般コースに1名の新入生を迎えました。4月2日には司式・河田優チャプレン、説教・立山忠浩校長による神学校入学始業礼拝が行われ、新年度へと歩み出しました。なお新型コロナウイルス感染症対策として、今年度の講義は当面の間オンラインと対面を組み合わせたハイブリッド方式によって行われます。(広報室)

パンデミックの中のディアコニア

社会福祉法人サマリヤ理事長 兼間道子(高松教会)

 コロナウイルス第3波到来で感染拡大は止まっていません。香川県は陽性患者が徐々に増え12月9日には警戒レベルに引き上げられました。なかでも高松市内では介護施設でクラスターが発生し、感染者は利用者と職員を合わせて150人を超え、香川県、高松市そして国から調査団や専門職が入り、しばらくは物々しい状況でした。が、現在は終息しています。

 介護施設では、医療機関とほぼ同等に感染対策(予防)が求められます。クラスターが発生すると罹患した患者だけでなく、一緒に暮らす利用者や職員を含めた家族までも一切が機能しなくなります。正しいマスクの装着、手洗い、ガウンテクニック、アルコール消毒、体温管理等の徹底。感染についての「学び」は職員一丸となって足並み揃えて取り組まなければ成果は望めません。当法人でも、同様にできる、限りを尽くして対策に邁進しているところです。

 最近では、動画配信など特に病院介護等の新人教育には一定レベルのスキルを求めています。今後は、さらなるスキルアップのために現場研修に加えて、画面をとおして視聴できるシステムも出回っています、このことも啓発したいと考えています。操作方法がわからない職員にはこれを機会に、分かる職員に尋ねてITに慣れてもいただこうと呼びかける予定です。

 感染者が150名を超えた施設については、利用者や職員が通常業務に加えて大勢の知恵と言動で乗り越え終息したと伺います。元の状態に戻ったものの、日常を取り戻すには、まだ時間を要するので安心できない状況のようです。

 当法人では、3月3日のひな祭り行事も家族を呼んでのお祝いは中止し、ズームで行うことにしました。集まることができないのは寂しいですが、画面で会える新しい取り組みに皆笑顔です。すべてのことに感謝を忘れません。

世界の教会の声

浅野 直樹Sr.(世界宣教主事  市ヶ谷・スオミ教会牧師)

ベラルーシの牧師、支援と祈りに感謝②
世界ルーテル連盟(LWF)がベラルーシのウラディミル・タタニコフ牧師にインタビューした記事(2021年1月15日公開)の後半を紹介します。

(元の記事のURL)
https://www.lutheranworld.org/news/belarus-pastor-grateful-solidarity-and-prayers

—教会と政権との関係について現状はどうですか。

「グロドノ市長とは今のところ良好です。しかしながら国レベルで様々な障害があり、たとえば私たちの教会は小さすぎるため、法的には教会として認められていません。そのため海外から牧師を招聘することができないのです。ロシアからもできません。ベラルーシ国内にある諸外国のルーテル教会との協約も結べません。そのうえ財政支援や物的支援といったいかなる援助も、必ず届け出しなくてはなりません。ですから支援を受けとるにしても制限されています。海外の兄弟姉妹が光熱費を支援してくださっても、そのうち18%は税金でもっていかれます。またコンサートのように礼拝以外の活動は、市の許可が必要になります。」

—ベラルーシ国内のルーテル教会の組織について教えてください。

大半の信徒はベラルーシ国籍の人たちで、宗教改革に関心をもつ人々がルーテル教会に集っています。ドイツ、エストニア、フィンランドのルーテル教会もあります。ロシアや諸外国の福音ルーテル連盟とは、霊的に結ばれていると感じています。そうしたつながりを通してLWFと関われています。
 ベラルーシで私が唯一人のルーテル教会の牧師です。ほかに2名の助祭が、グロドノとビテプスクにいます。ゆっくりとではありますが、もっと多くの教会が今後出来ていく見通しをもっています。」

—御教会にとってLWFにつながることの意義は何でしょうか
「信仰を共にする兄弟姉妹の皆さんに対して、まずもって感謝を申し上げたいと思います。手紙やメール、メッセージで多くの励ましの言葉をいただいています。祈りに覚えていただき感謝します。いずれもとても大切なひとつひとつです。
 今ベラルーシは、三つの危機を同時に抱え込んでいます。経済危機、政治危機、そしてコロナウイルスです。今後どうなっていくのかわかりません。6カ月前の2020年8月時点では、だれもこのような事態を想像できませんでした。
 世界のルーテル教会からのお支えが、私たちにとって力となります。私たちは小さな教会です。しかしながら祈られていることを感じます!私たちの教会を通してベラルーシ市民を助けてくださる方々に、精一杯の感謝を申し上げます。」(了)

ブックレビュー

コロナ禍で、ルターから学ぶ—『ルター研究』17巻(特集・宗教改革と疫病)紹介
江口再起(ルター研究所所長)

 新型コロナウイルス感染は収まるどころか、ますます深刻な事態となっています。毎年、ルター研究所は研究雑誌『ルター研究』を刊行しています。このコロナ禍の真只中、その17巻を「宗教改革と疫病」特集号として出版しました。500年前のルターの宗教改革の時代も、未曾有のペスト流行期でしたが、きっとペスト禍のルターから、コロナ禍の私たちも学ぶものがあるはずです。その内容を紹介しましょう。

 まず第一に特筆すべきは、ルターのいわゆる「ペスト書簡」の翻訳です(多田哲訳)。疫病の蔓延の中で、キリスト者はいかに生きるべきかを説いた手紙です。この書簡は疫病についての、最も重要なキリスト教文献です。今まで故内海望先生の英訳からの部分訳しかありませんでしたが、今回、原典ドイツ語から全文が翻訳されています。書簡ですから、内容は決して難しいものではありません。しかし恐ろしく深い。大変、正確でわかりやすい訳文になっています。

 宮本新「ルターの「ペスト書簡」を読む」は、まさにそのルターの書簡をめぐっての論文です。教会の指導者そして牧師としてのルターが、ペストの不安の中を生きている人々に、生きる原点である「信仰と愛」を力強くまた深々と説いています。そして実に具体的なアドバイスをしていますが、その理由を論じています。それは一人一人がみな神から務めを託されている(召命)ゆえだ、と論じられています。

 立山忠浩「「まことの礼拝」を考える—新型コロナウイルス禍の産物」は、今回のコロナ禍にあって、今までのように礼拝に出席できなくなったという事態を背景に礼拝のあり方を論じた論文です。改めて「まことの礼拝」(ヨハネ福音書4・23)とは何かを問題にしています。

 江口再起「コロナ—人類・ルター・教会」は、私たち人類にとって、今回のコロナ・パンデミックは何を意味するのか、またルターから何を学ぶのか、そして教会はどうあるべきかを論じ、「世の光・地の塩」をその結論としています。

 最後にコロナ特集とは別ですが、石居基夫「ルターの『三重の秩序と立場の教え(Drei-Stände-Lehre)』と教会の宣教」が収録されています。内容は、ルターの社会理論の二つの柱の一つ、いわゆる「三機関説」を論じたものです(もう一つの柱は「二王国論」です)。従来、わが国ではほとんど論じられてこなかったテーマであり、貴重な論考です。どうぞお読みください。

〈ご希望の方は、ルーテル学院大学・神学校 後援会事務局 電話0422(31)4611まで。定価2千円+送料。〉

(第7次綜合方策の紹介⑴

事務局長 滝田浩之

 第13回常議員会において、2022年に提案される「第7次綜合方策」についてご紹介をしていくこととなりました。
 これまで綜合方策は、委員会が草案をまとめ教区常議員会、本教会常議員会において整理されて総会に提案されるという段取りで承認されて実行されてきました。組織としては間違っていない手続きだと思います。

 しかし、私たちは今、COVID–19を経験し、キリスト教の歴史上、ある意味では初めて隣人のために公開の礼拝を閉じるという経験をしています。このような経験をしている教会として、総会に提案する前に広く、会員の方に、この内容を周知し、そして意見や思いを分かち合う時間を取ることは有意義なことだと考えます。しばらく「るうてる誌」の紙面をお借りして、その内容についてご紹介して参ります。

はじめに
本文:歴史的背景:過去の方策(第1次〜第6次まで)
 戦後のキリスト教ブームの時代はいずれの教会の礼拝堂も人があふれていた。日本福音ルーテル教会も同様である。その時代に信仰をもった方々の献身的な働き、献財によって今日の教会の基礎が出来たと言って過言ではない。
 1969年のアスマラ宣言によって、私たちの教会は第一予算(個々の教会の財政)の自給に舵を切った。第1次から第4次までこれを実現するために「総体としての自立」を求めて綜合方策が立てられた。この「総体としての自立」は、戦争を経験した教会がそうであったように「生き残れる教会のみが生き残ればよい」というサバイバルではなく、「一つの教会」として総体として自立して宣教することを選び取った。この方策は、日本経済が右肩上がりで進む社会背景に支えられて、特別協力金制度を生み出しながら、教区自給を実現する。
 しかし教会の経済的自給については、ある一定の結果を出しつつ、個々の教会の教勢は思うような成長を果たすことができなかった。そのため第5次にあたる方策「パワーミッション21」は、その目的を明確に個々の教会の教勢の右肩上がりを目指すべく、資産を宣教活動に、いわば本教会に集中し個々の教会の宣教の梃入れを目指した。
 だが、この資産注力を支えてきた海外の教会は2003年、協力教会とのスタンス(姿勢・立場)を歴史的に大きく転換した。それは支援から同伴する関係への変化であった。これにより、すべての会計において海外からの支援は終結し、日本福音ルーテル教会は、ある意味ではすべての面において自給を余儀なくなされることとなった。
 第5次綜合方策の後半から、教会は資金投下による本教会主導の宣教活動の活性化を目指すという方針から転換し、経済的自給を持続的なものにするために本教会宣教活動のスリム化、年金制度の改革を実施することとなった。第6次綜合方策は第5次綜合方策の重要な課題は継承しつつ、特に宗教改革500年事業を中心に様々な取り組みを実施し、ルーテル教会のアイデンティティー(主体性)を改めて確認する役割を果たした。本綜合方策は、この「歴史的背景」を踏まえつつ経済的自給から、一歩進めて、宣教的自立を目指すものである。

解説
 日本福音ルーテル教会は、その教会の自立と自給という決意をした後、第1〜6次まで綜合方策を策定してきました。その時代、その時代に必要な課題を確認してきたのです。
 ここで重要なことは、「第7次綜合方策」は、この歴史の上に立っているという事実です。そして見失ってはならないのは、私たちは福音宣教に絶望していないということです。
 み言葉の説教と聖礼典の執行という、イエスさまから託された、この使命に立つ教会であることを誇りに思いますし、この使命を引き続き果たしたいと考えています。
 この使命を果たすために、今必要なことは何か、これを分かち合うことに綜合方策の意義があるのです。

社会委員会「入管法改悪を考える緊急学習会」報告

小泉基(社会委員会委員長・函館教会牧師)

 4月6日、社会委員会主催の「入管法改悪を考える緊急学習会」が、委員会主催の学習会として、はじめてオンラインで開催されました。出入国管理法の改訂案は、今年の2月に閣議決定され、4月に審議入りするといわれています。この改訂案では、それが3回目以上であれば、難民申請を行っている最中であっても強制送還を可能にし、母国に帰国できない事情を抱えている外国人住民に、強制送還拒否罪を新設するなど、日本で暮らす弱い立場の外国人住民を困窮させ、その希望を打ち砕く内容になっています。委員会では、マイノリティー宣教センターなどが呼びかけた「難民申請者を追放する『出入国管理及び難民認定法』の改悪に反対する教会共同声明」に委員会として賛同するなど、教派を越えた反対運動につらなってきましたが、法案自体についてもさらなる理解を深めようと、この度緊急に学習会を企画しました。学習会では、入管施設の問題性を問うテレビドキュメンタリーをみんなで視聴した後、改訂案の問題点を学び、それぞれが置かれた立場からの感想を出しあって意見交換をしました。さらに学びを深めたいという参加者の声に応えて、委員会では5月中にも2回目の学習会を計画しています。今回は、緊急開催ということで充分な案内も出来ないままでしたから、次回はもう少し多くの人に参加していただけるよう、丁寧な呼びかけを行っていきたいと思います。

青年の青年による青年のための、全国ルーテル青年オンライン合宿が開催されました!!

森一樹(市ヶ谷教会)

 全国のルーテル教会に集う35歳以下の青年を対象とした青年合宿が、2021年2月26~27日にオンラインにて開催され、全教区から、また国を超えて、さらには教派も超えて、総勢50名が参加しました。

 合宿のテーマは『No Youth, No Church』。「青年」と「教会」をテーマに、1日目には石居基夫先生をお招きし聖書が語る教会やその歴史、またルターの教会論についてお話しして頂き、2日目には社会でご活躍される信徒の方をお迎えし、「社会で働きながら教会につながること」について証をして頂きました。また、会の終わりには教勢報告書に基づく様々な数字からルーテル教会の「今」を概観し、未来の教会について青年で考えるひとときを持ちました。この合宿を通して、青年が神様との関係を振り返り、教会活動により一層つながるきっかけとなれば幸いです。以下、参加者からの感想を掲載致します。

 私は今回初めて全国の教会青年との関わりを持ちました。