DOCUMENTS
ダウンロード
アクセス権のあるタイトルのみ表示されています。
ファイル名をクリックしてダウンロードしてください。
日付 | 文書タイトル | ダウンロード |
---|---|---|
24-12-01 | るうてる2024年12月号 |
「主を待つ」日本福音ルーテル小岩教会牧師 内藤文子「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。」ルカによる福音書21・27 待降節(アドベント)となりました。これからしばらくの間、私たちはクリスマスまで、主を待ち望む期間を過ごします。アドベントは主の「到来」を待ち望むことを意味しています。ろうそくが準備され、1本ずつ点火されてゆきます。4本全部に点火されれば、まもなくクリスマスです。聖壇の掛け布は「紫色」です。「紫」は、悔い改めとざんげのしるしです。一年でもう一回だけ「紫」の期間があります。それは、「四旬節(受難節と以前呼んでいました)」です。それはイエスさまの苦難と十字架の死を忍び、節制した生活を心がけ「復活」の喜びを待ちながら過ごす期間です。その期間と同じように、神のみ子がこの世に誕生してくださるクリスマスの喜びにあずかるために、私たちもアドベントの期間、心からの悔い改めとざんげを持って、忍耐し節制して待つ時です。そして、大きな喜びをクリスマスにいただくのです。 私たちの生活の中で、「待つ」「待ちなさい」と言われるとき、現代の状況はどうでしょう。何かを待たねばならなくなったとき、その時をじっくり待つことができるでしょうか?情報伝達の手段が発達し、何でも知りたいことは調べればあっという間に分かる。相手の情報も、携帯電話で即、わかる。「答えが早く知りたい」と思えば、待つことができず、進むことができます。どちらかと言えば、「待てなくなっている」のが私たちかもしれません。 高校生の頃から教会に行きだした私は、「クリスマス」の時季が大好きでした。青年会で歌うキャロリングの時、あの喜びは教会でしか味わえない最高のものでした。しかし、クリスマスまでの「アドベント」の時があるのを知り、心はクリスマスの時まで、静かな静寂な時間を送ることになりました。対照的に町は、どんどん激しくにぎやかになっていきます。静かな祈りの時を待って、主イエスが今、お出で下さる意味を思います。それは私の日頃の心の「悩みや不安、悪との闘い」があり、イエスさまとそのみ言葉に日々助けられてここまで歩むことができた。自分の力ではどうしようもないとき、「身を起こして頭を上げて」(ルカによる福音書21・28)恐れずに、やがて世の終わりに到来なさるイエスさまを、希望をもって見上げるのです。 待降節(アドベント)のはじめに、本日の聖書で、イエス・キリストが王として到来することを望む聖書の箇所が示されています。「やがて来られるキリスト(再臨の主)」に目を注ぐことは「すでに来られた方(イエスさま)」へと私たちの目を向けさせ、クリスマスに備える心を起こさせます。教会暦の中で「世の終わり」について語られることはあまり多くはありません。話題となった「カルト」はセンセーショナルに終末の危機意識をあおります。それで伝統的な教会は終末にふれることをどちらかといえば、言い控える傾向もあります。世の終わりがいつ来るのかは分かりません。(マルコによる福音書13・32) 大切なのは、「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」(コリントの信徒への手紙二6・2)として、「今」が私たちに残され示されている「救いの時」であるということです。「十字架の救い」にあずかることです。 クリスマスに、主はまずへりくだった方としてご自分を低くして来られ、だれもが近づき触れることのできる「赤ちゃん」としてこの世に来られました。それがクリスマスです。 エッセイ「命のことば」 伊藤早奈(57)「いつも」「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者を愛します。」ヨハネの手紙一5・1 あれ、なんで記念日じゃないのかしら。二千年以上も前のことなのに。12・25なんてほとんど言われません。少なくとも私は一度も聞いたことがありません。なのに1・17とか3・11とか9・11とかすぐにわかる人は何人おられるでしょう。お一人お一人が持つ魂がえぐられるような経験をされたであろう忘れられない日が記念日として記されることが多いように思います。それらは苦しみや悲しみのあった日も多いように思いますが、結婚記念日のようにうれしく緊張した日もあるような気もします。 でもほとんどは苦しみや悲しみが突然降りかかった日が多いのではないのではないでしょうか?7・19と4・17などこのような記念日は分かりますか?きっと同じ日につらい思いをされた方々やうれしい経験をされた方々に逆に「なんでご存じなんですか?」と聞かれてしまいそうですが、違います。 これらは私の心の記念日です。魂をえぐられるような経験をした忘れられない日です。記念日はお一人お一人の心に、過去にあった経験の忘れられない日として刻まれます。 クリスマスは記念日ではありません。記念日であっても過去にとどまらないで今も生きて働いておられるチカラです。あなたはクリスマスに何を思いますか?大切な人たちを思い浮かべたり、何かできないかといろいろ考えたり、何かをしたからではなくて今誰かを思い起こす日。イエス様が生きて働かれておられることを思い起こす日です。イエス様が働かれる日は特別な日だけでなくいつもです。 「全国の教会・施設から」⑲日本福音ルーテル羽村教会 筑田仁(日本福音ルーテル羽村教会・八王子教会牧師・ルーテル羽村幼稚園チャプレン) 羽村教会の宣教の始まりはいわゆる農村伝道から始まる。この緑豊かな羽村での宣教は、1947年、スタイワルト宣教師、青山四郎牧師による西多摩郡羽村741中野方での集会から始まる。所属は神学校教会(現在のむさしの教会)であった。定期的な集会から、青山牧師が羽村に来て定期的に夕礼拝が行われるようになった。1949年に神学校教会の伝道所になり、2年後の1951年宗教法人を取得した。1952年、教会堂と牧師館の建設が行われ、献堂式が行われている。その時の機関紙「るうてる」にはこのように報告されている。『関東地方唯一の農村教会としてその将来の発展が注目された』と。また、1953年、教会を農繁期託児所として開放して、後のルーテル羽村幼稚園がその歩みを始めている。その後の幼稚園と教会の発展は、ある意味、農村伝道の結実とも言えるであろう。 愛泉保育園 木村麻紀(愛泉保育園園長) 愛泉保育園の歩みは、1952年に清原清喜氏(合志教会初代代議員)がささげられた土地に室園教会の伝道所として合志教会が建てられ、平日の会堂を使って保育を始めたのが始まりです。1953年に慈愛園の協力により宗教法人の保育園として認可を受けました。「愛泉保育園」の名前の由来は、吉崎モトエ初代園長が聖書の言葉「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハネによる福音書4・14)に基づいています。 改・宣教室から永吉秀人総会議長(日本福音ルーテル東京池袋教会牧師)「サンタクロースの部屋」とキャパシティ クリスマスの時期になると毎年思い出す話があります。児童文学者であり翻訳家である松岡享子さんが1973年の朝日新聞に寄稿された「サンタクロースの部屋」というエッセーです。以下、松岡さんの原文の一部を引用します。 世界の教会の声浅野直樹Sr.(世界宣教主事 市ヶ谷教会牧師)AIDA(国際開発機関協会)は残虐行為を非難し、即時停戦を求める 昨年10月7日にハマスがイスラエルを襲撃しました。すると今度はイスラエルがガザ地区に報復するという「破壊的な1年」が過ぎ、世界から非難の声があがっています。「世界が行動を起こすのに遅過ぎはしない」。世界ルーテル連盟(LWF)は、国際的な組織AIDAに参加してこう呼びかけています。 声明は「非難の声をあげるだけではむなしく、国際法の原則は弱体化し無視され続けるだろう」と警告、占領の終結と恒久的な和平に向けて世界がただちに行動を起こすことを呼びかけています。 日本賛美歌学会大会参加報告小澤周平(日本福音ルーテル千葉教会・津田沼教会牧師) 魂の賛美、圧巻の歌声。10月26日、日本福音ルーテル東京教会を会場に日本賛美歌学会第24回大会が開催されました(実行委員長は宮越俊光副会長)。日本福音ルーテル教会は協賛として協力しました。北は北海道から西は中国・四国までの各支部から超教派の学会員が集まり、さらに、ルーテル教会関係の一般参加者も加わって、全体で71名が参加する盛会となりました。 ルーテル『聖書日課』読者の集い開催報告乾和雄(日本福音ルーテル神戸東教会嘱託牧師) 10月21日(月)~22日(火)の1泊2日、神戸しあわせの村にて48名の参加者が与えられ、「ルーテル『聖書日課』読者の集い」が開催されました。講師は神戸ルーテル神学校の正木うらら先生で、「聖書の中の女性たち~ディアコニアに生かされる~」のテーマで、とてもわかりやすくご講義をいただきました。またご講義の途中で小さなグループに分かれ、参加者のそれぞれが、これまでの人生を振り返りながら、どのような場面で、どのようなディアコニアに生かされてきたのかなどの証しを互いに語り合いました。 熊本地区「宗教改革記念音楽会~歌うルターの”再発見“」開催報告崔大凡(日本福音ルーテル室園教会牧師・九州ルーテル学院大学チャプレン) 熊本地区合同の宗教改革記念行事が今年は音楽会として行われました。宗教改革時代の最初期の賛美歌集『エアフルト・エンキリディオン』出版から今年がちょうど500年目となったことを祝い、そこに収録されていた曲のいくつかを学び、一緒に歌って聴く集会として、2024年10月27日午後2時、ルーテル学院中学・高校の礼拝堂を会場に行われました。 東教区・宗教改革日礼拝の報告内藤新吾(日本福音ルーテル稔台教会牧師・東教区伝道奉仕部長︶ 東教区では宗教改革日礼拝を10月31日の夜に持ちました。今年は二部構成としました。第一部は聖餐式礼拝で、説教をルーテル学院大学学長の石居基夫牧師に奉仕いただきました。第二部は「これからの教会に願うこと」というテーマで、9月まで日本ルーテル神学校校長の任を務められた立山忠浩牧師に発題いただき、リアクター2名、会場との応答もありました。99名参加で、コロナ禍以来、久しぶりに大勢が集われたように感じます。 第32回 春の全国ティーンズキャンプ開催今回は宮崎県で農作業をして、 〈テーマ〉 「日ごとの糧」 【同時募集】 スタッフ募集 |
24-12-01 | 主を待つ | 「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。」 待降節(アドベント)となりました。これからしばらくの間、私たちはクリスマスまで、主を待ち望む期間を過ごします。アドベントは主の「到来」を待ち望むことを意味しています。ろうそくが準備され、1本ずつ点火されてゆきます。4本全部に点火されれば、まもなくクリスマスです。聖壇の掛け布は「紫色」です。「紫」は、悔い改めとざんげのしるしです。一年でもう一回だけ「紫」の期間があります。それは、「四旬節(受難節と以前呼んでいました)」です。それはイエスさまの苦難と十字架の死を忍び、節制した生活を心がけ「復活」の喜びを待ちながら過ごす期間です。その期間と同じように、神のみ子がこの世に誕生してくださるクリスマスの喜びにあずかるために、私たちもアドベントの期間、心からの悔い改めとざんげを持って、忍耐し節制して待つ時です。そして、大きな喜びをクリスマスにいただくのです。 私たちの生活の中で、「待つ」「待ちなさい」と言われるとき、現代の状況はどうでしょう。何かを待たねばならなくなったとき、その時をじっくり待つことができるでしょうか?情報伝達の手段が発達し、何でも知りたいことは調べればあっという間に分かる。相手の情報も、携帯電話で即、わかる。「答えが早く知りたい」と思えば、待つことができず、進むことができます。どちらかと言えば、「待てなくなっている」のが私たちかもしれません。 高校生の頃から教会に行きだした私は、「クリスマス」の時季が大好きでした。青年会で歌うキャロリングの時、あの喜びは教会でしか味わえない最高のものでした。しかし、クリスマスまでの「アドベント」の時があるのを知り、心はクリスマスの時まで、静かな静寂な時間を送ることになりました。対照的に町は、どんどん激しくにぎやかになっていきます。静かな祈りの時を待って、主イエスが今、お出で下さる意味を思います。それは私の日頃の心の「悩みや不安、悪との闘い」があり、イエスさまとそのみ言葉に日々助けられてここまで歩むことができた。自分の力ではどうしようもないとき、「身を起こして頭を上げて」(ルカによる福音書21・28)恐れずに、やがて世の終わりに到来なさるイエスさまを、希望をもって見上げるのです。 待降節(アドベント)のはじめに、本日の聖書で、イエス・キリストが王として到来することを望む聖書の箇所が示されています。「やがて来られるキリスト(再臨の主)」に目を注ぐことは「すでに来られた方(イエスさま)」へと私たちの目を向けさせ、クリスマスに備える心を起こさせます。教会暦の中で「世の終わり」について語られることはあまり多くはありません。話題となった「カルト」はセンセーショナルに終末の危機意識をあおります。それで伝統的な教会は終末にふれることをどちらかといえば、言い控える傾向もあります。世の終わりがいつ来るのかは分かりません。(マルコによる福音書13・32) 大切なのは、「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」(コリントの信徒への手紙二6・2)として、「今」が私たちに残され示されている「救いの時」であるということです。「十字架の救い」にあずかることです。 クリスマスに、主はまずへりくだった方としてご自分を低くして来られ、だれもが近づき触れることのできる「赤ちゃん」としてこの世に来られました。それがクリスマスです。 羊飼いたちの礼拝 1529‒1530年頃 |
24-11-01 | るうてる2024年11月号 |
「涙ぬぐわれる日」日本福音ルーテル神戸教会牧師 神﨑伸「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。」ヨハネの黙示録 21・3c~4 全聖徒主日。この日には会堂での礼拝後、私ども神戸教会の記念墓地に赴き、祈りを献げるのですが、そのときに、いつも私が静かな感動を覚えるのは、墓石に刻まれている信仰の言葉です。「われら 主に ゆだねる」。そして、ヨハネによる福音書第11章の主イエスの約束、「わたしが復活である。このわたしが命なのだ。だから、わたしを信じる者は、死んでも生きる。あなたを生かすのは、このわたしなのだ…!」。このようなみ言葉を想い起こし、信じさせていただきながら、教会の仲間を覚え祈ることができるというのは、まことに幸いなことだと思う。 しかもそこで忘れてはならないのは、「わたしは復活!」というこのみ言葉を、主イエスもまた涙を流されながらお語りになったということです。今日、黙示録を書いたヨハネは、福音書を書いたヨハネとは別人であると見られていますが、「神がわれわれの涙をことごとくぬぐってくださる」と書いたときに、その神ご自身に他ならないイエスが涙を流されたという事実を忘れてはいなかったと、私は信じています(ヨハネによる福音書 11・35)。 愛する礼拝共同体、神の家族の皆さん! 私どもの信じる主イエスというお方は、実は誰よりも死の恐れを、愛する者を失い墓の前で涙する悲しみを、このお方は知っておられました。「わたしが、甦りなのだ。わたしが、命なのだ。」それは決して、悟りきった者の言葉ではなかったのであります。 ヘブライ人への手紙第5章7節は、「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ……」と書いています。十字架につけられたそのお方を、父なる神は死人の中から甦らせてくださいました。それは言い換えれば、主イエスご自身が、父なる神に涙をぬぐっていただいたということでしかなかったのです。その意味において、主イエスの復活というのは、永遠の重みを持つ出来事であると言わなければなりません。私どもすべての者の涙をことごとくぬぐい取る、そういう力を持つ出来事であったのです。 あのラザロを墓から呼び起こし、マルタとマリアの涙をぬぐい取ってくださったお方、神ご自身にほかならないお方の頬を濡らした涙は ―このわたしのための涙であったと信じます。あの姉妹の涙をぬぐってくださった主イエスのわざは、たまたま一度だけ起こった、単なるかりそめの出来事であり、昔々ひとりの人が死刑にされて、けれども墓の中から復活したという不思議なことが起こったらしい、などということでは決してなく―今、ここで流れるわたしの涙をぬぐってくださるお方が生きておられるからこそ、救いであり、慰めであるのだと! 「わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである」(ヨハネの黙示録21章6節)。そうです、神を信じるとは、言い換えれば、過去のことも現在のことも、そして将来のことも永遠に亘って神がすべての支配者でいてくださる、と信じることです。しかも、その神の永遠のご支配が、あのイエスというひとりのお方によって啓き示されたのだ、と。「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる」。 神ご自身のみ声を聞きながら、ヨハネはここで、自分たちの涙をぬぐい取ってくださる、神のみ手の感触すら思い浮かべたに違いない。神は、このようなお方なのだ。あの主イエスのお姿を見れば、分かるだろう? 悪魔が世界を支配しているのではない! 黙示録の表現で言うならば、獣の支配がどんなに力を持っているように見えたとしても、「アルファであり、オメガである、初めであり、かつ終わりである」神のご支配だけが、最初から最後まで、永遠にわたって貫かれるのだ―最後の最後に、すべてを完成させてくださる神を信じるなら、たとえどんな涙を流すことがあったとしても、望みをもって待ち、立ち続けることができるのだ、と。アーメン。 エッセイ「命のことば」 伊藤早奈(56)「あなたを信じています」「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵の善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。」ペトロの手紙一4・10 私だけじゃないんだ。そのような思いを改めて私に抱かせてくれたのは、いろいろな方との出会いがきっかけでした。私も数えたらまあまあな経験を重ねています。今もつらいのは患っている進行性の難病で、できていたことがどんどんゆっくりとできなくなることです。 「全国の教会・施設から」⑱日本福音ルーテル三鷹教会 山根洋子(日本福音ルーテル三鷹教会代議員) 三鷹教会はルーテル学院大学・日本ルーテル神学校のチャペルで礼拝を守る、JELCでは唯一教会堂を持たない第1種教会です。キャンパス内にあるので大学・神学校を身近に感じることができます。 愛泉保育園 木村麻紀(愛泉保育園園長) 市ヶ谷教会は、1952年6月のヌーディング宣教師宅での主日礼拝をもって産声をあげました。日本福音ルーテル教会が学生伝道を展開すべく、1953年5月に市谷砂土原町に東京学生センターが完成すると、市ヶ谷教会もここを拠点として本格的な宣教活動が始まりました。今年宣教72年を迎えています。 改・宣教室から小泉基宣教室長(日本福音ルーテル札幌教会牧師)
|
24-10-31 | 神の国はこのような者たちのものである | 「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。」 全聖徒主日。この日には会堂での礼拝後、私ども神戸教会の記念墓地に赴き、祈りを献げるのですが、そのときに、いつも私が静かな感動を覚えるのは、墓石に刻まれている信仰の言葉です。「われら 主に ゆだねる」。そして、ヨハネによる福音書第11章の主イエスの約束、「わたしが復活である。このわたしが命なのだ。だから、わたしを信じる者は、死んでも生きる。あなたを生かすのは、このわたしなのだ…!」。このようなみ言葉を想い起こし、信じさせていただきながら、教会の仲間を覚え祈ることができるというのは、まことに幸いなことだと思う。 しかもそこで忘れてはならないのは、「わたしは復活!」というこのみ言葉を、主イエスもまた涙を流されながらお語りになったということです。今日、黙示録を書いたヨハネは、福音書を書いたヨハネとは別人であると見られていますが、「神がわれわれの涙をことごとくぬぐってくださる」と書いたときに、その神ご自身に他ならないイエスが涙を流されたという事実を忘れてはいなかったと、私は信じています(ヨハネによる福音書 11・35)。 愛する礼拝共同体、神の家族の皆さん! 私どもの信じる主イエスというお方は、実は誰よりも死の恐れを、愛する者を失い墓の前で涙する悲しみを、このお方は知っておられました。「わたしが、甦りなのだ。わたしが、命なのだ。」それは決して、悟りきった者の言葉ではなかったのであります。 ヘブライ人への手紙第5章7節は、「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ……」と書いています。十字架につけられたそのお方を、父なる神は死人の中から甦らせてくださいました。それは言い換えれば、主イエスご自身が、父なる神に涙をぬぐっていただいたということでしかなかったのです。その意味において、主イエスの復活というのは、永遠の重みを持つ出来事であると言わなければなりません。私どもすべての者の涙をことごとくぬぐい取る、そういう力を持つ出来事であったのです。 あのラザロを墓から呼び起こし、マルタとマリアの涙をぬぐい取ってくださったお方、神ご自身にほかならないお方の頬を濡らした涙は ―このわたしのための涙であったと信じます。あの姉妹の涙をぬぐってくださった主イエスのわざは、たまたま一度だけ起こった、単なるかりそめの出来事であり、昔々ひとりの人が死刑にされて、けれども墓の中から復活したという不思議なことが起こったらしい、などということでは決してなく―今、ここで流れるわたしの涙をぬぐってくださるお方が生きておられるからこそ、救いであり、慰めであるのだと! 「わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである」(ヨハネの黙示録21章6節)。そうです、神を信じるとは、言い換えれば、過去のことも現在のことも、そして将来のことも永遠に亘って神がすべての支配者でいてくださる、と信じることです。しかも、その神の永遠のご支配が、あのイエスというひとりのお方によって啓き示されたのだ、と。「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる」。 神ご自身のみ声を聞きながら、ヨハネはここで、自分たちの涙をぬぐい取ってくださる、神のみ手の感触すら思い浮かべたに違いない。神は、このようなお方なのだ。あの主イエスのお姿を見れば、分かるだろう? 悪魔が世界を支配しているのではない! 黙示録の表現で言うならば、獣の支配がどんなに力を持っているように見えたとしても、「アルファであり、オメガである、初めであり、かつ終わりである」神のご支配だけが、最初から最後まで、永遠にわたって貫かれるのだ―最後の最後に、すべてを完成させてくださる神を信じるなら、たとえどんな涙を流すことがあったとしても、望みをもって待ち、立ち続けることができるのだ、と。アーメン。 イエス・キリストの復活 |
24-10-01 | 神の国はこのような者たちのものである |
「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。」 今年は世界的にはウクライナ情勢やイスラエル・パレスチナでの対立、個人的には久々に広島での「こどもキャンプ」にスタッフとして参加するなど、改めて平和について考え、向き合うことが多かったように思います。 子どもを祝福するキリスト ニコラエス・マース作・油絵・1653年制作・ナショナルギャラリー蔵 |
24-10-01 | るうてる2024年10月号 |
「神の国はこのような者たちのものである」日本福音ルーテル博多教会・福岡西教会・二日市教会牧師 池谷考史「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。」 今年は世界的にはウクライナ情勢やイスラエル・パレスチナでの対立、個人的には久々に広島での「こどもキャンプ」にスタッフとして参加するなど、改めて平和について考え、向き合うことが多かったように思います。 エッセイ「命のことば」 伊藤早奈(55)「また明日」「単に人間的な動機からエフェソで野獣と闘ったとしたら、わたしに何の得があったでしょう。もし、死者が復活しないとしたら、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」ということになります。」コリントの信徒への手紙一15・32 「また明日」と知人に言われびっくりしてしまいました。ちょっと前までは自分でも何も考えないで友達や知人と別れるときに言っていました。希望の言葉として。「また明日会おうね」という気持ちでした。 「全国の教会・施設から」⑰清泉保育園 古閑雅子(清泉保育園園長) 「わかばをゆすってみどりの風が部屋いっぱい広がって朝のお祈りいたします。すてきな今日をありがとう」という子どもたちと先生の元気で明るい賛美歌の歌声が今日も響きわたります。 日本福音ルーテル
|
24-09-01 | るうてる2024年09月号 |
「何のために、手を洗う?」日本福音ルーテルシオン教会・西宮教会牧師 水原一郎「ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。」マルコによる福音書7・1 「夏休み 休めていません 父と母」。子どものころは疎ましかった9月1日が、今は甘美に響きます。高1を筆頭に、中1、小4、小2、年長のわが家の子どもたちは、全力で夏休みを過ごしました。早朝こそ、ラジオ体操組と朝寝組に分かれますが、朝食後は「心と精神と力を尽くし」、炎天下で部活や昆虫採集、部屋遊び。宿題への努力は「からし種」一粒。ひと夏で米一俵(60㎏)が無くなる台所。それが夏休みの日常でした。シオン教会では、四つの礼拝所があります。毎週、土曜昼からは山口県の柳井礼拝所、日曜は徳山と防府、火曜夜は島根県六日市の主日礼拝です。県を離れることはなかなか難しいですが、山口・島根県では夏休み期間中も特別に、河川プール、山と海、磯の利用を無料としています。夏空や星座も見放題、朝の新鮮な空気も吸い放題です。山口県、島根県、一度、いかがですか。 さて、話は少し変わります。夏の期間も右記の出入りがありましたので、家では帰宅時には手洗いを義務としています。唐突に硬い表現を記しますが、衛生規定は集団生活を維持するために、欠かせません。「みんなを守るため、手洗いをする」のです。この日の聖書の背景である「衛生規定」も、初出は「荒野の40年」と言えます。この日の「食前の手洗い/食器・祭儀用の器の洗浄(3節)」は、原型は出エジプト30章17節からと見ています。祭儀を担当する人々のための規定です。しかし問題は何か。出エジプト記記載の規定を尊重しつつ、規定から派生した「昔の人の言い伝え(3節)」を、聖書と同等の拘束性を持つものと見なした、ということです。 今日の聖書の結びで主イエスは、「無にされた神の言葉(13節)」と話されています。主イエスがこの時言われた「神の言葉」は、エルサレムから来た律法学者たちの実情(3~4節)と指摘点(5節)から考えれば、「出エジプトの事柄」である神の導きの「出来事、事柄」でしょう。それが無にされたと主は言われます。出エジプトの出来事の骨子は、神からの守りを信じ、相互に配慮することです。言い方を替えれば、神の前に心を開き、他者を隣人として生きることです。しかし彼ら律法学者は、根本を見失い、「言い伝え」を典拠として自動的に「洗わない手は宗教的な汚れ」と見なすのです。具体的に律法学者は、エルサレムから遠路、数人がかりで直線距離約100㎞のゲネサレト(6章53節)を訪れます。彼らはさらに、ゲネサレト地域内の主と弟子たちの居宅を探し、そこを訪れ、規定違反を見止め、告発するのです。律法学者のそのような姿勢、生き方、語る内容が、出エジプトを導いた神の愛を見失っていることを主は語ります。 そもそも主イエスはこの時、ガリラヤ湖西岸地域の町村を回り、み言葉を伝える働きをなさっていました。その働きの内実は、「みんなを守るため、あなたは生きる」ことの告知でした。表現の順番を替えれば、「あなたが生きていることは、みんなのためになる」「あなたのいのちは、隣人の喜びとなる」ということを主は伝えたのです。もちろん、主は対話や状況を踏まえて、さまざまな形でそのことを伝えたのです。今日の聖書には明確に登場しませんが、直後の聖書箇所に登場する「異邦人」と呼称された方々、直前、直後の「病という状況にある方」にとっては、主イエスの言葉は、何よりも助けになったことと察します。 このみ言葉から私たちが覚えたいことは三つ。一つ目は、諸所を巡られた主イエスは、今日もまた、あなたを訪れて下さるということ。二つ目は、困難な「荒野の40年」の旅路を導いた神のみ手が、今日もまた、あなたと共にあるということ。三つ目は、既にあなたは、誰かの隣人なのです。残暑の折、そのことを覚えたいと思います。 エッセイ「命のことば」 伊藤早奈(54)「与えられているから」「御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」ヨハネによる福音書3・36 私はなんでここにいるのだろう?ふと誰かに聞きたくなるときがありませんか?私にはあります。自分が生まれてくる時代や親や家族や兄弟の順番も性別も選べません。そういえば昔なにかのSF小説に特殊な能力と記憶を持つ子として語られているのを読みました。そのようなことではなく私たちは生まれる国も環境も選べません。たとえ自分が選んで働いていると思っていても病気になったり災害に遭ったりいろいろです。私もこのような高温でしかも世界中で病気がはやる現代に生きているとは思いませんでした。 「全国の教会・施設から」⑮甘木聖和幼稚園 熊本敦子(甘木聖和幼稚園園長) 1948年に甘木教会に着任された藤田武春牧師がロイド・ネイヴィー宣教師とともに保育園・幼稚園の教育事業を始められ、1952年にネイヴィー宣教師の妻マリエルさんの大きな働きによって小郡市松崎の集会所に松崎保育園を開設。翌年に教会敷地内に甘木聖和幼稚園を開設され初代園長になったと創立90周年誌に記録されています。地域の多くのキリストを信じる方々のあつい思いと祈りが幼稚園開設にあたってはささげられ、認可申請を受けるための行動力が結集されたと伝え聞いています。神様がその方々の祈りを聴いて下さり、今日まで幼稚園を続けさせて下さっていることは本当に驚くべき神様の御業だと思います。 日善幼稚園 西川晶子(日善幼稚園チャプレン・日本福音ルーテル久留米教会・田主丸教会・大牟田教会・阿久根教会牧師) 日善幼稚園は、1913年(大正2年)、現在の所在地に近い久留米市小頭町のルーテル教会講義所内での「幼稚会」からその働きが始まり、1915年、現在地で正式に幼稚園として開園されてから、来年創立110周年を迎えます。 東京教会 神の愛の掟と共に歩む 浅川剛毅 イエスキリストが私達人類に贈られた御言葉、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」(ヨハネによる福音書15・12)愛の本質については使徒パウロによって伝えられた「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」(コリントの信徒への手紙一13・4~7) 祝500年。 さあ、賛美しよう!小澤周平(日本福音ルーテル教会典礼委員・日本福音ルーテル千葉教会・津田沼教会牧師)「主に向かって喜び歌おう。」(詩編95編1節) 世界の教会の声浅野直樹Sr.(世界宣教主事 市ヶ谷教会・スオミ教会牧師)イスラム家庭のルーテル信徒 アメリカ福音ルーテル教会(ELCA)のカディア・イスラムさんは、母親がルーテル教会の信徒、父親がイスラム教徒という環境で育ちました。20代前半にELCAの青年プログラムに参加、牧師家庭にホームステイしながらルワンダで1年間ボランティア活動をしました。こうした境遇と経験が、彼女のその後の人生に大きな意味をもつことになり、宗教についての視野が広がりました。帰国後、特別支援が必要なこどものケアラーとして2年間働き、今後は新たにELCAの難民と亡命希望者の支援活動をする予定です。 ■ご家族の宗教について教えてください。 「母はノルウェー系のルーテル教会員です。父は18歳のときバングラデシュからやって来た移民です。私はイスラム教徒として育ちましたが、母と私が教会へ行くことを父は「どちらもアブラハムの信仰だから」と、快く受け入れてくれました。教会から帰ると、私が教会学校で教わった同じ話を、今度は父がムスリムの立場から話してくれました。 ■お父様は熱心なイスラム教徒ですか? 「とても熱心です。ただ移民ということもあって、地域に溶け込むのに苦労しました。家ではイスラムのしきたりに従って、家族は豚肉を食べませんでした。またイスラム教の祭事やラマダンの断食を守りました。そうした環境で育ったことが私の宗教観を広めたといえます。」 ■家庭環境は自身のルター派としての信仰に影響しましたか。 「他宗教に対する謙遜と尊敬の念を学んだ気がします。私の行動はキリストの犠牲という私の信仰に基づいていて、それへの応答として私は神様に招かれていると思っていますが、他宗教の方たちも方法が異なっているだけで、同じように招かれているのだと思えるようになりました。他宗教が混在するという現実には豊かさと美しさがあります。私たちが多宗教に対していかに敬意をもてるかが大切です。」 ■今後ELCAが関わるGlobal Refugeで難民支援をするわけですが、現在の政治状況を考えると大きなチャレンジになりそうですね。 「まさにそうです。グローバルノース(北半球諸国)の人たちは、追いやられた人々をどう支援していくかがよく分かっていなくて、そのことに対する責任感が足りないように思います。アメリカの移民政策は複雑です。厳しい状況にある人たちは、亡命申請するにあたってまずそのことを認識しなければなりません。Global Refugeは、彼らに対してより公正な対応ができるよう努めています。」 改・宣教室から小泉基宣教室長(日本福音ルーテル札幌教会牧師)
|
24-09-01 | 「何のために、手を洗う?」 |
「ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。」マルコによる福音書7・1 「夏休み 休めていません 父と母」。子どものころは疎ましかった9月1日が、今は甘美に響きます。高1を筆頭に、中1、小4、小2、年長のわが家の子どもたちは、全力で夏休みを過ごしました。早朝こそ、ラジオ体操組と朝寝組に分かれますが、朝食後は「心と精神と力を尽くし」、炎天下で部活や昆虫採集、部屋遊び。宿題への努力は「からし種」一粒。ひと夏で米一俵(60㎏)が無くなる台所。それが夏休みの日常でした。シオン教会では、四つの礼拝所があります。毎週、土曜昼からは山口県の柳井礼拝所、日曜は徳山と防府、火曜夜は島根県六日市の主日礼拝です。県を離れることはなかなか難しいですが、山口・島根県では夏休み期間中も特別に、河川プール、山と海、磯の利用を無料としています。夏空や星座も見放題、朝の新鮮な空気も吸い放題です。山口県、島根県、一度、いかがですか。 さて、話は少し変わります。夏の期間も右記の出入りがありましたので、家では帰宅時には手洗いを義務としています。唐突に硬い表現を記しますが、衛生規定は集団生活を維持するために、欠かせません。「みんなを守るため、手洗いをする」のです。この日の聖書の背景である「衛生規定」も、初出は「荒野の40年」と言えます。この日の「食前の手洗い/食器・祭儀用の器の洗浄(3節)」は、原型は出エジプト30章17節からと見ています。祭儀を担当する人々のための規定です。しかし問題は何か。出エジプト記記載の規定を尊重しつつ、規定から派生した「昔の人の言い伝え(3節)」を、聖書と同等の拘束性を持つものと見なした、ということです。 今日の聖書の結びで主イエスは、「無にされた神の言葉(13節)」と話されています。主イエスがこの時言われた「神の言葉」は、エルサレムから来た律法学者たちの実情(3~4節)と指摘点(5節)から考えれば、「出エジプトの事柄」である神の導きの「出来事、事柄」でしょう。それが無にされたと主は言われます。出エジプトの出来事の骨子は、神からの守りを信じ、相互に配慮することです。言い方を替えれば、神の前に心を開き、他者を隣人として生きることです。しかし彼ら律法学者は、根本を見失い、「言い伝え」を典拠として自動的に「洗わない手は宗教的な汚れ」と見なすのです。具体的に律法学者は、エルサレムから遠路、数人がかりで直線距離約100㎞のゲネサレト(6章53節)を訪れます。彼らはさらに、ゲネサレト地域内の主と弟子たちの居宅を探し、そこを訪れ、規定違反を見止め、告発するのです。律法学者のそのような姿勢、生き方、語る内容が、出エジプトを導いた神の愛を見失っていることを主は語ります。 そもそも主イエスはこの時、ガリラヤ湖西岸地域の町村を回り、み言葉を伝える働きをなさっていました。その働きの内実は、「みんなを守るため、あなたは生きる」ことの告知でした。表現の順番を替えれば、「あなたが生きていることは、みんなのためになる」「あなたのいのちは、隣人の喜びとなる」ということを主は伝えたのです。もちろん、主は対話や状況を踏まえて、さまざまな形でそのことを伝えたのです。今日の聖書には明確に登場しませんが、直後の聖書箇所に登場する「異邦人」と呼称された方々、直前、直後の「病という状況にある方」にとっては、主イエスの言葉は、何よりも助けになったことと察します。 このみ言葉から私たちが覚えたいことは三つ。一つ目は、諸所を巡られた主イエスは、今日もまた、あなたを訪れて下さるということ。二つ目は、困難な「荒野の40年」の旅路を導いた神のみ手が、今日もまた、あなたと共にあるということ。三つ目は、既にあなたは、誰かの隣人なのです。残暑の折、そのことを覚えたいと思います。 Sieben Werke der Barmherzigkeit フランス・フランケン (1581–1642) |
24-08-01 | るうてる2024年08月号 |
「わたしたちはキリストの体」日本福音ルーテルみのり教会・岡崎教会牧師 三浦慎里子「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。」 (エフェソの信徒への手紙4・16) この春神学校を卒業し、牧師としてみのり教会と岡崎教会に着任してから、3カ月が経ちました(執筆当時)。豊橋市の牧師館に住みながら、田原市、岡崎市にある各礼拝堂にも行き来する日々を送っています。初めての経験に戸惑いを覚えたり、やる気が空回りして失敗したりすることもありますが、教会員の皆さんに助けていただき、徐々に慣れていっているところです。だいぶ前のことになりますが、私が初めて就職をした最初の新卒時代にも、やはり戸惑ったり、空回ったりしていたことを覚えています。あの頃に比べればかなりずぶとくなったものの、2度目の新卒時代を与えられて初心にかえることができるのは、とても嬉しく有難いことです。 エッセイ「命のことば」 伊藤早奈(53)「今を」「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。」(ローマの信徒への手紙14・7) 「自分の過去に嫉妬するときがあるんだ。」このような言葉を聞きました。その人は過去の記憶を思い出すことができにくい記憶喪失に苦しんでいました。自分はいったい何者なのか。どういう人間なのだろうか。そのようなその人に周りの人たちは「あなたはこんな人だったよ」とか「こんなことをしていたんだよ」とか良いことばかり言ってくれます。昔の自分はこんなに良かったからいろいろな人に受け入れられてすごい。じゃあ今の自分は?誰か今の自分を評価してほしい。そのような人は今の仕事の評価を受けて徐々に自分を取り戻していきます。 「全国の教会・施設から」⑮日本福音ルーテル東京池袋教会 永吉秀人(日本福音ルーテル東京池袋教会牧師・日本福音ルーテル教会総会議長) 東京池袋教会は今年、宣教117年目の年を迎えています。その第一歩を踏みしめたのは1907年7月、フィンランドからの宣教師シーリ・ウーシタロ宣教師、コスケンエミニ宣教師夫妻、副島秀子氏であり、その地は東京千駄ヶ谷でした。 改・宣教室から永吉秀人 総会議長(日本福音ルーテル東京池袋教会牧師) 「レクイエム」と呼ばれる楽曲があります。これは「死者のためのミサ曲」であり、典礼文に曲が付けられたものです。よく知られたものにモーツァルト、ヴェルディ、フォーレ作曲のミサ曲があります。 世界の教会の声浅野直樹Sr.(世界宣教主事 市ヶ谷教会・スオミ教会牧師)ノルウェーのキリスト教法 ノルウェーにはキリスト教法という法律があり、2024年の今年は施行されて1000年目を迎えました。名前が示すように、この法律はノルウェーの教会と社会において歴史上非常に大きな意義があります。 ノルウェー教会のオラフ・フィクセ・トゥベイト監督はこの法律について次のように説明します。「神がご自身のイメージをこめて人を創造したというキリスト教信仰の価値観を社会に活かし、争いごとは報復でなく法と正義に基づいて解決することを意図してこの法律は制定されました。今日では女性や子ども、貧困者の権利を守るための法律ともいえます。」「この法律が1000年にわたりノルウェーに存続し、その間キリスト教の教えによって私たちが共に生きていくよう導かれたことを感謝できることは意義深いです。」「ノルウェーだけでなく世界的にも、人間の価値観が絶えず試されています。キリスト教的人間観を重んじる教会そして国家として、こうしたチャレンジに対してどう向き合うかを考えていかねばなりません。」 報告:「課題の視点で聖書を読む」オンライン学習会小泉基(日本福音ルーテル札幌教会牧師・社会委員会委員長)日本福音ルーテル教会の社会委員会は6名の委員からなる小さな委員会で、全国に委員さん方が点在する中、継続的な活動を行う難しさを感じてきました。ところがコロナ禍によってオンライン機器が一般化したことにより、思いがけず委員会活動の新しい地平が開かれてきました。今総会期の委員は、課題と聖書を切り結ぶオンラインでの連続学習会を開催したいと話しあいました。その結果が、以下の3回の学習会です。 第1回「ヘイトクライムの視点で聖書を読む」 第2回「脱原発の視点で聖書を読む」 第3回「ジェンダー正義の視点で聖書を読む」 特に、第2回の学習会は講演録も発行されて各教会に配布されていますから、ぜひ手に取って学んでいただければと思います。 部落問題に取り組むキリスト教連帯会議報告沼崎勇(日本福音ルーテル京都教会・修学院教会・賀茂川教会牧師・部落問題に取り組むキリスト教連帯会議常任委員) 部落問題に取り組むキリスト教連帯会議(以下「部キ連」と略す)第41回総会が、2024年5月20日、在日韓国基督教会館において開催された。部キ連は、全国にあるキリスト教団・教派が連帯して部落差別を克服することを目的とする運動体であり、重要な活動の一つは、狭山再審・証拠開示要請行動である。(以下の記述は、黒川みどり著『増補 近代部落史』平凡社、および、黒川みどり著『被差別部落に生まれて』岩波書店に負っている) 山内量平探訪記⑧「量平の回心」古屋四朗(日本福音ルーテル日吉教会信徒) 昨年、山内量平先生をしのぶ旅に出た私は、かねて連絡してあった日本基督教団田辺教会の南澤牧師の案内で、昔の田辺教会の場所、教会墓地、五明楼跡地などを回り、最後に芳養(はや)の松原の手前で下ろしていただきました。 第30期第5回常議員会報告李明生 事務局長(日本福音ルーテルむさしの教会牧師)6月10日〜12日、日本福音ルーテル教会常議員会がルーテル市ヶ谷センターにて対面開催されました。今回は、3月の各教区総会後の常議員交代を踏まえて、今期の諸課題の共有の機会を持ちました。以下、主な事項について報告いたします。 第7次綜合宣教方策の件 神学教育の課題とヴィジョンの件 教職者の育児・介護休業規定の件 次回常議員会日程の件 ルーテル世界連盟(LWF)理事会に参加して本間いぶ紀(日本福音ルーテル甘木教会信徒) 6月13日から18日にかけてスイスのジュネーヴ郊外で開催された、ルーテル世界連盟(LWF)の理事会に参加しました。(るうてる1月号にて、第13回アッセンブリーでの承認を受け、ユースの理事としての働きを始めることを報告させていただきました。)今回の理事会では2030年まで活動を共にする理事、LWFスタッフ、アドバイザーが初めて一同に集まり、共にLWFの働きを始めることができました。世界各国のルーテル教会の取りまとめやルター派神学教育だけでなく、貧困層や難民などへの人道支援、また気候変動問題への取り組みなど多岐に渡るLWFの働きの共有や、2025年から2031年までの活動指針の承認が行われ、また理事同士のコミュニケーションの場を持ちました。特に印象的だったのが、議長のストゥブキャル監督がユースの意見を聞きたい、と時間を設けてくれたことでした。LWFはユースのための活動を活発に行なっており、理事会におけるユースの割合も20%以上を占めています。ユースは牧師や神学生だけでなく、私のように社会人や学生の信徒もいます。長く聖職に就いている方、教会に関わっている方、神学者などが多く集まる会において、ユースの意見を積極的に聞きたいという姿勢があることこそが、ユースの参画や活動へのエネルギーを生み、LWFを作り出し続けているのだと感じました。 「2024年 ルーテル聖書日課読者の集い」のご案内『ルーテル聖書日課読者の集い』が神戸市郊外の緑あふれる「しあわせの村」にて開催されます。ルーテル聖書日課の読者ではない方もご参加いただけますので、皆様のご参加をお待ちしております。 〈主題〉聖書の中の女性たち~ディアコニアに生かされる~ 〈お問合せ〉 【訂正とお詫び】 |
24-08-01 | 「わたしたちはキリストの体」 |
「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。」 (エフェソの信徒への手紙4・16) この春神学校を卒業し、牧師としてみのり教会と岡崎教会に着任してから、3カ月が経ちました(執筆当時)。豊橋市の牧師館に住みながら、田原市、岡崎市にある各礼拝堂にも行き来する日々を送っています。初めての経験に戸惑いを覚えたり、やる気が空回りして失敗したりすることもありますが、教会員の皆さんに助けていただき、徐々に慣れていっているところです。だいぶ前のことになりますが、私が初めて就職をした最初の新卒時代にも、やはり戸惑ったり、空回ったりしていたことを覚えています。あの頃に比べればかなりずぶとくなったものの、2度目の新卒時代を与えられて初心にかえることができるのは、とても嬉しく有難いことです。 三人の天使に支えられたキリストの体 1600〜1610 作者不明 Kunsthistorisches Museum |
24-07-01 | るうてる2024年07月号 |
「普通の人を遣わし、奇跡を起こす神様の神秘」日本福音ルーテル宮崎教会・鹿児島教会牧師 デイビッド・ネルソン「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」(詩編23・1) 皆様はじめまして。デイビッド・ネルソンと申します。今年の3月に日本ルーテル神学校を卒業しました。3人の同級生と共に3月に按手を受け、4月から日本福音ルーテル教会の宮崎教会、鹿児島教会の主任牧師となりました。念願の目標だった、日本福音ルーテル教会の牧師になれたことを大変喜んでいます。 しかし、ストーリーはそこで終わりません。欠けた器である私たちは神様の導きにより、遣わされるのです。神様は私たちの誤解や勘違いなどをそのまま野放しするのではなく、羊飼いとして私たちを導き、御心にかなう御国造りのために遣わします。普通の水、普通の器、でもイエス様が一緒だと、カナの結婚式に奇跡が起こりました。私たちも一人一人、つまらない願望、つまらないモチベーションをいっぱい持ちながら目標や夢が形成されます。しかし、イエス様が一緒です。迷える羊に、信頼できる羊飼いが付いています。ですから、奇跡が起こります。「奇跡」というのはスプーンが曲がる、みんなをビックリさせるようなサーカスのショーのようなものではありません。奇跡は神様がこの世においてなさる業です。特に、心の奥の深いところになさる業です。憎しみや嫉妬の心が寛大な心に。がっかりした心が生き生きした希望に。これが福音の美しさ、福音の力だと私は信じます。 私がイエス様を信じて生きたい気持ちを持っているのは父リチャードの影響が大きいと思います。父リチャードは牧師であり、宣教師であり、教会の中でも、家の中でも、裏表のない、純粋な素直な信者でした。優しい、思いやりのある人でした。そんな環境で生まれ育つと、同じ信仰を共有したい気持ちになるのは当然のことでしょうね。ですから、私は自分で選んで、信じるものになったのではなく、単に選ばれたものです。 しかし、父リチャードが1953年に日本で伝道をはじめた時、最初は大変だったそうです。住む場所、礼拝を行う場所、なかなか借りることができませんでした。知り合いや紹介者が1人も居らず、らちが明かなかったようです。その状況がしばらく経つと、がっかりして、焦りました。伝道師としての成果が全くない、最初の一歩も切り開けない惨めな時でした。しかし、絶望のどん底の暗闇の中に、突然に打ち破る光が訪れました。まともな日本語ができない、アメリカの田舎町から来た不器用な20代の伝道師の青年に助けの手を差し伸べる日本人が現れました。その方は、公立の施設の施設長でした。幼稚園が付いていて、日曜日は使ってないので「どうぞ礼拝のために使ってください」とのことでした。その方はクリスチャンではありません。多分「宗教」にも興味なかったと思いますが、聖書の話を聞いて「何かいいものがある」と感じたのでしょう。普通の人、普通の戸惑い、でもイエス様の導きにより奇跡が起こり、伝道のチャンスが生まれました。 私は宮崎教会、鹿児島教会という二つの歴史のある教会の主任牧師となりました。両教会は10人前後の小さな群れになっています。ここに教会が存在し続けているのは、この小さな群れが教会を懸命に守ってきたからです。こうした粘り強い信仰心を持つ方たちと一緒にこれからの教会を考え、形成していけることは光栄なことであり、ワクワクします。私たちの羊飼いの業に期待しながら、南部九州の伝道に励みたいと思います。 エッセイ「命のことば」 伊藤早奈(52)「美しい声」「新しい歌を主に向かってうたい/美しい調べと共に喜びの叫びをあげよ。」詩編33・3 うゎー奇麗な声、久しぶりだな。どこで鳴いているのかしら?でも見たくてもカーテンも開けられない。なぜって小鳥が音を聞いて逃げてしまうかもしれないから。同じ気持ちなのかガラガラガラガラとお隣で戸を開ける音がしました。そうだよね姿が見たいよね。初めは久しぶりに聞こえるその声に耳を澄まして喜んでいました。翌日もその翌日も毎日毎日しかも一日に何回も。耳を澄ましていた私はそのうちその声がうるさくなっていました。そのような自分に自分で驚き呆れてしまいました。あんなに珍しくて奇麗な声だと思い耳を澄ましていたのにうるさいと思うようになってしまうのだなと。 「全国の教会・施設から」⑭日田ルーテルこども園 真木逸子(日田ルーテルこども園園長) 九州のおへそと言われる大分県日田市の中央部に位置する当園は日本福音ルーテル日田教会のすぐ裏手にあり、渡辺潔牧師の時代に県から認可を受け今年で創立72年を迎えます。60年前真木政次牧師の時代に、日田市中城町から当時田んぼや畑ばかりのこの地、三本松町に広い敷地を探し教会・幼稚園共に移転し、新たな礼拝堂・園舎を建て地域に根差した幼児教育を行ってきました。 唐津ルーテルこども園 佐々木なほみ(唐津ルーテルこども園園長)喜び・祈り・感謝して 唐津ルーテルこども園は、1953年に唐津ルーテル幼稚園として創立されました。当時、唐津市内には市立幼稚園があるのみで幼稚園に入れない子どもがたくさんいました。唐津ルーテル幼稚園の開園は唐津の方々に待望され喜ばれたそうです。創立当初から諸先生方は幾多の困難の中でも常に祈り、大切な幼児教育の道を歩んで来られたと聞いております。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」(マルコ10・14b)イエス様は、子どもたちを抱き上げて祝福された。この聖句からの理念が先生方を支えたのです。 改・宣教室から小泉基宣教室長(日本福音ルーテル札幌教会牧師)
|
24-07-01 | 普通の人を遣わし、奇跡を起こす神様の神秘 |
「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」(詩編23・1) 皆様はじめまして。デイビッド・ネルソンと申します。今年の3月に日本ルーテル神学校を卒業しました。3人の同級生と共に3月に按手を受け、4月から日本福音ルーテル教会の宮崎教会、鹿児島教会の主任牧師となりました。念願の目標だった、日本福音ルーテル教会の牧師になれたことを大変喜んでいます。 イエスの御名の礼拝/エル・グレコ 1577-1579年 エル・エスコリアル修道院 |
24-06-01 | 主の平安に満たされる |
「だから、人の子は安息日の主でもある。」(マルコによる福音書2・28) 私が遣わされている恵み野教会と函館教会は、特急に乗って4時間半以上かかるほど、互いに離れています。居住地である恵み野教会で土曜日に主日礼拝を守った後に移動して、日曜日には函館教会で主日礼拝を守るというのが、私に与えられたスケジュールでした。今のところは体力に恵まれていますので、移動が苦になることはあまりないだろうと考えていました。しかし、私はすぐに長距離の兼牧を担う難しさと直面することになりました。 4月4日(木)の夜、恵み野教会で迎える最初の主日礼拝の準備をしていますと、函館教会の方から電話がありました。それはその方の伯父の重体を伝える連絡で「今晩が山だろう」というものでした。できればすぐに出発したかったのですが、その日はすでに間に合う特急もなく、もどかしく夜を過ごしました。翌朝、この夜は持ちこたえたと連絡を受けて安心をしたのですが、すぐに出発すべきかの判断が少し難しくもありました。私はお見舞いに向かいたいと思いましたが、出発すると簡単に戻ってこられません。戻れなければ、恵み野教会は信徒礼拝となります。そんな私を後押ししたのは「私たちはこれまでも信徒礼拝をして、主の恵みに与ってきた。私たちは強いから大丈夫」という恵み野教会の方の言葉でした。函館に着くと、神様のご計画か、天に召される1時間ほど前にお会いでき、臨終を共に祈って過ごすことができました。 さて、イエス様は安息日規定に関してファリサイ派の人々と対決します。福音書には、ある安息日に弟子たちが麦の穂を摘み、イエス様は手のなえた人を癒したことが記されています。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。」(出エジプト記20・8)「七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。」(出エジプト記20・10)という十戒の教えから、安息日は労働をしてはいけない日と定められていました。当時の規定に従えば、麦を摘むことは労働であり、癒しについても、命の関わる場合を除いて安息日にしてはいけない行為でした。ですから、ファリサイ派の人々の言い分は規定に適っていました。しかし、安息日の本質からは逸れていたのです。安息日とは、主が「祝福して聖別された」(出エジプト記20・11)日です。それは主の安息と祝福にあずかる日であるため、その規定によって苦しめられるのであれば本末転倒です。 イエス様は「人の子は安息日の主でもある。」(マルコによる福音書2・28)と言われました。それは、私たちの安息がただイエス様のみから来るためです。私たちの安息とは、イエス様のもとにあるのです。キリスト教会では、主日に礼拝を守ります。主日にはイエス様の祝福に満たされ、安息に招かれています。その喜びが私たちの感謝や賛美となり、礼拝となるのです。 恵み野教会の方は主日礼拝に牧師がいること以上に、イエス様の平安が臨終の方と共にあるように祈ることを選びました。隣人を憂い、その命を尊ぶことこそ、イエス様が教えられた安息日でしょう。牧師はいられなくても、恵み野教会にはイエス様がおられたのです。私もまた、恵み野教会のことを安心して、委ねることができたおかげで、葬儀に心を注ぎ、平安を祈ることができました。さらに後日には、私は函館教会の方から恵み野教会への感謝の手紙を預かり、分かち合い、恵み野教会の皆さんはその手紙を読み、喜んでいました。 恵み野教会も、函館教会も私も慌ただしくなりましたが、平安に満たされた安息日を過ごすことができたのです。それはすべての教会に与えられている主日です。主の安息にあずかることによって、私たちは主の祝福を受け、平安に満たされているのです。 十戒の石板を破壊するモーセ |
24-06-01 | るうてる2024年06月号 |
「主の平安に満たされる」日本福音ルーテル恵み野教会・函館教会牧師 河田礼生「だから、人の子は安息日の主でもある。」(マルコによる福音書2・28) 私が遣わされている恵み野教会と函館教会は、特急に乗って4時間半以上かかるほど、互いに離れています。居住地である恵み野教会で土曜日に主日礼拝を守った後に移動して、日曜日には函館教会で主日礼拝を守るというのが、私に与えられたスケジュールでした。今のところは体力に恵まれていますので、移動が苦になることはあまりないだろうと考えていました。しかし、私はすぐに長距離の兼牧を担う難しさと直面することになりました。 4月4日(木)の夜、恵み野教会で迎える最初の主日礼拝の準備をしていますと、函館教会の方から電話がありました。それはその方の伯父の重体を伝える連絡で「今晩が山だろう」というものでした。できればすぐに出発したかったのですが、その日はすでに間に合う特急もなく、もどかしく夜を過ごしました。翌朝、この夜は持ちこたえたと連絡を受けて安心をしたのですが、すぐに出発すべきかの判断が少し難しくもありました。私はお見舞いに向かいたいと思いましたが、出発すると簡単に戻ってこられません。戻れなければ、恵み野教会は信徒礼拝となります。そんな私を後押ししたのは「私たちはこれまでも信徒礼拝をして、主の恵みに与ってきた。私たちは強いから大丈夫」という恵み野教会の方の言葉でした。函館に着くと、神様のご計画か、天に召される1時間ほど前にお会いでき、臨終を共に祈って過ごすことができました。 さて、イエス様は安息日規定に関してファリサイ派の人々と対決します。福音書には、ある安息日に弟子たちが麦の穂を摘み、イエス様は手のなえた人を癒したことが記されています。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。」(出エジプト記20・8)「七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。」(出エジプト記20・10)という十戒の教えから、安息日は労働をしてはいけない日と定められていました。当時の規定に従えば、麦を摘むことは労働であり、癒しについても、命の関わる場合を除いて安息日にしてはいけない行為でした。ですから、ファリサイ派の人々の言い分は規定に適っていました。しかし、安息日の本質からは逸れていたのです。安息日とは、主が「祝福して聖別された」(出エジプト記20・11)日です。それは主の安息と祝福にあずかる日であるため、その規定によって苦しめられるのであれば本末転倒です。 イエス様は「人の子は安息日の主でもある。」(マルコによる福音書2・28)と言われました。それは、私たちの安息がただイエス様のみから来るためです。私たちの安息とは、イエス様のもとにあるのです。キリスト教会では、主日に礼拝を守ります。主日にはイエス様の祝福に満たされ、安息に招かれています。その喜びが私たちの感謝や賛美となり、礼拝となるのです。 恵み野教会の方は主日礼拝に牧師がいること以上に、イエス様の平安が臨終の方と共にあるように祈ることを選びました。隣人を憂い、その命を尊ぶことこそ、イエス様が教えられた安息日でしょう。牧師はいられなくても、恵み野教会にはイエス様がおられたのです。私もまた、恵み野教会のことを安心して、委ねることができたおかげで、葬儀に心を注ぎ、平安を祈ることができました。さらに後日には、私は函館教会の方から恵み野教会への感謝の手紙を預かり、分かち合い、恵み野教会の皆さんはその手紙を読み、喜んでいました。 恵み野教会も、函館教会も私も慌ただしくなりましたが、平安に満たされた安息日を過ごすことができたのです。それはすべての教会に与えられている主日です。主の安息にあずかることによって、私たちは主の祝福を受け、平安に満たされているのです。 エッセイ「命のことば」 伊藤早奈(51)「私は誰?」「わたしの魂があなたをほめ歌い/沈黙することのないようにしてくださいました。わたしの神、主よ/とこしえにあなたに感謝をささげます。」詩編30・13 「ありがとう」 リレーコラム 「全国の教会・施設から」⑬日本福音ルーテル板橋教会
|
24-05-01 | 主に向かって心からほめ歌おう |
「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。」 「今は悪い時代なのです」とパウロは言います。主イエスがこの世に来られてから今に至るまで、世界は悪い時代であり続けています。神のみことばが伝えやすかった時はない。争いのない時代はない。差別のない時代はない。この世界が平和であったことはいっときもありません。旧約聖書、創世記の時代、神がこの世界を創った最初から、アダムとエバの夫婦げんか、その息子カインとアベルの兄弟殺しに始まります。聖書を読んでほっこりするか、安心するかしたいのに、聖書の中に平安な心で生きた人々はほとんど出てこないのです。 書簡を書く聖パウロ ヴァランタン・ド・ブーローニュ作 |
24-05-01 | るうてる2024年05月号 |
「主に向かって心からほめ歌おう」日本福音ルーテル小鹿教会・清水教会 笠井春子「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。」 「今は悪い時代なのです」とパウロは言います。主イエスがこの世に来られてから今に至るまで、世界は悪い時代であり続けています。神のみことばが伝えやすかった時はない。争いのない時代はない。差別のない時代はない。この世界が平和であったことはいっときもありません。旧約聖書、創世記の時代、神がこの世界を創った最初から、アダムとエバの夫婦げんか、その息子カインとアベルの兄弟殺しに始まります。聖書を読んでほっこりするか、安心するかしたいのに、聖書の中に平安な心で生きた人々はほとんど出てこないのです。 エッセイ「命のことば」 伊藤早奈㊿「私は誰?」「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。」(フィリピの信徒への手紙3・20) 私って何者なんだろう? リレーコラム 「全国の教会・施設から」⑫日本福音ルーテル本郷教会・本郷学生センター
|
24-04-01 | るうてる2024年04月号 |
「見ないのに信じる人は、幸いである」日本福音ルーテル教会引退教職 野口勝彦「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネによる福音書20・29) 「青いお空の底ふかく、海の小石のそのように、夜がくるまで沈んでる、昼のお星は眼にみえぬ。 この詩は、私の初任地の一つである二日市教会で、最初の説教を始める直前に起きた福岡県西方沖地震の日に、説教の中でお話した童謡詩人、金子みすゞの「星とたんぽぽ」という詩の一節です。 エッセイ「命のことば」 伊藤早奈㊾「つながり」「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。」(ヨハネによる福音書15・4) 「一度もお会いしたことないのに二人は大切な存在同士になってて不思議ですよね。」 「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイによる福音書18・20) リレーコラム 「全国の教会・施設から」⑪日本福音ルーテル 聖パウロ教会 宇野仰(日本福音ルーテル聖パウロ教会書記) 東京スカイツリーから総武線を挟んだ反対の南側にある聖パウロ教会は、1923年に関東大震災の罹災者救援の施設「ホーム」として開設されたベタニヤホームがそのルーツとなっています。この地域は1945年にも東京大空襲で壊滅的な被害を受けました。その後「ホーム」の礼拝から本所伝道所が生まれ、1955年に聖パウロ教会と命名され、ベタニヤホームに隣接した教会堂が建てられて現在に至っています。 小城ルーテルこども園
|
24-04-01 | 「見ないのに信じる人は、幸いである」 |
「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネによる福音書20・29) 「青いお空の底ふかく、海の小石のそのように、夜がくるまで沈んでる、昼のお星は眼にみえぬ。 この詩は、私の初任地の一つである二日市教会で、最初の説教を始める直前に起きた福岡県西方沖地震の日に、説教の中でお話した童謡詩人、金子みすゞの「星とたんぽぽ」という詩の一節です。 「聖トマスの不信」 カラヴァッジョ作・1601年頃・油絵・サンスーシ絵画館 |
24-03-01 | 「私の命は主の中に隠されている」 |
「あの方は復活なさって、ここにはおられない。」(マルコによる福音書16・6) 「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。」という天使の「ここにはおられない。」という言葉に耳を傾けたいのです。「ここ」とは、すべての終わりの死が支配する墓です。 「墓の前の3人のマリア」 ペーター・フォン・コルネリウス作・1815年頃・油絵・ノイエ・ピナコテーク蔵 |
24-03-01 | るうてる2024年03月号 |
「私の命は主の中に隠されている」日本福音ルーテル大森教会牧師 竹田孝一「あの方は復活なさって、ここにはおられない。」 (マルコによる福音書16・6) 「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。」という天使の「ここにはおられない。」という言葉に耳を傾けたいのです。「ここ」とは、すべての終わりの死が支配する墓です。 エッセイ「命のことば」 伊藤早奈㊽「いつまで」「もうたくさんだ、いつまでも生きていたくない。/ほうっておいてください/わたしの一生は空しいのです。」(ヨブ記7・16) 「こんなに長く続けていただけるとは思いませんでした。」 改・宣教室から小泉基宣教室長(日本福音ルーテル札幌教会牧師)小泉 あゆみの家は、私がまだ行ったことのない施設のひとつです。今回はその、まだ見ぬあゆみの家のスタッフの秋田明子さんにお話しを伺うことが出来ました。 リレーコラム 「全国の教会・施設から」⑩日本福音ルーテル小岩教会 内藤文子(日本福音ルーテル小岩教会牧師)小岩教会は、戦前は本所教会(当時)の集会所として存在しました。本所教会の内海季秋牧師が当時ベタ二ヤホームで職員や母子寮の人々のために礼拝を始められそのベタ二ヤホームの宣教の一環として、小岩にあった牧師館において開始されました。 認定こども園神水幼稚園
|
24-02-01 | 「主の変容に励まされ」 |
「すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」」(マルコによる福音書9章7節) 私たちは希望がなくては一日たりとも生きてはいけない。それは平和な状況ばかりか、戦時下においてですら同じではないだろうか。常に死と隣り合わせているような暗闇の中にあっても、人は希望を持ち続けて生きることができる。 「主の変容」・ラファエル作・1516年頃・油絵・ヴァチカン絵画館蔵」 |
24-02-01 | るうてる2024年02月号 |
「主の変容に励まされ」日本福音ルーテル湯河原教会、小田原教会牧師 岡村博雅「すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」」(マルコによる福音書9章7節) 私たちは希望がなくては一日たりとも生きてはいけない。それは平和な状況ばかりか、戦時下においてですら同じではないだろうか。常に死と隣り合わせているような暗闇の中にあっても、人は希望を持ち続けて生きることができる。 エッセイ「命のことば」 伊藤早奈㊼一つ一つに「すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。 すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。」 (ルカによる福音書9・16~17) 「どんなに単調に思える仕事であっても、あなたの配るお皿一枚一枚を受け取る誰かのために祝福があるように、と祈りながら一枚一枚を配ってみなさい。あなたがたとえ毎日やっている同じ仕事でも決して単調ではなくなるわ。」この先輩からの言葉により毎日同じ仕事で単調でつまらなく感じていたお皿配りが意味あるものになったという話を読んだことがあります。 意味のない仕事はないんだなぁと思いながら、仕事をしていなくては生きている意味がないのかなと思ってみることがあります。 病気で働けなくなった人は人間じゃないのだろうか?そんなことはない。仕事ってなんだろう?働くって?単調な仕事に祈りが意味を与えてくれるのなら、祈りのあるところには必ず働きがあります。たとえ祈っているということが他人にわからなくても。イエス様みたいにパンや魚を増やせなくても。だってあなたが祈っているから。 誰の祈りでも必ず神様に届いているから意味のない単調な仕事なんて無い、それらにあなたが祈りを添えれば。私は何もできないと思わなくてもいい。手を合わせられなくてもあなたの心を合わせて神様に向ければ。だって祈りは必ず神様に届くから。あなたは神様にお任せできます。 リレーコラム 「全国の教会・施設から」⑨日本福音ルーテル稔台教会
|
24-01-01 | るうてる2024年01月号 |
「聖なる地」日本福音ルーテル飯田教会牧師
|
24-01-01 | 「聖なる地」 |
「主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼が、「はい」と答えると、神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。(出エジプト記3・4~6) 新しい年を迎えました。皆様にとって2023年はどのような年だったでしょうか。辛いニュース、悲しいニュースの多い年ではありましたが、結婚や出産、就職、目標の達成といった、喜ばしい出来事を経験した方も多くおられたことと思います。 「燃える柴」 セバスチャン・ブルドン作、17世紀制作、エルミタージュ美術館蔵 |
23-12-01 | るうてる2023年12月号 |
「主の母、マリア」日本福音ルーテル久留米教会・田主丸教会・大牟田教会・長崎教会
|
23-12-01 | 主の母、マリア |
「マリアは言った。「私は主の仕え女です。お言葉どおり、この身になりますように。」」(ルカによる福音書1・38/聖書協会共同訳) 「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」ルカ福音書の受胎告知の場面で、天使ガブリエルがマリアに告げたこのあいさつは、クラシックの楽曲としても有名な「アヴェ・マリア」の元となった詞の一つです。 「受胎告知」エル・グレコ作・1590年・油絵・大原美術館蔵 |
23-11-01 | るうてる2023年11月号 |
「老いの神学」日本福音ルーテル田園調布教会・雪ケ谷教会牧師 田島靖則「あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。/同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」(イザヤ書46・3b〜4) 通常この巻頭説教は、季節の聖書日課に基づいて作成されるようです。しかし、コロナ禍以降は私もご他聞に洩れず、毎週の礼拝説教をそれぞれの教会のホームページ上で動画公開しておりますので、日課通りの説教をご希望の方はどうかそちらをご覧ください。 エッセイ「命のことば」 伊藤早奈㊹私も?天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。」詩編19・2 「どうしていつも笑っているの?そして何でいつもお礼が言えるの?」と言われ思わずこう聞き返していました。「えっ私笑ってる?」あまりにも最近いろいろなことを経験したので自分は笑い方を忘れているのではないかと不安になっていました。私笑顔を忘れていなかったんだ。 改・宣教室から小泉基 宣教室長(日本福音ルーテル 札幌教会牧師)―佐伯さんには、3年前に社会委員会が発行した『多様な性を知るために』の執筆で全面的にお世話になりました。もともとセクシャリティーの事柄について関心をお持ちだったのですか? 佐伯 長年、小・中学校の養護教諭として仕事をしてきました。小学校で保健室登校を支えて落ちついた子が、中学校で荒れて自殺未遂をしてしまうようなことがあり、その子に宿題をもらった思いで「いのちの学習」に取り組むようになりました。そこから性の問題への関心につながりました。 ―今の学校現場で、セクシャルマイノリティーの子どもたちは、どんな辛さを経験していくのでしょうか。 佐伯 誰にも言えずに葛藤を抱えて過ごしている子が多いと思います。友人に言うと嫌われ、いじめられるかもしれない。先生に言うと親に伝わって親が悲しむかもしれないとも思うでしょう。孤立したり、自分を守るために当事者ではないふりをして周囲の差別的な言動に同調したりする子たちもいます。ただ、少しずつですが学校でカミングアウトする子も増えています。学校の性教育指導体制が問われますが、個人で頑張っている教員はおられても、組織としてはまだまだ準備不足です。 ―キリスト教会の役割について、考えておられることがありますか? 佐伯 教会は、祈りの場であるとともに出会いの場です。教会員であるなしにかかわらず、迷い悩みを抱える人、悲しんでいる人、困難を抱えている多様な人たちが安心して出入りし、語りあうことができる場です。ただそのことを、当事者たちが知らなければ、また知っていても教会の雰囲気がオープンでなければ、その役割は果たせません。教会員がセクシャルマイノリティーやその他の差別の現状について、学んだり、話し合ったりできれば、この課題について教会の役割が見えてくるかもしれません。 ―ありがとうございました。大切にしている聖書の箇所があれば、教えてください。 佐伯 「何事にも時があり」(コヘレトの言葉3・1)です。「置かれた場所で咲く」ことを大切に生きてきました。いろいろ困難な職場で仕事をしましたが、その都度「神様が準備してくださった時と場所」と受け止め、子どもたちとの出会いを感謝し、頑張ることができました。後で、本当に神様が時を選んで与えてくださったと思うことばかりでした。 リレーコラム 「全国の教会・施設から」⑥日本福音ルーテル千葉教会 小澤周平(日本福音ルーテル千葉教会牧師) 千葉教会の会堂は、JR総武線稲毛駅から徒歩3分の場所にあります。東教区としては関東の東端。新来会者が足を運びやすい一方で、会員は広い地域から礼拝に集まります。 九州ルーテル学院幼稚園 谷美和(九州ルーテル学院幼稚園園長) 1947年、宣教師として九州女学院に赴任されたヘルティ・ブライドル先生を初代園長として旧九州女学院幼稚園が設立されました。学校の体育館の更衣室を保育室として誕生した園児21名の小さな園だったそうです。現在、本園には160名ほどの園児と33名の職員が過ごしています。また開園から76年、4500名余りの卒園生を送り出してきました。今では、親・子・孫といった3世代にわたって入園される方もいらっしゃいます。 世界の教会の声浅野直樹Sr.(世界宣教主事 市ヶ谷教会・スオミ教会牧師)LWFアセンブリー報告「キリストの体における一致」 LWF(世界ルーテル連盟)は、99カ国の150教会が加盟するルーテル教会の世界組織で、信徒総数は七千七百万人を数えます。日本福音ルーテル教会(JELC)は1952年から加盟しています。9月13日から19日にかけてポーランドのクラカウで第13回アセンブリー(総大会)が開催され、約千人が参加者しました。今回のテーマはエフェソの信徒への手紙4章4節から選ばれ「One Body, One Spirit, One Hope(ひとつの体、ひとつの霊、ひとつの希望)」となりました。このテーマに関連してインドネシアの神学者ベニー・シナガ博士が行った講演の一部をご紹介します。 ※詳細についてはWEBサイトをご参考ください。 「ルーテルアワー」紙を発行しています佐藤和宏(日本福音ルーテル藤が丘教会牧師・東教区伝道奉仕部) 「ルーテルアワー」紙は、東教区インターネット伝道が運営する、ウェブサイト「ルーテルアワー」の記事を転載したものです。聖書やキリスト教に興味を持つノンクリスチャンを主な対象と位置づけていますが、インターネット環境のない方にもご覧いただけるようにと、本紙の発行を始めました。 2023年度ルーテル社会福祉協会総会報告髙橋睦(東京老人ホーム常務理事ルーテル社会福祉協会会長) 毎年8月に行ってきた当会の総会(研修会を含む)は、4年ぶりの対面(一部リモート参加を含む)開催が、熊本の慈愛園児童センターを会場に8月21日(月)~22日(火)に開催されました。 「教会讃美歌 増補」 解説㊺ 増補48番 「まことに まことに」北川逸英(日本ルーテル教団池上教会・杉並聖真教会牧師) 48番は歌集『うたえ 暗闇にとどまることのないように』からの転載です。作者は援助修道会のシスター・クララ・三浦ふみ氏。2018年7月28日に、聖イグナチオ教会で終生誓願を立てられました。シスター三浦は学生時代から、日本でテゼ共同体の祈りを紹介し歌い続ける、日本聖公会の植松功氏と共に、チェロ演奏などで活動に参加されてきました。 解説㊻ 増補49番「わたしたちが暗闇に留まることのないように」北川逸英(日本ルーテル教団池上教会・杉並聖真教会牧師) この歌は歌集『うたえ 暗闇にとどまることのないように』の表題曲です。タイトルに(キリストは光として)という言葉が付され、作詞者名は無く、書き出し歌詞の後に(ヨハネによる福音書12・46)と記されます。 公告この度左記の行為を致しますので、宗教法人法第23条の規定に基づき公告致します。 2023年11月15日 代表役員 永吉秀人 |
23-11-01 | 老いの神学 |
「あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。/同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」(イザヤ書46・3b〜4) 通常この巻頭説教は、季節の聖書日課に基づいて作成されるようです。しかし、コロナ禍以降は私もご他聞に洩れず、毎週の礼拝説教をそれぞれの教会のホームページ上で動画公開しておりますので、日課通りの説教をご希望の方はどうかそちらをご覧ください。 瞑想する哲学者 レンブラント・ファン・レイン 1632年 ルーブル美術館 |
23-10-01 | 不信仰を赦す神 |
「その子の父親はすぐに叫んだ。『信じます。信仰のないわたしをお助けください。』」(マルコによる福音書9・24) 「不信仰は主要な罪であり、すべての罪の中の罪であるのだから、罪の赦しとはもっぱら不信仰の赦しであるに違いない。」アメリカのルーテル教会の神学者であるロバート・ジェンソンは、その神学的自伝の中で自身の神学生時代を振り返り、当時強く影響を受けた19世紀スウェーデンの信徒説教者カール・オロフ・ロセニウスの言葉を紹介します。ロセニウスは、神が私たちの不信仰―神を信じられないということ―を赦されると言うのです。そしてジェンソンは、それまでこの当たり前のことに気が付かなかったと告白します。 聖マリエン聖堂(ヴィッテンベルク)の祭壇画(下部) ルーカス・クラナッハ作・1547年 |
23-10-01 | るうてる2023年10月号 | 機関紙PDF 「不信仰を赦す神」日本福音ルーテル三鷹教会牧師・ルーテル学院大学チャプレン 高村敏浩「その子の父親はすぐに叫んだ。『信じます。信仰のないわたしをお助けください。』」 「不信仰は主要な罪であり、すべての罪の中の罪であるのだから、罪の赦しとはもっぱら不信仰の赦しであるに違いない。」アメリカのルーテル教会の神学者であるロバート・ジェンソンは、その神学的自伝の中で自身の神学生時代を振り返り、当時強く影響を受けた19世紀スウェーデンの信徒説教者カール・オロフ・ロセニウスの言葉を紹介します。ロセニウスは、神が私たちの不信仰―神を信じられないということ―を赦されると言うのです。そしてジェンソンは、それまでこの当たり前のことに気が付かなかったと告白します。 エッセイ「命のことば」 伊藤早奈㊸できるよ「ここでいう主とは、〝霊〟のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。」コリントの信徒への手紙二3・17 カタン、カタン、ゴトゴトゴト。 改・宣教室から小泉基 宣教室長(日本福音ルーテル 札幌教会牧師)熊本で行われたルーテル社会福祉協会の総会の後、運営委員のひとりである光の子会の山下学さんにお話しを伺いました。 「教会讃美歌 増補」 解説㊸ 増補46番 「喜ぶ人と共に」北川逸英(日本ルーテル教団池上教会・杉並聖真教会牧師) 46番から49番の4曲は歌集『うたえ 暗闇にとどまることのないように』からの転載です。この歌集は、「黙想と祈りの集い準備会」により、テゼの歌に触発され「日本でも同じ様に歌いたい」という強い願いに応えて2012年に初版、2015年に改訂増補版が出版されました。掲載曲91曲中、塩田泉司祭の作品が60曲を数え、この歌集の柱となっています。 「教会讃美歌 増補」 解説㊹ 増補47番 「こうふくは しづかなせかい」北川逸英(日本ルーテル教団池上教会・杉並聖真教会牧師) 作詞者八木重吉は1898年東京府南多摩に生まれます。そこに今も記念館があって、代表作「素朴な琴」の詩碑が建っています。 世界の教会の声浅野直樹Sr.(世界宣教主事 市ヶ谷教会・スオミ教会牧師)氷河のレクイエム ドイツの気候変動と教会 先頃ドイツ最高峰の山の頂上で行われたある祈りが注目を集めました。 消えゆくアルプスの氷を悼む鎮魂、氷河のレクイエムです。 ※詳細についてはWEBサイトをご参考ください。 キリストと出会った+なかまと出会った!東海教区青年会+外国メンバー修養会2023徳弘浩隆(日本福音ルーテル高蔵寺教会・復活教会牧師・東海教区外国人宣教担当) 8月12日、青年と外国メンバー、サポーター達15名が夏の渥美半島に集まりました。みのり教会田原礼拝所をお借りして礼拝とワークショップ、海辺BBQ公園で昼食と交流会。礼拝は現地教会一部メンバーも参加して下さり25名。「自己紹介・神様紹介(あかし)」ではみな日本語で頑張り楽しく交流しました。8カ国に関係ある人たちの集まり。外国や各地のお菓子ボックスで教会にお礼をしましたが、教会からは飲み物やスイカも頂き感謝でした。 ルーテル幼稚園保育園連合会研修会報告田島靖則(ルーテル幼稚園保育園連合会役員・日本福音ルーテル田園調布教会・雪ヶ谷教会牧師) コロナ禍にあって久しく開催が見送られてきた対面形式の研修会が、8月8日(火)広島教会礼拝堂にて行われました。今回は総会を兼ねた設置者・園長研修会であり、主題を「平和」とし、塩冶節子さんの被爆証言を聞き、広島女学院所蔵の被爆ヴァイオリンの演奏を聴く機会にも恵まれました。 リレーコラム 「全国の教会・施設から」⑤日本福音ルーテル仙台教会 長島慎二(日本福音ルーテル仙台教会代議員) 仙台教会の伝道は長沼三千夫牧師によって始められました。1957年8月4日(日)、現在地の近くの家を借り、六畳間で第1回の礼拝が行われました。出席者は牧師家族と小泉あや子姉でした。2年後の1959年、宮町に拠点を移し、1962年12月に教会堂および牧師館が完成しました。長沼牧師とともに最初期の伝道を担ったのがJerry C. Livingston宣教師でした。1955年にサウスカロライナ大学を卒業した後、1958年、コロンビアにあるルーテル神学校を修了と同時にUnited Lutheran Church of Americaの牧師として叙任されました。日本伝道のために船旅で横浜に到着したのが1959年9月4日。大学時代に出会った奥様と17カ月のお嬢様を伴っていました。2年間の語学研修を了えた後、1961年12月に仙台教会に赴任なさいました。その後、通木一成牧師の時代の1971年に東教区鶴ヶ谷開拓伝道実行委員会が設置され、東教区内において一坪献金運動を開始しました。1973年4月7日、「社会福祉法人東京老人ホーム鶴ヶ谷保育所希望園」として鶴ヶ谷開拓伝道献堂式が挙行されました。最初は、希望園のホールで礼拝をしていた鶴ヶ谷教会は、1987年、現在の教会堂を建設しました。仙台地区は、仙台教会と鶴ヶ谷教会がそれぞれの役割を担い伝道を続けてきましたが、昨年より組織合同をし、ひとつの仙台教会となり、宮町礼拝堂と鶴ヶ谷礼拝堂において礼拝が守られ、3つの保育所が運営されています。 九州ルーテル学院大学 九州ルーテル学院大学付属黒髪乳児保育園 雪野啓子(黒髪乳児保育園園長) 2026年に創立100周年を迎える、学校法人九州ルーテル学院には保育園、認定こども園、中学、高校、大学があります。九州ルーテル学院大学付属黒髪乳児保育園は2016年に開園し、今年、8年目を迎えます。九州ルーテル学院大学付属として、学院のスクールモットーである「感恩奉仕」の精神のもと保育・教育を行っています。生後2カ月から3歳児までのお子様をお預かりし、定員40名という少人数のよさを生かし、子どもが愛に包まれた安心・安全な生活を送ることを大切にしながら、一人ひとりの心身の調和のとれた発達を目指し、神様に愛され、いつも見守ってくださることに感謝しながら、温かく丁寧な保育に努めています。 「これからのミッション」―第14 回るうてる法人会連合研修会・総会 開催安井宣生(現地実行委員・日本福音ルーテル健軍教会・甲佐教会牧師) 8月22日から23日まで熊本の九州学院に150名が集い、るうてる法人会連合の研修会と総会が開催されました。130年前の宣教開始以来、教会のみならず、1902年の佐賀幼稚園、1909年の路帖神学校(現在の九州学院そして神学校)、1919年の慈愛園(福祉事業)として教育や福祉の器と共に世に仕えキリストに従う歩みでした。2002年、それぞれに成長した各法人がより密接に協力し合うことを目的にるうてる法人会連合が発足し、互いに学び、祈り、それを力にして、仕える取り組みが続けられてきました。 2023年「障がい者週間」の集い小澤周平(NCC「障害者」と教会問題委員会委員・日本福音ルーテル千葉教会牧師) 各教会にご案内が郵送されますが、2023年11月4日に「障がい者週間」の集いが開催されます。「支え合う『いのち』」と題して、キリスト教系障がい者団体の活動報告などが分かち合われます。 JELA インド・ワークキャンプ2024参加者募集!一般財団法人JELAが、2019年以来5年ぶりに、インドでのワークキャンプを実施いたします! 【日程】 2024年2月12日から22日の11日間※国際情勢等により変更の可能性があります。 北海道地域合同教師会岡田薫(日本福音ルーテル帯広教会牧師・札幌教会協力牧師) 今年の一日神学校は、9月23日(土・祝)にルーテル学院大学を会場に対面開催で行われます。 合併公告このたび、下記のとおり、東京都羽村市羽東二丁目16番11号宗教法人「日本福音ルーテル羽村教会」を吸収合併することになりましたので、宗教法人法第34条第1項の規定によって公告します。 信者その他利害関係人各位 所在地 東京都新宿区市谷砂土原町一丁目1番地 合併契約の案の要旨 合併公告このたび、東京都羽村市羽東二丁目16番11号、宗教法人「日本福音ルーテル羽村教会」を吸収合併することになりました。これについて異議ある債権者は、2023年12月18日までに、その旨申し述べてください。 債権者各位 所在地 東京都新宿区市谷砂土原町一丁目1番地 訂正とお詫び機関紙るうてる2023年9月号、1面「巻頭説教」の執筆者である秋山仁牧師の所属に誤りがございました。正しくは「日本福音ルーテル豊中教会・神戸東教会牧師・喜望の家代表」です。訂正してお詫びいたします。校正作業における確認を徹底してまいります。大変申し訳ございませんでした。 |
23-09-01 | 人を赦すということ |
「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」(マタイによる福音書18・35) 「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」というペテロの問いは、自分が誰かを赦すなら、どれだけ赦すべきか、(あるいは我慢すべきか)が焦点です。 |
23-09-01 | るうてる2023年09月号 |
「人を赦すということ」秋山仁(日本福音ルーテル豊中教会・神戸東教会牧師)「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」 「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」というペテロの問いは、自分が誰かを赦すなら、どれだけ赦すべきか、(あるいは我慢すべきか)が焦点です。 エッセイ「命のことば」 伊藤早奈㊷かけがえのない今「しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。」 ルカによる福音書12・20 「今年の初め家族の者は亡くなりました。生前のお交りありがとうございました。」 改・宣教室から小泉基 宣教室長(日本福音ルーテル 札幌教会牧師) 宣教の現場に生きる方々との出会いを願うこのコラム。第1回目は札幌教会の柳下李裕理さんにご登場いただきました。 アジア・プレ・アセンブリーに出席して本間いぶ紀(日本福音ルーテル甘木教会)2023年6月14日から18日、ルーテル世界連盟のアジア・プレ・アセンブリーがマレーシアのクアラルンプールで開催されました。ルーテル世界連盟は世界各国に広がるルター派教会が集まり、私たちの信仰の実践として人道支援や開発支援、また神学研究を行う組織です。このプレ・アセンブリーは9月にポーランドのクラカウで開催予定の第13回ルーテル世界連盟アセンブリーに向けての事前集会で、私は特にユース部門の代表者候補の推薦を受けるために参加しました。9月のアセンブリーの選出選挙にアジア代表として推薦されます。 世界の教会の声浅野直樹Sr.(世界宣教主事 市ヶ谷教会・スオミ教会牧師)ルーテル世界連盟アジア プレ・アセンブリー報告 ルーテル世界連盟(以下LWF)アジアのプレ・アセンブリーが、6月14日~18日にかけてマレーシアのクアラルンプールで開催されました。今年9月、ポーランドの都市クラカウで行われるLWFアセンブリー(総大会)に向けて開かれました。まずは地域ごとに集まり、アジアのルーテル教会の信仰の一致と宣教課題を確認し、ステートメントを発信するための集会です。JELCからは甘木教会の本間いぶ紀さんが部分参加しました。本間さんは、プレ・アセンブリーで次期総会期の青年代表理事候補としてノミネートされました。 ※詳細についてはWEBサイトをご参考ください。 リレーコラム 「全国の教会・施設から」④日本福音ルーテル 帯広教会日本福音ルーテル 帯広教会役員会 今日に至る帯広教会の歴史は、1945年に浦幌町に入植者として入った吉田康登(やすなり)牧師による「浦幌・池田」開拓伝道、戦後の全国レベル開拓伝道計画による「釧路・帯広」二つのルートがあります。釧路教会、池田教会の礼拝堂は惜しまれつつもすでにありませんが、帯広教会での主日礼拝、釧路家庭集会、会場をお借りしての浦幌集会を定期的に行っています。この4月からは教区の宣教体制の変更に伴い、主日礼拝は毎週土曜日の午前10時に変更となりました。日曜日に主日礼拝が行われない珍しい教会ではありますが一人独りの信仰の養いや宣教の意欲は失っていません。礼拝後のお茶の交わりや花壇のお世話も楽しく取り組んでいます。 九州ルーテル学院大学松本充右(九州ルーテル学院大学学長) アメリカ人宣教師であるマーサ・B・エカード初代院長によって本学院の前身である九州女学院が創立され、100年という大きな節目を2026年に学院は迎えます。「感恩奉仕」の校訓を大切にし、またキリスト教精神に基づいた豊かな人間性を育む教育を、教職員の協力のもとでこれまで行ってきました。大学としては九州女学院短期大学を改組転換し、1997年に男女共学の四年制大学「九州ルーテル学院大学」として開学した新しい大学です。現在、人文学部に人文学科3専攻(キャリア・イングリッシュ専攻、保育・幼児教育専攻、児童教育専攻)と心理臨床学科という2学科が設置されています。全学生数650名ほどの小規模私立大学であるため、教職員と学生の距離が近く、一人一人の学生を尊重し、少人数での手厚い教育と高い進路決定率(2023年3月の卒業生の今年7月時点での進路決定率は99・4%)の大学として、地元熊本では現在一定の評価を得る大学となっています。 「教会讃美歌 増補」 解説解説㊶ 増補44番「ごらんよ空の鳥」井上栄子(日本ルーテル教団 戸塚ルーテル教会) 息子が、カトリック系の中高一貫男子校へ入学した関係で、生徒のためのミサに参加した時のことです。聖歌斉唱の場面で、ティーンエイジャー男子の賛美に期待していなかった私は、腰を抜かすほど驚きました!会場が揺れるかと思われる声が響き渡ったのです。その聖歌が「ごらんよ 空の鳥」でした。 解説㊷ 増補53番「平和の祈り」北川逸英 (日本ルーテル教団 池上教会・杉並聖真 ルーテル教会牧師) この歌は、ルーテル学院大学・神学校聖歌隊の愛唱歌です。聖歌隊は親しみを込めて「聖フラ」とこの曲を呼びます。「聖フランシスコの平和の祈り」の短縮形です。しかし今回の歌集のどこにも「聖フランシスコ」の名前はありません。 エキュメニカルな交わりから ⑱カルト問題キリスト教連絡会滝田浩之(日本福音ルーテル 小石川教会牧師) 2018年にカルト問題キリスト教連絡会に日本福音ルーテル教会からの派遣委員として参加しています。 ※詳しくはWEBサイトをご覧ください。 九州教区「平和セミナー ~いのりの紡ぎプロジェクト~」開催谷口美樹(九州教区社会・奉仕部・日本福音ルーテル 大江教会会員) 2023年7月17日(月・祝)、長崎に40人の兄弟姉妹が集まり、九州教区社会・奉仕部主催の「平和セミナー」が行われました。 満たされた交流会立山忠浩(日本ルーテル神学校 校長・日本福音ルーテル都南教会牧師) 聖公会神学院と私たち神学校の交流会が7月3日に開催されました。毎年開催されている催しですが(2020~2021年は中止)、今回は私たちが用賀を訪ねました。こちらからは15名(学生9名、教師6名)が参加。 一日神学校。4年ぶりのキャンパス(対面)開催!宮本新(ルーテル学院大学 教員・牧師) 今年の一日神学校は、9月23日(土・祝)にルーテル学院大学を会場に対面開催で行われます。 |
23-08-01 | 聖書と礼拝 |
「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。」(イザヤ書55・1) 「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」(マタイによる福音書14・16c) イエス様は今、舟に乗ってひとり人里離れた場所に退かれます。そこで五千人を満たす物語が始まります。同じように五千人をパン五つと魚二匹で養う記事がマルコ福音書にもあります。しかし、その同じ記事は人里離れた所へ退いたいきさつが全く異なります。マルコ福音書の始まりはこうです。マルコ6章30節から「さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。」マルコによればイエス様の元に戻ってきた弟子たちに休養を取らせるためイエス様は弟子たちと共に人里離れた所に退いたと説明します。それに対してマタイは次のように語るのです。マタイ14章13節「イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。」マタイによれば、イエス様が人里離れた所に退いたのは領主ヘロデによるヨハネ殺害を聞いた後でした。洗礼者ヨハネはヘロデによって殺され、この人殺しは贅沢で豪華な食事の宴席で命じられたと聖書は語ります。物に溢れた贅沢で豊かな社会が人間の命を尊ぶとは限りません。むしろ反対に何でも自分の望む物を手に入れることができると考えた時、人は神をも畏れず、その結果、隣人の命を軽んじることになるのではないでしょうか。食べ物に溢れ、人間の欲望を満たす豪華で贅沢な誕生パーティーは死と悲しみに包まれました。それは貴い命が敵意と憎しみによって死に飲み込まれるこの世の空しさの極みであったに違いありません。しかしその時、大勢の群衆がイエス様の後を追い、ついてやってきます。その数は女と子供を別にして、男が五千人ほどであったと聖書は告げます。イエス様を追ってきた人はどのような人たちだったでしょうか。聖書によれば、舟から上がったイエス様はその人々を目にして深く憐れみ、病人を癒されたと言います。その人々は飼い主のいない羊のような人々であり、ヘロデの誕生パーティーに決して与ることができない人々でした。大人も子供も、女も男も、病人も皆、イエス様を求め、人里離れた所まで追ってきたのです。彼らこそまさに、この世で飢え渇いていた人々であったことでしょう。人里離れた何もない所で、イエス様は五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで讃美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになりました。全ての人はそれを食べて満腹したと聖書は語ります。しかも残ったパンくずは十二のかごをいっぱいにしたのです。 |
23-08-01 | るうてる2023年08月号 |
「聖書と礼拝」日本福音ルーテル保谷教会牧師・ルーテル神学校チャプレン 平岡仁子「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。」イザヤ書55・1 イエス様は今、舟に乗ってひとり人里離れた場所に退かれます。そこで五千人を満たす物語が始まります。同じように五千人をパン五つと魚二匹で養う記事がマルコ福音書にもあります。しかし、その同じ記事は人里離れた所へ退いたいきさつが全く異なります。マルコ福音書の始まりはこうです。マルコ6章30節から「さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。」マルコによればイエス様の元に戻ってきた弟子たちに休養を取らせるためイエス様は弟子たちと共に人里離れた所に退いたと説明します。それに対してマタイは次のように語るのです。マタイ14章13節「イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。」マタイによれば、イエス様が人里離れた所に退いたのは領主ヘロデによるヨハネ殺害を聞いた後でした。洗礼者ヨハネはヘロデによって殺され、この人殺しは贅沢で豪華な食事の宴席で命じられたと聖書は語ります。物に溢れた贅沢で豊かな社会が人間の命を尊ぶとは限りません。むしろ反対に何でも自分の望む物を手に入れることができると考えた時、人は神をも畏れず、その結果、隣人の命を軽んじることになるのではないでしょうか。食べ物に溢れ、人間の欲望を満たす豪華で贅沢な誕生パーティーは死と悲しみに包まれました。それは貴い命が敵意と憎しみによって死に飲み込まれるこの世の空しさの極みであったに違いありません。しかしその時、大勢の群衆がイエス様の後を追い、ついてやってきます。その数は女と子供を別にして、男が五千人ほどであったと聖書は告げます。イエス様を追ってきた人はどのような人たちだったでしょうか。聖書によれば、舟から上がったイエス様はその人々を目にして深く憐れみ、病人を癒されたと言います。その人々は飼い主のいない羊のような人々であり、ヘロデの誕生パーティーに決して与ることができない人々でした。大人も子供も、女も男も、病人も皆、イエス様を求め、人里離れた所まで追ってきたのです。彼らこそまさに、この世で飢え渇いていた人々であったことでしょう。人里離れた何もない所で、イエス様は五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで讃美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになりました。全ての人はそれを食べて満腹したと聖書は語ります。しかも残ったパンくずは十二のかごをいっぱいにしたのです。 エッセイ「命のことば」 伊藤早奈㊶伝わっています「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。」(申命記30・14) 「何かしたんですか?」お会いするなり言われて私が驚きました。私は20歳になったばかりの頃、ある先生の紹介で2週間ほど海外の二つの教会の皆さんにお世話になりました。なのでご紹介くださった先生にお礼を言おうと近づいた時でした。 【訂正とお詫び】機関紙るうてる2023年7月号、2面「教会讃美歌 増補」解説「㊲増補26番」の執筆者である奈良部慎平氏の所属に誤りがございました。正しくは「日本福音ルーテル東京教会信徒」です。訂正してお詫びいたします。校正作業における確認を徹底してまいります。大変申し訳ございませんでした。 改・宣教室から小泉基 宣教室長(日本福音ルーテル 札幌教会牧師)永吉秀人議長から指名され、宣教室長を仰せつかることになりました。全体教会の事務局にかかわる働きははじめてで、地方教会ばかりに長く身を置いてきた身としては、教会全体の宣教を広く云々するような知見はとてもありません。しかも、新議長から直接依頼された室長としての最初の働きが、歴代の議長が連載してきたこの「るうてる」のコラムの執筆だというのですから、なんとも戸惑いばかりが先に立ってしまうのです。 「教会讃美歌 増補」 解説㊴増補42番「よみがえりの主の」石丸潤一(西日本福音ルーテル 新田教会) 讃美歌委員会の発足当初、新しい『教会讃美歌』に収録する曲の方針について、様々なアイデアが出されました。『分冊1』に収録されたルターのコラールや新しい日本語の賛美歌のほかに、アジアや南米などの賛美歌、こどもや青年向けの賛美歌などを収録したいという意見が挙がりました。そんな中、「古くから日本でなじみのあるヨナ抜き音階の賛美歌」という意見が出され、その声に促されるように作ったのが、「よみがえりの主の」です。 増補50番「見つめてください」中山康子(日本福音ルーテルむさしの教会信徒) 当時のアメリカ福音ルーテル教団の世界宣教部事務局長 ラファエル・マルピカ・パディッラ牧師が、2011年3月11日に起きた東日本大震災後に、仙台の被災地を訪ねました。世界宣教部として支援できることを探るための視察でした。その折に、その状況下でも神さまがいのちを守ってくださる方である事を感じて、聖書の言葉を紡いだ歌詞がメロディとともに即座に生まれました。それを聴き取って、賛美歌委員が伴奏を付けたのがこの賛美歌の誕生のゆえんです。 世界の教会の声浅野直樹Sr.(世界宣教主事 市ヶ谷教会・スオミ教会牧師)水と衛生インフラ整備して学校改善:ハイチ キャンプ・ペリンの生徒たちにとって、清潔なトイレと洗濯や飲み水は贅沢なもの。ルーテル世界連盟(LWF)とパートナーのノルウェーのディアコニア団体(NCA)は水と衛生インフラを整備して、子どもたちが衛生習慣を身につけられるよう訓練を行っています。 リレーコラム 「全国の教会・施設から」③日本福音ルーテル恵み野教会中島和喜(日本福音ルーテル恵み野教会・函館教会牧師)恵み野教会は「北海道伝道推進計画」の中で1985年に建てられた教会です。当時、開拓伝道の地として北海道内のどこに教会を建てるかと協議していた最中、同時期に恵庭市によるニュータウン計画が進行中であり、教会用地に予定されている土地に教会を建てないかとの市側からの呼びかけによって建てられた珍しい教会でもあります。そのため、まだ周辺に建物が少ない時期から、恵み野教会は地域の教会として立ち続けています。 九州学院みどり幼稚園新垣力(九州学院みどり幼稚園園長)九州学院みどり幼稚園は、1924年に米国から来日し、九州学院に赴任した宣教師、ルイス・ルー・グレーシー氏が自宅の一室で10人の子どもたちを集めて幼児教育をスタートしたのが始まりであるとされており、2024年12月で100周年を迎えます。 エキュメニカルな交わりから ⑰平和を実現するキリスト者ネット小泉嗣(日本福音ルーテル熊本教会・玉名教会・八代教会牧師)「平和を実現するキリスト者ネット(以下・平和ネット)」は、平和ネットのホームページによると、国会で日米安保条約の新ガイドライン、周辺事態法、国旗・国歌法等が次々と成立し、平和と信教の自由が侵される危うい状況に危機感を持った日本キリスト教協議会(以下・NCC)が呼びかけて1999年に設立された34の日本のキリスト教会、教派、団体で構成されたネットワークです。 「平和へ向けての提言核問題の視点から」内藤新吾(日本福音ルーテル稔台教会牧師)平和と核の問題は一体です。また、核について日本では、「核」と「原子力」と言葉の使い分けがされますが、世界では区別なく(nuclear)、軍事と平和利用は緊張関係にあり繋がっています。私たちは、原発がなぜ普及するようになったかの歴史的背景を注意深く見ておく必要があります。原発を推進する国や企業は「原爆と原発は違います」と繰り返し言ってきましたが、実はそこに一番触れられたくない事情が隠されています。 デンマーク牧場福祉会20周年記念感謝会報告櫻井隆(デンマーク牧場福祉会理事長)6月10日、ルーテル教会関係者約50名を含め、来賓・職員など総勢150名ほどの方が参加されて、デンマーク牧場福祉会の20周年記念感謝会を実施することができました。感謝会では、現在の法人の状況を知ってもらうことを主眼としたため、著名な方をお迎えした講演会などは行わず、創立から20年が経過した現在の様子を紹介させていただきました。 南熊本教会共同体「初夏の集い」を久しぶりに開催⻆本浩(日本福音ルーテル神水教会・松橋教会・荒尾教会牧師)南熊本教会共同体(私たちは普段「南熊本群」と呼んでいます)では、共同体内の人件費支援を行ったり、共同体として出席する全国総会に小さな群れの信徒が無理なく行けるように総会旅費の積み立てを行ったりしてきました。また、年2回の合同役員会、そして、年2回の講壇奉仕交換プログラムも続けています。おそらく、これだけ実質的な協働を続けている教会共同体は全国でも珍しいのでは、と思っています。 「2023年 ルーテル聖書日課読者の集い」のご案内「ルーテル聖書日課読者の集い」が3年ぶりに対面開催されます。聖書日課の講読者ではない方もご参加頂けます。皆様のご参加をお待ちしております。 〈主題〉ローマ書を学ぶ(仮題) |
23-07-02 | 今日を、明日を生きるために |
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイによる福音書11章25~30節(28節)) 一体どれだけの人がこれまで、このイエスの言葉に癒され、励まされ、導かれてきたのでしょうか? |
23-07-02 | るうてる2023年07月号 |
「今日を、明日を生きるために」日本福音ルーテル熊本教会・玉名教会・八代教会牧師 小泉嗣「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイによる福音書11章25~30節(28節)) 一体どれだけの人がこれまで、このイエスの言葉に癒され、励まされ、導かれてきたのでしょうか? その疲れの原因はともかく、とにかく「疲れている」すべての人に向けてこの言葉は語られています。もちろん、一義的には2000年前のイスラエルに住む人々に向けてでしょう。マタイによる福音書11章はイエスの宣教の記述にはじまり、洗礼者ヨハネの弟子たちとのやりとり、そして彼についての解説の後、コラジンにはじまりカファルナウムまで、イエスが数多くの奇跡を行ったにもかかわらず悔い改めなかった町々を叱り、そして神のみ心が知恵ある者や賢い者ではなく、幼子のような者に示されたことを明らかにしたうえで、このイエスの言葉が語られています。このことから考えると、「疲れた者」とは、洗礼者ヨハネの言葉にも、イエスの宣教の業によっても、悔い改めなかった人々、知恵ある人、賢い人によって、その疲れる原因を与えられた人々の事かもしれません。彼らは自らは天まで上げられると思っていた人々、自らは知恵ある賢いと思っていた人、神に対して謝ることをせず、思い上がり、自分の知恵や力を頼りにする、そんな人々によって、重荷を負わされたのです。その人々とはファリサイ派や律法主義者、宗教的指導者のことであったのかもしれません。彼らによって「罪」を負わされた人々、圧政によって厳しい生活をしていた人々を、マタイによる福音書に多く見ることができるからです。イエスはそんなファリサイ派や律法学者と対峙し、神のみ旨を伝え、そして彼らによって「罪」を負わされた人々を癒し、救い、生きる力を与えられたのです。 イエスによって癒され、救われた人々には明日がありました。だから「休ませてあげよう」と言われているのでしょう。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」この言葉は、臨終の言葉ではなく、今日を生きる人々に向けて語られているのです。そしてまたイエスは続けます「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」と。 イエスの目から見れば、時の指導者たちは神に対して、人に対して、粗暴で険悪、傲慢な人々であったのでしょう。必要以上に神に求め、人に強いていた、そのことでたくさんの人が重荷を負わされ、疲れていたのです。だからこそ、イエスに学ぶように、多くを求めず、強いることをせず、ただイエスに聞くこと、それが父なる神を知ることになるのだと、イエスは言うのです。 なるほど、だからこそ、この言葉に私たちは癒され、励まされ、導かれるのです。もちろん私たちのまわりには律法学者やファリサイ派はいませんし、直接的な圧政に苦しめられているとも言えないでしょう。しかし私たちは、傲慢で、険悪で、自らの正しさや、知恵や力に頼る人々によって、また社会によって、どこかで無理を強いられ、何がしかの圧力に疲れを感じているのではないでしょうか?またもしかしたら、自分自身がそのように無理を強いたり、圧力をかけたりしているのではないでしょうか?そしてそのことによって、重荷を負い、生きることに疲れてしまっているのではないでしょうか? 「もしそうであるならば、私のもとに来なさい。あなたが今日を生きるために、休ませてあげよう。あなたが明日を生きるために、柔和で謙遜な私から学びなさい。」イエスはそんな私たちに、2000年前から今日まで、そしてきっとこれからも、このように語りかけてくださっているのです。 エッセイ「命のことば」 伊藤早奈㊵「立ち止まって」「主をたたえよ。嘆き祈るわたしの声を聞いてくださいました。」(詩編28・6) 道端に咲く野の花に座って話しかけている人のシーンを見ました。あの花が喋り出したらいろんなことを教えてくれそうだなと思うとなんだかすごく楽しく感じました。 改・宣教室から日本福音ルーテル教会 総会議長 永吉秀人「議長室から」改め、「宣教室から」のメッセージへ。 このたびの全国総会において、第30期の議長として選任されました永吉でございます。感染症拡大の影響により3年間の忍耐を経て、各個教会におかれましても全体教会においても宣教の活性化のチャンスが訪れました。かつてのように密集する活動に戻ることはありませんが、社会の意識にふさわしく配慮された活動が展開され、創出できると希望を持っています。 「教会讃美歌 増補」 解説㊲増補26番「かみさま わたしのとなりびとは だれ」奈良部慎平(日本福音ルーテル 東京教会信徒) ちょうどわが家に子どもが生まれたタイミングで、「宗教改革500周年の記念にもなるし、教会に行った時に子どもたちと一緒に歌える歌があるといいな」と思い作詞してみました。 ㊳増補33番「インマヌエル」水原久美子(日本福音ルーテルシオン教会員) 教会に行き始める以前、家庭集会に招かれ通うようになりました。会って間もない私の話を、皆さんが一生懸命聞いて下さいました。そのことは、強烈な印象として記憶しています。 世界の教会の声浅野直樹Sr.(世界宣教主事 市ヶ谷教会・スオミ教会牧師)ルター派と正教会エキュメニカル協議会の神学的対話について LWFと正教会(エキュメニカル総主教指導の下)の国際合同委員会による神学対話が、4月29日から5月6日までルターとメランヒトンが活躍した都市ヴィッテンベルクで開催されました。 LWFエキュメニズム部門のランゲ教授によると「議論はとても建設的で、会話は前向きでした。委員全員が責任をもって真剣に取り組むという経験をできたのは喜びでした。双方から1人ずつ議長が出て、話し合いは活発に進められ集中できました。」 会期中、エキュメニカル総主教バルトロメオ1世とLWF事務局長アンネ・ブルグハルト師から、40年以上におよぶルーテル教会と正教会による神学対話の進展を祝うメッセージが届けられました。またヴィッテンベルクの城教会では「みことばの礼拝」が、ナウムブルク大聖堂ではルター派の聖餐式が行われました。 エピクレーシス(聖餐式において聖霊を想起し、パンとぶどう酒そして会衆に向けて聖霊の降臨を呼び求める祈り)は、正教会の典礼と教会論の中心にあるため、そこに議論が集中しました。ルターは、ドイツ語ミサ典礼にはその形式を取り入れましたが、当時のカトリックのミサ典礼には入っていなかったため、特に強調しませんでした。けれどもエピクレーシスは、この100年の間、殊に20世紀半ばの北アメリカとスウェーデンの典礼刷新運動を機に多くのプロテスタント教会で再び位置を占めるようになってきました。 もう一つ「活発な議論」になったのはフィリオクエ論争です。この論争の発端は、ニケア信条の「(聖霊は)父と子から出で」の「子から」を、ラテン語西方教会が6世紀後半に挿入したことです。この文言の挿入によって、西と東の教会間には深い溝ができてしまいました。 委員たちは「異なる神学的枠組み、典礼としての帰結、考えられる着地点」を探り、次回の委員会で「牧会的意義を検討しつつさらに研究プロセスを深める」ことに合意しました。LWFは、エキュメニカルな礼拝においてフィリオクエ(子から)の文言を省くことを勧めています。ナウムブルク大聖堂でランゲ教授が司式したルター派礼拝ではそのように行われました。 ※詳細についてはWEBサイトをご参考ください。 リレーコラム 「全国の教会・施設から」②札幌教会小泉 基(日本福音ルーテル札幌教会牧師) 札幌教会は、三位一体の教会だといえます。それぞれに宣教の歴史を刻んできた札幌教会、札幌北教会、新札幌教会という三つの教会が、ひとつの教会としてのあゆみをはじめて16年になります。もっとも長い歴史を有するのが札幌礼拝堂。フィンランドの宣教団体が1916年に伝道をスタートさせ、翌年教会が組織されて北海道にはじめてのルーテル教会が誕生しました。8年もの伝道中断期を経験するなど、困難な時代も経験しつつ、1934年に市南部に風格ある礼拝堂が献堂され、3年後にはお隣りにめばえ幼稚園も開園してその宣教は軌道に乗りました。札幌市景観重要建造物(第1号)にも認定されているこの堂々たる礼拝堂は、現在も大切に用いられています。一方戦後、市北部で継続していた伝道活動が実を結び、1964年に札幌北教会が生まれます。1969年に献堂した礼拝堂は2006年に建て替えられ、地下鉄駅の出口にも近い交通至便の使いやすい現在地に礼拝堂を得て、札幌北礼拝堂として宣教が続けられています。最も新しい新札幌礼拝堂は札幌の副都心、JR新札幌駅から徒歩5分という好立地に1981年、全国レベル開拓伝道の一環として清新な礼拝堂を献堂。新札幌教会として宣教がはじまりました。 大阪でペンテコステ・ヴィジル礼拝開催竹田大地(日本福音ルーテル天王寺教会牧師) 5月27日(土)午後5時から日本福音ルーテル天王寺を会場に第15回ペンテコステ・ヴィジルが執り行われました。この礼拝は、初めカトリック教会、聖公会、日本基督教団の3教派の取り組みとして始まり、2011年の第5回から日本福音ルーテル教会も加わり、大阪地区の4教派のいずれかの教会で行なわれてきました。第15回の今回は日本福音ルーテル天王寺教会で執り行われ、各教派の方々が集い、合計で40名の出席がありました。 エキュメニカルな交わりから ⑮NCCエクロフ委員会滝田浩之(日本福音ルーテル小石川教会牧師) エクロフ ⑯NCC靖国神社問題委員会岡田 薫(日本福音ルーテル帯広教会・札幌教会牧師) 日本キリスト教協議会(以下NCCと表記)には、「宣教・奉仕」、「神学・宣教」、「国際」、「総務」という四つの部門があり、今回ご紹介する「靖国神社問題委員会」は「宣教・奉仕部門」にある八つの委員会のうちの一つです。「ヤスクニ神社問題委員会」と表記されることもあるようです。 ※詳細についてはWEBサイトをご参考ください。 第30期総会期 諸委員一覧【常設委員】 るうてる法人会連合開催のお知らせ現地実行委員長 ⻆本 浩 宣教に取り組むルーテルグループの社会福祉法人、学校法人、教会が手を携えて歩もうと生まれたるうてる法人会連合。早いもので設立から今年は21年目となります。 TNG‐ユース部門「第2回リーダー研修キャンプ」開催案内竹田大地(TNG│ユース部門長・日本福音ルーテル天王寺教会) 3年前に企画し、COVID│19の影響により延期していた「第2回リーダー研修キャンプ」を開催する運びとなりました。 〈申込先〉 2023年度「日本福音ルーテル教会教師試験」について2023年度「日本福音ルーテル教会教師試験」を以下要領にて実施いたします。教師志願者は必要書類を整え、教会事務局にご提出くださいますよう、お知らせします。 記 テーマ 書式 A4横書き ◇教籍謄本(所属教会教籍簿の写し ◇成年被後見人または被保佐人として登記されていないことの証明書(法務局交付のもの。任用試験時に必要になります) ◇所属教会牧師の推薦書 ◇神学校卒業(見込)証明書及び推薦書 ◇健康診断書(事務局に所定の用紙があります) 〈提出先〉 〈提出期限(期限厳守)〉 ◇個人で神学の研鑽を積み受験を希望する者は、必ず神学教育委員会の推薦を得ること 〈試験日及び試験内容〉 |
23-06-01 | 召命と派遣 |
「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水を一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」(マタイによる福音書10・42) マタイ福音書10章には、12人の弟子が選ばれ派遣されることが書かれています。この12人はイエス様から「収穫のための働き手(同9・37)」として遣わされますが、その際の注意事項、心掛けなども同時に語られています。行き先、持ち物、そして弟子たちを襲うであろう迫害、危険など…これらは、強気な時に聞けば心の火に燃料を注ぐような言葉に聞こえますが、弱気になっているときに聞くと、恐ろしい言葉に聞こえてきます。自分にそんなことができるだろうか、耐えられるだろうかと怯んでしまいそうになるには十分な言葉です。イエス様の名前のゆえに、またイエス様の弟子であるがゆえに迫害され、労苦し、命を失う。そんなことを言われて、誰が喜んで従うでしょうか。これらの言葉は、従う理由というよりも、従いたくない理由ではないかとさえ思えます。ではイエス様は、ご自分に従う人を選別するために、あえて厳しい言葉を語られているのでしょうか。覚悟のできていない人間を切り捨てるために語っておられるのでしょうか。 決してそうではないはずです。それらの厳しい言葉の合間には、いくつかの励ましも語られています。これらは弟子たちが実際に経験した危機的状況の中で、何度も支えとした言葉の数々だったのではないかと思うのです。それらの厳しさを伴う派遣の言葉の結びとして語られるのが、10章42節の言葉です。「わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水を一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」イエス様は弟子たちを傷つけたくて召し出し、遣わすのではないのです。イエス様の弟子であることで苦しむことがあっても、それが目的なのではありません。イエス様は、一人ひとりをご自分の弟子とすることで、「小さな者の一人に一杯の水を飲ませる」理由を与えておられるのです。 イエス様が教えられた隣人愛とは「隣人を愛すること」ではなく「隣人となること」です。派遣の言葉の一部である10章6節には「むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。」とあります。「イスラエルの人々」と言われると、同胞、仲間に対してのみという意味に聞こえますが、9章の終わりに「飼い主のいない羊のような人々」とあるように、そこには「失われた羊」がいたのです。群れからはぐれた、あるいは外されてしまった人々がいたのです。多くの人からすればその人々は「自分とは無関係の人」「愛する理由のない人」です。イエス様は弟子を召し出し、ご自分の言葉によって遣わすことで、そのような人々と弟子とされた人々との間に「一杯の冷たい水」を飲ませる関係をつくられるのです。 私たちがキリストの弟子とされている、キリストに従う者であるということは、私たちには人を愛する理由、根拠が与えられているということです。助けの手を伸ばすことによって、自分が傷つくことももちろんあるでしょう。周囲からの批判または非難を受けることもあるでしょう。イエス様が予告されているように、狼の群れに羊を送り込むように私たちも遣わされます。ですが私たちを苦しめることがイエス様の目的なのではありません。危険があるとわかっている道に、イエス様は私 たちを送り出すのです。それは神様がこの世にイエス様を遣わされた思いに通じるものがあるように思います。そこには神様ご自身が苦しむような、深い憐れみがあったのです。それと同じ思いで、イエス様は私たちを遣わされます。私たちに愛する理由を与えることがイエス様の目的だからです。愛することには痛みも苦しみも伴います。十字架にはそのことが現れています。ですがその先に確かな報いがあることを、私たちは約束されているのです。その報いの中には、弟子とされたことの喜びがあるはずです。このイエス様の言葉に信頼し、私たちもそれぞれの場所へと派遣されてまいりましょう。そこで出会う人々を愛する理由、愛し合う関係が、イエス様によって既に私たちには与えられているのです。 |
23-06-01 | るうてる2023年06月号 |
「召命と派遣」日本福音ルーテル横浜教会・横須賀教会牧師 市原悠史「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水を一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」(マタイによる福音書10・42) マタイ福音書10章には、12人の弟子が選ばれ派遣されることが書かれています。この12人はイエス様から「収穫のための働き手(同9・37)」として遣わされますが、その際の注意事項、心掛けなども同時に語られています。行き先、持ち物、そして弟子たちを襲うであろう迫害、危険など…これらは、強気な時に聞けば心の火に燃料を注ぐような言葉に聞こえますが、弱気になっているときに聞くと、恐ろしい言葉に聞こえてきます。自分にそんなことができるだろうか、耐えられるだろうかと怯んでしまいそうになるには十分な言葉です。イエス様の名前のゆえに、またイエス様の弟子であるがゆえに迫害され、労苦し、命を失う。そんなことを言われて、誰が喜んで従うでしょうか。これらの言葉は、従う理由というよりも、従いたくない理由ではないかとさえ思えます。ではイエス様は、ご自分に従う人を選別するために、あえて厳しい言葉を語られているのでしょうか。覚悟のできていない人間を切り捨てるために語っておられるのでしょうか。 決してそうではないはずです。それらの厳しい言葉の合間には、いくつかの励ましも語られています。これらは弟子たちが実際に経験した危機的状況の中で、何度も支えとした言葉の数々だったのではないかと思うのです。それらの厳しさを伴う派遣の言葉の結びとして語られるのが、10章42節の言葉です。「わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水を一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」イエス様は弟子たちを傷つけたくて召し出し、遣わすのではないのです。イエス様の弟子であることで苦しむことがあっても、それが目的なのではありません。イエス様は、一人ひとりをご自分の弟子とすることで、「小さな者の一人に一杯の水を飲ませる」理由を与えておられるのです。 イエス様が教えられた隣人愛とは「隣人を愛すること」ではなく「隣人となること」です。派遣の言葉の一部である10章6節には「むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。」とあります。「イスラエルの人々」と言われると、同胞、仲間に対してのみという意味に聞こえますが、9章の終わりに「飼い主のいない羊のような人々」とあるように、そこには「失われた羊」がいたのです。群れからはぐれた、あるいは外されてしまった人々がいたのです。多くの人からすればその人々は「自分とは無関係の人」「愛する理由のない人」です。イエス様は弟子を召し出し、ご自分の言葉によって遣わすことで、そのような人々と弟子とされた人々との間に「一杯の冷たい水」を飲ませる関係をつくられるのです。 私たちがキリストの弟子とされている、キリストに従う者であるということは、私たちには人を愛する理由、根拠が与えられているということです。助けの手を伸ばすことによって、自分が傷つくことももちろんあるでしょう。周囲からの批判または非難を受けることもあるでしょう。イエス様が予告されているように、狼の群れに羊を送り込むように私たちも遣わされます。ですが私たちを苦しめることがイエス様の目的なのではありません。危険があるとわかっている道に、イエス様は私 たちを送り出すのです。それは神様がこの世にイエス様を遣わされた思いに通じるものがあるように思います。そこには神様ご自身が苦しむような、深い憐れみがあったのです。それと同じ思いで、イエス様は私たちを遣わされます。私たちに愛する理由を与えることがイエス様の目的だからです。愛することには痛みも苦しみも伴います。十字架にはそのことが現れています。ですがその先に確かな報いがあることを、私たちは約束されているのです。その報いの中には、弟子とされたことの喜びがあるはずです。このイエス様の言葉に信頼し、私たちもそれぞれの場所へと派遣されてまいりましょう。そこで出会う人々を愛する理由、愛し合う関係が、イエス様によって既に私たちには与えられているのです。 エッセイ「命のことば」 伊藤早奈㊴「幸せ」「忍耐した人たちは幸せだと、わたしたちは思います。あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、主が最後にどのようにしてくださったかを知っています。主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです。」(ヤコブの手紙5・11) 「迷うということは選べるということであなたは幸せですよ。」 総会議長所信日本福音ルーテル教会 総会議長 永吉秀人 このたび、日本福音ルーテル教会第29回・第30回定期総会におきまして次期総会議長として選出されました永吉秀人でございます。出自は福岡県久留米市。日本福音ルーテル久留米教会にて渡辺潔牧師より受洗、後に天王寺教会より神学校へ献身。1985年の按手後、藤枝教会、神学校チャプレン、静岡教会、天王寺教会を経て、現在は蒲田教会で牧会をしております。 「教会讃美歌 増補」 解説㊱増補23番「主なる神に感謝の歌」日笠山吉之(九州学院チャプレン) ルターによるコラール集もとうとう最後の曲となりました。作詞、作曲ともルターの名前が記されていますが、かっこで括られた部分が重要です。ドイツ語による歌詞の初行の下には(テ デウム ラウダムス)とあります。これは昔からローマ・カトリック教会で歌い継がれてきたグレゴリオ聖歌の一つ『テ・デウム』を指しています。意味は「神よ、あなたをほめたたえます」。元々はラテン語で書かれた長いテキストですが、要するに父と子と聖霊なる三位一体の神をほめたたえた賛歌です。ルターは神学的な相違からまた彼自身の信仰と良心に従って当時のカトリック教会と袂を分かちましたが、それまで教会で大切に歌い継がれてきた賛美歌まで捨て去ることはありませんでした。 世界の教会の声浅野直樹Sr.(世界宣教主事 市ヶ谷教会・スオミ教会牧師)台湾ルーテル教会初の女性総会議長誕生 台湾ルーテル教会(中華民国)(LCT)のセルマ・チェン(Shu-Chen)師は、今年1月に台湾のルーテル教会初の女性総会議長として就任しました。 ※詳細についてはWEBサイトをご参考ください。 リレーコラム 「全国の教会・施設から」①函館教会中島和喜 (恵み野教会・函館教会) 函館教会は、フィンランドの教会の宣教への熱意によって1950年に誕生した教会です。今年で73年の歴史を刻みますが、この4月に4年間ご奉仕下さった小泉基牧師から中島への交代が行われました。これにともなって、教会の歴史ではじめて常態的な兼牧体勢がスタートしました。土曜日の夜に約300キロメートル離れた恵み野教会から私が函館教会に行くことにより、毎週日曜日の朝の礼拝を継続しています。これでも恵み野教会が最も近い教会だというのですから、改めて北海道の広さを感じるところでもあります。 ①九州学院小副川幸孝 (九州学院院長) 熊本にあります九州学院は、1911年に、アメリカからの宣教師C.L.ブラウン博士と米国南部一致ルーテル教会の人々の祈りと献金によって、日本の青少年教育のために設立されました。 「ルーテルこどもキャンプ」開催のお知らせTNG子ども部門 池谷考史 (博多教会・福岡西教会)TNG子ども部門では、8月9日(水)~11日(金・祝)、広島教会を会場に「第24回ルーテルこどもキャンプ」を開催します。対面でのキャンプは4年ぶりとなります。テーマはこれまでと同じ、「来んさい 広島 Peace じゃけん」としました。 日本福音ルーテル教会 第29回・第30回 定期総会報告滝田浩之(第28回総会期事務局長・小石川教会)5月3日(水)~5日(金)に5年ぶりに対面で日本福音ルーテル教会定期総会が宣教百年記念東京会堂(東京教会)で開催されました。 審議された内容は以下の通りです。 (1)第31回定期総会の件 (2) 総会選出常議員選挙の件 (3) 第7次綜合宣教方策の件 (4) アジア宣教の件 (5) ハラスメント防止委員会の規則明文化の件 (6) 決算・予算の件 詳しくは、後日配布される総会議事録をご確認くださいますようにお願い申し上げます。 全国教師会総会報告立山忠浩(前全国教師会会長・都南教会) 全国教師会総会が全国総会の前日の5月2日(火)に開催されました。全国総会と同様に5年振りの開催となりました。教師会は按手に与った現任教師(宣教師も含まれます)が正議員になります。現在71名で構成されています。議案は5年間の活動報告の承認、相互扶助会改定案、そして新役員及び教師試験委員候補者を選出することでした。 公 告この度左記の行為を致しますので、宗教法人法第二三条の規定に基づき公告致します。 2023年6月15日 信徒利害関係人 各位 本教会所管の市ヶ谷会館耐震補強工事費用借入(最終支払資金) |
23-05-01 | むすんでひらいて |
(イエスは)言われた。「聖霊を受けなさい。」 健軍教会のシンボルツリーはハナミズキです。蕾のような包葉は花を覆ったまま膨らみ、やがてそれは頂点を残して裂けるように開きます。そのまま大きくなった後、上に残った結び目をほどくようにして広げます。文字通り、結ばれていたものが開き中の小さな花が姿を現してゆく。とても不思議で美しく、結び目が解けるまでの緊張感と共にその優雅な姿に心を動かされます。 イースターの夕方に弟子たちは「恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけて」(19節)いました。口語訳聖書では「戸をみなしめて」、岩波訳聖書では「〔すべての戸〕」としています。「戸」は複数です。弟子たちは恐れのあまり、いくつもの戸を閉ざして一番奥の部屋に閉じこもっていました。もしくは実際の戸は一つであったとしても、弟子たち一人ひとりは心の戸を閉ざしていました。裏切り見捨てたイエスが処刑され、自分も逮捕されるかもしれないと、これまでの充実した日々が覆される事態に恐れおののいていました。この人たちを守るものが「戸」でした。それを固く閉ざし、息を殺し、震えて潜み、落ち込んでいたのでした。しかし、この弟子たちの真ん中にイエスが来ました。そして弟子たちに息を吹きかけ、「聖霊を受けなさい」(22節)と言います。聖霊による具体的な行動として、赦しを弟子たちに託したのでした。 閉じこもる弟子たちは私たちです。人間関係での破れや傷を経験することがあり、誰かのしんどさを支えきれず後ろめたさを抱くことがあり、攻撃的な言葉に疲れ果て心が塞ぐことがあり、社会の不条理に怒りを覚えることがあります。けれど、そこにこそイエスは来て、聖霊により固く結ばれてしまっているものを解くのです。 『むすんでひらいて』は広く知られています。ルソーが作曲したオペラの曲だそうです。やがて讃美歌となり、日本でも『キミノミチビキ』というタイトルで明治、大正時代の教会で歌われました。やがて唱歌となり『見渡せば』と春秋の美しい風景を歌い、さらに戦中は軍歌『戦闘歌』となりました。そして戦後、小学1年生の教科書に『むすんでひらいて』として登場し、私たちがよく知る歌となっています。 ペンテコステも、神の生きた働きである聖霊によって、私たちを「むすんでひらいて」、そして「むすぶ」出来事です。それは赦し赦されるという一点で関係を結び合わせ、その緊張を保ちつつ花びらのような葉を広げるハナミズキのように、健気で美しい姿で希望を与えるものとなるのです。ペンテコステは教会の誕生と呼ばれていますが、教会とはまさに赦され・赦すことにより解放され深く結び合うための器として生まれました。連なる一人ひとりはその器の大切な一部です。 その手と脇腹に傷を負うことで愛情を注いでくださったイエス・キリストが、たとえ見ることや触れることができなくとも、息を吹きかけ続け、つながりを持ち続けてくださいます。花は散ってもそこに咲いていることを思い描けるように、姿はなくとも祈りの言葉で心を通わせ合うことができるように、イエスの息もイエスの声も確かにあり、私たちはそれを抱き続けるのです。 |
23-05-01 | るうてる2023年05月号 |
「むすんでひらいて」日本福音ルーテル健軍教会・甲佐教会牧師 安井宣生(イエスは)言われた。「聖霊を受けなさい。」ヨハネによる福音書20章22節 健軍教会のシンボルツリーはハナミズキです。蕾のような包葉は花を覆ったまま膨らみ、やがてそれは頂点を残して裂けるように開きます。そのまま大きくなった後、上に残った結び目をほどくようにして広げます。文字通り、結ばれていたものが開き中の小さな花が姿を現してゆく。とても不思議で美しく、結び目が解けるまでの緊張感と共にその優雅な姿に心を動かされます。 イースターの夕方に弟子たちは「恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけて」(19節)いました。口語訳聖書では「戸をみなしめて」、岩波訳聖書では「〔すべての戸〕」としています。「戸」は複数です。弟子たちは恐れのあまり、いくつもの戸を閉ざして一番奥の部屋に閉じこもっていました。もしくは実際の戸は一つであったとしても、弟子たち一人ひとりは心の戸を閉ざしていました。裏切り見捨てたイエスが処刑され、自分も逮捕されるかもしれないと、これまでの充実した日々が覆される事態に恐れおののいていました。この人たちを守るものが「戸」でした。それを固く閉ざし、息を殺し、震えて潜み、落ち込んでいたのでした。しかし、この弟子たちの真ん中にイエスが来ました。そして弟子たちに息を吹きかけ、「聖霊を受けなさい」(22節)と言います。聖霊による具体的な行動として、赦しを弟子たちに託したのでした。 閉じこもる弟子たちは私たちです。人間関係での破れや傷を経験することがあり、誰かのしんどさを支えきれず後ろめたさを抱くことがあり、攻撃的な言葉に疲れ果て心が塞ぐことがあり、社会の不条理に怒りを覚えることがあります。けれど、そこにこそイエスは来て、聖霊により固く結ばれてしまっているものを解くのです。 『むすんでひらいて』は広く知られています。ルソーが作曲したオペラの曲だそうです。やがて讃美歌となり、日本でも『キミノミチビキ』というタイトルで明治、大正時代の教会で歌われました。やがて唱歌となり『見渡せば』と春秋の美しい風景を歌い、さらに戦中は軍歌『戦闘歌』となりました。そして戦後、小学1年生の教科書に『むすんでひらいて』として登場し、私たちがよく知る歌となっています。 ペンテコステも、神の生きた働きである聖霊によって、私たちを「むすんでひらいて」、そして「むすぶ」出来事です。それは赦し赦されるという一点で関係を結び合わせ、その緊張を保ちつつ花びらのような葉を広げるハナミズキのように、健気で美しい姿で希望を与えるものとなるのです。ペンテコステは教会の誕生と呼ばれていますが、教会とはまさに赦され・赦すことにより解放され深く結び合うための器として生まれました。連なる一人ひとりはその器の大切な一部です。 その手と脇腹に傷を負うことで愛情を注いでくださったイエス・キリストが、たとえ見ることや触れることができなくとも、息を吹きかけ続け、つながりを持ち続けてくださいます。花は散ってもそこに咲いていることを思い描けるように、姿はなくとも祈りの言葉で心を通わせ合うことができるように、イエスの息もイエスの声も確かにあり、私たちはそれを抱き続けるのです。 エッセイ「命のことば」 伊藤早奈㊳「ぬくもりの中で」「神の前では、わたしもあなたと同じように/土から取られたひとかけらのものにすぎない。」(ヨブ記33・6) 空を見上げてみると「あー雲が変わってる。季節が変わってきてるんだ。」としばらく上を見てからふと下を見ると、冬のあいだは枯れ葉が土を温めるかのようにふわりと土の上に広がっていました。 議長室から 大柴譲治羊飼いキリスト「主は私の羊飼い。/私は乏しいことがない。/主は私を緑の野に伏させ/憩いの汀に伴われる。/主は私の魂を生き返らせ/御名にふさわしく、正しい道へと導かれる。」(詩編23・1~3、聖書協会共同訳) 2018年8月号から始まった「聽〜議長室から」も今回が最終回。5年間で58回書かせていただきました。これまでのお支えとお祈りに感謝いたします。 「教会讃美歌 増補」 解説㉟増補21番「彼女は優しい価値あるおとめ」・増補22番「三つであり 一つ」石丸潤一(西日本福音ルーテル新田教会牧師) ㉞増補19番「キリエ エレイソン」・増補20番「神の小羊」 増補21番「彼女は優しい価値あるおとめ」 増補22番「三つであり 一つ」 世界の教会の声浅野直樹Sr.(世界宣教主事 市ヶ谷教会・スオミ教会牧師)信仰による促しによって働く教会 ロシアがウクライナに軍事侵攻して1年以上が経過しましたが、ウクライナにあるドイツ福音ルーテル教会(GELCU)は2022年6月にLWFに加盟し、教会周辺住民への支援を続けています。1年が経過してパブロ・シュヴァルツ監督が、教会が行っている人道支援や戦時下における信仰生活について話してくれました。 ※詳細についてはWEBサイトをご参考ください。 コミュニティ・カフェ@大久保・高田馬場~出会い、交流、相談、憩いの場となるように 東京教会「牧師カフェ」、前任の関野和寛・後藤直紀両牧師時代に、地域に開かれた「カフェ」と「ヌーンサービス」という祈りと音楽の会が、毎週水曜日に行われていました。が、コロナ禍のため休止となり、また担当奉仕者の確保等の課題もあり、再開を模索中でしたが、国内外の災害支援を担う特定非営利活動法人「CWS Japan」(Church World Service Japan、ACTジャパンフォーラムをNCCと共に組織)との共催で、新たに「コミュニティ・カフェ」(仮称)を開店(!?)することとなりました。CWS Japanは、外国人が多く住み生活する大久保で、特に災害時に自治体からの支援が届かない外国の方々に、どんな支援が可能かを模索し、地域との協力、協働を探り、まず状況把握から始め、生活相談会の開催等の会場提供から、私たち東京教会との関係が始まりました。教会を会場に、地域の方々の「出会い、交流、相談、憩いの場」の提供はできないかと話し合い、以前の「牧師カフェ」のノウハウを生かして取り組むことにしました。これは、地域貢献を目指す教会と、地域で活動を担おうとする団体との出会い、コラボ企画になりました。教会は「場所はある、しかし、働き手がいない(地域居住で継続的奉仕が可能な教会員はいない)」、一方、CWS Japanは、「ボランティア活動の人員はいる、しかし、場所がない(拠点がない)」で、いわゆる「ウィンウィン」が成立したのです。 エキュメニカルな交わりから⑭NCC神学・宣教委員会
|
23-04-01 | るうてる2023年04月号 |
「笑顔で、寄り添う」日本福音ルーテル市川教会・津田沼教会牧師 中島康文「今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。」ルカによる福音書6章21節 1983年4月2日、その日はイースターの前日で、私は黒崎教会(既に解組)で最初の礼拝を迎える準備をしていた。按手を受け、牧師として最初の礼拝に、緊張しつつも熱い意気込みを抱いていた私に、友人から電話があった、「るつちゃんが死んだ!」と。意味が分からず黙している私に、友人は「フィリピンで溺れた子どもを助けようとして飛び込み、子どもは助かったけど彼女は亡くなった」と状況を説明してくれて電話は切れた。 エッセイ「命のことば」 伊藤早奈㊲「みんな違って」「深い地の底も御手の内にあり/山々の頂も主のもの。/海も主のもの、それを造られたのは主。/陸もまた、御手によって形づくられた。」(詩編95・4~5) 「味気ないなぁ…」そのように思ったのは最近よく使うようになった冷凍食品の『野菜のみじん切り』を見た時でした。 議長室から 大柴譲治「共死」の覚悟に裏打ちされた愛「ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」(ルカ15・20b) イースターおめでとうございます。ある新聞記事をご紹介させてください。「斎藤強君は中学一年の時から不登校になる。まじめで、ちょっとしたつまずきでも自分を厳しく責めた。自殺を図ったのは二十歳の春だった◆ガソリンをかぶった。精神科医の忠告で彼の行動を見守っていた父親は、その瞬間、息子を抱きしめた。自らもガソリンにまみれて叫ぶ。「強、火をつけろ」。抱き合い、二人は声をあげて泣き続けた◆一緒に死んでくれるほど、父親にとって自分はかけがえのない存在なのか。あの時生まれて初めて、自分は生きる価値があるのだと実感できた。強君は後にこの精神科医、森下一さんにそう告白する◆森下さんは十八年前、姫路市に診療所を開設、不登校の子どもたちに積極的に取り組んできた。彼らのためにフリースクールと全寮制高校も作り、一昨年、吉川英治文化賞を受賞した◆この間にかかわってきた症例は三千を超える。その豊富な体験から生まれた近著〈「不登校児」が教えてくれたもの〉(グラフ社)には、立ち直りのきっかけを求めて苦闘する多くの家族が登場する◆不登校は親へのさい疑心に根差している。だから、子どもは心と体でまるごと受け止めてやろう。親子は、人生の大事、人間の深みにおいて出会った時、初めて真の親子になれる。森下さんはそう結論する。」(編集手帳、読売新聞2000年10月29日朝刊P.1) 「教会讃美歌 増補」 解説㉞増補19番「キリエ エレイソン」・増補20番「神の小羊」松本義宣 ㉞増補19番「キリエ エレイソン」・増補20番「神の小羊」 増補19番「キリエ エレイソン」 増補20番「神の小羊」 世界の教会の声浅野直樹Sr.(世界宣教主事 市ヶ谷教会・スオミ教会牧師)ポスト共産主義を生きる教会 スロバキア共和国のルーテル教会(アウグスブルグ信仰告白教会)監督がポスト共産主義を生きる教会について語ったインタビュー記事を抜粋して紹介します。イバン・エルコ監督は冷戦時代のチェコスロバキアで牧師の家庭に育ちました。 「父は牧師でしたが、私は牧師になるつもりはありませんでした。ルター派信徒として毎週日曜日教会に来てはいましたが、自分の将来のことなど考えてはいませんでした。信仰的なクリスチャンとは言えなかったし、とてものんきに過ごしていたのですが、1982年の2月のある日、私は突如として神学を学び牧師になりたいと自覚したのです。」 —共産主義下で神学を学ぶというのは大変でしたか。 —1989年に共産主義政権が崩壊しました。 —監督として最大の課題は何ですか。 ※詳細についてはWEBサイトをご参考ください。 エキュメニカルな交わりから ⑬NCC信仰と職制委員会立山忠浩(都南教会牧師) 日本福音ルーテル教会(JELC)に「信仰と職制委員会」が置かれているように、日本キリスト教協議会(NCC)にも「NCC信仰と職制委員会」があります。JELCの委員会の場合は「信仰、職務、制度等に係る諸問題を検討及び研究し、意見を本教会常議員会に提言する」という具体的な使命があります。各教派でも名称は異なるにしても、教派の核心的な事柄に関することでの具体的な提言を行うことではほぼ一致しています。 3年ぶりに「JELAカンボジア・ワークキャンプ」開催!森一樹(JELAスタッフ・市ヶ谷教会) 2020年2月以来3年ぶりとなる「JELAカンボジア・ワークキャンプ」が2023年2月13〜23日の日程で開催されました。久しぶりの開催にもかかわらず、ありがたいことに全国から多くの応募があり、10〜20代の大学生を中心に10名の参加者が集いました。 新任J3からVolamalala Ranaivosonこんにちは、私の名前はVolamalala Ranaivosonです。私はマダガスカルで生まれ、パプアニューギニア、イギリス、アメリカ、ケニアで宣教師の子供として育ちました。そのため、異文化のコミュニティで多機能で多様な背景を持つ人々とつながり、関わることへの愛と情熱が私の中で育っています。私は、本郷ルーテル教会でJ3宣教師をしています。昨年の4月に来日しました。 J3宣教師プログラムについて、また、英語を習得させるだけでなく、全人格をケアし、福音を伝えるという長い歴史を知ったとき、ここでその一翼を担いたい、と思ったのです。特に、本郷学生センターの「恵みの陽だまり」というミッションに惹かれ、神様の素晴らしい恵みを地域社会に放射する居心地の良い場所となりました。 第28期第21回常議員会報告事務局長 滝田浩之2月20~21日に東京教会会議室で行われた標記の件について、ご報告いたします。 人事委員会の提案した、2023年度教職人事が承認されました。 市吉会計より、標記の件、会計監査報告と合わせて説明が行われ総会への提案が承認されました。 古屋財務担当委員より、標記の件が提案され、総会への提案が承認されました。 総会日程について、11月常議員会に提案されたものに、学校法人ルーテル学院の報告を関連事業報告とは別枠で設けることが確認されました。ルーテル学院大学・神学校は、別法人ではありますが、教会と密接な関係性にあり、学校法人を取り巻く社会的環境や、学校法人の置かれた現状について分かち合われることになります。確認される点は大学の経営状況は、神学校の維持についても大きな影響を及ぼすという点にあります。学校法人の置かれた現状を分かち合うことで相互の理解を深める時としたいと考えています。 これまで総会当日の午前中に行われてきた総会前常議員会(第22回常議員会)を4月17日(月)午前10~12時、オンライン(Zoom)にて開催することを確認しました。各教区総会で扱われ、総会に提案される内容について主に議論される予定です。総会に提案すべき議題があれば、教区常議員会に対して提出頂きますようにお願い申し上げます。 以上、詳しくは常議員会議事録をご確認頂けますと幸いです。 2023年度 日本福音ルーテル教会人事〈退職〉 (2023年3月31日付)小副川幸孝(定年引退)野村陽一(定年引退) 〈新任〉該当なし 〈人事異動〉(2023年4月1日付) 【北海道特別教区】 【東教区】 【西教区】 【九州教区】 【出向】 「オープンチャット4月1日開始」〜元気を出せ!教会学校!〜河田晶子 コロナ禍で対面でのティーンズキャンプ、ルーテルこどもキャンプが相次いで中止となり3年が経ちました。あちこちで教会学校の消滅や低迷の声を聞く中、教会学校の教師が自由に悩みやアイデアを交換できる交流の場として、LINEを用いて「オープンチャット」を開設することにしました。次世代宣教の働きを応援します。ぜひご参加ください。 |
23-04-01 | 笑顔で、寄り添う |
「今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。」 1983年4月2日、その日はイースターの前日で、私は黒崎教会(既に解組)で最初の礼拝を迎える準備をしていた。按手を受け、牧師として最初の礼拝に、緊張しつつも熱い意気込みを抱いていた私に、友人から電話があった、「るつちゃんが死んだ!」と。意味が分からず黙している私に、友人は「フィリピンで溺れた子どもを助けようとして飛び込み、子どもは助かったけど彼女は亡くなった」と状況を説明してくれて電話は切れた。 |
23-03-01 | るうてる2023年03月号 |
「わたしが示す地に、祝福の源として」日本福音ルーテル名古屋めぐみ教会・知多教会牧師 後藤由起主はアブラムに言われた。/「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。」(創世記12章1節) 教会が置かれている状況の厳しさが叫ばれ続けるなか、さらにこの数年の新型コロナウイルスの感染拡大をきっかけに、これまでどおりの活動を続けることが難しくなった教会も多いのではないでしょうか。またカルトやカルト2世の問題が取り上げられる今、わたしたちは伝統的な教会として、献金で成り立つ教会の活動についても、子どもたちへの次世代の宣教にも、より丁寧な対応と深い配慮、神学的な検証が求められているでしょう。まさに今は教会にとって、先が見えない不安のただ中にあるときではないでしょうか。しかしそのとき、わたしたちは一体誰なのか、そしてその行く先はどなたが備えるのかということをもう一度、確認したいのです。 エッセイ「命のことば」 伊藤早奈㊱「名前から」「それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。/見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。」(イザヤ7・14) 「私、カードに名前を書くだけでやっとですけどいいんですか?」そう言う私に彼女はニコニコしながら「名前だけでも頂く方は嬉しいのよ。」何年も前に教会で交わした言葉を思い出しました。 議長室から 大柴譲治「soli deo gloria〜徳善義和先生を覚えて」 今年1月3日、徳善義和先生が90歳で天に召されました。1980年の神大編入以来、石居正己先生と徳善義和先生から私は実に多くのものを学ばせていただきました。奇しくも後にむさしの教会の牧師としてもお2人からバトンを受け継ぐことになります。 「教会讃美歌 増補」 解説㉝増補17番「もし神がともにおられなければ」・増補18番「幸いな人よ」日笠山吉之(札幌教会牧師) 聖書の中でもとりわけ『詩編』をこよなく愛したルターは、『詩編』のテキストをパラフレーズ化して、コラールの歌詞としたものが幾つもあります。今回ご紹介する17番『もし神がともにおられなければ』と18番『幸いな人よ』もそうです。前者は『詩編』124編が、後者は同128編がそれぞれ下敷きとなっています。 世界の教会の声浅野直樹Sr.(世界宣教主事 市ヶ谷教会・スオミ教会牧師)難民に手を差し伸べるエストニア教会 エストニアのルーテル教会はウクライナ戦争による難民たちを様々な手段で支援しています。牧会的ケア、実際的サポート、合同の集会や活動などを通じて彼らが安心して生活できる環境を提供しようと努めています。 ※詳細についてはWEBサイトをご参考ください。 エキュメニカルな交わりから ⑫NCCドイツ語圏教会関係委員会李明生(田園調布教会牧師) 「ドイツ語圏教会関係委員会」は日本キリスト教協議会(NCC―J)の「国際部門」の委員会の一つです。 東海教区青年会・外国人メンバークリスマス会レリアナ・パルドシ 皆様、メリークリスマス、神の平安が私たちの生活に常にありますように。 新任J3からスレザク・ローラ スレザク・ローラと申します。アメリカ人です。私はテキサス州ダラスの近くで生まれました。同じ場所で育ちましたが、大人になってから住んだ場所は、日本が7カ所目です。祖父は外交官で、家族から異文化への理解と尊敬を教えられていました。 定年教師挨拶野村 陽一 本年3月で定年を迎えた野村陽一です。38年間、牧師としてお支え下さり心から感謝申し上げます。私は、神学校入学の時から、牧師への召命は神からの召命と、教会からの召命の二つがあると考えていました。当時属していたむさしの教会で、青年仲間が次々と牧師への道を選び取っていく中、私に対する教会員の期待を感じ取っていたことの影響だと思っています。二つの召命感は今でも変わっていません。 「定年を迎えて」 小副川 幸孝 牧師として四十有余年を過ごすことができ、これまでお支えいただいたことを心から感謝申し上げます。 「教会讃美歌 増補 分冊Ⅰ」MIDIデータをご活用ください 2021年に発行されました「教会讃美歌 増補 分冊Ⅰ」のMIDIデータが、日本福音ルーテル教会のWEBサイトにて公開されています。新しい賛美歌に身近に触れる機会として、是非ご活用ください。 「神学校の夕べ~主の召しに応えて~」動画配信のご案内 2月26日(日)17時よりオンラインにてライブ配信された「神学校の夕べ」の動画を3月末までご視聴頂けます。 |
23-03-01 | わたしが示す地に、祝福の源として |
主はアブラムに言われた。/「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。」 教会が置かれている状況の厳しさが叫ばれ続けるなか、さらにこの数年の新型コロナウイルスの感染拡大をきっかけに、これまでどおりの活動を続けることが難しくなった教会も多いのではないでしょうか。またカルトやカルト2世の問題が取り上げられる今、わたしたちは伝統的な教会として、献金で成り立つ教会の活動についても、子どもたちへの次世代の宣教にも、より丁寧な対応と深い配慮、神学的な検証が求められているでしょう。まさに今は教会にとって、先が見えない不安のただ中にあるときではないでしょうか。しかしそのとき、わたしたちは一体誰なのか、そしてその行く先はどなたが備えるのかということをもう一度、確認したいのです。 |
23-02-01 | 試練の中で |
「人はパンだけで生きるものではない。/神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」 教会の暦では、「顕現節」が終わると「四旬節」(受難節)と呼ばれる季節が始まり、歴史的な聖書日課では、この時、イエスが荒れ野で悪魔の試みにあわれたという箇所が読まれてきました。 |
23-02-01 | るうてる2023年02月号 |
「試練の中で」学校法人九州学院院長・チャプレン 小副川幸孝「人はパンだけで生きるものではない。/神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」 (マタイによる福音書4章4節b) 教会の暦では、「顕現節」が終わると「四旬節」(受難節)と呼ばれる季節が始まり、歴史的な聖書日課では、この時、イエスが荒れ野で悪魔の試みにあわれたという箇所が読まれてきました。 エッセイ「命のことば」 伊藤早奈㉟「表現されること」「子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。」(一ヨハネ3・18) 「どいつもこいつも!」 議長室から 大柴譲治「ご縁〜事実は小説よりも奇なり」「神のなされることは皆その時にかなって美しい。」(伝道の書3・11、口語訳)。 「自分はキリストと出会った仏教徒だ」とはカトリックの押田成人神父の言葉です。そこまで私は言えないのですが個人的に仏教哲学を深く尊敬しています。それは2人の僧侶とご縁があったためです。1人は学生時代の恩師、サンスクリット大家の鎧淳先生(1930〜2015)。東大卒業後に欧州に渡りユネスコの仕事などをしながらオランダで研鑚を積まれました。驚いたことに先生は、欧州でラジオから流れる諸言語が分からないのは悔しいからとすべてマスターしたそうです。私の編入時には東大宗教学科の後輩・清重尚弘学長に紹介の労を取ってくださいました。その合格を喜んだ先生が話してくださったことも驚きでした。最初先生は医学部にいたそうですが、キリスト教の伝道者と出会って「魂の医者」になろうと神学校に入った。しかし結局宗教学科に入り直して仏教を学ぶことになった。引退したらどこか田舎で薬草院を開きたいということでした。友人経由で昨年5月に東神大に調べてもらったところ、確かに1948年の「日本基督教神学専門学校」(翌年東神大に改組)に鎧氏の入学記録はあるけれど卒業記録はないとのこと。インターネットで調べると当時その予科は鷺ノ宮の路帖神学校の地にあったようです。もしそうなら先生と私には不思議な接点があったことになりますね。 「教会讃美歌 増補」 解説㉜増補15番「恵みの平和を」・増補16番「われらのみ神は 堅い城 力」
|
23-01-01 | るうてる2023年01月号 |
「みことばは、私の道の光です」日本福音ルーテルむさしの教会・八王子教会牧師 浅野直樹Jr.「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯」 (詩編119編105節) 私がこのみ言葉と最初に出会ったのは十代の頃、新改訳聖書ででした。「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」。一目で気に入りました。 エッセイ「命のことば」 伊藤早奈㉞「包まれて」「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし/我々を打たれたが、傷を包んでくださる。」(ホセア6・1) 「あれ、もうこんな季節か。」花の香りが運ばれてくる。 議長室から 大柴譲治我ここに立つ〜Sola Scriptura「静まれ、私こそが神であると知れ。」(詩編46・11) 新年おめでとうございます。主の新しい年が始まりました。天よりの祝福を祈りつつ、ご挨拶させていただきます。 「教会讃美歌 増補」 解説㉛増補13番「新しい歌を」・増補14番「おろかものは言う」
|
23-01-01 | みことばは、私の道の光です |
「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。」 私がこのみ言葉と最初に出会ったのは十代の頃、新改訳聖書ででした。「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」。一目で気に入りました。 |
22-12-01 | るうてる2022年12月号 |
「神の業に招かれる」日本福音ルーテル帯広教会 牧師 岡田薫「天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、 (ルカによる福音書1章35~37節) 信仰という恵みを与えられていると自覚している私は、日々神への愛と信頼をもって誠実に生き生きと過ごしたいと願いつつも実は全くそうではないと思い知らされることが多々あります。ときには「私には荷が重すぎます」と職務を投げ出して逃げ出したくなることもあれば、疑いや迷いをぬぐい切れず、ふて寝して、翌日には奇跡が起きていることを願っても、相変わらず厳しい現実を前に深いため息から一日を始めることもあります。もしかしたら、この文章を読んでくださっているあなたも、思いがけないトラブル、痛ましい現実、信じたくないような悪意、自分の力ではどうにもならない状況を前にして立ちすくんだという経験をお持ちかもしれませんね。 エッセイ「命のことば」 伊藤早奈㉝「聴く」「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。/悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。/柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。/義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。/憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。/心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。/平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。/義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。」(マタイ 5・3〜10) 「あなたの聖書朗読からあなたの信仰が聴こえるわ」と今回あげた聖句をお読みした時言われました。丁度言葉のスピードが遅くなり、また病気が進行したのかと心配していた時でした。また故人の好きだった聖句としても上に書いた聖句を葬儀の時読みました。 議長室から 大柴譲治「天使の取り分 Angels’ Share」 |