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バイブルエッセイ

わたしが道である

‥‥イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。 あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」 ヨハネによる福音書14章1~6節

最後の晩餐。その名の通り、この世で過ごす最後の食卓です。今日が最後という状況。私たちも経験することがあるかもしれません。
たとえば、大切な人が旅に出なくてはならない。それも、ちょっとやそこらの旅ではなくて、骨を埋めるつもりで遠い国へ旅立つとか。その日を前にして共にする夕食。あるかもしれません。

SFストーリーなら、明日、世界が終わるなどという状況も。昔なら、本当にそれに近かったのは、戦争に行く時ではないでしょうか。赤紙が来て、戦地へ赴く。「バンザイ、バンザイ」と手を振って。その日の前夜。大切な息子さんをお送りするお母さんたち。どんな思いで、その夜の食事をしたでしょうか。普段は食べられないようなご馳走も、何とか用意したかもしれません。
ヨハネ福音書十四章は、その最後の晩餐の席上でのことです。いろいろな思いを胸にしながら、主イエスは弟子たちと夕食を共にされました。主はその席で「心を騒がせるな」とおっしゃいます。

心を騒がせるな。それは、まさに弟子たちの心境を物語っています。彼らの心は、この状況の中で、騒いでいる。不安でいっぱい。
でも考えてみれば、私たちの心というのはいつも不安に押しつぶされそうな時間がいっぱいです。一難去ってまた一難という言葉もあるとおり、私たちの心は、休まる暇がないのかもしれません。

あの日、弟子たちは、どんな心境だったのでしょうか。
主イエスは言葉を続けられます。「神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住むところがたくさんある。」心騒ぐのを落ち着かせるために、信じることを主は教えられました。

暴風雨に悩まされていたときもそうです。湖上を歩く主を見ておびえる弟子たちに向かって、イエスは言われました。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」(マルコ六章四十五|五十二節)

最後の晩餐の席上で言われた「心を騒がせるな。わたしを信じなさい。」もこれとよく似ています。
舟をひっくり返そうとする嵐ばかりを見ていると、心は騒ぎます。明日でおしまいだ、これが最後の晩餐だと思うと、心が騒ぎます。でも、主はそこでおっしゃる。「安心しなさい。わたしは場所を用意しに行くのである。あなたがたと一緒にいるために。信じなさい。」と。

そこでトマスは口を挟みました。「どの道かわかりません」。「電車通り沿い、熊商前を過ぎると、左に健軍神社の鳥居が見えます。これをくぐってすぐ左の坂を上ると、右に見えてくるのが神水教会です。」トマスも、そのくらい分かりやすい道案内をして欲しかったのでしょう。

しかし、それに対してイエスははっきりとおっしゃった。「わたしが道である!」と。
道とは、何かと何かをつなぐものです。二つの間に溝があって渡れない。そこに両者をつなぐ橋を通せば大丈夫。歩道橋ができる。地下道ができる。それで渡ることができる。

父なる神と私たちの間には大きな隔たりがある。行きたくても行けない。もしもそれがつながるとすれば、そこにどんな橋が架かるのか。どんな道が通るのか。

「わたしがその道だ」とイエス様はおっしゃいました。心配するな。その橋になるために、わたしは今から父のもとへ行く。そして、あなたがたのために場所を用意して帰って来る。神を信じなさい。そして、わたしを信じなさい、と。

へその緒でつながって生まれてきた私たちですが、死を迎えるときは、孤独です。
でもそこで思い起こしたい。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」との御声を。それは、道となって私たちを父なる神のみもとへと導いてくださる主の御声です。「恐れるな、わたしを信じなさい。わたしのいる所に、あなたがたもいる。」
道なる主を、命なる主をご一緒に信じて、歩んでいきましょう。
日本福音ルーテル神水教会 角本 浩

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