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るうてる2021年

るうてる2021年5月号

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「喜び祝う神」

日本福音ルーテル藤が丘教会牧師 佐藤和宏

「どうか、主の栄光がとこしえに続くように。/主が御自分の業を喜び祝われるように。(詩編104編31節)

各個教会規則(雛型)第3条には、教会の目的が次のように規定されています。

「この教会は、キリストの命に従って、信仰の交わりをなし、福音の宣べ伝え、みことばを教え、愛による奉仕をなし、これらのことによって神に仕えることを目的とする」。

 教会はキリストの命じられたことに従って、伝道をし、教え、人々に奉仕をするのですが、それらはすべて神に仕えるためである、というのです。私はこの「教会の目的」の大切さを共有するため、毎年教会宣教計画の冒頭に、前提として明記することにしています。教会が教会であるために、その目的を見誤ってはならないと思うからです。

 教会の宣教と聞くと、私たちは人数や財政といった結果に目を奪われてしまうことがあります。いかに人が増えたか、経済的にどうかなど、これらを宣教の成果としてしまうのです。しかし大切なことは、目的なのだと思うのです。私たちのなす業がいかに乏しく、成果がみえなくとも、それが神に仕えるとの目的に沿う限り、それは尊いのです。反対に、私たちのなす業がどれほど効果的にみえ、人の目に輝いて映ったとしても、神に仕えることを忘れているなら、それは虚しいのです。いずれにしても、私たちが先の教会の目的から知らなければならないのは、教会は内に向かうものではなく、外に向けて働くものであるということです。すべての人々に仕えることを通して、神に仕える。これが教会なのではないでしょうか。

 聖霊降臨を指して「教会の誕生日」と言われることがあります。それは聖霊降臨の場面(使徒言行録2章)に、教会が教会であるために欠かせない要素が示されているからにちがいありません。それは「一同が一つになって集まっている(1節)」、 「(霊が)一人一人の上にとどまる(3節)」、「〝霊〟が語らせるままに…話し出す(4節)」の三つです。「〝霊〟が語らせるままに…話し出す」ということですが、宣教は人から出るものではなく、聖霊によるということです。たとえ無力に思われても、聖霊が語らせるままに話し出す、これが教会なのです。そしてそのために、「(霊が)一人一人の上にとどまった」のでした。それは一人一人の違った個性が、それぞれに大切にされているということです。聖霊によって、その一人一人を通して宣教がなされる。これが教会なのです。

 「一同が一つになって集まっている」ということについてです。礼拝に集められる私たちは決して同じではなく、違う考えを持った者の集まりですから、違いを認め合い、赦し合いながら集まっていると言えるでしょう。これが一つになるということです。それは牧師によってでも、役員会によってでもなく、ただキリストの名のもとに、違いを尊び、一つとされるのです。そしてこの「一つになる」とは、各個教会にとどまらず、ルーテル教会全体についても、同じように言えるでしょう。ルーテル教会は一つの教会であるのですが、どうしても目に見える各個教会のことを思ってしまいます。しかしキリストの名のもとに、全国のルーテル教会が一つとされているのです。互いの違いを認め合い、大なるものも小なるものも、違いを認めつつ、一つになれる。これがルーテル教会なのだと思います。

 「改訂共通聖書日課(RCL)」によると、ペンテコステには詩編104編24節以下が選ばれています。31節に「どうか、主の栄光がとこしえに続くように。/主が御自分の業を喜び祝われるように」とありました。

 「主が御自分の業を喜び祝われるように」とは、御自分の業である私たちを含めたすべての被造物を喜び祝われるということなのでしょう。「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」(創世記1章31節)という場面を思い起こします。

 私たちが神に喜び祝われるようになるのは、私たちの努力によるのでも、私たちが役に立つからでもありません。ただ、私たちがキリストの名のもとに違いを認め合って一つとされ、植えられたそれぞれの地において、ただ神に仕えるために人々に向かって宣教の業に励むようにと、聖霊が注がれたことによるのです。すべて神の御業によって、私たちは教会とされて生きるのです。神はそのような私たちを、ご自分の業として、喜び祝われるのです。

エッセイ「命のことば」 伊藤早奈

⑭「生かされる」

「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記2・7)

「この子生きてるのよ。この呼吸器止めたら死んでしまうの。」

 生きるって何だろう。そんなことを考えさせられました。この言葉をお母さんから聞いたのは私もその人も入院している時でした。その人に初めてお会いした入院から3カ月で車椅子に乗っておられた状態からあっという間にベッドに寝たきりになり、呼吸器をつけないと息ができなくなられました。

 その人は今、瞬きで話しておられ、昨年のコラムでも登場されておられます。

 生きるって何でしょう。息を吸うこと?笑ったり泣いたり怒ったりすること?歩くこと?空気が無くなったら生きられない。喜怒哀楽の感情は?運動能力は?私と同じ病気がわかったばかりの方が「自分で歩けなければ人間じゃない」って言っていたことを思い出します。生きるということと人間であるということも違うような気がします。この病気がいいとかあの病気は嫌とか、あの姿はいいけどこれはダメとか。それらは一体誰が決めるんでしょうか。

 こんな言葉も聞いたことがあります。「生きていればいいのよ」。自分の家族がほとんど何も食べられなくなり、眠っておられることが多い方のことを言っておられました。神様にとっては、あなたは家族。「そのまま生きていていいんだよ」ときっと言われます。

議長室から
総会議長 大柴譲治

「風のそよぎを感じたか」

「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。」(ヨハネ福音書3・8)

 風薫る五月。しばらく前の大河ドラマに宮本武蔵が描かれたことがありました(原作・吉川英治、2003年NHK)。史実かフィクションかは定かではありませんが、私には忘れられない一場面があります。若い頃の彼は大変な狼藉者で、有り余るエネルギーを持て余し、「武者修行」と称しては道場破りを繰り返している。ある時彼は藤田まこと演ずる新陰流・柳生石舟斎の道場を訪ねます。相手に果敢に挑みかかってはゆくものの素手の石舟斎に全く敵わず、完膚なきまでの敗北。茫然自失した武蔵に石舟斎はこう問うのです。「お前は風のそよぎを感じたか。鳥の声、せせらぎの音が聞こえたか」。武蔵はハッとします。言われてみれば確かに周囲には風がそよぎ、土が香り、鳥の声や水の音がしている。しかし自分は相手を打ち負かすことばかり考えていて、外界で起こっていることを何も感じていなかったことに気づく。それは打ち砕かれた武蔵にとってモノローグ的な生からダイアローグ的な生へのコペルニクス的転換を促す声でした。そこから彼はやがて「剣聖」と呼ばれる至高の歩みを成し遂げてゆくことになります。

 このエピソードは私たちに、内に閉ざされた自己完結的な生を超えた、外に向かって開かれた対話的な生の次元を教えています。マルティン・ブーバーの表現を借りれば、根源語<われ|それ>だけを語る次元から根源語<われ|なんじ>を語る次元への恩寵による突破です。私たちは何かに燃えている時にも、逆に何かに悩む時にも、周囲が見えなくなることが少なくありません。そのような時には五感を開いて周囲の世界を感じてみる。するとそれまでとは違った視点が与えられ、見えなかった次元が見えてくることがある。私の関わる「グリーフケア」や「スピリチュアルケア」はケアの中心にこのような在り方を据えています。

 イエスも言われました。「野の花、空の鳥を見よ」。五感を用いて周囲に目を向けてみる。するとそこに風のそよぎを感じることができる。風は思いのままに吹くのです。寅さんも言いました。「風の吹くまま、気の向くままよ」。かつて福山にいた時、地区牧師会の説教セミナーに関田寛雄先生をお招きしたことがありました。『男はつらいよ』をこよなく愛する先生は「これは極めて聖書的な言葉です」と言ってヨハネ3・8を引かれました。強く印象に残っています。喜びの時にも悲しみの時にも私たちも天からの風を感じて生きたいのです。聖霊降臨日を前にそのように思わされています。

「教会讃美歌 増補」 解説

⑪讃美歌委員からの声⑹
日本ルーテル教団教会讃美歌委員 井上栄子(戸塚ルーテル教会)

 「新しい賛美歌を歌えて楽しいですよ」「仕上げの段階なので一年弱しかないが、一緒にやりませんか?」というお誘いでした。私にできる事があるなら、と気軽にメンバーに加えていただきました。しかし、予想外の大役に慄き、末席を汚しながら早4年(2021年3月末現在)が経ちました。作業も第五稿に辿り着き、次回は出版社からデータではなく、冊子として整った形で、第六稿の校正が出来る運びとなりました。

 私の入会時、既に試用(パイロット)版が活用されておりました。が、継続的作業として、候補として挙げられていた230余りの曲を分類別に再度整理し、原譜、原歌詞、伴奏譜の資料を集め、作編曲者、作詞者の情報、引用聖句を調べました。 日本語以外の詩は音符の数に合わせて日本語に訳し(この作業に相当な時間を費やしました)、伴奏譜の無い曲には伴奏を作曲し、現代曲にはコードを付けました。原稿が出来上がって、レイアウトの細部に気を配り(音符の棒や付点の方向や位置、歌詞の誤字脱字、フォントなどのバランス)、赤ペンで紙面を真っ赤に染めた校正作業を繰り返し、現在に至ります。

 主は、牧会の業のみならず、その他多くの賜物を委員に備えてくださいました。辞書要らずの外国語堪能者、讃美歌編集経験者、作編曲のプロ、PCでの莫大な資料整理の達人。Zoom使用前には、各地方からの参加者とのスカイプ会議の算段。あらゆる情報を、幅広い知識や様々な手段で繰り出す専門家。初見奏(唱)も即興演奏も万能な演奏者等々…。また会議の場には居られずとも、快く相談に乗って下さった方々の存在。沢山の背後の祈りと協力…。小さな地方教会の一信徒である私には、作業の一瞬一瞬が驚きと感動の連続でした。この長く繊細な作業を、ここまでお導き下さった神に感謝します。

 間もなく完成するこの増補分冊Ⅰに、どうぞご期待下さい。これが用いられ、皆様と共に声を合わせて主の栄光と感謝を賛美できます日を、心より待ち望みます。

私たちの礼拝 —式文ハンドブック—

⑩聖書日課
浅野直樹Sr. (市ヶ谷・スオミ教会牧師)

 聖書朗読は礼拝において欠かせませんが、どの箇所を読んで礼拝すればよいのか、毎週の礼拝でどういう順番で読み進めたらいいのかという悩みは、教会が誕生した初期からありました。

 そこで朗読箇所を配分して利用するための方法として、聖書日課が考案されました。恣意的に偏らず、神の言葉全体を年間を通して満遍なく聴けるようにと工夫した結果が聖書日課だといえます。旧約聖書しかなかった時代は旧約のみの利用でしたが、2世紀になると使徒書が、さらには福音書が使われ、5世紀頃になると、時宜に適った特定の聖書箇所を読むという伝統へと発展していきます。

 20世紀中葉に行われた第二バチカン公会議でカトリック教会は、信徒が聖書により親しめるようにとミサの大改革を行い、旧約、使徒書、福音書の三つの聖書朗読からなる「3年周期聖書日課」が誕生しました。3年周期とは共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ福音書)を毎年ひとつずつ繰り返して読むためのサイクルです。

 そこに教会一致推進運動(エキュメニズム)が追い風となり、70年代になるとアメリカのプロテスタント教会諸派から、カトリックといっしょに聖書日課を作ろうという気運が高まり、ルーテル教会もそれに加わりました。こうした流れから1983年、「共通聖書日課」(Common Lectionary 略してCL)が完成します。日本福音ルーテル教会の礼拝でも、これを基本とした聖書日課をこれまで長らく使用してきました。

 その後も改訂作業は続き1992年、北米15教会の合同作業で「改訂共通聖書日課」 (Revised Common Lectionary 略してRCL)が完成し、今日多くの主要教派がこれを用いています。私たちの教会でも2020年から教会手帳に正規採用され、礼拝での利用が広がりました。筆者の教会でも昨年から利用を開始しましたが、CLと比べると三つの聖書テキストがより関連づけられているのを、説教しながら感じています。

 聖書日課があることで、キリストの生涯を一年かけて追体験できます。礼拝で朗読される毎週のみことばが系統的につながっているので、みことばを聴きながら神の救いの歴史を辿ることができます。また世界各地の主要教派がRCLを採用していることで、同じ日曜日に同じみことばを聴くという主にある一体感を共有できます。聖書日課を用いる意義はまさにそうしたところにあり、大きな恵みといえます。

ルーテル学院大学・日本ルーテル神学校が新年度へと歩み出しました

2021年度のルーテル学院大学・日本ルーテル神学校は、ルーテル学院大学総合人間学部101名(編入学を含む)、大学院17名、そして神学校に4名の新入生を迎えてスタートしました。神学校の牧師養成コースの新入生は曽我純さん(JELC三鷹教会)、ネルソン・デービッドさん(JELC本郷教会)、大和友子さん(JELC大岡山教会)の3名です。また神学一般コースに1名の新入生を迎えました。4月2日には司式・河田優チャプレン、説教・立山忠浩校長による神学校入学始業礼拝が行われ、新年度へと歩み出しました。なお新型コロナウイルス感染症対策として、今年度の講義は当面の間オンラインと対面を組み合わせたハイブリッド方式によって行われます。(広報室)

パンデミックの中のディアコニア

社会福祉法人サマリヤ理事長 兼間道子(高松教会)

 コロナウイルス第3波到来で感染拡大は止まっていません。香川県は陽性患者が徐々に増え12月9日には警戒レベルに引き上げられました。なかでも高松市内では介護施設でクラスターが発生し、感染者は利用者と職員を合わせて150人を超え、香川県、高松市そして国から調査団や専門職が入り、しばらくは物々しい状況でした。が、現在は終息しています。

 介護施設では、医療機関とほぼ同等に感染対策(予防)が求められます。クラスターが発生すると罹患した患者だけでなく、一緒に暮らす利用者や職員を含めた家族までも一切が機能しなくなります。正しいマスクの装着、手洗い、ガウンテクニック、アルコール消毒、体温管理等の徹底。感染についての「学び」は職員一丸となって足並み揃えて取り組まなければ成果は望めません。当法人でも、同様にできる、限りを尽くして対策に邁進しているところです。

 最近では、動画配信など特に病院介護等の新人教育には一定レベルのスキルを求めています。今後は、さらなるスキルアップのために現場研修に加えて、画面をとおして視聴できるシステムも出回っています、このことも啓発したいと考えています。操作方法がわからない職員にはこれを機会に、分かる職員に尋ねてITに慣れてもいただこうと呼びかける予定です。

 感染者が150名を超えた施設については、利用者や職員が通常業務に加えて大勢の知恵と言動で乗り越え終息したと伺います。元の状態に戻ったものの、日常を取り戻すには、まだ時間を要するので安心できない状況のようです。

 当法人では、3月3日のひな祭り行事も家族を呼んでのお祝いは中止し、ズームで行うことにしました。集まることができないのは寂しいですが、画面で会える新しい取り組みに皆笑顔です。すべてのことに感謝を忘れません。

世界の教会の声

浅野 直樹Sr.(世界宣教主事  市ヶ谷・スオミ教会牧師)

ベラルーシの牧師、支援と祈りに感謝②
世界ルーテル連盟(LWF)がベラルーシのウラディミル・タタニコフ牧師にインタビューした記事(2021年1月15日公開)の後半を紹介します。

(元の記事のURL)
https://www.lutheranworld.org/news/belarus-pastor-grateful-solidarity-and-prayers

—教会と政権との関係について現状はどうですか。

「グロドノ市長とは今のところ良好です。しかしながら国レベルで様々な障害があり、たとえば私たちの教会は小さすぎるため、法的には教会として認められていません。そのため海外から牧師を招聘することができないのです。ロシアからもできません。ベラルーシ国内にある諸外国のルーテル教会との協約も結べません。そのうえ財政支援や物的支援といったいかなる援助も、必ず届け出しなくてはなりません。ですから支援を受けとるにしても制限されています。海外の兄弟姉妹が光熱費を支援してくださっても、そのうち18%は税金でもっていかれます。またコンサートのように礼拝以外の活動は、市の許可が必要になります。」

—ベラルーシ国内のルーテル教会の組織について教えてください。

大半の信徒はベラルーシ国籍の人たちで、宗教改革に関心をもつ人々がルーテル教会に集っています。ドイツ、エストニア、フィンランドのルーテル教会もあります。ロシアや諸外国の福音ルーテル連盟とは、霊的に結ばれていると感じています。そうしたつながりを通してLWFと関われています。
 ベラルーシで私が唯一人のルーテル教会の牧師です。ほかに2名の助祭が、グロドノとビテプスクにいます。ゆっくりとではありますが、もっと多くの教会が今後出来ていく見通しをもっています。」

—御教会にとってLWFにつながることの意義は何でしょうか
「信仰を共にする兄弟姉妹の皆さんに対して、まずもって感謝を申し上げたいと思います。手紙やメール、メッセージで多くの励ましの言葉をいただいています。祈りに覚えていただき感謝します。いずれもとても大切なひとつひとつです。
 今ベラルーシは、三つの危機を同時に抱え込んでいます。経済危機、政治危機、そしてコロナウイルスです。今後どうなっていくのかわかりません。6カ月前の2020年8月時点では、だれもこのような事態を想像できませんでした。
 世界のルーテル教会からのお支えが、私たちにとって力となります。私たちは小さな教会です。しかしながら祈られていることを感じます!私たちの教会を通してベラルーシ市民を助けてくださる方々に、精一杯の感謝を申し上げます。」(了)

ブックレビュー

コロナ禍で、ルターから学ぶ—『ルター研究』17巻(特集・宗教改革と疫病)紹介
江口再起(ルター研究所所長)

 新型コロナウイルス感染は収まるどころか、ますます深刻な事態となっています。毎年、ルター研究所は研究雑誌『ルター研究』を刊行しています。このコロナ禍の真只中、その17巻を「宗教改革と疫病」特集号として出版しました。500年前のルターの宗教改革の時代も、未曾有のペスト流行期でしたが、きっとペスト禍のルターから、コロナ禍の私たちも学ぶものがあるはずです。その内容を紹介しましょう。

 まず第一に特筆すべきは、ルターのいわゆる「ペスト書簡」の翻訳です(多田哲訳)。疫病の蔓延の中で、キリスト者はいかに生きるべきかを説いた手紙です。この書簡は疫病についての、最も重要なキリスト教文献です。今まで故内海望先生の英訳からの部分訳しかありませんでしたが、今回、原典ドイツ語から全文が翻訳されています。書簡ですから、内容は決して難しいものではありません。しかし恐ろしく深い。大変、正確でわかりやすい訳文になっています。

 宮本新「ルターの「ペスト書簡」を読む」は、まさにそのルターの書簡をめぐっての論文です。教会の指導者そして牧師としてのルターが、ペストの不安の中を生きている人々に、生きる原点である「信仰と愛」を力強くまた深々と説いています。そして実に具体的なアドバイスをしていますが、その理由を論じています。それは一人一人がみな神から務めを託されている(召命)ゆえだ、と論じられています。

 立山忠浩「「まことの礼拝」を考える—新型コロナウイルス禍の産物」は、今回のコロナ禍にあって、今までのように礼拝に出席できなくなったという事態を背景に礼拝のあり方を論じた論文です。改めて「まことの礼拝」(ヨハネ福音書4・23)とは何かを問題にしています。

 江口再起「コロナ—人類・ルター・教会」は、私たち人類にとって、今回のコロナ・パンデミックは何を意味するのか、またルターから何を学ぶのか、そして教会はどうあるべきかを論じ、「世の光・地の塩」をその結論としています。

 最後にコロナ特集とは別ですが、石居基夫「ルターの『三重の秩序と立場の教え(Drei-Stände-Lehre)』と教会の宣教」が収録されています。内容は、ルターの社会理論の二つの柱の一つ、いわゆる「三機関説」を論じたものです(もう一つの柱は「二王国論」です)。従来、わが国ではほとんど論じられてこなかったテーマであり、貴重な論考です。どうぞお読みください。

〈ご希望の方は、ルーテル学院大学・神学校 後援会事務局 電話0422(31)4611まで。定価2千円+送料。〉

(第7次綜合方策の紹介⑴

事務局長 滝田浩之

 第13回常議員会において、2022年に提案される「第7次綜合方策」についてご紹介をしていくこととなりました。
 これまで綜合方策は、委員会が草案をまとめ教区常議員会、本教会常議員会において整理されて総会に提案されるという段取りで承認されて実行されてきました。組織としては間違っていない手続きだと思います。

 しかし、私たちは今、COVID–19を経験し、キリスト教の歴史上、ある意味では初めて隣人のために公開の礼拝を閉じるという経験をしています。このような経験をしている教会として、総会に提案する前に広く、会員の方に、この内容を周知し、そして意見や思いを分かち合う時間を取ることは有意義なことだと考えます。しばらく「るうてる誌」の紙面をお借りして、その内容についてご紹介して参ります。

はじめに
本文:歴史的背景:過去の方策(第1次〜第6次まで)
 戦後のキリスト教ブームの時代はいずれの教会の礼拝堂も人があふれていた。日本福音ルーテル教会も同様である。その時代に信仰をもった方々の献身的な働き、献財によって今日の教会の基礎が出来たと言って過言ではない。
 1969年のアスマラ宣言によって、私たちの教会は第一予算(個々の教会の財政)の自給に舵を切った。第1次から第4次までこれを実現するために「総体としての自立」を求めて綜合方策が立てられた。この「総体としての自立」は、戦争を経験した教会がそうであったように「生き残れる教会のみが生き残ればよい」というサバイバルではなく、「一つの教会」として総体として自立して宣教することを選び取った。この方策は、日本経済が右肩上がりで進む社会背景に支えられて、特別協力金制度を生み出しながら、教区自給を実現する。
 しかし教会の経済的自給については、ある一定の結果を出しつつ、個々の教会の教勢は思うような成長を果たすことができなかった。そのため第5次にあたる方策「パワーミッション21」は、その目的を明確に個々の教会の教勢の右肩上がりを目指すべく、資産を宣教活動に、いわば本教会に集中し個々の教会の宣教の梃入れを目指した。
 だが、この資産注力を支えてきた海外の教会は2003年、協力教会とのスタンス(姿勢・立場)を歴史的に大きく転換した。それは支援から同伴する関係への変化であった。これにより、すべての会計において海外からの支援は終結し、日本福音ルーテル教会は、ある意味ではすべての面において自給を余儀なくなされることとなった。
 第5次綜合方策の後半から、教会は資金投下による本教会主導の宣教活動の活性化を目指すという方針から転換し、経済的自給を持続的なものにするために本教会宣教活動のスリム化、年金制度の改革を実施することとなった。第6次綜合方策は第5次綜合方策の重要な課題は継承しつつ、特に宗教改革500年事業を中心に様々な取り組みを実施し、ルーテル教会のアイデンティティー(主体性)を改めて確認する役割を果たした。本綜合方策は、この「歴史的背景」を踏まえつつ経済的自給から、一歩進めて、宣教的自立を目指すものである。

解説
 日本福音ルーテル教会は、その教会の自立と自給という決意をした後、第1〜6次まで綜合方策を策定してきました。その時代、その時代に必要な課題を確認してきたのです。
 ここで重要なことは、「第7次綜合方策」は、この歴史の上に立っているという事実です。そして見失ってはならないのは、私たちは福音宣教に絶望していないということです。
 み言葉の説教と聖礼典の執行という、イエスさまから託された、この使命に立つ教会であることを誇りに思いますし、この使命を引き続き果たしたいと考えています。
 この使命を果たすために、今必要なことは何か、これを分かち合うことに綜合方策の意義があるのです。

社会委員会「入管法改悪を考える緊急学習会」報告

小泉基(社会委員会委員長・函館教会牧師)

 4月6日、社会委員会主催の「入管法改悪を考える緊急学習会」が、委員会主催の学習会として、はじめてオンラインで開催されました。出入国管理法の改訂案は、今年の2月に閣議決定され、4月に審議入りするといわれています。この改訂案では、それが3回目以上であれば、難民申請を行っている最中であっても強制送還を可能にし、母国に帰国できない事情を抱えている外国人住民に、強制送還拒否罪を新設するなど、日本で暮らす弱い立場の外国人住民を困窮させ、その希望を打ち砕く内容になっています。委員会では、マイノリティー宣教センターなどが呼びかけた「難民申請者を追放する『出入国管理及び難民認定法』の改悪に反対する教会共同声明」に委員会として賛同するなど、教派を越えた反対運動につらなってきましたが、法案自体についてもさらなる理解を深めようと、この度緊急に学習会を企画しました。学習会では、入管施設の問題性を問うテレビドキュメンタリーをみんなで視聴した後、改訂案の問題点を学び、それぞれが置かれた立場からの感想を出しあって意見交換をしました。さらに学びを深めたいという参加者の声に応えて、委員会では5月中にも2回目の学習会を計画しています。今回は、緊急開催ということで充分な案内も出来ないままでしたから、次回はもう少し多くの人に参加していただけるよう、丁寧な呼びかけを行っていきたいと思います。

青年の青年による青年のための、全国ルーテル青年オンライン合宿が開催されました!!

森一樹(市ヶ谷教会)

 全国のルーテル教会に集う35歳以下の青年を対象とした青年合宿が、2021年2月26~27日にオンラインにて開催され、全教区から、また国を超えて、さらには教派も超えて、総勢50名が参加しました。

 合宿のテーマは『No Youth, No Church』。「青年」と「教会」をテーマに、1日目には石居基夫先生をお招きし聖書が語る教会やその歴史、またルターの教会論についてお話しして頂き、2日目には社会でご活躍される信徒の方をお迎えし、「社会で働きながら教会につながること」について証をして頂きました。また、会の終わりには教勢報告書に基づく様々な数字からルーテル教会の「今」を概観し、未来の教会について青年で考えるひとときを持ちました。この合宿を通して、青年が神様との関係を振り返り、教会活動により一層つながるきっかけとなれば幸いです。以下、参加者からの感想を掲載致します。

 私は今回初めて全国の教会青年との関わりを持ちました。参加前は、教会に通う日数もキリスト教への知識も一番少なく、話についていけるのか不安でした。しかし、そんな私をみんなは暖かく迎え入れて、教会やキリスト教について、わからないことがあればその都度説明をしてくれました。また、教会についての話だけではなく、それぞれの日常についても分かち合え、とても有意義な2日間でした。ここで出会えた青年達との関係を終わらせることなく、これからもこの繋がりを大切にしていきたいです。(神水教会・下村翔吾)

 コロナ禍により、様々な事を見つめ直す機会を神様から与えられたのかもしれないと感じています。その中の一つが今回の合宿のテーマである教会でした。強制的に人と人との繋がりが切り離されているこの状況だからこそ、教会に普通に集い、祈りを共にすることがどれ程の恵みであったのか、また、普通に集えていたときから、人と人との心の繋がり、また神様との繋がりが、私たちの中で知らず知らずのうちに薄れていたのかもしれないということを再確認する機会となりました。合宿を通して「教会」とは「神様と自分の繋がりであり、そこから自分と他者との繋がりの中へ向かうこと」だと私は考えました。自らの信仰、これからの行動を見つめるよき交わり、学びの場となりました。(箱崎教会・深町創太)

 私にとって今回の合宿は、普段接点のないルーテルの青年達と交わる凄く貴重な体験でした。教派は違えども、それと関係なしに色々なことが学べてよかったです。私は小さい頃から教会学校に通っていたため、幼なじみがたくさんいて、教会の人達もみんな仲良くしてくれます。今回の合宿を通して、そんな人たちを改めて大事にしていこうと思いました。また今回のような機会があればまた参加してみたいと思います。(日本基督教団五軒邸教会・木原有意)

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