良い地に播かれた種
「イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。『種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て 食べてしまった』」。
(マタイによる福音書 13・3 ~4)
主イエスは聖書の中で、神の真理を伝えるために、多くの譬え話を語っています。身近な風景あるいは物語によって、一つの神の真理を伝えるのが譬え話です。ですから、大事な中心の真理をきちんと受け止めなければなりません。
この「種まきの話」の中心的メッセージは何かと言いますと、それは神の国は決して人間の力によるものではなく、神の計り知れない御業により、成長するということです。
主イエスの言われる『成長』はこの世的な単なる量的拡大ではありません。成長は隠されていたものが明らかに開かれ、現れ、発展していくということです。明らかにされていなかった固有のあり方が神の御業により開かれ、発展していくこと、これが神による成長です。その意味でも、この神の御業と成長は私たちの思いを超えています。ですから、大切なのは、私たちが神のみ業をひたすら素直に受け入れ、心を開くことです。
この譬えにあるように種はいろいろな所に播かれます。この当時の、バレスチナの種まきの方法は二通りあったと言われています。一つは、種を播く人が畑を行ったりきたりしながら種を撒き散らすやり方です。この場合には、風が吹いていると種は風に乗って四方に運ばれていき、あるものは畑の外に落ちてしまいます。第二の方法は種を入れた袋の角に穴をあけて、それをロバの背に乗せ、袋の種が無くなるまで、畑の中をロバが歩く方法です。こちらの方が一般的な種まきの方法として用いられていたと言われています。
パレスチナの畑は細長くなっていて、その畑の中を誰もが通れるようになっていました。この聖書の箇所で、「ある種は道端に落ち」とは、人が通る道端は踏み固められ、種が根付きにくくなっていたのです。
このように種は良い地だけには播かれることは限りません。むしろ、それ以外の所にも播かれるのです。道端や石灰岩が土の下にあるような土地にも、さらに畑の脇の茨の中にも種は風に乗って広域的に播かれます。良い土地に播かれて多くの実を結ぶ種だけをこの譬えは語っているのではありません。むしろ、実を結ばないところに播かれた種についても語っています。
実を結ぶ種だけでなく、実を結ぶことなく消滅した種も、神のはたらきそのものです。何の成果も上がらない、「休眠状態」と思えるような所にも、神は働いています。たとえ、人間的判断で小さな成果しか挙げられないと思えるような所でも、私たちの思いを越えたものが生まれるのです。とても神の働きがないと思えるような所であったとしても、そこにふさわしい神の実りが備えられていることをこの譬えは語っています。
神の業は、その働きを真から求めるところで開かれ、生成していくのです。譬えが語る、神の実りがある「良い地」とはこの世的に、物質的に、自然的に何もかも整っている場ということではありません。そうではなく、神を心から求める思いと信仰があるところ、それが「良い地」となるのです。
ローマの信徒への手紙8章22~23節でパウロはこう言います。
「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、〝霊〟の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」
ここでパウロが「体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」と言うように、神を信仰的に自覚的に受け入れる前に、無意識の中にしても、私たちが呻きながらも神を求める思いが信仰の前にあることが大事です。神を求める思いがないところには神のみ業は根付かないとも言えます。
キリストの教えを受け入れるには、それなりの信仰を求める心がそこになければなりません。そうでなければ、キリストへの信仰も育っていかないのです。ただ、聖書を教えれば信仰が根付くというものではありません。「教える」ことと、「育てる」ことは別です。意識的にせよ、無意識であれ、心動かされた神への問いがあることにより、信仰は私たちの内において、み言葉と共に育つのです。
日本福音ルーテル東京池袋教会 牧師 青田 勇