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バイブルエッセイ

祈りで支え合う

「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

(ルカによる福音書22章31~32節)

 ルカ福音書の中で、祈りは特別な意味を持っています。キリストがエルサレムへと向かう旅路の中で、大きな節目ともいえる時には必ずと言っていいほど祈るシーンが挿入されているからです。そのほかにも何度もキリストが祈りに向かう姿が描写されていきます。神の御子であるお方でさえ、その信仰に生きる歩みには祈りが欠かせないことを、キリストはその背中から語ってくれているように思います。

 昨年松本教会と長野教会では、新型コロナウイルスの感染対策のため、約2カ月間、集う形での礼拝を中止しました。会堂で共に祈りを合わせることができなくなり、家庭礼拝用の式文や説教原稿等をお送りしたり、説教音声をインターネットを通じて配信するようになりました。
 その反面で、同じ場所に集えないことで共に祈りを合わせているという実感が薄く感じたり、祈りを一つにするために何が出来るだろうかと問い続ける日々が続きました。

 そのような中、昨年一度も教会に来ることのできなかった方からお手紙をいただきました。「先生が送ってくださる説教原稿をお読みしながら、毎日祈りを守ることが出来ました」と書かれているのを読み、いかに自分が自らの思いばかりに囚われていたのか気付かされました。

 礼拝は神様から私たちへの奉仕と言われます。私たちが一堂に会することができずとも、それぞれの場所において一つの祈りへと導かれていくのは、まぎれもない神様のわざであるのだと思います。その神様の働きを信じ委ねることを通して、たとえ礼拝のかたちが変わろうとも、時間と場所を超えて一つの祈りとされているという確信が与えられた出来事でした。

 ペトロは最後の晩餐の時、力強く「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と告げています。しかし実際にはキリストの十字架から逃げ出し、信仰の挫折を味わうことをキリストは知っておられました。だからこそ先んじてキリストはペトロのために「信仰が無くならないように」祈ってくださったのです。

 ここで注目したいのは、キリストの祈りが「ペトロに降りかかるサタンの試練が取り除かれるように」祈られてはいないということです。それは、ペトロの人間的な弱さにこそキリストが寄り添ってくださったからではないでしょうか。

 「三度わたしのことを知らないと言うだろう」と予告された通りに裏切ってしまい、ペトロは後悔の中で「激しく泣いた」(ルカ22・62)と記されています。しかし同時に、そのような弱いペトロのために先んじてキリストが祈ってくださっていたことも、彼は思い出したかもしれません。

 キリストの祈りに込められた、ペトロの弱さに寄り添う愛に支えられることで、ペトロの信仰は繋ぎとめられていったのではないでしょうか。

 キリストはペトロに続けて語られます。「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」その言葉の通りに、ペトロはキリストの復活と昇天の後、迫害の中にありながらも力強く証をし、共同体を支える信仰者として立たされていきました。その共同体には絶えず祈りが溢れていたことを、ルカ福音書に続く使徒言行録は記していくのです。

 このような教会の在り方は、今なお変わってはいないのだと思います。かたちを変えながらも礼拝という祈りが守られる恵みに加え、信徒の方々に電話をかけたり、手紙を送りあうことが増えました。そこでなされる祈りと、「祈っています」という言葉が、どれだけ慰め深く私たちを今日まで支えてきたでしょうか。まさに祈りは私たちの中心にあります。この試練の中を歩み続ける私たちの信仰を支えるために、まずキリストが祈りをもって執り成してくださっています。そして、互いに力づけるようにと教えておられるのです。私たちも絶えざる祈りを通して、主によって一つとされる共同体として、この時を共に乗り越えていきたいと思います。

日本福音ルーテル松本教会・長野教会牧師 野口和音

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