るうてる2014年8月号
説教「主にある平和」
「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」(ヨハネによる福音書15・9~12)
日本福音ルーテル教会は宣教百年を期に8月の第1日曜日を「平和主日」と定め、特に平和を祈り求める時としました。
さて、この日のために与えられた日課には「わたしの愛にとどまりなさい」、「わたしがあなたを愛したように、互いに愛し合いなさい」という二つの命令が記されています。内容は同じです。平和を造り出すにはこれしかない、というのです。
「隣人愛」についてイエスさまは教えてくださっているわけですけれど、戦争という歴史を持つ私たちは「隣人愛」という言葉に奇妙な違和感を覚えます。同じ宗教、同じ民族の人々のみを隣人として愛する時、そこには必ず異邦人を軽蔑し憎むという結果が出てくるからです。またその結果として今度はその人たちから憎まれるという悪循環が生まれることを私たちはよく知っています。私たちが腹を立てる、その人から、私たちは同じように憎しみを受けている者でもあるのです。イエスさまの時代もそうでした。サマリア人の譬はそのよい例だと思います。
その悪循環を断ち切ったのがイエスさまの愛でした。「自分が愛したい人を愛する」、 「自分を愛してくれる人を愛する」のではなく、「自分を迫害する者」、「自分を十字架につける者」、「最後まで強情に自分に反対する人」に対する愛を、イエスさまは示してくださったのです。イエスさまが十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください」と自分を殺す者のために祈られた時、新しい愛が示されたのです。
このような素晴らしい愛を教えられているにも関わらず、この世界が平和であった時代はありません。世界という大きな視点だけなく、私たちの身近には目を覆いたくなるような出来事がひっきりなしに起こっています。
しかし、私たちは今日、イエスさまの命令を改めて受けているのです。この時に私たちはこの命令を心の底からごまかさないで受け取りたいと思います。
私たちは愛について教えられていながら、 真剣にそれを実行していません。世界の人々のために祈っても、 「あの人は別だ」、「あの事は別だ」と考えています。本気でこの命令を受け取り、本気で今私を憎んでいる人、私と遠い人、家族であれ、近所の人であれ、職場の人間であれ、何よりも教会の人、それらの人たちを「赦されているが故に赦す」、そのような歩みをもう一度取り戻したいと思うのです。自分の意見に強情に反対する人と忍耐強く対話をする者となりたいのです。世界の痛み、被造物の呻きの大きさからすれば、あまりにも小さな一歩かもしれませんけれど、ここから始めたいと思うのです。
私は、その意味では教会という群れは、イエスさまからのチャレンジの中にあると信じています。教会とは何かということを聖書は明瞭に説明しています。「洗礼によりキリスト・イエスに結ばれ、 神の子とされた群れであり、もはやユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も、自由な身分の者もなく、男も女もありません。キリスト・イエスにおいて一つなのです」(ガラテヤ3・26~29より)。 教会はイデオロギー、思想、民族、家族において一致するのではなく、キリスト・イエスに結びついていることにおいて一つであること、それが教会の一致なのです。
主の祈りはキリスト教の小さな学校です。「われらに罪をおかす者を われらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ」と心から祈るところに教会が生まれるのです。
もちろん、それでもなお、世界の問題は尽きません。私たちもまた、「祈りしかなさない」と批判されることもしばしばです。しかし私たちの一人でも多くの方に福音をのべ伝えるという働きを、大海の一滴にすぎないと言うのをやめましょう。
教会に来られる様々な方々と、いかにして共に歩むことができるかということに心砕き祈ること、そのような本当に身近な小さな一歩にイエスさまは期待してくださっているのです。イエスさまはおっしゃいます。「平和を造り出す人々は幸いである」(マタイ5・9より)。
大阪教会牧師 滝田浩之
宗教改革五〇〇周年に向けて ルターの意義を改めて考える(28)
ルター研究所所長 鈴木 浩
懺悔のサクラメントは、犯された罪を痛烈に悔いる「痛悔」、その罪を司祭に告白する「懺悔」、司祭による罪の「赦免」、そして、最後にその罪に対する償いの行為である「償罪」からなっていた。時に不正確に「免罪符」と呼ばれる「贖宥状」は、「罪の償い」を免除するものであった。贖宥状を購入すれば、罪の償いの行為が免除される、というのだ。
この地上で罪の償いを完全に果たすことのできなかった人は、死後「煉獄」で引き続き罪の償いをしなければならなかった。聖人を別にして、大部分の人は、罪の償いを地上で完全に果たすことができないので、煉獄で引き続き償いの行為をしなければならなかった。
贖宥状は、煉獄で罪の償いをしている先祖の霊にも適用される、と宣伝されていたので、人々は先祖供養のために、競って贖宥状を購入していた。贖宥状はいくらでも印刷することができたから、教会にとっては、「おいしい金儲けの手段」になった。「地獄の沙汰も金次第」ということだ。
ルターは、「贖宥の宝は網である……今ではこれで人々の富をすなどっているのである」(第六六条)と断定する。贖宥が搾取の手段になっていたのだ。
議長室から
総会議長 立山忠浩
8月、平和を覚える時
8月は平和を特に覚える時です。広島、長崎の原爆投下、そして終戦を覚える時だからです。東京では毎年15日の午前7時から、千鳥ヶ淵戦没者墓苑で超教派による「平和祈祷会」が開催されていますが、できるだけこれに参加するようにしています。過去の戦争の過ちを覚え、戦争のない平和を願い、説教に耳を傾けた後に大きな輪になって各自が祈りを献げるのです。平和のためにキリスト者として貢献できることは何かを問い、具体的に行動できるようにと神様に助けを求めるのです。
千鳥ヶ淵戦没者墓苑の近くには靖国神社があります。祈祷会に一緒に参加した年輩の方との帰り路に、ご自分の父親がここに祭られているということを耳にしたことがありました。私個人は靖国神社に参拝することはありませんし、日本のキリスト教会のほとんどが参拝に反対していることは周知のことですが、中には教会の方針を複雑な思いで受け止めているキリスト者がいることを知りました。
ドイツにしばらく滞在した時のことでした。小さな田舎町の教会に通っていましたが、 教会の敷地には二度の世界大戦で戦死した兵士の名前を刻んだ記念碑があることに気づきました。昨年米国の教会を訪ねた時にも、南北戦争で命を落とした南軍の兵士の幾人もの名前が教会墓地の墓に刻まれていたのです。日本の教会では見たことのない光景でしたので、実に驚きを覚えたのでした。
日本の教会は、戦争の過ちや加害者としての戦争責任について語ることには意識を傾けてきました。まだ十分でないという意見があるかもしれませんが、この取り組みは間違っていなかったと私は思います。しかし、もう一方で、国のためと戦地に向かい、戦死した兵士やその家族について語ることは避けて来た面もあったように感じています。
いま、集団的自衛権行使容認など、教会が対応しなければならない、平和を脅かす新たな問題が生じていますが、見逃していた様々な課題もあることを覚えなければならないと思います。
地球の反対側で出会った神様
ブラジル青年宣教ボランティア 山田麻衣(室園教会)
日本からは地球の反対側、ブラジルでの生活にも慣れました。多くの祈りに支えられ、ブラジル・ルーテル日系サンパウロ教会のボランティアとしての働きを終え、今は、日系人が運営する私立小学校で日本語を教えています。
サンパウロ教会でのボランティア活動は青年伝道という目的がありました。しかし実際には、なかなか教会内の青年活動は活発にはならず、ブラジルでたくさんの友人ができても、私の焦りから、友達と福音を分かち合う難しさに直面し、悩む日々が続きました。
私の中に、クリスチャンでなければいけないという、変なこだわりがありました。しかし、コヘレトの言葉の『神様が定める時がある』(コヘレト3・1より)という言葉に気付かされ、「とにかく心から分かち合える友達になればいいじゃないか」と思い直したら、友達の輪がさらに広がったように思えました。
近くに住む、いつか日本に留学する夢を持っている女の子、他教派の韓国系ブラジル人のクリスチャン、同じゲストハウスに住むみんな、私が気付いていないだけで、神様は出会いという恵みをたくさん用意してくださっていました。
私はサックスという楽器を吹いていますが、青年伝道のためならと、ある方の献金でブラジルでサックスを購入していただき、 礼拝やシュラスコ会など、様々な交流の場で活躍することができました。おかげさまで、ブラジル在住の日本人のブラジル音楽家の方と仲良くさせていただき、ライブにも数度出させていただきました。
サンパウロ教会の皆様にも、娘や孫のようにかわいがっていただきました。全く知る機会のなかった移民当時の話を聞き、同時にいかに信仰が支えになったかを直接聞くことができ、大きな学びと励ましになりました。
ブラジルは、治安などの問題を多く抱えていることも事実ですが、多くのブラジル人はやさしく、大らかです。私もそこにもイエス様の姿を見、学ばされました。
日本に帰ってから、神様が用意されている新しいミッションを楽しみにしています。オブリガーダ!(ありがとう)
デール・パストラル・センター開設
所長 石居基夫
このたび、日本ルーテル神学校は、「デール・パストラル・センター(DPC)」を開設致しました。教会を力づけ、牧師の牧会力を高め、信徒の霊性を養うことを目的とし、宣教の力となることを目指すものです。
このセンターの働きには三つの分野があります。一つ目は、パストラル(牧会的)の分野です。今日の教会における牧会の課題についての研究とプログラムの展開を目指します。二つ目は、スピリチュアル(霊的)の分野です。教会と現代社会の中における霊性・スピリチュアリティーについての研究と、それぞれの教会において霊的成長のためのプログラムを担っていくことを計画しています。三つ目は、隣人のニーズに仕えるソシアル(社会的)な分野です。社会の様々なニーズの中で、具体的には、大切な人を亡くした子どもと家族のグリーフ・ケアの働きなどの取り組みを行っていきます。
こうした各分野について、神学校の人材だけでなく教会の牧師や信徒の方々の力もいただきながら、研究会、公開講座、講演会、セミナーなどを開催していく計画です。ルーテル教会に奉仕すると同時に、エキュメニカルな広がりも視野にいれ、現代日本に生きる私たちの深い霊的な求めを探求していきます。そこに教会がどういうメッセージとアプローチをつくっていくか。牧会と宣教の一番の核に迫っていきたいのです。
お気づきのように、このセンターの名前には、日本ルーテル神学校およびルーテル学院大学の実践神学の部門で長く研究と教育にご尽力いただいたケネス・デール名誉教授(写真)の名前をいただいています。半世紀にわたる日本での宣教師としてのお働きの中で、デール名誉教授は、1982年に開設された「人間成長とカウンセリング研究所(PGC)」の中心となって働いてくださいました。この研究所は、キリスト教界ばかりでなく、宗教界、また一般社会に対し、キリスト教のホーリスティック(全人的)な人間理解を基盤にしたカウンセリングの重要性を説き、認定カウンセラーの養成と実際のカウンセリング活動などを通して、対人援助のための大切な働きを先駆的に展開してきたものです。同研究所は2012年の30周年を迎えたおり、その働きに区切りをつけて閉所せざるを得ませんでした。しかし、その閉所にあたって、研究所の精神、研究と教育の成果を今日の教会の牧会、また宣教全体に生かして欲しいとの声を多くいただきました。
本センターは、そうした声にも応え、今の教会に少しでも寄与するものとなりたいと考えています。毎年計画する予定の講演会も、「デール記念講演」と名付け、国内外からパストラル、スピリチュアル、看取り、死生学などの分野の著名な講師を招き、教会や社会へ貢献できるメッセージを発信していきたいと思っています。
現実には、まだ準備段階にあるセンターです。皆様のご理解を頂きながら、一つひとつ確かな歩みになるよう努めて参りたいと思っています。よろしくお願い致します。
礼拝式文の改訂
④ルーテル教会式文(礼拝と諸式)1996年版「青式文」について
樫木芳昭(日本ルーテル教団式文委員)
1 青式文完成に至る流れ
青式文刊行の準備は日本福音ルーテル教会と日本ルーテル教団両者の機関決定を経て1981年に始まったが、その前史に1970年代の神学セミナーでのアメリカにおけるルーテル教会合同の式文委員会が提案した3年周期の聖書朗読日課と主日の祈りの紹介がある。その後、アメリカの合同式文委員会が提案した礼拝を含む諸式文を研究し、日本版の式文を模索することが同セミナーで提案され、ルーテル4教会の有志による研究が開始された。その中で以下の暗黙の合意事項が生まれた。
①各々の教会が宣教母体から受け継いだ慣行を尊重し、その当否を論じない。
②アメリカの合同式文委員会が提案した礼拝を含む諸式文の精神を尊重しつつ、できるだけ日本の精神風土に馴染むものを模索する。
こうして、セミナーの後続研究から、青式文の素案に近いものがまとまった。当初は、これからの式文に寄与することを願う自主的作業であり、教会・教団の正規の手続きを経たものではなかったが、やがて前述の機関決定を経た共同の式文編纂作業となった。
1960年代初頭に使用が開始された口語の「茶式文」の採択から20年あまりを経て、各個教会で使用する聖書も口語訳から共同訳、そして新共同訳へと移行しはじめた状況を踏まえ、10年程の作業を経て完成したものである。
2 編纂作業で取り上げられた諸事項
①ローマを中心に発展したラテン教会のミサを基にした。
②和訳に際し、式文の文言は聖書に基づいており、限りなく聖書本文に近いが、教会の歴史の中で典礼文として磨き上げられた文言であることに留意した。
③茶式文になかった〈部〉を設けて式文全体を大きく区分し、各項目に番号を振って、礼拝の流れを把握しやすいよう計った。
④茶式文までの日本語式文では、開会の讃美歌、ざんげと赦免、讃美頌、挨拶、特祷となっていたが、開会の讃美歌と讃美頌は元々同じもので、始まりは司式者群の入堂、すなわち礼拝の開始時に歌われた讃歌に由来するので「初めの歌」とし、「讃美歌、詩篇唱を用いてもよい」と註書きをつけた。
続くざんげと赦免は、その起源が司式者群の相互のものに由来し、礼拝の外の事柄だったのを、罪の告白は神に、赦しは「福音の説き明かし」と「聖礼典」を通して与えられるという立場に拠り、礼拝式本体に位置づけた。
⑤茶式文では福音書朗読の前に指定されていたグラジュアルを「詩篇唱」として「讃美唱」を用い、「栄唱」で結ぶよう提案した。
⑥聖餐の「設定辞」、茶式文では「わたされる夜」となっていたのを「苦しみを受ける前日」とキリストの十字架の贖いを強調する文言にした。
⑦「文語式文」には採用され、「茶式文」で削除されていた「ヌンク・ディミトゥス」を罪赦されて世に出て行く喜びの歌として回復した。
⑧3種類の「派遣の祝福」を用意し、その礼拝の性質に合わせて選択可能とした。
⑨冒頭の『一般的取り扱いの原則』と『礼拝のための取り扱い』によって、個々の教会の礼拝における実践について示唆する。
3 結び
編纂作業を開始する際、ルーテル教会の式文は会衆に理解されることを大前提にしており、どんなに優れていると自負する式文であっても、2、30年の時間が経過すると、常用の言葉遣いや神学の潮流が変化し始めることもあり、その完成は次の式文編纂の準備の始まりだと聞いた。それを踏まえると青式文の評価がどうあれ、着手以来30年余の時が過ぎた今、新しい式文の編纂が行われることは極めて当然のことと思う。
西地域教師会退修会報告
西地域教師会長 谷川卓三
6月23日~25日、鳴門市岡崎海岸の絶景パノラマを臨む老舗旅館を貸切状態で、西教区の教職17名中15名が参加して、2泊3日の退修会が開かれた。
テーマは「私とルター」。宗教改革500年を前に、弟子としての牧師の在り方を問うテーマであった。 恒例に従い新任教師の二人が、伊藤節彦牧師は「全信徒祭司性としての信徒使徒職」、神崎伸牧師は「説教職」について、熱意ある良い発題をされた。また、来年定年を迎えるお二人、佐々木赫子牧師はご自分の人生における主の導きの不思議を証しされ、鐘ヶ江昭洋牧師は説教職としての牧師の総括をされた。さらに、JELCの教師集団としての共通課題である式文の件では、新しい変化として、新式文の規範性・拘束性の強化が最近の常議員会にて方向づけられたことが確認された。また、式文委員会と各教職、教師会と常議員会のより活発なフィードバックが必要なことも強調された。
「退修会」と言われるが、しかし大事なことは「修める」こと以外のところにあった。何故、主イエスは「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われたのだろうか。イエスは弟子たちだけでしばらく休むことにどのような意義を託されたのだろうか。牧師たちは日ごろ、イエスの福音を世に伝えるために「蛇の如く、鳩の如く」緊張の日々を送っている。その弟子たちがしばらく弟子たちだけで人里離れた静まった所で一緒に過ごす時を、特別な配慮をもって、恵みの賜物を与えて祝福されたのだと思う。ありのままの教職の素の姿のままに共にある2泊3日は、何があろうともそれでもやはり、リラックスの時、主の賜る祝福の時であった。
たしかに肉体的には遠い旅をし、濃密な交わりに疲れを覚えるのだが、しかし、それが明けた時、新しい元気が与えられている。主のご配慮の素晴らしさである。
東海地域教師会退修会報告
東海地域教師会長 浅野直樹Jr.
東海地域教師会は年に一度、退修会と総会とを行っています。今年は『かんぽの宿焼津』を会場に6月23日~25日の日程で行いました。テーマは「ルターを語るために―宗教改革500年に向けて」ということで、神学校校長の石居基夫先生を講師としてお招きして行いました。
ご存知のように2017年の宗教改革500年に向けて全体教会を中心に様々な取り組みがなされていますが、地域教会の牧師集団としても、それぞれの地域において、またそれぞれ遣わされている教会において、ルターを語る機会を大いに用いるために、その備えのための企画でした。
はじめに石居先生より「ルターを語るキーワード」、「時代の中で」、「ルターにおける福音の再発見」、「教育・福祉への貢献」、「ルターの歴史的限界」といったテーマ・項目で基調講演をしていただき、基本的な理解を深めていきました。その中でも「現代的視点」といったことが問われ、単なる「歴史上の」ではなく、現代日本という中で、前述にあるようなルターの功績・貢献をいかに語り、また浸透させていくことが出来るか、などの活発な議論もなされました。
2日目は課題図書の『ルターを学ぶ人のために』から、朝比奈晴朗牧師、後藤直紀牧師のお二人に、それぞれの関心事から発表をしていただき、ここでも活発な意見交換がなされました。
また、東海教区は4つの地区に分れていますが、その中の尾張・岐阜地区では合同礼拝とルター神学を学ぶ宗教改革記念集会が行われています。その取り組みを末竹十大牧師に紹介していただき、他の地区での取り組みを考える機会ともなりました。
今回のもう一つ特筆すべきことは、1日目の懇親会です。今回は朝比奈牧師の発案で、幾つかのチームに分かれてルターにちなんだオリジナル即興劇を行いましたが、皆さんの役者ぶりはもう圧巻でした。
総会では各研究グループからの近況報告がなされましたが、今回は特に社会問題の担当の内藤文子牧師から被災地訪問の報告がなされました。
「日本福音ルーテル教会における社会問題への関わり方」について
事務局長 白川道生
我が国の現政権が、去る7月1日の臨時閣議で決定した「集団的自衛権の行使容認」を巡って、抗議を表明する人々が声を上げる状況を目の当たりにしています。抗議の中には、多くのキリスト教会や宗教者が関わる協議会からの意見表明や行動が含まれています。このような情勢の中で、日本福音ルーテル教会(以下JELCと略す)に属する私たちは、どのようにこの時を生きればよいのか?と自問しておられる方もあることでしょう。
そこで、現在の情勢に関する内容を考えるに際して、この度、「JELCのホームページ」上へと過去に発表された見解や表明、宣言等を掲載して、皆様にご覧いただけるようにしました。これらの中で提供されている視点や課題認識を通して、各々が考えを深めていただければと願っております(※ネット環境をお持ちでない方には不十分で、まことにすみません。各個教会での補いをお願いできれば幸いです)。
合わせて、 本稿では、 比較的最近なされた、JELCにおける議論の積み重ねを振り返りながら、考えてみたいと思います。
2008年の全国総会において「教会が社会問題への発言をする場合の基本的考え方」が承認されました。ここにひとつ、JELCの公式的な表明があります。加えて、第25回総会期常議員会で承認された、社会委員会による「現在の社会的・政治的状況における問題への見解」(2014年2月21日)が出されております。この審議では、付帯的に、段階分類による社会問題に関する教会の基本姿勢と意見表明の仕方についてのとりまとめもなされました。
まず、2008年の基本的考え方は、JELCの機関によってなされた同年以前の社会に向けた発言(社会委員会によるイラク戦争反対声明、全国総会による「日本国憲法」改正に反対する声明、信仰と職制委員会による、首相の靖国神社参拝反対声明など)に対しての疑問に呼応して、今後の指針とするためにまとめられたものです。それ故に、個別事案の内容そのものへの見解でなく、教会が教会としての立場・見解を出す基本的事柄と、信仰者としての在り方についての言及となっています。
社会的な発言についての基本理解として「社会の中に生き、また社会を構成している一員として、信仰者の立場から、絶えず社会のあり方につき、祈り、関心を払っていくべきである。ことに正義や平和、人間の尊厳については、これが欠けたら神の意志に添わなくなると判断したら、その信じるところを世に向かって語ることを躊躇してはならない」と説明されています。
ここでは、社会との関係性を「社会を構成している一人」と表現し、その自覚ゆえに、社会のあり方について絶えず祈り、関心を払ってゆくべきと、促されています。つまり、信仰者が社会の出来事から距離を置いてしまわず、この社会の中に生きるのが基本と理解しています。
また2014年の社会委員会見解では、「わたしたちキリスト者としての具体的な行動は、深く、全身全霊をもって『平和を求める』ことが第一の行動と考えています。そこから押し出されて、まずは各々が『信仰と良心』に基づいて考え、言葉と行いによって平和の維持と形成を目指していく道をあゆむことが重要である」と述べられています。
両方ともに、信仰者として、一人ひとりが、それぞれに暮らしている社会の中で、まず祈り、そして行動し、発言する 。これがJELCの基本理解として記されています。
同時にこれは、どのように行動し、発言するかについては、信仰と良心に基づいて、個人の判断に任せられることを基本理解とする、という見解でもあります。
これらを踏まえた上で、次号では、なお、二つの事柄を考えてみたいと思います。ひとつは、どのようにして「信仰と良心に基づく考え」をもってゆこうとするのか?もう一つは、個人でなく、全体教会として社会的・政治的な発言をすることが避けられない事態での対応についてです。(続く)
東教区ディアコニア講演会報告
東教区ディアコニア委員会代表 牟田青子(大岡山教会)
ディアコニアの心を日本の教会に伝えられたドイツからの宣教師、ヨハンナ・ヘンシェル師を記念し、毎年、講演会を開催している。今年も東教区ディアコニア委員会と社会部の共催で6月29日に東京教会において「イエスを信じる私が結構まじめに日本国憲法について考えた」と題し、全国ディアコニアネットワーク副代表であり、愛知県弁護士会憲法問題委員長である内河惠一さんの講演会が、70名近い参加者を得て行われた。
講演は公害弁護士となった「証し」に始まった。浜松で戦災に遭い、経済的理由から中学卒業後に就職、16歳で受洗、22歳で上京し、福音ルーテル教会日本伝道部(東海教区の前身)で働きながら大学夜間部在学時、お父様の死を契機に「恩返し」の気持ちと「一匹の羊の物語」から、聖書と社会での生き方との結びつきを意識するようになり弁護士を志す。そして司法修習生時代、四日市公害訴訟問題と出会い、公害弁護士の道を選び今がある。イエスご自身、人間の問題、社会の問題と密接な関わりの中で活動され、イエスに従うキリスト者もまた「人と社会に仕える」ディアコニアの観点を常に意識することが求められると力強く語られた。
ついで、日本国憲法、特に集団的自衛権について述べられた。憲法とは権力者が守らねばならない法律であること、日本国憲法、特に第9条は徹底した戦争放棄を前提にしており、戦力も交戦権も認めていないこと、しかし世界の冷戦構造の中で自衛のため、最小限度の実力は保持できるとの解釈から米国や多国籍軍と一体となって、イラク戦争をしていたことが確認された(名古屋高裁判決)こと。
他国の防衛のために外国に出かける集団的自衛権には最小限度という概念はあてはまらない。やられればやり返すのが戦争であり「歯止め・限度」を仮想した集団的自衛権は国民に対するまやかしである。それゆえに、社会問題を常に意識の中に入れておくこと、またこれから始まる法整備に対して、良心的な議員や反対の声をあげた人を応援すること、有権者の一人として行動することなど、集まった老若男女の熱気を受け止めつつ語ってくださった。あっという間の2時間超であった。
重富克彦牧師の写真集が出版されました
「神さまが創造された世界を切り取るということは、僕の傲慢かもしれない。けれど、この素晴らしい世界に僕は圧倒されカメラを向けずにはおられない。もしも僕の写真を喜んで手に取ってくださる方があれば、よろしく頼む。」との遺言に従い、この度「重富克彦写真集」が完成いたしました。ご遺族と相談した結果、生前のお交わりに感謝し希望される方にはお分かちすることとなりました。
なお、販売は固く禁じられているため、希望される方には送料のみご負担いただきます。メールかファックスにて下記までお申し込みください。お一人1冊とさせていただきます。
メールkaoru-okada@jelc.or.jp Fax 011(726)3245
岡田薫(恵み野教会・札幌教会牧師)
住所変更
召天牧師配偶者 高倉矩子 様
〒202-0022 東京都西東京市柳沢4-1-3
東京老人ホームめぐみ園
同 萩原ヒサ子 様
〒202-0022 東京都西東京市柳沢4-1-3
東京老人ホームめぐみ園
FAX番号変更
長野教会 026(217)8520