るうてる2013年9月号
説教「隔てを越えてゆくため」
日本福音ルーテル本郷教会 安井宣生
「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」
エフェソの信徒への手紙 第2章14~16節
「世界の為政者の皆さん、いつまで、疑心暗鬼に陥っているのですか。威嚇によって国の安全を守り続けることができると思っているのですか。」「信頼と対話に基づく安全保障体制への転換を決断すべきではないですか。」 広島市長は今年の平和宣言において穏やかに、しかし、厳然と呼びかけました。
私はこの言葉に、聖書が呼びかけてきた平和構築への可能性を聞く思いがしました。威嚇ではなく対話を重ねて行くこと。それは為政者のみならず、他者との関わりに生きる私たちの誰もが大切にしなければならないことでしょう。それぞれの経験や立場を絶対的なものとするのではなく、その間を隔てる壁を乗り越えて、互いに尊重し学ぶ関係をつくっていくこと自体が平和への道なのだと思います。
エフェソの教会に連なる人たちと当時のユダヤ人キリスト者の間にも、「律法」ゆえに互いを遠ざける現実がありました。また、ユダヤの人々が神殿を大切に思うほど、他者を排除しその純粋さを守るために自分たちと「異邦人」との「隔ての壁」の維持を重要視してしまうことにつながりました。このことは、形を変えながらも、現代の私たちの社会に巣くっているのではないでしょうか。人種や民族、国籍、宗教、性別、心身の状態、性的指向、社会的地位などで自分との違いを生きる存在に不寛容な思いを持ち、対立し、ともすれば排除しようとしてしまう。それは人類が普遍的に抱く闇といえます。
だからこそ神が「双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し」、「両者を一つの体として神と和解させ」、「敵意を滅ぼ」す必要があったのです。そしてそれは、キリストの十字架によって、神自身が痛みを負うという赦しの業によってもたらされました。
文字を持たないアイヌの口伝承ユカラを文字化し、日本語訳し「アイヌ神謡集」として世に送り出した知里幸恵という人がいます。1922年の夏、金田一京助宅で知里が「アイヌ神謡集」の出版準備のために過ごした三ヶ月は、地上での最後の時間となりました。知里は校正を全て終えた晩に心臓疾患により短い生涯を閉じたのです。19歳でした。
知里がその命を削るようにして編纂・翻訳した「アイヌ神謡集」とその序文は、雄大で美しく清らかな内容もさることながら、その生きる姿の熱さ力強さで人の心を激しく揺さぶります。それは、知里が生まれたアイヌ民族の、物語の紡ぎ手と受け手とが文字の受け渡しではなく、ことばを行き交わすことによって育まれてきたことと無関係ではないと思います。この物語は、受け手を巻き込み、受け手も共に紡ぐ者とし、さらに受け手を伝え手として動かしていく。そうやって物語とその物語を生み出した自然の豊かさと厳しさ、それと共に生きる恵みが届けられ、自然と人、カムイ(神)とアイヌ(人間)とを結びあわせていくのです。
そのようなアイヌの言葉や生き方を失わせる原因となった和人に対して、それを伝えるべく知里が日本語訳に取り組んだことは、まさに知里が「敵意という隔ての壁を」越えて行こうとすることです。知里の物語はアイヌと和人とを結びあわせる取り組みでもありました。
知里にとってもう一つの大切な物語がありました。それはキリストの物語でした。虐げられ傷つけられている人を訪ね、救いを告げ、共に生きる。文字は残さずとも、語る言葉と生き方を通してその愛を伝え、それを受け取る人に人生の新しい一歩を踏み出させる力を与え、神と人を結び付けていくキリストの物語に、知里は幼い頃からその心に響きを与えられてきました。知里はこの物語を熱心に求め、受けとり、この物語に動かされてキリストに従う道、隔ての壁を取り除かれることに信頼する道を歩んだのです。
知里の終焉の地となった旧金田一宅跡の隣に今、本郷教会が立っています。ことばが人を生かす、アイヌの物語とキリストの物語。知里が生かされ、知里が担った物語を現代に結ぶ役割を託されたと受け止め、数年来、召天記念日にあたる9月18日に、記念会「シロカニペ祭」の会場として用いられています。
キリストがその十字架において隔ての壁を取り壊したのは、私たちが互いの間にある隔てを越えて生きるためです。それは簡単なことではありません。しかし、キリストが砕いた壁の残骸を踏みしめて共に生きることへと私たちは招かれているのです。
宗教改革五〇〇周年に向けて
ルターの意義を改めて考える(17)
ルター研究所所長 鈴木浩
ルターの「信仰のみ」という言葉は、誤解を与えたし、今でもあたえている。最大の原因は、「信仰」という同じ言葉を使いながら、考えている中身が違うからだ。
ルターは信仰とはズバリ「信頼」だと言った。
不治の病にかかっている人間は、医師であるキリストに心から信頼し、治療(つまり、救い)のことでは、キリストに身ぐるみ自分を任せてしまう。
断固として病人を癒そうとする キリストの熱意(ピスティス、つまり真実)と、そのキリストに自分を身ぐるみ預けた病人の信頼(ピスティス、つまり信仰)とが出会うところで、初めて癒し(救い)が出来事となって現実化する。ここでは、原理的に言って、双方のピスティス(真実、信頼)以外のものが介在する余地はない。だから、「キリストのみ」、「信仰のみ」なのだ。
ここでは、「セカンド・オピニオン」は無用だし、治療の邪魔になる。キリストの真実と人間の信仰とが出会うピスティス関係が、そこで壊れるからである。このピスティス関係は、常に維持されねばならない。だから、人間は繰り返し新たに、神の言葉で力づけられる必要があるのだ。
牧師の声
岡崎教会、文化財登録される
岡崎教会 宮澤真理子
7月19日に開かれた国の文化審議会にて、岡崎教会礼拝堂が「登録有形文化財」に登録されることが決まりました。愛着の深い礼拝堂がこのように世の中に認めていただき、教会員一同喜んでいます。
登録有形文化財制度は、従来の文化財指定制度を補完する新しい制度として、1996年より導入されました。岡崎教会は「建築後50年を経過していること」「国土の歴史的景観に寄与しているもの」という基準を満たしています。
岡崎教会の礼拝堂は1953年10月4日に献堂されました。設計はヴォーリズ建築事務所によるものです。建物の正面に4本の大きな木があります。緑の葉の間から、白い壁と赤い塩焼き瓦が目に入ります。中央の尖塔、切妻の屋根、片流れのひさしが特徴です。礼拝堂の内部には、正面の壁にひときわ大きな十字架が掲げられています。トラスという三角形を単位とした骨組によって、天井が高く作られています。正面の十字架にも、礼拝堂全体にも自然光が豊かに入ります。
建築に興味をもたれる方がこの教会を訪ねてくださることでしょう。イエス様の福音に出会っていただくきっかけとなればと心から願っています。
信徒の声
『教会』は地域の『ひろば』
浜名教会 鈴木和美
私は、子どもたちの笑顔や歓声にあふれた教会で過ごす事が夢で、浜名教会で私を生かしてほしいと祈っていました。すると、地域に学童保育所がなくて困っていた、働く友人の声を聞きました。そして、「子どもたちの交流の場、居場所を作りたい」「浜名教会を地域の方々の知ってもらいたい」という目的で07年7月、長期休暇時の「こどもひろば」が始まりました。
始めた頃、集まった子どもたち7、8人が、車座になって下を向き一人一台の携帯ゲームに夢中になっている姿に 唖然としました。この子たちは、ゲームしか遊びを知らないんだと気付き、私は、息子たちと一緒に、ボードゲームやトランプ、絵画や製作を教えました。すると、工夫したり、発展させたり、新たに発想したりして、表情が生き生きとしてきました。用水路や川で生き物を捕ることや、木を削って刀にしてチャンバラをする事など、危ないからやめさせるのではなく、危険から身を守る経験をさせました。
そして、10年10月、プレハブの別棟が教会員や周りの方々の祈りと捧げ物によって与えられました。11年4月、土・祝日保育希望者が現れました。平日の未就園児保育や親子の遊び場としてもPRすると、必要な所に届きました。さらに、12年4月から放課後保育の要望もあり、今では毎日子どもたちが集まっています。バンドの練習をするために中高生も関わったり、お迎えに来たお母さん方が、子どもたちの遊ぶ姿を見て、成長に気づいたりしています。
外国から嫁いできたお母さんの子育てをサポートしている時に、彼女の実父が母国で亡くなり、教会で追悼会をして、彼女の悲しみに寄り添いました。また、シングルで子育てをしていたお母さんが再婚することになり、子どもと共に教会で結婚式を挙げました。
特定の年齢の人たちのためでなく、様々な関わりが自然となされる場になってきました。教会が教会の人たちだけの所ではなく、「ひとびとのひろば」になってきたのです。
この先どうなるのか、私には、わかりません。ただ、可能性が無限にある子どもたちを通して、神様は、多くの方々と関わらせてくださることを信じています。『こどもひろば』の様子は浜名教会のfacebookをご覧ください。
JLER(ルーテル教会救援)対策本部 現地からのレポート
JLER派遣牧師 野口勝彦
間もなく、東日本大震災から2年6ケ月が経とうとしています。ルーテル教会救援の活動も残り7ケ月となり、活動終結に向けて様々な準備が始まっています。
今月号では、現在、ルーテル教会救援が展開している活動の中で、仮設支援活動の現状及び終結方法について報告させていただきたいと思います。
これまでルーテル教会救援では、宮城県石巻市河北町の五ケ所の仮設団地と同北上町の一ケ所の仮設団地において定期的な支援活動を行ってきました。
その主な支援内容は、大きく分け、生きがい支援、居場所支援、自立支援の三つの支援活動です。
具体的には、生きがい支援として地元ボランティア団体との「つるしびな」製作など手仕事的なモノづくり活動、居場所支援として「お茶っこサロン」やDVD「おしん」鑑賞(写真)など、自立支援として仮設団地自治会サポート活動などです。
現在、各仮設団地は、全体的に落ち着きを見せており、災害公営住宅への入居も始まっています。
しかし、一方で未だに様々な問題を抱えている仮設団地が存在するのも事実です。
ルーテル教会救援では、このように状況の異なる各仮設団地に合わせた支援活動を現在、展開しています。
また、来年3月の支援終結に向け、来年4月以降も被災地で支援活動を継続するNPOやボランティア団体、そして、地元の社会福祉協議会など行政関連機関との連携も強めています。
具体的には、仙台市や石巻市に活動拠点を置く子育て支援NPOや青少年教育NPOが仮設団地で行っている子ども支援プログラムの支援や、毎日、仮設団地において見守り活動を行っている社会福祉協議会所属の生活支援員との連携活動などがあります。
仮設団地の方々の災害公営住宅への転居は、来年度から本格化しますが、全員が新たな住居に移るまでには、まだかなりの時間を要することが懸念されています。
ルーテル教会救援としては、残された時間を使って、来年4月以降も仮設支援が継続的に行われるような体制づくりを支援していきます。
皆様も引き続き、被災地の早期復興とルーテル教会救援活動のためにお祈り、お支えいただければ幸いです。
牧会者ルターに聞く 5
石田順朗
第二章「震災後」に迎える宗教改革五〇〇周年
その二 「絆とボランティア」を支える「自由と奉仕」
震災一周年に当る二〇一二年三月一一日を期し、飯能ルーテル教会の招きに応じて勉強会「ルターの『キリスト者の自由』から学ぶ」を四回行なった。冒頭にルーテル学院大学市川学長から戴いていた報告を紹介した。「二〇一一年六月一三 日、被災地を訪問、…支援が遅れている現状をつぶさに見てきました。… 復旧に三年、復興に更に三年と言われています。しかし明日を目指して、被災地で生まれた『希望の光』と共に歩むこと。その歩みを通して、今、日本社会が求めている『希望』と『絆』を再生していくこと。それぞれの場で互いに支え合い生きていくことが大切な時期になっています。… 復興支援の取り組みは『自分のためでなく、隣人のために生きて仕える生に、神の祝福があるように』(ルター)という使命に基づいた行動であり、今までルーテル教会が築いてきた伝統を確認し、発展させる働きでもあると思います」。
3年前の「無縁社会」に比べ「震災後」の私たちは、苛酷災害の悲惨な後遺症を体験しながらも互いの「きずな」を取り戻そうと懸命に努めている。震災年の流行語「絆」の意義は、すでに定着した「ボランティア」と並んで実に重い。それだけに、奇しくも「絆 と ボランティア」を呼び覚ます「自由と奉仕」を唱えたルターの『キリスト者の自由』(一五二〇年)をひも解く幸いを覚えた。
「キリスト者は、すべてのものの上に立つ自由な主人であり、だれにも服しない」、同時に「キリスト者はすべてのものに仕える僕であって、だれにでも服する」で始まる同書は宗教改革三大文書の一つ、三〇ケ条の僅か 二〇 ページあまりの小冊子。福音の核心を平易簡潔に表現し、本来キリスト者とは? どのように生きて行くのかを端的に述べたルターの会心作。当初ドイツ語、ラテン語で出版、その後世界各国で訳され、キリスト教文献では聖書の次に愛読されてきたと評される好著作。
本書はまず、キリスト者は「自由な主人」でありつつ同時に「奉仕する僕」だという矛盾する二つの命題を掲げ、その聖書的根拠は「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです」と述べるパウロの言明(第一コリント9・19)。ところが、標題を『キリスト者の自由と奉仕』とはせず、『キリスト者の自由』に絞って二つの命題は根底で結ばれ一致していると論を進める。ルターは「自由」は信仰によってのみ得られ自由を得たキリスト者は、そこで始めて隣人に対し「奉仕の愛」をもつことが可能になると確信していた。今日この書を学ぶ意義は真に深い。「絆とボランティア」は、ルターの言う「自由と奉仕」で裏打ちされて更に復興の源泉となろう。
前号より記載される標題下の「S」は、ルターのドイツ語訳『聖書』刊行時に流行の各章を導く「木版画頭文字 (Holzschnitt-Initialen)」(ウイッテンベルグ・一五三四年)。
こひつじ
ステンドグラス工房 アスカ 山崎種之(松本教会会員)
京都宇治の北小倉こひつじ保育園の玄関上の塔には「こひつじ」の丸窓があります。
一般には幼児施設だからおとなしくかわいい動物の一つとして受けとめられていますが、洗礼者ヨハネは、主イエスと初めて出会った時、「見よ、世の罪をとりのぞく神の小羊だ」(ヨハネ福音書1・29)と叫びました。主イエスこそ神の小羊なのです。
そしてまた、主イエスは、「わたしは良い羊飼いである」(ヨハネ福音書10・11)と言われます。
復活の主イエスは、弟子たちと食事を共にし、ペトロとの対話の中で、「わたしの小羊を養いなさい」(ヨハネ福音書21・15・口語訳)と命じられました。ここにキリスト教保育の原点があります。
天に向かう七羽の鳩はみ言と聖霊の働きを示し、野茨は、野にあって忍耐強く、ほのかに薫る白い花を咲かせます。この野茨のようなキリスト者の育つ幼児の園をめざします。
第15回ルーテルこどもキャンプ報告
2013年8月7日から9日まで、南は熊本市から、九州教区、西教区、東海教区、東教区は千葉に及ぶまで、25名の小5、6年生がルーテル学院大を会場として集まり、こどもキャンプが無事行われました。今回は初めて、テーマとしてアフリカが取り上げられ、目下、ルーテル教会の成長が著しいタンザニアについて学びました。
キャンプのスタッフは、30名に及び、更に東教区女性会役員の協力も得ました。キャンプの準備は、数ヶ月前から牧師夫人数名を中心に多数で綿密になされ、本番を迎えました。3日間、天候にも恵まれ、2日目には、隣接する野川公園へタンザニア体験ハイクに出かけました。恵まれた自然の中で子供たちも次第に打ち解け合い、タンザニアの子供たちの生活を追体験し、25人みんなが友達となり、ジュニア・リーダー、リーダーの引率の下、元気に戻って来ました。
当日の夜は、タンザニアに詳しいルーテル学院大の上村敏文先生から、当地の教会での子供たちの堅信式における目の輝きや、延々と続く会衆の賛美や踊り等の様子が映像を通して紹介され、また、ライオンなどの生息する豊かな自然と子供たちの生活を学ぶことが出来ました。
3日間、チャプレンとして市原悠史牧師が、またその補佐として竹田大地牧師が礼拝等を担当してくれました。小5、6年の伸び盛りの全国のこどもたちと親しく交わりを持った3日間を、スタッフの方々と共に、神さまに感謝いたします。(キャンプ長 渡邊賢次)
「エリス先生を偲んで」
九州ルーテル学院大学人文学科准教授 パトリック・ベンケ
私が熊本に来た時、一人の若いアメリカ人に会いました。後で彼について悪口を聴きました。それで私は彼に悪い印象を持ちました。ある時、エリス先生と会話をする機会があり、その人の名前が出て来ました。先生にその人についてのスキャンダルを聞くのを期待していました。でもエリス先生はその人の性格と活動について良い事だけ話しました。先生はその人に関して悪い事を知っていたかも知りませんけれど、良いことだけを伝えました。先生の話し方と態度はその後の私の考え方を変えました。
それはエリス先生と関わり始めた頃のことでした。その後も先生からはいつも人のいいことだけを聞きました。人を紹介してくれたときも誠実な笑顔をしながら、その人のことをほめていい気分にさせました。さらにどんな大変なことを語るときも、良い結果を強調しました。私が聞いた先生の話を思いだせば、彼は日本での仕事をしながら見た、たくさんの人の情け深い行動から大きな影響を受けたと感じてきました。エリス先生の経験や感動を聞かせてもらったおかげで、私の行動や生き方まで変わりつつあります。
コロサイ人への手紙3章12~17節でパウロは日々神様のための行動の助言をします。キリストの憐れみ深い態度をまね、キリストの平和を心に受け入れ、いつも感謝を持ち、神の言葉を考え、キリストの代表として生きる。
エリス先生は説教で以上の内容のテーマを語りました。どの人とでも積極的にはなしました。先生は希望をもってそうしたそうです。そのうえ、私たちに話してくれたように生活しました。先生を尊敬すると同時に憧れてきました。私に模範を示してくださいました。
[略歴]
1951年9月9日 北米一致 ルーテル教会より宣教師として 来日
1952年5月 移動図書館伝道 に従事
1952年9月~1956年7月 九州学院英語教師
1955年5月 小国伝道所・天 草伝道所の伝道に従事
1992年4月 九州ルーテル学 院院長に就任
(退任 2002年3月)
1996年 引退宣教師となる
(45年間日本伝道に尽くす)
1998年4月 九州ルーテル学 院園長に就任
(退任 2002年3月)
「甦るヴップ・カタヤ先生」
定年教師 前田貞一
この稿を起こしている八月四日(日)の夜、丁度この時間の頃、カタヤ先生の葬儀が、兄君のユッシ・カタヤ牧師によってフィンランドのラプア教会で営まれている。私事、フィンランドに留学する直前、日本に赴任された方や先生からフィンランド語を学び、世話をうけた者である。
先生は、教会合同以前には、東海聖書学院で教壇に立たれ、教会合同後も、教会の教育局に属し、当時の「聖文舎」に所属して「教案」編集に携わられた。その関係で市ヶ谷教会に身を置き、多くの教友をえられた。
私が池袋に赴任すると同時に、池袋教会の宣教師として異動された。池袋では、古老のI姉を毎日訪ね、不測事態に対処してくださったこと等を思い出している。定年により、宣教師を退かれた後、二度来日され、熊本へ移住した拙宅への問安をいただいた。
「フィンランドに居ると日本へ帰りたくなるし、日本に居るとフィンランドに帰りたくなるし、天国では落ち着くでしょう」と言っておられた。
復活祭と降誕祭には、互いに電話で安否確認をしていたが、一昨年から連絡不能となり案じていたが、天国に落ち着かれた姉が私の胸に甦っている。
[略歴]
1959年1月5日、LEAFの宣 教師として来日
1959年1月より一年間日本語 研修
1960年~1962年 東京・ アバコに出向 世界キリスト教 視聴覚教材収集のため
1962年~1963年 アメリ カ ゲティスバーク神学校留学
1963年~1971年 東海 ルーテル聖書学院〔静岡〕教会教 育の教師
1971年~1973年 焼津教 会の宣教師
1973年~1979年 東京・ 聖文舎 派遣 6年間
1979年~1985年 市ヶ谷 教会の宣教師 6年間
1985年~1994年 池袋教 会の宣教師
1904年10月 帰国退職 フィンランドへ
サウスカロライナ・シノッドを訪問して
総会議長 立山忠浩
米国サウス・カロラナイシノッドのヨース監督の招きに与り、六月二~五日に開催された総会に、この地で交換牧師として一年間奉仕されたことのある浅野直樹東教区長(今回は通訳が主)と一緒に参加しました。
シノッドの展開する海外宣教地の代表者が一堂に会したのは初めてのことでした。南米コロンビア、タンザニア、そして日本。それぞれに「聖霊の働き」を主題にした報告が求められました。五十年の歴史しかないタンザニアの教会が前日、今や七百万人の会員を擁するとの報告に万雷の拍手を受けていただけに、日本からは成果の乏しい報告しかできないことを覚悟しました。ただ、「ルーテルとなり人」の活動の一端を報告し、これには会員獲得という目に見えた成果はないけれども、被災者に奉仕する地道な活動にも聖霊の確かな働きを見ることができるのではないかと訴えました。幸いに四百名ほどの出席者から、前日にも優るほどの拍手をいただいたのでした。按手式も行われ、対象者が黒人とは初めてのこと。保守的傾向を持つと言われるこの地の歴史を垣間見る思いでしたが、今総会は彼らにとってもチャレンジングなことだったのです。
総会全体がそうでしたが、式の雰囲気は私たちの教会と随分異なるものでした。若い黒人の女性の按手ということもあり、とにかく明るく、楽器も様々で、さながらお祭りの雰囲気。若い世代には特に、リズミカルな音楽を用いた礼拝が日本でも必要ではないかと感じました。廊下には展示コーナーが設けられ、被災地の方々が作製して下さったつるしびなを多くの方々に見ていただきました。
今後の交流プログラムについても協議し、教職に留まらず、信徒や諸教会との交流プログラムを検討して行くことを確認しました。滞在期間中は、リビングストン元宣教師ご夫妻に大変にお世話になりました。空港まで十五分とかからない距離にご自宅を構えられたのは、日本の来客を迎えるためとのこと。その言葉に偽りはありませんでした。
日本福音ルーテル教会/日本聖公会合同礼拝のお知らせ
9月14日(土)午後1時
会場:ルーテル東京教会
■第一部
礼拝
(13時~14時30分)
説教者:加藤博道
(日本聖公会 東北教区主教)
司式者:浅野直樹
(日本福音ルーテル教会 東教区長)
補司式:大畑喜道
(日本聖公会 東京教区主教)
大柴譲治
(日本福音ルーテル教会牧師)
日本聖公会東京教区聖歌隊
日本福音ルーテル教会 東教区聖歌隊
■第二部
共同・協働の意味と勧め
(14時30分~15時)
竹内一也
(日本聖公会 司祭)
江藤直純
(日本福音ルーテル教会 牧師)
石居基夫
(日本福音ルーテル教会 牧師)
教会紹介と交わり (15時~16時)
主催
聖公会/ルーテル合同委員会
日本福音ルーテル教会