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機関紙るうてる

るうてる2010年11月号

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説教「終わりは始まりである」

「見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。」 
(ルカによる福音書 九章三十~三十一節)

教会の暦は、「待降節」から始まります。その「第一主日」は、十一月三十日の「聖アンデレの記念日」に最も近い日曜日と決められています。ですから必ず十一月二十七日から十二月三日の間に来ます。その一週間前が「聖霊降臨後最終主日」で、一年の教会暦の最後の日曜日です。また十一月一日は「全聖徒の日」で、この月の最初の日曜日を「全聖徒主日」として、召天者を記念する礼拝などを行っている教会も多いでしょう。つまり教会暦上では、十一月は、「終わり」を考える時期なのです。
 聖句はイエスが山上で変容された時の記事ですが、イエスの人生は「エルサレムで遂げようとしておられる最期」(即ち十字架上の死)を目指しての生涯でした。この地上にあって、イエスは御自分の死を見据えて、その生涯を歩まれました。私たちもこの地上での「終わり」があります。生まれたその瞬間から、私たちは自分の終わりである死に向かって生きています。

 個人的な証をさせていただきます。私は今から七年前に妻を亡くしました。その十年前に乳がんが発見され、その時点ですでに腰椎二ケ所に転移しており、主治医から「ステージ�」で、その頃の五年生存率は二十五%と言われていました。
 がんの宣告を受け、しかも最終ステージに入っていると言うことで動揺したと思いますが、それでも五年を超えて生きる可能性が四人に一人あるならば、その一人になれるようにと祈りました。
 この時から、妻はいつ終わるかもしれない自分の死を見つめて生き始め、いろいろなことに挑戦しました。まず一つは、その当時在籍していた教会でハープの演奏会があり、その音色に魅せられて、何人かの女性たちと一緒にハープを習い始めました。そして何年かの練習の後、ある年のイースター礼拝で念願の演奏をすることができたのでした。
 また、宣告を受けた時、一番下の長女は小学校六年生でしたが、その長女が成人になる数年前、「娘の成人式には自分で着物を着せたい」と考え、着物の「着付け教室」に通い出しました。時々体調を崩し入退院を繰り返しながらも続けて、着付けの資格を取りました。そして念願通り成人式の日、自分の手で娘に着物を着付けることができました。
 これらのことは、自分の終わりを意識し、与えられた恵みの日々を精一杯生きようとした妻の証しであると思います。
 結局妻は、がんの発見から十年間生きることができました。その十年目、いよいよ最期の時が近づいていることを告知されたとき、このようなことを私に話してくれました。
 「十年前がんになった時、神様に『三人の子供たちにはまだ手がかかります。せめてあと十年生かしてください』と祈ったら、本当に神様は願い通りに十年生かしてくださった。神様って本当に素晴らしい。」と。そして「だからもう何も思い残すことはない」と言って召されました。
 またかつてこのようにも話していました。「がんと言われた時に思ったのは、あなたや子供ではなくわたしでよかった」と。妻が「わたしでよかった」と言ったのは、それを自分の十字架として背負う信仰があったからでしょう。幸いもあれば災いもあります。それが人生です。「神から幸いを受けたのだから災いをも受けるべきである」というヨブの信仰を思いました。
 私たちは例外なく誰でもこの地上で死を迎えます。しかし、それで私が終わるわけではありません。この地上の死の後に、新しい生が始まります。私たちの終わりであるこの地上の死は、神の国での新しい命の始まりです。自分の死を見据えて生きることができる人は幸いです。

鶴ケ谷・仙台教会牧師 藤井邦昭

風の道具箱

こだわり続ける優しさ

 あるエッセイ集で次のような話をみつけました。
 「少女がバスの中で、途中から乗ってきたおばあさんに席を譲ろうとしました。腰を浮かせ、まさに声をかけようとした時、前の席の男性がすっと立ち上がり、先に席を譲ってしまったのです。気まずい思いで、少女は席に座っていました。しかし、バスを降りる時、おばあさんは席を譲ってくれた男性だけでなく、後ろの席の少女にも、『ありがとう』と頭をさげた。『席を譲ろうとしたことがわかっていたんだ』。おばあさんの一言に少女は人を思いやる心を学んだ」。  
 私たちも、席を譲ろうとしてなんとなくタイミングを失うことがあります。そんなとき、眠ったふりをしてその場をやり過ごすときもあります。どちらも気まずいものです。譲らねばと思えば思うほど、それができなかった自分に落ち込んでしまいます。そんなとき、このおばあさんのように声をかけられたらどんなに助かるでしょうか。
 おばあさんの「ありがとう」は、「あなたを見ているよ」という神様の声と同じです。わたしと共にいてくださる。神様の「こだわり続ける優しさ」がそこにあります。

牧師の声 私の愛唱聖句

田園調布教会 杉本洋一

「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」
フィリピの信徒への手紙4章4節

   
 高校生だった、教会生活を始めて間もない頃、悲しい忘れられない出来事がありました。親切に声をかけてくださった年配の婦人が、ほどなく礼拝に来られなくなりました。私は、キリスト者は誰れも、悩みも苦しみもなく、優しく、心が平安で、喜んでいるという一定のイメージを持ちながら足を教会に向けていたのでした。争いもなく、いざこざもないのが教会の集まりの姿であるというのを想像していました。
 当時、教会の中には、学園紛争の影響はあり、70年安保、靖国神社法案などの世に関わる歩みも教会の内部にあったのです。一方、熱心に、世に向けての「クルセード」のような大集会・福音伝道もありました。
 気になっていたあの婦人はどうされたか尋ねる機会がありました。聞いた答えは、彼女は自死をしたというものでした。大変な驚きを感じ、教会生活への不安を抱き、自分の期待していた思いとの大きなギャップがあるのに、戸惑いを憶えました。 聖書を読む限りは、分からないことがありつつも、なるほどと自分で納得しようとしていたのでしたが、自分で思い描いた教会生活と現実のそれとは大きな隙間があったのです。考えてみれば、自分が教会生活を理想化して思い描けば、描くほど、現実とは離れて、空しく受け止めることしかできなくなることを思い知らされるきっかけでした。自分なりに、これを受け止めるのに時間がかかったのでした。
 結局、教会に対する大きな期待と暖かな交わりを求めていたのでしょうか。でも、これは、今も変わりません。「主において」喜ぶことが、この時に、学んだことでした。自分の思い描く「あるべき姿」を求め続けているかぎり、その間の中で、行ったり来たりするしかありません。何処に、自分の基軸を置くかを婦人の死を通して教えられたことでした。
 この時から、私はこの言葉を私の歩みの傍らにおいて歩もうと思ったのです。
 それは今も、変わりなく、心に響いています。

信徒の声 ボランティア活動と伝道

市ヶ谷教会 梅田満枝

 「日本国際ボランティアセンター(JVC)」という、アジア・アフリカの国々で、地域開発や人道支援の働きをしているNGOがあります。このNGOをベネフィット(チャリティー)コンサートを通して、二十年以上にわたり支援し続けている、元ルーテル教会の宣教師夫人がいらっしゃいます。
 彼女の名前はアイネス・バスカビルさん(写真左)。 アイネスさんは毎年十二月に、企業から寄付を募って、東京と大阪で「JVC国際協力コンサート」を開催し、収益金をこのNGOに捧げていらっしゃいます。曲目は「メサイア」と「クリスマス・オラトリオ」を毎年交互に演奏します。
 私は延岡教会に通っていました若い頃、久留米教会でご奉仕されていたバスカビル先生ご夫妻と、英語キャンプなどでお会いしていました。そういう昔からのご縁で、定年後はなにかボランティア活動をしたいと思っていました私は、定年を迎えた時、アイネスさんのお誘いに応じ、以来十年程コンサートのお手伝いをさせていただいています。
 コンサートの目的は、もちろん、支援を必要としている人々を助けるための資金集めです。ひたすらに他国の人々のために、毎年、数千人規模の人を集めるチャリティーコンサートを成功させているアイネスさんの熱意と行動には尊敬の念を抱いている私ですが、それ以上に彼女をすごいと感じるのは、彼女の宣教する力です。
 長い年月続けてこられたこのコンサートは、彼女にとって宣教の実践の場でもあるのです。「神様の愛を分かち合い、隣人とも互いに愛し合いなさい」というみ言葉を実践されているのです。メサイアと、クリスマス・オラトリオを曲目に選んだ理由を「日本の皆さんにキリスト教と神さまのことを知って貰いたいから」と教えてくださったことがあります。
 私はある時期まで、教会の外で自分がクリスチャンであることを見せることは照れくさいと感じていました。年を重ねていくうちに照れくささはなくなってきましたが、まだ自分で伝道するほどの自信はありません。ですからこのコンサートでボランティア活動をすることは、アイネスさんと一緒に伝道をさせていただいているつもりなのかもしれません。今年もまもなくコンサートの時期です。

園長日記 毎日あくしゅ

『神さまありがとう』

 11月になり、暑かった熊本でもすっかり秋の色が濃くなってきました。園庭の木々は色づいて、どんぐりの木からは毎日たくさんの実が落ち、どんぐりのじゅうたんができています。また、幼稚園のまわりには県庁、江津湖など自然に恵まれたところがいろいろあって、園外保育(おさんぽ)を通して秋を感じることもできます。11月はいつにも増して、「神様ありがとう」が多い季節のように思います。
■子ども祝福礼拝
 全園児が教会堂で礼拝をした後、神様に愛され、守られて成長したことを感謝し、これからも元気でおおきくなりますようにとの祈りをこめて、一人ひとり牧師先生から祝福していただきます。子どもたちの神妙な表情に胸が熱くなります。
■収穫感謝祭
 キリスト教の幼稚園ではほとんど(みんな)行われていると思いますが、当園でも毎年11月の20日前後に「収穫感謝祭」をします。6月の「 花の日礼拝 」と同じように、とても大切にしている行事です。
 各家庭から持ち寄った、果物・野菜・花などをホールに集めて「感謝祭」の礼拝をします。幼稚園の畑で育てた野菜も一緒に捧げます。礼拝後、野菜や果物を少しずつ食べることもあります。
 また、病気の家庭へのお見舞いにしたり、慈愛園内の老人ホーム・パウラスホーム(特別養護老人ホーム)・乳児ホーム・近くの交番・消防署・病院などに持っていきます。どこへ持って行っても「ありがとう」「また来てね」…と言われてとてもうれしそうで、子どもたちにとっていい経験になっています。
 この季節に限らず、子どもたちは「ありがとう」を素直に言うことができます。うれしい時、何かを貰う時(お金を徴収する袋を渡した時)も…。
 私たち保育者(大人)もぜひ子どもたちにみならい、神様のめぐみを日々感じながら、いつも「ありがとう」と言える者でありたいと思います。
神水幼稚園園長 寺本 晟

日本福音ルーテル教会の社会福祉施設の紹介 その8

社会福祉法人キリスト教児童福祉会
児童養護施設 聖母愛児園

施設長 石嶺 昇 

 聖母愛児園(カトリック)の始まりは、一般病院(中区山手町82)の玄関先に子どもが放置されていた昭和21 年4 月です。その後、駅や道路に置き去りにされている乳児を警察がシスター達のところへ連れてくるようになり、聖母病院からも同じような乳児が届けられました。
 シスター達は、一般病院(中区山手町82)内で、子どもたちの養育を始めました。
 昭和20 年代30 年代は、ドイツ・カナダ・ハンガリア・ポーランド・イングランド等のシスター達も活躍していました。
 昭和21 年8 月までに、子どもたちを22 名預かり、翌年8 月までには136 名受け入れるなど、献身的に働きました。昭和20 年代は戦後の混乱期であり、生後間もない子どもたちが放置されており、預かっても疾病や栄養失調等で死亡に至るケースが多く、献身的に働く職員たちの心中は、穏やかではなかったことでしょう。
 また、昭和25 年から昭和35 年までは、アメリカのご家庭との養子縁組があり250 組程の縁組みが成立していました。
 社会福祉法人キリスト教児童福祉会では平成18年10月に社会福祉法人聖母愛児園から法人移管を受け、この施設の経営に当たることになりました。 聖母愛児園65 年(平成22年現在)の歴史は、聖母会として59 年、キリスト教児童福祉会として6年と二つの法人によって成り立っています。圧倒的に聖母会としての歴史が長く、その功績は、賞賛に値します。
 平成22年8月には新建物が竣工しました。これまでの中舎制システムから、マンション型の小舎制へと、支援システムを移行しています。5LDKの間取りに子どもたち6名と職員が生活を営んでいきます。炊事、洗濯、清掃、子育てなど、全てがこの中で行われ、子どもたちは男女混合縦割りで構成されています。
 定員は、児童養護施設90名、地域小規模児童養護施設6名の96名です。
 横浜の戦後に大きな働きを尽くした聖母愛児園はこれからも、子どもたちの幸せを第一義とし、児童福祉に貢献していきます。
●ホームページ
社会福祉法人キリスト教児童福祉会
 http://kjf.jpn.org/
児童養護施設聖母愛児園
 http://seiboaijien.com/

高齢者伝道シリーズ 「遠慮しないで、訪問を願う」

下関・宇部・厚狭教会牧師 小勝奈保子

  訪問へ向かう私の原動力、それはスリランカでの体験が源となっています。ワークキャンプで子どもの施設に滞在しました。その時、敷地内にある教会のメンバーのおじいさんが入院したというので、シスターは施設の子どもたちと日本人を連れて、おじいさんを見舞いました。そこには娘さんとお孫さんがいて、シスターは娘さんと話した後、祈り、みんなで讃美歌を歌いました。
  高齢者の在宅介護の仕事を9年間しましたが、そのような場面に遭遇したことがありません。牧師が来訪し、祈り、讃美歌を歌う、子どもの姿を見かける機会も少ないように思います。
 日本では、病いや老いを何となく遠ざけてしまう風潮が根強くあります。預けてしまったという負い目もあるのかもしれませんが、ホームに入居した途端、疎遠になってしまう家族は少なくないのです。複雑な事情もあるのでしょう。
 旧約聖書の中でヤコブは死期が近づいた時、子どもたちを集め祝福を与え祈りました。息子たちは家族の歴史を思い起こしながら、これでよかったんだ、納得して父の死を看取ることができます。
 訪問について、これぐらいで牧師を呼んではと遠慮されたり、いつ牧師を呼んだらよいのか分からない、という声も聞かれます。牧師と妻が祈っている間、息子家族は遠慮して席をはずしてしまうことも。しかし、頼るべき方を示す祈りの場面に立ち合うことは、子や孫たちにとっても大切な出来事です。教会の中でどのような時、訪問をしてもらえるのか話し合っておくとよいでしょう。牧師の訪問を支えるサポート体制も課題です。

ELCAの動向

昨年10月号「るうてる」で報じたように、2009年8月、アメリカ福音ルーテル教会(ELCA)は総会で特別声明「Gift and Trust(賜物と信頼)」を採択し、それに基づき逐条審議で同性愛教職者の容認を可決した。この教会の決議は同性愛に対する偏見や差別をなくし、生活上のさまざまな権利が認められていく運動が20世紀初頭から始まってきた欧米の長い歴史と無関係ではない。   
 今年に入り、9月11日付の『キリスト新聞』の紙面で「アメリカ福音ルーテル教会(ELCA)不満派が新組織『米国ルーテル教会』結成」というセンセーショナルな記事が報じられた。この「米国ルーテル教会」(NALC)の脱退行動は「信仰告白の原則を維持する」という主張の下に、ELCAが昨年の総会で同性愛関係にある人を教職として認めたことへの反対から出たものである。
 アメリカ福音ルーテル教会(ELCA)の現在の総会員は450万であり、教会数は1万2,000である。その内、ELCAから脱退し、新組織「米国ルーテル教会」(NALC)を結成したのは現在のところ18教会であるといわれている。 なお、9月11日付の『キリスト新聞』ではオハイオ州で8月26、27の両日開催された、NALCの発足会議にはタンザニアの福音ルーテル教会、エチオピアの福音ルーテル教会の代表も出席したと報じられているが、出席した2名はそれぞれの教会の正式代表ではなかったといわれている。
 ELCA総裁監督マーク・ハンセンは、8月24日、自らの書簡において、意見を異にする人との対話の難しさに悩まされる今日的世界の中にあっても、積極的な対話と議論の可能性がルター派教会の中に残されていると説いている。(宣教室)

私の本棚から

杉本健郎著「子どもの脳死・移植」(クリエイツかもがわ2003)

  
 ルーテル・医療と宗教の会という、医療従事者、教職者、そして一般信徒からなる会をご存じでしょうか? 宣教100年記念の年(1983)から東教区を中心に活動を続けています。今年の公開講演会(7月11日・雪ヶ谷教会)のテーマが「脳死と臓器移植~ともに命を考える~」(講師・聖公会引退司祭関正勝先生)でした。現在、世話人代表の筆者は、その準備のため、脳死臓器移植関連の資料を見直していました。
 手元にある出版物・論文などに目を通しましたが、新たな発見というより、この問題の論点はおおよそ出尽くしていると再確認しました。移植医療の現状と一般的な死生観が大幅に変わらないならば、議論の時というより、各自が決断する時と感じたのです。2009年7月11日に改正脳死臓器移植法が成立し、本年7月に施行されたのにもかかわらず、新聞報道のにぎやかさに比べて、新たな出版物はほとんどありません。
 さて、見直した資料の中で、やはりこの一冊に引きつけられ、おもわず再読してしまいました。杉本健郎著「子どもの脳死・移植」(クリエイツかもがわ,2003)です。本書は、1997年の臓器移植法施行から6年の時期に執筆されました。杉本先生と筆者は、同じ小児神経学を専攻し、ほぼ同世代であり、杉本先生が重度障害、筆者は軽度障害という違いはあるものの、子どもの障害に関わる小児科医という点で共通しています。
 この問題への杉本先生の熱い思いの背景に、ご子息が脳死状態となり、腎臓移植の提供者となったという事実があります。本書でも触れられていますが、杉本先生は、子どもの脳の専門家であり、その意味では、今後脳死判定に関与するかもしれない専門医です。そして同時に、臓器提供者の父親でもあるのです。
 神様から与えられたいのちと向き合う、いつ現実となるかもしれない、その決断の時に備えるために、私の本棚にある、手に取ると重い一冊をご紹介しました。
むさしの教会会員
横浜市中部地域療育センター所長
日本発達障害学会会長
       原  仁

河田 稔牧師を偲んで

引退教師 石橋幸男

 1958年、私が伝道師として益田に着任したとき、宇部のデール宣教師が関係教師だったので、毎月宇部教会に泊りがけ行って、河田先生の開拓伝道振りを拝見した。先生は多才で、「スポーツ万能牧師」と言われ、テニス、卓球、ボーリング、将棋、囲碁にすぐれ、これによって教会へ学生や青年を引き付け、体当たりの伝道を成功させておられた。
 わたしは1962年に米国留学し、その後1964年、市ヶ谷の学生センター、市ヶ谷教会に着任。伝道方策推進委員として、当時、松山教会で活躍中の先生などと全国の諸教会を巡回した。
 1970年に岡山に転任。同じ西教区の常議員として働くようになった。先生は教区長として、よく私宅に泊まられた。6年後、大阪教会へ招聘されてくる前、私は教区長として、先生を松山から天王寺に移っていただいた。先生と励ましあって、天王寺教会と幼稚園を盛んにした。
 先生には妙な欠点があった。高所恐怖症である。航空機が苦手であるのみならず、高層マンションの訪問もお出来にならなかった。
 しかし、勉強しておられるのを見たことはないが、日々の活動の中に説教の狙いをつけて学んでおられたのでしょう。従って、説教はボーリングでのストライク、球技では相手の弱点にスマッシュを打ち込むような痛快さがあった。
 先生は体質的に入れ歯がぴったり歯ぐきにつかないと嘆いておられるが、ある説教中、熱弁にうかされて、入れ歯が口から飛び出した。気づいた人はハッと思ったら、先生はぱっと右手で受け止め、すかさず口に納めて説教を続けられたという。
 最後に。病気に対する警戒心が足りなかった。「碁会所へ行って打ち合っていたら、途中でふらっとして、やめて帰った」、「聖書研究をみなさんの前でしていたら、口が廻らなくなって、途中でやめた」と言っておられた。
 引退後、松江教会へ牧会委嘱で行っておられて、ある晩、脳梗塞が起こったのに、朝まで待ってから、裏の日赤病院へ背負われてい
かれたが、時間が経ち過ぎていて、ひどい後遺症で不自由な身になられた。
 去る8月1日、「るうてるホーム」での礼拝説教後、病院に見舞い、頭に手を置いて祈ったところ、たいへん喜んでくださったのが、最後の別れとなった。
 切っても切れない先生との牧師としての交わりを深く感謝しています。 

谷口博章牧師を想う

引退教師  前田貞一

 谷口博章牧師が神様の召しを受け、故人の籍に移られたのはこの二〇一〇年九月二十五日のこと、心に残る先輩である。
 神学校卒業直後一九五三年に名古屋復活教会に赴任、その後米国留学を経て、上諏訪(兼・岡谷)、熊本、釧路の各教会を歴任し、さらにドイツで交換教師として十年間の奉仕をし、帰国後は現在の九州ルーテル学院チャプレン、その後、市川教会に赴任、二〇〇〇年に引退された。
 日本福音ルーテル教会が戦後、日本基督教団から離脱をして、再建日本福音ルーテル教会を組織し、同時に日本ルーテル神学校が再開されたその第一期生・六名中の一人(他の同期生には南里・林の諸氏)であった。ことのほか、個性的集団であった印象を残している。戦後の未だ揺籃期の神学校の中で、教科範囲・教科レベルを超えて真剣に格闘していた姿を記憶している。
 当時は現在のように日本語のキリスト教書物が在るわけもなく、教科書の多くは英文教科書であり、多くは、その範囲で精一杯。しかし、それで、満足できない様子であった。同氏の寮室ドアには「雑談者禁入室」と張り紙がしてあった。
 当時は、海外補助の下で、春秋二回一泊旅行が行われていたが、その頃から、海外補助金依存に強い抵抗を抱いておられた。
 ある年の旅行の朝、出発前の点呼の際に谷口氏の欠席に気付いた教授の指示で、隣室である私が呼びに行った。 ノックをしても応答がなく、教授にその旨を伝えた。教授は私を同道して再度部屋に向かい、私の部屋の椅子を出させ、それに乗って欄間窓から部屋を覗き「居るのは分かっている。出て来なさい」と声高に言った。中から「本人が『居ない』と言っているのだから、留守に間違いありません」と声が聞えた。・・・
彼は欠席した。「補助金で楽しんでいると精神が腐る」と云う持論からの拒否であった。
 堅物一辺倒ではなく、ユーモアもあり、真剣であり、一徹であり印象深い先輩であった。
 「福音と律法」を問い続けていた。 安直な「福音主義(…イズム)」について、「『…イズム』は依存症・中毒に他ならない。『福音主義』は福音を堕落させる」と言っていた。神学校卒業後、話し合う機会は無くなったが、氏が到達している境地を伺いたいと何度も思ったものである。余韻は今も残っている。そう云う意味において、彼は甦っている。
 氏が赴任した教会及び学校で接した多くの兄姉の心に彼は甦っているだろう。

宣教会議報告

 6月常議員会の議決に従い、2009年10月6日(水)と7日(木)の両日、ルーテル市ヶ谷センターを会場に2010年度の「宣教会議」が開催された。 出席者は、議長をはじめ本教会の四役、事務局スタッフ、信徒常議員、それに各教区から各々3名、合計25名程である。今回の主な議題は①各教区の宣教態勢(教会共同体の点検と今後のあり方)、②北海道特別教区の今後の方向性、③次期綜合方策の向けての準備協議。それと先の総会から付託され、財務委員会が作成した「教会年金負担計算式案」の説明が行われ、そこにて適切な意見と提案が出されたので、これらを踏まえて、来年度施行を図るためにも11月常議員会に最終案を提議する予定である。
 各教区の宣教態勢に関しては、各教区長による各々宣教方針及び教区宣教態勢の課題等の発題を受けて、教会と施設との関係、そこでのチャプレンシーの働きと意義、さらに現行の教会種別の見直しの必要性等の意見が出された。また、2008年総会で最終的決議がなされ、宣教態勢の一つとして実施されている教会共同体に関しては、各教区において取組において違いがあり、従来の地区宣教委員会との整合性等、問題点等が幾つか残されているにしても、将来の地区宣教態勢に備えていくためにも、教会共同体の全体的必要性については一定の共通理解を持った。
 北海道特別教区の今後に関しては、1978年からの北海道推進強化計画、1981年より特別教区設置からすでに30年以上の歴史を刻んできているが、実態は規則上の教区成立基準である12教会ではなく、教会数が4教会であり、特別協力金等による教区自立が困難な財政状況に中で特別基金である「北海道自立基金」からの600万円を人件費補助として財政投入が図られている。基金の活用限度と地域自給の在り方、東教区との一層の連携と共同の可能性、さらに教区性の妥当性等も含めた新たな北海道伝道の中・長期的計画案の作成が次期総会までに教区及び本教会に求められている。
 次期綜合方策(仮称・第6次綜合方策)は作業部会を11月に設置し、過去の、第1次から第4次綜合方策及びPM方策( 期限2012年度) を総括しつつ、現状の刷新と変革も含めての教会の成長と発展を図るための草案作成を来年度中に実現し、教会常議員会の議決を経て、2012年度総会に上程予定していくことが相互に確認された。(宣教室長・青田)

東地域教師会退修会報告

 毎年秋恒例の教師会退修会は9月14日と15日、御殿場にて開催、講師に江口再起氏を迎え、「ルター神学と教会の『今』」をテーマに行われた。参加者は講師を含めて30名。
 江口氏は今年7月に「神の仮面」を著し出版されたので、これをテキストとして事前に各自学習し、講演と議論に臨んだ。
 ルターにまつわる神学論議などでなく、現代社会の諸問題、ことに新聞紙上でも取り上げられた身近な事件や話題を、ルター神学から解釈すると何が見えるか。それが著書「神の仮面」の主題であり、今回の退修会でもそれを取り上げることにした。
 江口氏自身ルーテル教会の教職者、今は東京女子大学教授という職にあるため、外から自分の教会を眺めることができるというユニークな立場にいることが、今回の主題をより興味深くしてくれたように思う。社会問題をルター神学で斬る手法もさることながら、同時に、ルター派教会の特徴、ルーテル教会の牧師像などを、氏自身が仕事上出会う他教派の牧師たちとの会話や
大学でのやりとりと比較しながら語る独自の見解は、とても鋭くかつ心強かった。
 喉をからしての熱弁に役員もようやく気づき、そっとペットボトルの水を差し出すも手を着ける気配まったくなし。「今度こそは・・」と水をコップに注いで勧めるが、ひとことお礼をいうと、結局そのままマイクから手を離すことなく100分語り尽くした。聴講した我々もそうだが、ご自身にも思う存分満喫できたひとときだったのではと
思っている。 地域教師会長 浅野直樹

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