るうてる《福音版》2007年11月号
バイブルメッセージ 魂の輝き
主は人の一歩一歩を定め御旨にかなう道を備えてくださる。
詩編37編23節(日本聖書協会・新共同訳)
11月は紅葉の季節。だが、北国の紅葉は、すでにこの月に入ると終りに近く、最後に色づく唐松が、精一杯に晩秋の丘を彩る。頬をかすめる冷たい風と共に、冬将軍の足音も聞こえはじめ、人々は急ぎ冬支度を始める。
今年の夏は全国的に暑かった。その上、甲子園は、佐賀北高校の逆転優勝で更にヒートアップした。8回裏、満塁ホームランの球が、高々と宙を舞ったとき、全国の目撃者は、狂喜乱舞して酔った。むろん落胆した者もいた。
逆転勝利は勝負の醍醐味。多くの人々が、この逆転のドラマに感動した。主役が、「葉隠れ」で知られる土地柄ながら、今は貧乏県で名高い佐賀県の、予算も限られた県立高校の生徒たちだったことも、その感動を味付けしてくれたかもしれない。人生は7転び8起き。7回転んでも8回目に逆転すればいい。そう自分の人生を重ねた人もいただろう
ただ逆転できる人は幸運な少数者でもある。ある日、不治の病を告げられる。逆転しようと必死の努力をする。だが病は着実に進行し、やがて死を迎える。逆転できなかった。そういう人生もある。その人は敗北したのだろうか。そうではあるまい。
人生には逆転不可能なこともある。しかし人は、逆転よりも逆説によって、精神の深みを知り、魂の輝きを放つ。それは、自分の内部だけで起こるのではなく、自分を突き抜けた、神との関係の中で起こる。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(Ⅱコリント12章9節)と、使徒パウロは神の声を聞いた。魂は、弱さの中での強さ、敗北の中での勝利、悲しみの中での慰め、不幸の中での幸い、絶望の中での希望、等、精神の深みで輝きを放つ。
木の葉は、散りゆく寸前に、自分の内にあるすべての色を赤や黄色に単純化して輝く。単純化された赤や黄色は、春に芽生え、暑い夏を越え、今散りゆく時を迎えるまでの複雑な履歴を、その中に融合して一つになったものだ。散った木の葉は、再び同じ枝につくことはない。逆転はない。しかし散る間際のその葉が、生涯で最も美しく輝くのは、命尽きるものが、永遠の愛を歌いあげているかのようにも見える。それはたしかに、精神の深みから放たれる逆説の輝きに似ている。
言うまでもなく、魂の輝きは、ただの弱さ、ただの敗北、ただの悲しみ、ただの滅びの中にあるのではない。その中で、「弱いときにこそ強い」という真理を、身をもって経験する魂、内に永遠の愛を宿す魂、それが輝きを放つのだ。
(K.S)
大人を育てる絵本からのメッセージ
だいじょうぶ だいじょうぶ いとう ひろし (著)/講談社
絵本というと小さなこどものための本というイメージがありますが、大人にとっても生きるヒントになる本がたくさんあります。ここでは子育てという視点でお話をしていますが、あらゆる人間関係においてもお役立ていただけることと思います。
子育ての失敗と成功
今している子育てが果たして成功なのか失敗なのか、それは10年後20年後になり、子どもがどんな大人に成長したかを見てみないとわかりません。人生の中では、今やっていることの結果がすぐに出る事柄も多いのですが、こと子育てに関しては、結果が出るまでに長い時間がかかるものですから、子育て本やベテランのおじいちゃんおばあちゃん、そして先輩ママやパパにヒントをもらいつつも「これでいいのかな?」「わたしの子育て、まちがっていないかしら?」って悩んだり迷ったりするのも当然です。
子育て本はたくさんあります。昔と今とでは子育てが違うとも言われています。その中で、何を頼りにしていいのかとさえ思ってしまいますよね。でも子育ては十人十色。育てる人も違えば、子どもだって一人ひとり個性が違います。自分を励ます内容のものはいいとして、かえって悩んでしまうものは参考書程度に捉えるといいかもしれませんね。
「だいじょうぶ」は、元気が出る魔法の言葉
この絵本はもちろん子育て本ではありませんが、落ち込んでしまったときにあなたをほんわか元気にしてくれます。
日常の中にはいろんなことがあります。嫌なこと、辛いこと、悲しいこと、怖いこと、不安なこと。でも、逃げ出したいようなことも、ずっと続く訳ではありません。自分が成長しながら乗り越えられること、まわりに何かしらの変化があり、乗り越えられることもあります。それらを乗り越えるまでの間、「だいじょうぶ」の言葉に支えられ、そしていつのまにか強くなっていく気がします。そして、世の中そんなに悪くないなって気づくのです。「だいじょうぶ♪」の言葉は、「がんばれ!」のプレッシャーとは違う不思議な安心感をくれる言葉だと思います。見守られている気がするのです。「失敗しても次がある」とか「思ったとおりに自分らしくやればいいんだ」と思えてくるのです。
そうやって元気な自分に戻れることで、子どもが元気でいられる言葉をかけてあげられるのだと思います。子どもが活き活きと育つために、お母さんの心が元気でいられるように、自分をケアすることも大切にしましょう。
イエス様も
「明日のことは思い煩うな」と言っておられます。悩んで苦しむのではなく、「わたしに任せなさい」と言ってくださる方に身を委ねて、だから「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と自分に魔法をかけてあげましょう。あなたの一生懸命も、うまくいかないジレンマも、子どもに対する想いも、すべて見ていて見守っていてくださる方が「わたしに任せなさい」と言ってくださるのだから。
HeQi Art 聖書物語
四人の漁師を弟子にする
イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。
マルコによる福音書 1章16~20節
たろこまま「いのちを語る」
思い悩むな。(マタイ6章25節)
『自分の命のことで何を食べようか何を飲もうか、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな』だなんて、今日の一節は、オシャレでグルメな皆さんには思わずどよめかれそうな一文です。 先日、整肢園の飲み会(年に数回のお楽しみ♪)前、待ち合わせたママさんにつき合った足ツボマッサージ店で待つ間、エステやジム、最新のレストラン、化粧や流行服情報等を扱ったタウン誌を目にしました。皆さんの身の回りにも当たり前に存在していると思いますが、落ち着いて考えるとこれ、不思議ですよね(笑)。
大抵美味しいモノは油や砂糖が多いのだから、食べ過ぎなければわざわざ痩身に身をやつす必要もないのです。エステも、素肌っぽく見せるためにとせっせと化粧をした結果肌が荒れて通い出したなんて本末顛倒、最新の流行に追われさえしなければ、まだまだ着られる服を捨てる必要もありません。自分で手間やムダを抱え込み大変大変と溜息つくのが現状でしょうか(貧しい我が家には無縁の話ですが 涙)。
実は上の句にはこんな言葉が続きます、『命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか』と。これを読み、己の命自体──自分の心と体の本質はどうなのかと問われているようでドキッとしました。そして後半の文は「〝自分〟の(命、体)」でないことに気づいたとき、私はハッとしました。 深読みかもしれませんが、モノが溢れるこの時代を遡ること2000年ほど前、既に、同じ思い悩むなら「〝自分〟の」ではなく「〝他人〟の命や体」を慮るべきと言ってたのかと思うと、何とも言えない感慨を覚えたのです。
ダライラマ14世の言葉にこうあります、『他人のことしか面倒を見ない人は、考えなくても自分の面倒を見ています』と──古き日本人も良く言ったもんです、『情けは人のためならず』と。