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るうてる2007年

るうてる《福音版》2007年10月号

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バイブルメッセージ  あなたの足跡には、一輪の花が

主は人の一歩一歩を定め/御旨にかなう道を備えてくださる。
詩編37編23節(日本聖書協会・新共同訳)

 わたしは水泳が苦手です。
 子どもの頃、夏になって、体育の授業で水泳が始まると、憂鬱な気持ちになりました。順番に並んで、25メートルプールを泳がされる。上手な人は何気ない顔でプールの向こう側まで泳ぎます。さらに上手な人は25メートル行き着くと、イルカのようにクルッとターンして、さらに25メートル泳いでこちら側に戻ってきます。
 わたしは、スタート台に立つと、「遠いなぁ」と25メートル先を見ていました。「行けるわけがない」ともうあきらめています。そんな気持ちだから、何メートルか行くと、すぐ足をつく。
 25メートルは遠い……。得意なボール投げの時は近いのに、プールの25メートルは遠いのです。

 もう学校も卒業して、プールで水泳をやることなどなくなった頃、昔スイミングスクールでたくさん泳いでいたという人に尋ねました。どうして、たくさん泳げるのか、と。中には遠泳などと言って海で何百メートル、何千メートルも泳ぐ人がいる。どうしてか、と。同じ人間なのに、私には考えられない、と。
 その人は答えてくれました。
 「何メートル泳ごうとか、何百メートル泳ごうとか、あそこまで行こうとか、そう考えないで、あとひとかき、だめだと思えても、あともうひとかき、あとひとかきは出せる、と言い聞かせながら、手を前に出した」

 目からうろこが落ちるような気持ちでした。なんだか、今なら25メートル泳げるような、……いやそれどころか、100メートルでも泳げるような気がするくらいでした(おいおい、おなかも出てるし、できるわけないだろ!)。

 日本人の平均寿命がまた延びて、女性は世界一の88歳だそうです。吹けば飛ぶような人生と言っても、これは遠泳に等しいもの。しかも≪一難去ってまた一難≫と昔から言われるように、その人生はいつも困難とぶつかりながら進みます。

 この苦しみからどうやって逃れられるのか。このトンネルはいつまで続くのか。この悲しみを忘れられる日など来るのか……。
 プールの向こう側ではありませんが、それは遠く見えます。行き着けるわけがないと私たちを絶望させます。
 でも、焦っても答えは出ないようです。たぶん、私たちにできることは、そこで、「あとひとかき」「もうひとかきやってみるか」の繰り返しです。

 旧約聖書の詩人は、「主は人の生涯を定め」と言わず、「主は人の一歩一歩を定め」と歌ってくれました。人生は吹けば飛ぶようなものではなく、苦しみながら、祈りながら、絶望しながら、励まされながら、涙を流しながら、何とか踏み出す一歩一歩の集大成だと伝えたかったのではないでしょうか。

 一歩も踏み出せない時もあります。ひとかきすらもできない時もあります。
 でも、あなたは今、息を吸い、息を吐いている。あなたの小さなひと呼吸も、生きている証し。前に進んでいる証し。生かされている証し。ため息だってそうです!

 あなたが生きている。そのおかげで、世界が回っています。
 あなたの一歩に「ありがとう」と言わせてください。

パパレンジャー

大人を育てる絵本からのメッセージ

どんなにきみがすきだかあててごらん
サム・マクブラットニィ:作 アニタ・ジェラーム:絵 小川 仁央:訳/評論社

 絵本というと小さなこどものための本というイメージがありますが、大人にとっても生きるヒントになる本がたくさんあります。ここでは子育てという視点でお話をしていますが、あらゆる人間関係においてもお役立ていただけることと思います。

愛されずに育った!?

 「愛された記憶がない」そんな風に言う人に、何人も出会ってきました。でもわたしは思うのです。果たして「愛情を受けずに育った子ども」は、実際にどれくらいいるのかと。
 皆さんもご存知のように、人間の赤ちゃんは他の動物の子どものように、生まれてすぐに歩いたり、自分でごはんを食べることができません。トイレに行くことも、自分でおむつを替えることもできません。そんな状態で生まれてきた赤ちゃんですから、誰かの手を借りなければ食べることさえできず死んでしまいます。(必ずしも血の繋がりに関係なく)自分を守ってくれる存在があってこそ、赤ちゃんは生きていけるのです。その体力も精神力も必要なお世話は、「かわいい」「愛おしい」という想いがないとできないように、わたしは思います。
 「愛されずに育った」人が、どれくらいいるのかわかりませんが、実際には愛情を受けて育っているにも関わらず、それに気づかずに「愛されていないと思って育った」人は、かなりいるのかもしれません。「言葉にしなくても、態度で示さなくても、伝わっているはず」という過信が、実は子どもを不安にさせている原因なのかもしれません。

こんなに好きだよ 

 絵本の中で、ちびうさぎが尋ねます。「どんなにきみが好きだかあててごらん」首をひねるでかうさぎに両手を思いっきり伸ばして「こんなにだよ」と答えるちびうさぎ。それを聞いたでかうさぎは、「ぼくは、こーんなにだよ」と、ちびうさぎよりも長い手をいっぱいに広げて言います。かくして、2匹の「好きくらべ」が始まります。
 「好き」の想いは、測ることはことのできないものですし、どちらがどのくらい好きかということは重要ではなくて、「こんなに好き」と言える相手がいて、言ってくれる相手がいるということが2匹を幸せにしているのです。「好き」という言葉は、言っても言われてもうれしくなります。

言葉にするのが難しい時

 ただ、この本を読んであげるといいかもしれません。それだけで子どもは親の想いを受け取りますし、この本を読んだ後は、たいてい「親子好きくらべ大会」が始まりますから。「僕は、お父さん、お母さんのこと、こーんなにすきだよ」「お母さんもあなたのこと、こーんなにすきよ」って。照れくさくても、そうやって相手を大切に想う気持ちを伝えることで、子どもに「自分は愛されている」という安心感を与えることができるとわたしは思うのです。

愛されるため生まれた

 神さまは、私たちを愛する対象としてお造りになりました。イエスさまは、愛するわたしたちのために命をも捨てて守ってくださいました。そして今も、愛して守り続けてくださっています。そんな愛を受けているわたしたちですから、その愛を子どもたちにも伝えていきたいものですね。

HeQi Art 聖書物語

Esthers Gamble
by He Qi, www.heqiarts.com

エステル

エステルは王妃の衣装を着け、王宮の内庭に入り、王宮に向かって立った。王は王宮の中で王宮の入り口に向かって王座に座っていた。 王は庭に立っている王妃エステルを見て、満悦の面持ちで、手にした金の笏を差し伸べた。エステルは近づいてその笏の先に触れた。王は言った。「王妃エステル、どうしたのか。願いとあれば国の半分なりとも与えよう。」 エステルは答えた。「もし王のお心に適いますなら、今日私は酒宴を準備いたしますから、ハマンと一緒にお出ましください。」
エステル記 5章1~4節

たろこまま「いのちを語る」

殺してはならない。(出エジプト記20章13節)

『はだしのゲン』や『夜と霧』の読後の衝撃と言えば、未だにそのタイトルを聞くだけで生々しいものの、昨今自分も含めて、どこか「殺す」ということを、少し他人事のように捉えてる気がします。 そこそこ差し障りない生活だと、日々瑣末なことで「あいつめ?(煮)」と思うことはあるものの、中々人を殺めるところまで手は出ませんが───冷蔵庫を整理しつつ「私も結構殺してる?」と感じてしまいました。 「あっ、これ賞味期限が切れている!?」ってなモノが続出なのですよ(恥)……そう、人を殺さずとも、調味料を含め食べられたはずの食料を随分ムダにしているな、と(主婦落第に太鼓判状態ですな?)。
母は丈夫な胃腸を幸いに、ペッタンコになった生卵も焼いて食したり、もしくは父ちゃんの弁当にこっそり混ぜ込んでフォロー体制はそれなりに整っておりますが(いいのか?)。 旅番組で、ゲストが未だに生きている動物を己の手で絞め、食べられる処理をする地域に旅すると必ずと言って良いほど皆さん衝撃を受けているようですが、食べられる相手も、元はと言えば命ある存在なのですよね。それがキレイに骨も筋も取られ、血を流されてパック詰めになって売り場に並んでいれば、鶏肉も命の過程を通り越したただの物質扱いで、「某有名国立大学の授業で試みに鶏の絵を描かせたら、6本足つけた学生がいた」という笑い話にもならない事態に陥るのでしょう(小学時代の担任談……ってもう30年前? 汗)。
食べる相手の本体を見たことがない、触れたことがない、というのが最大の原因でしょうか。食べることは命をいただくこと、殺してはならないけれど殺した命を頂くことに自戒をこめて、せめて両手を合わせて「いただきます」することにします(あと冷蔵庫整理も怠らずにですな……反省)。

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