るうてる《福音版》2006年4月号
バイブルエッセイ「光」
さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」ヨハネによる福音書9章1~5節(日本聖書協会・新共同訳)
「見えなくなるとねぇ見えるようになるのよ。人の心が」
今年の1月初めに、突然両目を失明した友達が私に言った。
彼女の目は、ちゃんと開いて私の方をみている。
彼女の目からは、涙があふれている。
「見える」って何だろう?
私には、彼女に全てが見えているように見える。
でも彼女は私に言う。
「急に真っ暗になった。何も見えないんだ……せめて、光だけでもいい、わかりたい」
彼女から今年もらった年賀状を読み返す。「大好きだよ」と書いてある。
彼女自身の字で。
どうしてだろう。ついこぼれてしまう言葉。
「どうしてだろう」
私たち一人ひとり、大きくても小さくてもつい、どうして?と叫びたくなるようなことに出会う。
そんなときに「それはあなたに神様の業が現れるためです」なんて言えるだろうか。
「そんなこと大したことないよ、あの人と比べてごらんよ」なんて……。
比べられない痛み。
それは心?肉体?その人にしかわからない。
でも、私もあなたも出会った一人ひとりと共に生きることはできる。
その一人のために祈ることはできる。
あなたの目で、あなたの耳で、あなたの手で、あなたの体全体で、その人を見ることができます。
たった一つの大切な命を。
私は祈ります。
天の神様、今ここにいるすべての一人ひとりと心を合わせ祈れることを感謝いたします。
急に目の光を失い戸惑いの中に在る方のために祈ります。目という部分に限らず、心や生きることから光を見失い、孤独の中にある人々がなんと多いことでしょう。ときには、なんだか理由がわからなくて、イライラしたり不安の中にいる人もいます。
どうか私たちが出会うそのような人々にも真の光である主を証ししていくものとして、私たち一人ひとりをお用いください。
私たちが光になるのではなく、真の光である主を私たちが示すことができますように。私たち一人ひとりの出会う一人ひとりのために祈るものとなるように私たちを強めてください。
主イエスキリストの御名により祈ります。アーメン。S
心の旅を見つめて 堀 肇
人生早期に母と子の絆を
母子関係を一言で言えば
人の心の悩みに関わっていていつも思うことは、生来の性格傾向と選べない家庭、そしてそれに伴う心理的環境とそこに発生する様々な問題の複雑さについてです。分けても心の発達と成長の土台ともなる母子関係のもつ重さには圧倒されるものがあります。その母子関係を「一言で言えば」といった私なりのまとめ方がないわけではありませんが、ここでは多くの方々に参考にしていただきたく、ある方の言葉を紹介したいと思います。
「人生早期の絆を強固に結び、子ども期を通して、お互いによりよき保護(母から子へ)と依存(子から母へ)を経験すること。その後迎える思春期に、機が熟した時、母と子は別れゆくこと。そして最も親しい独立した人間同士として、愛と信頼を抱き合って生きつづけること。母子関係を要約すれば、このようになろう。」
子どもが誕生してから成人するまでの母と子の関係について、発達心理学的に言っても実に的確に表現された言葉です。
人生早期の絆を強固に
この中で最も大切な部分は「人生早期の絆を強固に結び」というところです。これは母と子の基本的信頼とかアタッチメント(愛着)などと言われている体験を起点に形成されていく幼少期の母子関係と言ってよいでしょう。ごく一般的に言えば〝甘えさせる〞ことなのですが、この体験によって子どもはこの世界には自分を決して見捨てない人がいるという安心感と人間への信頼感を獲得していくわけです。これが心の成長の土台となるのです。
この土台がしっかり築き上げられ、やがて、それこそ機が熟したとき、「母と子は別れゆくこと」ができ、「最も親しい人間同士として愛と信頼を抱き合って生きつづけること」が可能となります。そして何よりも自分をあるがままに受け入れることができ、また他者への暖かい対人感情を身につけることができるようになっていくのです。
しかし現代はこの土台作りがなかなかうまくいきません。「人生早期の絆」を結ぶよりも「人生早期の教育」に熱心になり、精神的自立や心の成熟にブレーキをかけてしまっているのではないでしょうか。
遅すぎることはない
ところで、一般にこういう話が身にしみて分かるには、子育てに苦しんだり、家族関係が機能しなくなったりしたような場合です。子どもから「愛されている感じがしなかった」とか「全然気持ちを分かってもらえなかった」などと言われたりして初めて過去の親子関係や家族の歴史を振り返るようなことが多いのです。多くの人が「もっと早く気がついていれば」と言われます。
しかし遅すぎるということはありません。注げなかった愛を注ぎ直し、伝わりにくかった気持ちを伝え直すことはできます。宿題は後でもできるのです。聖書に「愛するに時があり」(口語訳「伝道の書」3章8節)とありますが、親子関係にもその人の機が熟す時があるのではないでしょうか。もちろん人生早期に強固な絆を結ぶことができれば、それに勝る関係はないのですが。
HeQiアート
Losing Paradise by He Qi www.heqiarts.com
失楽園
主なる神は言われた。
「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」
主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。創世記3章23~24節
たろこままの子育てブログ
「門出のとき」
光の子として歩みなさい エフェソ信徒への手紙5章8節
いよいよ、春本番。新入学シーズンの到来ですね。式の前にお子さんが、またはお孫さんが初々しい姿で玄関で挨拶をなさって、思わず目頭が熱くなってしまった方もいらっしゃるかもしれません。
ビデオやデジカメを片手に我が子の撮影に励んだ親御さんも沢山いらっしゃるのではないでしょうか。身内に直接そういう子がいない私でも、子育てを卒業した通りすがりのおばちゃんも、ランドセルに背負われているような子どもを通りで見かけるたびに、「ああ、輝いているなぁ」と思わず口元がほころんでしまいます。
それは決して持ち物や衣装がブランドものであるという理由からではなく、その子自身が、何のためらいもなく将来への希望に満ちあふれているからではないでしょうか。
この世でいう「輝き」には、一つは「外面的、この世的な輝き」、そしてもう一方で「内面的な輝き」と、二つの側面が隠されています。
前者が地位や名声、財産や経歴だとすると、後者が優しさ、誠実、正直で寛容、忍耐など、一見目には見えないものといったところでしょうか。
こういったキラキラした子どもたちを見て心を洗われる気がするのは、その存在がお金のあるなし、外面的な存在に関わらず、その心にあるものが全身に素直に現れているからだと思います。入学おめでとう、進学おめでとう。年を重ねるたびにこの世的な存在に浸かりがちな私たち親も、希望あふれる「光のオトナ」としてあなたたちと伴走していきたいと思います。