るうてる《福音版》2006年10月号
バイブルエッセイ「つながる命」
わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。
ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。
ヨハネによる福音書 15章4節(日本聖書協会・新共同訳)
ある日、私は「命」の中に埋もれた。
「命」の中に受け入れられたのだ。 それは、ホスピスの庭。特別飾られている場所でもなく、豪華でもない。季節の花々が静かに、手入れ良く植えられている。素朴な空間だ。
父がそのホスピスで死んでから、一度も足を運べなかったその場所に、この時はいた。いえ、導かれたのだろう。父が最後の数日を過ごしたその空間は私には悲しく辛い空間だった。
その日、私はその空間にいた。静かな、素朴な空間に。
どうして今ここにいるんだろう。季節の花に立ち止まり、深呼吸をしてみる。「あー私は生かされているんだなぁ」。
私にとって、死を見つめる空間としかホスピスが思えていなかった。しかし、その瞬間ここは死をみつめる空間ではなく、「命」に立ち止まる空間であることを静かに語られた瞬間だった。
「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」。
一つ一つの存在は違っている。でも草も木も、人も動物も虫も「命」は皆、同じだ。他より重いもの、軽いもの、なんて一つもない。皆、同じように大切、そして全ての一つ一つが一つにつながっている。ホスピスの庭は私に教えてくれた。「つながっていること」を。一人ではないことを。たとえ私は一人ぼっちと思っていても、つながっていてくださる方がここにおられる。
「いつも共にいます」なんて言われても、「本当にいるの?」と尋ねたくなるときがある。でも、「わたしもあなたがたにつながっている」と言ってくださる方がおられる。ここに。
手をつなぐとき、私たちは手を握り合う。どちらか一方だけが握っていてもつながることはできない。握っていない手はするりと抜けてしまうのだ。私たちが意識しなくても、私たち一人ひとりの手をしっかりと握り、つながってくださっている方がいる。私たちは何をすれば良いのだろう。
そう、ただ握られているその手を握り返すだけ。
「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」。
「あなたからつながらないとわたしはつながらないよ」と言われるのではなく、「わたしもあなたがたにつながっている。」と言われている。
手を握り返すこと。私たちにつながっている方へとつながること。いつ? どんなときにできるの? それは、いつでも、どんなときでも、あなたが自分の「命」に立ち止まるときに。
その時あなたは、そっとつなげられている確かな手に気付くだろう。ただその時に、確かにつなげられているその手をそっと握り返す勇気さえも私たちは、与えられる。
たった一つの命はたくさんの命につながっている、かけがえのない命。
「安心してつながっていなさい。私があなたとつながっているから」。
S
心の旅を見つめて 堀 肇
「生きにくい人生の「夏」に理解を」
壮年クライシスを理解
若者の引きこもりやニートの問題がマスコミなどで頻繁に取り上げられ、その深刻な実態が明らかになるにつれ、それを正しく理解しようとする人たちも増えてきたことは嬉しいことです。しばらく前、大学の授業でもその問題を学生たちに討論してもらったことがありますが、最初は「甘えている」とか「親が悪い」などと単純な因果論で批判していた学生も個人や家庭の思うにまかせない事情やこの時代の社会・文化的要因などが分かるにつれ、深い理解を示すようになりました。やはりまず理解することなのです。
一方、そうした人たちとは対極にあるような積極思考の若者たちには何の問題もないのかと言えば決してそうではなく、親世代が経験しなかったような悩みを抱えていることを、これまた理解しておきたいのです。ライフサイクル(人生周期)で言えば壮年期、つまり最も活動的な「夏」に危機(クライシス)が訪れているのです。「壮年クライシス」と言ってよいでしょう。
30代に心の病が急増
最近あるメンタル・ヘルス研究所の調査で、いま30代の会社員にうつ病や神経症などの「心の病」が急増していることが分かりました。従来ですと、うつ病のイメージは中年期と結びついていましたが、現代は壮年期での発症が多くなっているのです。専門家が分析するように、その要因の一つは個人の能力や成果に応じて給料が決まる、いわゆる「成果主義」の普及がその背景にあることは確かです。まだこれからと言う時期にいきなり「成果主義」が導入されると、能力ある人でもストレスを受けることになるでしょう。
また「管理職の若返り」を指摘する人もいますが、確かに技術面で優れていても人間関係の調整などは経験がないとストレスになります。しかし受験も仕事も一生懸命やってきたような人たちは「できない」ことを恥ずかしく思い、周囲の評価にも敏感ですから心身が破綻するまで頑張ってしまうところがあるのです。そういう精神的危機に頑張る30代が直面しているのが現代なのです。
共に苦しむ温かさ
このような問題を抱えている人たちにとって取り分け辛いことは、心の病にでもなると親や周囲の者たちから「忍耐が足りない」とか「弱い」など言われたり思われたりすることです。体の病が比較的、同情や励ましを得やすいのに対して、心の悩みは「頑張れ」などと叱咤激励されやすく、外にも現せないところに心病みかねない辛さというものがありれます。
このような辛い気持ちを持ちながら「夏」を送っている若者をどのように支えていけばいいのでしょうか。それにはまず心の病が発症するほどのストレスの中に置かれていることを理解することです。その場合、親や年配者たちは事は自分たちが作ってきた社会の中で起こっていることを忘れず、自分の体の一部として考える温かさを持ちたいのです。ここが鍵になります。パウロは教会という共同体を体になぞらえ「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ」(一コリント12章26節)と述べていますが、このように共に苦しむ気持ちを持って温かく応援してゆくことが、この生きにくい時代の中で働いている若者を支えていくことになるのではないでしょうか。
堀 肇(ほり はじめ)/鶴瀬恵みキリスト教会牧師・ルーテル学院大学非常勤講師・臨床パストラルカウンセラー(PCCAJ認定)
HeQiアート
Red Sea Crossing , by He Qi, www.heqiarts.com
「葦の海の奇跡」
杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の乾いた所を通ることができる。
作者紹介 He Qi(ヘイ チーと発音)氏は南京ユニオン神学校の教授、中国芸術協会会員、アジア基督者芸術協会の評議員も勤めている。1983年以来、現代中国クリスチャンアート作品の創造に取り組み、芸術を用いて、中国では「外国のもの」とみなされているキリスト教のイメージ転換に努めている。
作品は、中国の民族的習慣や伝統的な中国式絵画の技法と、中世や近代の西洋芸術の技法との融合を特徴とし、ライスペーパーに日本のポスターカラーと中国の伝統的なインクの双方を用いるという、独特の芸術的スタイルを編み出した。
文化大革命後の中国大陸出身者としては初めての、宗教芸術での博士号取得者でもある。
中国のみならず海外での評価も高く、京都、香港、ジュネーブ、ロンドン、サンフランシスコ等で個展を開催している。BBC、Christianity Today、Asian Week、Far Eastern Economic Review等の主要メディアでも作品が紹介されている。
たろこままの子育てブログ
「語るとき」
自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。(レビ記19章18節)
ルートを諳んじていたとしても、大根を買うときにそれで安くなるかいな! などと1人呟いて、なるべく勉学から現実逃避しようとしていた学生時代(恥)。そんな私にも忘れられない一文があります。
『己所不欲、勿施於人』―そうです、論語に出てくる孔子の名句、「己の欲せざるところ人に施すことなかれ」です。こちらにはレ点などに散々苦しめられたものの、本日引用の文章はよりシンプルかつ、積極的、肯定的表現ですね。平易に書き表せば「自分を大切にするように、周りの人も大切にしましょうね」といった感じになるのでしょうか。
人は自分の好きなことで迷うときは真剣に、かつ納得のいくまで悩みます。が、他人のことになるとどうでしょうか。私も、愛は忍耐であるとか、愛は見返りを求めないものであるとか、愛のごく1部について拙く語りましたが、自分を計るモノサシで相手を計ることは実はとっても難しかったりします。
子育てをしていると、母親自身のモノサシが子どものそれに近いのだなぁと感じることはあるのですが、その母子をひっくるめて見る世間のモノサシというものも実に様々なサイズがあるのだなぁと思わされました。
母乳一つ取ってもそうです。昔は母乳神話(?)なるものがあったそうなのですが、その年代の人に実際「母乳で育てない子どもはバカになる」と言われたママ友もいましたし、「帝王切開は本当の出産じゃない」と決めつけられた人もいます。
こんな風に「自分がこうだったから、あなたもこうするべきよ」「こうしないのはおかしい」と押し付けてくる人が殊の外多いのですね。かと言って肝心の母親も(こと母親1年生だと)先方にどうして欲しいかをどう伝えていいか分からなかったりします。
一見相手を慮っているように簡単に意見する人たち、どうか考えてください。「自分が相手と同じ立場にいたとして、そう言われたいか」を。お世辞を言えとは言いません。が、相手の痛みを自分のそれと受け止める姿勢、それが全ての基本に通じるのではないでしょうか。