るうてる 2018年2月号
説教「恐れからの救い」
日本福音ルーテル日吉教会 牧師 齊藤忠碩
「その日の夕方になって、イエスは、『向こう岸に渡ろう』と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、『先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか』と言った。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、『黙れ。静まれ』と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。『なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。』弟子たちは非常に恐れて、『いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか』と互いに言った。」(マルコによる福音書4・35~41)
「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」これは、2000年前に嵐の中で震えていた人たちに対するイエス様の問いかけです。もしもイエス様が今日、肉体をとって地上に来られるなら、同じ問いがイエス様の口から発せられるでしょう。
ルイス・ブラウンという学者が、石器時代の原始人について、こう語っています。「はじめに、恐れがありました。恐れは人の心のうちにありました。そして人を支配していたのです。恐れはいつも人を圧倒して、人に安らぐことを赦しませんでした。風の激しいざわめき、雷鳴の轟き、待ち伏せする野獣の唸り声が、人を恐れで揺さぶりました。人の毎日は恐れで塗りつぶされていました。人の世界には危険が充満していました。原始人は、すきま風が吹き込む穴倉で傷を癒しながら、恐れに震えるほかなかったのです。」
さて、現代人である私たちは、いろいろな面で進歩発展を遂げてきました。快適な家に住み、車に乗り、文化的な生活を送れるようになりました。しかし、それでもなお、古代人と同じように心に恐れと不安を持ちながら生きています。何故なのでしょうか。
イエス様は、私たちに恐れるな、怖がるなと言われます。イエス様は一人一人が持っている恐れを取り除いてくださる方です。キリスト教は「恐れからの救い」を与えてくれます。
神さまが救い主の誕生を知らせるために、天使を遣わされましたが、その天使はたった一回だけ説教する機会が与えられました。その説教の言葉が「恐れるな」でした。ルカによる福音書2章10節の言葉です。
人生の最悪の敵、それは間違った恐れです。しかし、基本的には、恐れは良いことです。神さまは、人間に自らを守るために恐れるという能力を備えてくださいました。愚かな者は恐れるということを知りません。旧約聖書の箴言1章7節に「主を畏れることは知恵の初め」とあります。
さて、マルコによる福音書4章35節以下を読みますと、イエス様と弟子たちはガリラヤ湖を渡ろうとしていました。すると突然、嵐になり、波が高まって、船に水が入ってきました。彼らは怖くなりました。どうしてでしょうか。彼らは嵐に比べて自分たちの力が小さすぎると思ったのです。それで沈みかけたのです。自分は小さい者だ。自分にはかなわない。その思い、それが、誰もが恐れる理由です。人はいろいろな出来事に出会って恐れと不安と心配をいつも感じながら生活しているものです。どうすれば恐れ・不安から癒されるでしょうか。
イエス様は「まだ、信じないのか」と言われました。恐れを癒すたった一つの方法、それは「信仰」です。信仰は恐れを取り除いてくれます。しかし、間違ってはなりません。
この信仰とは、嵐が起こるたびごとに、神を呼び求めると神はすぐ嵐を静めてくださるという意味ではありません。イエス様は、時には波風に向かって「静まれ、黙れ」と言われます。ある時には私たちの状況を変えられることもあります。また別の時には、私たち自身を変えてくださいます。私たちの人生にはいろいろな苦しみ不安、心配などが次から次へと出て来ます。それが自分で解決できない時、舟に乗っている弟子たちのように「先生、私たちが、おぼれてもかまわないのですか」と恐れから不平、不満を神さまに、時には回りの人たちにぶつけてしまうことがあります。
その時、イエス様は嘆かれます。「なぜ、信仰がないのか」と。イエス様はいつも私たちと共にいてくださる方です。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイによる福音書28章20節)とイエス様は言われます。このみ言葉を信じる信仰が、私たちをすべての恐れから救い、恐れを取り除いてくれるのです。アーメン
連載コラム enchu
(23) not favor but love
キルケゴールは、『哲学的断片』の中で「貧しい女性を愛した王の話」を物語ります。その中でキルケゴールは、王が女性に莫大な財産を与え自分と同等の者に引き上げることは、「本物の愛」ではなく「恩恵」を与えるにすぎない、と記すのです。王の愛が「本物の愛」であるならば「自分が相手のもとまで降りてゆくことが試みられなければならない」と。キルケゴールは、この物語を通して「愛」と「恩」は違うと言っているのです。
しかし、昨今の日本では、少なからずの人たちが、「愛」と「恩」を混同しているように思えます。なかでも「愛国心」という言葉を高圧的な口調で語る人たちは、明らかに、「愛」と「恩」を混同しています。というのも、彼らが叫ぶ「愛国心」とは、主人(国)のために尽くせ、ということだからです。「恩」とは、身分の高い者が身分の低い者に与えるものであり、主従関係を前提にしたものです。そして、「恩」を受けた者が主人に返すものは「愛」ではなく「忠誠」です。だから、高圧的に「愛国心」を語る人たちは、「国を愛する」ことではなく、「国に忠誠を尽くせ」と言い募っているのです。
それで彼らは、国に忠誠を尽くすことのできない(戦争になっても兵士になれない、武器を買うためのお金を差し出せない)人たちを、愛国的でない存在として排除します。彼らに「恩」を与えても仕方ない、という具合に。
しかし、主イエスが「貧しい人々は幸いである」と言われたように、国に忠誠を尽くすことのできない人たちこそが、私たちに「本物の愛」を開示してくれるのです。
岩切雄太(門司教会、 八幡教会、 佐賀教会、 小城教会牧師)
議長室から
「教会にあった鳥の巣」
総会議長 立山忠浩
一番寒い季節を迎えています。都南教会に植えられている花水木やぶどうの木は、枝だけがむき出しになっています。冬の風景はやはり寒々しいものです。ところが最近、どことなく温かい気持ちにされることがありました。
花水木の葉はぜんぶ落ちたはずなのに、なぜか一葉だけ残っているではありませんか。不思議に思い近づいて見上げると、野球ボールほどの小さな鳥の巣であることがわかりました。敷地の駐車場の真上にあったにもかかわらず、葉が生い茂っている時にはまったく気づかなかったのです。いや、人に気づかれないことを知っているから、何かの鳥がそこに巣を作ったのでしょう。それにしても、都心の教会でも命を育んでいる自然界の営みを身近に見ることができ、嬉しいことでした。
主イエスが「空の鳥をよく見なさい」(マタイ6・26)と言われたことを思い出しました。「よく見なさい」と言われたのですから、人々がいかに日常の風景の中に見逃していることが多いのかを喚起されたのです。私の場合も日常の営みをよく見ていなかったことに気づかされたのですが、遅まきながら、今は風雨に晒されているその巣をよく見てみたのです。
様々なことが思い巡らされて来ました。その一つが、なぜ人通りの多いところに巣を作ったのだろうかということです。都心には人のいない所などないという事情もあったことでしょう。でもそれだけでなく、木の下を通り過ぎる人たちが危害を加えることはないことを独特のセンサーで感じ取ったに違いありません。だから安心して巣作りと子育てを行ったのです。
この「安心」という言葉は、鳥の巣作りだけのことではないと思います。それは「平安」とか「平和」という言葉に言い換えることができるでしょう。人が生きて行くためには欠かせないものです。しかし、いつの時代でも、人々の生活では、それが危機に晒されているという現実から逃れることはできないのです。
教会の敷地に鳥が巣をこしらえたことは偶然かもしれません。でも私には、教会の存在の意味を改めて喚起しているように思えるのです。それは、キリストの平和を外に向かって宣教し、その平和の姿が少しでも目に見えるように、教会の内でも実現していかなければならないという使命の存在です。気高い使命ですが、臆することなく、期待と励ましの言葉と受け取りたいのです。
聖望学園における被災地生産物販売支援
プロジェクト3・11企画委員 久保彩奈
聖望学園では文化祭とクリスマス礼拝で毎年被災地の生産物販売支援を行っています。中でもボランティアでお世話になっている、石巻十三浜の西條さんのわかめとトロロ昆布を毎回販売してきました。この販売を行うのは、ボランティアを主な活動とするハイスクールYMCA部の生徒たちです。嬉しいことに、昨年の文化祭の日、他の教員から「さっき『わかめはどこで売っていますか?』と聞かれたよ。聖望の文化祭で東北のわかめ、定着したね!」と声をかけられました。生徒や卒業生、保護者の方々や教職員はじめ、今では毎年約200名ほどの方に購入していただいています。しかし初めから物販支援がうまくいったわけではありませんでした。
2012年の夏、初めてハイスクールYMCA部の生徒たちと共に東北の被災地へボランティアに行きました。生徒たちは被災地の痛みに触れ、「きっとみんな被災地支援のために買ってくれるだろう!」と文化祭のために強気な数のわかめ等を仕入れました。しかし、十分に周知されていなかったこともあり、残念ながら販売数は伸びず、文化祭終了間際に生徒たちは大量のわかめを持って職員室に行き、なじみの教員に「お願いします。買ってください」と頭を下げてお願いしました。クリスマス礼拝の際も他の生徒たちから「何でクリスマスなのにわかめなの?」と訝しげに聞かれた時もありました。しかし諦めずに説明と販売を続け、何より、このわかめがおいしいことが決め手となり、今では教員や保護者の方々、また卒業生から事前に「取り置きして欲しい」と依頼されるまでになりました。生産物販売支援を始めた当初より、販売数が伸び続けていることも嬉しい限りです。
この活動を通して、丁寧に説明を続けることや簡単に諦めないことの大切さを生徒から教えてもらいました。また「少しでも力になりたい」と願う、若く熱い心に励まされています。東日本大震災から7年が経とうとしていますが、温かい繋がりをこれからも大切にしていきたいと思います
カトリック教会は、日本のカトリック教会の皆さんに宗教改革500年共同記念の意義を知らせるため、リーフレット『カトリックと宗教改革500年』(発行・カトリック中央協議会、制作・宗教改革500年記念行事準備委員会)を作成しました。編集責任を負われた光延一郎神父(イエズス会・上智大学教授)よりご提供いただき、紹介します。
カトリックと宗教改革500年④
教会一致運動(エキュメニズム)の進展(2)
日本においても、日本福音ルーテル教会とローマ・カトリック教会の間で1984年から「ルーテル/ローマ・カトリック共同委員会」において対話が続けられています。その対話の実りとして『カトリックとプロテスタント―どこが同じで、どこが違うか』(教文館、1998年 写真�@)が編纂され、また2014年には、第二バチカン公会議『エキュメニズムに関する教令』の50周年を記念して、ローマ・カトリック教会、日本福音ルーテル教会、日本聖公会による合同礼拝も行われました。2017年の宗教改革500年記念の準備として、一致に関するルーテル=ローマ・カトリック委員会による報告書『争いから交わりへ』(2013年)も翻訳・出版されました(2015年、教文館 「エキュメニズム」(教会一致の推進)という言葉は、「家」を意味するギリシア語「オイコス」から派生する「オイクメネー」、すなわち「人の住む全世界」に由来し、全地に広がっていく教会を示します。「公会議(シノドス・オイクメニケー)」とは「全世界会議」であり、民族や国家的区別を越えた、キリストにおける人類共同体建設を展望しています。「エコロジー」も同じで、フランシスコ教皇は、 回勅『ラウダート・シ』の副題を「共に暮らす家をたいせつに」としました。
新刊案内『東京の名教会さんぽ』
光の存在による神の臨在を表現する美術家である鈴木元彦さんにより、『東京の名教会さんぽ』が出版されました。東京を中心に73の礼拝堂の写真が掲載され、建築学的視点とそれが祈りの場として用いられてきた経緯を含め、見どころを解説しています。
出版社のエクスナレッジは、建築やデザイン関連の書籍を中心に取り扱う一般の出版社であり、教会に来たことのない方が教会を訪ねるためのガイドとして用いられることでしょう。
カトリック東京カテドラル関口教会や聖路加国際大学聖ルカ礼拝堂といった著名な礼拝堂に加え、日本福音ルーテル教会の市川教会、本郷教会、三鷹教会(ルーテル学院大学チャペル)、むさしの教会が取り上げられています。一般書店、オンライン書店でも入手可能です。
宗教改革500年に向けてルタ―の意義を改めて考える」を締めくくるにあたって
ルター研究所所長 鈴木 浩
どのくらい続けて書いてきたのか自分でも忘れてしまったが、毎月「るうてる」紙上をお借りして、宗教改革とそれに果たしたルターの役割やその背後の事情などを一貫性や連続性をあまり考えずに、その都度、大事だと思ったままに書き連ねてきた。短い文章をそれなりのポイントに絞って毎月まとめ上げるのは、文筆の才にいささか欠けのある身にとっては、正直、辛い仕事でもあったが、ルターに対する自分の思いを読者の皆さんと共有できるという喜びもあった。
昨年は日本でも「500年」を記念してさまざまなイベントが企画され、実行されてきた。11月には、長崎で「500年」を記念したカトリック教会との「合同礼拝とシンポジウム」の集いが開かれた。初めての企画であったと思うし、準備や調整にも大変なご苦労があっただろうと思うが、画期的な出来事であった。また、その実情には触れることはできなかったが、当事国のドイツでは「500年記念」がある種の国民規模の「社会現象」にもなっていたのかもしれない。
「500年」の様々なイベントが取りあえず最後を迎えつつあるこの時期、こうした様々な対話集会やイベントが「単なるお祭り」に終わらないためには、改めて「宗教改革」とは何であったのかを確認する必要があるであろう。その点は、そうした集会やイベントでは必ず強調されていたと思うが、何よりもルターが強調したのは、「神の福音を本来の姿に取り戻す」ということであった。「福音」とはそもそも、「神の憐れみは、何よりもまず罪人に向けられており、神が罪人と連帯してくださった」ということであった。それが、「クリスマスの出来事」であった。それは、「神が人間になった」という出来事であった。それを普通「受肉」と言うが、要するに「神の人間化」のことである。さらに言い換えれば、「神が人間と同じ立場に立った」ということであった・・・イエスも食事をしなければ腹が減るし、歩き続ければ疲れるし、弟子たちがわけの分からないことを言ったり、やったりしたときには、腹を立てるし、世の有様を見て涙を流すこともあった。「言は肉となり、わたしたちのうちに宿った」(ヨハネ1・14)とは、そういうことであった。
そのイエスの受肉を「福音」(素晴らしい知らせ)という言葉で言い表したのは、パウロである可能性が高い。教会の伝統も、イエスの生涯を描いた文書を「イエスの生涯」と呼ぶのではなく、「福音書」と呼んできた。最初の福音書であるマルコ福音書の原文は、「始め、福音の、イエス・キリストの、神の子の」と書き出されている。日本語の並び方とは正反対であるが、マルコが書いた文書のテーマが(イエス・キリストの)「福音」であったことは明白である。
「宗教改革」という運動はその福音を「再発見し」、福音の意味を「いっそう深い理解」をもって受け止めた運動であった。その発端に立っていたのが、マルティン・ルターであった。日本福音ルーテル教会、西日本福音ルーテル教会、近畿福音ルーテル教会など、教会名に「福音」を特に付加したそれぞれの教会の創立者たちのグループは、そのことを意識していたに違いない。
「宗教改革500周年」は、それを「記念した」諸教会や、それを「祝った」諸教会に一つの課題を与えた。「宗教改革の内実」を正しく継承し、それを深化させるという課題である。中世カトリック教会が福音の内実を見失っていたという事実は、他の教会にもその危険がないわけではない、という警告を与えている。
ここで必要なのは、(諸教会の動きも含め)世間の動向に右顧左眄(うこさべん)することなく、ひたすら神の言葉に耳を傾け、神の言葉に忠実であろうとする努力であるに違いない。わたしたちは、「見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ」と語ったのは、パウロであった。カール・バルトはルターのことを「あの大パウロ主義者」と呼んだ。
『キリストにならいて』という中世後期のベストセラーがあったが―日本語訳が何種類もあり、入手は簡単だと思うが―「キリストにならって」というのは少々恐れ多いにしても、わたしたちも福音に忠実に生き抜いた「パウロにならって」、福音に忠実な日々を送りたいと願っている。(完)
希望のうちに共に ―藤が丘の取り組み―
清野智佳子(藤が丘教会)
宗教改革500年を記念する行事が各地で催される中、2017年11月12日にカトリック藤が丘教会との交わりの時をもちました。この日、藤が丘教会から東急田園都市線の藤が丘駅を挟んで街の反対側に建つカトリック教会の聖堂で、まず当教会の佐藤和宏牧師による講演会が行われました。
第二バチカン公会議に端を発し、スウェーデンでの宗教改革500年共同記念礼拝に至る、カトリックとルーテルの半世紀にわたる対話や、新共同訳聖書の編纂作業、そして地元での協同の働きを模索するお話に、2教会合わせて100名を超える参加者が熱心に耳を傾けました。
講演に続き、カトリック教会が準備してくださった懇親会がもたれました。教会における信徒活動や教会暦に沿ったイベントなど、どちらの側にも知らないことが数多くあり、尚かつ共通理解の容易なことも見いだせて、話題に欠くことのない和やかな懇親会でした。
実はカトリック藤が丘教会との交流は2年前に遡り、主任司祭である小笠原優神父と教会員の当教会バザーへの来場をきっかけに始まりました。
交流を深めるに相応しい宗教改革500年の今年をスタートの時にしようと、手始めに春の教会ピクニックにカトリック教会の会員をお誘いしました。何人の参加があるか不安と期待の交流計画でしたが、当日は世代を超えて20人を超える参加があり、バーベキューや「藤が丘杯」をかけたパターゴルフを楽しみながら、良き交わりの時を持ちました。
7月の信徒音楽礼拝はカトリック教会の会員の友情出演を受け、当教会有志の藤が丘バンドの演奏が深まりました。10月にはカトリック教会バザーに当教会女性会が招待を受け、定評の手作りカードはバザー来場者に大変喜ばれました。
今回、会場を提供してくださったカトリック藤が丘教会に感謝しつつ、藤が丘の地での今後の2教会の交流が地域伝道の機会となり、喜びの満ちる働きとなるよう祈っています。
ブックレビュー『原発問題の深層 一宗教者の見た闇の力』(内藤新吾著/かんよう出版)
「いのちを愛し、 平和をつくりだす」
沼崎 勇(京都教会)
チェルノブイリ原発事故の翌年、西ドイツでは緑の党が連邦議会で躍進し、イタリアは国民投票で脱原発を決定した。そして、2011年に東京電力福島第一原発事故が起きると、ドイツ・スイス・台湾などが脱原発を決定した。しかし日本は、原発を維持している。
本書の著者、内藤新吾師が原発問題に関わるようになったきっかけは、「日雇い労働のおじさん」との出会いだった。彼は、原発に関する資料を入れたファイル2冊を、「これは自分が持っているより、先生が持っていてくれたほうが役に立つと思うから」と言って、内藤師に託した。この人は、生きていくために、放射線バッジを外して原発で働いていた。それを着けているとすぐにブザーがなり、「お前は明日から来なくていい」と言われるからだ。
現場を去った後も、いつガンになるかという恐怖がつきまとう。さらに、被曝労働は差別されるので誰にも言えず、悔しくて仕方がなかった、と内藤師に打ち明けたそうだ。内藤師は、こう述べている。「私は彼のファイルとともに、被曝労働者たちの恨みつらみを一緒に背負って生きていくことを、その日から決断した」(本書69~70頁)。
2016年、政府は、高速増殖炉「もんじゅ」の廃炉と新型高速炉の開発を決定した。それは、高純度のプルトニウムを生み出すのに不可欠の技術だからだ。原子力技術は、平和利用も軍事利用も、どちらも可能である。そして、原子力技術をどちらに用いるかは、国の政策の問題である。だから内藤師は、本書の結びにおいて、こう主張するのだ。原発問題は、「いのちの問題であり、平和の問題であり、深く人間の倫理が問われている問題だということである。特に、私たちはキリスト者として、いのちを愛し、平和をつくりだす者として歩むことが、神様から期待され、私たちもまたそのように願っている」(本書120頁)。私たちには、今、為すべきことがある。
追悼 山本 裕牧師
特別な愛で
三浦知夫(みのり教会)
「山本先生には特別にお世話になりました」。東海教区におりますとこのような思いをもっておられる方にしばしばお会いします。人を大切にされる先生でした。一人一人に心を配り、その人の賜物や長所を見つけ、またその賜物や長所が生かせる教会の働きを見つけて教会を整えていく、そんな宣教をされた先生でした。そのようにされながら「『主の山に備えあり』、神様は次にどんなことを備えていてくださるのか、楽しみだ」とよく言っておられました。
山本先生の許で宣教研修をさせていただいた頃も、その後、先生がアメリカから帰国され同じ地区の牧師として働く機会を与えられた中でも、一人一人を大切にされる姿を間近で見てきました。私も先生から特別にお世話になったと感じている一人です。
みんなが特別だとしたらそれはもう特別ではないのに、そのように思わせてしまうほど人を大切にされる先生でした。そして、それはイエス様の私たちへの関わりと似ていると思いました。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」というイエス様の言葉に従い、主のために、主から託された教会のために、教会に連なる一人一人のために歩まれた山本先生だったと思うのです。
2年前に大きな病気をされた後は、主が備えられたご家族との時間を大切にしながら過ごされ、昨年12月に主が備えられた天の国に旅立っていかれました。今、山本先生も、特別な主の愛の中におられるのだと感じています。
第27回総会期 第5回常議員会報告
事務局長 白川道生
第27回総会期第5回常議員会が、11月6日から8日にかけて、ルーテル市ヶ谷センターで行われました。
会議出席の常議員らは、教会行政の立場から、来る2018年に予定される全国総会を視野に入れ、提案すべき事柄を整理し取りまとめてゆく時期にさしかかっているとの認識を共有しながら諸々の協議を行いました。
▼報告事項
宗教改革500年となった2017年は、様々な場面でこの意義を汲んで諸行事・企画が展開されてきましたが、北海道から九州まで、5教区いずれにおいても教区を挙げて行事が実施されたとの報告がありました。
立山議長が「ルーテル教会のアイデンティティーを学ぶ機会にする」、「伝道の好機とする」等、いくつかの狙いを示して推進してきた一連の計画が、宗教改革の足跡を受け継ぎつつ、現代の教会の姿を探求する機会になったという振り返りに合わせて、感謝とこれからの宣教への決意が分かち合われる雰囲気が印象的でした。
また、この常議員会では、宣教会議と同様に、式文委員会によって進められてきている礼拝式文の文言につける典礼曲が紹介され、これに対する意見交換の時間を持ちました。これも全国総会での提案事項とするために、引き続き制作を積み重ねる工程が確認されました。
▼申請・提案及び協議事項
2018年度の行事・会議予定が決定しました。中でも、「全国総会」の日程は、5月2日(水)から4日(金)にかけて、宣教百年会堂(東京教会)を会場に開催すると決定しました(全国教師会総会は5月1日から2日。すでに通年の予定は本紙1月号に年間予定表として掲載しておりますので、ご確認ください)。
また、次年度の各個教会予算に連動する2018年度教職関連費並びに2018年度協力金が審議され、本常議員会にて決定しました。基本表は前年に変更なし(ベースアップ無し)、協力金は基礎収入の10%という算定原則に従って確定した額で決定しました(この情報も各個教会へと送付された「常議員会記録」に掲載されています)。
その他の協議事項では、大阪・広島事業所の建物大型修繕に伴う既存長期借入金の返済計画変更の件、来る第28回定期総会の提案事項及び準備工程、準備委員会の組織の件などを承認し、3日間の審議を終了しました。
加えて、三役並びに各教区長らは引き続いて翌日正午まで「人事委員会」を開き、常議員会により付託されている次年度教職人事の調整協議を行いました。
2017年度「連帯献金」報告
2017年度も多くの方々から「連帯献金」に支援を頂きました。感謝してご報告いたします。(敬称略・順不同)
■熊本地震 建築支援 3,564,000 円
厚狭教会、甘木教会、飯田ルーテル幼稚園(保護者等)、板橋教会、宇部教会、栄光教会、及川のり子、大分教会、大牟田教会、岡崎教会、小鹿教会、小田原教会、唐津ルーテルこども園、九州教区女性会、京都教会、キリスト教保育連盟九州部会佐賀地区研修会、小岩教会、甲信地区、国府台母子ホーム、神戸東教会、神戸ルーテル聖書学院学生会、小倉教会教会学校、佐賀教会、シオン教会防府チャペル、シオン教会柳井チャペル、静岡教会、清水教会、下関教会、修学院教会、杉山紘子、聖パウロ教会、関満能、捜真女学校中学部高等学部、田主丸教会、知多教会、千葉教会、中央線沿線7教会協議会、辻谷静子、田園調布教会(関係団体)、小城ルーテルこども園、都南教会、長尾博吉、長?教会、名古屋めぐみ教会、名古屋ルーテル幼稚園父母の会、奈多愛育園、新潟のぞみルーテル教会、西教区宗教改革500年記念大会「花みずきの集い」バザー売上、日本FEBC、日本ルーテル教団、沼津教会、博多教会、函館教会、濱田良枝、浜松教会女性会、東教区女性会、東教区総会、日田教会、一粒の麦、広島教会、福岡市民クリスマス実行委員会、福岡西教会、藤が丘教会女性会、別府教会、増島俊之、松江教会、松本教会女性会、三鷹教会、三原教会、室園教会、湯河原教会、横須賀教会、横浜教会
■ブラジル伝道 741,750円
厚味勉、栄光教会、小城ルーテルこども園、京都教会、神水教会、健軍教会(女性会含)、小石川教会、小泉基、甲佐教会、佐々木裕子、札幌教会、女性会連盟、女性会連盟東海教区、立山忠浩、玉名教会、都南教会教会学校、博多教会、箱崎教会女性の会、東教区女性会、古川文江、保谷教会女性会、北海道特別教区、恵み野教会、メロ師歓迎会、ルーテル学院中学高校、帯広教会十勝豆会計
■喜望の家 10,000円
博多教会
■メコンミッション支援(カンボジア) 10,000円
博多教会
■世界宣教(無指定) 472,950円
神水教会、フィンランド100周年CD売上金、箱崎教会チャリティコンサート、大垣教会教会学校、桝田智子、日本福音ルーテル教会北海道特別教区・日本ルーテル教団北海道地区、博多教会、室園教会、めばえ幼稚園、芳賀明子(敏)
■宗教改革500年 4,346,289円
栄光教会、岩田典子、大石エツ、大阪教会、大野義定、岡崎教会、岡山教会、甲斐友朗、小泉眞・百合子、神戸教会、斉藤正恵、札幌教会、シオン教会女性会リーストコイン、修学院教会、谷川卓三・文江、谷川テエコ、田園調布・雪ケ谷・都南教会 合同礼拝席上献金、東海教区、中西典子、中村桂子、中村好子、西教区宗教改革500年記念大会、函館教会、東教区、福山教会、保谷教会女性会、森涼子、山川泰宏、吉田憲司、特定非営利活動法人一粒の麦
今年度も、社会・世界における福音の宣教、奉仕、災害・飢餓に苦しむ方々に連帯したいと願い祈ります。「連帯献金」を捧げてくださる場合には、それぞれの献金目的[ブラジル伝道][喜望の家][メコンミッション][世界宣教]を郵便振替用紙に明記して、以下の口座に送金くださるようにお願いします。
郵便振替 00190-7-71734 名義(宗)日本福音ルーテル教会