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るうてる福音版2010年7月号

機関紙PDF

「プール」がくれた贈り物

「主はあなたを支えてくださる。」詩編55編23節
七月になると思い出すことがある。それは子どもの頃、家族で行った京都旅行のことだ。小学生のある年、母と祖母に連れられて祇園祭りを見に出かけた。子どもの僕が祇園祭りに興味があったわけではなかったが、新幹線に乗れるので僕はついていくことにした。祇園祭りを母と祖母は堪能したようだった。翌日僕たちは琵琶湖にもう一泊した。
ホテルは、湖畔に建っていた。部屋に入ると僕はすぐ母に「海水パンツを出して」と頼んだ。部屋からプールが見えていたからだ。上から見た水面はきらきらと輝いている。「待ちなさい。少し休ませて。」と母は言ったが、祖母が出してくれた。「そのかわり気をつけるのよ。」
僕は一人でプールサイドに座り、足だけを水に入れて、夏の訪れを感じながら子どもながらに開放感を味わっていた。目の前には、琵琶湖が広がっている。行ったことのある芦ノ湖とは違って琵琶湖の大きさはそこに座っているだけでも感じ取ることができた。
僕はビーチボールを抱えて、水の中に入った。気持ちがよかった。プールに人はまばらだった。ビーチボールに掴って、まるで琵琶湖で泳いでいるかのような感覚のまま僕は漂っていた。ところが一瞬の隙にビーチボールがポンと腕から逃げてしまった。
僕は慌てたが、プールの底に足は届かず、もっと慌てた。殆ど泳げなかったからである。僕は沈んだ。僕はプールの底を足で蹴った。水面に顔を出し空気を吸って、何度かそれを繰り返した。何度かそうしているうち に、力が抜けたのだろう、僕の体は水に浮いた。いや水が僕の体を支えてくれたのだ。もう水は怖くなくなっていた。それどころか水に支えられて浮いている自分を心地よく感じた。僕は腕で水を掻いた。僕は自由を感じた。ビーチボールに掴まっているときよりもっと自由を感じた。もう少しも怖くなかった。
僕はあの夏、神さまを信頼することを知ったような気がする。神さまに身を委ねて生きることの喜びを知ったような気がする。もう何かにしがみついて生きなくてもよい人生の素晴らしさを知ったような気がする。
それはあの夏,プールがくれた贈り物。そして信仰は、神さまが僕に与えてくれた贈り物。神さまが僕を支えていてくださる。 [K]

いのちはぐくむ

第16回 「種はいのち」

『種をお与えください。そうすれば、わたしどもは死なずに生きることができ、農地も荒れ果てないでしょう。』
(創世記47章19節)

私の専門は「植物育種学」です。しかし、専門を聞かれて、そのように答えても、すぐに理解されることは少ないのです。そこで、育種とは簡単に言えば品種改良のことである、と補足するとようやく分かってもらえます。この用語は、明治31年に、日本農学の父といわれる横井時敬(よこい・ときよし)博士(1860|1927)によって初めて使用され今日に至っています(『栽培汎論』、1898年)。私は長い間「育種学」を教えながら、分かりにくいこの命名には
不満を感じていました。しかし、最近になってようやく、種は大いなるいのちの素であり、したがって、これは「いのちを育てる学問」であると気づき、納得することになったのです。
博士は、生涯にわたって、農学者といわれるものたちに向かって「農学栄えて、農業亡ぶ」ことのないようにと警告を発し続けた人でもありました。農学者は常に農業の現場に立ち、そして、研究は分析のみに陥らず全体を見渡す視点で行わなければいけないとも。残念ながら、日本の農業の現状をみれば、博士の心配は的中したといえましょう。
アメリカは深刻な不況に喘いでいるが、種産業のみは大盛況であると、当国の種苗企業に勤務する友人からの便りにありました。確かに、遺伝子組み換えによって開発されたトウモロコシや大豆などの除草剤耐性の種は、種苗特許によって他国の追随を許さず、世界中を席巻しています。これらの種は、あらゆる植物を枯らす非選択性の除草剤とセットにして販売されるので儲けは倍増するわけです。
もともと育種は農業の営みの中で農民自身の手によって行われてきました。江戸時代の厳しい年貢の取り立ての中でも、農民たちは自ら稲のより良い種を選び(選種と呼んでいました)収穫量の多い品種を育成して生き延びてきた歴史的事実があります。しかし、いつの頃からか、育種は農民の手から離れ国や企業に委ねられるようになったのです。さらに現在では、種苗企業の知的財産権を守るという名目で「種苗法」が制定され、農家は栽培する作物の種を自ら採ることすら厳しく制限されるようになっています。
私は、現在、北海道から沖縄まで全国15箇所ほどの地域で、農家の人たちとともに稲の育種を進めています。地域の風土に合い、自然、有機農業でも収量の上がる品種を創ろうとしてのことです。この半世紀ほどは、もっぱら農薬や化学肥料の多用を前提に、世界の広い範囲で栽培できる広域適応性の品種が求められてきました。本来、農業は地域に適応する種(品種)と固有の栽培技術によって成立してきたことは言うまでもありません。農民が、いのちである種をもう一度自らの手に取り戻すことから日本農業の再生は始まると考えているのです。
(静岡大学名誉教授 農学博士)

園長日記「毎日あくしゅ」

「いつのまにか…」

雨上りの園庭では、待ちかねた子どもたちが、だんご虫探し、泥だんご作り、ダム作りやどろどろ遊びに夢中です。代々伝授される泥だんご作りで園庭のあちこちに思いがけない程の大穴ができています。子どもたちの楽しさが伝わってくる大穴です。
今、年長ゆり組さんが苗を植え、毎日せっせとお世話した夏野菜のトマト、キュウリ、ナス、ピーマンが勢いよく大きく育っています。それぞれに実をつけたので、「元気に育ってくれてありがとう」、「神さま、お恵みをありがとう」と感謝して収穫しました。
早速ゆり組代表が年少、年中クラスにもおすそわけ。「花が咲いたよ」「小さい実がなったよ」と愛おしそうに覗いていた年少、年中さんたち。「ありがとう」「どういたしまして」と互いに嬉しい交流がありました。生のまま小さく切って、みんなで個々の命の味を味わいました。
また、大切に育ててきたおたまじゃくしがカエルになり、広い自然に返すことに。「がんばったね」「おおきくなってよかったね」と口々に声をかけて放しました。大切な「命」に心を留める時を与えてくれた野菜やカエルに感謝です。
自分の思いを言葉にすることがうまくなってきたゆり組さん。遊具のキャッスルタワーから恐る恐る降りるお友だちに、「涙が出るのはがんばっているからだよ」「信じてすると出来るよ」と励ましています。Iちゃんは「やってみないと分からない! ドキドキするけど、楽しいことが増えたよ」とにっこり。いつの間にか大きく成長しています。
日々の生活の中で起こる小さなことを大切に積み重ねる中で、時を経て、いつの間にか成長している子どもたちに気付かされるのだろうと思います。
間もなくゆり組さんは、二泊三日の阿蘇キャンプ。大きな成長のときとなるでしょう。
一学期の神さまのお守りを感謝しています。
日善幼稚園 園長 岩切華代

聖書のつぶやき

「意味わかんない!」

神様がこの世界を創造された時、人々は同じ言葉を使って同じように話していました。いまでも同じだったら海外旅行など楽ですね。ところが、彼らは同じ言葉を話していたため相談し、天まで届く塔の街を建て、神様のように有名になろうと企てます。神様に近づこうとしたのです。これが「バベルの塔」です。そこで神様は言葉を混乱させ、互いの言葉が分からないようにされました。
子どもたちから「意味わからない」と言われます。大人や親が言っている意味が分からないというより、聞く耳を持たないということです。しかし、意味のない言葉はありません。神様がいろいろな言葉を語るようにされた意味もあります。それは言葉を越える交わりがあるということです。言葉が音になると意味が分かりません。言葉が心の振動になると愛を伝える手段となります。

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