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バイブルエッセイ

「神の召し」

「わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。」(エレミヤ書1・5)「この人はヨセフの子ではないか。」(ルカによる福音書4・22)

 イエス様はご自分がお育ちになったナザレという町に来られ安息日に会堂で朗読をされた後、人々に言われました。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」人々はイエス様の口から出る恵み深い言葉に驚き、しかし「この人はヨセフの子ではないか。」と言いました。人々はヨセフの子であるイエスを知っていると。ナザレの町で、私たちの間で、暮らしていた人、私たちは、あの人の家族を、生まれ育ちの全てを知っていると。そして、町の人々はイエス様に疑いを抱きました。人々は安息日に会堂において、神の言葉を聞きました。しかも、恵み深い御言葉として人々は聞くことができたのでした。しかし、にもかかわらず、人々はイエス様に尊敬ではなく、敵意を抱いたというのです。ガリラヤで尊敬を受けたイエス様に対してナザレの人々は反対に、イエス様を崖から突き落とそうとしました。「この人はヨセフの子ではないか。」そして、この御言葉は私たちが行う日曜日の集まり(礼拝)の意味と実践についてのイメージを与えます。しかも、警告として私たちに与えられるのです。私たちの集まりがどのようなものであるかを自己吟味するために。私たち全ては神から召され、御許に招かれました。聖書においてイエス様は常に、権力や富を求める者たち、他者を軽視する人々にではなく、徴税人や罪人たち(アウトサイダー)、神の御前に謙虚な人々に目を向け、彼らをご自分のもとへ引き寄せられました。私たちの教会は、そして、その交わりはそのようにあるでしょうか。仕えるのではなく、誰かの上に立つことを求めてはいないでしょうか。互いに相手に敬意をもって接しているでしょうか。競い合ってはいないでしょうか。
 預言者エレミヤは神に召された時、こう応えました。「ああ、わが主なる神よ。わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。」エレミヤは自分がただの人間であることを知っていました。神様の御用のために、何かができるようなものではないと神に訴えたのでした。しかし、聖書は語ります。「主の言葉がわたしに臨んだ。『わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。母の胎から生まれる前にわたしはあなたを聖別し諸国民の預言者として立てた』」。ここで言われる「言葉が臨む」とは、エレミヤの心の中で神の言葉が「生きて働くものになる」と言うことを意味します。すなわち、神が語るということは神の業が起こる、出来事として起こることを示すのです。神は存在の最初から「あなたを知っていた」と言われます。聖書の「知る」とは信頼をおいた親密な交わり、また契約を意味し、人の性格や本質、考え方まで推察でき、いろいろな状況下での振る舞いさえ知っている関係を示します。そして、青年エレミヤを選んだのは主であると言われるのです。エレミヤは自分の力で、神の御業を成し遂げることなど、到底できるはずはないからです。神は言われます。「彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す」。神はエレミヤの苦しみの同伴者であり、遣わし、語らせるのは神ご自身であるのです。だから、私に従って来なさいと。エレミヤは神の言葉を繰り返し受け取り、従ってゆきましたが、心の葛藤を訴える神との対話はエレミヤの生涯を貫きました。しかし、その苦闘の度にエレミヤが立ち返った原点がまさに、この御言葉だったのです。「わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。」そして、この聖句は1996年の「神学校の夕べ」で私が説教したテキストでした。あれから29年、聖書は常に「警告と招き」へと私を導き続けてきました。そして、これからも、私たち全てを導くことでしょう。
「これら全てをうまく成し遂げようとする時、あなたは失敗すると心得なさい。両手を差し出し、乞い求める者となりなさい
―礼拝において神の恵みを受け取るために。」(Gordon W. Lathrop著『The Pastor: a spirituality』より/私訳)

最後の晩餐(1685年)シモン・ウシャコフ

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