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バイブルエッセイ

神の国はこのような者たちのものである

「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。」
マルコによる福音書10・13~16

 今年は世界的にはウクライナ情勢やイスラエル・パレスチナでの対立、個人的には久々に広島での「こどもキャンプ」にスタッフとして参加するなど、改めて平和について考え、向き合うことが多かったように思います。
 ところで、冒頭の聖句では、弟子たちが、イエス様のもとに子供たちを連れてきた人々を叱ったというのです。当時のユダヤ社会では、子供は律法を自覚的に守ることができないために軽視されていましたから、弟子たちはイエス様のもとに連れて来るにはふさわしくない、と考えたのでしょう。しかし、イエス様は憤って弟子たちに言われました。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」。そして、子供たちを抱き上げ、祝福した、というのです。
イエス様は、世の中の価値観とは異なり、子供たちこそ神の国=(神の愛の実現するところ)にふさわしいと示したのです。
 人間の社会を考えると、ある人を能力や資質によって評価することがしばしばです。しかし、イエス様はそうではなく、子供たちにこそ、愛を向けられ、救いに招かれます。ちょうど、すべての人々の罪の赦しのために愛を向けられ、十字架で命を捨て、救われたように…。
 弟子たちは子供たちを単純に軽視しました。しかし、イエス様にとって子供たちは(律法を守れない者でなく)ただ他者の愛、神様の愛にのみより頼んで生きる存在でした。そのような子供たちをイエス様は拒むことなく、喜び、受け入れてくださいます。
 このイエス様の言葉は、弟子たちや周囲の人々は神の国に入るためには律法順守という条件があると考えていたために、受け入れることが難しかったでしょう。
 そして、もしかしたら、これはある意味で、現代人の考え方や価値観にも通じるものがあるかもしれません。現代の日本の社会は、自己責任、効率化、生産性と言った価値観に基づいて回っている社会、それゆえに、一人の人間の存在や命に目を向けるより、その人が何をしたか、何ができるかが大切にされることがしばしばある社会です。もしかしたら、わたしたち自身も自分の無力さを恥じたり、能力不足を嘆いたり、罪深さに失望したりすることがあるかもしれないのです。けれども、イエス様にとっては、すべての人は十字架で命と引き換えにしてまで愛する一人であり、神様に祝福された一人です。イエス様の前で一人の命はそのようなものなのです。
 十字架の愛というのは、イエス様だけが示せるものかもしれませんが、結局、この究極の愛が見失われたり、大切にされないところでは、人が大切にされず、差別も争いも戦争もやむことが難しいのではないでしょうか。その意味で、イエス様の愛を見失わないことが、人間同士が平和に生きるという課題に向き合うときにやはり必要な姿勢であろうと思います。
 この究極の愛を知り、喜ぶ人は、自分自身を肯定するのみならず、他者を受け入れ、愛する生き方へと必ず結びついていくはずです。どんな相手でも、年齢や能力、立場の違いによって軽視したり、排除したりせず、違いを認め、そこに生じる課題を共有しながら、ともに歩む歩みが始まっていくはずです。そこに、真の平和へ向けての一歩が踏み出されていくことでしょう。そのような一人でありたいものです。

子どもを祝福するキリスト ニコラエス・マース作・油絵・1653年制作・ナショナルギャラリー蔵

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