「勇気を出しなさい」
「ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。」 (マルコによる福音書6・48〜50)勇気を出しなさい」
正直、『るうてる』6月号の巻頭説教に何を書いたら良いのか迷いました。
私がこれを書いているのは5月1日ですが、熊本でも感染症対策のために礼拝休止の延長を決定した教会が多数あります。そして、それは熊本に限ったことではないでしょう。この事態の中で、礼拝について、信仰生活について、またもっと広く教会について考えさせられています。
時代がコロナ以前とコロナ以降に分けられると言われることもあります。世界や社会が大きく変わっていく中で、そこに存在する教会も現に対応が求められ、礼拝のあり方など変化が必要とされてきているところだと思います。そして、それはときに不安や恐れを伴うものでもあるでしょう。この中で私たちにはどんなみ言葉が与えられていくのでしょうか。
私には、逆風のために湖の上でなかなか前に進めないでいる弟子たちに向けて語られたイエスさまの言葉が響いてきました。湖の上を歩いてきたイエスさまを幽霊だと思い、怯えて絶叫する弟子たちにイエスさまが語られた言葉です。
「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」(新共同訳マルコ6・50)
ところで、聖書協会共同訳では直訳として次の言葉が紹介されています。
「勇気を出しなさい。私だ。恐れることはない。」(聖書協会共同訳マルコ6・50注d)
「安心しなさい」と「勇気を出しなさい」。同じ言葉が二通りに訳されています。この二通りの翻訳から次のような印象を受けました。
「安心しなさい」との言葉からは、イエスさまのもとでホッと一息ついたり、ちょっと休んだりするようなこと。一方で「勇気を出しなさい」との言葉からは、イエスさまから強く押し出されていくようなことをイメージしました。
そして、この2つのイメージが1つの言葉に内包されていることは、安心することと勇気を出すこととのつながりを示しているのかもしれません。歩き始めたばかりの子どもが自由に世界を広げて冒険していけるのは、たとえ転んでしまっても絶対的に安心できる親という存在がいるからであるように、歩いて転んでは神の許に返り、また勇気を出して歩き始めるというサイクルが見えてきます。
そして、私は、このイエスさまの言葉に強く背中を押されるような思いになりました。
弟子たちがいたのは風が強い湖の上です。何かあったら溺れてしまうかもしれない危険や恐れがあります。また、湖の上で漕ぎ悩み、事態が思うようにいかないもどかしさやこのままでいいのかという心配もあったでしょう。しまいにはイエスさまさえも幽霊だと見間違えてしまう中で、つまり神不在のように思える中で何が神さまのみ心なのか分からない孤独と不安とがあったかもしれません。幽霊が来たと思ったときには、「もうダメだ」とすら思ったでしょう。
けれども、イエスさまはすぐに彼らに向かって開口一番言われました。
「勇気を出しなさい。」
イエスさまは、前に進めないでいる弟子たちに向かって言われます。「勇気を出しなさい。」恐れの中に取り残されてしまった弟子たちに向かって言われます。「勇気を出しなさい。」そして神さまもイエスさまも見えない中にある弟子たちに向かって言われます。「勇気を出しなさい。」
私たちは、加速していく世界の流れの中で、またそこに生きる人びとに向かっていく中でなかなか前進できないことがあるかもしれません。不安や恐れがあって新しいことに一歩踏み出せないこともあります。何よりも神さまのみ心を尋ねながら、それが分からない中で停滞してしまうことも起こりえます。
そんな私たちに向けてイエスさまは言われるのでしょう。「勇気を出しなさい。恐れることはない。私がいないように思えても、私がここにいる。私だ。私が確かにあなたと共にいるのだ。安心して、さあ、行こう。舟を漕ぎ進めていこう。大丈夫。勇気を出して、この世界を共に行こう。」
日本福音ルーテル水俣・八 代・鹿児島・阿久根教会 関 満能