るうてる2022年07月号
「わたしの隣人」
日本福音ルーテル挙母教会・刈谷教会 牧師 室原康志
彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。
ルカによる福音書10章27〜29節
律法の専門家がイエスを試そうとして、「何をしたら永遠の生命が受けられるか」との問いかけをしますが、イエスから「律法にはなんと書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と聞き返されました。彼は間髪入れずに応えたようですが、「隣人とは誰か?」と、確かめようとする姿があります。同一民族で考えれば良いのか、律法学者仲間だけで考えれば良いのか。はたまた、ユダヤ教を信仰に持つ者で考えれば良いのか。
私が初任地、シオン教会防府チャペル牧師館に住んでいた時、時折「〇〇に行こうとしていたが、途中でお金が尽きたので少し恵んで欲しい」「組の者から追われて広島から逃げてきた。大分の親類を頼りたいので、お金を出して欲しい」と相談に来る方がいました。とりあえず話を聞くのですが、現金を渡すのはどうかと考え、教会集会室で食事の提供をすることもあります。「大分に行きたい」と言った方には、「明日の朝、私の車で送りますよ。」と応えると、「大丈夫です、どうにかします」と言われ、すぐに敷地から走り去ってしまいました。そんな中、路上生活の方が訪ねてこられ、おにぎりを手渡す機会があったのですが、この方をきっかけに数日後に日本バプテスト連盟と日本基督教団の牧師、カトリック教会の神父の4名で路上生活の方々への支援活動が始まりました。この活動をきっかけに、同じ主に導かれ、キリストが示された愛を実現することにおいて、「困難を抱えている人、救いを求めている人がいるときに、教派的な相違は乗り越えられる」ことを確認しました。
イエスは「隣人とは誰か?」を理解しやすいように、「善きサマリア人」の傷ついた人への対応の話をします。祭司は神殿に仕えていました。レビ人も祭司職に属し、一般の人々に律法を教える役割を果たしていました。この2人は、どちらも律法に精通し、ユダヤ民族としての誇りを強く持っていたことでしょう。しかし、彼らは「その人を見ると、道の向こう側を通っていった」のです。倒れた人に近寄って介抱したのはサマリア人。純潔、純粋民族を誇りとするユダヤ人によって、同じユダヤ人でありながら、異邦人の血が混じっているという理由で、蔑まれ、敵視されていた人々です。
3人の行動は、「向こう側を通って行った」存在と、「近寄って」きた存在になりますが、傷ついた人に対し「向こう側」にあるのは、能動的な生き方であり、自分の言動は正しいと自信を持っている人でしょう。「近寄ってきた」サマリア人は、ユダヤ人でありながら蔑視され、傷つき苦しみを持って生きて来た人であり、自分自身を愛するようにではなく、自分が愛されたようにとの受動的な生き方をしたと考えられます。サマリア人とはアッシリアに連れられたイスラエル人の子孫であり、植民移住により強制的に混血を強いられたともいえます。その苦しみを通し、傷ついた人の痛みや辛さを知っており、自分の弱さを知るが故に、近寄る行動をとれたのです。
シオン教会で最初の頃の私は、訪ねてこられる方への対応が、祭司やレビ人と同じ、「自分を愛するように」しか出来ていませんでした。何処かで自分の痛みとして捉えることへの恐れを抱いていたのだと思います。自分自身が傷ついてきたとき、慰められたにも関わらず、何か消化出来ていない部分が存在しました。そのような私に、路上生活をしていた方がきっかけを与えてくれたのです。私が近づいたのでなく、彼が私に近寄ってくださったのです。その瞬間、「支援しなければ」という驕った考えから、「支援させていただきます」の気持ちを大事にしたいと、変えられました。そして常に気をつけたいと思うのです。自分を正当化するのでなく、「自分のように、自分が神さまから愛されているように、私の隣人を愛するように。」
エッセイ「命のことば」 伊藤早奈
㉘「一人ではない」
「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」
(1コリント10・13)
「検査の結果は何の病気でしたか?」そう聞いた私に〇〇だったわ。とその方は平気に答えられました。えっ大変な病気なのに。その方は今回わかった病気の前に違う病気を長年患っておられました。私と同じ様な経験をされておられるんだと思った時、私にとって、もうその方はとても身近に思えました。私も昔病気がわかった時はとても苦しみましたが最近患った一般的には大病と言われる病気の診断を受けた時はそんなに苦しみませんでした。もう一人そのような人がいました。二つの病気を比べたわけではありません。一つ目の病気を乗り越えられたか乗り越えようとしているのかもしれません。
ある人は「初めの病気を診断された時の方がショックだった。」と言われました。私もショックの中イエス様が共におられたから乗り越えられそうだと思います。私の表現を使えば「イエス様が共におられるから」と言えますが他の方の表現では色々な言葉で表現されるでしょう。
病気の種類の比較ではなく、一人一人の経験です。一つ一つの経験という出会いの中でも必ずイエス様は共におられます。あなたは決して一人ではありません。
議長室から 大柴譲治
「小川修パウロ書簡講義録」(全10巻、リトン)完結
同僚たちと関わってきた仕事が一つ、4月に終わりました。神学校での恩師・小川修先生(1940〜2011)が同志社大学で行ったパウロ書簡講義録を録音から起こす作業が完結したのです。11年がかかりました。走馬灯のように思い出が去来します。ガンで召された先生の納骨を小平霊園で行う最中、あの東日本大震災が起こります。ご遺族の許可を得て那須のご自宅に資料発掘に行きました。全体を10巻に分け、ご遺族の援助の下で出版が始まります。4人で始めた作業は結局7人のコラボレーションになり、各巻の巻末には関係者から貴重な文章が寄せられました。出版はローマ書3巻、コリント書3巻、論文集2巻、ガラテヤ書2巻という順でしたが、最初から最後までリトンの大石昌孝さんにはお世話になりました。
この10巻には小川先生が50年をかけて読み解いてきたパウロの「ピスティス」理解が息づいています。天地が揺れ動こうとも決して揺らがないもの、それが「神の〈まこと(ピスティス)〉」。「ピスティス」というギリシャ語は通常「信仰」と訳されますが、先生はそれを〈まこと〉と訳し、「第一義の〈まこと〉」と「第二義の〈まこと〉」を峻別するのです。神がご自身の〈まこと(ピスティス)〉をもって私たち人間に呼びかけ、私たちは自らの〈まこと(ピスティス)〉をもって神に応答する。イニシアティブは常に神の側にある。それは滝沢克己氏の「インマヌエル」とも響き合っています。パウロはローマ1・17で「ピスティスからピスティスへ」と書きますが、先生は最初のピスティスを神のもの、第二のそれを人間のものと読み解く。新共同訳聖書では曖昧だったのが聖書協会共同訳では明確になりました。「神の義が、福音の内に、真実により信仰へと啓示されているからです」。
1980年にルーテル神大(当時)に編入した私は先生の「宗教哲学」の講義に出会います。最初の2年はバルトの『ローマ書』、私には難しいものでした。82年の講義「現代日本のイエス・キリスト研究の検討」に目が開かれます。それはブルトマンの『イエス』、八木誠一の『イエス』、荒井献の『イエスとその時代』、田川建三の『イエスという男』、滝沢克己の『聖書のイエスと現代の思惟』を比較検討する意欲的な講義でした。聖書は読む者の心を映し出す鏡であることを悟ることになったのです。同時に「説教者」として私は、自己の思い込みを聖書に投影するのではなく聖書自体に語らしめることが肝要と知りました。「僕は間違っているかもしれませんよ。君たちは自分で聖書に当たってください」と繰り返された先生の声が私の耳に今でも残っています。
「教会讃美歌 増補」 解説
㉕創作賛美歌解説5 増補29番「主にある友よ」
日笠山太吉(博多教会)
「ひととき、お怒りになっても/命を得させることを御旨としてくださる。/泣きながら夜を過ごす人にも/喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。」(詩編30・6)この詩人の感謝に、私は深い祈りを重ねます。急ぎ足でやって来る老いの歩みの中で、生かされている感謝と共に、自らの反省・悔いがあります。それは、若い時しっかりと聖書と向き合うべきだったということです。若い方々よ!スポーツも音楽も旅行も恋も良し。青春を謳歌しながらも「人生の灯台」・聖書を座右の銘とされることを祈ります。春夏秋冬、花咲く時、嵐の日、雪の夕べが人生の旅路。こんな節目で声をかけ励ましてくれるのが、家族・教会の主にある友です。少年易老学難成です。
礼拝で牧師が語るみ言葉に耳を傾け、青年会やキャンプ等、教会にあなた方の声を響かせてください。そして願わくば、ルーテル学院大学・日本ルーテル神学校をノックしてみてください。きっと手応えある応答があります。
若い方々への希望と祈りを重ねた拙詩に萩森英明氏が心優しい曲を、日田教会の秋山菜穂さんがイラスト、お母さんの真由美さんがちぎり絵でイメージしてくださり感謝です。
増補40番「ひざまずけば」
西川知世(日本ルーテル教団東京ルーテルセンター教会)
ある日、教会讃美歌委員の安藤政泰先生に呼ばれ、小さな譜面を教会で渡されました。教会讃美歌の増補に子どもの洗礼式の賛美歌を加えたいと熱心に話され、私が持ち帰ったのがこの作品の生まれるきっかけです。私は子どもを持ちませんので、子ども賛美歌を作詞することに躊躇と不安がありましたが、教会で子どもたちの洗礼式にたびたび立ち会いともに祈る機会を与えられていました。また、譜面も読めない者ですので不安でしたが、立ち会った子どもたちの洗礼式の様子を思い浮かべ、洗礼盤の前に立つ一人一人の子どもたちの真剣な背中に深い感銘を受けたことが拠り所となりました。洗礼式の子どもたちと、その場に立ち会う大人たちの祈りを籠めることが出来ればと願いました。安藤先生、西川亜季さんのお力でこの作品が出来上がりました。携わられた多くの皆様の力で生まれた歌と感謝します。
世界の教会の声
浅野直樹Sr(世界宣教主事 市ヶ谷教会・スオミ教会牧師)
「命の木の下に」 ~他宗教との集い~
去る5月16日、「命の木に集う」をテーマにルター派とユダヤ教の神学者によるLWF主催のウェビナーが行われました。「命の木」とは、創世記2章に出てくる善悪の知識の木といっしょに神が創造したもう1本の木です。
LWFは1947年の創立当初からユダヤ教社会との対話を続けていますが、これはマルティン・ルターが反ユダヤ的な文書を書いたという経緯があるからです。新型コロナウイルスの世界的大流行を契機に、欧米社会では反ユダヤ主義的な陰謀論が広がりました。ウェビナーで交わされたユダヤ教とルター派それぞれからのコメントをいくつか紹介します。ウェビナー出席者は、ルター派からはLWFや神学校、大学の教師たち、ユダヤ教側はラビや神学校教師たちです。
「ヨーロッパやアメリカでは難民や移民が増えたことでいろんな宗教が社会で存在感をもつようになり、いかに平和を保ちつつ共存するかはかつてないほど喫緊の課題となっています。反ユダヤ、反イスラム、反キリスト教主義の主張は、ときに暴力までをも正当化してしまいますが、それに対抗する手立ては謙遜、そして正直な態度でお互いの声を聞き話しあうことです。」(LWF神学・宣教・正義部門長、エバ・クリスチナ・ニルソン)
「異なる宗教間で誠実に向き合う際に必要な三つの原則があります。⑴他者自身が自らを定義すること。⑵自分たちの伝統の中の最良だと思うものを他者の良くない点と比較しないこと。⑶相手の中にうらやましいと思うことを見いだすこと、です。」(エバ・クリスチナ・ニルソン)
「米国ワシントン州にいた10代の頃、ルター派の友人との交流があり、友情、善意、尊敬を分かち合うことができました。双方の両親が、開かれた心をもって相手をもっと知ることを教えてくれたからそうできたのです。」(カナダのラビ、ジョセフ・カノフスキー)
「各宗教の指導者にお願いします。命の木の下に人々を集めてください。憎しみと争いに満ちた時代だからこそ、ここに集って尊敬と友愛の大切さを教え、希望を描いてください。そうした働きをするリーダーを育てることが最大の課題です。」(ラビ、タマル・エラド=アップルバウム)
タマル氏は、彼女自身がユダヤ教社会で育ったためにキリスト者とのかかわりがまったくなかったことに触れて、次のようにもコメントしています。「ラビとしての最重要の務めは、公的な子育て(public parenting)のモデルを新たに作り、憎悪と分裂の歴史に終止符を打てるよう人々を導くこと。私たちが命の木をお世話する園丁の役目をはたすことです。」
「ルター派的な考え方や説教には反ユダヤ的な神学が根深くあり、このことは現代でも神学的な課題となっています。ただその一方で、教会内では反省や自己批判も高まっていて、地方の教会でもユダヤ教徒、キリスト者、イスラム教徒、仏教徒らが集まって、反ユダヤ主義をはじめ人種差別や宗教差別と戦っています」。(ルンド大学、ヤコブ・ウィレン)
「過去数十年、ユダヤ教徒とキリスト教徒の対話はめざましく進展しましたが、大学や神学校のカリキュラムのさらなる充実を期待したいです。多くのユダヤ人はルターのことを著作で知っている程度です。今日まで積み上げられてきた友好関係には気づいていません。ユダヤ教側からキリスト者のことをもっと知ろうとするべきです。またキリスト教側からも、たとえばファリサイ派などの指導者を否定的に見ていることに気づいてほしいです」。(ラビ、ダビド・サンドメル)
「ルター派信徒はこれまでの学びから、反ユダヤ主義の根深さと複雑さに衝撃を受けてきました。過去を見直し、もう一度神学を練り直して関係改善をすること、そこからしっかりした信頼できるネットワークをつくることが必要です。」(シカゴルーテル神学校、エスター・メン)
「宗教間対話と関係作りを国際レベルで行うだけでなく、世代間でも起こしていくべきです。相手を敬い相手から学ぶことを親から子へ家庭で教えてほしいです。対話することこそ未来へ向けての希望の種を蒔けるのです」。(ラビ、ジョシュ・スタンドン)
※詳細についてはWEBサイトをご参考ください。
エキュメニカルな交わりから
④NCC青年委員会 安田真由子(都南教会)・高村敏浩(三鷹教会・羽村教会牧師)
日本キリスト教協議会(NCC)の青年委員会には、現在安田真由子(都南教会)と高村敏浩(三鷹教会・羽村教会牧師)が委員として関わっています。
NCC青年委員会は自分たちを「青年の事についてあれこれいろいろ考えて、やれる事を共に色々やってみようとしている繋がり」と定義し活動しています。現在活動を担っているのは、日本聖公会、日本基督教団、日本バプテスト連盟、ウェスレー財団、そして私たち日本福音ルーテル教会からの委員であり、信徒と牧師がほぼ半々の割合の構成となっています。以前は、年に2・3度の頻度で何かしらのテーマのもとで集まり、食事と交流を伴う「エキュメニカルユースの集い」を行っていました。しかし、コロナ禍の現在は、それぞれの教派でどのような活動を行っているのかなどといった情報交換や、コロナ禍での苦労や課題を分かち合ったりして、繋がりのヒントを提供するオンラインでのイベントが中心となっています。
オンラインでの授業などに疲れた青年にはアピールする力が弱いことは否めませんが、それでも、オンラインになったことで、これまで首都圏に住んでいなければ参加できなかったイベントに、各地からの参加者が加わったことは大きな、そして前向きな変化です。こうしてできたつながりを、ウィズコロナ、ポストコロナにどのようにつなげ、また活かして行くことができるかということが、これからの課題となります。
もう一つ特筆すべき活動として、青年委員会は、昨年夏にNCC内で発足した「ジェンダー正義に関するポリシー策定のためのワーキング・グループ」(以下WG)と共同でジェンダー正義に関する方針を考え、文書化する働きを担っています。
性差別などの問題は昨今、社会の様々なところで取り組まれるようになってきましたが、教会にとってこれは神の正義の実現の問題でもあります。あらゆる性別の人(男女だけでなく、ノンバイナリーやXジェンダーなど)は神の似姿につくられ、人間らしく扱われる権利があるはずですが、現状は残念ながらそうではありません。社会においても教会においても、性別やセクシュアリティを理由に差別、抑圧に直面する人は少なくありません。ですが、神は虐げられ、抑圧されている人々とともにおられる神ですから、ジェンダー正義は教会が真剣に取り組むべき正義の問題なのです。
現在、青年委員会からは安田を含む2名がWGの定例ミーティングに参加しています。ミーティングでは、諸外国の教会でつくられたジェンダー正義ポリシーを読み、学んでいます。今後は、青年委員会からの代表2名とWGの他のメンバーでポリシーの草案を作り、できあがったものを青年委員会全体で見直していきます。ジェンダーの問題は、年齢に関係なく重要ですが、若い世代の意見や感覚をこれからの教会のありかたに反映させることもまた大事なことだからです。
社会委員会リレーコラム 「本・出会い・教会」②
佐伯里英子(シオン教会)
「乙女峠」は、山口市の我が家から60㎞余の島根県津和野町にある。私は、ドライブで数回訪れている。今年も訪れて本書を購読し、改めてキリスト教信者の凄まじい信仰と殉教の真実を知った。なぜ、このような小都市でここまで悲惨な出来事が起きたのか、100頁に満たない本書に多くの証言が残されている。
江戸末期に締結された「日米修好通商条約」は、信教の自由について触れている。開国後、浦上の信者は仏教徒を装うことをやめ、キリスト教徒であることを公にするようになった。明治改元の前年幕府は、信者拡大に危機を感じ、長崎で大々的な信者取り締まりをした。(浦上四番崩れ)ここで捉えた信者のうち3414人が西日本の各藩に送られた。津和野は小藩にもかかわらず、リーダー格を含めた153人の信者を受け入れ「乙女峠」に移した。信者たちは役人から改宗を迫られ、従わない者には残酷な拷問が加えられた。三尺牢に監禁、放置された安太郎は「九つ(12時)になると毎夜青い布を纏ったマリア様がお話をしに来てくださるので淋しゅうありません。」と語っている。雪の中、裸で十字架に縛られ人目に晒され、地面に捨て置かれた祐次郎は、十字架のイエスを思い、辱めを甘んじて受ける恵みを祈った。各藩に送られた3414人のうち1022人が転宗を申し出、664人が亡くなった。本書は、永井隆(被爆した放射線研究者)が、生き延びて長崎に帰った信者から聞き取とったものであり、彼の絶筆とも言える。
閉鎖的な状況で権威者に指示されれば、人は弱者に対して限りなく残酷になり得るというアイヒマン実験を思い起こす。今、ウクライナで起きていることも重なる。
私たちは歴史から何を学ぶのか。
ルター研究所「牧師のためのルター・セミナー」報告
宮本新(ルーテル学院大学・日本ルーテル神学校専任講師)
2022年5月30〜31日、「牧師のためのルター・セミナー」がオンラインで開催された。テーマは「コロナとウクライナの時代~ルターが今、この時代に生きていたら」。21世紀の今、感染と戦争という二つの現実が目の前にあるが今回のセミナではこれらについて学びまた話し合う機会となった。
「コロナとウクライナの時代」は世界大の問題ではあるが、セミナーではこれを考えるためにもうひとつ、ルター/ルーテルという観点を据えている。自らに託された教会と宣教の課題を踏まえ等身大で考える足場になると考えたからだ。
初日ではまず、ルターの戦争文書として知られる『軍人もまた救われるか』と『トルコ人に対する戦争』について、高村敏浩牧師と立山忠浩牧師からそれぞれ研究発表があった。つづいて多田哲牧師からは「東方教会とウクライナ」について発題があった。いずれも今日の私たちに馴染みがある事々ではないが、今知りたいことを聞いて学ぶ機会となった。
セミナー2日目は江口所長から「戦争~ルターとボンヘッファー」と題する発題講演。ルター研ならではの切り口から、こんにちのキリスト者が考えうる信仰上の構えについて考える機会となった。牧師先生方とも活発なディスカッションの時が持たれることとなった。その他セミナーではウクライナから避難する人たちを支援するルーテル世界連盟の動向についてレポートもあった。
2日間を通じて牧師、引退教師、そして神学生など40名前後の参加者があり、あらためてこれらの主題への関心の高さが感じられた。そしてもう一つ。これらが世界大の問題であることにかわりはないが、各地で担われ取り組まれている牧会と教会の宣教、そこで重ねられている祈りもまた、これらの問題と有形無形につながっていることが全体協議の折々に感じられた。脱原発問題の取り組みや平和活動、また地域のディアコニアの活動、またたえず祈りの手をあわせ「忘れない」こと…こうした取り組みもまたセミナーで一緒に考える機会となり意義深いひと時になった。このような継続した学びへの期待と課題について意見交換もされてセミナーは終了した。
なお、当日の発題はルター研紀要・ルター新聞などに掲載予定である。
カトリック第16回「シノドス」総会に向けての日本福音ルーテル教会からの応答①
カトリック教会において行われるシノドス(Synodus Episcoporum/世界代表司教会議)は、提起された問題を討議し、教皇に意見を具申することを目的に第2バチカン公会議の後、1965年から設置されました。
2023年10月ローマで、第16回シノドス総会が「ともに歩む教会のために―交わりと参加、そして宣教―」というテーマで開催されるにあたり、教皇フランシスコから世界のカトリック教会に対して、この主題について話し合い、応答することが呼びかけられました。その中には各地でのエキュメニカルな協力についての問いかけもあり、日本カトリック司教協議会から、日本福音ルーテル教会、日本聖公会、日本キリスト教協議会に対して、協力が呼びかけられることとなりました。
日本福音ルーテル教会では、エキュメニズム委員会を中心に第16回シノドスへの応答文書を作成しました。これは日本聖公会・日本キリスト教協議会からの応答と共に7月21日に行われる日本カトリック司教協議会臨時総会で協議されます。
以下、日本福音ルーテル教会からの応答文書を数回に分けて紹介いたします。
2022年6月7日
第16回シノドス
(世界代表司教会議)総会からの呼びかけへの応答
日本福音ルーテル教会
エキュメニズム委員会
このたび日本カトリック司教協議会からの第16回シノドス総会に向けた呼びかけを心から感謝申し上げます。特に『第16回シノドス総会のための質問項目』に記載されている内容は、日本福音ルーテル教会におきましても宣教を考える上で重要な示唆を与えられるものでした。
日本福音ルーテル教会エキュメニズム委員会は、この呼びかけに以下にように応答いたします。
1『キリスト者の自由』
シノドスの目指す教会の姿を受け取る時、私たちはルターが1520年に著した『キリスト者の自由』の有名な二つの命題を思い起こしました。
「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない」
「キリスト者はすべてのものに奉仕する僕であって、何人にも従属する」
第一の命題は、神の恵みによって義とされ救われたがゆえに、キリスト者は自由であるということです。しかし、ここで問題にしたいのは、第二の命題です。ルターはこう語ります。「なぜなら、人間はこの地上においては、身体をもって生きているばかりでなく、他の人々の間でも生きているからである。それゆえ、人間は他の人々に対して行ないなしでいることはできないし、行ないが義や救いのために必要でないとしても、他の人々と話したり、かかわりをもったりしないわけにはいかない。だからこれらすべての行ないにおいては、…その行ないをもって他の人々に仕え、役に立とうという方向にだけ向けられていなくてはならない。つまり、他の人々に必要なこと以外は考えないわけである。」(第26節)。
加えて「さてキリスト者はまったく自由なのであるが、自分の隣人を助けるために、かえって喜んで自らを僕とし、神がキリストをとおして自分とかかわってくださったとおりに、隣人と交わり、またかかわるべきである。…すなわち、まことに私の神は、まったく価値のない、罪に定められた人間である私に、なんの功績もなしにまったく無代価で、純粋の憐れみから、キリストをとおし、キリストにおいて、すべての義と救いのみちみちた富を与えてくださった。…そこで、キリストが私に対してなってくださったように、私もまた私の隣人のために一人のキリストとなろう。」(第27節)。(注1)
「わたしもまたわたしの隣人のために一人のキリストとなろう」、このルターの信仰告白は宗教改革500年を迎えた日本福音ルーテル教会にとって大きな使信であり、同時に課題となっています。そして今、この課題に対して、日本のすべてのキリスト教会においても具体的に手を取り合って向き合っていく時(カイロス)が到来したものと考えます。
(注1)訳文は、『キリスト者の自由』を読む』(ルター研究所編著、リトン)所収の訳文によった(ただし、一部変更)。
(以下次号につづく)
2022年度「日本福音ルーテル教会教師試験」について
2022年度「日本福音ルーテル教会教師試験」を左記要領にて実施いたします。教師志願者は必要書類を整え、教会事務局にご提出くださいますよう、お知らせします。
記
〈提出書類〉
◇教師志願書
◇志願理由書
テーマ「なぜ『日本福音ルーテル教会の教師』を志願するのか」
書式 A4横書き2枚 フォントサイズ11ポイント
◇履歴書(学歴、職歴、信仰歴、家庭状況等を記入すること)
◇教籍謄本(所属教会教籍簿の写し)
◇成年被後見人または被保佐人として登記されていないことの証明書(法務局交付のもの。任用試験時に必要になります)
◇所属教会牧師の推薦書
◇神学校卒業(見込)証明書及び推薦書
◇健康診断書(事務局に所定の用紙があります)
〈提出先〉
日本福音ルーテル教会
常議員会長 大柴譲治宛
〈提出期限(期限厳守)〉
2022年9月16日(金)午後4時までに教会事務局へ提出すること(郵送の場合は必着とします)
◇個人で神学の研鑽を積み受験を希望する者は、必ず神学教育委員会の推薦を得ること
◇国外のルーテル教会の神学機関に学び神学修士を持ち受験する者は、願書提出前に事務局に相談すること
〈試験日及び試験内容〉
志願者本人に直接連絡します。
留学生公募のお知らせ
神学校と協議を行い、ドイツにおいてルター神学を学ぶ意欲のある方を、「留学制度に関する規定」第3条2項(2号留学)によって一名募集いたします。留学期間は2年間になります。応募締切は8月末日といたします。提出書類等、詳しくは事務局までお問い合わせください。なお複数名の応募があった場合は、日本福音ルーテル教会内での審査を行い該当者を決定いたします。またこの留学はNCCドイツ語圏教会関係委員会の公募する留学制度を利用して派遣するものです。この委員会の行う試験等に合格することが前提となりますので、ご承知おきください。
公 告
この度左記の行為を致しますので、宗教法人法第23条の規定に基づき公告致します。
2022年7月15日
宗教法人日本福音ルーテル教会
代表役員 大柴譲治
信徒利害関係人 各位
小田原教会牧師館解体
所在地 小田原市鴨宮字稲荷森
所有者 日本福音ルーテル教会
地番 783番
種類 教職舎
構造 スレート葺2階建
床面積
1階 46・26㎡
2階 34・70㎡
理由 老朽化のため