るうてる2026年6月号
「まなざしによる診断」
日本福音ルーテル東京教会・板橋教会牧師 松本義宣
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。…わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイ福音書9・12~13)
付き添っての同乗は数回あるが、自分の搬送で、救急車に乗ったのは(今のところ!)1回だけです。入院の経験もその時だけで、それも日本ではなく、交換牧師としてドイツ滞在中のことでした。夏の休暇で家族と旅行に出て、ルター先生も滞在したコーブルクに泊まった初日の夜、突然、原因不明の痛みに襲われ、真夜中に救急車を呼び、病院に運ばれ診察の結果、胆石と分かりその場で手術、一週間の入院、旅行もキャンセル。異国の病室で痛みを経験して初めて、「言い古された言葉ですが、『病気になって知る健康の有り難さ』を痛感しました。もちろん、今も健康に不安をお持ちの方には、こんなささいなことは恥ずかしいが、何しろ生まれて初めてづくしだったので、忘れられない体験です。
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」。徴税人マタイを弟子に招き、引き続き彼の家で、彼の仲間や罪人と一緒に食事した時、「なぜ、あなたは徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と問われてイエス様が答えます。「罪人」とは、律法を守らず、守れない人と見なされていた人々です。徴税人も同等にみなされたのは、彼らがローマ帝国の徴税業務を担い、神の民が異国の重税にあえぐ反感に加え、特権で私腹を肥やしもしたからです。憎まれれば憎まれるほど、かえってあくどく振る舞い疎まれる悪循環でした。
収税所に座るマタイは、ただ住民から税を取るだけではなく、交易のために道を行き交う人から通行税を取り立てもしただろう。課税のため通行人にも鋭く視線を投げかけ、通行人も、そんな彼の視線を憎しみとさげすみの目で見返す。そんな視線の交差の中で、しかし、全くこれまで経験のないまなざしが投げかけられた。その新たな視線の持ち主は、通りがかりに、彼を見かけて一言「わたしに従いなさい」と声をかけただけです。彼は立ち上がりその人に従う。決断に理由はないが、彼を捕らえた視線、彼をして立ち上がらせ、従わせた視線が語ったのが、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」でした。そのまなざしの新しさは、全てを見通しつつも不思議な目でした。厳しいが、他の誰もが投げ返すさげすみや憎しみはない。また単なる憐憫でもない。はっきりと「お前は医者を必要とする病人だ」、さらに「正しい人ではなく、そういう病人・罪人を招くためにわたしは来た」と語っていた。
罪人だと指摘するだけの視線はいくらでもあった。しかし、イエス様の視線は、ただ裁き、罪人と断定するのではなく、招く目、その罪という病気を見いだし、癒やす医者の目でもあった。弟子として呼び出すだけでなく、新しい人生を歩むように招く。マタイは、自分が罪という癒やされがたい病気の床にあることを明確に知らされる。そして、その状況を見抜き、自覚をうながし、癒やしへと招く、そういう医者がこの方だと知らされる。
人はこの医者にかからねばならない。それを彼は身をもって示した。イエス様は、そのような医者として来られた。私たちの「罪という病」の診断を下しそれを癒やすため、しかしこの医者は、その病を癒やす治療を、思いがけない形でする。聴診器片手にさっそうと現れ手術をし、処方箋を書き、薬を出すのではなく、病人の横に自ら病気となり横たわり、いえ、十字架の上にその身を投げ出し病人の代わりに、その病を根源から癒やすために死んでくださる医者だった。病気を治すために、自らの命で病人を癒やす医者。その治療によって、私たちは元気になるだけではない、神様の永遠の命へと招かれているのです。マタイはそれを伝えます。
病気(罪)であることを知って初めて知る健康(赦し)と医者(イエス様)のありがたさ。私たちは、神に背いている罪を真に自覚し、その病の深刻さを知れば知るほど、主の哀れみ深さがよく理解できるようになる、立ち上がり従う者なのです。アーメン。
エッセイ「命のことば」 伊藤早奈
(75)「今ですか?」
「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」(ルカによる福音書2・14)
「ハロー」えっっ私に?だって全然知らないし、見るからに違う国の人間の私に明るく声をかけて下さいました。
あれは何年前のことだろう。確か数十年前に勉強のため海外に行っていた私は勉強どころか、言葉が通じない人ばかりで孤独になり、いつしか心が下を向いていました。無理やり心を開くためではなく、その人はただ「ハロー」と声をかけて下さっただけなのに、その時から少し心が前を向けたような気がします。何よりも数十年もたった今でも、そのことは私の心に残っています。
「いつもあなたと共にいます。」と言われてもなんだかピンとこなかったのに。静かに語りかけてくださいました。「わたしはいつもあなたと共にいる。いつもあなたが心の扉をわたしに開いてくれるのを待っています」と。
そのように思う時、一枚の絵を思い出します。扉の外にイエス様らしき人が立っておられ扉の中には人が一人。扉には内側に取っ手があるが、外側にはない。外に待っておられる方は内側から扉を開けられるのを待っておられる。ノックしておられるかもしれない。あなたに語りかけているように。
いつも一人ではないのかもしれないけど、お一人お一人の心は何かに囲まれて身動きが取れず、周りが見えてないかもしれません。でも大丈夫です。いつもどんな時でもあなたは一人ではありません。時が必ず与えられます。何度も語られます。でもあなたが一番いい時に語られる声が聞こえます。「ハロー」
リレーコラム「全国の教会・施設から」㊱
日本福音ルーテル飯田教会
大平由起子(日本福音ルーテル飯田教会女性会書記)
神庭靖子(日本福音ルーテル飯田教会副代議員)
長野県南端、東京まで高速バスで4時間の「陸の孤島」に飯田はあります。にもかかわらず、一九〇八年フィンランドの宣教師により伝道所が開設され、多くの宣教師・女性教師が伝道・幼児教育に関わりました。一九一一年地域初の幼稚園創設、一九一三年日本人伝道師育成の必要から神学塾開講、一九二四年には現住所に教会と幼稚園が建設されました。飯田教会内外の資料や郷土誌にも当時の様子が記されており、いかに地域に溶け込み慈悲に溢れた宣教活動がなされ、多くの信徒・園児が育てられたかがわかります。
一九四七年、市街地の大火により教会と園舎が全て焼失しました。礼拝は牧師館で守られましたが、幼稚園は廃園となりました。しかし一九五五年「フィンランド・ミッション」の援助により、園舎が併設された新会堂が建築され、幼稚園が再開されました。
それから70年後の今、幼稚園存続のために会堂は耐震工事を、園は学校法人化を余儀なくされ、教会と園は新たな協力関係の下におのおのの働きをしています。
高齢化と会員数の減少は切実な課題ですが、コロナ禍でオンライン礼拝が取り入れられたことは大きな恵みでした。主日礼拝はZoomとのハイブリッド開催です。大雪でも礼拝が守れます。甲信地区の合同礼拝にも活用され、これまでは遠方故に諦めていた催しにも参加できるようになりました。ITを用いた視聴覚教材にたけた朝比奈晴朗牧師の賜物でこれらがかなえられています。
また、園長の提案と朝比奈牧師夫妻のお力で、教会学校を月1回の土曜日に変えたことで参加者が増え、園と教会のつながりが強められました。毎日曜日には、音楽好きな子どもと保護者が集い賛美歌を中心に練習し、卒園児保護者のハンドベルグループと共に、特別礼拝での賛美をしてくれます。若い世代は教会の光です。
百二十年の間にはその時々の困難がありましたが、神様は「陸の孤島」の教会と幼稚園を今も残してくださり、その時々にふさわしい牧師を遣わしてくださっています。神様のご計画とみ心にかなう歩みが私たちにできるよう、イエス様が常に共にいてくださることに信頼し、謙虚で寛容な心のうちに、喜びと感謝をもって共に歩んでまいりたいと思います。
社会福祉法人レインボーハウス福祉会
松雪慶太郎(レインボーハウス施設長)
福祉施設のはじまりは、時代や地域によってさまざまです。家族や当事者の思いから始まるもの、教員などの支援者の問題意識から生まれるもの、宗教や理念を背景に広がるもの、制度や行政をきっかけに整備されるものなど、その成り立ちは一つではありません。
レインボーハウスは、その中でもご家族の思いから始まった施設です。初代施設長である鶴順子は、当事者の親として、「街の中に、安心して過ごせる場所をつくりたい」という願いを出発点に、この歩みを始めました。同時に、佐賀教会の教会員でもあり、教会からの精神的な支えや場所の提供を受けながら活動を広げていきました。さらに、その支えは国内にとどまらず、海外の教会からの献金にも支えられてきました。こうしてレインボーハウスは、ご家族の思いと教会の理念、その両方が重なり合う、いわば「ハイブリッド」な成り立ちを持っています。
この二つの柱は、現在の運営や利用者への支援にも受け継がれています。そして、この「ハイブリッド」という特徴は、成り立ちや理念、支援のあり方だけにとどまりません。自社製品であるお菓子づくりの中にも見ることができます。鶴が「賞味期限が長いものが良い」と考えたことをきっかけに始まったクッキー作りのレシピは、アメリカ人宣教師キャロル・サック先生から教わったアメリカのご家庭で親しまれているものが中心です。
このように、人の思いと支えが重なり合いながら形づくられてきたことこそが、レインボーハウスの大きな特徴であり、これからも大切にしていきたい歩みです。
改・宣教室から
小泉基(日本福音ルーテル札幌教会牧師・宣教室長)
廣瀬美由紀(日本福音ルーテル長崎教会信徒)
小泉 こんにちは。廣瀬さんは国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館の、被爆証言の語り手としての活動を続けておられますよね。具体的には、どのような活動なのですか?
廣瀬 高齢化し、亡くなっていかれる方も多い被爆当事者の証言を受け継いでいくために、
証言を家族が継承する家族証言者と、被爆者から体験を聴き取って継承する交流証言者がいるのですが、私は交流証言者として二〇一九年から活動し、各地に講話に出かけたりしています。
小泉 廣瀬さんは、この活動とどのように出会われたのですか?
廣瀬 二〇一二年に長崎に転居し、初めて長崎の被爆者や核廃絶のために活動している人たちと出会い、自分も何かしたいと思うようになりました。長崎市の平和案内人の資格を取り、原爆資料館や被爆遺構ガイドとして活動しつつ、被爆者の講話を聞くようにし、「百人いれば百通りの被爆体験がある」と実感しました。家族以外の人も参加できる交流証言者の募集があると知った時には、県外出身の自分ができるだろうかと悩みましたが、まず一歩を踏み出そうと応募し、証言者の山脇佳朗さんと出会ったのです。
小泉 自分の体験ではない出来事を、語り手として語っていく難しさもおありのことと思います。
廣瀬 山脇さんから直接お話を聞き、講話も何度も聞いて体験をしっかり受けとめようとしましたが、いざ原稿に取りかかると迷いが生じ、山脇さんに背中を押されてようやく完成しました。二〇一九年3月の初講話では、山脇さんから「聞いていて涙が出た」と言葉をかけてもらい、胸が熱くなりました。山脇さんが二〇二二年9月に逝去されてからは、私が継承しなければと責任を感じています。
小泉 なにが、廣瀬さんの活動の原動力となっておられるのですか?
廣瀬 山脇さんや他の被爆者の「自分が体験したことを二度と他の人にしてほしくない」という強い思いです。
小泉 廣瀬さんのキリスト教との出会いと、大切にしている聖句を教えてください。
廣瀬 滑り止めで入った高校がキリスト教主義でした。高校3年生でアメリカに留学しホストファミリーと通った教会がとても雰囲気がよく、帰国後も礼拝に出席するようになりました。大切にしているのは、「あなたがたは地の塩である」(マタイによる福音書5・13)です。
小泉 今日はありがとうございました。廣瀬さんの講話を聞かせていただく機会を、楽しみにしています。
「アメリカの福音派」問題によせて 後編
江口再起(ルター研究所所員)
前回(5月号)、「福音派」という場合には、三つの区別が必要と書いた。
①プロテスタントの総称
②その中でもある傾向を持った人々のこと
③アメリカの福音派
である。①と②については前回、記した。さて、今回のは③のアメリカの福音派である。
●アメリカの福音派(③の意味)
アメリカの人口の四分の一を占め、トランプ大統領の支持基盤の一つだと言われている。トランプの言動を考えると、聖書の教えからあまりにも遠いと感じるが、アメリカの福音派の人々はそのトランプを支持しているという。不可解!
もちろん、「アメリカの福音派」といってもいろいろな人がいることだろう。トランプを支持していない人々も大勢いるに違いない。しかしまた、彼を支持している人も大勢いるのだ(こうした複雑な事情や歴史については、加藤喜之『福音派~終末論に引き裂かれるアメリカ社会』(中公新書、2025年)に詳しい。必読書)。
さて、ここではアメリカの福音派に関して二点にしぼって考えてみたい。「信仰」の問題と「聖書」の問題である。なぜなら、彼らもその一員であるプロテスタントの二つの柱は、信仰と聖書だからである(「信仰のみ」と「聖書のみ」)。
まず「信仰」の問題。もともと(アメリカに限らず)福音派(②の意味)の人々は、回心、再生(ボーン・アゲイン)、聖化など自分の信仰体験を非常に大切にし、強調する。それがアメリカの歴史と風土の中で過度に増幅され、アメリカの福音派が形成されていった。やがて、回心や再生(感)といった自らの信仰体験が、肥大化する。信仰している私、回心した私、再生した私、救われた私。もちろん自分に自信を持つのはいいが、いささか自信過剰。しかし、ルター的に言えば、人はどこまで行っても「義人にして同時に罪人」なのだ。自信どころか謙遜こそがむしろ必要である。
ともあれ、アメリカの福音派においては、自らの信仰(体験)の強調が、ルターの「信仰のみ」の教えと重なり理解されている。。しかし、それは誤解(後述)。
次に「聖書」の問題。前回記したように、もともと福音派(②の意味)の人々は、聖書の言葉をそのまま神の発した言葉と考える傾向があるが、アメリカの福音派の場合、その度合いが更に強い。というのは、聖書には実際には多様なこと(ある場合には言葉の上では相反すること)が記されているのだが、その一部のみを取り出し、それを神の発した唯一の言葉として主張する。「進化論」や「中絶」に対する、いささかヒステリックな攻撃などに、その傾向がみられる。あるいは今日、大きな問題となっているのが「終末論」の問題である。聖書にある記述(ダニエル書やヨハネ黙示録)を下敷きに、かなり近い将来、神とサタンの最終決着(ハルマゲドン!)となるキリストの再臨が起こり、信じる者(のみ)が救われる、と考えている。
場所はエルサレム。それゆえ常に潜在的に(現代の)イスラエルにシンパシーを持ち続けるのである。しかし、聖書全体は終末について多様な見方をしている。たとえば、「神の国」は終末において実現するのだが、その神の国が近づいていると未来的に記されているところもあれば(マルコによる福音書1・15)、神の国は今、あなた方のただ中にあると現在的に記されているところもある(ルカによる福音書17・21)。その点、アメリカの福音派の人々の終末の見方は狭く一方的である。
いずれにせよ、総じてアメリカの福音派の人々の、すべてではないにせよ、「愛」の欠如が感じられる。。「聖書のみ」ということで、聖書の多様な理解や他の書物(考え)を大切にせぬことは、単なる唯我独尊ではないだろうか。「信仰のみ」ということで、信じない人や信ずることのできない人への共感や共生に目を閉ざすならば、それは愛の欠如ではないだろうか。「たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい」(コリントの信徒への手紙一13・2)。
●「信仰のみ」と「聖書のみ」の真意
確かにルターは、「信仰のみ」と言い「聖書のみ」と主張した。わたしたちプロテスタント(①の意味)は、それを旗印にしてきた。だが、それは実にしばしば誤解、誤用されてきた。アメリカの福音派の場合、それが顕著である。
そこで、ここでまずルターの真意を確認しておこう。ルターは五百年昔、カトリックと対決した時、カトリックの「信仰と善行」に対して「信仰のみ」、また「聖書と伝承」に対して「聖書のみ」と主張したのである。いつどこでも「信仰のみ・聖書のみ」を振り回せばよいというものではない。相手がある。時と場合がある。つまり、あくまで相手や文脈を考えて「信仰のみ・聖書のみ」は主張されねばならない。
では、ルターが「信仰のみ・聖書のみ」と語った真意は、どこにあるのか。ここが大事である。
まず「信仰のみ」。信仰という言葉をともかく強調すればいい、ということではない。なぜなら、信仰とはあくまで「神の恵み」を信じることだからである。つまり、恵みあっての信仰である。人は、自らの信仰によってではなく、あくまで神の恵みによって救われるのである。このように救われるということを、神学用語では「信仰義認」という言い方でいうが、事柄に即して正確に言えば「恩寵義認」と言うべきであろう。つまり「信仰のみ」の真意は、実は「恵みのみ」なのである。
なおここで蛇足かもしれぬが、一言。「恵みのみ」といっても、何でもありがたいということではない。正直に言えば、人生は挫折と苦難と悲しみの連続である。だがそれでも、そうした人生そのものを支える土台(力)、それが「恵み」である。
次に「聖書のみ」。上述のように、聖書は多様な言葉・内容に満ちている。聖書の豊かさである。それゆえ、聖書(の一部)の言葉をそのまま神の教えとするのでなく、その言葉の真意、つまりその言葉の深い「意味」をとらえなければならない。どういうことか。
聖書が多様な言葉・内容を含んでいるということは、私たち読む者に多様な読み方ができるということでもある。つまり、多様な読み方の可能性があるということだ。しかし、ただ多様な読み方だけなら、それはバラバラで自分勝手な読み方ともなろう。しかし、聖書が一冊の書物としてまとまっているということは、その多様な言葉・内容の中に中心があるということでもある。まとめて言えば、多様な読み方の可能性があるが、そこにまた中心もあるということだ。哲学者柄谷行人氏の言い方を借りるなら、「可能性の中心」が大切なのである。つまり、聖書はその記述をただそのままなぞり受け取るのではなく、そこに深い意味(可能性の中心)を見いだしていくことが大事なのである。これがルターが「聖書のみ」と語った真意である。
「ルーテルこどもキャンプ」開催のお知らせ
中島和喜(日本福音ルーテル大江教会牧師・TNG委員会こども部門長)
TNG委員会こども部門では、8月3日(月)~5日(水)、日本福音ルーテル広島教会を会場に「第26回ルーテルこどもキャンプ」を開催します。主題聖句は「平和を実現する人々は、幸いである(マタイによる福音書5・9)」、テーマは「平和と愛と、ヒロシマと」です。小学5年生から中学3年生までが参加できます。
8月の広島で、聖書を通して平和について学び、神さまの平和に満たされて、今度は自分たちが平和をつくる者となっていく、そんな思いを深めたいと思います。2年前に広島で開催されたこどもキャンプとはまた違ったことを行いますので、一度来たことがある方もぜひまた参加してください。全国の教会の仲間と共に語り合う機会は、きっと楽しく豊かなものとなると思います。これまで参加したことのある方にとっては再会の時に、初めて参加する方は新しい友達がたくさんできる、そんな良い機会になることでしょう。
ぜひ、教会でも呼びかけて下さり、子どもたちを送り出してください。たくさんのキャンパーが
集ってくれることを願っています。
参加申し込みは二次元コードからお願いします。
申し込み締め切り:6月30日(火)
参加費:1万5千円
併せてキャンプを支えて下さるスタッフも募っています。スタッフは高校1年生以上が対象です。二次元コードからお申し込みください。
教会とディアコニア⑥
石居基夫(ルーテル学院大学学長・日本ルーテル神学校教授)
十年以上にわたって検討されてきたディアコニア事業が、各教区主体のディアコニア運動の展開へと方向転換された一九七〇年の教会総会後の機関紙「るうてる」七月号には、ディアコニア運動は当初から「固定化した制度や組織を生み出すことではなく、全教会、またひとりびとりの信徒の生活の中に無形のものとなって溶けこみそれを生かす力となる」ことが願われてきた、と記されました。
教会が抱えた課題は単に財政上のことばかりではなく、日本社会の実情の中で、教会のディアコニア専従者を生かす現状にはなかったということかも知れません。「全信徒祭司性」を掲げるルーテル教会として、教会全体、信徒一人一人の生活にディアコニアを溶け込ませるべきことが、まず必要と理解されたわけです。
「福音を伝え、世に仕える神の民―教職・信徒となろう」を掲げた教会は、「神の民」育成を重要課題としてさまざまな取り組みを始めます。自立計画は、単に経済的自立を目指すということではなく、私たちがどのような教会、信徒になっていくのかという具体的な問いに応えていくものとなることが求められたのです。一九七〇年代半ばの「るうてる」誌には「信徒のための聖書学講座」や「信仰の生活」について、あるいは「現代日本社会におけるカウンセリング」について学ぶ記事が連載されています。
大学化を遂げた神学校も、一九七五年、具体的に「神の民全体の神学教育」ということを打ち出します。教職と信徒ばかりではなく、信仰者ではない人たちも含めての教会の具体的な働き(幼稚園や施設も含めて)をどのように作っていくのか。また、地域社会のニーズにどのように関わり、貢献していく教会/神学でありうるのかという課題が自覚されていました。学生運動を通して学問と実践の関係や、現実社会への具体的責任性が問われた時代でした。日本ルーテル神学大学は、現実的な財政課題もありましたが、社会福祉の専門職にクリスチャンワーカーを送り出すために、一九七六年神学部神学科の中に「キリスト教社会福祉コース」を設置します。一度は企図されたディアコニア専従者養成の計画では、カリキュラム一覧を整えるところまで神学大学の役割が考えられていましたが、具体的な働き場を想定したキリスト者の社会福祉専門職養成という形で、ルーテル教会のディアコニアへの使命に応えようとしたといえるでしょう。
「リーダー研修キャンプ」開催のお知らせ
多田哲
(日本福音ルーテル合志教会・水俣教会牧師・TNG委員会ユース部門長)
TNG委員会ユース部門では、毎年沖縄で「リーダー研修キャンプ」を開催しております。今年も8月24日(月)~27日(木)に開催します。
沖縄の過去、現在、未来を見つめながら、聖書の御言葉とともに学びの時を持ちます。また、教会でのご自身の在り方などをともに考える時としていきたいと考えています。
毎年、同様のプログラムを実施しておりますが、今年は少し手直しを加えたプログラムを考案中です。過去に参加したことがある方もぜひともご参加ください。
普段、なかなか会うことができない全国の教会の仲間と共に、聖書について、教会について語り合う機会は、貴重な機会となることと思います。
この機会に教会でも青年たちに呼びかけて下さいますと幸いです。
参加申し込みは二次元コードからお願いします。
申し込み締め切り:7月12日(日)
参加対象年齢:19才~35才
参加費:2万5千円(交通費補助あり)
併せてキャンプを支えて下さるスタッフも募っています。スタッフは青年でも大丈夫です。同じ二次元コードからお申し込みください。
第33回春の全国ティーンズキャンプ報告
河田優(日本福音ルーテル日吉教会・横浜教会牧師、第33回春の全国ティーンズキャンプキャンプ長)
3月30日(月)から4月1日(水)にかけて、「第33回春の全国ティーンズキャンプ」が東京・高尾の森わくわくビレッジで開催されました。今年のテーマは「救いって“リアル”かも」です。受難週に行われたキャンプとして、罪の赦しのために十字架まで歩まれたイエスの足跡をたどり、その“リアル”に向き合う3日間となりました。北海道から九州までティーンズが参加し、スタッフを含めて計70人が集いました。
キャンプは開会礼拝から始まり、その後のアイスブレークで参加者たちの緊張も徐々にほぐれていきました。グループごとの分かち合いでは、イエスの十字架の出来事を自分の生活や思いと重ね合わせながら、「今の自分と十字架の距離」について語り合う時間が持たれました。
二日目もテーマに向き合う体験プログラムと、それを受けての分かち合いが続きました。また、午後のバラエティーショーは皆で盛り上がり、仲間としてのつながりが深まりました。その後、この一年の間に洗礼を受けたティーンズが紹介され、その証しを真剣な表情で分かち合いました。夜に行われた、大きな十字架を担ぎ、いばらのとげに触れる体験は、心に深く響く時間となりました。重さや痛みを通して、そこに込められたイエスの思いを受け取ろうとする姿勢が、参加者の中に育まれ、「イエスが歩まれた道を少しだけ実感できた」の声も聞かれました。
最終日は、それぞれが思いを巡らし、自分の言葉を紡いで分かち合ってきた三日間を振り返る時間となりました。十字架と自分との距離が以前より近づいたと感じた参加者もいれば、信仰において新たな悩みや課題が見えてきた参加者もいました。しかし、今どこに立っているかに‶正解”はありません。大切なのは、十字架を「今の自分」とつなげ、仲間と共に考えることができたという事実です。その営みこそが、テーマである“リアル”に触れるキャンプそのものでした。。プログラムの最後には閉会礼拝が行われ、チャプレンのメッセージに耳を傾け、ティーンズたちは再会を約束しながら帰路につきました。
春の全国ティーンズキャンプは、長い年月をかけて受け継がれてきた働きです。かつて参加者としてこの場に立っていたティーンズが、今はスタッフとしてキャンプを支える側に立っています。信仰が受け継がれ、ルーテルの伝統にもなりつつあるこのキャンプが、これからも主の豊かな祝福に満たされますように、お祈りください。
お詫びとお知らせ
いつも教会手帳をご愛用いただき、誠にありがとうございます。
このたび、2026年度教会手帳におきまして、10月28日(水)の聖書日課欄に記載漏れがあることが判明いたしました。
左記の通り訂正いたしますとともに、深くお詫び申し上げます。
【訂正内容】
2026年10月28日(水)
箴16:1―20 詩119:41―48 マタ19:16―22
