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バイブルエッセイ

主を待つ

17 P

「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。」
ルカによる福音書21・27

待降節(アドベント)となりました。これからしばらくの間、私たちはクリスマスまで、主を待ち望む期間を過ごします。アドベントは主の「到来」を待ち望むことを意味しています。ろうそくが準備され、1本ずつ点火されてゆきます。4本全部に点火されれば、まもなくクリスマスです。聖壇の掛け布は「紫色」です。「紫」は、悔い改めとざんげのしるしです。一年でもう一回だけ「紫」の期間があります。それは、「四旬節(受難節と以前呼んでいました)」です。それはイエスさまの苦難と十字架の死を忍び、節制した生活を心がけ「復活」の喜びを待ちながら過ごす期間です。その期間と同じように、神のみ子がこの世に誕生してくださるクリスマスの喜びにあずかるために、私たちもアドベントの期間、心からの悔い改めとざんげを持って、忍耐し節制して待つ時です。そして、大きな喜びをクリスマスにいただくのです。

 私たちの生活の中で、「待つ」「待ちなさい」と言われるとき、現代の状況はどうでしょう。何かを待たねばならなくなったとき、その時をじっくり待つことができるでしょうか?情報伝達の手段が発達し、何でも知りたいことは調べればあっという間に分かる。相手の情報も、携帯電話で即、わかる。「答えが早く知りたい」と思えば、待つことができず、進むことができます。どちらかと言えば、「待てなくなっている」のが私たちかもしれません。

 高校生の頃から教会に行きだした私は、「クリスマス」の時季が大好きでした。青年会で歌うキャロリングの時、あの喜びは教会でしか味わえない最高のものでした。しかし、クリスマスまでの「アドベント」の時があるのを知り、心はクリスマスの時まで、静かな静寂な時間を送ることになりました。対照的に町は、どんどん激しくにぎやかになっていきます。静かな祈りの時を待って、主イエスが今、お出で下さる意味を思います。それは私の日頃の心の「悩みや不安、悪との闘い」があり、イエスさまとそのみ言葉に日々助けられてここまで歩むことができた。自分の力ではどうしようもないとき、「身を起こして頭を上げて」(ルカによる福音書21・28)恐れずに、やがて世の終わりに到来なさるイエスさまを、希望をもって見上げるのです。

 待降節(アドベント)のはじめに、本日の聖書で、イエス・キリストが王として到来することを望む聖書の箇所が示されています。「やがて来られるキリスト(再臨の主)」に目を注ぐことは「すでに来られた方(イエスさま)」へと私たちの目を向けさせ、クリスマスに備える心を起こさせます。教会暦の中で「世の終わり」について語られることはあまり多くはありません。話題となった「カルト」はセンセーショナルに終末の危機意識をあおります。それで伝統的な教会は終末にふれることをどちらかといえば、言い控える傾向もあります。世の終わりがいつ来るのかは分かりません。(マルコによる福音書13・32) 大切なのは、「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」(コリントの信徒への手紙二6・2)として、「今」が私たちに残され示されている「救いの時」であるということです。「十字架の救い」にあずかることです。

 クリスマスに、主はまずへりくだった方としてご自分を低くして来られ、だれもが近づき触れることのできる「赤ちゃん」としてこの世に来られました。それがクリスマスです。
 そして私たちはこの時季に過去に来られた馬小屋で赤ちゃんとして生まれたキリストだけを覚えるのでなく、やがて再び来られる栄光の主であることを覚えるのです。

羊飼いたちの礼拝 1529‒1530年頃
アントニオ・アッレグリ・ダ・コレッジョ
アルテ・マイスター絵画館、ドレスデン

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