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るうてる2022年

るうてる2022年02月号

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「御心ならば、清くすることがおできになります」

日本福音ルーテル八王子教会牧師 中村朝美

「すると、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、
『主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります』と言った。」
マタイによる福音書8章2節

 ある教会でこのようなことを話してくださった方がおられました。「子どもが小さかった時、重い病気にかかり、当時通っていた教会の牧師先生にお祈りをお願いしました。『御心でしたら癒やしてください』とお祈りされました。何故、癒やしてくださいではなく、御心でしたら、と祈られたのかと、私は素直に聞けず、また非常に悲しかった思いをしました。」
 病床訪問する時、「早くお元気になってください」などと言いたくなるのが人情ですが、この方の言葉が主イエスの病気の癒やしを伝える箇所を読むたびに心を横切るのです。福音書には主イエスによる病気の癒やしの出来事がいくつも語られています。多くの場合、様々な病気を患っている人々—目の見えない人、体の不自由な人々、悪霊に取り付かれている人たち—が主イエスに憐れんでいただきたいと願い出ることから、或いはその人々を主イエスがご覧になり、深く憐れまれることによって癒やしの御業がなされています。ルカ福音書17章で語られている重い皮膚病を患っている人々の癒やしにおいても、患っている人々が、憐れみを願っています。
 しかしながら、マルコ福音書1章40節以下及びその並行箇所で語られている「重い皮膚病を患っている人の癒やし」の出来事は本人は直接憐れんでくださいと訴えてはいません。「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願い出ています。

 「重い皮膚病」とわざわざ語られていることで、この人が負わされている社会的、宗教的に差別され、負わされている苦悩は幾重にも取り巻き、絶望の日々を送っていたことが伝わってきます。この病は他の病とは異なり、ただ単に癒やされるのではなく、清められなければならない病でした。だからかも知れません。主イエスの御前にひれ伏すしかなかったのでしょう。
 癒やしの奇跡の出来事の多くが、「ご覧になって」、「深く憐れまれて」と主イエスから声をかけられているのに対して、この人は憐れみを乞う前に主イエスの意思を尊重しています。御心ならば…と、あなたがそうしようとお思いになるならばと、憐れみをこいねがう相手に対する深い信頼を込めて願い出ています。そこには自分には理解できないことでも、不可解なことであっても、神の深いご計画が隠されているならばそれを引き受けます、あなたは決して不幸のままに終わらされないからですという信頼、信仰が込められているのではないでしょうか。

 病気の時、「祈ってほしい」という願いの中には、早くよくなるように、信仰があれば癒やされる…と慰めや励ましを求めていることが多いように思えるのです。医学的に見込みがないとご本人も知っていても、奇跡を願う思いはどこかにあるように思うのです。事実、末期がんから生還した方もいらっしゃいます。信仰があれば治ると思いたいのではあります。治りたい、治る、でも治らない、という時の葛藤は、信仰を持っている場合と、そうでない場合は違ってくると思えるのです。
 そのような葛藤を主イエスはゲッセマネの園での祈りを通してご自分のものとされています。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」
 病気が治る、治らない、願いが叶う、叶わないは本人にとって大きな問題であることに間違いないことです。病気の子どものために祈ってほしいと願った方は、「御心のままに」という祈りに悲しい思いをされたと語られましたが、その方にとって「御心でしたら」という言葉をずっと思い巡らされていたのでしょう。そこから、主イエスの御意思がどこにあるのか、何であるのかを問う、新しい信仰の歩みをされていったのではないかと思えるのです。その時は受け止めきれなくても、じっと見守って下さっている憐れみの中に置かれていることを信じてゆきたいと思うのです。

エッセイ「命のことば」 伊藤早奈

㉓「寄り添って」

私はあなたを胎内に形づくる前から知っていた。/母の胎より生まれ出る前にあなたを聖別していた。/諸国民の預言者としたのだ。」(エレミヤ書1・5協会共同訳)

 「あの時もイエス様が共にいらしてて私は一人ではなかったんだ。」と最近やっと気づきました。
 私は二十数年前2週間ほど検査入院をして今の病気がわかりました。入院中はずっと一人だと思い孤独で孤独でいつも誰かに話を聞いて欲しくてどうしようもありませんでした。自分の体が変で調べて欲しいから病院に行ったのにいざ検査入院となると毎日毎日検査続きで、多い日には検査が1日に3種類も4種類も行われて、いったい自分の体で何が起こっているのかと不安で眠れない毎日でした。孤独を感じる時、そうなる人は多いような気がします。でもお医者さんも看護師さんたちも忙しそうで話を聞いて頂くどころではありませんでした。漠然とカウンセラーの方なら話を聞いて下さるのかなと思い後々学びに入ります。
 「イエス様はいつもあなたと共におられます。」と私は神様から今語られ伝えております。そう言う今の自分と過去の自分が最近自分の中で出会いました。私が検査入院で孤独を感じ誰かに話を聞いて欲しかった時もすでに私と共にイエス様がおられて私の心を聴いて下さっておられたのだと今は思えるのです。
 いつもあなたと共にイエス様がおられます。あなたは決して一人ではありません。

議長室から 大柴譲治

sola gratia〜母の胎にいる時から

「私はあなたを胎内に形づくる前から知っていた。/母の胎より生まれ出る前にあなたを聖別していた。/諸国民の預言者としたのだ。」(エレミヤ書1・5協会共同訳)

 パウロは自らの召命をエレミヤと重ね合わせています(ガラテヤ1・15)。ダマスコ途上で復活の主に呼び止められて劇的な回心をするまでパウロはファリサイ派の若きリーダー、キリスト教の迫害者でした。彼は最初の殉教者ステファノの死にも立ち会っていた(使徒8・1)。自らを「罪人の頭」(一テモテ1・15協会共同訳)と呼ぶ背後にはそのような苦い思いもあったのでしょう。しかしキリストと出会ってパウロは全く新しい人間に生まれ変わります。ローマ書で言えば7章から8章への劇的な転換を体験したのです。キリストとの出会いがすべてを不可逆的に反転させた。彼は記します。「私はなんと惨めな人間なのでしょう。罪に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか」(ローマ7・24協会共同訳)。それに続けて神を讃美します。「私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝します」(ローマ7・25協会共同訳)。この二つの節の間には人間には乗り越えられない深淵がある。それを向こう側から乗り越えてくださったお方がいる。キリストと出会ったこの喜びは生涯彼を捕らえて放すことはありませんでした。フィリピ書3章には彼のキリスト以前と以後の価値の転換が告げられています。かつて「利益」と思っていたことはすべて「主イエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさ」に色褪せてしまった(3・8)。「キリストの真実(ピスティス)」によって義とされたパウロはその根底から新たにされたのでした。そこから遡ってすべてを振り返った時にパウロに見えてきたもの、それは自分が母の胎にある時に既に恵みの神によってコールされ祝福されていたという根源的な事実でした。神は「母の胎にいるときから私を選び分け、恵みによって召し出してくださった」お方なのです(ガラテヤ1・15協会共同訳)。
 個人的なことですが私の名はその誕生日に由来し米国初代大統領から取られました。外国でも通用する名をという父の願いもあったようです。漢字は母の好きだった童話作家・坪田譲治から取られました。「譲り治める」という意味の名を私自身は気に入っていますが、大統領とは何と大それたことかと思います。総会議長のことを英語ではPresidentと呼ぶので今は不思議なシンクロを感じています。「命名」は天からの祝福を願う親の「祈り」の行為です。既に母の胎にいる時に私たち一人ひとりは神によって召し出されている。「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」という神の確かな声が一人ひとりの魂底には今も響き続けているのです。

「教会讃美歌 増補」 解説

⑳増補11番「神はほめたたえられよ」・増補12番「喜べ教会よ」
讃美歌委員会 日笠山吉之 (札幌教会牧師)

増補11番「神はほめたたえられよ」

ルターの『小教理問答』の中には、ご存知のように「十戒」「使徒信条」「主の祈り」がありますが、聖礼典である「洗礼」と「聖餐」も含まれています。それら『小教理問答』の内容を賛美歌としても歌えるように整えた一連のコラールは〈カテキズム・コラール〉と呼ばれていますが、11番もその一つ。聖餐のコラールです。ルターは、14世紀頃から既に歌われていた歌詞を第1節としてそのまま残した上で、2節と3節を新たに書き下ろしました。主イエスの体と血が、ほかでもないこの私のために与えられた恵みであることを覚え、心に刻もう、と歌われる第2節。それゆえ、隣人と共に私たちを御子の道に歩ませてください、聖霊を注いでください、と祈る第3節で締めくくられます。各節で2回ずつ歌われる「キリエレイソン」が印象的ですが、旋律はルター自身によるものではなく、14世紀から歌われていたものだと言われています。

増補12番「喜べ教会よ」

このコラールは、歌詞が10節まであることにまず驚くかもしれません。全節を歌っていたら礼拝が長くなってしまうよ…とぼやく牧師は、自らに与えられた説教時間を短くしてでも全節を歌う価値があると思います。なぜならルターが書いた歌詞は『ローマの信徒への手紙』に基づき、極めて神学的に、かつ信仰的に整えられているからです。まず第1節は「喜べ教会よ」と全キリスト者への呼びかけで始められ、神の救いの御業が成し遂げられたことを賛美します。続く第2節と3節では一転して、罪人である人間の行いの空しさが指摘されます。すると、神の憐れみに目が向けられ(第4節)、神が御子を派遣する約束をし(第5節)、御子の降誕と受肉が語られます(第6節)。第7節以下は、御子イエスが語られた恵みの御言葉です。このように見ていくと、どの節とて省くことができないことがお分かりいただけるでしょう。全節通して歌うのが難しいなら、1〜3節、4〜6節、7〜10節と分けて歌うことも可能かと思います。旅人が口ずさんでいた歌をルターが聞き取ってアレンジしたと言われる旋律も、明朗で歌いやすいものとなっています。

世界の教会の声

浅野直樹Sr(世界宣教主事 市ヶ谷教会・スオミ教会牧師)

ルンド カトリックとの出会いから5年

  宗教改革500年記念(2017年)に先駆けて、2016年の宗教改革記念日(10月31日)にルーテル世界連盟(LWF)とカトリック教会の共同主催で宗教改革500年記念礼拝がスウェーデンのルンドで開催されました。ルンドは、LWF第1回総会の開催都市だったことからLWF発祥の地として知られ、今回の記念礼拝会場に選ばれました。
 500年記念礼拝のときもそして今もなおルンド教区の監督として、この歴史的事業に携わってきたのがヨーハン・テュールベルイ氏です。あれから5年、両教会のエキュメニカルな関係がルンドをどう変えたのかを振り返ったLWFによるインタビュー記事の一部を紹介します。

(参考記事のHP)

—合同記念礼拝の2年前からすでにルンドの監督でいらっしゃいましたが、あのとき以来何か変化はありましたか。

 前日の2016年10月30日が日曜日で、その日のカテドラルの礼拝は、当日以上に感動的で心に残りました。というのはカトリック教区とルーテルのルンド教区が、ルンドのカテドラル(ルーテル教会)で礼拝の最後の部分を一緒に守ったのです。これはその後もずっと話題になりました。
 ルンドのカトリック教区とルーテル教区が共同で作業しましたから、大いに変わりましたね。今でも時々日曜日に夕べの祈りや礼拝を合同でしています。もちろん聖餐式はできませんが。気候を覚える巡礼日といった特定の日に、いっしょに祈るようになりました。また私たちの教区では、晩祷でカトリック形式を用いるようになりました。これもまた隣人に一歩近づく方法なのです。相手にこうしてくださいと私たちのやり方をお願いするのではなくて、私たちが彼らのやり方を取り入れて祈ることです。こうすることで隣の扉も開き、近づいていけます。
 カールスクローナではルーテル教会が所有していた住宅をいくつかカトリックに売却しました。それによってそれまで郊外にあったカトリック教会が町の中心部へと移りました。こうしたことも2016年の合同礼拝があったからこそ実現したのだと思います。ルンド以外の教区ではさほど大きな変化は今のところありませんが、エキュメニカルな働きへの理解は広がったといえます。
 私たちの教区が位置する地域にはカトリック教会の男性修道院が六つありますが、そのうちの四つはエキュメニズムへの関心もとても強く、快く訪問者を受け入れてくれています。ルーテル教会地区の訪問者が以前よりも増えたと思います。
 もうひとつ私が気づいた変化は、ルーテル教会が若者たちのコミュニティとしても成長していることです。一定期間たとえば半年あるいは2年、3年というスパンで彼らが教会活動に参加するようになりました。カトリックとの合同礼拝が影響してそうなったのかどうかはわかりませんが、確かにそうした変化が起きています。若者が人生を真剣にみつめ始めるうちに、教会活動にも主体的に関わり祈るようになったからではないでしょうか。

東教区第26回宣教フォーラムスピンオフ版報告

2021年11月20日(土)
「信徒の信徒による信徒のための宣教フォーラム」
テーマ「コロナ禍で、信徒みんなで考えるルーテル教会の将来像」

第26回宣教フォーラム準備委員会委員長 田村忠夫(藤が丘教会)

 昨年は、コロナ感染の拡大によりやむなく休止となったフォーラムを今年は何とか実施できないかとフォーラム委員会では話し合いを重ね、初の試みとしてWeb開催をいたしました。
 今回の「宣教フォーラムスピンオフ版」の大きな特徴は、アンケート項目(第58回東教区定期総会で示された「教区長報告」及び「東教区宣教方策〝新しい教会をめざして〟」を受けて)を信徒が作成し信徒へと問いかけたことではないかと思います。それは、今まで行われてきた教職から信徒へとの取り組み方法から、新たなる一つの手立てを見出すためのアンケート調査でもありました。そこで、まずは信徒皆さまの気持ちを広く知り、その得られた結果から今の置かれている東教区の現状に対し、信徒は何が出来るのだろうか、また何が出来ないのかを把握できたらとの願いを込めたものでした。
 お陰様で、多くの方々のお力添えにより予想以上の回答を得ることが出来ました。この貴重なアンケート結果を丁寧に考察して、現状課題への不安感を解消しつつ平安の内に日々の信仰生活を歩み続ける一つの道筋として、今後の進むべき方向性を教職・信徒と共に見出すことへ活用できたらと思っています。
 調査結果の中で特に注目したのは、「『各個教会主義の脱却、これからは他の教会との協力なしには教会形成が難しくなる。』についてはどのようにお感じになられますか。/協力に賛成/協力にやや賛成/協力にやや反対/協力に反対/考えたことがなかった/その他」という設問に対しての回答率です。協力に賛成75・8%、協力にやや賛成13・6%と二つを含めると89・4%(11月20日現在)ほぼ9割の方が何らかの教会間の協力が必要であると捉えており、現状を打開する大きな手立ての一つとして見ていることが解ります。そこで信徒自らは、今後教会間の信徒交流へ前向きに取り組むことで現状改善への小さな力であるかもしれませんが、寄与することができるのではないでしょうか。ゆっくりとした歩調であったとしても、教会間の信徒交流の輪が広がってゆく事を切に願っています。
 今回の新しい挑戦(アンケート実施とオンライン開催)を期に、毎年実施されています宣教フォーラム活動が皆さまの思いや願いに沿いながら、更に豊かな活動へと繋がってゆくことを思っています。

オンライン全国教師会退修会報告

西川晶子(全国教師会相互扶助会会計・久留米教会・田主丸教会・大牟田教会牧師)

 なかなか出口の見えないCOVID―19の影響下にあって、これまで約3年に一度行われてきた全国教師会の退修会も、2017年の宗教改革500年記念の年を最後に、共に集う形での開催は見送られています。そのような中、やはりたとえ画面越しでも同労の牧師が顔を合わせる機会を持つことができればと、Zoomを用いたオンライン全国教師会退修会が2021年11月11日に開催され、全国から約60名の教師の参加がありました。
 立山忠浩教師会長による開会礼拝に始まり、今春引退される3名の先生からのご挨拶、そして「宣教、礼拝、聖餐、伝道牧会」という視点で、現状での取り組みを小勝奈保子牧師、ポストコロナに向けての展望を池谷考史牧師より、それぞれ発題していただきました。その後、発題を受けての年代別グループでの協議の時間が設けられましたが、その中で、お互いの取り組みやポジティブな成果だけではなく、難しいと感じるところを分かち合えたことは有益でした。たとえば、これまで顔を合わせて共に礼拝していたものが突然インターネット越しになり、それに伴う礼拝メッセージの内容や伝わり方の変化、また共に集うことが難しくなる中での教会運営の難しさなど、この2年間、同労の先生方が同じような難しさを感じつつ歩んでいたと知ることができただけでも、励まされました。
 退修会は3時間ほどでしたが、そのあと夕方から、自由参加の懇親会も行われました。懇親会では、世代に関係なく集まることのできるメインルームのほか、「按手年代別の部屋」や「若手教職の部屋」、「女性教職の部屋」が設定され、自由にその間を行き来できるようになっていました。「女性教職の部屋」は、私が個人的に必要性を感じて作っていただいた部屋ですが、普段、何かを相談したくとも地域的な距離もあってなかなか機会が取れなかった先生方と、ゆっくりお話しできる貴重な機会でした。
 今回の退修会は短い時間でしたが、画面越しであっても久しぶりの方々と顔を合わせることが、自分でも意外なほどに嬉しく感じられました。逆に言えば、オンラインの交わりでも嬉しく感じられるほどに、交わりの機会から遠ざかっていたということでもあります。また、やはりオンラインでは、インターネット環境などの都合で参加が難しい教師もおられましたので、また直接顔を合わせてお会いできる日が、一日でも早く訪れることを願っています。

北海道特別教区発行『み言葉に生かされて』の紹介

岡田 薫(北海道特別教区書記・財務部長・帯広教会牧師)

 長引くパンデミック下において、北海道特別教区では「主の祈りを祈りましょう」というキャンペーンを2020年の復活祭より続けています。主日礼拝ですらままならない時もありましたが、祈りをあわせ知恵と工夫を凝らしつつ共に励ましあいながら過ごしてきました。教区の財政的な支援もあり、それぞれの礼拝堂にはオンラインのための機材が備えられ、礼拝の配信だけでなく各地をつないでの集会や合同の聖書研究など新たな取り組みも進められています。
 2021年4月29日には各教会をオンラインでつないでの「春の集い」を開催。直前に感染再拡大のため札幌近郊では礼拝堂に集うことができなくなり、急遽集えるところは礼拝堂、集えない所はご自宅から参加という形式に変更せざるを得ませんでした。全道から40名ほどが参加し、それぞれが大切にしてきたみ言葉と、そのみ言葉にまつわる出会いや想い出を語りあい、短い時間ではありましたが実に豊かなひと時でした。
 しかしながら、オンラインの集まりに対応できず、参加が適わない方がおられたことも事実です。この溝を埋めるにはさらなる知恵と工夫が必要だ、ということで常議員会では協議の結果、この時に集約された愛唱聖句カードと、その後にそれぞれの教会で集めた愛唱聖句カードをひとつの冊子にまとめ発行することといたしました。嬉しいことに、各教会からたくさんの聖句が集まり100名を超える仲間たちの愛唱聖句と想いを束ねた小冊子が完成しました。
 編集長である小泉基教区長のセンスの光る明るい小冊子は、実りの秋に各教会に連なるみなさんへと配布されました。手にされた方々からは「お一人おひとりのお顔を思い浮かべながら毎日読ませていただいています。」「聖句やコメントを通して皆さまの証しを聞く思いです」などの感想も寄せられています。特に長期にわたって外出を控え、礼拝に出席できずにおられる方にとっては、手に取って繰り返し読むことのできる小冊子という形態が良かったようです。み言葉に添えられた想いは、短いひと言であっても、今この時の一人ひとりの生きた信仰の言葉。未だ一堂に会することが難しい中ではありますが、み言葉に生かされ、祈りに励まされつつ、共に歩んでいる恵みをわかちあう体験となりました。

第7次綜合方策の紹介⑽

事務局長 滝田浩之

■方策本文より

第7次綜合方策主文
7.神学教育

⑴神学校(神学教師)
 牧師養成が教会宣教にとって重要な役割をこれまでも果たし、これからも果たすものであることを改めて確認する。よって神学校として必要な、その中心的な働きを担う神学教師の後継者については、教会全体の課題として取り組む。また教職の現任教育について、信徒の研修について共同してこれを行う。

⑵機関維持(大学経営)
  牧師養成を行う神学校を継続していくためにも、大学の経営状況について教会は大きな関心を持つ。経営が適切に行われ、機関維持を行う責務は、大学にあると共に教会の課題であると認識する。これまでも三者協議会、神学校・ルーテル学院大学委員会、神学教育委員会などで密接にこれに関与してきたが、今後もこの関係を堅持する。

⑶神学生
 神学生を生み出す責務は、教会にあると理解する。今後も神学校と連携しつつ、具体的な施策を行う。

8.世界宣教
⑴海外教会

 共にキリストにより宣教に派遣された教会として、変化する世界状況の中で、関係海外教会及びLWFとのパートナーシップを堅持しつつ、世界宣教に参与する。

⑵アジア伝道
 ブラジル伝道の終了に伴い、アジア伝道に取り組むために、LWF、ELCA及びJELAとの連携を図りつつ、共同事業の可能性を探る。

9.エキュメニズム
⑴日本ルーテル教団(NRK)

 「聖餐と講壇の交わり」を持つ日本ルーテル教団とは、神学教育を中心に宣教協力を整えてきた。今後は、教会数減少も加味しつつ宣教協力をより一層進めていく。

⑵カトリック・聖公会
 カトリック・聖公会とのエキュメニズムの対話は、1967年以来、100回を数える。1989年にはカトリックとの間で「洗礼の相互承認」、1994年には聖公会との「洗礼の相互承認」が行われたことを歴史的な事柄として受けとめ、この延長線上に長崎におけるカトリックとの共同礼拝、そして今後の展開があることを確認する。

⑶NCC等との連携
 NCC、外キ協、マイノリティー宣教センター、キリスト教カルト問題連絡会、ACT-JAPANフォーラムなどエキュメニカルな働きをリソースとして活用しつつ、連携をしていく。

■解説
 宣教の内容、担い手が確認されたところで、それをリソースとして支える働きが確認されます。
 それが神学教育、世界宣教、エキュメニズムです。
 宣教の重要な担い手である牧師を育てる神学校の働きが大切なことは誰もが合意頂けることと考えます。またこれまでも教職神学セミナーにおいて教職の継続教育が行われてきましたが、今後は一層、この働きを強めていく必要があります。28期では卒業後5年以内の教職については、教職神学セミナーへの参加に対して補助を行うなど、卒業後の振り返りとリフレッシュを促しているところです。ルター派の教派神学校として神学教師の後継者については教会が派遣する責任があることは言うまでもないことです。またこれを支える学校法人を支えること、その課題を共有していくこともまた教会の役割と考えます。何よりも神学生を生み出す責任は、個々の教会、教区、全体教会にあることは繰り返し確認していく必要があります。神学校、神学教育委員会は、ここ数年「オープンセミナリー」を開催しています。
 神学教育が宣教の支え手であることは自明なこととして受けとられることと思います。しかし同じ大切さに、世界宣教、エキュメニズムがあることをしっかりと把握したいと思います。日本福音ルーテル教会は、海外の教会からの宣教によって生み出された教会であることはすでに確認した通りです(七つの宣教団体)。そして今も、私たちはLWF(ルーテル世界連盟)に参画しながら、世界宣教という大きな枠組みの中で宣教を担っているということに目を留めたいと思います。同じようにエキュメニズム、他のキリスト諸教会、諸団体と共に手を取り合って宣教を担っているのです。日本ルーテル教団は神学教育を共に担うパートナーです。カトリック教会、聖公会、NCC(日本キリスト教協議会)は神学的も宣教的にも共働の働きを担うパートナーです。
 これらの支え手を通して、私たちはいつも二つのことを教えられています。一つは、私たち日本福音ルーテル教会がキリストを宣教するという時、それは世界中の教会に祈られている働きであるということです。そしてもう一つは、私たちはいつも共に宣教を担うパートナーを通して、自分たちの宣教を見直す機会を与えられているということです。私たちの宣教は、キリストから託された独りよがりなものではないということ、同時に、私たちの宣教が独りよがりなものになっていないかという点検が、これらの支え手との関りを通して教えられるのです。支えられるだけでなく、私たちはこれらの働きに貢献することができる喜びも与えられていることを覚えたいと思います。

2021年度「連帯献金」報告

 2021年度も多くの方々から「連帯献金」に支援を頂きました。感謝して報告いたします。(敬称略・順不同、複数回の献金もまとめての報告となります。)

■災害支援 181,069円
国府台母子ホーム、神水教会、阿久根教会、JELA

■ブラジル伝道 40,149円
小城ルーテルこども園、箱崎教会女性の会、東教区女性会

■世界宣教(無指定) 375,634円
久留米教会(岩切華代、光延和賀子、原真理、里村朝子、宮原家、西川晶子、在津恵美子)、小澤周司、千葉教会、NRK福島いずみルーテル教会、箱崎教会(らぶぴコンサート席上献金)、角田健、大柴譲治、内山大地、大阪教会、シオン教会柳井礼拝所(一粒の麦・女性会)、岐阜教会、重野了子、小岩教会、帯広教会、小岩教会ルーテルキッズ、千葉教会、学校法人札幌ルター学園めばえ幼稚園、日吉教会、匿名献金

 今年度も、社会・世界における福音の宣教、奉仕、災害・飢餓に苦しむ方々に連帯したいと祈り願います。「連帯献金」をお捧げくださる際には、それぞれの献金目的[ブラジル伝道][喜望の家][メコンミッション][世界宣教][災害支援]を郵便振替用紙に明記頂き、下記の郵便振替口座にご送金ください。
郵便振替 00190−7−71734
加入者名 (宗)日本福音ルーテル教会

「聖書日課」購読のお勧め

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*2021年10月より聖書日課事務局が移転いたしました。

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