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るうてる2006年

るうてる《福音版》2006年8月号

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バイブルエッセイ「一枚の木の葉」

 神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。
ヨハネの手紙一 4章16節(日本聖書協会・新共同訳)

 一枚の木の葉が、強烈なインスピレーションを与えてくれたことがある。何の変哲もない桜の葉だった。人は何のために生きるのか、だれもが抱くような疑問に取り憑かれて悶々としていた。高校2年の頃だった。列車通学をしていたが、降りるべき駅で降りずに数駅後で降車し、河原で1日やり過ごすこともしばしばだった。河原では表題に「無」がつくものを手当たり次第に読んでいた。たとえばサルトルの「存在と無」。読んでも、ちんぷんかんぷんだったが、何かがあるかもしれないという期待だけが、歯が立ちそうもない本にかじりつかせていた。
 ある日列車は、とある田舎の駅に停車していた。田舎の駅に桜の木はよく似合う。よくある光景だ。古木が多く1本1本に風格がある。もう桜の季節も終わっていた。花が散れば、古木もみずみずしい葉でよそおわれる。
 その日もぼんやりと外を見ていた。今日は学校に行こうか、河原ですごそうか。そんなわたしになぜか一枚の葉っぱが、圧倒的な存在感をもって迫ってきたのだ。時折風にそよぐ一枚の桜葉―自分は今何のために生きているかわからなくなって悶々としている。でも、静かに風にそよいでいるこの一枚の葉の、何と軽やかなこと。インスピレーションがわたしをとらえたのは、そう思った瞬間であった。とどまっている。何か大きな大きな命にとどまっている。だからこそ、一枚の木の葉も、こんなにも軽やかなのだ。風とたわむれ、また静まり、また風とたわむれる。大きな大きな命がある。すべての存在の背後に大きな命がある。そのひらめきは、わたしを全宇宙を理解したかのような気分にさえしてくれた。人間が混沌としているのは、自分がとどまるところを知らないからではないのか。人は前に前に進もうとする。人は更に更に超えていこうとする。人は高く高く伸びようとする。でもなぜそうするのかは知らない。
 考えてみれば、自然のことをオノズカラシカリと書く。天然自然という言葉もある。これは天の然り、自ずから然りという意味ではないか。何か大きな命にとどまっていて、その然りをうけてそににあるもの、それが風にそよぐ一枚の葉なのだ。むろんそのときはここまで整理して考えたわけではない。インスピレーションで、これらのすべてを感じ取っただけだった。
 そのときまた、世界史の授業でならった、キリスト教徒の殉教者たちのことが心に浮かんだ。彼らも何かにとどまり続けて喜んで死んでいった。獅子の餌にされて死んでいった。何か自分を超えた大きな大きな存在を知っていたのだ。
 その日は、高揚した気分で、授業に出た。休み時間に友達をつかまえて、一気にそのインスピレーションを語ったが、友達はきょとんとしていた。帰りに、中学校の側にあった小さな教会を訪ねてみようと決意していた。
k.S

心の旅を見つめて  堀 肇

「引き延ばされた青年期に寄り添う」

成人した青年たちの悩み
キリスト教の人間観を土台にした「心の相談室」を設けてもう15年に近くなります。主として家族問題の相談を受けてきましたが、近年の特徴は既に成人となった子どもを持つ親御さん方からの相談が多いということです。
 「息子は就職活動で立ちすくんでしまい、大学卒業後はアルバイトを転々とし、小遣いくらいは稼いでいましたが、今はそれも止めて家で引きこもっています」、「娘は一流企業に就職したのですが、人間関係のストレスで退職し、今は何をしていいか分からず悶々としています」といったような相談です。
 これらは一例に過ぎませんが、これと似たようなケースが非常に多くなっており、中には人間関係そのものを拒絶し、社会生活から全面的に撤退してしまういわゆる「引きこもり」の相談も減りません。また近頃では何もしようとしない「ニート」(好きな言葉ではないのですが)と言われる子どもたちの問題を抱えている家族のカウンセリングも増えてきました。
単純でない現代の青年期
いったいこの時代の青年たちの心に何が起こっているのでしょうか。これは生産性至上主義・効率主義の社会を競って生き抜いてきた大人たちにはなかなか分かりにくいことの一つです。特に苦労してきた人たちからは「甘えている」、「自立心の欠如」、「大人になれない若者」と批評されますが、外側から見れば確かにそう言いたくなるような現象だろうと思います。
しかし事はそれほど単純ではないのです。こうした現象がここ十数年のうちに急増したということは、いわゆる「青年期」なるものの性質がかつてとは著しく異なってきており、青年から大人への移行に非常に時間がかかるような社会・文化的な背景があるということなのです。また、これには90年以降の長引いた不況のため希望する仕事につけなくなってしまったという社会的事情も重なっています。このように現代の青年たちは自己の確立や職業的アイデンティティを確立しにくい時代の中に置かれているのです。
アイデンティティ形成を援助
もちろん、こうした時代の中でも引きこもりやニートとは対極にあるような自己実現に向かって頑張っている青年たちも多くいます。しかしそのような人たちであっても価値観が多様化しているこの時代の中にあって、今の自分でいいのだろうかという迷いを感じている人もいるのです。転職や方向転換を視野に入れたようなライフスタイルも珍しいものではありません。これは人知れず「本当の自分自身」を捜し求めているということでもあるのです。こんなわけで現代の青年期は大変引き延ばされているのです。
これがよく理解できない親たちは、つい「自分たちの若い頃は」となってしまいます。しかし、こうした事情は見方を変えれば大人たちが経済成長の中で残した精神的課題に直面し、体を張って苦しみもがいているということでもあるのです。家族問題を例にとれば、子どもたちは親の「影」の部分を苦しんで生きているのかもしれません。こう考えますと「うちの子は」とか「今の若者は」などとはとても言えなくなります。
では大人たち・親たちは何ができるのでしょうか。それは「困った若者論」を論ずることではなく、高度成長時代が生み落とした歪んだ価値観などの故に自尊感情を喪失している青年たちの気持ちに寄り添い、生きることへの自信と希望を与えることではないかと思うのです。時間がかかっても彼らのアイデンティティの形成を援助するのが、この時代の大人たちに課せられた努めの一つではないかと私は思っているのです。それは宿題のようなものかも知れません。

堀 肇(ほり はじめ)/鶴瀬恵みキリスト教会牧師・ルーテル学院大学非常勤講師・臨床パストラルカウンセラー(PCCAJ認定)

HeQiアート

Ark of Noah , by He Qi, www.heqiarts.com

「アブラハム、イサクをささげる」

  神は命じられた。
 「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤに地に行きなさい。私が命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。
 ……神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばし刃物を取り、息子をを屠ろうとした。
創世記 22章2節、9~10節

たろこままの子育てブログ

「寄り添うとき」

喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。(ローマの信徒への手紙 12章15節)

 赤ちゃんや子どもを連れ立ってバスや電車を利用するようになると、不思議と隣り合わせた人に話しかけられるようになった経験はありませんか?
私もそうです。特に意識はしていないのですが、見知らぬご年配の方に笑顔で「坊や、いくつ?」「どこ行くの?」とよく話しかけられます。気がつくと相手の孫自慢の聞き役に回されることも多いですが(苦笑)、若い人が話しかけてくることも珍しくありません。
先日バス停で出会った少女もそうでした。
こちらが時間を尋ねたのがキッカケだったのですが、彼女は人なつこく、そのうち今私たちが住んでいる付近に昔住んでいたと教えてくれました。
そこは児童養護施設だったそうで────彼女は高校を出るまでそこにいたことなどを突然ぽつりぽつり語り出しました。 「そっかあ、色々あったんだね、大変だったね。でもあなたはスクスク育って良かったね。エラいよねえ、小太郎もそう思わない?」
腹話術のように小太郎を操りながら少女に答えることしばし。目的のバスに乗り込むと互いの席は離れたものの、先に下車した私たちに彼女は窓から大きく手を振ってくれました────互いが見えなくなるまで。
他にも、大きい割に体が不自由な小太郎を見てか、電車の降り口で、自分も脳に病を持ち、手帳も持っていると話しかけてきた女の子もいました。出口に着くまでに今までの苦悩や未来への希望までさらけ出してくれたのを受けてふと思ったのです。  「ああ、喜ぶことも泣くことも、特に大げさなことは必要ないんだな」と。そして「涙に暮れた出来事も誰かと分かち合うときに悲しみだけで終わらないのだな」と───。
 幼少の頃「人に嬉しいことを話すと喜びが倍に、悲しいことを話すと悲しみは半分になるよ」と言われたことがありますが、一期一会なそのときも、必要なことは言葉数ではなく、相手にうんうんと寄り添う「共感」なのかもな、と思った次第です。

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