信じる人の基準
イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイによる福音書9・9~13)
「自分の好きな単語と、嫌いな単語を一つずつ挙げるなら何ですか?」ある有名な人がこう質問される場面を見ながら、面白い質問だなと思い、自分なら何と答えるだろうと考えたことがありました。
好きな単語はいくつも候補が思い浮かびましたが、自分が嫌いな単語は意外とすぐに絞られました。私の中では「先入観」もしくは「偏見」がそれです。
外国での生活がそう思う原因なのか、先入観や偏見に苦しんだことがあったのか、あるいは先入観が自分の成長を妨げると感じたのか、とにかく私は「先入観」という概念を嫌う一人でした。しかし自分ではそう思うものの、私もある種の先入観に囚われている一人に過ぎないことも認めざるを得ません。厳密に考えれば考えるほど、そうです。
私たちはこの世に生まれた瞬間から、ある人種、ある民族、ある国に属する一人となりました。決してすべての世界を公平に見渡すことは出来ず(一生出来ないかもしれない)、限定された地域、社会、文化の下で、さらに自分が誰と触れ合って、どういう教育を受け、どういう価値観と情報に影響されたかによって、自分のアイデンティティや自分の考えを持つようになります。
その意味で、私たちが世界や他者を見つめる場合、その殆どは自分が置かれた立場からそれらを見つめることであって、自分以外の視点から物事を考えることはなかなか難しいことかと思います。だから私たちは自分を超えた視点として神を求めているのかもしれません。
私はマタイ福音書9章の記録を、神から遣わされたイエスが世の人々の思い込みを引っ繰り返す物語として読みます。
その時代や場面では周囲から優れた人間として見られ、自分たちもそう自覚していたファリサイ派の人々、そしてその真逆に、人々から軽蔑される立場として徴税人や罪人と呼ばれていた人がいました。本当は彼らがどのような原因で悪者とされていたのか、なぜ悪者なのか説明がつかないのが、この世の現実かもしれません。
その中で、イエスは敢えて罪人と呼ばれる人々の方に行かれ、彼らを招き、彼らの友となります。それがイエスを通してこの世界に示された神のみ心であり、憐みです。しかしその姿を見ていたファリサイ派の人々は理解できず、イエスを受け入れられません。彼らの基準では、徴税人や罪人が悪いのは当然であり、その徴税人や罪人と一緒にいるイエスも、彼らにとっては優れた先生ではなく、疑わしい存在なのです。その基準は、神の名を借りているけれども彼ら自身であり、あくまでも正しいのは自分たちだからです。
私たちに届いている福音は、一時の限られた人々の判断ではないからこそ、私たちに普遍的な、不変の光を与えます。そしてそれが人間によるものではなく、神からのものであるからこそ、私たちには赦しであり、世にあって私たちを縛るものではなく、自由をもたらすものとなります。
神を信じるとは、まさに人知を超えている自由な神のみ心と導きに私たちを任せることです。場合によっては自分が担っていた自分の思い、世の事情がつくりあげてきた思いなどを降ろさなければならないでしょう。神の思いは私たちのそれをはるかに超えていて、自由で、しかも憐みに満ちているからです。
もしも今と違う立場に置かれるなら変わってしまうかもしれない自分の思い、あるいは時間が過ぎ、状況が変わったら今のままではないかもしれない世の様々な思い。私たちの心の基準となるものがどれなのかによって、私たちの命の姿も変わっていくことでしょう。
「わたしに従いなさい」。あのとき徴税人マタイを呼ばれたイエスの招きと憐みは、み言葉と聖霊の働きを通して今の「私」にも、ひょっとしたら自分の思いで好きではない「あの人(たち)」にも届けられているものかもしれません。
自分の思いではなく、神のみ心に生きる。別の意味での「信仰のみ」、新たな改革です。
ルーテル学院中学・高等学校 チャプレン 崔 大凡