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機関紙るうてる

るうてる2010年8月号

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説教「キリストと共に山を登る」

「6日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。・・・・すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。『これはわたしの愛する子。これに聞け。』弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。」
(マルコによる福音書 9章2節~3節・7節)

この聖書の個所はペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子が主イエスと共に山に登った時の出来事を伝えるものです。この山での経験により、キリストのみ言葉をよく聞きながら信仰の道を歩むことの大切さを弟子の三人は教えられました。
 昨年11月にNHK出版が出した本で、「未来をつくる君たちへ 司馬遼太郎作品からのメッセージ」というのがあります。この本の中で、ジャーナリストの立花隆が『世界を見る目を持った緒方洪庵』という章の中で小学生・中学生の子供たちに「社会に正解のない問題ばかりがある」ということを説いています。
 「僕がいいたいことは、自分や世の中の未来はだれもわからないということです。・・・不確定な未来の社会と、自分の将来とをどうすり合わせていくかということが、とても重要なことになります。それを行うには、学校の勉強はそれほど重要ではありません。なぜなら、学校で教えることは全部正解が分かっているからです。 しかし、社会では正解のわからない問題が次々と出てきます。学校で教える勉強というのはあらかじめ答えが決まっていて、それをきちんと答えられればよいというものです。いってみれば、先生の頭のなかにある答え探しです。これが上手にできれば学校の成績は上がります。そういうのを『学校秀才』といいます。
 しかし、学校秀才が本当にこの世の中の秀才、成功者というと全然そうではありません。現実の社会というのは、すべての面で正しい答えがなにかわからないものです。社会に出て必要な能力というのは、正解がわからない問題にぶつかったときでも、自分なりの答えを見つけて行動する能力です。正解ではないかもしれないけれども、みんながよいと思える答えを自らがみつけていくことが必要とされているのが現実の社会なのです。
 とても、重要なことは、今の社会がものすごく急激に変化しているということです。だから、これまで以上に学校のテストの点数がよいだけの学校秀才をめざすような勉強をしていては追いつかない時代になりつつあるということを君たちは知るべきだと思っています。」
 もちろん、学力も大切でし、学校でしか得られないこともたくさんあります。 しかし、今日の社会の中では多くの想定外の難問が私たちの人生に突きつけられます。きまりきった考え方では対処できない課題と悩みが私たちの周りにうごめいています。型どおりの対処では次に歩む道を見出すことができません。八方ふさがりの状況に陥ることもあるかもしれません。それでも、私たちは目の前の課題から逃げるのでなく、その先を一歩でも進むための新たなる道を見出さなければなりません。 
 この聖書の個所で彼ら三人とも登る道をあらかじめ良く知っていたのではないと思います。彼ら弟子たちは主イエスを信頼して、主イエスと共に、その山に登ったのです。彼らは先導者ではありません。この主イエスとならば登ってもよいと思って、彼らは共に山に向かったのです。
 これは信仰と同じです。だれも人生の道順を知っているわけではありません。でも、人生の道をそれなりの歩調で登るのです。想定外の問題が降りかかったとしても、主イエスのみ言葉を心に留めながら、冷静により良い知恵を模索し、祈り、人生の道を登って行くのです。そうすれば、必ず、それなりの道が私たちの前に開けてくるのではないでしょうか。
  総会副議長 青田 勇

風の道具箱

逆風満帆

ちょっと早めの秋の話です。小学生の句集「ちいさな一茶たち」には次のような句があります。
 秋の空 やわらかそうな 雲の城
 青い空を眺めていると、心が清々しくなってきます。最近じっと空を眺めたことがありますか。一度ゆっくり眺めてください。  
 かあさんいない 落葉がとんで いくばかり
 この気持ちは、痛いほどわかります。学校から帰っても誰もいない家。本当は学校であったことを一番に話したいのに。その寂しい気持ちを、落葉が飛んでいく音に心を合わせたのでしょうか。私も鍵っ子だったので共感してしまいました。  
 私たちは返事のない辛さはよく知っています。しかし、自分を振り返ると忙しさの中で返事をしないこともたくさんあるます。ここで言葉がほしい、「そうね」という一言だけでもいい。それが帰ってこない辛さはいつまでも心に残るのです。
 人生の逆風のとき、神様はどうでしょうか。そんなときにこそ私たちの問いかけに必ず返事をしてくださいます。まさに逆風満帆です。(柿のたね)

牧師の声 私の愛唱聖句

みのり教会・浜名教会 三浦 知夫

死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。
あなたがわたしと共にいてくださる。
詩編23編4節

 キリスト教の教えは分かりにくい、聖書は難しいというような言葉を聞くことがよくあります。確かに、読むだけでは理解しづらい聖書の箇所、考えれば考えるほど分からなくなってくる聖書の出来事もたくさんあります。けれども、牧師になってから気付かされた、神様のとても明解で、シンプルで、そして、とても重要なメッセージがあります。それは、神様の「あなたと共にいる」というメッセージです。
 主が共におられる、旧約聖書にも、新約聖書にも繰り返して記されていること、また、礼拝の中でも挨拶として繰り返されていることです。 けれども、この「共にいる」という、ただそれだけのメッセージが、どれだけ私たちを励まし、私たちを支え、慰めているかということを、牧師になって教会の方々と出会う中で教えられてきたように感じています。
 主が共にいてくださることは、牧師になる前からも私にとってとても重要なことでした。しかし、これまでの私にはその続きがあったように思います。共にいて守ってください、共にいて力を与えてください、共にいて何々してくださいと、共にいてくださるのは当たり前のことで、その上で何かを願ってきたように思うのです。
 しかし、教会を通しての様々な人との出会いの中で、特に死を迎えようとしている方々との出会いの中で、主が共にいてくださるということだけですべてが満たされるというあり方を教えられてきたように思っています。
 まだまだ、いつもそのような心境になれるわけではないのですが、大切なことに気付かされました。そして、主が共にいてくださるということだけで、すべてが満たされているといつでも思えるようになれたときには、隣人と共にいることもいつでも喜べる自分になっているのだろうと思います。
 主が、あなたと共におられますように。

信徒の声 「全青連」をご存知ですか?

全国青年連絡会代表(名古屋めぐみ教会) 黒野まり子

わたしは、全国青年連絡会(以下、「全青連」)で現在、代表をしています。 「全青連」とは全国のルーテル教会に連なる青年からなる組織です。主に各教区の代表が年に数回集まり、教区の活動報告や悩みを話し、修養会についての話し合い等会議をしています。参加者が元気になって、そこで得たものを持ち帰り、各教区での青年会活動に活かしてもらえればと思っています。
 また、全国の青年や教会員の方々に、全青連や各教区の活動内容を紹介・報告している『アメージンググレイス』という機関誌も年一回発行しています。
 「全青連」は1993年の宣教百年大会の際に、熱い志しを持った青年たちによって発足しました。長い年月を経ていますが、今日に至るまでには困難試練の時もあったようです。それでも今の活動があるのは熱い想いで活動を続けてきた青年や多くの教会員の方々、牧師先生など、教会の皆さまの支えがあったからだと感謝しています。
 私が「全青連」に関わり始めて6年ほどたちます。青年会は流動的だと言われますが、まさにその通りで、各教区でもその年によって中心となる青年の顔ぶれが変わってくるので、活発な年、活動が少ない年など様々です。
 『何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある』(コヘレト3・1)。好きな聖句です。青年が集るようにと、がんばって考えて行動したことが、すぐに実にならずガッカリしたこともありますが、時が経つと、この聖句の通りだと思い知らされることがたびたびあります。私たちの思う「よい」ことではなく、神様の「よい」通りになるのだと、それからは、やることはやりつつも、祈りに任せてみるのもいいのかなと、肩の力を抜くことができるようになりました。
 同世代で集って共に賛美し、話し合うことはとても嬉しく元気になれます。全国でその機会が持てるこの秋の修養会にぜひ多くの青年が参加してくださることを祈ります。
〈第14回全国青年修養会〉は2010年10月9日(土)~11日(月・祝)に、長崎市立日吉青年の家・ルーテル長崎教会を会場に、テーマは「We are PEACE makers」、主題聖句は『イザヤ書』2章4節です。参加費は9000円です。申し込み締め切りは9月5日。
 なお、この修養会は日本福音ルーテル教会宣教室TNG委員会と日本福音ルーテル教会女性会連盟の後援をいただいています。長崎で「平和」について考えたいと思います。あなたの参加をお待ちしています!

私の本棚から

金子大栄校注「歎異抄」岩波文庫

なつかしい書物である。最初に読んだのは、結核で入院していた大学二年生の時、爾来、何十回もくりかえし読んだ。学生たちと読書会のテキストとして使ったこともある。金子大栄校注、岩波文庫で星一つ。暗記している箇所も多い。
 「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」。キリスト者には、当然のことだが、この時代に理を尽くして指摘されたことには、頭が下がる。
 「わがこころのよくてころさぬにはあらず」若い頃、刑事弁護を担当して、被告人が何故この事件を起こしたかを尽きつめて行くと、自分でもこの環境に置かれたら同じことをやりかねないと思うに至ったことも再三ある。私の自戒の言葉である。
 歎異抄は、その後も、私の座右の書として何度も買い替えた、学生時代に病院で読んだものは、ボロボロになり、散佚してしまった。手許にある一番旧いものは、昭和三十年発行、定価四十円とある。これも痛みが激しいので、最近新しいものに買い替えた。
 その他にも、手許には、梅原猛著、歎異抄(全訳注)(講談社学術文庫)、増谷文雄著「歎異抄」(ちくま学芸文庫)、早島鏡正著「歎異抄を読む」(講談社学術文庫)などあっていずれも手軽に入手でき、深く研究したい方には、梅原や早島著の巻末に詳細な「参考文献」表がある。
 キリスト教は、どうしてわが国に広まらないのか、昔からいろんなことがいわれている。奈良時代に入ってきた仏教は、鎌倉時代に、親鸞、道元、日蓮等によって、日本の仏教として確立したことを思えば、「日本化」という巨大な歴史的課題を実現するには、まだ何百年かを要するかも知れない。いずれにしても、わが国のクリスチャンには、ぜひ一度、目をとおしていただきたい書物である。

石原 寛(市ケ谷教会会員)

日本福音ルーテル教会の社会福祉施設の紹介 その5

社会福祉法人慈愛園
児童養護施設 シオン園

前園長 江崎征男

 熊本県荒尾市の市街地から正門を入りますと、緑のエアーポケットに包み込まれます。そこがわたしたちのシオン園です。二つの小高い丘に囲まれ自然がいっぱいの4万9千平方メートル(一万五千坪)の敷地です。 春は桜・菜の花に彩られ、秋は紅葉に染まり、夏は園全体が緑一色となります。遊び・スポーツ・保育・心理ゾーンは平地に、探検・クワガタ・カブトゾーンは山に、生活ゾーンは丘に位置しています。
 「シオン」とは、キリスト教の聖地イスラエルの首都エルサレムの「丘」をさしています。この丘は園内でも太陽の朝日が一番輝くところです。また作物が一番実るところです。神さまに祝福された緑豊かな丘で、子どもたち、職員ともども心癒され、健康を与えられて生活しています。児童養護施設を知る人も知らない人もぜひ一度お訪ねください。
 シオン園は社会福祉法人慈愛園の施設です。前史をたどってみますと、二代目園長余田友久氏の兄で僧職の余田義男氏が「四恩園」として戦争犠牲の孤児救済に着手されていました。その救済事業はクリスチャンで弟の余田友久氏に引き継がれ、慈愛園園長モード・パウラス先生の援助、指導により1948年6月「シオン園」として現在地に創立されています。
 以来62年、行政当局の指導・後援、日本福音ルーテル教会および荒尾教会、基督教児童福祉会(CCF)の精神的、財政的支援は児童養護施設としての機能を充実させてきました。
 2008年11月、60周年記念事業の一環として「子どもの家」を全面的に建て替えました。子どもたちの生活の尊重、人権・プライバシーの確保、生活の質の向上、職員の労働環境改善工場などの工夫・努力を建築理念としました。
 「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。そうすれば両方とも長持ちするであろう」。外面的なことがらは、内面的なものを伴わないと容易に形骸化する危険性があります。
 荒尾教会牧師後藤直紀先生からの霊的な賜物をいただき、隣接のシオン園保育園とともに子どもたちの養護、保育事業ならびに教会生活に励んでいきたいと願っています。
 愛しあって、共に生きていきなさい。

高齢者伝道シリーズ(P2委員会)
年は取っても、年を取ったので ―高齢者伝道を考える―

日本福音ルーテル教会引退牧師 賀来周一

気持ちは元気
 ある老牧師から言われたことがありました。「君たちから見れば、僕はよぼよぼの爺さんにみえるかもしれない。だが心は燃えているのだ。」
 わたし自身もはや79才になりました。若い頃、京都では自転車で一日中訪問して廻ったこと、札幌ではバイクで室蘭まで毎月の集会のため距離にして100キロ近くを飛ばしたことを懐かしく思い出します。もうそんなことはできないなと思いつつ、でもまだ元気だぞと自分に言い聞かせるもうひとりの自分がいるのです。

できること
 高齢者といえども、できることはしたいのです。手紙書きでも、訪問でも、祈ることでも、喜んで奉仕をする老人は大勢います。
 また高齢者の周辺には、家族親類縁者がいます。高齢者を中心に、その家族親族も集まるようなイベントが教会で計画されてもよいかもしれません。その年に古希や喜寿を迎える高齢者とその家族たちが同時に幾組も集まるような機会はレストランや料亭にはありますまい。家族親類縁者伝道は高齢者だからできること。それは、信仰の継承に繋がる働きです。
 
できないこと
 老いることは喪失体験を重ねる日々でもあります。病気、経済問題、死別、ひとり暮らしと、かつての生活の色艶は失われていきます。そして生きるとは何か、死ぬとは何かが日々の営みの中に通奏低音のように流れます。 その上、一括管理の利便性を求める現代のデジタル社会では、老人は取り残されたような孤立感を感じています。ありきたりの慰めは意味を持ちません。終末的緊張と主の慰めに満ちたみ言葉の説教、この「私」というひとりに差し伸べられる牧会的まなざしを求めています。高齢者牧会が必要です。
 牧会は「個」の存在を対象とする教会の基本のわざであることを忘れるべきではありません。老人はこの働きの外に置かれるなら今日を生き、明日死ぬための確かな手応えを失います。高齢者伝道もさることながら、教会は高齢者牧会のありかたも探るべきでしょう。

第17回 東教区宣教フォーラム報告

 7月4日(土)午前10時、会場を提供してくださった小石川教会では初めて経験する188人の参加者が集いました。甲信地区の松本教会とも、初めて相互通信のフォーラム実況中継をしました。第17回は初めてづくし、でもテーマは「この『私』が死んだらどうなるのか?」という昔から、誰もが何回も考える、そして避けて通れない問題です。
 3メートルもある木の十字架を背負う、というよりも引きずって歩む市原悠史神学生の入場から開会礼拝が始まりました。司式の関野和寛牧師(東京教会)から、会衆に渡された黒い紙の帯に、参加者全員がそれぞれの罪を書きその十字架に掛けました。キリストが全ての罪を背負ってくださったように。
 死を直前にした「魂の痛み」とも言われる「スピリチュアルペイン」、今の社会が突き詰めてこなかったこの問題に、世界保健機関(WHO)が真剣に受け止めなくてはならないと言い出したのがきっかけで、医師も看護師も含めて広く考えるようになりました。死を前にして、未完成の自分を完成させてくださる方に委ねる、その委ねる方を見つけること、その方が一緒に歩んでくださるキリストです。
 死を直前にした人のケアは十人十色。ですからケアのマニュアルはありません。一緒に問題を共有することもケアになり、それが恵みの出会いとなります。
 午前中に賀来周一牧師に基調講演を頂き、午後には賀来牧師のほかに、田中良浩牧師、石居基夫牧師を加え、鳥飼一成兄(津田沼)の司会でパネル討論が行われました。
 参加者からの質問、意見も多く、ネット中継の松本教会からの質問にも応えて頂きました。「死」は個人の問題として受け入れるのではなく、共にその問題を共有することの大切さがよく分かるフォーラムとなりました。
 (水上利正・本郷教会)

「日本・フィンランド交換宣教ツアー報告」

 小雨模様の成田からミュンヘン経由でヘルシンキへ。およそ一日をかけて移動した私たち(31名)を迎えてくれたのは、美しい讃美歌の調べでした。夜中にもかかわらず、心のこもったお出迎えに感激! 疲れも一気に吹き飛ばされ、白夜の中をホテルに向いました。
 受け入れ責任者であるS・フフティネン師のご配慮によって、ヘルシンキではゆったりとした時を過し、体調を整えてSLEY大会会場のカルビアへ移動。森と湖の国フィンランドを満喫したバス旅行は、太陽の恵みをも十分に満喫するものでした。
 「十字架が見える」というテーマのもと、会場には国内外から1万人を超える人々が各々の交通手段を用いて集っています。
 メイン会場(写真1、2)では、テーマごとの礼拝が繰り返し行われ、7月3日の午前中には、渡邉純幸牧師のトランペット演奏に合わせて私たちも「あさつゆに」を歌い、祈りを共にしました。(写真3)この間に会場では体調を崩した方が救急隊員に運ばれるというハプニングがありましたが、全く騒ぎにはならず淡々と事は進められて行きました。
 妙な所に感心しつつ、運営者の行き届いた配慮や参加者一人ひとりがごく自然に楽しみながら参加している姿が印象的でした。別のブースでは若者向けや親子のプログラム、宣教師を派遣している国々の紹介コーナーもありましたが、残念ながら総てに参加することはできませんでした。
 4日には主日礼拝(聖餐式)と宣教師の派遣祝福式が行われました。子どもプログラムに参加していた親子が、派遣先となる国々とフィンランドの小旗を振りながら行進して来る様子は微笑ましく、110年を経てもなお祈りが紡がれている事を頼もしく感じました。
 通訳として同行してくださっていたT・クーシランタ師はじめ、かつて日本で活躍されていた多くの宣教師たちとの再会、大会終了後にはトゥルクのルター教会と東京池袋ルーテル教会の姉妹教会締結の調印式、長年日本伝道を支援し続けてくださった方々との記念会など様々な出来事があり、主の恵みに満たされた日々でした。
報告者:岡田薫(副団長)

LCM会議報告

 海外協力伝道会議(通称LCM)が6月21日から開催され、JELC代表者とアメリカ、ドイツ、フィンランド各教会及び宣教団体代表者との協議が行われました。
 江藤直純神学校長による基調講演を皮切りに、「教会とディアコニア」をテーマに各国代表による実践報告が行われました。JELCからは田島靖則牧師が老人ホームの働きと経緯を中心に発表しました。
 LWF声明の「ディアコニアは福音の核」という指摘をふまえ、会議では教会とディアコニア活動が不可分であることを再確認。しかしながら過去の歴史的経緯や現状の宣教活動をみると、言語による伝道への偏重から抜け出ていない現状を聞きました。教会というよりもむしろ個人、しかも信徒による献身的働きを契機にその後発展した側面がディアコニアにはあります。
 キリスト教的背景をもつ海外教会の発表により、規模的にも質的にもJELCとの違いが数々明らかにされましたが、ディアコニアを「福音の核」とすることの難しさの点では共通認識をもちました。
海外宣教主事 浅野直樹

6.5激論 レポート 
「99%に伝える言葉を持とう」

 6月5日(土)、東京教会を会場に日本福音ルーテル教会・神学校の共催、東教区が協力し「激論」が開催されました。東教区内の21教会からの牧師・信徒と神学校・他教団からの参加があり、75名が集りました。
 前回の9・22に続き、橋爪大三郎東工大大学院教授(宗教社会学・大岡山教会会員)の「ルーテル教会は売上の落ち込んだレストランのチェーン店である」との刺激的な発題から、福音を伝える作戦までの基調講演を聴いた後、竹田孝一牧師(大森教会)、佐藤和宏牧師(松本・長野教会)、小林恵理香さん(大岡山教会)、池田大介さん(本郷教会)の、4人のパネリストが、石原修さん(市ヶ谷教会)と江藤直純神学校校長の司会で、牧師の本音、信徒の思い、若者をとりまく環境、若い女性の労苦を語り、討論致しました。
 参加者を交えた討論では「宗教が敬遠されている今の社会で福音を伝えるには人と人の信頼が必要。牧師は神学と共に包容力ある人柄が重要」等々の意見が出されました。詳細は報告書となって、出席者、全国の教会に配布されます。来年も第3回の開催が予定されています。
 木村 猛(保谷教会)

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