1. HOME
  2. ブログ
  3. バイブルエッセイ
  4. 顔と顔とを合わせて

刊行物

BLOG

バイブルエッセイ

顔と顔とを合わせて

わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」(コリントの信徒への手紙一 13章12節) 顔を合わせることなく、コミュニケーションをはかるメディアも発展していく昨今ですが、教会は神と人、人と人とが顔と顔とを合わせる礼拝や交わりを大切にしていると思います。そしてこの期節、多くの教会が全聖徒主日礼拝を守る際に、その歴史を刻んだ分だけ召天者の顔写真を飾るところもあるでしょう。そして故人を偲び集うご家族やご親戚と、教会において一堂に相まみえる時を過ごすのです。  さて神の顔について、旧くからキリスト教は直に見ることを求め続けてきました。旧約聖書においても、神がみ顔を向けてくださることが、神の愛のしるしでした。その反対に神がみ顔をそむけるとは、神の不興をかうことでした。ですから礼拝の祈りでは司る者が神に呼びかけ、神が顔をそむけず、人々がささげた犠牲や祈りを確かに受け取ってくださるように願いました(詩編27・9、132・10)。つまり神の顔を見るとは、神との特権的な、親密な関係を持つことです (『キリスト教の天国』A・Eマクグラス著「顔と顔を合わせて神と出会う」参照)。  例えば詩編の作者も、神と顔を合わせたいという望みを次のように記しています。「ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ望んで喜びを得、その宮で朝を迎えることを」(詩編27編4節)。私たちは神を冒頭の聖句のとおり「今は、鏡におぼろに映った」姿としか、見ることがゆるされていません。けれども神が定める時「そのときには、はっきり」と、「ありのままに見る」(一ヨハネ3章2節)のです。そこに私たちの目から涙を拭い取り、召天者との再会の楽しみ、天の国への希望が備えられているのです。  ところが教会内外で私たちは、いわゆる「顔も見たくない」ような関係に身を置くこともしばしば経験します。神の前に悔い改め、人々の中でもある種の閉塞状態に、他者と出会い、挨拶し、会話を交わすのは至難なことです。  しかし、第二次世界大戦中のナチスドイツによるユダヤ人迫害から生き延びたE・レヴィナスは、「会話という平凡な事実が、暴力の驚異から逃れる一筋の道を指し示す。平凡な事実こそ、奇跡中の奇跡である。語ること、それは他者を認知すると同時に、他者におのれを認知してもらうことである。他者は単に知られるだけでなく、挨拶される」と、顔と顔とを向き合わせた関係に暴力を抗する手がかりを伝えます。  「他者とは、殺したいという誘惑に駆られる唯一の存在者である。この殺害への誘惑と殺害することの不可能性が顔のヴィジョンそのものを構成している。『顔』を見るとは、すでに『汝殺す勿れ』に聴従することである。―中略― それこそが人間の霊的歩みを創始するのである。宗教とは、私たちにとって、この道以外にはない。」(『困難な自由―ユダヤ教についての試論』「倫理と霊性」参照)は、現代に鋭い示唆を与えます。私たちが再び神と向き合い、その神が教会へと召し集められた(私たちが選べない)兄弟姉妹も、周囲におられる人たちの間でも吟味しなくてはならない問題だと思うのです。  翻って私たちは全聖徒の日を記念し、「この世の別れが永遠の別れでないことを覚えさせ、み許において再び顔と顔を合わせる日を望ませてください。…その死によって死に打ち勝ち、今も生きて働いておられる主イエス・キリストのみ名によってお願いいたします。」(ルーテル教会式文(礼拝と諸式)「納棺の祈り」P239参照)を想起し、キリストの十字架を中心に、こちら側(礼拝に集う私たち)と向こう側(天の国)とで礼拝を守ります。そして今日も、「主がみ顔をもってあなたを照らし、あなたを恵まれるように。(与えられます)、主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜るように。(――賜ります)」と、祝福に与るのです。共々に、顔と顔とを合わせて。 

関連記事