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バイブルエッセイ

神様の恵みによって弟子となる

「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。 自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。…」
ルカによる福音書14章25~33節

ある安息日、イエス様はファリサイ派の議員の家に招かれて食事をされました。食事を終えてその家を出られると、大勢の群衆が一緒に付いてきました。そこで、イエス様は振り返って彼らと向き合い、弟子であろうとする者の覚悟を語られます。
今、イエス様はエルサレムへの旅の途中です。それは十字架に向かう旅です。十字架の死を経て、復活し、天国へと帰っていかれたイエス様は、エルサレムへの旅の途中、折に触れ、天国への旅の心得を教えてくださいました。

旅の秘訣は、「荷物は少なく、身軽に」と言うことですが、今日、イエス様は「自分の十字架を背負ってついて来る」ようにと言われます。これは難題です。ですから、「腰を据えて計算」するように、「腰を据えて考えて」みるようにと教えてくださいます。
「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、さらに自分の命であろうとも、これを憎まないなら・・・」とは実に厳しい。イエス様は、家族の係累をあげつつ、父から始まって、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、さらに自分の命にまで及んで、それを憎み、拒否することを要求されます。「家族」の全員で、一人の例外もないのです。これができないなら、イエス様に従う者としてはふさわしくないのです。
これは、一人ひとりの中にあるエゴイズムへの警鐘、挑戦です。家族のエゴ、国家のエゴ、人類のエゴがあります。それはどんなところにも顔を出しています。神の国で生きるために、エゴイズムとの、まことに厳しい、妥協することのない戦いが求められます。それは、父なる神様のお心に従って、すべての人を救うために、ご自身を十字架に渡されたイエス様の生き方そのものでした。
今、イエス様は、自分の十字架を負って従って来るのでなければ、わたしの弟子ではありえないと断言して、イエス様の弟子であることを、つまり、ご自分と同じように生きることを弟子たちに、愛する者たち、私たちに期待されたのです。
「自分の命を憎み、自分の十字架を背負ってついて来る」よう教えてくれるイエス様は、大切な家族、そして、身近であれば身近であるほど心通わせる仲間に対してなおも、私の主体性、自主性、自由を保つことができるかと問うておられます。
「愛には恐れがない」とヨハネは教えてくれましたが、そのように、本物の愛はすべての恐れ、委縮から、私たちを解き放し、自由にします。それと同時に、真実の愛は、最愛の者に対しても、抵抗する、あらがう力を持つ者とします。
イエス様は「まず腰を据えて」と言われます。それはイエス様に従う覚悟があるかどうか、そのために一切を捨てる覚悟があるかどうか、前もって計算し、じっくり考えなさいということでしょう。人生について、将来について、真剣に考えるべきです。しかし、思い悩んではいけません。

弟子たちは、すべてを捨ててイエス様に従いました。しかし、ある時、ペトロはこう言いました。「この通り、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」と。ペトロは何もかも捨てて従っていたつもりでしたが、どっこい、自分自身は捨てていなかったのです。 結局、私たちも、どこまで行ってもそうなのです。自分を捨てきれないのです。それでもいいのです。そのままでイエス様の十字架のもとへ行くのです。イエス様のもとに、自分の十字架を抱えて行くことが許されています。
イエス様の厳しい言葉は、裏を返せば、神様の恵みがすべてであり、それだけを頼みとすればよし、他のものは一切必要無しとのよき知らせなのです。神様の恵み、慈しみによってのみ、私たちは救われ、今日も生かされています。

日本福音ルーテル小石川教会 徳野昌博

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