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バイブルエッセイ

信仰の完成者イエス

「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。」
ヘブライ人への手紙 12章1節、2節

アメリカ留学中に、こんなジョークを聞きました。
ある教会で、照明の電球が切れた。牧師が管財係に「電球を新しくしておいてくださいますか」と頼むと、「え?何か変えるんですか?」と嫌な顔。そこはルーテル教会だった・・。

 笑えましたでしょうか?ルーテル教会は、電球一つでさえ変化することを嫌がる、という意味です。しかしながら、人々の価値観やライフスタイル、人口構成や経済状況など、教会を取り巻く状況は日々、変化しています。これまでどおりの形で集会を続けたり、建物や牧師給を支えることが困難な教会は増えています。そんな中、ミネソタのルーテル神学校では、開拓伝道について学ぶクラスを受講しました。必ず出てくる神学生からの質問は、「今ある教会を保つだけでも大変で、閉鎖や合併していく時代なのに、なぜわざわざ教会を増やすのか」というものでした。そこで出てくるキーワードは、church cloning(これまでと同じものの複製を作る)なのかchurch planting(新しい教会をつくり上げる)なのか、でした。

 あるアメリカ福音ルーテル教会の教会では、一階の礼拝堂で伝統的なルーテル教会の礼拝が行われ、その同じ時間に、地下では別の集会が礼拝をしていました。この礼拝は、私たちが想定している教会のスタイルとは少し違います。クラスでは賛否両論あって、議論が白熱しました。この教会は、これまでの伝統的な形を少し変えてでも、社会の中でイエス様の弟子として生きることを大切にしています。だから、人々に仕えるために実際に出かけていき、行動していました。ほかにも、建物を持たない教会、弱い立場の人々と歩む教会と、このクラスの卒業生たちがユニークな宣教をしていました。

 現在の日本で教会が直面する宣教の困難の中に、受洗者を生み出すこととともに、受洗者が教会生活を続けることの難しさがあります。洗礼を受けた後、2~3年で教会を「卒業」してしまうのです。そこで私たちに問い直されているのは、ただ数字上の教勢ではなく、イエス様の弟子を生み出し、育てることです。

 ヘブライ人への手紙は、「自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」と励まします。この手紙が書かれたとき、迫害の中で信者たちが信仰を守り抜くことがとても困難な時でした。そんな中で、イエス・キリストを信じる信仰にとどまることを、著者は競技場で走る競争にたとえています。しかもその競争は、「自分に定められている」競争です。「自分で定めた」のではありません。ですから思いわずらいや突然の状況変化も起こります。けれどもその競争を私たちは一人で走るのではなく、先導者であり同伴者であるイエス様とともに走ります。そこには、私たちを導き、信仰を完成させてくださるのはイエス様であるという信頼があります。

 つまり、私たちは自分自身で「完成」してしまうのではありません。イエス様の弟子として、いまだに途上にあり、歩み続けている者です。教会も同じなのではないでしょうか。地上にあり、今なお完成に向かって歩み続けている教会は、私たち自身が「完成形」を定めてしまうとき、「教会の維持」が目的になってしまいます。けれども私たちは、目的への途上にあり、整えられていく過程の中にあります。道の途中であるからこそ、試練もあり、変化も起こります。

 慣れ親しんだスタイルが変化していくのは、時には寂しく、時には戸惑います。けれどもイエス様の十字架の道に従っていくこととは、私たち自身も、自分にとって慣れ親しんだ心地よい教会を維持するだけでなく、人々とともにある、現代社会の中での教会へと整えられていくことではないでしょうか。イエス様の十字架の歩みは復活へと続いています。教会の宣教には、困難な時になお希望が約束されています。復活へと続く道を、信仰の創始者また完成者であるイエス様が、導いてくださっています。宣教が大胆に前進するように祈り求めようではありませんか。
日本福音ルーテル新霊山教会 後藤由起

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