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バイブルエッセイ

讃美の声を高らかに

《主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす光、あなたの民イスラエルの誉れです》
ルカによる福音書2章29節~32節

数年前の式文の学びの際、講師の方が「式文を用いる礼拝だと、毎回毎回同じことの繰り返しのようにお感じになるかもしれません。しかし、二つとして同じ礼拝はありません。なぜなら、その時、その空間、その礼拝に集められた一人ひとりと、そこで働く神さまの聖霊はそこだけのものだからです。つまりライブです。 派遣の部で私たちは、シメオンの賛歌を共に歌い、またそれぞれの日常に神さまから遣わされてゆきます。もしかしたら、この礼拝が最後になる方もおられるかもしれません。ですから、この賛歌を共に歌うとき、俯いていたり悲しい顔をしているよりも、幼子イエスを胸に抱いて喜びに溢れていたシメオンのように、顔を上げて、喜びを生き生きと表すように歌うとよいのではないでしょうか・・・。」と、言われていたことを思い出します。 それ以降、司式者として立たせていただく際には、可能な限り向かい合っている会衆すべての人のお顔を見るようにしています。そして、待ち望んでいたメシアを胸に抱いて喜びに満たされているシメオンの気持ちに思いを馳せ、私の魂も喜び祝い、暗い顔ではなく喜びに満ちた顔でいられるようにと祈りながら・・・。 けれども時には心が沈む時、落ち着かないこともあります。それでも顔をあげ、会衆と一体となって神さまを讃美するとき、不思議と深い慰めと力を得るように感じています。
神さまが、小さな乳飲み子として救い主をお与えになった理由は、子どもが持っている無邪気さや天真爛漫さ、沢山の可能性を秘めた未来への希望がある、というだけではありません。小さな赤ん坊という姿は、誰かの力を借りなければ決して命をつなぐことのできない無力そのもの。主はもっとも大いなる力を持っておられるにも関わらず、自らの力を行使することを放棄して、人間の手にその身を委ねられました。それは、この腕にかかる重み、ぬくもりを通して私たちが、今この腕の中に納まるほどに小さくなられた神さまの愛の重み、恵みの温もりを知るためにほかなりません。
幼子を抱き神さまの約束が果たされたことを実感すると、シメオンはもうこの世に思い残すことはないと言います。神さまの約束に希望を持って待ち続けていた万感の思いが魂からあふれ出ているのです。また、アンナも同じく、幼子イエスと出会えた喜びに包まれて、神への賛美をささげた後、エルサレムの人々にこの嬉しい知らせを告げました。救い主と出会えた人々は、その喜びを自分の中だけにとどめておくことができなかったのです。
では、私たちはどうでしょう? 福音を伝える喜びや感謝にあふれているでしょうか。見渡してみれば、私たちが生かされている現実は嘆きや呻きの耐えない社会。希望が見え辛く、不条理なことや悲しい出来事が絶えないと思えるような日々の積み重ねのように感じられます。耳に聞こえてくるのは、「神がいるというのであれば、なぜこのようなことが起こるのか」というような、怒りや不安、疑いの声の方が多く、喜んで受け入れられるどころか、怪しまれ拒絶されそうな気配すらあります。そのようなところに、「私たちの救い主は確かにおられる」と証し続けることは、簡単なことではありません。
しかし、一週間の営みを終え、それぞれの場所から礼拝に集められる私たちは、まず共に罪の告白を行うように促され赦しを与えられます。そして、御言葉と聖餐の恵みによって福音を分かち合い、新たな力を注がれます。派遣の部にあるシメオンの賛歌は、再びそれぞれの生活の場へと散らされてゆく私たちに、「あなたは喜びに満たされた者である」ということを示してくれているように思います。
罪人である私の上にも、また罪人の群れである教会の上にも救い主の光は輝いています。そしてこの光は、失われることのない希望でもあります。この希望の内に生かされている私たちは、讃美の声を高らかに告げる者であり続けましょう。
日本福音ルーテル札幌教会・恵み野教会牧師  岡田薫

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