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バイブルエッセイ

誰の常識ですか

あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。
風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」
するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。
ヨハネによる福音書3章7〜9節

「どうして、そんなことがありえましょうか」
この言葉は、イエスの導きに対して自らの常識にとらわれてしまい、イエスの言葉を受け入れることが困難になっているニコデモの答えです。
私たちの日常生活に於いて、慣習・慣例と言われるものが多く存在しています。それらが浸透してきた背景には、長い年月によって「合理的」と考えたり「問題がない」として、安心感を得るためであったと言えます。しかし、この安心感は、私たち人間の都合によって考えている事ですので、人間を中心とした考えにしかなりません。
この人間を中心として考えられてきた慣習・慣例は、「常識」という枠によって考えられてきたことでもあります。私たちが考える常識とは、自分自身の経験と、共同体の中での共通理解されている部分でもあります。

ファリサイ派に属し、議員であるニコデモが、イエスのもとを訪ねます。彼自身、ファリサイ派に属しながらも、イエスの行なうしるしによってキリスト信仰の芽が出始めたのです。しかし、ファリサイ派に属しユダヤ人の議員でもあったので、同僚に「裏切り者」と見られることを恐れ、夜訪ねます。他の人に会いたくない、見られたくない、しかしイエスに会って話してみたい感情に包まれているニコデモの姿を見ることが出来ます。

「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」イエスのこの言葉にある「新たに」には、”上から”という意味もあります。即ち、新たに生まれるには自らの力によるのではなく、上からの力、父なる神からの導きによっての生活を始めることと言えます。ニコデモは、イエスの言葉に対し「どうして」と、反論とも取れる答えをしています。ここに、ニコデモが今まで築いてきた人間的常識を重要視している姿があるのです。イエスに対し「神のもとから来られた」「神が共におられる」といいながらも、神の御力、神からの恵みを人間の常識の中で捉えようと必死になっている姿です。

このニコデモの姿は、私たちの姿そのものであるのではないでしょうか。礼拝に於いて御言を聴き、聖書の学び等でキリストの教えを深く悟ろうとしながらも、日常生活に当てはめて考え、理解しようとしている部分が多くあるということです。日々多くの事柄に関わりながら生活している私たちは、生活の術というものが人間の快適性を求め続けて成り立っているということを忘れ、当たり前の慣習として受け止めています。人間の快適性を中心にした生活に、自分たちの習慣に、神の存在をあてはめようとしている姿があるのです。

「新たにうまれる」ことは、人間中心としての常識を一旦降ろして、神を中心とした生き方をはじめるということです。そのとき、神の常識は私たちの目には非常識に見えていたことに気付くのです。ニコデモは自分の常識(人間の常識)を降ろすことができずに、どうしても「新たに水と霊によって生まれる」ことを受け止められないのです。

ニコデモの姿は、信仰に導かれている私たちの姿といえます。そして今、教会を尋ねてくる一人ひとりの求道者たちの姿でもあります。キリストの愛に気付き、周囲を気にしながらも確かなものを求めて教会に足を向ける。そして御言を聴きながら自分の造り上げた常識を壊しつつ、神の常識に与かれるようもがいている姿です。

私たちは風の始まる場所、終わる場所を知ることはおろか、目にすることも出来ません。人間が作った常識の中で生活しています。

神の常識に与かるためには、すべてを委ねることしかできない。そのような私たちは、キリストに「霊をください」ということしかできない存在です。霊を自ら作り出すことは出来ません。父なる神の存在によって悔い改め、キリストによって赦され、聖霊の働きによって新たな人間として生きることが赦されているのです。父なる神、キリスト、聖霊、いずれか一つが欠けても、新たな命に生きることは出来ません。このことをおぼえて、聖霊降臨節(三位一体節)を過してまいりましょう。

シオン教会牧師 室原康志

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