説教「天に昇られる時も」
イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き 、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。
(新約聖書ルカによる福音書24・50~51)
主イエスの昇天の出来事を伝えるルカは、主が弟子たちをエルサレムから《ベタニアの辺りまで連れて行き》、《祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた》と記しています。ベタニアはエルサレムの東、約2・7㎞に位置し、オリーブ山の南東斜面にある小さな村です。ご存知、マルタ、マリア、ラザロの村です。主イエスは十字架にかかる前、エルサレムに通うのにここを拠点とされ、連日都に行かれても、わざわざいつもこの村に戻って泊まっておられます。そして昇天の場も、この村入り口辺りです。これは単なる偶然でしょうか。
死海文書の発見は、都の東方にハンセン病患者を隔離するよう規定があったことを示しました。このベタニアがその隔離村であった可能性は極めて高いです。エルサレムから見て山に隠れる場所であり、マルコ14章にもこの村に《重い皮膚病の人シモンの家》があったことが記されていて、それを裏付けます。主イエスは地上を歩まれた時もそして天に昇られる時も、人々から疎外されまた虐げられている人たちの側にいつも心をおかれ、それを弟子たちに託されたと見ることができるのではないでしょうか。滝澤武人さん(『イエスの現場』世界思想社)や月本昭男さん(『目で見る聖書の時代』日本基督教団出版局)、他にも同じ見方の方々はあり、私もそのように受け止めています。
すべての人は神に愛されています。しかし、最も助けの必要な人々は誰か。そのことを私たちは思い起こすよう、主イエスから託されています。聖書が隣人について私たちに告げる教えは、一日一善的な優しさではなく、「正義と公平」という言葉にも集約されるように、誰が最も悲惨な状況に追いやられているか。それを解放し、また虐げる悪のくびきを折るようにということが第一となっています。そしてさらに、あなたのパンを裂き与えということも、大切であると示されています(イザヤ58・6、7)。これは主が言われた「地の塩」「世の光」の教えおよび順序とも符号します。
ルター先生の時代、神が私たちにくださった救いの真理が歪められてはならないということが、何よりも再確認されなければならない重要な事柄でした。しかしそれはもはや解決されています。今や、神の救いの恵みに捕えられ、その愛に押し出されて、私たちは隣人に仕えていくということが、共に声かけ合い大事な時代となっています。
パンを必要としている人は隣人であり、追いはぎに襲われて倒れている人も隣人です。どちらも助けが必要です。しかし、人によって苦しみを与えられるほど辛いものはなく、さらに、苦しみを与える側が大きな権力であったりする場合、受ける者の苦痛は何重もの悲しみや孤独も加わり絶望的となります。神様からも人々からも教会の関わりが待たれるなか、最も手薄となっている領域です。たぶん反発を恐れてでしょうが、経費と共に、個人で負うには大変です。私が出会ったのは原発廃止を訴える立地住民や被曝労働者の声でしたが、震災後さらに新たな様相を増しています。苦しめられている人々との連帯が求められます。他にもいくつも同様な課題がありますが、深刻度と緊急度を考えることが必要でしょう。
私たちの教会は、社会的な問題には無色透明であろうとする傾向があります。しかしそれはルター先生の願ったこととは違うと思います。ドイツの教会が第二次大戦後、その反省と検証をしました。隣人のため、社会をよりよくしようと努めていくことは、ルター先生も説く聖書の教えです。
人間の世界で、絶対なものはありません。何がより望ましいことか、時代や状況によって選ぶ答えが違うこともあるでしょう。白黒つかないものも多いです。でもそれを、能動的に選んでいくことが私たちに許され、またその責任が問われています。現代のベタニア、主イエスが最も心をおかれている方々に、私たちも寄り添って歩んでいけるよう、祈っていきましょう。
日本福音ルーテル稔台教会、津田沼教会 牧師 内藤新吾