悲しみの預言者
見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。
(エレミヤ書31・31〜34)
私たちの人生には様々な局面があります。天災や人災によって、私たちのごく平凡な毎日さえ、一瞬にして破壊されることのある今日、神様の愛を信じ、示し続ける事は容易ではありません。しかし、信仰があるかないかで人生が大きく変わることを、聖書は示しています。
例えば、旧約聖書には、王と預言者という対決の図式があります。歴代の王たちは、国を守ろうとするあまり、結果的にしばしば神から離れてしまいます。このような彼らは、『信仰の確信が得られず迷いの多い人生を送る人々の代表』と見ることができます。一方、それに命がけで意見する預言者達は、『神に従おうとする人々の代表』と言えるでしょう。
神の言葉を真っ正直に取り次いだがゆえに、預言者たちは王や民から忌み嫌われるのですが、中でも、紀元前7世紀末から6世紀初頭にかけて活動したエレミヤは「悲しみの預言者」と呼ばれた人物でした。
エレミヤは、堕落した祖国に滅亡を告げるのですが、その内容があまりに恐ろしかったため、口を封じようとする人々によって、彼はたびたび命の危険に曝されました。
やがて祖国がエレミヤの預言通り敵国との戦いに破れ、神殿すら崩壊した時、エレミヤは一転して慰めの言葉を伝え始めました。人々が立ち直る気力も無いほど打ちのめされた時、神はエレミヤの口に希望の言葉を授けられたのです。
「あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くして私を求めるなら、私に出会うであろう。」(エレミヤ29・12〜14)
神はエレミヤを通してもう一つのお姿を現されました。それは掟を破れば罰が下るという、支配的で恐ろしい神のイメージではなく、涙を流しながら自分たちを罰し、愛を持って一人一人を正しい道に導こうとする父なる神の姿でした。
この愛の神の姿をさらに極限まで示してくださったのが私たちの主イエスです。イエスは命を捨てて神の真実を示してくださり、人々に愛されている信仰をしっかり持つように呼びかけられました。
イエスは自分を信じ、神の愛を受け入れた全ての人々に「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。」(ヨハネ福音書8・31)と言われました。
世の中は、「神が居るなら、なぜこのような悲劇が起こるのか」という問いかけで満ちています。災いが起きるたび、「神など居ない!」という嘆きと叫びが響きます。
しかし、イエスの言葉にとどまると決心した私たちは、自分の感情に流されてはなりません。心の内に不信の嘆きや憤りが湧きあがろうとも、嘆き悲しむ人から厳しい言葉をぶつけられようとも、その苦しさ悲しさをイエスとともに受け止めるのです。イエスが十字架で血を流しながら示されたように「それでも神は愛だ」と踏みとどまるのが私たちの役目なのです。
世間から「何を虚しいことを」と蔑まれる時、私たちは「悲しみの預言者」です。しかし、それが私たち一人一人の役割であり、それぞれの地に置かれた教会の役目でもあります。悲しみを肯定する訳ではありませんが、人が生きる限り、地上から悲しみがなくなることはありません。ただ、悲しむ人に寄り添うことは私たちにも出来るのです。
神から離れた人々の傲慢さに警鐘を鳴らしつつ、個人的に関わる人々の悲しみをイエス・キリストにあって深く受け止めましょう。この10月は信仰にとどまる人としての自分を見つめ直す時にしたいと祈ります。
名古屋めぐみ教会牧師 朝比奈晴朗