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宗教改革501年 福音の表現者に

ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」(ヨハネによる福音書2・13〜16)

 宗教改革500年の時にあなたは何をしただろうか?教会で色々と勉強会や催しをしたであろう。そこでもう一つ質問をしたい。その機会を通してキリストの福音は教会の外に拡がったであろうか?

 そのような問いと共に私はここ数年、福音を携え教会の外へ外へと向かうようにしてきた。
その中で昨年とあるバーにて異業種間の交流会が行われ出向いた。コンサルタントをしているビジネスマンが「牧師さん!聖書の話をひとつ説法してくださいよ!」と言うので、私はヨハネ福音書8章を朗読した。律法学者たちが姦淫の罪を犯した女性を捕らえ、石打ちの刑に処すか否かの問いに主イエスが「罪が無いものからこの女に石を投げよ」と答える有名な物語である。

 朗読を終え、メッセージの冒頭に「皆さん、今読んだ聖書の物語は理解できましたか?」と尋ねると、「意味が分からなかった 」とほぼ全員が答えた。この物語は比較的、物語として分かりやすく、その意味合いも深く、そして伝わりやすいと考えていたのは私の勝手な思い込みだった。

 これは象徴的な出来事であったと思う。そしてこれは聖書の翻訳云々の問題ではなく、聖書とそこに書かれている物語、そしてそれを語る者が外の世界に全く晒されていないからだと私は直感した。
時は違えど、ルターが見、衝撃を受けた光景。当時大変貴重であった聖書が、大学の図書室に鎖で固定されていたというその衝撃を私も受けた。人々に救いと自由を与えるべき聖書の言葉は、狭いキリスト教界の中で、鎖で締め付けられているのだ。読み上げて相手に届かない聖書の物語に対し、私が更に難解な専門用語で解説しても、残念ながらそれは他者の魂には届かない。その現実をバーにて肌で感じた。それなりに他者に伝わる言葉や行動を選んでいたつもりであったが、私は知らず知らずのうちに教会を小さな村社会、そして分かる人にだけ分かるというようにタコ壺化させていたように感じた。

そして福音の評論家よりも福音の表現者でありたいと強く願った。主イエスもルターもまず神の言葉の表現者であった。ヨハネ福音書のイエスはその布教活動の冒頭から神殿の中で大暴れをしてしまう。生贄の販売や両替も祭儀に必要な事であった。だが主イエスは過ぎ越しの祭りという解放と自由を祝う奇跡の祭りが近づく中、形骸化した宗教をひっくり返さずにはいられなかったのであろう。反感を買っただけでは済まされず命を狙われ、そして弟子たちからも理解されなかった。それでも真の自由を人々に届ける為にそうせざるを得なかったのだろう。「誰にも理解されない。けれどもやらずにはいられない」これこそ福音の表現であり、アートであり、そしてキリストによる宗教改革であったのではないだろうか。

私もこのキリストに出会い、そしてこんなキリストに救われた一人であった。そしてこのキリストに貰った自由を人々に届けたいと願っていた。だが気が付けば当たり障りのない言葉で無難に福音を語り、できるだけ批判されずに教会を発展させるという調子のよいスタンスで働いて来た気がするのだ。大胆に福音を語り、そして教会の外に出かけて行く時、それは批判の対象になるだろう。けれどもそれが福音であれば、改革を止める事はできない。キリスト教の専門用語だらけの説教や祈り、日曜日10時半に行われる礼拝、これまでのフォルムで福音を届ける限界はとうの昔に来てしまっていたのではないか。教会の中に鎖で縛られた聖書、信者の心の中に閉じ込められた福音、それを解放するのはいつだろうか。

宗教改革501年の時に生きる私たちは福音の為に何をしているだろうか。そしてそれは私たちの社会にどんな意味を与えているだろうか。宗教改革の教会に生きる私たちは福音の表現者であり、アーティストだ。その表現はひとつであり得ない。何をも恐れずキリストの福音を表現し、世界に発していきたいのだ。

日本福音ルーテル東京教会 牧師 関野和寛

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