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バイブルエッセイ

主を喜びとする日

「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。
命を救うことか、殺すことか。」マルコによる福音書3章1節~12節

この春から喜望の家の勤務が始まり、平日は朝の満員電車に揺られています。梅田駅で地下道を通って乗り換えます。群れをなして突進するように歩く人々の姿が、初めの頃は、サバンナのバッファローのようで、異様な光景に思えました。三か月が過ぎ、自分もその流れの中に乗って一緒に突き進んでいます。帰宅の車中はぐったりという日も少なくありません。そのような毎日を過ごしていると、日曜日の安息が待ち遠しい、本当に待ち遠しく思えます。

イエスさまは、ここで、安息日の用い方について、ファリサイ派の人々と議論しています。現代の私たちからすれば、律法を固く守って、絶対に譲ろうとしないファリサイ派の人々は、頑固で融通の利かない、変わり者のように思えます。イエスさまのおっしゃる言葉はもっともです。納得できるし、当然のこと。日曜日であっても、病人がいれば病院へ連れて行くし、手当てをして傷ついた人を助けるというのは、それこそ人の道で、道理に適って理解のできるところです。
そもそも安息日は天地創造の時に、神さまが6日間働いて、7日目に休まれたことに由来します。神さまは第7の日を祝福し、聖別されました。しかし、その安息の日を守ることのできない時代がありました。それはモーセの頃、イスラエルの民はエジプトで奴隷でした。モーセはファラオに、主に礼拝をささげたいと願い出ますが、ファラオはそれを許してくれませんでした。十戒を授かったのは、その後のことで、エジプトを脱出してからです。
また、バビロン捕囚の時代にも、エルサレムの神殿を失ったイスラエルの民は、主に礼拝をささげることができませんでした。ですから、聖書を作って、新しい礼拝の形を整えていったのです。そのような辛い体験と苦い時代を経て、安息日は重んじられるようになりました。
しかし、決まりごとというのは、いつしか形骸化してしまって、人間を生かすのではなく、人間を縛るものになってしまうことがあります。イエスさまの時代はそうであったわけです。そうしますと、私たちはどのように安息日と付き合えばよいのでしょうか。現代社会は安息日の規定よりも、この世の融通の方が優先してしまうような時代です。そのような時代にあっては、安息日を守ることの方が難しい。
ここで、イエスさまは、安息の意味を説いておられます。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか、命を救うことか、殺すことか」。内容を見ますと、これは日曜日だけに限ったことではなくて、他の6日間についても、私たちの生き方全体について、それを問うておられます。
神さまが祝福してくださった安息日は、人のためにあります。人が生きるため。神さまは一週間の労働を終えて、その成果をご覧になって、「見よ、それは極めて良かった」、実りに対して満足して休まれたのです。そして、その日を聖別し、恵みの日としてくださいました。それは、私たちがみ言葉と霊とに満たされ、命を回復するためです。
主日礼拝が待ち遠しい。強制されるようなものではなく、恋人に会うような待ち遠しい気持ちです。
仕事帰り、疲れているであろうに夜の聖研に集う人の気持ちが、今にして分かるようになりました。すでに集会は始まっていて、それでも遅れて来られます。「無理をしなくてもいいんですよ」「お体を大切にしてください」と言っても来られます。終わりにいつも讃美歌を歌ってお祈りをしていました。そのひと時こそが安息です。イエスさまに触れている時でした。聖徒の交わりの中で、一緒に歌いたいんです。一緒に歌いたい、讃美歌を歌いたい、歌うことのできない平日の日、日中というものを過ごしていますから。
安息とは、このように、人がよみがえって、生きるためのもの。人々がよみがえって、明日への希望や明日への新しい力を得る。豊かな祝福、天からの恵みです。神さまは、そのような恵みの日をお定めになりました。主を喜びとする日です。

ディアコニア・センター喜望の家 豊中教会  牧師 小勝奈保子

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