一人の歌声にあなたの歌声を合わせよう
「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」(ルカによる福音書2・14)
その夜、天使と天の大軍が賛美しました。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」神にあれ、人にあれ。「あるように」という願望や祈りのようです。まだ無いから「あるように」なのでしょうか。
確かに今は「地には平和」があるようには思えない。しかし、「いと高きところ」、つまり神様のところにも「栄光あれ」というのはどういうことなのでしょうか。神の栄光とは、神様のすばらしさのことですそれも「あれ 」と願うべきものなのか。天の使いの賛美にしては奇妙です。
実は、ここを「あれ・あるように」と訳すのは単なる慣習で、元々は「いと高き所には神に栄光、地にはみ心に適う人に平和」という名詞だけです。むしろ、天使のお告げですから、「ある」との宣言のようでもあります。
直前に天使は「救い主がお生まれになった」と喜びを知らせます。ですから、もし動詞を補うならば、「天に栄光がある。(だから)地にも御心に適う人に平和があれ」か、さらに言えば、「御心に適う人」とは、神のみ旨に聞き従う者ですから、今お生まれになるみ子イエスを「救い主」として聞く者、受け入れる者が、御心に適う人です。従って、このキリストこそが天使たちが歌う「平和」であり、それが御心に適う人にある。それは「あれ」、ありますようにとの願望ではない、もう既に「ある」、今「実現した「地には」平和がある」との告知なのではないでしょうか。
もちろん、私たちの地には、平和とは程遠い現実があります。一方、イエス様は「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5・9)と語ります。御心に適う者、平和であるキリストに従う者、平和を実現する者は「神の子」と呼ばれます。つまり、何より神の栄光を、その人々が表し、実現させるのです。神の栄光は、その子とされた御心に適う者が実現させる平和によって現れる。むしろ「地には平和がある。それが天の栄光を現わす」のです。そのために、神様は救い主を、地の平和として贈られたのです。それだけではない。平和の実現のために、あなたを、私を、隣人を造られた。真の平和のために、私たち一人一人が造られ、栄光を現わすために私たちがいる、そう天使は告げます。天の栄光と地の平和はそこで実現する。その意味で、逆に、天使ではなく私たちが真剣に祈り、行動すべきです。「地には平和あれ。そして天の栄光が実現されますように」と。
ドイツに「クリスマスの天使の歌」というお話があります。
『クリスマス、天では天使たちの賛美が響いていた。しかし、一人の天使がその歌声に加わっていなかった。それに気づいた聖ペトロはその天使を呼んで尋ねた。「どうして君は歌わないのだい?」。天使は答えた。「戦争やテロ、抑圧や貧困、病や孤独が満ちている時に歌っている場合じゃないでしょう。とてもそんな気になれません」。すると聖ペトロは「それなら君はここにとどまってないで地上に行くべきじゃないかな」と言う。天使は地上に降り、最悪の状況を見て回った。誰も歌ってはいなかった。人々はお金がなく苦しいとか、仕事がないか、あればあったで悩みが尽きないと語り合っていた。人間は憂慮すべきことばかりを話し、誰もが歌を歌う気力を失っていた。ところが天使は、ある通りでたった一人歌っている人を見つけた。天使はその人に尋ねた。「こんな時になぜ歌えるのですか」。その人は答えた。「世界を見回してごらん。戦争、テロ、抑圧、貧困、それに孤独。でも、だからこそ私は歌うのだ。困窮に対し、闇に対し。この世を支配する暗闇に私は歌声を上げないではいられない。」天使は言った。「君と一緒に歌わせてもらえないかい?その歌声を二つにしたいから」。』
平和のために、私たち一人の力は本当に小さいものです。何をするか、どうすべきか途方に暮れます。しかし、最初の一人にはなれなくても、見渡せば私たちの隣に、既に歌い出している誰かの歌声がある。私たちはそこに歌声を合わせていくことはできるのです。「あなたと一緒に歌わせてください。歌声を二つ、三つ、四つにしよう」と。一人の歌声にあなたの、私の声を合わせましょう。クリスマスの平和と祝福がありますように。アーメン。
神戸教会、神戸東教会、西宮教会 牧師 松本義宣