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バイブルエッセイ

エロイ エロイ レマ サバクタニ

昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である(マルコによる福音書15・33〜

 エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ!この印象的な主の最後の言葉がなぜ原語で採録されたのか。それは、マルコが「これが福音の神髄である」と確信したからである。

 今年はマルコ福音の年。マルコ典礼を奉ずるコプト教会が昨年日本に初めての礼拝堂を開いた。その時の記念礼拝がコプト教会の教皇を迎えて開催された。2時間に及ぶ礼拝は鐘太鼓も含め終始喜びの調べにあふれていた。
コプト教会は1世紀以来、エジプトでマルコの伝統を伝えている。そのマルコの福音書の1章1節に「神の子の福音の初め」とあり、そして最後の15章39節「百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、『本当に、この人は神の子だった』と言った」とあり、神の子の福音が語られている。「神の子」の福音である。

 コプト教会が今なお多くの殉教者を出しながら、喜びをもって耐え忍んでいるのは、彼らが人間的イエスではなく神の子としてのイエスを信じているからだと思う。しかし、そのマルコが福音書の中では「人の子」イエスを描いているのだ。その子イエスが「神の子」として奉じられる。これが私たちの主イエス・キリストである。

 「人の子」として罪びとの仲間になられた。だが「罪びとの仲間」はまだ罪びと自身ではない。だが、十字架のあの叫びは、神の子が罪びとの一人に数えられた瞬間であった。神に捨てられ独りにされることが神の子における罪びとの標識である。この時のためにイエスの生涯は導かれた。そしてそれが神のご計画であった。神なき世にあって苦しむ人々との一致がこの瞬間に成った。神の子が私のために、もはや正しい事を言われず、ただ、同じ罪人となられた!

 ボンヘッファーは「深いこの世性」と言った。それは「この世の一致」である。これには「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」が絶えず共振している。これによって、垂れ幕が裂け、二つの分裂したものが一つにされた。神と人とが共に生きる地平が開かれた。神の子が罪びととされた絶望のこの叫びによって、教会は仮現説から決別し、真の神の子の告白を選び取った。この世の一致とは罪びとの一致であることがわかった。

 民族、宗教、人種、階級、能力、気質などの異なりを超えて人々を一致へと導く可能性は、それぞれの痛みや苦しみを寄せ合う交わりと連帯にあるのではないか。この点を出発点として全ての人が一致出来る。そしてその一致は神ご自身がその真ん中に立たれる一致である。そのことがイエスの十字架のあの叫びで成就したと、マルコはそう思ってあの叫びを、原語を残しつつ、福音の終わりとして、ローマの百人隊長をして「この人こそ神の子だった」と言わしめ、異邦人を含め全ての神の民を神の子とする福音を語り終えた。

 神が私たちのために罪びととなられたことによって神の堕落論のロックが解除され始動する!絶望は悪魔の分断のしるしから神の恵みのしるしへと変えられた。神の子であるイエスにおいて、義人の矜持という自分をガードする何ものもなくなり、神の恵みが自由に出入りできるようになった。神の子の絶望によって!神の子が罪びととなることによって!罪びとは神的普遍性を獲得した。恵みによってのみ生かされる普遍性である!

 その十字架の叫びから、全ての人間の苦しみを担い支える恵みが磁力線として発せられる。ヒロシマ―ナガサキ―アウシュビッツを経験した人類は、個人の罪に限定された十字架の神学の地平を、苦しむ人々全てと連帯することへと全面的に突破しなければならない。それは苦しむ一人ひとりが、自ら罪びととなって私たちをご自身へと結びつけてくださる方により、蘇る恵みに迎えられたからだ。

 そうして全ての人は一つとされ、神と共に生きる者となる。神の福音はイエスの十字架の「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」から永遠に発せられる光である!
日本福音ルーテル三原教会、福山教会 牧師 谷川卓三

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