るうてる2019年6月号
説教「聖霊の働きを信じて生きる―使徒言行録第29章」
こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。(使徒言行録6・7)
使徒言行録は口語訳聖書では「使徒行伝」と言われていましたが、「聖霊行伝」とも呼ばれていました。使徒たちの働きを記した書物ではなく、聖霊の働きを記した書物だからです。
聖霊の働きによって福音が進展していく、とすれば、28章で使徒言行録は終わっていますが、使徒言行録29章に「私」の歩みを付け加えて読むことができるのです。(ただし29章は聖書にはなりませんが…)
ということで、使徒言行録29章(市川教会会堂編)を辿ってみましょう。
私は2000年に赴任しました。市川教会会堂はW・M・ヴォーリズ建築の一つで、1956年に献堂されました。赴任当時の会堂は44年を経、外観は建築当初の姿を保持していましたが、内部には至る所に老朽化による傷みが見られました。床は傾き、会堂前面と後方では数センチの差があり、白い壁面には無数のひび割れがありました。もちろん教会員も手をこまねいていたばかりではなく、建築当初の赤瓦は建物の傷みを早めるということで撤去しスレートに替え、外壁も塗り替え、地下に残る防空壕には、地下水からの湿気を防ぐために泥を掻き出し除湿器を取り付けたりと、必要な処置を行ってきましたが、いかんせん軟弱な地盤ゆえに、根本からの対策をとることが出来ずにいました。
このままでは会堂の傷みは増すばかりで、やがては耐えきれなくなり崩壊するのではと素人の私にも分かるほどでした。役員会でも度々協議し、更に近隣の工業高校の協力を得て耐震検査を行い、別途に地盤の強度を測る平板耐荷検査も実施しました。
それらの結果は、いずれも「大地震で倒壊する可能性が高い」というものでした。しかし危機感はあったものの補修の資金もなく、役員の間にも「崩れ落ちるのを待つしかない」という思いが占めつつありました。
2007年9月の日曜日の午後のことでした。国府台近辺の建物を見学しておられた三人の先生方(他に数名の学生さん)が教会に立ち寄られました。会堂には後片付けをして来客を待っていた妻が一人でいましたが、その三人の先生方も来客の連れだと勘違いして中に通したのが、N大の建築科の教授、後に修復の設計監理を請け負ってくださることになるI氏と登録有形文化財申請を担ってくださったK氏でした。会堂がヴォーリズの手によるものであることは既にご存知で、私は諦めかけていた会堂の修理についてお尋ねしました。「軟弱な地盤で資金も余りないのですが、何とか残したいのです、この会堂を!」と。すると即座に「大丈夫ですよ、修復できます。」という返事をいただきました。暗雲に覆われた日々に、急に光が射しこんだようでした。
その後、登録有形文化財に登録され、本教会からも借入の目途が立ち、さらに東日本大震災によって傷んだことにより県や国からも若干の補助金をいただきました。また、会員の熱意による献金、全国から献金が寄せられ、「資金的にも無理」であった修復工事でしたが、2011年10月に着工に至ることができました。
イエス誕生の折に贈り物を携えて訪ねてきた東の国の三人の博士を思い出します。博士たちは時を超えて私たちの会堂にも「修復の道」という贈り物を携えて来てくれたのです。いえ「あの来訪は、聖霊が働いてくださった出来事に違いない」と、1年1ヶ月を要した工事を終え、2012年12月に竣工感謝礼拝を行いつつ、会員一人ひとりが心に深く刻んだものでした。
使徒言行録29章(市川教会会堂編)は最後に「こうして市川の地の宣教は、聖霊の働きによってますます広がり、教会を愛する人々が増えていきました。」と締めくくられています。
もちろん、この後も30章、31章と書き続けられることでしょう。なぜなら、聖霊は今も後も、私にもあなたにも、世の終わりまで働き続けてくださるからです。
あなたの「使徒言行録29章」には何が書かれていますか?
主の平安を祈りつつ。
日本福音ルーテル市川教会 牧師 中島 康文
連載コラム 直線通り 久保彩菜
⑮「だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたは、それをだれから学んだかを知っており、また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。」(二テモテ3・14~15)
初めて聖書を手にした時のことを覚えていますか。気づいたら傍らにあった人、苦しみの中で手渡された人、ふと読みたく
なり書店で買い求めた人。その出会いは千差万別でしょう。
毎年中学1年生を教えてきたので、4月に聖書と讃美歌を、教室で手渡す役を担ってきました。聖書を手渡された子ども
たちの反応も千差万別。
「うわぁ!これが聖書かー!初めて見たー!」「聖書って辞書みたいだね!」と大騒ぎ。聖書をめくりながら「こんなに
薄い紙、初めて見たよ!」と興奮する子どももいれば「先生、これ全部読むの?!」と涙目になる子ども。「先生!わたしのおばあちゃん、聖書持ってるんだよ!」「僕は幼稚園で見たことある!」という子どもたちもいます。
また「はじめに神は天地を創造されたー!」と大声で読み始め、叫び出す子どももいました。何より毎年感動するのは、聖書を手渡された子どもたちの目がキラキラと光り輝くこと。聖書を手渡され、嫌がる子どもは1人もいません。聖書をめくり、お気に入りの聖書箇所を見つけることを楽しんでいます。
聖書との出会いは神様、そしてわたしたちのキリストとの出会いです。あの日、あの時、聖書との出会いが与えられたか
らこそ、わたしたちは今日もキリストの愛の中で生きられるのです。そしてそれは、空の墓には留まらない、新しい歩みの始まり。今年も子どもたちが、聖書を通して、また生活のなかで、復活のキリストと出会っていけますように。
議長室から 総会議長 大柴譲治
漢字で「息」は「自らの心」と書きます。息遣いには自ずとその心が表れるということでしょう。自他の呼吸を観察することは対人援助においてもとても大切です。呼吸に意識を向けることで見えてくる次元がある。それは「今、ここ」のリアリティです。自分の呼吸音は通常聞こえません。聞こえていても意識されていないのでしょう。それほどまでに呼吸と意識は一つになっています。
聖書ではヘブル語でもギリシャ語でも「息」は「風」とも「霊」とも訳されます。ですから「息」に意識を向けることは「神の霊」に心を向けることでもあるのです。
「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記2・7) 「生きる」と「息する」とは同源語です。赤ちゃんはオギャーと泣く前に大きく息を吸い込みます。それまで圧迫されていた肺が大きく拡がるためです。そして最初の吐く息で泣き始める。昔の人は新生児の最初の吸気の中に神の呼気を観て取ったのです。鋭い観察力ですね。
神はご自身の霊を私たちに吹き入れてくださる神です。ヘブル語では神を「YHWH(ヤハウェ)」と書きますが、それは「ヤッハッフゥー」という息を吹き込む音から来ているとも言われています(リチャード・グローヴス)。
ちなみに人がこの地上で一番最後にすることは、腹式呼吸か胸式呼吸かでヴァリエーションがあるかもしれませんが、基本的には息をフウーッと吐くことです。息を吸うところに始まった私たちの地上での人生は息を吐くところで終わるのです。その最後の息をも責任もって引き取ってくださるお方がおられる。それが天の神です。主の十字架上の7番目の言葉もそれを証ししています。(ルカ23・46。 教会讃美歌86番)。
実は最初と最後の息だけではないのです。私たちの今ここでの一呼吸一呼吸は神の息とつながっています。インマヌエルの神は私たちと呼吸を合わせてくださる神だからです。月曜日から土曜日までの週日、様々な理由で私たちの呼吸は乱れたり、息詰まったりしています。それが礼拝に集うことを通し、讃美歌や式文の交唱、告白や祈りにおいて共に会衆が息を合わせることで、私たちの呼吸は神ご自身の息によって次第に整えられてゆきます。真の安息がここにはあるのです。何という恵み、何という慰めでありましょうか。お一人おひとりの上に天からの風をお祈りしています。
プロジェクト3.11「いわき放射能市民測定室たらちね」 小泉 嗣
2014年にはじまった東教区プロジェクト3・11、2019年からは活動の規模は縮小されたものの、今年も「いわき放射能市民測定室たらちね」(以下「たらちね」)の支援を続けます(細々とですが…)。 2011年11月に開所された「たらちね」は、被災地に暮らす母親たちの食材放射能測定からはじまった活動で、現在では「放射能測定」「たらちねクリニック」「甲状腺検診」「たらちねこども保養相談所」等の活動を展開しています。
今回は2018年夏、東教区宣教ビジョンセンターの研修旅行「7年目のフクシマ」(詳細は「教会と宣教」第24号)に参加させていただいた際に訪問した「たらちね」の報告をさせていただきます。
私自身は少なくとも4度目となる「たらちね」の訪問ですが、訪問するたびに部屋のレイアウトが変わり、設備というか機材が増えているように感じる「たらちね」の事務所兼クリニック兼測定所です。市民の持ち込みは以前よりは減ったというものの、持ち込み以外にも土壌や浜辺の砂など定期的な測定を行う放射能測定器に囲まれる中、「たらちね」広報の飯田さんよりお話を伺いました。
飯田さんのお話しの中で印象的だったのは、2017年5月よりはじめた「たらちねクリニック」の運営方針についてでした。このクリニックは内科・小児科の診療科目に加えて「こどもドック」の健康診断を用意し、診察時間の制限を設けず診療をしているとのことでした。病気を診るというだけではなく、病気や健康に不安をおぼえる方々の思いを診る(寄り添う)、このクリニックの存在が地域に与える安心は計り知れないものであると実感しました。
見えない放射能に目を向け数値にしていく作業と、診察した人数や点数(医療)ではない言わば見えないものに耳を傾けていく作業、一見相反するように思える両者が、現在の福島に必要な支援であり、そしてそれを形にしている「たらちね」という大切な存在の継続支援の必要性を強く感じた訪問となりました。変わらぬご支援、よろしくお願いします。
賛美歌と私たち①イントロ♪ 小澤周平(名古屋めぐみ教会牧師)
「主に向かって喜び歌おう。救いの岩に向かって喜びの叫びをあげよう。」(詩編95)
こんにちは!小澤周平です。これから、「賛美歌と私たち」という連載を書きます。どうぞよろしくお願いします。
突然ですが質問です。あなたは普段、どんな賛美歌を歌っていますか?好きな賛美歌は?使っている賛美歌集は何ですか?なぜその歌集を使うのですか?毎週、礼拝では賛美歌を何曲歌いますか?選曲の理由は?その賛美歌があなたの不慣れな歌や嫌いな歌だったらどうしますか?
きっと、十人十色の答えがあると思います。私たちの信仰生活で、とても身近な賛美歌です。礼拝で、集会で、家庭で、会議で、キャンプで、学校で、ベッドの上で、一人で夜道を歩く時も、賛美歌はいつも共にある。だから皆多様な想いを持っているはず。
私はこれまで、若い世代に向けた伝道の現場で少なからず賛美の事柄に関わらせて頂きました。その中で、今日の日本福音ルーテル教会(JELC)の礼拝は、特に賛美歌は、若い世代の求めに充分に応えられているか、という問いを持ちました。問いを前に、先ずは背景が知りたいと思い、神学校の卒業論文ではJELCの賛美歌の歴史をかじりました。とは言っても、大半は私が生まれる前の話。信仰の先輩方から証言と、貴重な史料を頂き、事実を整理する所から始めてみました。
歴史を紐解いてみると驚きの連続。継承されてきた信仰生活と賛美歌との密接な関係を知りました。まさに、「礼拝の法は信仰の法」、つまり、礼拝と信仰生活は表裏一体。同時に、私の心にあった素朴な疑問にも答えが。賛美歌の役割、数々ある歌集のこと、同じ曲なのに歌詞が違う訳、賛美歌の終わりのアーメン、などなど。
最近、聖書や式文といった、礼拝に関わる新しい取り組みが見られます。賛美歌も同じです。そんな今だから、私たちの歴史を振り返ることに意味があると思います。そして、過去と今を知ることで、未来に起きる変化への不安も少なくなるかも知れません。こんなことを念頭に本連載を記します。どうぞお付き合いください。もちろん、私自身まだまだ分からないことばかり。もしご意見、ご感想などがありましたらお伝え頂けますと幸いです。
ところで、先ほどから当然のように使っている「賛美歌」という言葉。他教派の方とお話してみると…つ、通じない?なんてことも?(つづく)
留学生公募のお知らせ
ELCA(米国福音ルーテル教会)は教会指導者のための短期研修を目的とした国際奨学金を提供しています。いずれも個人的研究ではなく、将来日本福音ルーテル教会および関連施設に資することを目的としています。今回は特に、臨床牧会訓練(CPE)に関する研究と研修を望む牧師留学生を求めます。期間は2年以内となります(二号留学)。留学を希望する者は日本福音ルーテル教会事務局にお申し込みください。締切は6月末日といたします。
ブラジル伝道の区切りと将来(1) 徳弘浩隆
【10年にわたるブラジル・サンパウロ教会での宣教師派遣から日本へ戻られた徳弘浩隆牧師より、ブラジル伝道についての報告をご寄稿いただきました。2回に分けて掲載いたします。今回はその前半です。】
1 ご挨拶
2019年3月12日にブラジル福音ルーテル教会(IECLB)議長と歴代教区長に離任の礼拝をして頂きました。27日に教会員に見送られて帰国しました。これが、日本福音ルーテル教会(JELC)が正式に宣教師派遣を終了した日となるでしょう。10年ぶりの日本の生活もひと月、逆カルチャーショックも楽しんでもいます。依頼されましたので、ご挨拶がてらブラジル伝道の歴史や思い出、将来について、私の体験と記憶に基づいてご報告します。
2 歴史
最初の宣教師・藤井浩先生が日本語礼拝をしたのが1965年10月31日。その後は、塩原久先生、土井洋先生、竹田孝一先生、塩原久先生が再び、紙谷守先生、渡邉進先生、私という7名、8代にわたって牧師が送られました。それぞれの先生やご家族の、時には想像を絶するご苦労もあり、ブラジルの日系教会は続いてきました。開拓期、移民青年たちが若く活況の時、教会学校も盛況の時、1度目の教会移転、駐在員の増えた時、移民1世の高齢化、2世や非日系ポルトガル語世代の増えた時、不景気で「日系人デカセギ」が日本へ流入する時など。その後、日本の景気後退でブラジルへ大量帰国、という時に私が赴任しました。
当時JELC常議員会は牧師不足と予算不足を理由に宣教師派遣終了を決議しIECLBや日系教会と交渉し了承を得ていました。JELCで研修も受けた日系人牧師大野健先生がいましたし、ブラジル人青年が牧師を目指していたので、彼らにバトンタッチし、別の方法の支援と交流にするという計画でした。その交渉に当たったのは事務局にいた私もその一人でした。
しかし、翌年のJELC全国総会で現地からの悲痛な訴えを受けて「再度宣教師を派遣」という決議がされ事態は変わりましたので、私が手を上げ行かせていただきました。
サンパウロ教会は良い立地でしたが民家の教会で、牧師も牧師給もJELC頼みでした。赴任直後、駅前開発で立退き提案があり、「将来のある教会になるには、教会成長し自給教会になるしかない。そのために広く活動ができる教会を神様が準備してくださる」と教会メンバーを説得。「売却益と皆の献金で移転できる、よい所があるなら」と同意を得て、地下鉄沿線を歩き回り、リベルダージという日系人の中心地に良い物件を見つけ価格交渉の末移転しました。ポルトガル語礼拝や日本語教室、パソコン教室や諸イベント、ゲストルームなど活動が活発化し、礼拝メンバーや献金も増えました。
「これならJELCの支援金を断って自給教会になれる」と「4年計画で2015年の宣教50周年までに自給する」と宣言をし、会員の祈りと努力で実現しました。
次はバトンタッチですが、ブラジルの教会には日系人の神学生や牧師はいません。日系教会自らが育てなければいないのです。候補者は数人いましたが実現しませんでした。日系人の大野健先生は定年年齢に近づき闘病中でしたし神学を学び始めたブラジル人青年も断念しました。
すべてが白紙に戻りました。日本からの牧師招聘を交渉しましたがJELCも人材不足で無理でした。サンパウロ教会は私に延長をと願い、JELCは「後継牧師にバトンタッチし、将来を盤石にするために」と了承し、私の任期は合計10年となりました。
2名牧師体制の経済基盤ができたのでブラジル人の若い牧師を招聘し、1年一緒に働き、1年日本で研修、1年引継をして教会を託す計画で、メロ牧師を招聘したのです。並行して日系人青年伝道のためにも、青年ボランティアをJELCから募集し活躍してもらいました。
(後半に続く)
ルーテル学院 創立110周年 記念事業
日本ルーテル神学校 石居基夫
ルーテル学院は今年創立110周年を迎えました。1909年に九州は熊本に始まった本学の教育は、牧師とキリスト教指導者の育成を目的として始められました。以来、神の恵みと多くの方々のお支えをいただいてまいりましたこと、心より感謝申し上げます。
ルーテル学院の教育の原点は宣教に仕えることです。しかし、その使命は、建学当初から単に牧師を育てることだけでなく、ルターの「全信徒祭司」の教会として信徒の賜物を生かして他者に仕えていくような奉仕者を育成することにありました。それぞれの節目に教育の幅を広げ、キリスト教的人間理解に立ち、福祉や臨床心理の専門性を深め、社会に貢献する対人援助の専門職を養成する教育を展開してまいりました。
【教会から地域社会へ】
今年は、また本学が中野区鷺宮より現在の三鷹市大沢へと移転をした1969年から、ちょうど50年目にも当たります。これを境に、教会の牧師養成とともに、むしろ地域社会の様々なニーズに応えていく福祉や心のケアを担っていく人材育成へ教育の使命を自覚していくこととなりました。
本学付属の様々な研究所やセンターの公開講座やサービスとともに、現在では三鷹市、武蔵野市、小金井市で「新たな支え合い」活動を企画・実践する中核となる市民を育てる働きも担っています。
【記念事業】
110周年の記念事業は、9月の「一日神学校」をはじめ、例年本学が取り組んできています付属の研究所などの講演会企画を、記念の取り組みとして整えて開催させていただきます。また、特に11月30日には記念大会を企画して、本学の使命を確認し、将来に向かう私たちの教育を多くの方々にお伝えしたいと考えております。それぞれにご紹介、お招きをしてまいります。ぜひ、お祈りに覚え、お支えいただき、本学へと足をお運びいただけますようにお願い申し上げます。
サバ神学院名誉教授P・ケンピン先生が教会事務局を来訪されました
石原京子(市ヶ谷教会)
1993年、海外の教会からの支援と祈りに支えられながら、日本福音ルーテル教会は宣教百年を迎えました。女性会連盟(当時は婦人会)はアジア宣教のお手伝いをすることで感謝の気持ちを表したいと、かつて日本兵が使っていた壕の中にエンユー先生が設立した「サバ神学院」の神学生に奨学金を贈ることを決めました。
交流から26年間、連盟とサバ神学院の架け橋役をしてくださったのが神学博士・サバ神学院名誉教授P・ケンピン先生です。先生は女性会連盟の会員の方々をサバに招いてくださり、奨学生から牧師になり、ジャングルや農村の教会で、まだイエス・キリストの愛を知らない人々に宣教している姿に会わせてくださいました。
暖かく、主に向かって行動して行くケンピン先生に、訪れた方々は感動し、献金額がたとえ少なくなっても続けていくことに意義があり、支援の気持ちから感謝の気持ちに変わり、今では女性会連盟の活動の一つとなっています。
ケンピン先生夫妻は神学院を停年退職後、中国の伝道に力を入れていらっしゃいます。今まで日本には連盟総会と講演会に招かれて来日されていますが、今度は私的に富士山と桜の花を見に日本に行きたいというご希望で4月4日に来日されました。千鳥ヶ淵の桜、芦ノ湖から望む富士山、放射能汚染で帰宅困難地域に寂しく咲く桜並木を先生にゆかりのある方々と訪れることができました。
いつくしみの会ではゲストとしてお話をしてくださいました後、関西に向かわれ、西教区の女性会の方々、札幌から駆け付けた姉妹と5日間、過ごされました。
4月7日には市ヶ谷教会、14日は京都教会に出席されました。私的な旅なので公的なご挨拶は遠慮させて頂くと仰っておられた先生でしたが、ルーテル教会の皆さんから熱い歓迎を受け、事務局の先生にご挨拶しないで帰国することはできないと言われ、お忙しい滝田事務局長に時間を作って頂きました。事務局長にお会いでき、大変喜ばれていらっしゃいました。
日本初のシェアハウス型難民シェルター「ジェラハウス」が完成しました
日本福音ルーテル社団(JELA、森下博司理事長)が老朽化のため建て替えを進めていた日本初の民間による難民シェルター「ジェラハウス」が4月5日に完成し、建物の祝福式と内覧会を開きました。
祝福式では、大岡山教会の松岡俊一郎牧師が「平和と祝福に満たされる家」と題して説教し、「頼るべきものは、私たちを用いてくださる神様と聖霊の力です。そこに神様の祝福が与えられます。それは、ジェラハウスに集う一人ひとり、そして世界で助けを必要としている人に向けられているのです」と語りました。
JELAの難民支援事業は1984年にスタートし、日本国内の難民支援では先駆的な役割を果たしてきました。今回新しく生まれ変わったジェラハウスは、日本初のシェアハウス型難民シェルターとなり、運営・管理はNPO法人WELgee(ウェルジー)が担います。ジェラハウスには、「TOKIWA(トキワ)」という愛称が付けられました。由来はもちろん手塚治虫をはじめ漫画家が切磋琢磨したトキワ荘から来ています。日本にやって来た難民の方々が、トキワ荘の漫画家たちのように、能力やスキルを生かして活躍できるようにとの思いが込められています。
新しいジェラハウスでの活動が祝されますようお祈りとご支援をいただければ幸いです。また、難民の方へ日本語を教えるボランティアも募集しています。ご興味のある方は、JELA難民支援係 電話03(3447)1521、 ファックス03(3447)1523、Eメールjela@jela.or.jpまでお問合せください。どうぞよろしくお願いいたします。
※ジェラハウスとは、日本初の民間による難民(申請者を含む)のためのシェルターハウスです。難民の方へ無償で提供し、電気・ガス・水道などの光熱費も無料で使用いただいています。
ルーテルこどもキャンプのおしらせ
小学5・6年生対象のルーテルこどもキャンプ。今年のテーマは「ハロハロの国フィリピン♪ごちゃまぜのハーモニー♪」、主題聖句は「多くの部分があっても、一つの体なのです」(一コリント12・20)に決まりました。
ハロハロ?コンビニで売ってるアイスのことでしょうか。フィリピンの心を表す食べ物がハロハロです。キャンプでは、ハロハロを食べたり、フィリピンの遊びをしながら、フィリピンの人々が何を大切にしているのかを楽しく学びます。
もし、「知っている人がいないから不安だな」と参加を迷っているお子さんがいたら、「優しいお兄さんやお姉さんがいるし、お友達ができるから安心して行ってらっしゃい」と背中を押してあげてください。
また、キャンプのスタッフも必要としています。リーダーは18歳から、ジュニアリーダーは高校生から応募できます。キャンプを裏方で支えてくださるスタッフも募集しています。知識や経験が無くても大丈夫です。
開催日程は8月6日(火)~8日(木)、場所は東京のルーテル学院大学・日本ルーテル神学校です。
詳しくは、以下のURLからご確認ください。the-next-g.blogspot.com