るうてる2014年12月号
説教「隠れなき光」
その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。ヨハネによる福音書1章9節
人間の視覚は光に依存している。光がなければ、我々は見ることができない。我々が自分で見ていると思い込んでいるものは、それ自体が光を反射し、我々の網膜に像を映さなければ見ることができないのである。見えないものは、我々が視覚的に見ていないというだけであり、それが存在しないということではない。存在するということは、現れているということではない。しかし、人間は現れていることだけがすべてであると考えてしまう。我々が感覚によって認識する世界は狭い世界である。反対に、信仰によって認識する世界は広い世界である。信仰によってこそ、神の世界、神の支配、神の国を見るのである。信仰によってみる世界が真理である。ヨハネが言う「まことの光」で見る世界である。
この光は「まことの」と言われている。真理と同根の形容詞である。真理がア-レーテイア「隠れなきこと」であるから、「まことの光」とは隠れなき光、あるいは隠さない光ということになる。この光自体は「隠れなく」光り、照らすものを「隠さない」光である 。自ら隠れなくあり、自らと関わる存在を隠さないのである。その光自体がすべての人を照らすということは、誰もこの光から逃れることができないということである。隠れなき光に照らされるならば、隠れなくあらざるを得ない世界となる。これがヨハネが見ている世界、信仰の世界である。
ところが、我々人間の世界は常に隠し、見過ごしてしまう世界である。人間の恣意によって真実は隠され、都合の良いものだけが提示される。こうして、人間は自らの罪に従った世界を作りだしてしまうのである。そうであってもなお、真理は隠れなくあるのだが。
まことの光に照らされる存在は、隠れることができないだけでなく、見過ごすこともできない。互いに、 裸の自分をさらし合っている世界が、まことの光が照らす世界である。だからこそ、人間はまことの光を嫌うのである。他人の隠していることを見たいと願うが、自分の隠していることは見せたくない。自分だけは隠れていたい。それが人間の罪の姿である。
そのように罪の中に身を潜めている存在であろうとも、来たりて照らすのが「隠れなき光」、「まことの光」なのである。この光こそ、隠れなく生きてくださったイエス・キリストである。キリストは、十字架の死に至るまで、ご自身を隠されなかった。捕らえようとするユダと捕縛者たちにご自身を現された。十字架の上で、すべてをさらして生き給うた。パウロは弱さから十字架に架けられたキリスト(2コリント13・4)を語ってもいる。弱さもありのままに見せ給うお方がキリストである。 このお方に照らされるとき、我々は弱さも、恥と思えることも、すべてをさらしてもなお、神の前に生きる者とされる。キリストの光に照らされることを受け入れる存在だけがそのように生きるのだ。受け入れない者は、闇に逃げてしまう。そして、自らを神の世界の外に追い出してしまうのである。そこに選びがある。照らされたくないと、隠れることを選ぶ者が自らの選びによって、自らを選ばれざる者としてしまう。隠れることを選ばず、神が照らすままに隠れなくあることを受け入れる者は、選ばずに選ばれている。光を反映する存在となり、光と一体となっているのである。
我々キリスト者と呼ばれている者は、真実に光を反映しているか否かを常に問われている。何故なら、まことの光は常に我らを照らし続けているからである。「わたしの十字架の言を聞いているのか。」とキリストは問う。「わたしの光を受け入れているのか」と問う。自らを省み、来たり給う光を、喜びをもって受け取ろう、「来たりませ御子よ、隠れなき光よ、まことの光よ」と歌いつつ。あなたのクリスマスが、隠れなき光に照らされたまことのクリスマスとなりますように。日本福音ルーテルなごや希望教会牧師 末竹十大
宗教改革五〇〇年に向けて ルターの意義を改めて考える(32)
ルター研究所所長 鈴木 浩
ここであまり知られていない『九七箇条の提題』を見てみよう。この文書は、先月号で指摘したように、「異端者に反対してアウグスティヌスが語る言葉には誇張があると言うことは、アウグスティヌスがほとんどどこででも嘘をついていた、と語ることに等しい」という言葉で始まっていた。
第四提題はこうなっている。「悪い木になった人間は、悪いことしか考えないし、悪いことしか行わない」。ここでは「悪い木になった人間は」とあるので、「悪い木になっていない人間」もいるかのように思われるが、実はそうではない。「人間は(誰しも)悪い木になったので」という意味である。しかし、わたしたちは良いことも考え、良いこともやっている。だから、これは言い過ぎだ、誇張だと考えてしまう。
第五提題は、「善悪の選択に際して、人間は善を選択することもできるし、悪を選択することもできるというのは嘘で、人間の意志は奴隷的拘束状態にある」となっている。
これは、一五二五年に発表されることになる『奴隷意志論』の内容である。ルターは、その主張をこの『九七箇条』で先取りしていることになる。この過激な主張はいったいどういうことなのであろうか。
議長室から
買って、読んで、そして用いてください
総会議長 立山忠浩
『エンキリディオン小教理問答』(リトン)が宗教改革記念日に刊行されました。マルティン・ルターの代表書であることは言うまでもありません。日本福音ルーテル教会による「宗教改革500年記念」事業はほぼ順調に準備が進んでいますが、事業の一環として目に見える形で皆さまのお手元にお届けする最初の書となります。
宣教室は、ルター、及びルターに関する出版物の中から特に4冊を「推奨4冊」と称することにしました。 推奨4冊のひとつはすでに出版され、重版を重ねている『マルティン・ルター』(徳善義和著、岩波新書)です。この度の書が2冊目の推奨本ですが、来年以降『アウグルブルク信仰告白』、『キリスト者の自由』と毎年の刊行を予定しています。ルター研究所に訳や解説等を担っていただきますが、本書は徳善義和先生が記念事業のために新たに訳してくださったもので、解説も担当してくださいました。
そこで皆さまには3つのことをお願いしたいのです。まず買っていただくことです。手ごろな値段に設定してあるのはそのためです。次に読んでいただきたい。気になる本を買い求めたまでは良いのですが、本棚に飾ることで終わるなどいうことが私にもありますが、そうではなく手にとって読んで欲しいのです。
3つ目が用いていただくことです。『小教理問答』というと、洗礼や堅信準備会で用いられるという印象がありますが、信仰生活の長い方々にも用いていただきたいのです。1年に1冊の刊行を企画している理由は、「来年は『エンキリディオン小教理問答』を」という具合に、それぞれの書を1年の間に各教会で学んでいただくことを期待しているからです。
記念事業の重要な目的は、ルターの福音的、信仰的、教会的遺産を学ぶことです。自分自身の信仰を問い直し、教会の中で互いが吟味し合い、そして答を見つけ出すことで新たな励みとしていただくことです。
さらに言えば、今日の教会とキリスト者の宣教の使命を見つけ出していただきたい。推奨4冊はそのための力強い助けになるに違いありません。
「泊まりdeエキュユース」に参加して
石川可南子(三鷹教会)
10月3日から1泊2日の日程で、在日大韓基督教会川崎教会で行われたエキュメニカルユースの集いに参加にしました。これは日本キリスト教協議会(NCC)青年委員会が主催する、加盟各教派・団体に所属する青年の交流の場です。今回行われた「泊まりdeエキュユース」にも、 私たち日本福音ルーテル教会の他、日本聖公会、日本基督教団、在日大韓基督教会等、9つの教派や団体の青年、約50人が参加しました。
初日は、夜8時に集合して開会礼拝を行った後、各教派が自己紹介し、交流会へ。翌朝はそれぞれに持たれた夏のプログラムの報告を行った後、屋上でバーベキュー、最後にメインである「在日と多文化共生」をテーマとしたフィールドワークを行いました。
夏のプログラム報告会では、私たちは、9月に日本福音ルーテル新霊山教会で行われた「全国青年修養会」について報告しました。午後のフィールドワークでは、在日大韓基督教会川崎教会の元牧師で故李仁夏牧師が創立した、社会福祉法人青丘社の運営する各施設も見学し、在日コリアンが多く暮らす川崎の街で、多文化共生の理念の元に力強く運営されていることを知りました。
私は今回、初めてこのような他教派の集まりに参加しましたが、各教派の自己紹介や夏のプログラム報告を聞いて、同じキリストに連なる青年であっても、教派や民族的背景が異なることでそれぞれ個性があり、雰囲気が違うと感じました。
しかし、夜通しおしゃべりをしたり1泊2日の時間を共有したりすることで、互いの教会や青年会のことはもちろん、青年一人ひとりのクリスチャンとしての生活を理解し合い、これからも続く関係を築くことができました。また、初めて自分の所属する日本福音ルーテル教会について客観的に考え、 改めて同じ教派のたくさんの青年に囲まれている幸せを感じる機会となりました。
ルターナイツVol.0
谷口和恵(松本教会)
宗教改革500年の記念すべき年まで3年となりました。その時に向けて全体教会で、教区で、各個教会で様々な伝道プランがこれから練られることでしょう。
今年の全国総会のプログラム終了後に、一人の信徒の呼びかけに応じ、30代から50代の数名の有志が集まり、「伝道を考える会Jr.」が発足しました。数回のミーティングを重ねる中で、 周りの人を渋谷区代官山の「山羊に、聞く?」というオシャレなカフェバーを借り切っての開催となりました。結果、私達の心配をよそに、立ち見が出るほどの沢山の参加者が与えられました。クラシックからロック、ゴスペルと音楽のジャンルも幅広く、いろいろな楽器の演奏や歌を聴きながら語らう、笑い声に溢れた楽しい夜となりました。
「祈りをもってする音楽においては常に神がおられる、恵みの臨在をもって。」とは、ルーテル教会の音楽家であるバッハの言葉です。今回のこの小さな音楽の夜にも、確かに神様がいらしてくださいました。音楽をする人も聴く人も、共に神様の祝福のうちにあることが実感できました。
「教会が外に出て行き、皆が集う場を提供する」という今回の試みは、新しい形の伝道の小さな一歩かもしれません。しかし「集会から礼拝へ」をテーマに持ちながら、神様の福音に触れてもらえる場としての「ルターナイツ」のこれからが楽しみです。
次回は2015年3月13日19時より、同じく「山羊に、聞く?」で行う予定です。お友達を誘って是非お越しください。
礼拝式文の改訂
聖餐
式文委員 石居基夫
前回、「みことば」の部についての説明にもありましたように、教会では最も古い時代から、主日の礼拝において「みことば」と「聖餐」の2つを神の恵みに与るための大切な要素としてきました。
現行式文でも、この考えに基づいて、説教ばかりではなく聖餐の恵みにも与ることを通常の主日礼拝の姿としています。
実際には、月1回の聖餐を守っている教会が多いことでしょう。以前は年に数回のみという時代もありましたから、それに比べて、聖餐の喜びが日常的に受け止められてきているわけです。実践的な課題があることも考慮されなければなりませんが、しかし、礼拝における神様の働きとして、本来そなえられた「みことば」と「聖餐」によって、ゆるしと永遠の命に与る恵みの豊かさを確認していただければと思います。
この「みことば」と「聖餐」は、神様からの恵みの働きとして一貫し、連続したものと理解されます。そのことを確認する意味で、今回の改訂案では「奉献」をこの間におくことを避けました。奉献というと、私たち人間が神様に捧げものをする、人間の神様に対する業という方向性を強く示すようになるからです。
実際、ルターが礼拝順序を書いた『ラテン・ミサ』、『ドイツ・ミサ』いずれにも、「奉献」あるいは「献金」は礼拝順序には置かれていません。
そもそも礼拝の歴史の中で「奉献」は独立した一構成要素とは考えられてはいません。むしろ、聖餐の部のなかに組み入れられていて、聖餐そのものが神に繰り返し捧げられる犠牲・奉献と考えられてきたのです。
ルターはその聖餐の理解を180度ひっくり返し、神の恵みの業として理解したのです。ですから、この聖餐の中に奉献を残さなかったのです。
つまり、礼拝を神様の人間に対する奉仕の業と理解するルター派の信仰に基づいて、この説教と聖餐の一貫性をまず大切にしたいのです。
奉献についてはそれが教会の宣教の働き、奉仕の働きに用いられるものだから、 派遣の部におくことを提案しています。
聖餐に祈られる「主の祈り」については、現在のNCC訳、そして以前の文語訳いずれも用いられてよい祈りです。今回新たに、カトリック教会と日本聖公会との共同訳の祈りを加えようとしています。エキュメニカルな交わりにおいて、「主の祈り」を共に祈ることができるように、この翻訳を採用したいと提案しています。
「ヌンク・ディミティス」は、老シメオンが幼子キリストにまみえたときの賛歌で、救いを見た喜びに、安らかに去ることが出来ると感謝を歌います。古くは、晩祷で歌われていました。それをルーテル教会では聖餐の応答歌としたのです。聖餐が真のキリストの体と血であるとの信仰から、主にまみえた感謝として歌うことが最もふさわしいとされたのです。
聖餐は、神の恵みに生かされる主の食卓です。終末の救いを先取りし、召された者も地上にある者もすべて、共にこの恵みを喜びいただき、キリストの体に与りましょう。
礼拝全体を検討し見直すために設置された式文委員会の働き「式文改訂」について、日本ルーテル教団と共に、その解説をお届けします。
宣教の取り組み神戸東教会
乾和雄
神戸東教会では、今年の7月から毎週土曜日に、「中学生《なんでなんで》理数教室」を開いています。
中学校からの帰り道に教会の前で、お友だちとわかれがたく、明るくおしゃべりをしている子どもたちの声がときおり聞こえてきます。多くの子どもたちが、部活動をはじめ、楽しい学校生活を過ごし、学習塾にも通って、かなり忙しい日々を送っています。
しかしながらその一方で、中には塾にも行けず、また学校にも通うことができない子どもたちもいるのです。「ケータイ」や「スマホ」も、いじめの道具になる場合があります。そのような苦しく辛い思いをしている子どもたちの、癒しの時、慰めと励ましの場になればと思い、「中学生《なんでなんで》教室」を開きました。
わたし自身は小学校2年生の時、腎臓病のためにほとんど1年間学校を休みました。3年生で学校に復帰したとき、勉強もまったくできず、体力的にもひょろひょろとしたわたしは、かっこうのいじめの的になっていました。その時の担任の先生が、放課後にわたしを1人残して、あたたかく関わってくださいました。掛け算の「九九」からはじめて、まず学習面から自信をつけるように、と導いてくださったのです。今でも、ほんとうに感謝しています。
子どもたちは、エネルギーが足りないことが多いのです。「来週、また来ますね」といって帰って行っても、次の週に来てくれるかどうかはわかりません。ひたすら神さまに祈りながら待っています。ですから「開店休業」の時が多いのも事実です。
しかしながら、そのような時も、きっと神さまが生きて働いていてくださると信じながら、じっと待たせていただいています。
宗教改革記念行事報告
九州教区熊本地区宣教会議議長 西川晶子(室園教会)
熊本地区では例年、宗教改革記念主日に「合同礼拝」「講演」「コンサート」を、3年間で一巡する構成で記念行事を行っています。
今年はコンサートの年に当たっていたのですが、企画段階で「ただコンサートを行うより、3年後に迫った宗教改革500年に向けて弾みがつくようなものにしたい」「できれば地区の教会が一つになれるようなものを」という意見がありました。その中で提案されたアイデアが、日本では上映されないままだった2003年の映画「ルター」の翻訳でした。
まず、それぞれの教会や学校で語学の賜物をお持ちの方に担当場面を割り振って、翻訳を進めていただきました。単純な直訳ではなく、場面や会話の流れに合わせた翻訳、また宗教改革前後の時代背景や、ルターとその周辺の状況や人物についての知識が必要な作業でもあったのですが、それぞれにかなりのご苦労と工夫を重ね、担当部分の翻訳を仕上げてくださいました。
各教会からの翻訳が出そろったところで、全体の編集に入りました。用語や登場人物の敬称などの統一、またルターがウォルムス国会で語った言葉など、史実とすり合わせながら調整をして行くところに、実行委員の苦労がありました。
九州学院で行われた上映会当日には、熊本地区の教会・学校・施設から、165名が集まり、翻訳の成果を楽しみました。上映の前に九州学院のチャプレン小副川幸孝牧師から、ルターについてのお話をいただき、その余韻のまま、上映開始。もちろんプロの作業ではありませんので、十分ではないところもありつつ、しかしルターのことをよくご存知でなかった方からも「面白かった」という声をいただいたりもして、ホッとしました。
各教会からのミニバザーも出店され、和やかな会でした。
地区全体で一つのものを作り上げ、また、翻訳の過程でルターの宗教改革とその時代についてより深く学ぶことができた、とても意義深いプログラムになったと感じています。携わってくださった方々に、心から感謝いたします。
ようこそ!共に主のために
アメリカ福音ルーテル教会からの短期信徒宣教師(J3)の皆さんが来日されました。任期は2015年4月からとなり、現在は日本語研修を受けています。
Hanna Jensen-Reinke(ハンナ ジェンセン?ラインキ)さん、
Dean Hoelz(ディーン ホルツ)さん、
Zachary Corbin(ザック コービン)さん、
ジェンセン?ラインキ師とコービン師はルーテル学院中学・高等学校に、ホルツ師は九州学院に、それぞれ派遣されることが第26総会期第2回常議員会にて決定しました。そのお働きに主のお支えをお祈りいたします。
2014年宣教会議
事務局長 白川道生
「これからの教会の姿。これをどう描き、どうやってそれを実現してゆくのか?」
言うまでもなく極めて重要な事柄で、十分な議論を必要とする。
本年も、宣教の進展に絞って討議を行う「宣教会議」が東京市ヶ谷で開催された(9月30日~10月1日)。各教区より常議員3名、議長以下4役、信徒選出常議員と各室長、合計21名が出席した。
まず、立山忠浩総会議長は、主要課題への取り組みを説明した。中でも優先してきた3つの事柄、宗教改革500年に向けての宣教強化、全体教会及び各個教会の財政課題と解決策、社会に仕える教会のあり方に言及され、継続して注力すると意向を述べた。
次に、白川事務局長は、JELC宣教方策の変遷を振り返りながら、近年の推移を報告した。1893年の宣教開始から全国146まで規模拡大した教会と会員数だが、近年はマイナスに転じ、この教会活動全般にわたる規模減少はこれより後も続き、中でも教職数と各個教会の財政規模の減少は確実との予測を推移表にして提示した。その上で、JELCが向かおうとするこれからの方向性を鮮明にする討議となるよう本会議への期待を述べた。
教会事務局を構成する4室も職域からの発題を行った。広報室安井室長は、インターネット環境と伝道に関する提言と考察を述べた。
管財室青田室長は、全礼拝堂・牧師館の改築・新築実績をと土地建物回転資金の経緯をそれぞれ一覧表にして配布した。また、過去2度あった給与改定検討委員会の主たる論点を発表した。
宣教室からは、現行方策の「標題」「基本目標」の再定義と、実践する教職の働きのあり方に関する議論を要請した。
加えて、会議に先立って依頼されていた、これまでの教区宣教方策の分析、教区の役割と機能に関する現状レポートが各教区長よりなされた。
この後、全体での意見交換となったが、議論は多岐に及んだ。教区内での相互支援のあり方、各個教会における建築決断の主体性と教職配置の関係、牧会委嘱に対する体験的な評価、具体的事案から見える土地建物関係現行制度への要望、教職の働きの多様化傾向、収益事業の見通しと収益使途等々、課題の山積も実感されたが、宣教の進展を目指す熱気漂う時間でもあったのは本報告に記したい。
本宣教会議は当然、会議出席者のみならず、教会全体での一定の理解と共感があって、初めて意味あるものになると考える。詳細は、送付される「宣教会議記録」をご覧願いたい。
徳善義和牧師 キリスト教功労者として顕彰される
徳善義和牧師(日本福音ルーテル教会定年教師、ルーテル学院大学名誉教授)が、キリスト教功労者として顕彰されました。
キリスト教功労者顕彰は、公益財団法人日本キリスト教文化協会(代表理事 近藤勝彦さん)により、キリスト教関係の宣教・教育・社会・福祉・出版など文化の発展やキリスト教思想の普及に貢献のあったキリスト教信仰者の方々を顕彰するものです。
今回、45回目となる顕彰者として徳善義和牧師と松居直さん(児童文学者、編集者)が選ばれました。これまでに日本福音ルーテル教会の牧師として顕彰されたのは、岸千年師(第10回 1979年)、山内六郎師(第16回 1985年)、 青山四郎師(第21回 1990年)です。
顕彰式典は、2014年10月20日、東京銀座の教文館ウェンライトホールにて行われ、大勢の関係者が集いました。徳善牧師の長年にわたるルター研究、神学教育、牧師養成、エキュメニカル運動のリーダーシップ、そして牧師、説教者としての歩みに共に感謝するひと時となりました。
多岐にわたるご活躍の中でも、ご自身、牧師としてその歩みをなしてきたことへの言及がもっとも栄誉なことであると話されました。かつて、ルーテル学院大学・神学校のチャプレンを兼任された際、祈るという役割を担えることを喜んでいると学生たちに挨拶されたことを思い起こします。そして、学院における牧会の役割を担われました 。 学生たちは教授が牧師として活躍するのを目の当たりにしたのです。 牧師と教会を養い育てる牧師。今回の顕彰はそのことの確認でもありました。心からお慶び申し上げ、これからの歩みに主の豊かな祝福をお祈りいたします。 (広報室)
2014年度ルーテル 「連帯献金」のお願い
日本福音ルーテル教会は、今日の社会・世界における福音の宣教、奉仕、災害・飢餓に苦しむ方々に連帯したいと願い祈ります。そのために「連帯献金」の呼びかけを致します。今年度も各個教会及び教会員・教会関係者の皆様から、多くのご献金を感謝致します。今後ともご協力をお願いいたします。
[ブラジル伝道]
1965年から日本福音ルーテル教会の海外伝道として誕生した、サンパウロにある日系人教会の宣教支援と2009年4月より宣教師として派遣されている徳弘浩隆牧師夫妻の人件費を補うために、毎年200万円の募金目標を掲げています。ブラジル人牧師との協働、 日本からの宣教ボランティアにより活発に活動が続けられています。
[喜望の家]
1976年に開設された大阪の「釜ヶ崎ディアコニアセンター喜望の家」は日本福音ルーテル教会のセンターです。アルコール依存を抱えた方々の支援・相談、アルコールを飲まない生活を支えるための「自立生活支援プログラム」の提供、病院訪問、さらに「路上生活相談」として、路上生活を余儀なくされている方の生活や医療の相談を行い、路上生活から脱出を手助けする支援を展開しています。
[メコン流域支援]
日本福音ルーテル教会は「メコンミッション活動」として、メコン川流域の人々のための宣教・教育・奉仕事業を香港、シンガポールのルーテル教会と共同で展開しています。
[世界宣教のために]
緊急の支援を必要としている人々の救援活動及び宣教・奉仕活動に対応するために「無指定献金」を設けています。無指定献金の配分・送金先はJELC常議員会に委ねられています。
▼上記献金の送金先▼
「連帯献金」を捧げてくださる場合には、それぞれの献金目的を郵便振替用紙に明記して、以下の口座に送金くださるようにお願いします。
郵便振替
00190-7-71734 名義(宗)日本福音ルーテル教会
2015 年度版教会手帳住所録 正誤・変更
2015年版教会手帳住所録につきまして、下記の通り表記に誤りがありました。お詫びして訂正いたします。また、住所録校正後に変更のご連絡をいただきました件につきましても併せてお知らせいたします。 事務局
ページ 誤・変更前 → 正・変更後
P4 教会 聖パウロ教会 FAX →電話・FAX共用:03-3634-7867
P6 教会 長野教会 共用 →FAX新設:026-217-8520
P8 教会 掛川・菊川教会 齋藤幸二(兼) →後藤由起(兼)
P11 教会 岡山教会okayama@jelc.or.jp →
okayama.lutheran@gmail.com
P15 教会 宇土教会 立野泰博 住所:大江4-21-17 →
大江4-20-23
P18 引退 田中良浩 電話→ 電話番号変更:03-6318-7278
P60 社会事業 社会福祉法人
レインボーハウス福祉会(理事長)→ (施設長)