るうてる2011年1月号
説教「光なる主に出会う旅のはじまり」
「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。
わたしの助けは来る。天地を造られた主のもとから。」
詩編一二一編一~二節
昨夏、富士山に登った方は約三十二万人で過去最高だったそうです。わたしも何度か登頂したことがあります。山に登る理由は人それぞれです。 山は自分自身や他者との出会いの場です。山頂までの登り坂も帰りの下り坂も苦しい時があります。そんな時、自分を励まし、新たな可能性に出会います。時には仲間に励まされたり、すれ違う人と挨拶を交わす出会いも喜びです。また創造主に出会う機会でもあります。眼下に広がる景色や高地にだけ咲く花。それは人間のわざを越えた神さまの創造、恵みを感じずにはいられません。
そして富士山に登る人は雲の下、地平線から昇ってくる太陽の光を目の当たりにします。苦しみの中に感動を求めて登る。山頂で昇ってくる朝日を目の当たりにする時、苦しかったことや体の疲れがなくなることはありませんが、そこに希望の光、決して明けない夜はなく、光と暖かさの朝が必ず来ることを受けとめて、再び歩み出すことができるのです。
詩編一二一編は都に上る歌と言われています。都に巡礼に行く時の歌か補囚から都に帰る時の歌か、いずれにせよ、神さまへの強い信頼が描かれています。
その詩の美しさにこれから都に行けるのだという喜びや美しさが描かれた詩と思われがちですが、全く反対なのです。当時の旅は危険がつきものです。自分を取り巻くさまざまな危険や障害を思い浮べて主に祈っている様子が想像できます。帰って来ることのできない旅かもしれません。山そのものの険しさだけではなく、昼間ですら盗賊が出る危険な場所にこれから入っていくのです。 闇に覆われた時、何が起こるか分からない。だからこそ、彼は祈ります。この道を守ってください、この困難の中にあなたが共にいてくださいと。山を越えていくことは神さまに出会うことでもあり、主の助けの中歩むことに彼は気づいているのでしょう。
聖書ではしばしば荒れ野は神さまに出会う場所として出てきます。モーセに率いられた民は荒れ野をさまよう中で水が湧き、マナが降る神さまのわざを通して、自分を生かしてくださる神さまの存在を身近に感じ取ることできました。
同じように山も神さまに出会う場所です。石ばかりで、植物もあまり生えないような不毛な場所。何もない、希望がない、先が見えない、不安ばかりがあるように感じる場所です。進むも帰るも苦しいのが荒れ野であり、山なのです。
わたしたちの人生は一見華やかに見えますが、生涯の歩みを全うする険しさは荒れ野をさまよい、山を登っていくことと同じです。大きな困難がありますし、疲れを感じることがあります。もう一歩も歩くことができないと思い、立ち止まって後ろを振り返るような時が。越えることのできないように思うような困難、山に直面した時、わたしたちは主に寄り頼み、信頼して祈ることからはじめていけばよいのです。
富士登山は失敗しても何度でも挑戦できます。今日も明日も日が昇るからです。山頂で光を見られないこと、太陽の暖かさが届かないことは決してありません。必ず日は昇ります。
わたしたちの人生の歩みにも今日、希望の光は輝き、明日もまた輝きます。その繰り返しが一年であり、人生です。輝く太陽は光と共に暖かさをもたらしてくれます。すべての人に朝は訪れ、光と暖かさをもって希望を与えるのです。喜びの時も苦難に押しつぶされそうな時も、この険しい道の中で主に出会い、その輝きを感じ、主の助けがあることを心に留めて歩んでまいりましょう。
一月とは新しい一年の旅路、登山を通して輝きと暖かさで包んでくださる「光なる主に出会う旅のはじまり」の時、祈りから始まる時なのです。
帯広教会牧師 加納寛之
風の道具箱
人生に締め切りはありません
「神様助けて」と叫ぶときはどんなときでしょうか。切羽詰まった時、お手上げの時、自分ではどうしようもなくなった時です。
いろいろな所から原稿の依頼をうけます。そこには締切日が書いてあります。原稿依頼日から書き始めれば余裕です。毎回のことですが、今回こそ早くやろうと思うのです。ところが、まだまだと思っているうちに、そろそろと思う。さあこれからと思いつつ、だんだんあせってくる。明日からと思うのが締切日の1週間前となり、胃が痛くなるのが締切3日前。そしてついに「神様助けてください」となるわけです。こんなことをしながら、原稿を書き上げる時は締切日過ぎとなります。
なまけているわけではありません。文章にしなくても、頭の中ではあれこれと考えています。そのことが頭から離れることはありません。それをまとめる集中力が問題なのです。余裕がある時は集中力がでません。これが「神様助けて」と祈る時、抜群な集中力がでてきます。
自分ではどうすることもできない状況で、神様にすべてを委ねる。すると神様の力で導いて下さいます。人生に締切日はありません。それだけでも祝福ですね。
牧師の声 私の愛唱聖句
神水教会 角本 浩
恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け、わたしの救いの右の手であなたを支える。
イザヤ書41章10節
いつかこのコーナーに執筆する順番が回って来るのだろうなぁ、と思いながら、先生方の文章を読ませていただいていた。回ってきたらどうしよう、とも思っていた。回って来たときには、これを書こう、というのが浮かばないままだったから。
これまで信仰深い生涯を送られた方々の御葬儀をさせたいただいた時に、好きな讃美歌はどれでしたか、と御遺族の方に尋ねると、どれも好きでした、これって決められません、と答えが返って来ることがしばしばあった。それにすこし似ている。
もちろん、聖書を全部味わいつくした、なんてとても言えるわけではない。しかしそれでも、いつ、どのページを開いても、聖書は楽しんでいるところがある。
それでもどれかひとつ、と言われたら、主はあなたと共におられる、の言葉が浮かんでくる。これを書いているのが、ちょうどアドベントだから、というわけではない。
主が共におられる・・・よく思い起こしている。
特に、これからあまり好ましくない時間を過ごさなければならない時、何かよくないことが起こった時、起こりつつある時、まず真っ先に、イエス様がそばにいてくださるんだ、きのうまでの時間も全部、主は一緒にいてくださったんだ、だから大丈夫、と思い起こし、自分を励ましている自分がいる。
けっこう危ない事故に遭ったことが二度ある。どちらの時も、ああ、死ぬのかな、死にたくないな、と思った。でも、少し落ち着いて振り返り、たとえそうであるとしても、イエス様は一緒にいてくださるのだから恐れなくていい、この身を任せていよう、と思える自分でいたい、と思った。
こんなわたしだから、放っておけなくて、主はいつもそばにおられるのだろう。
信徒の声 「ルーテル教会と私」
諏訪教会 及川和子
私が教会へ行き始めたきっかけとか、目的とか、考えてみても何もありませんでした。
それだけに、こうして80歳を越した現在まで、ずっと教会に籍を置いていただいたことは、何というお恵みでしょう。
私は、両親がルーテル教会の信者だったために、知らないうちに、幼児洗礼を受けていました。母が娘時代に、フィンランドのミンキネン宣教師より洗礼を受け、のちに父も渡辺忠雄牧師(夫人はシーリさん、子息は忠恕さん、暁雄さん)から洗礼を受けましたので、子ども全員、幼児洗礼を受けておりました。七人の子どものうち四人はすでに召されましたが、長女は松本教会に、兄嫁(後町幸枝)は大岡山教会に、四女は日基柏木教会に、そして、末っ子の私は諏訪教会にと、それぞれ属し、守られております。
何歳の頃か覚えはありませんが、気がついた時には、姉たちと日曜学校へ行っておりました。当時は子どもからお年寄りまで層が厚く、ことに青年の方たちがお元気でした。その頃、おもしろがって作られた数え歌で、今でも一部覚えております。「一つ出たわいヨサホイ・ホイ、人に知られたルーテルのホイ、デコボコ信者の棚卸しホイホイ」というものです。数え歌は十までありましたが、残念ながら、大半は覚えておりません。でも、そうした雰囲気の中で、子どもたちものびのびと育っていったように思います。
“主われを愛す”とか、”神様は軒の小雀まで”等の讃美歌はよく歌い、今でも大切な愛唱歌になっております。
でも時代はどんどん戦時体制に移っていき、とうとう教会へも行くことができなくなってしまいました。牧師先生、宣教師の先生方は、どんなにかご苦労があったことと思います。 そして、昭和24年の春、タンミオ宣教師が再来日、山田与八牧師と共に諏訪での伝道が再開されました。その時の鮮烈な印象は、忘れることができません。その種まきの業が、今の諏訪教会の礎になっているのは言うまでもないことです。 感謝。
園長日記 毎日あくしゅ
「神様に守られて。」
めばえ幼稚園は、1937年1月に開園しました。赤い三角屋根と白色の下見板張りの外壁の園舎は、創立当初のもので、2009年、札幌市より「景観重要建造物」に指定されました。温かみのある園舎を生かして、子どもたちとあそびを深めています。
今年は北海道も暑い夏が続き、子どもたちも水あそびを十分に楽しむことができました。秋には園庭の木々の紅葉を眺めながら、季節の変化を感じて過ごしました。
クリスマス礼拝の中では、年長組が中心となって、「ページェント」をします。ひとりの男の子が「おとうさんも博士をやったよ」と報告を受けたときに、親子で通園することのできた歴史を感じる喜びもあります。
まぶねのイエス様を囲んで「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と声をあわせてのメッセージは、毎年、胸が熱くなります。子どもたち、お父様、お母様方の心にも残っていくことを願っています。
二学期を終えて、冬休みになりますが、北海道では1ケ月間あります。子どもたちは、クリスマスの余韻を楽しみながら、お正月の経験や家族とゆっくり過ごして成長してくることでしょう。
新しい年も神様の恵みと守りのなかで、歩んでいきたいと思います。
めばえ幼稚園 園長 梅原裕子
日本福音ルーテル教会の社会福祉施設の紹介 10
社会福祉法人別府平和園 児童養護施設 別府平和園
園長 近藤 功
大正9年(19年)、アメリカ・ルーテル教会宣教師モード・パウラス女史は、日本におけるルーテル教会の決定にもとずき、熊本・慈愛園を創設しました。以来、この社会福祉事業は養老院、保育所を併設し次第に大きな社会事業団として、九州はもとより、戦前の日本の社会福祉事業の先駆的役割を果たすにいたりました。しかしあの不幸な太平洋戦争はパウラス女史と慈愛園を引き裂きました。
終戦後、再び来日したパウラス女史の活躍は、はるかに戦前をしのぎました。別府平和園は彼女の戦後の諸事業の一つとして生まれたのです。別府を訪れた彼女の教え子(加藤夫妻)が、大分、別府の港にあふれる戦災孤児、大陸からの引き上げ孤児、米軍基地の落とし子たちの惨状を知り、女史に孤児院の建設を提言したことに端を発します。昭和25年、別府平和園は慈愛園の分園として発足しました。
戦後の混乱期に、大勢の子どもたちを育てることはまさに、至難の業でした。しかし別府平和園は、子どもたちの命を護る砦としてその試練にたえました。数多くの子どもたちが巣立っていきました。やがて日本の復興がすすむにつれて、直接命の危険にさらされる子どもは少なくなりましたが、心の保護を必要と子どもがふえてきました。それは別府平和園の使命が、単に保護収容するだけではなく、傷つき病める小さい心を保護し癒し、育てることに代わったことを意味します。別府平和園は保護収容施設から、それ自体教育能力をもつ生活共同体として新しく出発すべく決意し昭和61年12月末、現在の地に新築移転をしました。
私たちの使命と課題は、親の暖かい愛情を与えられなかったか、或いはそれらを失った小さな魂を、保護し育てることにあります。これらの魂は当然のことながら、震えおののき、或いは傷つき病んでいます。従って、私たちに与えられる課題は、この小さな魂を如何に生き生きと、美しく育てるかということにあります。私たちの課題は、知的或いは情緒的なものではなく、倫理的なものとなります。人間の魂が生き生きと美しく輝くのは、その人間が倫理的に真剣に生きているときであるからです。愛の中で子どもたちの魂は癒され、自由の中で生き生きと息吹、生きる意志が育つのです。愛と自由の中で魂を育て、愛と自由と共に子どもたちを未来に送りださねばなりません。そして送りだされた魂が、傷つき病み、生きる意志が弱まった時、再び愛と自由の中で癒し「生きる力」を甦らせてやらねばなりません。
「もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみなともに悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみなともに喜ぶ。あなたがたはキリストのからだであり、ひとりひとりはその肢体である。」『コリント一』12・26~27(口語訳)
児童養護施設別府平和園は、かく在りたいと願ってます。
高齢者伝道シリーズ(P2委員会)
教会建築における高齢者への配慮 第1回 「聖壇の段差」
静岡教会 西村晴道
最近の教会建築では、聖壇の段差をなくして、床を会衆席レベルと同じとすることが多くなりました。
ルーテル教会は、福音の説教と聖礼典の執行として礼拝堂の聖壇には、この二つの中心があります。特に、聖餐式は全員が前に出て祝福を受けます。高齢の方、足の不自由な方にはあの段が難関です。スロープを設けたところもありますが、短いスロープではかえって滑りやすくたいへんです。教会員が家族の思いやりで補助してあげることはあたたかい神の家族として素晴らしいことだと思います。
大きな教会では聖壇部分が見えないと前で何が執り行われているかわからず問題ですが、100席程度の一般の教会では、説教台の部分のみを上げ、あとは会衆席と同じレベルの床にして聖餐式が苦にならないようにするのもよいと思います。
私が関わりました名古屋めぐみ教会(写真)は2つの点から段をやめました。一つはバリアフリーのこと、もう一つは会堂をタテ礼拝とヨコ礼拝との二方向で利用できるようにするのに段が障害とならないためにという理由です。
通常の礼拝は聖卓を囲み横長スタイルで、結婚式はヴァージンロードを長く取れるタテ型スタイルとなります。このように、聖壇の段差がないことは高齢者だけでなくみんなに優しく、その時々に応じて自由に使うことができます。(西村建築設計事務所)
「フィンランド・フェスタ」に参加して
2010年11月23日、「勤労感謝の日」、横浜教会で「フィンランド・フェスタ」が開催されました。このイベントは、日本福音ルーテル教会と共に宣教しているフィンランドの宣教団体「フィンランドルーテル福音協会」から宣教師が日本に派遣されて110年になることを記念し、感謝して、横浜教会が主催したものです。おりしも、その秋に、フィンランドから、横浜教会を含む神奈川東地区に、信徒宣教師の吉村博昭先生が、そして、スオミ教会にはポウッカ先生が派遣されたこともあって、両先生とそのご家族の全面的協力を得て、ホットでディープな集いとなりました。
60人あまりの人が集まりました。地区の横須賀、日吉の教会からも、そして、スオミ教会をはじめ首都圏の教会からも。横浜教会の牧師、東先生は、「ちらしやインターネットでの案内を見て来ましたという、この地域の初めての方も多いです」とのことでした。フィンランドへの関心の高さを目の当たりにする思いでした。
フェスタはランチからスタート。吉村先生の夫人パイビさんが中心になって作ってくださったフィンランドの家庭料理をいただき、その後は「フィンランドを知ろう」というテーマで、スライドを見ながらフィンランドの歴史と、驚異的発展を遂げる現在を吉村先生が話してくださいました。
ポウッカ先生はフィンランドの歌を楽器演奏や独唱。先生の美声は有名ですが、独特の曲想に、遠いフィンランドに思いを馳せました。それからポウッカ夫人パイビさんの「フィンランドと日本の学校教育」についての講演を聞きました。能力教育、道徳教育と共に価値教育の大切さが語られ、その点が日本と決定的な違いかなと思い、考えさせられました。
広報室長 徳野昌博
LCR日本語部宣教開始22周年記念礼拝
立野泰博牧師を迎えて
日本福音ルーテル教会とアメリカ福音ルーテル教会(ELCA)は、2005年に「アメリカでの日本人伝道を協力して行う協約を結びました。それによってJELCから日本人牧師をロスにある、復活教会(LCR)ファースト教会(FLC)に宣教師として派遣してきました。昨年から新しい宣教協力が始まっています。現地からLCR日本語部22周年記念礼拝の様子を報告していただきました。
私達日本語部にとって、11月に迎える宣教記念礼拝にどなたをゲストスピーカーにお呼びするか、それが毎年の大きな課題である。
今年は再び日本福音ルーテル教会事務局長の立野泰博牧師をお迎えすることができた。立野牧師は宣教20周年の時にも御祝いのメッセージをしてくださり、私達にとっては親しみ深い先生である。特に今年の夏にLCRから20名の英語部教会員が日本を訪問したとき大変お世話になった。その英語部のメンバーたちも、日本語部のメンバーと一緒に立野先生のLCR訪問を心待ちにしていた。
立野先生が今回LCRに来られたのは、JELCからの公式訪問であった。前回は日本語部の礼拝だけ出席されたが、今回は公式訪問ということで、11月21日だけでなく、パレスチナの地にも何度も訪問し、福音宣教を続けていることは、これらのギフトから無言のうちに語られて来た。
11時半からの日本語礼拝では、「主の年輪は語る」というテーマでメッセージをくださった。先生はパレスチナの人達が、倒されたオリーブの木を大切に家の外に置いているのを見て、どうしてか質問したそうだ。「これは私達の生まれ育ったこの地の歴史を語っている木だから、大切なのです。」という答えに心を打たれた先生は、そのオリーブの木をどうにか出来ないものかと考えた。そして倒されたオリーブの木からフルートを作り、そのフルートでコンサートをし、CDも制作し、集まったお金でパレスチナの子供達にピアノを寄付した。パレスチナの子供たちの心に、平和をもたらす音楽教育のためである。オリーブの木に刻まれた歴史の年輪のように、私達日本語部が迎えた22周年も年輪である、と先生は語られた。
LCRに日本語部が創立されてから、3人の牧師がJELCから派遣された。前任牧師であった伊藤文雄先生は、立野先生の神学校時代の恩師でもあり、先生が前回LCRに訪問されたとき、伊藤牧師が先頭に立って日本語部を引っ張っている様子が印象的だったという。今回は、アメリカの神学校を経て牧会をされてきた岸野牧師が日本語部を「ほんわか」ムードで包んでいるように感じると話された。
私達の日本語部は、22年の間に様々な牧師を迎え、様々な出来事があった。辛いこともあったし、楽しいこともあった。毎日の積み重ねが今に至っているのである。22周の年輪一つ一つが大切な輪であり、その輪を終わらせてはならない。今22周目の輪に存在している私達一人一人が、神様に用いられて次の輪に繋げて行く大切な仕事をしているのだ。それぞれの生活の場は違い、毎日起こる出来事は違っていても、そこに関わってくださる神様と私達の関係によって、私達は繋がっている。そして神様によって繋がっていることによって、それぞれの場に置かれている私達が、それぞれの年輪を築きながら、神様の世界を広げて行くことができるのである。
立野先生の楽しくも力強いメッセージを今回も聞くことができたことは私達日本語部が新たな年輪を重ねるこの時に、最もふさわしい神様からの贈り物であった。
礼拝の後は、久しぶりに日本語部の礼拝に出席された方々も交えて、楽しい愛餐のひと時となった。短い自己紹介の中で、立野先生の説教を聞きながら、自分がこの教会に導かれた時はどんな時だったか、様々な思い出が胸にわき起こって来たと、感想を述べられた方もあり、私達がそれぞれに、立野先生のメッセージを通して語られた「主の年輪」をしっかりと聞くことができたことが確信できた。
温かい食事の交わりの中で、これからもこのハンティントンビーチの地に置かれた私達の小さな群れが、ますます神様に用いられ、喜ばれる群れとして年輪を重ねて行こうという願いと祈りがこみ上げて来た。
来年の11月はどのような宣教記念礼拝になるだろう? どのような将来が待ち受けていようと、毎日毎日を神様と共に歩み、確かな年輪を重ねて行ける私達でありたい。
芙美Liang 記録
ヴァティカンとの神学対話委員会
ルター研究所 鈴木浩
昨年の一〇月二二日から二九日まで、ドイツのレーゲンスブルクでヴァティカンとジュネーブ(ルーテル世界連盟)の神学対話委員会が開かれた。年に一度、一週間の会期で開かれてきた定期的な委員会で、今回が四三回目となる。長い間、ルーテル学院の徳善義和名誉教授がこの委員会の委員をしてきてこられたが、昨年度からわたしがその後任となった。ヴァティカンから一〇人、ジュネーブから一〇人の委員が、両教会の相互理解と協力関係の進展のために、そして最終的には全教会の一致のために対話を継続してきた委員会である。
今回の議題は二つ。一つは、二〇一七年、つまり六年後に迫った「宗教改革五〇〇周年」をカトリック教会とルーテル教会とが共同でどのように記念するのか、という点。もう一つは、洗礼についてはほぼ見解が一致している両教会が、それを更に進めて聖餐についても相互理解を深めて、現在の時点では公式には一緒に祝うことができない聖餐を共に祝えるようにするための道筋を探ることである。
二〇一七年一〇月三一日、両教会は共に五〇〇年前にルターが『九十五箇条の提題』を貼り出したヴィッテンベルクの城教会で、合同の礼拝を守ることになると思われる。今回の作業は、それに先だって発表される共同声明……両教会が宗教改革とその後の五〇〇年の歴史を共にどのように理解し、総括しているのかについて、共同で発表する声明……の文案の検討であった。最終的結論は来年の委員会に持ち越されたが、宗教改革から五〇〇年、ついにここまで来たのか、という感慨ひとしおであった。その共同声明には、各国でカトリック教会とルーテル教会とが五〇〇周年を共に記念する同様な催しをしてほしい、というアピールも付記されると思われる。
共同聖餐については、理解の違いが依然として小さくないので、これからも辛抱強い対話が続くと思われるが、教会の一致が最も鮮やかに示されるは、一緒に聖餐の食卓にあずかることなので、恵みの食卓に共にあずかれる日を夢見て、両方の委員の対話が忍耐強く継続されていくことであろう。
ともかくも、宗教改革から五〇〇年、両教会が一緒に一五一七年のあの出来事を記念して礼拝を守ることができれば、それが持つ社会的インパクトは非常に大きいであろう。
来年の委員会は、この委員会が四三年前に始まって以来初めて、日本で開かれることになった。会期は七月八日から一八日の予定である。