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るうてる2007年

るうてる2007年1月号

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さあ、ベツレヘムへ行こう。 パレスチナ平和交流プログラム

11月20日から10日間、山之内議長をはじめ13名の訪問団(団長・立野牧師)が、パレスチナを訪問しました。

 「あなたたちがここにいてくれてありがとう」「ここに来てくれてありがとう」。日本ウィークに集まった方々の「ここに」という言葉の重さを感じました。そして現地の人たちの笑顔に支えられ平和交流が実を結んだと思います。
今回、ベツレヘム国際センターを会場に2日間のワークショップを行いました。ベツレヘム・クリスマス・ルーテル教会のミトリ・ラヘブ牧師の要請によるものでした。ベツレヘムと日本に架け橋を築きたい。高さ8メートルの分離壁に囲まれ、自由に旅行することができない現地の人たちにとって、海外文化との交流は、「ここに来る」ということでしか成り立たないということを教えられました。「ここにいて、ここに来て」という言葉が現在の状況を示しています。
ワークショップでは、折紙、絵手紙、書道、茶道、浴衣の着付け、剣玉やコマなどの遊びの紹介をしました。どのコーナーも大好評で、毎日延べ100名以上の地域の方々と交流ができました。オープンハウスでは、広島市民が描いた原爆の絵をパネル展示しました。ラヘブ先生のお母様の葬儀と重なったため、被爆証言、「サダコ物語」のアニメ、日本文化紹介の映像などは上映できませんでしたが、DVDをセンターに寄贈することができました。夜に70人分の「すしディナー」を作りました。これもラヘブ牧師のアイデアで、なんと予約制による夕食会でした。山之内議長自ら先頭に立って握りずしを作る姿にみな感動してくださいました。
この交流の中で、教会やベツレヘム国際センター、学校を通して、宣教のあるべき姿をも学びました。ラヘブ牧師は「ムスリムの人たちが改宗しキリスト者となることはありませんし、それを期待していません。ムスリムの人たちにとって改宗するということは死を意味するからです」と教えてくださいました。それでは教会は何のためにあり、何をするのか? その答えは、今回の平和交流にあったと思います。私たちが見たものは「地域への奉仕」を通してのキリスト者としての証だったように思います。キリスト者として、ここで共に生きていくことの実践を教えられました。        (立野 泰博)

各地の働きから 宣教する教会

 各地からそれぞれの宣教への取り組みの様子をご報告いただきました。

浜名教会

 浜名教会では今年、「三ケ日 イルミネーションフェスタ」に参加しました。この催しは、年末の商店街を活気づけようと地元商工会が企画したものです。
 11月後半、日曜礼拝後と祝日を利用して山本裕牧師をはじめ、教会員ほぼ全員で飾りつけ作業を行いました。教会の屋根に登って十字架に電球を巻きつけ、飾りの土台になる板を、工具で切り、電球を差し込む穴をドリルで開けて、となかなか大変な作業でした。でも、その甲斐あってすばらしい出来上がりです。地域の方たちも「すごいね」「きれいだね」と声をかけてくださいました。
 「この町には教会がにある」ことを、地域のイベントに共に参加し、アピールできたことは本当にうれしいことです。このイベントに参加するにあたって多くの方たちから、お支えお祈りをいただきました。この場をお借りして心からお礼申し上げます。本当にありがとうございました。
(浜名教会 牧 摂)

札幌教会 スオミ礼拝堂 https://jelc.or.jp/sapporo

 礼拝堂に入るために一段ずつ上る石段は札幌教会のシンボルとも言えます。しかし、高齢化社会を迎え、この高い石段が礼拝参加の大きなネックになってきました。そこで、献堂90周年事業の一環として礼拝堂横のスオミホール(バリアフリー)で礼拝を共にできるようにと、中継設備を設けました。聖餐式もそこで受けられます。
 具体的なシステムとしては、礼拝堂の後方にビデオカメラを設置し、そこから隣の会館まで有線でつなぎ、ホールの受信機~テレビ(ビデオ端子)に接続しています。この設備で工事費を含め21万円。景観や冬期間の落雪の危険性を考えると無線にしたほうがいいという意見もありましたが、コストは約2倍かかります。実際にホールで礼拝をしてみると、音声上の不具合(カメラ近くの音を大きく拾いすぎて説教等が聞きづらい)が発覚したため、追加で音響関係の工事(8万円程度)をしました。
 システムは整いましたが、教会に足を運ぶことすら難しいメンバーが増えているのも現状です。一人でも多くの方が礼拝を共にできるようこれからも教会として積極的な取り組みをしていきたいと思っています。
(札幌教会 後藤 裕美)

クリスチャンのライフカレンダー

~堅信礼の日に~

 生まれてまもない頃、私の腕に抱かれて洗礼を受けたあなた。まだ何もわからずオギャーオギャーと泣くだけだったあなた。だんだんと成長し、教会学校に通うようになり教会の中で育てられ、あなたは高校生になりました。
 小中学校の頃は、クリスチャンが圧倒的に少ない学校や地域の中で、自分が皆と違うことに何度も胸を痛めていましたね。
「何でうちだけキリスト教なんだろう! お母さんには私の気持ちはわからない!」と激しく泣いたこともありましたね。
 ヨーロッパでは、「堅信式」は大人への仲間入りを盛大に祝う儀式だと聞きます。あの時私の腕の中で洗礼を受けた赤ちゃんのあなたは、今日自分の足で聖壇に向かい「これからの人生を神様と共に生きてゆきます」と告白しました。あなたは、あなたの一歩を今日歩き始めました。大切な方、一番頼りになるお方、イエス様といっしょに。
 今日はあなたの巣立ちの日です。

各地のニュース 募集中

機関紙「るうてる」では「各地の働きから 宣教する教会」に掲載するニュースを募集しております。
 情報は各教区の機関紙委員を通してご連絡ください。
■機関紙委員■
・北海道特別教区 v.ソベリ先生、岡田薫先生
・東 教区 平岡正幸 先生
・東海教区 末竹十大 先生
・西 教区 滝田浩之 先生
・九州教区 岩切雄太 先生
 沢山の情報お待ちしています。

牧師の声「私の愛唱聖句」

東教区 武蔵野教会 牧師  大柴 譲治

生きるにしても、死ぬにしても

ガラテヤの信徒への手紙2章20節/フィリピの信徒への手紙1章21節/ローマの信徒への手紙14章8節

愛唱聖句を一つ選ぶことは難しい。私の場合、状況によって変化するから。敢えて挙げるとすればやはりパウロの一連の言葉になろうか。それらは私にとって常に帰るべき原点である。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ信徒への手紙2章20節)。「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」(フィリピ信徒への手紙1章21節)。「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」(ローマ信徒への手紙14章8節)。
生と死の問題。罪と並んで、それが私にとって最も根源的な問題であることが聖句からもよく分かる。私が臨床牧会教育(CPE)やターミナルケア、時間論にこだわるのもその辺りに根があるのだろう。
パウロは死を恐れない。死ねば直接キリストと共にいられるからむしろ望ましいとさえ言う。そこまで私は言い切れない。しかし私なりに「安心してジタバタして死んでよいのだ」と信じている。
幼い頃から病いのため何度か入院生活を余儀なくされた。思春期には自他の偽善性と格闘しつつ「存在自体が悪に過ぎない」と死を想ったこともあった。20歳で友が心臓病の手術に失敗して死んだ。鬱状態に落ち込む中で京都大学学生カウンセラー石井完一郎氏の『青年の生と死の間』(弘文堂)という本と出会い、そこに一条の光を見出した。そして一人の牧師の死を通し私自身も牧師の召しを受けることになる。思い返せばすべてが死と関連していた。限られた命であればこそ、この人生を何か意味あることのために用いたい。その思いは今も変わらない。
パウロの言葉はどれもキリストの光の中で輝いている。パウロは徹底的に打ち砕かれて無色透明である。八木重吉の詩を思う。「神の愚は人の賢きにまさる/己れを虚しうし神をひとにみせよう/自分がすきとほって背中の神を人にあらわそう」

信徒の声「教会の宝石を探して」

九州教区 大分教会 信徒  西村 鶴子/井野邊 キク
教会にいらしたきっかけは
西村:20歳のとき友達に誘われて来ました。聖書研究ですでに受洗していた主人と知り合い22歳のとき午前の礼拝で洗礼を受け、午後に結婚式を挙げました。1953年のことです。それから子育ての数年間を除いて教会に来ています。来ないと落ち着きません。
井野邊:私は義姉から誘われて教会に来ました。他県から越してきた私には、この土地に友達がいなかったので、教会に来ることはとても楽しみでした。主人はあまり良い顔をしなかったので、遅くまでは居られない教会生活でしたが楽しみに来ていました。
長い教会生活の中には、いろいろなことがありましたね
西村:主人を亡くして、また39歳の娘をくも膜下で亡くしたときがいちばん辛かったですね。奇跡が起きてほしいとどれだけ祈ったことか。その時、友達や教会の人に助けてもらって、信仰があってよかったと思いました。数年後、息子夫婦が受洗してくれたのが嬉しかったことですね。
井野邊:主人を4年程前に亡くした後一年、気力が出ず外に出られなかった時期がありました。そんな時西村さんから磁気健康器を見に行かないかと誘われ、それがきっかけで外に出られるようになり、教会にも来られるようになりました。二人で礼拝帰りに映画観に行ったりもします。
お二人の教会での働きをお聞かせください
西村:聖卓を整えることを30年近くしています。この頃は聖餐式の準備もしています。別府平和園の子どもたちのために雑巾縫いも長い間しています。それにしてもキクさんは何事かあると必ず黙ってコツコツ手伝ってくれるのですよ。だから石井夫人が秘伝のカレーの作り方をキクさんだけに伝授したの。あとの人は教えてもらえなかったのよ(笑)
井野邊:書くことや話すことは苦手ですが、自分に出来る範囲のことはしたいと思っています。それが私にとってはいちばんのことです。
教会はお二人にとってどんな存在ですか
井野邊:風邪気味とか何となく気が重いときでも、教会に来て皆でワイワイガヤガヤしていると不思議と元気になって帰れるわね。私にとって教会は友達のいる楽しいところです。
西村:そうそう、教会に来ると安心するというか癒しがあるのよ。それに年々教会は依り所で交わりの大切さが分かってくるわ。私は教会が命、讃美歌を歌うことが大好きです。いつまでも元気で礼拝に来たいというのが今の望みです。

求道者の旅22.ケネス・J・デール

第22回 教会はゲームですか?

 聖霊を私は信じます。また、聖なる公同の教会、聖徒の交わり……(使徒信条)
 教会は聖なる、神の人々、そしてキリストの体等々と記述されて来ました。しかし多くの事はあきらめられているのではないでしょうか。もはや陳腐な制度と見られてはいないでしょうか。教会の本質は何なのでしょう。

教会と世界
 教会に関する一般書を読むと、愛の共同体、暖かみのある団体、神の恵みを受けたkoinonia(コイノニア)として強調されています。このアプローチとは対照的ですが、世界の凄まじい倫理的諸問題、社会が直面する生き残りの問題にさえも教会は関わっています。国家や地球のまさに存在自体が悲劇的、そして悪の力によって脅かされています。
 讃美歌を歌っている「救われた」人々の小さな、幸せな共同体は世界の大きなうねりに対してどのように関わっていけばよいのでしょう。教会のイメージは、荒れ狂う海に浮かぶ安全な島、冷酷な世界から逃れて来た者のための避難キャンプでしょうか。
 私はそうは思いません。むしろ、私たちの中で起こっている事が教会に属するすべての者を刺激し、「地の塩」「世の光」として押し出されるものとならなければと思います。社会をより良くするために働かなくてはなりません。なぜなら世界は神の創造であるからです。愛とその働きは世界の救いの力として教会の壁から外に出て行かなければなりません。
私たちはゲームをしているのですか?
 日本の友人が仏教について語る時、それは本来的ものではなくその教派が教えている宗教的「ゲーム」の一種である事は明らかです。祖先崇拝を適切に行わなければ悪い結果が生ずるという事に焦点を当てています。仏教の中心的な教えではないのですが、ある仏教団体においては一般的には促進されているように思えます。
 しかし、私はこれを通して、教会の信仰と実践について考えさせられました。クリスチャン(私)は本当に神に焦点を合わせ、純粋に、敬虔に神を頼んでいるでしょうか。私たちも教義やきまり、そして説教によって集会に来させるために操作したり、より多くのお金を得るために時としてある種の「ゲーム」をしているのではないでしょうか。
 もし私たちが絶えず霊的基盤、キリストのかなめ石に立ち返らなければ、ある宗教団体同様に宗教的「ゲーム」の変種を演ずる危険性があります。
(翻訳:上村敏文)

詩編を味わう 家族としての教会

見よ、兄弟が共に座っている。/なんという恵み、なんという喜び。(詩編133編1節)

—–珍しい集団、それが教会
 大祭司を中心に礼拝をしている人々の姿は、なんという喜びと恵みに満ちていることかと作者は歌います。今日的に言えば、教会という信仰共同体に人々が集っていることがどれほど素晴らしいかを表わす歌であります。
 教会という共同体は、今の時代の中では大変珍しい集団といわねばなりません。年齢性別に関係なく、だれであろうと所属することができます。それこそ雑多な人の集まりが教会の姿です。一般社会の中の集団はこれほど雑多な人を見受ける集まりは希有と言わねばならないでしょう。
 考えてみれば、一般社会とちがって教会に来るのにだれも試験を受けて入って来る人はいません。能力を問われることがないのが教会です。持って生まれた資質のままに教会では「いる」ことができます。成績が問われないのです。今どきの成果主義とは無縁の存在です。行為でなく存在が重視されるのが教会です。
このような集団は世のなかに教会をおいて他にありません。そのように考えてみればわたしたちは貴重な集団に属しているということになります。

—–家族としての教会
 だれでもがありのままの自分の姿でいることができる集団といえば家族を思い出します。教会は、社会の中での見知らぬ者同志が家族としていることができる集団です。老若男女が一堂に会し、共に同じ方向を向き、それぞれの姿にふさわしいことを考えたり、行動することができます。しかも揺籃から墓場に至るまで一生を預けています。教会をこのように考えると、この時代、この社会にあって、まことに貴重な存在と言わねばならないでしょう。
 そう考えるとき、教会に人々が集まっていること、それ自体が喜びであり恵みであるとすべきです。詩編の作者が「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」と謳うのは、そのような家族集団としての教会に連なっている姿をあらためて眺めて喜んでいるのです。
 しかし、家族だっていつも平穏無事というわけにはいきません。時には嵐が吹き荒れ、逆風に悩まされることもありましょう。家族問題を扱うカウンセラーがいう言葉があります。「全く問題がない家族が健康な家族ではない。問題が起った時に家族全体で考えることのできる家族が健康な家族である」。どのような家族も問題のない家族はありません。大なり小なり家族というものは問題を抱えるものです。教会も例外ではありません。何らかの問題を抱えるのがこの世に生きる教会の生の姿です。

—–教会に連なる感謝

 長年、一般企業で働き、定年後献身して牧師になった方がおいででした。この方が言われます。「わたしが会社で働いていた時は、これをしなさいと部下に言えば、皆ハイといってすぐ仕事をしましたが、しかし教会はそうはいきませんな。わたしがこれをしましょうと言ってもすぐには事が進まない。時間がかかったり、ときにはわたしの思うようならなかったりで、もどかしい思いをすることもある。教会とは難しいところですな。それを考えると若い時から牧師をしている人が羨ましい。そういう世界に慣れていますから」と言うのです。

—–キリストの家族

 そんな時、わたしは「それはそうですよ。教会には試験を受けて合格したから入ってきたという人はいません。天才もいれば凡人もいる。気の長い人もいれば、気の短い人もいる、うるさい人もいれば、優しい人もいる。だからといって勝手気ままにばらばらに集まっているわけではない。皆、同じ方向を向いていますからね。家族と同じです。その上、家族というのは、家族全体にとって何が大切で、何をすればよいかをいつも考えているものです。それがないと家族は本物の家族となりませんからね」と言うことにしています。
 教会に問題が起った時、教会が健康を取り戻す力強い助け手がおいでになります。キリストという大祭司です。ルターにせよ、カルヴァンにせよ、宗教改革者たちは、教会の中で問題が起るとキリストならどうなさったかを念頭において事の処理に当たったと彼らが残した牧会書簡は語っています。
 「キリストならどうなさったか」。これは大きな助けです。これがなければ、冒頭の詩編作者の喜びは実現しないでしょう。
(かくしゅういち)

宣教にかける夢

札幌教会(1月1日付で教会合同のため札幌教会となりました) 岡田薫
2006年10月28日、雨の予報が見事にはずれ、爽やかな秋晴れ。1996年から足掛け10年。紆余曲折を経ながらも念願の札幌北新礼拝堂が与えられた喜びを天も祝福しているような朝だ。献堂式に先立つ宗教改革主日礼拝では、現在編纂中の札幌北教会史を振り返りながら地域と共に育てられてきた教会の歩みを通して福音を聞いた。
 戦後間もない1949年、聖書の講義所として産声をあげた教会は、地域の子どもたちの保育所時代を経て1961年に教会用地として現在の土地を得ている。しかし、旧礼拝堂を構えるまでには開拓伝道の挫折、借家を追われ活動休止の状態に陥り家庭集会時代など幾度となく存亡の危機もあった。にもかかわらず、私たちはこの地で今日も喜びの朝を迎えている。どのような困難の中にあっても主の導きを信じ、それぞれの賜物を持ち寄りながら地道な活動を重ねてきた先人たちの姿があったことを忘れてはならないと思った。
遠くは九州、東海、関東から、近くは道内諸教会や近隣他教派の方々、そして町内会の皆さんが駆けつけ祝ってくださった献堂式。壮観で讃美の声も良く響いていた。また、各地から寄せられる祈りの声に大きな励ましを頂いた。こうしてあらためて振り返ってみると、あの礼拝は単に新しい建物が与えられた喜びを祝う時ではなかったということに気付かされる。この地に建てられたキリストの体、そこに連なるひとつの肢として立てられている私たち一人ひとりの存在を感謝し祝うひと時でもあったのだ、と。
現代社会は力や利益が一部の人々のもとに流れ、弱い立場の者たちがますます弱められている。処理能力を超えた仕事に忙殺されそうな現実は、教会も似たり寄ったりだ。どこかバランスを崩し、未来を希望に満ちたものとして語ることが、なんとなくはばかられるような時代。しかし、私たちの手中には福音という喜びのバトンがある。このバトンを手にしながら、この地にまかれた一粒の種としてどのように育てられてゆくのか。どのように生きてゆくのか。それがこれからの大きな課題である。
 宣教にかける夢、その答えは一言では語れない。ただ、たとえ土曜日であっても主日礼拝が活動の要であり、福音によって養われない限り私たちが宣教に赴くことは不可能だということを肝に銘じたい。なぜならここ数年は建築に向けての作業に加え、教会再編などの課題に取り組むことで会議ばかりが数多く行なわれてきた。必要なこととはいえ、祈りやみことばへの取り組みにどれほど心を注ぐことができたであろうか、という反省がある。ひと段落を迎えた所で、ようやくこの地の課題に向き合えるようになった。もしかすると、これはどの教会にも当てはまることかもしれない。まずは、自分たちの生活の座についてじっくりと考え、生かされいる場での神さまとの語らいの時間を大切にしたい。福音の広がりは地味ではあっても、そうした日々の積み重ねによって届けられてきたのだから。そして、近くても遠くても祈りによって励ましあいながら、委ねられた福音を運ぶ者であり続けたい。
「あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です」(コリントの信徒への手紙二 3章3節)
主よ、導きたまえ!

議長コラム

戦いの場に平和を パレスチナ平和交流プログラム

山之内 正俊
 パレスチナにあるクリスマス・ルーテル教会との交わりは、「瓦礫の天使」から始まります。戦火で廃墟となった中から拾い出された瓦礫で天使の像を作り、それを平和運動の道具として用い始められたのが、クリスマス・ルーテル教会のミトリ・ラヘブ牧師でした。その活動を知り、交流を持ちたいと、一昨年、ラヘブ牧師を日本にお招きし、東京や広島で集会を持ちました。そして、その交流を深めるために、今度は日本からパレスチナをお訪ね致しました。
 一つの地域にパレスチナとイスラエルという二つの国が存在しています。それだけでも紛争の種は尽きませんが、その上に、イスラム教とユダヤ教とキリスト教が共に聖地とするエルサレムがあります。
 ご存知のように、今は、イスラエルが一方的に国境の壁を造り、領土を確保しようとしています。この政策がこのまま定着するとは到底思えません。このままでは、この壁が、新たな紛争の火種になってしまいます。ラヘブ牧師は「この隔ての壁を友好の架け橋に変えるのが、私たちの使命です」と語っておられました。
 パレスチナとイスラエルの両国を合わせてもクリスチャンは2%だそうです。その2%を維持するのも困難な状況にあるようです。クリスマス・ルーテル教会は、パレスチナのベツレヘムにあるのですが、キリストの誕生の地であるベツレヘムでキリスト者が一人もいなくなるのではないかという危機感の中で、ラヘブ牧師は宣教に取り組んでおられます。「キリストの誕生の地を単なるテーマパークにさせたくはない」というラヘブ牧師の言葉に、危機に立ち向かう決意を感じます。
 報復を辞さないイスラム教とユダヤ教の中にあって、「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」という主の言葉を知っているキリスト者にこそ、平和の担い手としての期待があることを感じた旅でした。

春の全国ティーンズキャンプ 参加者募集

春の全国ティーンズキャンプ(春キャン)が3月27日~29日、千葉市少年自然の家(千葉県長生郡)で開催されます。すでにポスター及び申込書を送付していますので、各教会でご案内ください。
 今回、申し込みの時期によって参加費が異なりますので、ご注意ください。

NCC日韓在日キリスト教教育協議会 

 11月22日~24日にかけて、東京・水道橋の在日本YMCAを会場に第13回日韓在日キリスト教教育協議会が開かれました。テーマは「教会教育カリキュラムの現在と未来~平和に向かって」。韓国から14名(4教派1団体)、日本から26名(6教派2団体)、その他4名の参加でした。
 教派ごとの報告では、日本福音ルーテル教会からTNGの活動や教材、そしてラオス講座について紹介され、参加者の興味を集めました。 期間中、それぞれの教材が展示され、各実務担当者による良き交流と刺激のときとなりました。

集計表提出のお願い

 本教会提出の集計表を期日までにご提出くださいますようお願いいたします。一教会でも遅れますと全体の集計ができないばかりか関係省庁への報告にも影響が出ます。
 また、報告書は電子メイルでの提出をいただきますと、事務作業の軽減ばかりでなく、間違いを防ぐことにもなります。
 報告書と共に、教会総会資料をお送りください。
■提出期限■
集計表4ページ  1月20日
その他報告書   2月10日

会議のお知らせ

■常議員会
第22回総会期第3回常議員会が左記の通り開催されますので、議案のある方は、所属教区常議員会を経て、ご提出ください。

【日時】
2月19日(月)~21日(水)
【会場】
ルーテル市ヶ谷センター
以上
2007年1月1日
常議員会
会長 山之内正俊
書記 徳弘 浩隆

教会手帳訂正

教会手帳住所録(2007年版)の訂正を以下の通りいたします。

P25 杉岡直樹先生
(近畿福音ルーテル教会)
携帯:66‐89‐047‐4409

P28 杉岡浩二先生
(近畿福音ルーテル教会)
郵便番号:515‐2623

P49 須佐安雄事務長
(学校法人新潟ルーテル園)
電話・FAX
0256‐57‐4983

P60 Loan, Ms. Sarah、Sersen,
Ms. Pamela(ALMA)
住所:小金井市

日本福音ルーテル教会 2007年行事・会議日程

1月9日(火)教師試験委員会
1月10日(水)教師試験
1月11日(木)任用試験
1月11日(木)~12日(金)人事委員会
1月15日(月)牧師補研修委員会
1月16日(火)事務処理委員会
1月22日(月)~24日(水)JELC/JELA/GM協議会
2月15日(木)~16日(金)会計監査
2月19日(月)~21日(水)常議員会
3月11日(日)教職授任按手式
3月12日(月)神学教育委員会・宣教研修指導者会議
3月13日(火)事務処理委員会
3月15日(木)~16日(金)牧師補研修会(2007年度第1回)
3月21日(水)教区総会
4月10日(火)事務処理委員会
4月20日(金)日本キリスト教連合総会
5月 8日(火)事務処理委員会
5月14日(月)~15日(火)牧師補研修会(2006年度最終)
5月29日(火)~31日(木)LCM会議
6月11日(月)~13日(水)常議員会
7月10日(火)事務処理委員会
8月28日(火)~29日(水)るうてる法人会連合総会
9月11日(火)事務処理委員会
10月 9日(火)事務処理委員会
10月15日(月)教師試験委員会
10月日付未定 牧師補研修会(2007年度第2回)
11月 6日(火)~ 7日(水)合同常議員会
11月 7日(水)~ 9日(金)常議員会
12月11日(火)事務処理委員会
■海外ゲスト来日・海外への出張予定■
2月 7日(水)~12日(月) ELCAアジア伝道会議(タイ・バンコク)
3月21日(水)~25日(日) LWFリーダー会議(スウェーデン・ルンド)
3月27日(火)~4月4日(水) ドイツブラウンシュヴァイク領邦教会ヴェーバー監督来日

教職神学セミナー

シリーズ 伝道へ 第1回 現代日本のスピリチュアリティー
今回の教職神学セミナーは、3年間をかけたシリーズ「伝道へ」の第1回目として画しています。「現代日本のスピリチュアリティー」をテーマとして、今日の日本人の一般的な宗教への意識、あるいは宗教的なものを求める精神性などを幅広く捕らえながら、他宗教の布教や伝道の取り組みなどからも学んでいくプログラムです。講師として、宗教学者島薗進氏やジャーナリストの立場から菅原伸郎氏、また仏教の僧侶などを招き、教会の外からの眼差しで私たちの「伝道」を考えていきます。教会の信徒の方にもおいでいただけますように、ご案内申し上げます。お問い合わせの上、お申し込みください。
期間:2007年2月13日(火)~16日(金)
場所:ルーテル学院大学 
ルーテル学院大学 総合人間学事務局
キリスト教・神学担当 大濱まで
Tel:0422-34-5633 Fax:34-4481

私は諦めない

ルワンダ大量虐殺を生きのびたツチ族女性

 イマキュレー・イリバギザさんは1994年のルワンダ大量虐殺を奇跡的に生き抜き、現在は国連職員として活躍されています。
 家族を惨殺され、自らの命も危険にさらされる中、希望を捨てず、祈り続けた日々の手記は、全米でベストセラーになり、日本でも翻訳されました。
 2006年11月には来日もされ都内で講演会を開かれました。
 彼女の著書や言葉は、大量虐殺の悲惨さや人間の残酷さだけでなく、家族を思う心、信仰心、諦めない心、人を許すことの難しさと大切さを教えてくれました。
著書:生かされて。/PHP研究社 発行/定価 1,680円(税込み)

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