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機関紙るうてる

るうてる2011年7月号

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説教「聖霊と悪霊」

「人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、
すべて赦される。しかし、聖霊を冒?する者は永遠に
赦されず、永遠の罪の責めを負う」
マルコによる福音書3章28節~29節 

イエス様は、聖霊を誤解することは赦されないと言われました。パウロもコリントの信徒への手紙一10章で、聖霊と悪霊を区別できないなら人は悪霊に仕えると述べました。またマルチン・ルターも聖霊と悪霊は同じところで同じように働くと言い注意を与えました。マルチン・ルターが聖霊と悪霊は同じところで同じように働くと語ったその場所は3つあります。1つ目は、罪において。2つ目は、死において。3つ目は、地獄・黄泉においてです。ではその違いを学びましょう。

 まず、罪において働く聖霊と悪霊の違いです。罪はどの人の中にもあります。そして、生きているかぎり人が自分の罪から離れることはありません。しかし、悪霊は、自分には罪がないと思わせます。また、信仰があれば人は罪の問題から自由になれると教えます。こうして、罪が見えないようにされ、人は日ごと自分の罪を深くし、信仰を希望のしるしではなく絶望のしるしにします。人は信仰があってもなくても最期まで「肉」という存在です。人は最期まで罪の力と一つです。ですから、罪と完全に一体である人間を罪から救うために、聖霊はその人を罪と共に燃やし、焼き尽くし、滅ぼします。そして、すべてが燃え尽きた灰の中から、神さまが最初に造られた部分を取り出します。だから、その方法に賛同して、自分から炎の中に飛び込む者を聖霊は助けてくれます。その炎の中で滅びるのは罪であって人ではありません。聖霊は人にそうさせ、自分の中に飛び込みなさいと教えます。しかし、悪霊は人にそうさせないよう、そうすればあなたとあなたの家族は滅びると教え、飛び込まないでよい方法を教えます。

 次に、死において働く聖霊と悪霊の違いを学びましょう。死は塩と同じです。利きすぎると人の人生を駄目にします。しかし、塩気が全然ないとその人の人生にしまりがありません。ちょうど良い塩加減がその人の人生を豊かにします。聖霊の導きは、それがどんなに危険に満ちたものであっても、最期には人を希望に至らせます。しかし、悪霊の導きは、最初、いかにも素晴らしいものに見えます。一見、安全で、美しく、快適です。しかし、最期は人を絶望に至らせます。悪霊は人に死を見せながら上手に働きかけ、人の人生は結局無駄なように見せ、様々な美しい希望と約束を持ち出し、人を上手に絶望へと導きます。死はこの世で避けられないものの一つです。ですから、避けられないものを避けようとすると人は避けられるはずのものが避けられなくなります。それで聖霊は、死がどんなに人を脅し、人の目をくらませても、それから目を逸らさず、それに対して目を開くようにとうながします。そして、神さまの力がそこでどう働くのかを教えます。聖霊はあなたの救いはその中にあると死に対して目を開かせ、悪霊は救いなど見なくてもあなたは大丈夫だと死に対して目をふさぎます。

 最後に、黄泉すなわち地獄において働きかける聖霊と悪霊の違いを学びましょう。人は、自分がまだ生きているなら、黄泉・地獄は自分とは関係ないと思っています。そして、自分の人生を自分の手で勝ち取るように、死んだ後の世界も自分の手で勝ち取れると考えています。しかし、その人の目の前に、これからその人が行くことになる黄泉・地獄が、すでに生き地獄として現れていることには目を向けません。人は地獄はあの世にある。また、それをみずから作り出しているのに「神さまはどこにおられる」とそれを神さまのせいにします。しかし、それがこの世のどこにあって、どこから生み出され、地獄の住人とはいったい誰なのか、それを一番よく知っておられるのが神さまです。そして、この世界でそれと戦われ、それに勝たれたのはイエス様だけでした。人は、その方なしに、地獄すなわちこの世との戦いに勝つことはできません。悪霊は、この世との戦いに自分は自分の力で勝てると考え、信じている人を見つけたなら喜んでその人のそばに行き、その人の友だちになり、この世のすべてを教え、その人を自分の僕にします。しかし、聖霊は、自分の知恵と力と信仰でこの世に勝てると考えている人は地獄の子として放っておき、もはや自分の知恵・力・信仰ではこの世に勝てないと悟り、生き地獄のようなこの世のことで絶望している人を見つけたなら、喜んでその人に近づき、あなたは十字架の前で滅びるが、キリストがあなたの勝利となってくださると言って、その人を悪霊と罪と共に、この世のすべてを焼き尽くす炎の中に飛び込ませます。こうして、人は悪霊から解放され、聖霊に仕えます。わたしたちの信仰はいつもこの二つの戦いの中にあります。
 広島教会牧師 山田浩己

ルターによせて(3) ルターの声

 ルターは一体どんな声の持ち主だったのだろう。
 少年時代からルターは音楽との関係は深かった。ルターの二百年後にバッハが誕生する町となるアイゼナッハで、彼は、仲間と連れだって、戸毎に聖歌を歌い、施しを受けたことが知られている。今日でも、ドイツ語圏では数多くの教会付属少年合唱団が存在しているが、少年聖歌隊で歌うルターの声は、大層美しかったに違いない。
 やがて声変わりした彼は、大学生になる。今日のドイツ人やオランダ人は巨人が多いが、十六世紀頃はそれほどでもなかった。しかしそんな当時の人々から見てもルターは小柄だったと言われている。がっしりした体格だったことが残された絵画からも覗えるが、頑健な鉱夫だった小柄な父親譲りの体格で、そこから想像すると、声は意外と高かったかも知れない。
 後年のルターは大説教家だった。あのヴィッテンベルクの騒擾を一週間の連続説教で見事に鎮めたことは有名だが、興奮した三千人の人々に語りかけたその声はどんなものだったのだろう。マイクなどあるはずもない時代だ。良く通る落ち着いた声が、天来の旋律を伴って、集まった人々の胸に響き続けたことだろう。

牧師の声 私の愛唱聖句

シオン教会 室原康志
 
「あなたの重荷を主にゆだねよ 主はあなたを支えてくださる。
主は従う者を支え とこしえに動揺しないように計らってくださる。」
詩編55・23

 青年会で計画していた修養会を準備中のことです。自らに与えられた仕事は交通関係と宿泊関連を整えることでした。内容的に数人で手分けした方が捗る内容だったのですが、その全てを自分で用意しようと整えていました。他の人に仕事を分担し任せればよいのですが、責任者となったことで、他の人に仕事を任せることに戸惑いを覚えたのです。そこには、他の人に仕事を任せて順調に行かなかった場合の責任をどうしようという考えを持っている自分がいました。
 青年会のメンバーが、「神様から与えられた力は人それぞれなんだよ。ひとつの仕事を全ての人が同じ様に出来る、出来ないと考えていないかい?」と問いかけられ、自分に出来ることの限界というものを感じるようになりました。その後、聖書の言葉を聴き入れながらも、自らの力で成し遂げられるのならば、神様により頼むというような弱い自分を曝け出すことなく、自分の力で出来るように歩んでいきたいと、今考えると大変傲慢な思いを強く持っていたのです。
 自らの努力のみこそが、神様から与えられた恵みを生きる人の歩みだと思っていたのですが、どこかで「自分の力だけでやることは神様の存在すら否定しているのでは」と、戸惑いを覚え始めていたのです。そのような考え方に悩みながら神学校に入学し、研鑽の時間を過ごしていました。神学生時代には何度も「主にゆだねる」ようにとアドバイスを受けながらも、ゆだねきれない自分がいました。広島での宣教研修期間、何度も何度も「神様にゆだねる」ことを受けいれる出来事が用意され、徐々にですが神様にゆだねて歩む大切さを自分の中に取り入れることが出来るようになって来ました。
 自分に出来ることは当然整えておく。その働きが神様の道具として働くことになっているかどうかは、神様が決めること。そう感じるようになり、日々の生活を「主にゆだねる者」として歩んでいるかを自らに問いかけています。

 

信徒の声「Live inside out!」

 湯河原教会 牧野奉子
 
 私は両親がクリスチャンなので、生まれる前から日曜日は教会に行くことが当たり前でした。しかし、幼稚園や小学生の頃はアニメ番組が見れないこと、中学生の頃は部活に参加できないことが嫌で、教会に対してネガティブな感情を抱いていました。そして何よりも友だちに「教会に行っている」ということが出来ませんでした。
 
 理由をつけてだんだんと教会に行く頻度が低下していきましたが、牧師先生が変わったことをきっかけに春キャンやティーンズクラブの存在を知ることが出来ました。それらの行事に参加することで、自分の教会には同年代の友だちが居なくても、日本中、世界中には沢山の仲間が居ることが分かり、だんだんと「教会」という場が好きになっていきました。
 
 私は教会を通じて出会った様々な人や言葉の中で特に“Living inside out”という言葉が好きです。これはアメリカのワークキャンプに参加した際のキャンプのテーマで、日本語では「内なる良さを外に出して生きる生き方」だと言われました。キャンプの中で、本当に小さなことに感謝しながら毎日を生きていた男性とその友人が神様に出会う前と後の男性に対する態度の変化を聞き、衝撃を覚えました。
  
 普段、私たちは可愛い洋服が欲しいなぁとか、きれいで居たいなぁとか見た目ばかりを気にしてしまいがちですが、私は見えない部分も魅力的な人になりたいと思いました。また人の外見ではなく内面を見ていける人になりたいとも思いました。そして、年齢や職業、国籍を越えて人が集う教会は、見た目の違いを気にしすぎることなくLive inside outしやすい環境にあるのではないかと思います。
 
 難しく考えすぎることはなく、普段少し気恥ずかしくて言わないような感謝の気持ちを表現するだけでも良いのかもしれません。大人になるとなかなか言えませんが、小さい頃からずっと成長を見守ってくださっている教会の方々、大好きです!
 

フィンランド教育事情

本当の教育

 今年改訂されたフィンランドの学校の課程を考えると、日本と同じように国語、数学、歴史、美術、音楽、それに体育が各教育レベルにあります。異なったことですが、フィンランドに公用語が二つで、フィンランド語とスウェーデン語があります。また、第1外国語はもう小学校の3年生から、第2外国語は5年生から、もしくは遅くて必ず中学校からはじまります。 第3外国語は普通高校からです。
 もう一つの主要な相違点は、日本の道徳教育に反して、フィンランドのモデルは、宗教教育と非宗教的な「人生観に対しての知識」という倫理のあることです。保護者は子どもと一緒に、この2つから選択できます。義務教育の中でどちらもどの学級にも週1回か2回かあります。生徒の大部分は宗教教育を選択します。大部分の生徒がなぜキリスト教の教育を受けているのかという理由は、フィンランドの社会と文化はルーテル派の教会と密接な関係を持って発展してきたからです。
 昔の学校教育はフィンランドでも日本でもほとんど道徳教育でした。道徳性を目標にして、道徳的価値を教えながら、大人の生活での必要な知識や機能を増やしていきました。でも現代の産業や技術や科学発展に続いて能力育成が何よりも尊重されるようになって、価値教育はおろそかにされてきました。しかし、人間は肉体的な、感情的な、倫理的な、また霊的なものです。ですから、全面的な子どもの成長を考えると、学問的な指導の上に体の訓練、心の教育、道徳教育、倫理、また宗教教育も重要でしょう。旧約聖書の『箴言』(4章23節)は本当の教育について教えると思います。「何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源があります。」
  Paivi Poukka,
  ポウッカ・パイヴィ
  スオミ・キリスト教会
 

日本福音ルーテル教会の社会福祉施設の紹介 その15

社会福祉法人あゆみの家 精神障がい者のための作業所 オアシス

オアシス所長  齋藤幸二
 
 今から十数年前に、精神障がいの家族を持つある親から、あゆみの家に関わっていた教会員に「この子が日中過ごせる場所が欲しい」という切実な訴えがありました。それまで西濃地方には精神障がいの方のための作業所はありませんでした。そこでボーマン宣教師の出資によって教会員の安井順子姉宅の敷地内にプレハブが立てられました。それが現在の「オアシス」のはじまりです。
 今、オアシスには7人のメンバーが通っています。日課は朝9時の礼拝から始まり、その日の気分調べ、そして仕事や活動へと続きます。所長だった安井さんの働きは私が引き継ぎ、他に大垣教会や岐阜教会の会員、大垣友の会の方がスタッフとして働いています。自立支援法の制度ができてからは、小さな作業所は行政の補助が得られなくなりましたが、あゆみの家が公益事業として経済的に支えてくださることになり、働きを続けることができています。
 精神障がいには程度の差やタイプの違いがあります。病気が重く、作業ができない人でも、社会参加の第一歩のための居場所として利用できる施設でありたいと思っています。また、工賃作業一辺倒ではなく、心豊かな生活をしていただきたいと願って、英会話や音楽療法、スポーツ、食事作りなどもプログラムに取り入れています。また行事計画などはできるだけメンバーが自分たちで決めてゆくようにしています。オアシスに来て、明るく、元気になってゆくメンバーの姿を見ることがスタッフにとって大きな喜び、励みとなっています。
 オアシスでは10年近くケーキ作り、パン作り、そして月一回のコーヒーショップを開いてきました。それはいつか喫茶店を開きたい、という夢があるからです。喫茶店での働きを通じて地域の人とふれ合い、社会参加をし、メンバーが社会的自立を果たせたらと願っています。今は西濃地区の一番西にあり、今のメンバー以外は通いにくい場所にありますが、さらに多くの人々が利用できる場所が与えられ、専用の厨房をもち、喫茶店を開くという10年来の夢が実現することを願いながら希望を持って歩んでいます。
 
 〒503‐1331 
 岐阜県養老郡養老町橋爪1221‐1 
 電話 0584‐34‐3093
 

私の本棚から

船山 馨著 小説『茜いろの坂』新潮社 1981年8月

 主治医から、あと半年のいのちと宣告された後に、著者が、「四十年余もかかった揚句、いま終わりに臨んで、わたしはこんなことを考えています」と、読者に報告するために書いた作品。
 
 主人公は、日中戦争に従軍し、中国でさまざまな残虐行為にかかわり、手に入れた宝石をもとに、戦後、銀座で宝石商を営み、財をなした秋山修介。
 ある日、彼は手術不可能な脳腫瘍のため、あと一年の命であると宣告される。死を宣告された彼は、自分の過去を思うにつけ、残された「一年」は暗黒に思えるのであった。できれば、残された時を、
 日没前の夕焼けのような、静かで美しいものにしたいと願う。
 その願いをかなえるために修介は、香西節子に接近する。彼女は、なさぬ仲の人との間にできた子を二度までも中絶した自分を「人殺し」と決めつけている。人殺しである以上、他の人を愛することも、他の人から愛されることも、それはあってはならないことであり、しいたげられ、ののしられるのは当然のこととして生きている酒場の女である。彼女のかなわぬ願いは保育園の先生になることであった。
 
 こんな節子に出会い、修介は思うのであった。自分の命が長くないのを知って、初めて、晩年を迎え、自分をも他人をも末期の眼で見るようになったが、節子は物心のついた頃から、すでに晩年を生き、末期の眼でものを見続けてきたようなものであったと。そして、そんな彼女に出会わなければ、自分の罪の深さに、根底から思い当たることはなかったに違いないし、今頃はただ見苦しく取り乱すだけで、こうして静かに死と向かい合っていることなどできなかったはずであると。
 節子との出会いを通して、そんなことに気づいた彼は、さらに大きく変わる。はじめは、自分の末期の心の支えに、安心のためにと、彼女にすがっていたはずなのに、いつのまにか、自分のことは忘れて、彼女の幸福を願い、そのために、残りわずかな自分の命を燃やすのであった。そうすることによって、彼は自分がすでに夕映えの中にいるような思いにさえなるのであった。
 教会につながって生きるとは、そのような生き方が現実のものとなっているところではないかと、ふと思わされることがある。
 小石教会牧師 徳野昌博
 

園長日記 毎日あくしゅ

過去をつくる仕事

 「キリスト教保育って何だろう?」。「キリスト教主義にもとづく幼児教育って何だろう?」。この同義のふたつの問いは、ルーテル教会の牧師として、今まで多少なりとも高校と大学でのキリスト教教育にかかわってきた私には、分かっているようでいて実は分かっていない、新しい分野の課題でした。もちろん、すぐに内外の資料・書物に答を求めました。しかし、キリスト教の保育・幼児教育について開眼されたのはそういった書物をとおしてではなく、私が牧師になって最初に赴任した教会で出会った、ひとりの尊敬すべき信徒さんから受けた示唆をとおしてでした。キリスト教の施設・学校で行われる活動は、すべて「愛」にもとづくものであり、「愛」を伝えることであり、「愛」の実践であるとはよく言われることですが、それが具体的に何を指しているのかは必ずしも明らかではありません。
 私がはっきりとキリスト教の保育・幼児教育の使命を自覚することができたのは、前述の信徒さんが教えてくれた「過去の大切さ」という視点のおかげでした。ヴィクトール・フランクルが『夜と霧』のなかで触れている「過去からの光」こそがその内容です。フランクルは、「あなたが体験してきたことは、この世のどんな力をもってしても奪い取ることはできない」と語っています。
 私はそれまでほとんど、「過去」に対して注意を払うことをしてきませんでした。むしろ、大切なのは「現在」であり「未来」であると考えて生きてきたように思います。しかし人間は、耐え難い苦しみの中にあっても、「過去から力をもらって生きることができる」というその示唆は衝撃的でした。私は子どもたちの「過去」をつくる仕事に従事しているのであって、目指すべきは「過去からの光」を子どもたちの未来に残すことなのだと考えると、胸の内の霧がすうっと晴れていく思いがしたのです。
 日常の保育も聖書のおはなしも、「神と人に愛された記憶」を、子どもたちの心の奥底に残すための「仕事」なのです。
 
(雪ヶ谷ルーテル幼稚園) 田島靖則
 

私の本棚から 震災関連特集

1000時間後のあなたへ ~ 東日本大震災で頑張ったあなたへ ~」
(発行元:公務員連絡会地方公務員部会)

 震災後、通常の仕事を続けながら被災地支援に奔走しておられる関東在住の南三陸町出身の方からこの冊子について紹介を受けました。
 この冊子は、もともとは、被災地において災害対応のために働き続けて来られた(そして今も働いておられる)自治体職員の方々のために書かれた冊子です。震災後、自らも被災しながら住民と寄り添い、昼夜を問わず働き続けて来られた自治体職員の方々は、多くの人々の感情のはけ口になり易く、さまざまな軋轢の中に置かれていると聞きます。
 もし、ご家族やお知り合いに被災地に関わる公務労働者の方がおられましたら、この冊子をご紹介いただければ幸いです。この冊子は、燃え尽き症候群についても触れられており、震災以後、被災地に居なくても被災者支援のために心を砕いて来た方々が読むにも適している冊子だと感じます。
 また自治体職員の方々の置かれている状況についても理解を深めることが出来ると考えます。私自身、被災地への訪問から帰ってきてから、大変な思いをしておられるであろう被災者の方々のことを考えると、いてもたってもおられず、「どうにかしなければ」「何か出来ることは無いのか」と、気持ちの焦りばかりが先立ち、それだけで言いしれない虚無感と疲労感に襲われてしまいがちでしたが、この冊子を通して自分自身もまた(何も出来ていない状態であっても)燃え尽き症候群の一歩手前であることに気づかされ、仲間の牧師に話を聞いてもらうきっかけを与えられました。 特に自己診断テストは、自分の燃え尽き症候群の程度を計るための良い物差しになると思います。被災地のためにさまざまなかたちでご奉仕しておられる皆さまの上に、そして何よりも今もなお悲しみと不安の中におられる被災者の方々の上に神様の慰めと支えを祈りつつ…。
 PDF版のダウンロードhttp://p.tl/XPbH
 近畿福音ルーテル南海教会  牧師 杉岡直樹

被災後の子どものこころのケアの手引き
発行 特定非営利活動法人チャイルド・ファンド・ジャパン 監修・執筆 ルーテル学院大学

 
 ”この手引きによせて”より(抜粋)
 2011年3月11日に発生した東日本大震災を境に、私たちを取り巻く環境は大きく変わりました。この震災で、ご家族や親しい方をなくされた方々、生活の糧を失った方々の深い悲しみ、そして、復興への長い道のりと津波により大きな被害を受けた原子力発電所からもたらされる不安は、あまりに大きいものです。
  “We are with you!”
 「あなたはひとりじゃない!」 私たちは、海外から寄せられたこのことばに力を得て、緊急・復興支援を開始しました。この手引きは、子どもを中心とした緊急支援活動の一角を担うものです。
 家族、学校、そして地域で震災を体験した子どもたちに日常的に接する方々にヒントになればという思いを臨床心理科を有する学校法人ルーテル学院と共有して、この手引きは完成しました。また、翻訳ボランテイアの方々、絵本作家ののぶみさんのご協力をいただきました。心から感謝申しあげます。
 子どもたちを見守り、支えていらっしゃる方々にこの手引きを手にしていただければ幸いです。

第四回常議員会報告

 日本福音ルーテル教会の第4回常議員会が6月6日(月)午後1時より7日(火)午前中にかけて、ルーテル市ヶ谷センター 第1会議室にて開催され、主に以下の報告と協議が行われた。
 
●「東日本大震災ルーテル教会救援」
 3月11日に発生した東日本大震災の支援活動のために、3月24日付で、日本のルーテル4教団の議長の下に設置された「東日本大震災ルーテル教会救援」(英語表記”Japan Lutheran Emergency Relief”)の設置の経緯とその活動の概略として、震災発生以後、各個教会・関係施設に救援支援物資のアピールと支援募金をアピール、その他、海外教会からの多額の支援金の送金等の報告が本部長より行われた。
 さらに、それらの募金による三ヶ月間の主な救援活動であるトラック輸送の手段の構築を経ての、日本の諸NGO、地方公共機関及び社会福祉協議会と提携した食糧及び日常生活物資を含めた緊急救援活動の展開、エキュメニカル施設であるアジア学院再建への支援、それに仙台教会の支援センターを拠点としてのボランティア派遣プログラムなども補足的に報告された。なお、本部と現地をつなぐコーディネーターとして、当面の期間、立野事務局長を牧師スタッフとして現地へ派遣することを常議員会は確認した。
 
●ブラジル宣教師派遣期間延長
 前回常議員会に現地教会から申請書が出され、継続審議であった徳弘宣教師の派遣期間延長に関しては、申請通り、派遣期間4年延長(2016年3月まで)を基本的に承認するが、その前提条件として2015年度からの宣教師給与総経費の完全自給体制(2012年度からの段階的自給計画)を達成してもらうこととし、2016年4月からの派遣期間以後の後任人事はブラジル福音ルーテル教会(IECLB)そのものにすべて委ねることとした。
 
●2011年度宣教会議
 今年の宣教会議は、ルーテル市ヶ谷センターを会場に、10月5日(水)午後1時より6日(木)午後4時までとし、出席は本教会常議員・スタッフ、各教区3名以内、方策作業委員、財務委員とした。なお、主要協議内容は、「第6次総合宣教方策案」の検討、「教職転任費積立制度の変更」に関する協議である。
 
●宗教改革500年(2017年)記念事業
 2017年の宗教改革500年の記念事業推進のために、ルター研究所の協力を得て、エキュメニズム委員会を中心に記念事業準備委員会を設置し、エキュメニズム委員長が11月の次回常議員会に事業計画の骨子を提出することとした。
 
 

公 告

この度左記の行為を致しますので、宗教法人法第二三条の規定に基づき公告致します。
 
二〇一一年六月一五日
宗教法人 日本福音ルーテル教会 代表役員 渡邉 純幸
 
信徒利害関係人 各位

本教会所管の西原住宅
 ・土地売却
 所在 東京都渋谷区西原
  ①地番 二丁目三八番二
   地目 境内地
   地積 九五・00㎡
  ②地番 三八番三
  地目 宅地
  地積 一五・四三㎡
   (持分 二分の一)
  ③地番 三八番四
  地目 宅地
  地積 三九・四七㎡
  (持分 二分の一)
 
 ・建物売却
 所在 東京都渋谷区西原
 家屋番号 二丁目三八番地
 種類 西原集会所
 構造 木造セメント瓦葺
  平家建
 面積 六〇・九五㎡
 売却理由 隣地所有者よりの買付申込みによる。現地は幅約2メートル弱の上り勾配の進入路(私道、持分二分の一)のみにて、公道に接道しないとみなされる地形であり、落差一・六mの法面上に位置する狭隘な土地である。築後五八年の老朽家屋も、建築許可が下りないために改築できない。従って通常ならば第三者に売却不可の土地である。今般隣地所有者が所有地内の家屋新築計画に当り、購入の意思表示があり、唯一の売却先と言える。将来に亘り利用価値の少ない土地であり、今般好機ととらえ売却するものである。      以 上

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