闇の中に現れる光
「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。 」(ヨハネによる福音書1・4〜5、14)「
日本福音ルーテル教会の降誕祭の聖書日課(福音書)は、毎年、ヨハネによる福音書の1章1〜14節です。光と暗闇の対比が印象的なこのロゴス讃歌ですが、クリスマスでは、ここに「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」(9節)とあることから、まことの光が世にやって来たという出来事(降誕物語)の方に焦点があるように思います。しかし思うのですが、ここには「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(5節)ともあるわけで、「暗闇」にピントを合わせてみることも、クリスマスの季節には必要なことなのではないでしょうか。
さて、ジャン・バニエは、『コミュニティー』(一麦出版社)の中で、「人は、光と闇の混合体(です)」と言っているのですが、そうであるならば、自分の内にある暗闇を見つめることからはじめてみよう、と思います。「自分の内にある暗闇」と聞いて思い出す詩があります。それは、岩田宏さんの「住所とギョウザ 」という詩です。この詩を初めて読んだのは、ずいぶん昔のことで、たしか、茨木のりこさんの『詩のこころを読む』(岩波ジュニア新書)に収められていたものでした。その本が見つからないので、平川克美著『言葉が鍛えられる場所』(大和書房)から引用させてもらいます。
《大森区馬込町東四ノ三○
大森区馬込町東四ノ三○
二度でも三度でも
腕章はめたおとなに答えた
迷子のおれ ちっちゃなつぶ
夕日が消える少し前に
坂の下からななめに
リイ君がのぼってきた
おれは上から降りていった
ほそい目で はずかしそうに笑うから
おれはリイ君が好きだった
リイ君おれが好きだったか
夕日が消えたたそがれのなかで
おれたちは風や紙風船や
雪のふらない南洋のはなしした
そしたらみんなが走ってきて
綿あめのように集まって
飛行機みたいにみんなが叫んだ
くさい くさい 朝鮮 くさい
おれすぐリイ君から離れて
口ぱくぱくさせて叫ぶふりした
くさい くさい 朝鮮 くさい
今それを思い出すたびに
おれは一皿五十円の
よなかのギョウザ屋に駆けこんで
なるたけいっぱいニンニク詰めてもらって
たべちまうんだ
二皿でも三皿でも
二皿でも三皿でも!》。
平川さんは、この詩を紹介した後、次のように言われます。「この詩が描き出した世界は、わたしが小学生のときの体験そのままであり、わたしもまた「くさい 朝鮮 くさい」と叫ぶふりをしていた子どもだったことをありありと思い出させてくれるのです。そして、今でも、この詩を読むと、なんだか泣きたい気持ちになります。その泣きたい気持ちは、ほとんど言葉にすることができません」。 私は、この詩が描いている時代を体験したわけではありません。しかし、この詩が描いている「おれ」の心の動きを、自分のことのように感じることができます。そしてそのあたりに、自分自身の内にある暗闇を見つけ、平川さんと同じように「なんだか泣きたい気持ち」になってしまうのです。
ところで、田川健三さんは、ヨハネによる福音書1章5節を次のように訳されています。「そして光は闇の中に現れる。そして闇はそれをとらえなかった」(『新約聖書 訳と註5 ヨハネ福音書』作品社)。
自分の内にある暗闇を見つけ「なんだか泣きたい気持ち」になっている私としては、この気持ちをすっきりさせて欲しいと思ったりするわけですが、聖書は、闇は光をとらえることができない(「なんだか泣きたい気持ち」はなくならない)と記します。 私たちは、できることなら、「なんだか泣きたい気持ち」を抱いたまま生きたくはありません。けれども、私たちの社会において、光をとらえたと自称する人たちが排外主義的な言葉を発していることを、私たちは心に留めなければいけないのではないでしょうか。
「光は闇の中に現れる」のです。「なんだか泣きたい気持ち」を抱える〈わたし〉と「なんだか泣きたい気持ち」を抱える〈あなた〉の間に、み子イエスの光は灯るのです。
日本福音ルーテル門司教会、八幡教会牧師 岩切雄太