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バイブルエッセイ

信仰における耐震構造

「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。(ルカによる福音書6・46〜49)

 イエス様は信仰を建築に例えています。特に49節は深く考えさせられる言葉です。「聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった」と。

 この例えからは、イエス様という岩に信仰の家の土台を置くなら、たとえ洪水のような意外な挫折をも乗り越えられると教えられます。それは誰もが理解できる教えだと思います。要するに、土台の重要性が当然だということです。

 ところで、私は熊本地震を体験して、信仰における挫折を洪水ではなく、地震と繋げて考えてみました。4月14日から、大きな地震が2回起こりました。特に2回目の本震がとても怖かったのです。夜中に激しい揺れが10分間以上続いたからです。さて翌々日、勤務先に行くと、被災は家より酷かったのです。本棚が重ねて倒れており、本は山のように散乱し、ドアも開けられないほどでした。学内の噂では、私の部屋の被災状態はワーストスリーに入っていました。もしこの地震の発生が昼だったら、私はこの危険な場所にいた可能性が高くなり、命を失ったかもしれません。夜の被災は私にとっては命拾いとなりました。

 その後、学内で復旧対策を相談する時、ある先生がこう言いました。「建物の耐震構造には二つのタイプがあります。一つは揺れないタイプですが、もう一つは揺れるタイプです。5棟の建物の内1棟はその揺れるタイプです。ですから、地震の時、揺れることは必ず悪いことではないことを覚えて欲しいのです」と。私はこの言葉を聞いて、建物によっては揺れても、建物を倒さない許容範囲の揺れであるのだと初めて分かりました。確かに、この二つのタイプはいずれも、建物が地震に耐える目的です。でも揺れると、その中にいる者に不安が増えるのも確かなことでしょう。

 ところで、私は牧師であるせいか、すぐそれを信仰に繋げて考えました。「信仰上でも、耐震構造と似たような二つの反応があるのではないか?」と。

 一つは揺るがない信仰です。試練に遭っても、動揺しない反応です。それは一番理想的ですが、現実の生活の中ではなかなか難しいことでしょう。
 

もう一つは挫折によって揺れる反応です。試練に遭って、土台と一緒に揺れますが倒れません。つまりしばしば挫折に遭って信仰が動揺しますが、結果としては信仰を続けている状態です。過去を振り返ると、私も多くの場合その範疇に入っていたようです。揺るがない反応はもちろんイエス様がくださる強さです。しかし一方、揺らぐ反応もイエス様に許されている反応ではないでしょうか。例えば、ペトロの信仰にそういうものが見られます。

 一つ挙げれば、3回「イエス様を知らない」と言い切ったことは取り返しのつかない裏切りです。しかしイエス様はあらかじめ彼にそれを知らせていました。しかも引き続きこう言っていました。「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22・32)と。言い換えれば、イエス様はペトロの裏切りを事前に知った上で、容認したのです。しかもただの容認ではなく、ペトロがそれを乗り越えて、立ち直ることすら期待し、更に先を見据えていました。つまり弱さを乗り越えて、聖霊によって大胆に伝道していく強いペトロの姿を、です。

 ですから、この御言葉を聞く時、私たちはまず神様の先行した恵みに目を留めましょう。自分の信仰の揺らぎや弱さを嘆くより、むしろそれは既に神様に容認され、支えられていることなのだ、と。そして感謝しましょう。その揺らぎや弱さを経てこそ、他者に届くことのできる器とされているのです。このイエス様に信仰の土台を据え、主の僕として仕える歩みを新たにしましょう。

九州ルーテル学院大学チャプレン 黄 大衛

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