神様をどのように知るのでしょう
神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。(ヘブライ人への手紙1章1〜3節)
「神様は本当におられるのでしょうか、夫と子どもが病気になって不安なのです。」という質問がありました。私は「おられますよ」と答えましたが、私たちは神様の存在をどのように知ることができるのでしょうか。
モーセが神について尋ねたとき、神は「わたしはある、あるという者だ」(出エジプト3・14)とお答えになりました。そしてまた「あなたはわたしの顔を見ることはできない」(同33・20)と言い、人に姿を見せないで「通り過ぎる」神だとご自分を表現されました。
全世界の創造主なる神は、私たちが見ようとしても捉えどころがないのです。しかし、私たちにご自分を示すために、御子、すなわち主イエスをお送りくださいました。
冒頭の聖句にありますように、全権委任された御子によって神は私たちに語られるのです。神は御子イエスによって私たちに神を示し、御子を見れば神が分かるようにしてくださっています。
イエスは、誰からも相手にされない者のところに来て親しく交わり、病む人のところに来て癒してくださったお方です。 弱い人のことを特に気にかけてくださる、本当に 愛に満ちたお方です。しかし、その反面、大変厳しく正義を求めるお方です。ですから、義に照らして正しくない祭司長や民の長老たちに立ち向かい、ついには十字架に付けられて殺されてしまいました。実は十字架は、義を実現するためのものでした。
神は創造のとき、全てを良いものとしてお造りになりました。人は神によって造られた者です。従って、神の僕として神に導かれ、徹頭徹尾、神のあわれみと恵みの中に生きるべき者です。しかし、そのことを忘れ、自分たちで何でもできるなどと思い、様々な悪い現実をもたらしました。
私たちは、飽食にうつつを抜かし、一方で飢えている人々のことを忘れるなど、他人の痛みを感じることなく自分本位の生活を送っています。分をわきまえず、エネルギーを使い放題で地球を荒らし、それゆえに異常気象などがもたらされていると言われます。また、大小の紛争はいつまでも尽きません。
それらは全て、私たちが神をないがしろにすることにより生じているのではないかと、私は自らを省みるのです。その私たちの傲慢さを、神はそのまま許すことはできないのです。
しかし、神はご自身の御子イエスを私たちの身代わりとして十字架の上で血を流させ、その血の代償によって、私たちの罪を許してくださいました。そして、私たちを罪許された者として本来のエデンの園に住まわせ、本当の命を回復させようとされたのです。
主イエスは父なる神によって定められた働きを終えて、復活により天の父の家に戻られました。十字架を負ってくださった主イエスは、愛をもって天において私たちを待っておられます。主イエスのおられる所は、本当の命のある所です。昇天された御子は、一人一人のために場所を用意して待っておられます。
命の源である神は、たえず人間の救いのために働いてくださり、いつも私たちに呼び掛けておられます。
私たちは自分の方から、神を発見することはできません。私たちにできるのは、イエスによって示されている神の愛の呼び掛けに応じることだけです。神様を分かろうとするのには、主イエスの生き様を見、心を開いて主イエスの呼びかけに応えることです。それによって存在しておられる真実の神を知ることができます。
聖書の神は、私たちを超越して絶対者なる唯一の神ですが、私たちとの交流を望む、人格的な神です。そして、私たちが本来の姿に立ち返るべく主イエスの愛を受け入れ真実の神に委ねたところに、神にある本当の命と平安が与えられます。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ福音書3・16)とあるとおりです
牧師の定年に至ろうとする今、私は心底思います。どなたもが独り子イエスを信じ、真実の神に依り頼んで主にある平安の内に生きていただきたく願うのです。
板橋教会牧師 鷲見達也