るうてる福音版2010年8月号
パレスチナのオリーブは語る
主よ、平和をわたしたちにお授けください。
わたしたちのすべての業を成し遂げてくださるのはあなたです。
イザヤ書 26章12節
木が話している声を聞いたことがありますか。木は何も話しません。でも木が話すことができれば、どんな話をしてくれるでしょうか。被爆地ヒロシマで、木の語る「ことば」を聞きたいと計画した人たちがいます。
1945年8月6日8時15分。世界最初の原子爆弾が広島に投下されました。おなじ頃、パレスチナの渇いた大地に、一粒のオリーブの実が落ちました。芽を出して成長し、平和な時には人々が木陰で休み、豊かな実ができました。ところが、オリーブの木のまわりではたえず紛争がおこりました。
あれから65年。原爆のあと焼け野が原だった広島には、世界中から6000本の木が届けられ、緑豊かな森の平和都市となりました。ところが、パレスチナで育ったオリーブの木は、人間が起こした争いのため多くの木が倒されています。
紛争の地パレスチナでは、オリーブを「命の木」と呼びます。イスラエルにとっても大切な木です。平和のシンボルです。人々はその木を大切にし、木と共に生きてきました。 オリーブは、そこで何が起こっているかを見てきました。その木が紛争によって倒されています。人と人を分けるために高さ8mの分離壁(写真右)建設するため。住むところの奪い合いから道路の建設をするため。人間の勝手な思いや争いによってオリーブが倒されているのです。
オリーブの木は何も話しません。でも話すことができたら何を伝えたいでしょうか。平和都市になった広島に住む人たちが、紛争によって倒された「命の木・オリーブ」をヒロシマに運び、その木で木簡を並べた「パンの笛(パンフルート)」という楽器をつくる計画を立てました。パレスチナのルーテル教会にお願いし、倒されたオリーブを探してもらいました。届けられたオリーブの年齢は60歳位、イエスさまが過ごされたパレスチナ居住区ナザレ近郊の村で倒された木でした。パレスチナの人々の祈りによってヒロシマに届けられた時、木の中心には水分があり生きていました。そのオリーブの木が、「パンの笛(パンフルート)」となって再び命をあたえられ復活したのです。(写真左下)
オリーブはパンの笛になって語り出しました。「『なぜ人は戦争をし、人殺しを繰り返すのだろう。』僕はパレスチナの風に吹かれながら思っていた。街は破壊され、僕の命は分離壁のため倒された。でも僕はヒロシマの街を知っている。原爆で破壊されたヒロシマは、平和都市として再建した。そして僕もヒロシマで再び命を与えられた。だからヒロシマの子どもたちに語りたい。紛争の中にいる子どもたちにとって、あなたたちは「希望」だと・・・。」
紛争によって倒されたオリーブの木は、ヒロシマの風を受け語り始めました。Y.T.
(詳しくは「ほほ笑みと感謝の会」ホームページhttp://asmile.jp/で)
いのちはぐくむ
中井弘和
第17回 「青い空」
『主はその聖所、高い天から見渡し 大空から地上に目を注ぎ 捕らわれ人の呻きに耳を傾け 死に定められていた人々を 解き放ってくださいました。』(詩編102章20~21節)
私は、黄金色の稲穂の田んぼに抱かれるように伏しながら、高く澄み渡る青い空を見上げていました。すると、遥か空の淵から私を呼ぶかすかな声が聞こえてきます。その声は徐々に明瞭になり、気がつくと医師たちが私の顔を覗き込んで、手術が終わったことに加え、人工肛門にはならなかったことを告げていました。昨年の4月、腸重積症という病気に罹り緊急に手術を受けた時のことです。重篤な病状から人工肛門になるのは避けられないと手術前に言われていました。しかし、手術中、自らの腸に陥入していた腸の部分がひとりでに抜け出てくるという幸運によって大事には至らなかったのです。変わらず稲の仕事を続けることができています。
八月が来ると、決まって蘇ってくる青い空の記憶もあります。終戦を告げる玉音放送を大人たちに交じって聞いたのは小学校に入る前の年でした。雑音ばかりでよく聴き取れませんでしたが、その場の沈痛な雰囲気から日本が負けたことを幼心に悟りました。逃れるように外に出て、見上げた空は真っ青に広がり輝いていました。その瞬間、私の小さな胸に淀んでいた不安は消え去りました。たまたま近くにいた人の「もうこれで空襲はなくなる」と呟いていた安堵の声とともに、その時の青い空が思い出されます。
大学を定年になった年、永く気にかかりながら読めずにいたトルストイの『戦争と平和』を読みました。主人公、アンドレイが戦場で銃弾を受けて仰向けに大地に倒れ、瀕死の状態で仰ぎ見た青い空の場面がとても印象に残りました。敵の将軍、ナポレオンが、大勝利となった戦場の巡視に来て、傲然と彼の傍らに立ちふさがります。その時、彼は、高い永遠の空を垣間見ながら、敵ではあっても軍人として崇拝していたはずのナポレオンが実に小さくちっぽけな人間と感ずるのです。アンドレイの魂は無限の空と繋がり癒されていきます。
人は、苦しみや悲しみのときに青い空を見上げるでしょうか。もしそうであるならば、それはひとつの祈りの形といえましょう。あるいは、喜びのときに青い空を望み見るでしょうか。それもやはり祈りといえるでしょう。いずれにせよ、青い空は、常にそのように祈る人たちの心に寄り添ってくれます。何億光年のかなたの星よりもさらに遠い青い空は、私たちが目にすることのできる唯一の永遠の姿でもありましょう。そこに私たちは無意識のうちに神を見ているのかもしれません。たとえ風雪の暗い日であっても、私たちの目を覆う雲の上には、いつも青い空が広がっていることも確かです。また、八月が廻ってきました。平和あるいはいのちのしるしである青い空に想いを馳せる時です。
(静岡大学名誉教授 農学博士)
毎日あくしゅ 園長日記
「ビルの谷間のオアシス」
日善幼稚園では、毎年四つの同窓会が行われています。小学三年生が夏休みに。小学六年生が卒業式を終えた三月末に。二十歳になった子どもたちが一月の成人式前後に。そして六月第三日曜日の家族礼拝(「父の日」を覚えて在園児とその家族、教会員合同の礼拝)に還暦を迎えた卒園生をお招きして礼拝を共に守り、「おめでとう。これからもお元気で」とお祝いし、昼食をしながら同窓会をいたします。
日善幼稚園は、戦中戦後の十年間の休園はありましたが、今、創立九十六年目の歩みをしています。戦後再開し、その第一回の卒園生が六年前還暦を迎えました。故木下 勇前理事長が「お招きしてお祝いしましょう。在園児と礼拝を共にしては。『還』は元に戻る。また再びの意。六十歳を還年0歳としては如何でしょう。わたしは八十四歳ですから、還年二十四歳の青年です。夢を抱き、新たなスタートの時として、互いに励んで参りましょう」との発案で、名称を「還年の会」として始まり、今年は六回目。当時の先生がたもお招きし、横浜、広島からおいでくださいました。五十四年ぶりに名前を呼ばれて互いに涙し、病を得て生死をさまよった方は「生きていてよかった。がんばります」と帰って行かれました。故人となられた方もいて、出席は十名たらずですが、現職の先生方にとっても励まされる時です。
小三、小六、成人の子どもたちの同窓会は、遠くに引っ越された方から「いつですか?
早く飛行機の切符を」とお母さん方が楽しみにしておられるほど。園に来て照れくさそうにしていた子どもたちも、一時もすると、大賑わい。まるで幼稚園児に戻ったように男女入り乱れて遊んでいます。一方お母さん方はゆったりと座り込み「やっぱりここに来るとほっとするねー」と先生方も交えて互いの報告をしては楽しそうです。在園時「日善幼稚園はぼくの宝物」と言った子ども。学校でつらいことがあると、園に来て遊具で遊んでは元気になる子どもたち。一杯のお茶と語らいで「また来ます」と明るくなって帰るお母さん。「ビルの谷間のオアシス」と言ってくださった方。
つながりにくい世の中にあって、日善幼稚園に集う誰もが、園を通してつながりの輪を豊かにしていくといいなー。その様な日善幼稚園でありたいと祈り願っています。
日善幼稚園 園長 岩切華代