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機関紙るうてる

るうてる2017年9月号

説教「安心して水の上を歩く」

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「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、『幽霊だ』と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。『安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。』すると、ペトロが答えた。『主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。』イエスが『来なさい』と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、『主よ、助けてください』と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか』と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。舟の中にいた人たちは、『本当に、あなたは神の子です』と言ってイエスを拝んだ。」                         (マタイによる福音書14・22~

この夏、まるでSF小説のような警告が人類に向けて発せられた。「いずれ地球の気温は250度まで上昇し硫酸の雨が降る。地球温暖化は後戻りできない転換点に近づいている」。著名な理論物理学者スティーブン・ホーキング博士はそう指摘し、「第2の地球」となる他の惑星への移住を提案した。
 そう言えばもう30年近く前に、温室効果ガスに適切に対処しなければ、その行先は地球の金星化だというようなエッセイを読んだ。しかし、まだその頃は昨今のような暑さの高まりや気象の熾烈化はなかった。
 しかし、今は違う。確実に地球表面と地球全体の温度が連動してどんどん暑くなっていることが確認されたという調査結果がでた。1000年先と言わず100年先、いや10年先を思うだけで、なんだか目がくらむような気さえする。
 「人間の生というものには、たとえ原水爆で滅びるというように、ある時滅びるということがあっても、あるいは地球に寿命がくるということがあっても、確かな基礎があるんだということ、本当に実在する永遠の命の現れとして、人生というものはちゃんとあるんだということ、そういうことが事実なんですね。そういうことだから、水の上を歩くどころではないんです。・・・誤魔化さないで、自己欺瞞をやらないで、落ち着いて安らかな心で元気を失わないで暮すということは、これは本当に驚くべき奇跡と言っていいようなことですね。」
 この言葉は滝沢克己さんの『聖書を読む』の一節だ。主イエスが水の上を歩かれたこの聖書の箇所を引きながら、まったく神の愛の証しであるこの星で、人類が歴史を刻んでこられたのは、水の上を歩くどころではない奇跡であって、神の恵みそのものだという滝沢さんのこの言葉にはっとさせられる。
 この物語は、多くの場合、教会に関する教えとして語られてきたと言われる。古い教会の天上を見上げると、その梁は船底のようになっている。これは教会がこの世を行く舟であることを象徴している。「主イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸に行かせた」とあるように、主に招かれて、私たちは「舟」に乗り向こう岸へ向かう。向こう岸とは、この世界で主が私たちのために定められた目的地と言えるかもしれない。神の国と言っていいと思う。主のご命令ならば、きっと「向こう岸」に達すると確信していいのだが、ほどなく「舟」は逆風に襲われる。「逆風」は教会が忍耐強く戦い続けなければならない私たちの罪の現実、宣教のさまざまな困難、神に逆らう混沌の象徴と言えるだろう。
 弟子たちは主イエスからちょっと目を離すと、たちまち沈んでしまう。そして、主にもう一度助けられて、主に捕まえられて、やっと舟に乗った。主が舟に乗られると、嵐は静まった。主の教会は主イエスを置き去りにして、弟子たちが勝手に振る舞うとき、もはや平安な航海ができないという教えだと受け止めることができる。
 また、この物語は私たちを生涯を通して支え続けてくれるとのメッセージでもある。自然災害や事故のとき、病苦や死別、失意のとき、さまざまな人生の「逆風」が吹き荒れ、怒涛逆巻くとき、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」とのみ声に、私たちはどれほど励まされ続けることだろうか。私たちは土の塵で作られた。水の上では沈むというのが当然なのに、その私たちが沈みもせずに、こうして生かされているということは、恵み以外にはありえない。まるで水の上を歩くような奇跡なのではないか。
 神の愛の証であるこの星の自然破壊が進んでいるという。もう、待ったなしなのかもしれない。しかし、私たちは主の永遠の命という確かな拠りどころを持って、安心して水の上を歩かせていただいている。
日本福音ルーテル小田原教会、湯河原教会 牧師 岡村博雅

連載コラム enchu

⑰【 Small start 】

 この原稿を書いている8月3日は、朝から改造内閣の人事ばかりが報道されていたのですが、そのなかで、「人づくり革命担当大臣」なる不思議なポストができたことを知り唖然としてしまいました。「革命」という言葉をときの政権が大臣名に使うという感覚に…。しかも、「人づくり」とは…。
 ところで、内田樹さんはブログの中で、『「世界を一気に慈愛深いものにしようとする」企ての挫折をレヴィナスはスターリン主義のうちに見た』と言われた上で、レヴィナスの次の言葉を紹介しています。「スターリン主義とはつまり、個人的な慈悲なしでも私たちはやっていけるという考え方なのです。慈悲の実践にはある種の個人的創意が必要ですが、そんなものはなくてもすませられるという考え方なのです。そのつどの個人的な慈愛や愛情の行為を通じてしか実現できないものを、永続的に、法律によって確実なものにすることは可能であるという考え方なのです。スターリン主義はすばらしい意図から出発しましたが、管理の泥沼で溺れてしまいました」(内田樹訳『暴力と聖性』国文社)。
 さて、私たちの日本福音ルーテル教会には、教会だけでなく、そこに連なる学校や幼保(こども園)、そして福祉施設があります。それらが運営の中で困難に直面するとき、私たちは、問題を一気に解決する(と大きな声が主張する)ナニカに飛びつきたくなったりすることがあります。しかしそんなときこそ、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25・40)という主イエスの言葉を大切にする私たちでありたい、と思います。
岩切雄太(門司教会、 八幡教会、 佐賀教 会、小城教会牧師)

第25回 秋のディアコニアセミナー

ヒロシマで、主から与えられた「自由において奉仕する人間」、霊の一致において「教派を超えて共同で証しする未来」を祈り求めます。

日時:10月8日(日)17時~9日(月)12時
会場:日本福音ルーテル広島教会

プログラム
 8日 17時 開会礼拝
    19時 語り部「原爆の話」朴南珠さん
 9日 9時15分 
主題講演
    「未来:ヒロシマ後のキリスト者の祈り」
    福田誠二神父(フランシスコ会修道士 岩国カトリック教会司祭)
    パネルディカッション

参加費 2,000円(部分参加1,000円)
※旅費・宿泊は各自手配・自己負担
申込締め切り 10月1日(日)

申込・問合せ 全国ディアコニア・ネットワーク(谷川卓三牧師) TEL/FAX 0848-62- 2518

議長室から

「喜びの体験を報告し合おう 」総会議長 立山忠浩

9月に入り、今年も余すところ4ヵ月となりました。宗教改革500年の記念すべき年もいよいよ大詰めです。日本福音ルーテル教会及び各教区での記念事業への参加と協力を改めて呼びかけます。
1.記念礼拝
 記念礼拝は各教区で開催予定ですが、西教区では近畿、西日本両福音ルーテル教会との合同の礼拝と講演会が7月に行われました。合同で聖餐式を伴った礼拝を行ったことは初めてのことでした。今後、九州教区(10月28~29日)、東海教区(11月3日、記念大会)、東教区(11月4日、日本ルーテル教団との合同)と続きます。北海道特別教区では日本ルーテル教団との合同修養会が企画されています(10月8~9日)。
 カトリック教会(日本カトリック司教協議会)と日本福音ルーテル教会との合同の礼拝とシンポジウムは、11月23日に長崎のカトリック浦上教会で開催されます。7月末にルーテル世界連盟前議長のムニブ・ユナン監督が来日された際には、両教会合同で同師の記念講演会をカトリックのイグナチオ教会で開催し、11月の合同企画に向かっての弾みとなりました。
2.ギフト・キャンペーン
 ルターの顔をデザインしたバナーは、一昨年の秋に全国の教会、学校、施設、幼保園等に配布しました。残りの「ヤツオリ」と「プレゼントブック」が8月に出来上がりました。間もなく皆様の教会にも届けられると思います。これはぜひ伝道に用いていただきたいものです。
 宗教改革の歴史はルターが「95か条の提題」を貼り出したときから始まりましたが、その運動を後押ししたのが印刷技術でした。ルターの主張がすぐに印刷され、瞬く間に広がったのです。教会に来ていただくために、この印刷物が大いに用いられることを願っています。
3.募金
 記念事業のための募金を行っています。800万円の目標を立てましたが、まだ達していません。ご協力をお願いします。
 「ルーテル」という名を冠する私たちにとって、これらの記念事業に参画出来ることはとても意義深いことです。それぞれが参加し、体験したこと。その結果得られた喜びについて、来年5月の全国総会で報告し合えることを楽しみにしています。

プロジェクト3・11 「支援」をつづけることの意味

 プロジェクト3・11 企画委員 小泉嗣
 私たちプロジェクト3・11は2016年、献げられた90万の募金の中から25万円をいわき放射能市民測定室「たらちね」に寄贈した。
 年間予算5000万を超える大きなNPO法人に対し、東教区プロジェクト3・11を通して全国のルーテル関係の教会や学校から集められた献金を25万円を送ることの意味を考えるとき、気分はもう「ハチドリのひとしずく」以外の何物でもない。しかし、私たちルーテル教会は「ハチドリ」でありつづけたいと思うし、「ハチドリ」でありつづけなければならないとも思う。食品残留放射能測定からはじまった「たらちね」の活動は、甲状腺検診を経て、2017年6月に保険診療ができるクリニックを開設した。もちろん食品の残留放射能の測定、砂浜の砂、海水、家庭ゴミの測定、ガンマ線とベータ線の測定を続けながらの活動である(「たらちね」のリアルタイムの活動報告はホームページに記載されるニュースや総会資料、たらちね通信に詳しく記されるので、そちらをご覧いただきたい)。
 「たらちね」の理事長である織田好孝さんは2017年総会資料の中で「復興が進むとともに、『安全だ』『大丈夫』の声がより強まる中、お母さんお父さんたちはますます声を上げづらくなっています。その不安感にていねいに寄り添い、「たらちね」が皆さんの心の埠頭的な存在になれるようより精進してまいります」と語っている。東日本大震災、それによって生じた原発事故、放射能汚染、不安を抱え、痛みを抱え、未来に向かって今日を生きる人がいて、それを支えようと尽力する人がいる。埠頭になろうとする人がいる。その「人・人・人」を支える多くのハチドリが日本中に、世界中にいる。私たちルーテル教会もその「ハチドリ」の一匹となり4年目を迎えている…。
 2017年6月現在、プロジェクト3・11には23万9130円の献金が全国から献げられている。

ムニブ・ユナン牧師来日講演

 2017年7月24日、カトリック麹町聖イグナチオ教会聖マリア聖堂において、ルーテル世界連盟(LWF)前議長のムニブ・ユナン牧師をお迎えしての講演と祈りの時が持たれました。ルーテル/カトリック共同委員会が主催し、立山忠浩総会議長、大柴譲治副議長・エキュメニズム委員長、カトリック教会から司教協議会会長の?見三明大司教、エキュメニズム部門担当の岡田武夫大司教を始め、両教会の関係者約120名が出席しました。
 ユナン牧師はパレスチナの出身であり、「ヨルダンと聖地 福音ルーテル教会」のビショップとして宗教間対話に取り組み、7年に渡りLWFの議長も務めました。カトリック教会との神学的対話の積み重ねは『争いから交わりへ』との文書に結実し、それを元に昨年10月31日にはLWFの発祥の地であるスウェーデンのルンドにおいて行われたカトリックとの宗教改革共同記念礼拝において、教皇フランシスコと共に共同声明に署名しました。
 今回の来日は、エルサレムにおいて聖地宗教評議会を立ち上げるなど、ユダヤ教徒・キリスト教徒・ムスリムの対話促進に献身し、他の教派や宗教との対話と和解を目ざすエキュメニカル運動を進める地道な宗教間対話の取り組みが評価され、庭野平和賞を受賞するためでした。
 講演では、過去の50年のエキュメニズムの進展に注目し、その歩みの意義とそこに導かれたことへの感謝と述べると共に、ルンドでの成果を過去に閉じ込めず、次の宗教改革500年を共に進めていくために、聖霊が私たちを形作り、変化させ、導くことを受け入れていくことを呼びかけました。そして「神の恵みによる自由」を与えられている私たちは、もはや過去も未来も恐れることなく、「我ここに立つ」とルターにあわせて唱えるだけでなく、「ここから教会は旅立つ」と唱えて、「すべての人を一つにしてください」(ヨハネ17・21)というキリストの祈りが実現することを祈ると語り、日本の教会の歩みを励ましてくださいました。

関西地域ルーテル教会 3教団 合同宗教改革500年記念聖餐礼拝
「ルターセミ ナーイン 大阪」報告

  永吉秀人(天王寺教会)
  2017年7月17日(月)、日本福音ルーテル大阪教会を会場にして、関西地域のルーテル教会3教団(日本福音ルーテル教会、近畿福音ルーテル教会、西日本福音ルーテル教会)合同での宗教改革500年記念聖餐礼拝が行われました。
 参加者は、日本福音ルーテル教会より86名、近畿福音ルーテル教会より75名、西日本福音ルーテル教会68名、その他、主にカトリック教会などから21名の参加を得、総勢250名での記念礼拝がもてましたことは感謝です。
 プログラム第1部は、ルターセミナーとして講演者に江口再起先生(ルーテル学院大学教授、ルター研究所副所長)をお招きし、主題「ルターが今日の日本に生きていたら」、副題「神のすばらしき創造の世界との共生」のもとにお話をうかがいました。「ルーテル教会はふるわない!」という赤裸々な発言から始まる講演は刺激的でありつつ、ルターの「信仰義認」の神髄は「恩寵義認」にありという、絶対的な神との平和を示唆するものでありました。
 第1部終了後、ルーテル学院大学と日本ルーテル神学校のアピールが石居基夫校長より映像付きで行われ、関西でも牧師や福祉従事者への献身者が起こされることを欲する呼びかけがなされました。
 第2部は、特別賛美「オルガン演奏による賛美のひと時」と題して、近畿福音ルーテル泉北教会員である小島尚美さんの演奏をお聴きしました。バッハ作曲の「来たれ聖霊よ」、「天にいます父よ」、「われらが神はやぐら」の選曲は、記念礼拝にふさわしいものでありました。
 第3部として合同聖餐礼拝が行われました。司式は3教団から議長と副議長の2名ずつが担当し、6名での司式団として携わったことは500年記念として意義あることでありました。説教は江口師より重ねて「恩寵義認」の福音をお聴きしました。聖餐式では、ワイン、ぶどう液、祝福のみの列が設けられ、それぞれが属する教会の慣習に従って配餐に与りました。この礼拝を通して、一人一人が改めて社会に派遣される喜びをいただく時とされました。

宗教改革500年に向けて ルターの意義を改めて考える 63

 ルター研究所長 鈴木 浩
 前回は、「聖書によってのみ」、「恵みによってのみ」、「信仰によってのみ」という総じてプロテスタント諸教派によって共有されてきた「原理」に触れておいたが、「聖書によってのみ」という言葉の意味について考えてみたい。
 問題は何よりも「神認識」に関わっていた。「どのようにしたら、われわれは神を知ることができるのか」というこの問いは、神学の根本問題であって、キリスト教信仰を体系的に論じる「組織神学」(具体的には「教義学」という分野)では、多くの場合、冒頭に置かれる問いである。それに対するルターを初めとする改革者たちの回答が、「聖書によってのみ」であった。
 伝統的には神の知るためには三つの手段があると考えられてきた。
1.自然神学/神が創造した自然界から、「何となく」であれ、神の存在に触れる。
2.哲学上の推論/あらゆる出来事は、「原因と結果」の連鎖で起こる。しかし、この連鎖を無限に辿ることはできないから(「自然は無限を嫌う」というアリストテレスの原理)、そもそもの初めに、他から原因を与えられずに、この連鎖の出発点となる起点があるに違いない。それが神だ、という主張である。
3.啓示神学/神の啓示(具体的には聖書)によって神を知る。
この三つが、伝統的な神認識の手段であった。
 ルターは、しかし、「聖書によってのみ」と唱えた。真の神を知る手段は、聖書しかない、というのである。それは当時の人々から見れば、かなり過激な主張であったが、ルターはさらに踏み込む。「十字架に付けられたイエス・キリストの苦難と死以外の場所では、われわれは神を知ることができない」。それがルターの主張であった。

 献堂のよろこび

 小岩教会 日本福音ルーテル小岩教会・ルーテル保育園       松田繁雄
  同建築委員長  小泉 嗣
 2017年5月21日、東教区から集まった牧師や信徒、小岩教会の会員、保育園関係者が会堂を埋め尽くす中、立山総会議長の聖別により小岩教会の新会堂はその歩みをはじめました。教会創立から79年、旧会堂建設から55年ぶりの献堂式です。
 小岩教会は東京都江戸川区南小岩に位置し、その歴史は教会設立と同時に開園した小岩ルーテル保育園と共に、地域の中で育てられ、今日まで守られてきました。保育園は築65年、会堂は築55年、二つをあわせるとゆうに100歳を超える小岩教会は、これまでたくさんの卒園児とキリスト者を世に送り出し、そして召天者を神さまのもとに送ってきました。半世紀を超える二つの建物は、これまでも小さな改修工事や耐震工事などを施してきましたが、さすがに老朽化のスピードには抗えず、全面的な建て替えを余儀なくされる状況になりました。
そのような折、教会の前を通る都道が東京都の都市計画都市防災不燃化推進事業の対象となったことも手伝って、保育園・教会の新築事業が2014年に具体的な計画として持ち上がり、保育園は江戸川区・都に、教会は東教区・全体教会に申請が認められ、 2015年11月より解体工事が、2016年の2月より建築がはじまりました。
 工事を始めるにあたり、もちろん地域の方々に挨拶をするのですが、町内会長はルーテル保育園の卒園児であることは言うに及ばず、小岩教会の代議員と同窓生であるということからも、小岩教会とルーテル保育園が、これまで地域の中でどのような歩みをしてきたが伺えるのではないかと思います。1年半以上に及ぶ工事期間中、お叱りを受けた回数より励ましとお支えの言葉を受けた回数の方が大きく上回ったことも嬉しい出来事でした。
 最後になりましたが、日本福音ルーテル教会の一人ひとりのお支えによってこの日を迎えられたことを感謝し、地域の中にしっかりと根を張る小岩教会とルーテル保育園の歩みが神さまによって支えられ導かれるように、皆様のご加祷を願いつつ、献堂のご報告とさせていただきます。

「ルーテルアワー」のサイト [さあなの部屋]より
心を高く 伊藤早奈

 「わたしの神よ、わたしを敵から助け出し、立ち向かう者からはるかに高く置いてください。」(詩編59・2)
〈祈り〉
 神様、立ち止まり、ゆっくりと深呼吸をすることを、私は日に何回できているでしょうか。今、生かされているのは、多くのものに支えられているからだと思い巡らせる時は、どのくらいでしょうか。
 たとえ私が忘れていたとしても、いつも私のことを慈しんでくださる神様に、心を向けられますように。
この祈りを主イエス・キリストの御名により捧げます。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 詩人は「敵から助け、高く置いてください。」と詩います。「高い所」ならば、かえって目立ち、敵に見つけられてしまうのではないかと思い、いったい何をこの詩人は祈っているのかと、考えました。
「待っていてくださったのだ。」
 先日、亡くなった方との最後となったひと時を、その方の姿勢を思い起こして今、私が思う想いです。
 共に神様へ心を向ける時を持つために、いつものようにお部屋を訪ねると、たいていはベッドに仰向けになられたままだった方が、その日に限ってベッドに座っておられました。
 「トイレに行かれるのですか?」と聞いた私に、その方は「いいえ」と言われただけでしたので、そのまま共に祈り、聖書に聴き、賛美をし、祝福を祈らせて頂きました。次の訪問日にお部屋に伺おうとすると、その方はすでに亡くなったことを知らされました。
 頭で考えても解決できない問いが、祈りをもって神様と共に考える(想う)ことで、気付きへと導かれることがあるのではないかと思います。「トイレに行きたかったのですか?」「どうしたのですか?」という思いから、「待っていてくださったのですね。」「ありがとう。」と私の想いが変えられたように。
 詩人は、神様に「敵から高い所へ逃れさせてください。」と祈っているのではなく、「敵がどんなに迫って来る中でも、神様へ私の心を高く向けさせてください。」と祈っているのではないでしょうか。
 いつも共にいてくださる神様に心を高く向けていられるように、神様はいつもあなたの心を支えてくださいます。

宗教改革500年ギフトキャンペーン
「ヤツオリ」「ブック」完成

 宗教改革は神が与えてくださる恵みという贈り物の発見であった。私たちも、この贈り物を自分が受けるだけでなく分かち合ってゆきたい。これが《ギフトキャンペーン》となりました。第1弾であったルターの顔のバナーに加え、この程、プレゼントブック・キャンペーンのための「ブック」とヤツオリ・キャンペーンのための「ヤツオリ」パンフレットが出来上がりました。
 学校や施設、教会などを通して、手渡しできる関係の中で、キリスト教のことをあまりご存じない方々へ宗教改革500年のギフトとしていただくために作成しました。

 「ヤツオリ」は古くて新しいメディアです。宗教改革の精神も印刷されたパンフレットで広がりました。新聞紙大の紙を3回折ると週刊誌のサイズになり、裏表で8ページずつの冊子になります。ここに「宗教改革とは?」、「ルターとルーテル教会」、「500年間の広がりとつながり」をイラストとコメントで紹介するパンフレットです。アートディレクションを行う「銀座文平」がデザインしました。
 「プレゼント・ブック」はそのタイトルを「悩み多き人生に答えはあるのか? マルティンに聞いてみよう」としました。誰の人生も問いの連続のようなものですが、特に若い世代に対して、悩み続けてよいのだと語りかけるように、マルティン・ルターの生涯とその言葉から寄り添うような本です。「ヤツオリ」と併せて、出版社のミシマ社の編集プロダクション「オフィス1975」が編集を担いました。
皆さんから寄せられた宗教改革500年記念事業募金により完成できたことを感謝します。順次、配布しますのでどうぞご活用ください。(宣教室)

2017年宗教改革500年 「カトリックとルーテルの共同声明」に学ぶ

日本ルーテル神学校長 石居基夫

【本文から】

 わたしたちの共同体の多くの会員たちは、十全な一致の具体的な現れとして、ひとつの聖卓で聖餐を受けることを心から願っています。全生活を共にしながら、聖餐の聖卓において神の救いの現臨を分かち合うことができない人々の痛みを経験しています。わたしたちはキリストにあってひとつとなるという人々の霊的な渇きと飢えとに応えるべき、わたしたちの牧会的な共同の責任を認識しています。わたしたちはキリストのからだにおけるこの傷が癒されることを切に願っています。これは神学的な対話へのわたしたちの関わりを新たにしていくことによってもまた、わたしたちのエキュメカルな努力の目指すところなのです。

【学び】

 キリスト教の教派を超えた交わり、対話と共同・協働の関係を築いていくことをエキュメニズムと呼ぶが、これは「教会一致運動」とか「世界教会主義」などと訳される。
 もともとイエス・キリストを救い主と信ずる信仰者は、それぞれに違いがあっても父と子と聖霊の一つの神を信じ、一つの洗礼によってキリストの体に結ばれているものであって、その体はそれぞれを尊重し、それぞれの働きが結び合わされて成長し、この世界に働くものと教えられている。だからこそ、歴史の中で一つの教会ということが絶えず求められてきたといってよい。
 しかしながら、一つであることを求めることは、間違ったものや異なるものと判断されると、それを排除していくということと裏腹の関係となることは避け難い。現実には時代や場所、状況の違いがそれぞれの信仰に特徴をもたらすものだし、言葉や文化が異なれば信仰の理解にも違いが生まれる。人間の世界に存在する限り、政治的な力関係の中で異なるグループが分裂したり、影響し合ったりすることも当然起こる。それが、今日のキリスト教世界のなかに多様な教派の存在を造り出してきたといってよいだろう。
 その違いを改めて認め合いながらも、やはりキリスト教は本来の一つのものとして一致していこうというのがこのエキュメニズムということになる。カトリックとルーテルもお互いを認め合い、一致のためにこの対話を重ね、交わりを深めている。
 あらゆるエキュメニズムの目指すところは、必ずしも組織的な完全なる一致、融合ではない。むしろ、それぞれの教派の違い、その存在を確かに認め、それをキリスト教の豊かさとしていけるように考えているといってよいだろう。その時に、具体的に目指している姿は、共に聖餐にあずかる一つの礼拝をもつことと言われている。主の食卓を共に囲むことは、やがて神の国が実現するときの一致、その祝宴の先取りを今・ここに経験することに他ならないからだ。
 カトリックとルーテルは、今、これだけ対話を重ね、お互い理解し、これからもその歩みを重ねていくことを宣言しているのだが、それでも、まだ聖餐を共にすることは出来ないでいる。実は、カトリック教会はどんな教派ともまだこの共なる聖餐というところまで一致を実現してはいない。一つの聖餐ということが一つの教会ということを現すということが本当に大切なことと理解されているが故に、教会とはなにか、聖餐とはなにかということの理解に一致がなければ、聖餐を共にすることは出来ない。それを曖昧にして聖餐を共にすることは、結果として相手を尊重しないということにもなってしまうからだ。だからこそ、共に聖餐にあずかるということについては、本当に慎重になっている。この聖餐は、単なる食事でなく、特別な意味をもっているからこそ、この食卓を一つに交わりをもつためにはお互いにその意味を理解することが必要なのだ。
 しかし、この声明は、その「共なる聖餐」を目指していることをはっきりと示している。そこに向かっているのだと表明するのは、その実現がそんなに遠いことではないと理解されているのだと信じたい。
 お互いを認めているのであれば、一つの食卓を囲むというそんな単純なことがどうしてできないの?そんなのおかしいよ。と、素直に思うことは決して間違っていない。それがエキュメニズムの原点だといってよいだろう。だから、そんなのおかしいと思う痛み、哀しみ、あるいは悔しさ、そういうものが、一つの聖餐を実現する時に、本当に癒されていくことであることを思わずにはいられない。だから、それを渇望する。これがエキュメニズムを進める力だと思う。
 たとえば、今、同じ町にカトリック教会もルーテル教会も普通に存在しているのだから、そのカトリック教会に行っている人とルーテル教会に行っている人が友となって、お互いの教会を行き来するということは普通にあっておかしくない。でも、その相手の教会の礼拝に出席しても、そこで祝われる聖餐、ミサにはあずかれない。たとえば、カトリックの人とルーテルの人が結婚したら、いずれかの教会に完全に転籍してということでなければ、一つの礼拝、一つの聖餐にあずかることは出来ない。これが分かたれているということの痛みなのだ。
 だから、「ひとつの聖卓で聖餐を受けること」が本当に願われているのだし、その実現は必ずや大きな証になる。争い、分かたれてきたところに、交わりが、和解が、慰めが与えられること。この願いは、実現へとむかっているのだ。

日本福音ルーテル教会 各地での宗教改革500年記念イベント

[札幌]ともに学び 交わり 礼拝して新しい出発を!

日時/10月8日(日)18時 夕べの祈り・宗教改革500年記念交流会
/10月9日(月・祝)10時 記念講演・宗教改革500年合同礼拝
会場/札幌市保養センター駒岡
講演/「パウロの福音理解の変遷」 
講師/阿部 包先生(藤女子大学教授)
礼拝説教/ミカエル広谷和文司祭(日本聖公会旭川聖マルコ教会牧師)
参加費/あり
問合せ/北海道特別教区各教会
主催/北海道特別教区・日本ルーテル教団北海道地区

[熊本]真理はみんなを自由にする!

①レクチャーコンサート
日時/9月30日(土)14時 
会場/ルーテル学院高校チャペル
講師:加藤麻衣子先生(ルーテル学院中学高等学校オルガニスト)
入場料/500円
②講演会&演奏会
日時/10月28日(土)15時 講演会
/10月28日(土)16時45分 演奏会
講師/江口再起先生(ルーテル学院大学教授)
演奏/ラスカーラ・オペラ協会/メンデルスゾーン交響曲第5番「宗教改革」
参加費/2000円(大人)
③前夜祭
日時/10月28日(土)18時15分
会場/九州ルーテル学院大学食堂
参加費/2000円
④九州教区合同主日礼拝
日時/10月29日(日)10時30分 
会場/九州学院ブラウンチャペル
説教/小副川幸孝牧師(九州学院チャプレン)
問合せ/神水教会(角本牧師)
主催/日本福音ルーテル九州教区

[名古屋]神の言葉はすべての人のために

日時/11月3日(金・休)13時~16時 宗教改革500年記念大会 
会場/金城学院大学アニー・ランドルフ記念講堂
基調講演/「信仰によって義とされる」とはどういうことか 
講師/石居基夫先生(日本ルーテル神学校長)
分科会/①宗教改革を深く考える会「座談会&貴重本1606年版絵入りルター聖書鑑賞」
②パイプオルガン演奏会/大木麻理さん(開場時整理券配布250名限定)
③ハンドベル演奏会/金城学院大学ハンドベルクワイア―
参加費/なし
問合せ/東海教区
主催/東海教区、名古屋キリスト教協議会

[東京]立ち止まり感謝、そして前進、共に

日時/11月4日(土)10時~17時
会場/ルーテル学院大学、国際基督教大学礼拝堂
①子どもプログラム(宗教改革を楽しめ!)
②青年プログラム(牧師ROCKSライヴ&トーク)
③パネル展示
④記念合同聖餐礼拝
説教/柴田千頭男牧師
奉献賛美/ルーテル学院大学、聖望学園、浦和ルーテル学院合同聖歌隊、ハンドベルクワイア/ハイドン「Glorious Things Thee are Spoken」
⑤記念コンサート
演奏/東教区合同聖歌隊・NRK有志/バッハ≪ロ短調ミサ曲≫より「Dona Nobis Pacem」、我らの神は堅き砦
演奏/ソプラノ柳沢亜紀さん、合唱アンサンブル・クライス(吉田真康さん主宰)/メンデルスゾーン「Hear My Prayer」
演奏/東京バッハ・カンタータ・アンサンブル/メンデルスゾーン交響曲第5番「宗教改革」
参加費/なし(開催賛助金要請あり)
問合せ/大岡山教会(松岡牧師)
主催/日本ルーテル教団関東地区・日本福音ルーテル教会

※他のイベント情報等は以下のURLよりご確認ください。
http://luther500.wixsite.com/jelc

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