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機関紙るうてる

るうてる2015年11月号

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説教「主人と僕 あなたにもタラントンが与えられています」 

「主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』」(マタイによる福音書25章21節)

 「タラントンのたとえ」(マタイ25・14以下)は、イエス様の語られた有名なたとえです。主人が旅行に出かける前に、3人の僕たちに各々の力に応じて5タラントン、2タラントン、1タラントンのお金を預けます。この主人は、普段からよほど僕たちのことを気にかけ、一人一人のことをよく見ていたに違いありません。それぞれにちょうどよいタラントンを預けたのですね。
 さて、主人から5タラントンと2タラントンを預かった僕たちは、そのお金を元手に、一生懸命商売をして倍の額に増やし、主人に差し出します。すると主人は、「忠実なよい僕だ。よくやった。主人と一緒に喜んでくれ」と言います。この時、主人は嬉しさのあまり、僕の肩をポンポンッと叩いたか、僕をギュッと抱擁したか、ニコニコとうなずいたか…。聖書には詳しくは描かれていないのですが、とにかく満足と喜びいっぱいの様子が彼の言葉から伝わってきます。主人と2人の僕たちは、とてもよい関係なのですね。
 この2人は、主人から預かったものを増すために一生懸命励んだことでしょう。彼らは頭も心も手足も、主人を喜ばせるために動かしたのです。そして苦労し、工夫し、積極的に活用して預かったものを倍に増やすことができました。主人としては、彼ら2人がこんなにも一生懸命、しかも自分を喜ばせようとして励んでくれたことが何よりも嬉しくてたまらないのです。「主人と一緒に喜んでくれ」とは、最高の褒め言葉ではないでしょうか。「私の喜びはお前の喜び!私たちは同じ喜びを分かち合える仲なんだよ」ということです。これほどの言葉をかけられて2人の僕は非常に恐縮したでしょうけれど、主人がこんなにも喜んでくれ、こんなにも自分を信頼してくれて、まるで身内かなにかのように「同じ喜びを分かち合おうよ!」と言ってくれるのですから、本当に嬉しかったでしょうね。「主人と僕」という主従関係を超えた、温かな交わりと固い絆が両者の間に結ばれていることが伝わってきます。
 さて一方、1タラントンを預かった僕ですが、彼はそれをそのまま主人に返しながら言います、「恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました」。この言葉からは、主人に対する信頼や愛情は少しも読み取ることができません。この僕が主人に対して恐れや疑いを抱いていたこと、それゆえ萎縮して動けなくなってしまった様子が伝わってきます。主人は「怠け者の悪い僕だ。銀行に入れておけば利息付きで返してもらえたのに」と怒ります。
 先ほどの2人が 主人を喜ばせることだけを考え、預かったお金を活かして増やしたのとは反対に、この僕は主人を喜ばせることなど少しも考えなかったようです。彼が考えていたのは、ひたすら自分自身のことで、自分が主人から叱られないように、失敗しないように、そればかりを考えて結局は何もできなかった、いや、何もしないほうを選んだのです。もしも、彼に少しでも主人を思う気持ちがあったら、おそらく金を土の中には埋めなかったでしょう。主人が言うように、銀行に入れておけば少しであっても利息が付きますから、「土に埋めておくよりはちょっとはマシ、少しはご主人のためになる」と考えることができたでしょうね。土に埋めておくのも、銀行に預けておくのも、自分は何もしない点では同じですが、しかし主人のためには、少しでもよい方を選ぶのが預かった者の務め、とは残念なことに思い至らなかったのです。
 私たちも恐れや疑い、落胆や失望に囚われてしまって、神様の御心は何か、神様を喜ばせる道はどれか、ということが考えられなくなる時があります。ついには、「やはり私にはできない。私には可能性も能力も力もないのだから」と落ち込んでしまう。そして、意識しないことが多いのですが、落胆そのものの中に、神様への反発が潜んでいるのではないでしょうか。私たちが「結局、こんなことになったのは神のせいだ。私がこんな性格になったのは神がこのように創ったからではないか。この困難な状況に私を置いたのは神ではないか。能力と才能を与えてくださらなかったのは神ではないか」などと言って神様を責めてしまうとき、造り主なる神様を最も悲しませるのではないでしょうか。
 しかし、それでもなお神様は「あなたを造ったのは私だ。あなたに困難な道を通らせたのは私だ。あなたに弱さを与えたのは私だ。それらを天からの賜物、チャレンジとして受け止めてほしい。土の中に埋めてしまわずに活用してほしい。そして、最後に一緒に喜びを分かち合ってほしいのだ」と、絶えることなく私たちを招かれるのです。
 神様の賜物は全て最善と信じ、与えられたタラントンを用いることができるよう祈りつつ歩みましょう。
日本福音ルーテル函館教会牧師 坂本千歳

宗教改革五〇〇年に向けて ルターの意義を改めて考える(43)

ルター研究所所長 鈴木 浩

 「神の義」とは、「神にとって正しいこと」という意味である。ヘブライ語では、「ツェダカー」という言葉がそれにあたる。
 ところで、本国に住むユダヤ人以上に、外国に居住するユダヤ人(ディアスポラ)が増えてくる。イエスの時代には、ディアスポラの人口は本国のユダヤ人の4倍から7倍だったと推定されている。
 当時の世界は地中海世界だから、ヘレニズム文化圏で、言葉はギリシャ語である。当然のように、ディアスポラのユダヤ人はギリシャ語を使うようになって、旧約聖書のギリシャ語訳(70人訳)が作られた。
 ギリシャ語では、「義」は「ディカイオシュネー」と訳された。その後(3世紀頃)、地中海世界の西半分の言語はラテン語になる。すると、「義」は、「ユスティティア」という言葉になる。
 サンスクリット語の仏典が漢訳され、さらに日本語に訳されたのと同様である。知恵を意味するパンニャーが漢訳で「般若」となって、日本に来ると、2本の角を持つ怖い顔つきになったように、翻訳の際には、ニュアンスの違いが出て来ることは避けられない。
 「神の義」のニュアンスについても、同じことが起こった。

宗教改革500年事業献金にご協力ください。

 2017年に宗教改革500年を迎えるにあたり、記念事業の宣教活動として、●学習運動 ●記念礼拝 ●ギフトキャンペーンに取り組みます。
 特にギフトキャンペーンは「バナー」「ヤツオリ」「本の贈り物」を教会がギフトとして差し上げるキャンペーンです。この事業を祈りと献金で支えてください。 すでに専用献金袋を活用くださっている教会もあります。
献金袋については、ご連絡いただけましたら必要枚数をお送りします。
 口座番号含め、ご質問はなんでも宣教室にお寄せください。
電話03-3260-86メール jelc@jelc.or.jp

議長室から

「平素の信仰生活を大切に」

総会議長 立山忠浩 

 教会の暦が慌ただしい時となりました。聖卓と説教台のクロス(布)の色が宗教改革主日には赤になり、翌週の全聖徒主日には白に。そして今月末には待降節の紫に変わります。クロスを頻繁に変える度に、今年の暦も終わりを迎えようとしていることを覚えるのです。
 教会ではこの時節に終末、つまりこの世の終わりのことを想起するのが習わしです。主キリストが、いつか再び現れてくださることを信じるのです。初めがあり、終わりがある。ゆえに教会の時間軸は直線的であり、キリスト者は終末という確かな目的に向かって歩んでいると考えるわけです。
 これに対し仏教では、丸い円の理解をすると聞きます。禅宗の僧侶が墨の筆で円を描いた絵を目にすることがあります。円には始まりも終わりもありませんから、輪廻(りんね)の思想にもつながって行くのでしょう。直線的な時の理解とずいぶん違うものだと、改めて思わされます。
 確かに教会の1年間の暦は、待降節(アドヴェント)に始まり、四旬節、復活節を経て、聖霊降臨後最終主日をもって終わりを迎えますから、直線的と言えるのでしょう。でも、また今月末には新しい1年が始まるというサイクルを毎年繰り返していることを考えると、私たちの暦も終わりのない円の運動をしているようにも思えます。「仏教とキリスト教の時間の理解は違う」と、ことさら違いにこだわる必要はないのかもしれません。
 でも時間の流れ、暦の流れを覚える時に、私たちがこだわらなければならないことがあると思います。それは自分にとって極めて重要な「時」のことです。それぞれの日々の歩みは、何の変哲もない、いつもと変わらない時の流れが多くを占めていることでしょう。しかし人生には危機が襲いかかることがあり、重大な決断をしなければならない時、あるいは決定を下される時があります。直線的な時でも、円のような時であったとしても、その人にとってくさびを打ち込まれるような重要な時があるのです。
 その時に、自分の信仰にどれほどこだわり、力にするのか、それはキリスト者にとって極めて重要なことです。にわか信仰には難しいのです。揺るぎない信仰を培うためにも、平素の信仰生活を大切にする新しい年に踏み出したいものです。

宣教の取り組み 安全保障関連法についての学習会

森本典子(賀茂川教会)

 8月21日、賀茂川教会を会場に、京都地区三教会有志(京都教会・竹森、修学院教会・高田、賀茂川教会 ・石原、塩谷、森本)により、「平和を考える|安全保障関連法案についての学習会」が開催されました。
 安保法案についてもう少し詳しく知りたい、平和についてもう少し考えてみたい、キリスト者としてどう考えたらいいのかなど、基本的な事柄をお話してもらうために、恵泉女学園大学で教鞭をとっておられる憲法学者の齊藤小百合先生をお招きしました。
 齊藤先生のお話は、憲法の基本が主権在民であり、憲法は本来、政治家をはじめ公務員など国家権力に縛りをかけるものであるということから始まりました。
 続いて、憲法のみならず国連憲章をも引用して、法というものが弱者を守るためにあること、そして、なぜ安保法案が憲法に反すると考えられるのかをお話されました。キリスト者として、また憲法学者として先生が日本の民主主義を、そして平和を守っていかなければいけないと真摯に考えておられることが伝わる内容でした。
 ルーテル教会以外の方にも参加していただきたいと考え、近隣教会や教会周辺のお宅にはチラシを配布し、インターネットを通しても参加を呼びかけました。単立、カトリック、バプテストなどの近隣の教会、学生団体、実行委員の口コミなど様々なところから、年齢や性別を超えて30名弱の参加者があり、この問題への関心の深さが窺えました。
 近隣教会の牧師さんは「キリスト者としてどう関わったらいいか、教会員にどのように説明すればいいかを考えたかった」と足を運んだ理由を語られました。別の方は「憲法が弱者を守るものであることを教えられた」と感想を述べられました。
 法案は法になりましたが、これが終わりなのではなく、これからもこの世の法である日本国憲法ともどう向き合っていくのかをしっかり考え続けなくてはいけないと思います。

前浜マリンセンター訪問プログラム報告

東教区社会部長 小泉 嗣

 8月28~29日に東教区「プロジェクト3・11」の気仙沼市にある前浜マリンセンター訪問プログラムが実施されました。このプログラムは、ルーテル教会救援の支援活動が終結した2014年夏に、東教区としての今後の支援活動を探るため、ルーテル教会救援の前スタッフの佐藤文敬さんにルーテル教会救援が関わりを作った団体や地域を案内していただいた際に、前浜地域振興会の菊池敏男さんに言われた「とにかく来てください」という言葉に素直に応じて実現したプログラムです。同センターの建設に、ルーテル教会救援は関わらせていただきました。
 当時の私はというと、ルーテル教会救援から比べると人も規模も全く違う日本福音ルーテル教会東教区が果たしてどのような「支援」ができるのか、またすべきなのか、「支援したい」という思いをもった東教区の人たちと福島や宮城をどのようにつなげていくことができるのか。そんな思い先行の頭でしたので、「せめて何かお手伝い出来ることを…」と言葉を繋いだのですが、菊池さんは「いや、来ていただくだけで結構です」と静かにおっしゃいました。
 当日は、お昼から日本ルーテル教団(NRK)の訪問団により、前浜マリンセンターでワークショップ「本格カレーづくり」や「牧師ROCKS」の東北コンサートが開催され、それに続く形で「プロジェクト3・11」の訪問プログラムの参加者がセンター入りし、コンサート終了後の懇親会へとプログラムが続きました。 地区のみなさんの一品持ち寄り(実際にはたくさんの差し入れがありました)の新鮮な魚介類が縁側の長机(手作りのベンチ)に並べられ、月明かりの下でおいしく楽しい懇親会となりました(締めは大谷大漁唄い込み)。
 翌日は地区の方々との「お茶っこ」の集まりが持たれ、地区の方々に現在の前浜の情況や震災当時のお話を聞き、地区に住む大谷里海づくり検討委員会の三浦友幸さんから現在の気仙沼の様子を伺ったり、菊池さんを訪ねて桜の植樹を行うNPOの方々も参加したりと、本当に中身の濃い、それでいて和やかな時を過ごしました。
 「雲丹を食べたいなら初夏、牡蠣を食べたいなら冬か春においで」という言葉に強くうなづきながら、「あぁ、またこの人たちに会いに来よう、前浜で生き、集う人たちとテーブルを囲もう」と思いながらセンターを後にし、あっという間の訪問プログラムは終了しました。来年もまた「とにかく行く」訪問プログラムは開催する予定です、どうぞご参加ください。
 今回の訪問プログラムとは直接の関係はありませんが、「プロジェクト3・11」では、これまで報告したように福島に暮らす人々の不安に寄り添う働きに、経済的な支援を継続しています。東教区内の諸教会には、募金箱を設置して支援を呼びかけています。他の教区の教会などで、募金箱にご興味がおありの方は、お気軽にお問い合わせください。まだ続く震災と原発事故でご苦労される方々につながる歩みに連なっていただければ幸いです。(連絡先 小泉 嗣 t-koizumi@jelc.or.jp)

礼拝式文の改訂

19 諸式式文について

共同式文委員 白井真樹

 現在、主日礼拝式文の改訂並びに教会暦と聖書日課の見直しの作業と共に、諸式式文の改訂と作成の作業も進められています。
 主日式文の作業は、日本福音ルーテル教会の式文委員会に日本ルーテル教団の式文委員も参加して行い、諸式式文の作業は、ルーテル共同式文検討委員会(以下、共同式文委員会)が担当しています。共同式文委員会は、日本福音ルーテル教会と近畿福音ルーテル教会、そして日本ルーテル教団の委員によって構成されており、西日本福音ルーテル教会もオブザーバーとして参加しています。 諸式式文とは、教会や個人の信仰の歩みに必要とする様々な祈りを式文の形に成文化して、一つのモデルとしてお示しするものです。
 まず、教会に必要な祈りとは、洗礼並びに洗礼に至るまでの志願者と教会の準備の祈り、堅信、他教会からの転入、牧師の按手や就任に関する祈り、教会役員や奉仕者の就任の際の祈り、教会堂の建築や献堂に関する祈り、教会の創立周年記念の祈りなどです。
 また、個人の歩みに必要な祈りとは、新生児誕生と保護者の感謝と祝福の祈り、子どもの成長を感謝して祝福を祈る祈り、人生の折々の節目のための祈り(還暦、喜寿、米寿等)、個人的な罪の告白の祈り、婚約や結婚を祝福する祈り、病気や悲嘆の癒しを願い求める祈り、家屋の建築に関する祈り、臨終から葬儀、召天後の記念の祈りなどです。
 この他にも、農村地帯では、農作業に用いる車輌を購入した際に、特別な祈りをしないならば、家族や親戚が神社から神主を招き、お祈りをお願いするという事例もあるようですから、そうしたことに対応するために、車両の祝福と安全を祈る式文など、今までにはなかったけれど、幅広いニーズに応じた祈りを作成することも検討しています。
 建築の際に、建築業者などとの関係で、いわゆる鍬入れや上棟等の儀礼を行わなければならないという習慣がある地域もあるでしょう。それらに対応する祈りも考えています。火葬を終えた後に、葬儀を行う習慣の地域もありますから、そのための式文も検討すべきと考えています。
 果たして式文委員会がそこまで用意する必要があるのかという、ご意見もあるでしょう。もちろん、教会や牧師が信徒とのかかわりの中で、心を込めて祈り、必要ならば自分で成文化した式文を作成すればよいですし、そのことはとても大切な姿勢です。
 しかし、それを考えて準備する際の一つの参考資料として、あるいは緊急の際に必要に応じて利用するために、さらには牧師がすぐに駆けつけることができない場合に信徒の奉仕者や家族が祈るときに用いることもできる等の理由から、さまざまな式文を用意できればと考えています。
 四旬節から復活祭に至る礼拝のための式文(灰の水曜日、枝の典礼、聖木曜日、聖金曜日、復活徹夜祭等)も、共同式文委員会が担当して作成をしています。朝や夕の祈りも必要であろうと考えます。

ルター、バッハ、宗教改革500年 1

徳善義和

「待望、憧れと喜びをもって今こそ来ませ」(教会讃美歌1番)

 11月の最後の主日から待降節が始まる。礼拝では教会讃美歌1「今こそ来ませ」を歌う教会が多いことだろう。オルガニストがこのルターの讃美歌の、バッハによるコラール前奏曲の一つを前奏に弾く教会があるかも知れない。いくつかの前奏曲の中には、主の来臨を待ち望んで、これを待つ憧れる思いが切々と伝わってくるものもある。この讃美歌に基づく、これまたいくつもあるバッハのカンタータを聖歌隊が歌う教会はないかもしれないが、カンタータ61などは、待ち望んでいる主が来られる喜びを合唱が声高らかに歌うのである。
 宗教改革が始まって5年、ワルトブルクでの9ヶ月からヴィッテンベルクに戻ったルターは翻訳した新約聖書の出版に続いて、礼拝改革を始め、礼拝への民衆参加を促した。そのためにそれまでのラテン語の礼拝はドイツ語に変わり、司祭や修道士だけが歌っていた歌は、ドイツ語で民衆みなが歌うことになる。着手したのは教会暦の順に歌う会衆讃美歌だった。その最初の一つがこの「今こそ来ませ」である。ルターは中世以来歌われてきたこの賛歌のメロディーにも歌詞にも手を加えて、会衆讃美歌としたのだった。
 バッハはルターから200年、ルターゆかりの地で生まれ、その辺りのいくつものルーテル教会、最後には27年もライプツィヒのルーテル教会の教会音楽家として活動した。ルター訳の聖書を読み、その注解を手にして、ルターやその流れを汲む作詞者や作曲者の会衆讃美歌を中心に据えたオルガン曲やカンタータを軸に教会音楽活動を続けたのである。
 「今こそ来ませ」を待降節の礼拝で歌うとき、ここにもその背景にあるルターの宗教改革、その信仰を継承した作詞者、作曲者、バッハたちの教会音楽活動の流れの中に私たち日本のルーテル教会も立っていること、それを私たちなりに今日に展開していくことを心に留めたい。

第19回全国青年修養会「R498th」に参加して

平井瑤子(市ヶ谷教会)

 9月20~22日に稔台教会を会場にして全国青年修養会が行われました。今回の修養会では、ルターについて学ぶ機会が多く与えられました。
 私自身、ルターは確固たる信仰を持ち続けてその生涯を過ごした神様みたいな凄い人というイメージを持っていましたが、講師である江口再起先生のお話「ルターの生き方」を聞き、私たちと同じように信仰に悩み苦しんでいたことに触れ、ルターはこんなに面白い人だったのかと親近感と興味が沸きました。
 私は、信仰が揺らぎやすく、日々の生活の中で神様と向き合う時間を持つことを忘れがちの未熟者ですが、ルターを通して神様が沢山の恵みをくださる存在だと再認識することが出来ました。
 ルーテル教会に通っていて、ルターのことは身近に感じつつも、これまであまり詳しく知ろうとしなかった自分が恥ずかしく思え、これを機会に学びたいと考えるきっかけとなりました。江口先生のお話はとても分かりやすく、私以外の参加者もルターに興味を深く抱くきっかけになったことと思います。
 そして、私たちの仲間である下川正人くんが参加した、ドイツで行われたLWF(ルーテル世界連盟)のヤングリフォーマーの会議についての報告の機会も持てました。
 宣教500年に向けて盛り上がるドイツの写真や世界のルーテル教会の若者たちによる会議での内容を聞いて、ルターの起こした宗教改革によって、 多くの人が長い月日をかけて、同じ信仰を持つ者として繋がってきたことの凄さを実感しました。
 3日間を通して、参加者同士が交わる多くの時を持ち、様々なことをシェア出来て、とても密度の濃い時間を過ごすことが出来ました。
 この修養会のために働いてくださった方々、出会ってくださった方々に感謝をしています。またお会いできるのを楽しみにしています!

LWF青年会議「ワークショップ・ヴィッテンベルク」報告

下川正人(市ヶ谷教会)

 8月下旬から2週間、ルーテル世界連盟(LWF)主催の青年国際会議「ワークショップ・ヴィッテンベルク」に参加しました。ルターによる宗教改革発祥の地であるドイツのヴィッテンベルク市で開催されたこの会議には、LWF加盟教会の青年代表者ら140人超が集い、私は日本福音ルーテル教会の代表として出席しました。
 LWFは、2017年の宗教改革500年に向けて、様々なプロジェクトを進めています。そのうちの一つが「グローバル・ヤング・リフォーマーズ・ネットワーク」というもので、「2017年に備えて、世界中の『若き改革者』(ヤング・リフォーマー)が連携するためのネットワークを作ろう」というのがその趣旨です。今回の会議は、このプロジェクトにおける最大のイベントであり、全世界のヤング・リフォーマー同士が直接顔を合わせる最初で最後の機会でした。
 会議では、神学、人権・環境などの国際問題、エキュメニズム(超教派主義)など多岐にわたるテーマについて、講演やパネルディスカッションなども交えて、充実した話し合いが行われました。
 その根底にあったのは、「宗教改革は現在も進行中である」という思想であり、ルター派の教会に連なり、ルターの改革を受け継いでいく者として、現代の世界で何が出来るのか、深く考える貴重な時となりました。
 異なる文化を持つ参加者が一堂に会し、共に議論をするのは、 非常に刺激的な体験でした。 同じルター派でも、参加者それぞれの意見は多様ですが、その多様性から学び、また一致点を見出していくことが、私たちの「改革」の第一歩だと感じました。
 また多くの教会の仲間を得たことは、2017年に向けて力強い後押しになると思います。

関西地区秋の修養会報告「細川ガラシャと玉造教会」

坂梨スズヱ(大阪教会)

 秋晴れの快晴の中で、関西地区宣教協議会主催の秋の修養会が、大阪カテドラル玉造教会聖マリア大聖堂で行われました。
 司祭の神林宏和神父からお話を伺うことができました。 カテドラルとは椅子の意味で、司教さまの座る椅子が置かれている聖堂だということ。 1963年に聖堂が出来た頃はラテン語の礼拝が行われ(神林神父もラテン語でお話ができたそうです!)、聖職者中心の考え方だったから聖壇は会衆席から遠く離れていたけれど(何と3段も上に聖卓があり、会衆席の一番前から10メートルは離れているのです!)、第2バチカン公会議以後、すっかり考え方がかわり、苦労して聖壇を会衆席に近づける工事をしたことなど、聖堂の歴史からお話は始まりました。
 聖堂の中心には、安土桃山時代の衣装を着た聖マリアが描かれ、その右側には細川ガラシャが自死できないため小笠原秀清によって殺されようとする場面、左側には高山右近が流刑される場面が描かれています。この絵画は京都の故堂本印象画伯によるもので、あまりの大きさのため耐震工事の実施の時、聖堂から出すことも考えましたが、出す窓がないため慎重に工事が行われたそうです。
 帰り道には、聖堂すぐ近くにある「越中井戸」(細川忠興邸宅内の井戸とされている)にもみんなで寄り、細川ガラシャの辞世の句である「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」が石碑に刻まれているのを確認することができました。
 カトリック教会では長く、結果的に自死した細川ガラシャよりも高山右近の方が評価が高かったというお話しをお聞きしながら、何だか、一気に400年ほど前にひとっ飛びしたような思いの中で、キリシタンとして生きた人たちの当時の信仰に思いを寄せるひとときでした。

宗教改革500年記念 バナーキャンペーン、始まります。

 「ヨーロッパの街並みに溶け込むアート作品のようなデザインは、日本でも関心を呼ぶのではないか。」と広告やブランディングの専門家からのアドバイスをいただきました。それを受けて、当初の日本福音ルーテル教会の宗教改革500年記念事業のために作成されたシンボルマークをバナーとして各地に掲げる計画から路線変更を行うことになりました。
 クラナッハの書いたルターの肖像を現代風にアレンジし、ドイツのナショナルカラーである黒・赤・黄でまとめられたこのデザインは、ドイツのルーテル教会を含むプロテスタント教会の共同体であるドイツ福音主義教会(EKD)による宗教改革500年ロゴです。ドイツ語版と英語版が発表され、用いられていますが、これの日本語版を作成しました。
 ルターの顔は、小さな子どもたちには怖いという印象を与えてしまうのではないかとの声も受けましたが、多くの人が中学や高校時代に歴史の教科書で見たことのある顔を前面に出すことでのアピールの効果を期待しています。
 これを掲示する教会や学校、幼稚園、保育園、社会福祉施設などが、ルターと関係のある団体であること、またルーテルとはルターと関係があることを知り、また世界が宗教改革の始まりから500年の節目に立つことをお伝えすることになればと願っています。
 今回、全国の134教会・礼拝所(堂)と学校や幼稚園、保育園、社会福祉施設などにご協力をいただくことになり、193の拠点に同じデザイン(サイズは大小の2種)のバナーが設置されます。追加の申し込みもお受けします。設置されましたら、ぜひ写真をお撮りくださり、ホームページや個人のSNSなどでもお分かちください。また、その写真データを広報室へお寄せください。ルーテルグループの互いのつながりを味わうことにもなろうかと思います。
 ポスターやステッカーを作るためのデザインのデータも配布できます。ご利用ください。
広報室 koho06@jelc.or.jp

   

 

 

 

 

 

 
  

 

 
 
 
  

  

 

      

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