「わたしは宣教する」

(マルコによる福音書1.35~38)
新しい年、2026年となりました。この2026年を、はりきって行きましょう!いつも笑顔で、元気印で行きましょう!・・・・・・と、元々の自分におよそ似つかわしくないようなことを、あえて言ってみました。「自分を超える」とはこのようなことかなと思います。今年もどうぞよろしくお願いいたします。愛と希望と喜びのうちに、心を燃やしながら共に歩んで行きましょう。
さてこの聖書箇所は、イエスが弟子であるシモンとアンデレの家で、熱を出して寝ていたシモンのしゅうとめをいやしたことを皮切りに、人々が皆、病人や悪霊に取りつかれた人を、イエスのもとに連れてきたあとの場面です。
続々とイエスのもとに連れて来られる病人や悪霊に取りつかれた人々を救うイエスの業は、おそらく夜遅くまで続きました。しかしそのあと、朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて人里離れた所へ出て行き、そこで祈っていました。イエスが神に祈るために、ご自身だけの静かな時を設けるのは、福音を宣べ伝え、人々への救いといやしの業を行うために必要なことだったのでしょう。
朝早く、人里離れた所で祈っているイエスを探し当てたシモンとその仲間は「みんなが捜しています」とイエスに告げます。彼らがイエスにこう告げたのは、群衆の願いをかなえるために、イエスにいやしの奇跡を行ってほしいからです。しかしイエスは「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである」(1.8)とシモンたちの願いを退けます。「そのために」とは、福音宣教を指します。「宣教する」「悪霊を追い出す」「病気をいやす」、この三つは神の国を宣べ伝える手段ですが、中心となるのは「宣教」です。「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコによる福音書1.155)という福音の確かさを示すために、悪霊が追放され、病気がいやされるのです。イエスが来たのは、福音を宣べ伝えるためです。奇跡が真の救いとなるためには、そこに働く神の力を見る目が大切です。奇跡は、神を知る出来事となるでしょう。ですが、奇跡は救いの入り口であっても、真の救いそのものではありません。イエスは、それを人々に示すためにカファルナウムを離れました。そしてガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出しました。
イエスは、ご自分一人ではなく、直接の弟子たちとだけでもなく、その他の多くの人々の支持や協力を得て宣教活動を行いました。
人と人が共に何かをすることには、時としていざこざやトラブルがつきものです。ですがそれでも、何か事を成し遂げ、それを広げていくには、自分一人だけではなく、人々の協力や助けが大きな力となります。そして何か大きな事を成し遂げるだけに限らず、あらゆる面において一人でさまざまなことを抱えこもうとせずに、手放し、「人に任せる」ことが必要な時があります。
宣教とは、人々が神と出会うことへの奉仕です。たとえ直接的な伝道でなくとも、隣人を助ける愛のある行いが、人々と神が出会うことへの奉仕となり、自分自身も神と出会える時となるでしょう。
聖書の中では「招く」という表現がよく使われます。イエスの招きに従うとは、私たちが苦しんでいる人、助けを求める人を、主イエス・キリストの心の部屋に招き入れるように、自らの内に招き入れることなのではないでしょうか。
イエスは復活後、弟子のペトロに、「わたしを愛しているか」(ヨハネによる福音書2・15~17)と三度問いました。
私たちが、主イエス・キリストへの愛のもとに、苦しんでいる人、助けを求めている人に手を差し伸べていくことができるように、私たちは、日々、神に祈り、神のゆるしと愛を覚えながら、この地上での時を生きていきましょう。
「Jesus went out into a desort place」(1886年~1894年)
ジェームズ・ティソ作・ブルックリン美術館蔵・ニューヨーク
