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バイブルエッセイ

隠されている恵み

「汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。」

(マルコによる福音書7章25節)

 高校生の時、ネフローゼ症候群を発症し、長期入院を繰り返していた私の治療のために両親を心配させ、苦労をかけさせていたことを今でも申し訳なく思っています。こどもが病気であるということは親には大変に辛いもので、どうしてもこどもの病気が癒されることを願わずにはおられません。この福音書の物語の娘の癒しを願う母の必死の求めは、私の母の必死な求めと重なってきます。

 しかし、この親の必死さに対してイエスの態度、言葉は私には理解できません。「娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。イエスは言われた。『まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。』」(27節)とこの母親の願いを拒絶するのです。

 「イエスのことを聞きつけ」とはイエスの良い評判であり、福音であり、恵みの言葉であったはずです。これを聞きつけてやってきたのですが、しかし、恵みの言葉としての福音が、一見それとは思えないような現れかたをした。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」と、なんと残酷な拒絶でしょうか。これが試練です。試練は、自分が神から見捨てられたという疑問が起き、神の愛から遠ざけられたという関係が生じてきたとき起こるものです。

 しかし、この母親はこの試練をみごと超えていくのです。母親としての、自分の子どもを癒してほしいというイエスへの願いが強ければ強いほど、イエスの拒絶はどれほど辛いものであったでしょうか。母親は、自分がフェニキア人、異邦人であること、イエスの「子ども」でないことをどんなに呪ったでしょうか。しかし、全ての思いを捨て去り、ひたすらイエスの言葉をいただこうとしたのです。主イエス・キリストへの信頼しか自分には残っていないことを母親は試練の中で選び取ったのです。

 試練がある、しかし、その試練の中で、信仰者である私たちは、信仰とは何なのかと問われ、信仰を深めさせられていく恵みのときとなるのです。

 試練にあるこの母親は私たちに教えてくれているのです。信仰、それは徹底的な神のみ言葉、つまりイエス・キリストへの信頼であるということを。

 今、母親は、万事休すという試練の中にたたされている。しかし、なおもイエスに救いを求め、イエスにひたすら向かう母親に対して、「それほど言うなら、よろしい。」というイエスの言葉には、母親の願いを聞こうとする神の、イエスの、強い意志・気迫が伝わってきます。

 神の救いが私から失われ、無関係になっているのではないかと思われる試練の時・場にあって、キリストの恵みが、答えが隠されています。

 「女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた」(30節)。

 新型コロナウイルス感染症の拡大という中で、自分の命さえどうなるか分からない日々があり、礼拝もままならぬところで、自分は神の恵みと無関係ではないかという信仰の試練の内に私たちはいます。が、イエスのその足もとにひれ伏し、試練の内にこそ隠された神のみ言葉、恵みがあることを信頼して、「たとえ、明日世界が終わるとしても、それでも今日私はリンゴの木を植える」という今日の一歩を主イエスの御心の内に歩みだしましょう。

日本福音ルーテル大森教会牧師 竹田孝一

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