あなたのそばにある平和
(ヨハネによる福音書15章12節)
昨今の世界的なCOVID-19感染拡大にあって、病院や施設を訪問する機会が減ってしまいました。ご家族さえ面会が厳しく制限されている状況に在って、『お元気ですか』と訪ねてゆくことのままならない日常は、やはり平時とは異なると感ぜずにはいられません。施設によっては、市内の感染状況と照らし合わせながら面会制限の緩和がありますから、制限が緩和されたと報せを受けたならば訪ねてゆきます。
ある施設に入るAさんを訪問した時のことです。その施設では、施設内に立ち入っての面会は許されておりませんでした。ですが、入り口の自動ドア越しにお顔を見ることができます。そして私の携帯電話と施設の電話とを繋ぎ、ガラス1枚を隔てではありますが近くに居ながらお話しすることができるよう配慮してくださいます。何度か訪問するうち、その方式にお互い慣れてきた頃のことです。面会の最後にはお祈りをするのですが、施設の職員さんが少しだけ、10センチほど自動ドアを開けてくださいました。そして私の手を消毒するよう促し、『どうぞ、Aさんの手を握ってあげてください』と言われたのです。
驚きと同時に、喜びがこみ上げてきました。その職員さんは、いつも面会を隣で見ている中で、お祈りは特別なものだと感じられたそうです。そして、きっと手を握ったほうが良いと感じたと言うのです。
私たちは教会で、それぞれの生活の中で、祈ります。祈りがどれほどの力を持っているか、疑うことはなくとも、どれほどその力を確信しているでしょうか。しかし、祈り合う姿を見て、確かにそこには力があるのだと感じられた隣人がいたのです。
訪問の度に「教会の皆さんは元気ですか?」「教会は礼拝できていますか?」と繰り返し心配されるAさんの姿を見て、Aさんが本当に大切にしているもの、委ねているものが何であるかがはっきりと伝わっていたのです。
「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」この言葉は、イエスさまの告別説教と呼ばれる箇所の真ん中に記されています。弟子たちに託した、最後の教えの中心です。互いに、ですから、他者・隣人を愛することを教えています。そして隣人とは、自分の思い描く好き勝手な誰かのことではありません。イエスさまに敵意を向け十字架につけて殺した彼らを、それでもなお彼らをお赦しくださいと父なる神さまに祈るような、壁という壁を超えた先にいるような、そういう隣人です。
憎しみに対して憎しみをもって対峙するのではなく、愛をもって向き合ってゆく姿勢は、弟子たちを通して、そして2000年の時を超えて今の私たちに語られるイエスさまの大切な教えです。それこそが平和への道であるのです。
2000年、イエスさまが大切な教えを残されてから長い時が流れました。それでも、この世界は平和であるとは言えません。6月にはミャンマーにおいて教会を標的とした砲撃が何度もありました。平和は、どれだけ手を延ばしても届かないようなところにあるとさえ思います。
しかしイエスさまは、隣人を愛することを私たちに最も大切な掟として、一番近くに、いつでも振り返り、立ち帰ることのできる場所に置かれました。何故なら、平和は私たちのすぐそばにあるからです。
私たちが隣人へと愛を持って接するとき、そこには確かにキリストの平和があります。とても小さいことかも知れません。
しかし、この小さな平和を信じられずに、どうして大きな平和を信じることができるでしょうか。イエスさまが示された、私たちにも祈り求めてゆくことのできる平和。隣人へと愛をもって接することによって、この世界に現わされてゆく平和。それは扉をたった10センチ開けることしかできないものかも知れません。
しかし、この10センチが、確かにこの世界にキリストの平和があることを教えてくれているのだと思えてならないのです。
日本福音ルーテル下関教会・厚狭教会・宇部教会牧師 中島共生