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バイブルエッセイ

天の青空をその会堂の天井とし

「イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。大勢の人が、イエスの周りに座っていた。『御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます』と知らされると、イエスは、『わたしの母、わたしの兄弟とはだれか』と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。『見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。』」

(マルコによる福音書3章31~35節)

 コロナ禍の中、これまで私たちは様々な工夫をして主日礼拝に与かってきました。昨年から続いているこのウィズコロナの時代、私は、教会とは何であるのかと考え、模索してきました。私は、牧師として着任してから1年もたたない内に新型コロナウイルスの感染拡大に遭遇し、心が揺さぶられ、果たして教会とは何であるのかと、考えてきたのです。
 理解は様々です。職制や正典、信条を持ち出して教会を説明する方がいれば、ルーテル教会としては、アウグスブルク信仰告白を用いて説明する方もおられると思います。では、それらの教会論を全て踏まえた上で、私たちは教会とはいったい何であるのかと考えていくのでしょうか。この問いは、神学的な問いだけではなく実存的な問いであると思います。ウィズコロナの時代になり、教会活動の自粛がひびく中、私はあらためて教会とは何であろうかと問いたいのです。

 教会の交わりで傷つき、倒れている方がおられます。傷を負い、心の深いところに痛手をおって、それでも尚、教会生活を続けている方もおられます。このコロナ禍で、交わりが断たれ孤独のうちに暮らしている方もいれば、主日礼拝の讃美のひと時が与えられず、恵みの機会が奪われ、不安の中で過ごされている方もおられます。

 主イエスは、今日の福音書で衝撃的な言葉を告げます。母と兄弟姉妹を目の前にして「私の母、私の兄弟とはだれか」と言うのです。端的にまとめると、主イエスは周りに座っている人々を見回して、「神の御心を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだ」と、私たちの常識や既成の考え方を覆すような言葉を述べるのです。主イエスは私たちの家族の垣根を壊し、神の御心を行なう人間こそが、本当の意味での家族であると言うのです。

 私はここで言われていることは、家族だけのことではないように思います。神の御心を行なう者の集まり、それは教会にも当てはまることではないでしょうか。

 ウィズコロナの時代で閉塞感が漂う中、私たちはここでの主イエスの斬新な発想を突き詰めて考えていくとき、教会に対する私たちのこれまでの既成概念をもっと越えでて、考えても良いのではないでしょうか。

 ここで再び問います、教会とは何でしょうか。この問いを胸に、コロナ禍でよたよたと歩いていた私に語りかけて来る言葉がありました。それは内村鑑三の言葉です。
「神あり、キリストあり、聖霊あり、神と人とを愛する心あり、其教会堂は上に蒼穹(そうきゅう)を張り、下に青草を布(し)きたる天然なり、其礼拝式は日々の労働なり、其音楽は聖霊に感じたる時の感謝の祈祷なり、其憲法は聖書なり、其監督はキリストなり、而(しか)して其会員は霊と真とを以て神を拝する世界万国の兄弟姉妹なり」(『新希望』74号より)

 詩情あふれる表現です。この内村鑑三の教会への視点は、私の心を揺さぶりました。ぬけるような天の青空をその会堂の天井とし、大地の豊かな青草をその会堂の床とし、森の小鳥の声を賛美の声とする教会。私は、主イエスが弟子たちとガリラヤ湖を歩く姿を思い浮かべつつ、この比類なき教会のスケールの大きさに心を奪われました。主イエスの言葉と内村の言葉が、私の中でこだましたのです。

 教会とは、私たちの垣根や想像を越え、この宇宙的な賛美の声が響いている場として存在している、そのような新たなインスピレーションが与えられました。この教会には深い喜びがある、直感的にそう感じました。閉塞感に包まれた教会の状況の中で、内村の言葉は私たちの既成の考え方を打ち壊します。星が輝き、宇宙全体を包み込んでいる壮大なスケールの内にある教会の姿を提示しているのです。広大な宇宙と教会の姿が重なりあっているのです。

 この宇宙(コスモス)の教会に私たちは包まれています。この気づきから、私たちは明日の教会のビジョンを見ていきます。私は今、いのちに溢れる教会に生きているのだ、このまばゆい大地と、静かにさえずる小鳥の讃美と共に、宇宙を感じ、神の言葉を感謝と共に聞きながら—

日本福音ルーテル甲府教会・諏訪教会牧師 筑田仁

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